「失礼ですが、お仕事は何をされているんですか?」
ホテルの最上階にある料亭の個室。目の前に座る女性は、背筋を伸ばしたまままっすぐに俺を見ている。育ちの良さが滲む、静かで綺麗な声だった。
俺は湯のみを置いて答えた。
「清掃員です。日雇いの。貯金もありません」
部屋の空気が止まった。仲人役の会長が席を外した直後のことだ。俺は畳みかけるように続けた。
「家も持っていません。将来を約束できるものは何もないです」
これで終わる。この手の話をすれば、どんな縁談も必ず終わる。やっと解放される。俺は内心でそうつぶやきながら、頭を下げる支度をしていた。
だが、顔を上げた時、彼女は困った顔をしていなかった。それどころか、席の端にはどこか嬉しそうに微笑んで、こう言ったのだ。
「次はいつ会いますか?」
壊すつもりで座ったお見合いの席。この日の出来事が、止まっていた俺の時間を動かすことになるなんて。この時の俺はまだ思ってもいなかった。
俺の名前は真野ハルト。35歳。清掃と設備管理の会社を経営している。社名は株式会社真野総合メンテナンス。社員とパートを合わせて400人余り。契約先は首都圏を中心に病院やホテル、商業施設などおよそ90か所ある。人からは社長と呼ばれる身分だ。
それでも俺は今も週の半分は作業服を着て現場で床を磨いている。住まいは会社の近くのマンションに1人。家族はいない。恋人もいない。趣味を聞かれると答えに困る。強いて言えば床磨きだが、それはもう仕事だ。つまり俺はこの4年、仕事だけをして生きてきた。
そんな俺がなぜ日雇い員と名乗ってお見合いの席に座っていたのか。それを話すには、まず俺という人間のこれまでを話さなければならない。
俺の朝は早い。5時半に起きて6時には現場に入る。開店前のショッピングモール、始業前のオフィスビル、外来が始まる前の病院の廊下。世の中がまだ眠っている時間に、俺たちの仕事は静かに動いている。夜明け前のオフィスビルには独特の匂いがある。ワックスと乾いたモップと、換気の止まった空気の匂いだ。俺はこの匂いの中で機械の音を聞いていると、一番気持ちが落ち着く。役員室の椅子より、現場の脚立の上の方がよほど座り心地がいい。
専務の関口にはよく言われる。
「社長、あんたはもう現場に出なくていいんですよ。決済の書類が机に山になってます」
関口は俺より12歳上の47歳。創業の頃からの相棒だ。細身にキリッとした顔。口は悪いが、この男の汚れに正直な人間を、俺は知らない。
「午前だけだ。午後は帰る」
「そう言って先週は夕方までポリッシャーを回してたでしょうが」
「あれは若手の研修だ」
「はいはい」
それでも俺は現場を離れない。取材や新入りの社員に理由を聞かれる度、俺は決まってこう答えてきた。
「汚れた場所を綺麗にする仕事は、人の心を守る仕事でもあるんです」
綺麗に聞こえるかもしれない。だが、俺にとってこれは綺麗事ではなく、体で覚えた実感だった。
俺は母子家庭で育った。父は俺が4歳の時に病気で死んだというが、顔もよく覚えていない。母は学校とオフィスビルの清掃パートを掛け持ちして、女手一つで俺を育ててくれた。母の1日は長かった。朝は小学校の廊下を磨き、昼から夕方まではビルの清掃に回り、夜は近所の葬儀屋の閉店後の掃除まで受け負っていた。帰ってくると、いつも指の関節が赤く割れていた。冬になると絆創膏の数が増えた。
それでも母は俺の弁当だけは毎朝欠かさなかった。卵焼きの端が少し焦げた、四角い弁当箱の味を俺は今でも覚えている。
母はいつも古いタオルを縫っていた。すり切れたタオルを半分に折って、端を赤い糸でかがって。夜、茶箪笥の前で針を動かす母の背中を、俺は毎日のように見ていた。
「買えばいいのに」
と言ったことがある。母は針を止めずに笑った。
「捨てる前にもう一働きしてもらうんだよ。タオルもね、人と同じで、2度目の出番があるんだから」
そして母は決まってこの言葉を続けた。
「どんなに汚れてもね、吹けば光るんだよ。床も人も同じ」
それが母の口癖だった。
正直に言えば、子供の頃の俺は母の仕事が好きではなかった。小学5年の授業の日、廊下で母とすれ違った同級生が笑ったことがある。
「お前の母ちゃん、便所掃除のおばさんなんだろ」
俺はその日家に帰って母に当たり散らした。なんで、もっと普通の仕事じゃないんだよ、と。母は怒らなかった。ただ少し寂しそうに笑って、俺の頭に手を置いた。
「母ちゃんはこの仕事好きだよ。みんなが気持ちよく歩ける場所を母ちゃんが作ってるんだから」
あの時の母の手の温度を、俺は今でも覚えている。あんな言い方をしたことを、俺は今でも悔んでいる。
中学に上がった年の夏休み、俺は初めて母の現場を手伝った。人手が足りないと聞いて、半分は小遣い目当てだった。朝の6時、誰もいないオフィスビルのフロアで、母は別人のようだった。モップの動きに一切の無駄がなく、机の足の周りもパーテーションの際も、同じ速さで同じだけ綺麗になっていく。休憩の時、缶コーヒーを2本買ってきた母は言った。
「どうだい? 母ちゃんの仕事もなかなかだろう」
「うん。ちょっとかっこよかった」
母はその日、帰り道でずっと鼻歌を歌っていた。その鼻歌を、俺は今でも時々思い出す。
母は俺が高校3年の秋に倒れた。心臓の病気だった。運ばれた先は隣町の青葉総合病院。集中治療室と一般病棟を行き来する日々が3ヶ月続いた。俺は学校帰りに毎日病室へ通った。母は日に日に細くなっていくのに、俺の顔を見ると必ず「ご飯は食べたのかい」と聞いた。
ある日、母は俺の手を取って自分の両手で包んだ。骨ばった、それでもまだ温かい手だった。
「ごめんね、ハルト。母ちゃん、あんたに何も残してやれないね」
「いいよ、そんなの」
「進学のお金もね。家もね。母ちゃんの手はほら、こんなにボロボロでね」
「働き者の手だろ。俺は好きだよ。母ちゃんのその手」
母はその時、痛いくらいに俺の手を握った。何かを言いかけて、結局言わずに、いつもの口癖だけを言って笑った。
年が明ける前に母は死んだ。48歳だった。
俺は18歳で1人になった。進学のために貯めてくれていた金は、治療費と母が働けなくなってからの生活費で消えていた。大学を諦めて、俺は日雇いの仕事で食いつぐようになった。前の晩の電話とメールで翌日の現場が決まる。朝5時に起きて集合場所へ向かい、日当をもらってアパートに帰って寝る。工事現場、引っ越しの運搬、倉庫の仕分け。その中で一番長く続いたのが清掃だった。理由は自分でもよくわからない。ただ、床を磨いていると母のそばにいるような気がした。
20歳の頃、日雇いの応援で青葉総合病院の清掃に入った時期がある。母を見取った病院だ。最初に配属を聞いた時は正直足がすくんだ。だが通ってみると不思議なもので、あの白い廊下を磨いている時間だけ、俺は自分が何かの役に立っている気がした。
病棟の廊下は朝が勝負だ。開院が始まる前に廊下や待合室などの共用部を整えておく。日雇いの応援は決まった持ち場がなく、その日の穴を埋めて回る。誰も俺の名前を知らない。それでも、点滴台を押して歩くおじいさんに「いつも綺麗にしてくれてありがとうね」と言われた朝があった。日当より、あの一言の方がずっと腹に溜まった。
病院というのは、綺麗な場所のようでいて綺麗なだけの場所ではない。血も涙も落ちる。人生で一番辛い日をあの建物の中で過ごしている人が何人もいる。だからこそ床は磨かれていなければならない。俯いて歩く人の目に映るのは天井ではなく床なのだ。それは理屈で考えたことではない。母の病室に通った3ヶ月、俺自身がずっと俯いて歩いていたからだ。あの頃の俺の目に映っていた青葉総合病院の床は、いつも光っていた。あの光に俺がどれだけ支えられていたか、磨く側に回って初めて分かった。
母の癖はいつの間にか俺の癖になっていた。古いタオルを赤い糸で縫って、作業着のポケットに何枚も入れて持ち歩く。汚れを見つけたら拭く。困っている人がいたら、まず乾いたタオルを差し出す。雨に濡れた通勤の年寄りにも、転んで膝をすりむいた子供にも、吐いてしまって泣いている付き添いの母親にも、俺は黙ってタオルを渡してきた。相手の顔をいちいち覚えてはいない。ただの癖だけれど、その癖だけは母が生きている間に俺に残していった財産だった。
22歳で清掃会社の正社員になり、現場責任者を任されるようになった。所長には呆れられた。お前は真面目すぎて損をするタイプだと。だが、俺の担当した現場はなぜか解約が出なかった。ビルの管理人が「あの若いの、便器の裏まで磨くんだね」と所長に電話をくれたこともある。
26歳で独立した。日雇い時代に知り合った関口を真っ先に誘い、中古の軽トラックに機材を積んだ2人きりの会社だった。最初の1年は仕事がなく、カップ麺ばかり食べていた。飛び込みの営業で門前払いを食い、それでも取れた小さな現場を、誰に見られていなくても手を抜かずに磨いた。そのやり方を見て、少しずつ契約が増えた。そこから人を雇い、9年かけて会社は今の形になった。
仕事は順調だった。ただ一つうまくいかないものがあった。結婚だ。
4年前、結婚を考えた女性がいた。付き合って半年は穏やかだった。だが、俺の会社の規模を知った途端、彼女は変わった。役員の椅子の話、親族の会社への発注の話、通帳の話。会うたびに増えていく要求の裏に、俺という人間への興味が1グラムも残っていないことに、俺は随分長いこと気づけなかった。最後には向こうの親まで出てきて、俺は人ではなく金庫として扱われていることをようやく悟った。
別れ話の日、彼女は吐き捨てるように言った。
「清掃の会社だなんて、本当は人に言えなかった」
その一言が長い間胸に刺さったままになった。金の要求は忘れられても、あの一言だけは忘れられなかった。母の手を、母の仕事を、俺の会社の仲間を、まとめて踏みつけられた気がした。
関口はあの時珍しく怒った。
「社長、あんな女はこっちから願い下げだ」
その通りだと頭では分かっていた。ただ、頭で分かることと心が治ることは別の話だった。以来、縁談の類いは全部断ってきた。肩書きに寄ってくる人間も、職業を見下す人間も、もう見たくなかった。結婚などしなくても、会社と現場さえあれば俺の人生は回る。そう自分に言い聞かせて35歳になっていた。
話はあのお見合いの1ヶ月前に遡る。3月の初めのことだ。津井さんの会長、津井さんから電話がかかってきた。
「ハルト君、今夜飯を食わんか?」
津井会長は73歳。都内にいくつもビルを持つ不動産会社の会長で、俺にとっては足を向けて寝られない御人だ。8年前、独立して2年目の俺は倒産しかけていた。一番大きな取引先が値下げ競争の末によその業者へ乗り換えを決め、契約が切れれば月の売上の半分が消えることになった。雇ったばかりの若手を食わせる金がなく、俺は自分の給料をゼロにして、夜は別の会社の清掃バイトに入った。関口と2人、残った小さな現場を必死で回していた頃だ。今だから言えるが、あの頃の俺は一度だけ、会社更生法の申請の書き方を調べたことがある。それを思いとどまったのは、深夜の現場で母の口癖を思い出したからだ。会社もきっと同じだと思うことにした。
その小さな現場の一つが津井さんの古いビルだった。ある晩、深夜のトイレ清掃をしていた俺の後ろに、ふらりと老人が立った。不審者かと思ったら会長本人だった。眠れなくて散歩に戻ったのだという。会長は便器の裏に手を突っ込んでいる俺をしばらく眺めてから、ぽつりと言った。
「あんた、誰も見とらんのになんでそこまで磨くんだ」
「誰も見ていない場所が汚れている建物は、いつか全部が汚れていくからです」
会長は声を上げて笑った。そして次の契約更新の時期から、津井さんのビルの清掃が順番にうちへ回ってくるようになった。会社が息を吹き返したのはそこからだ。だから会長に飯に誘われて断るという選択肢は、俺にはない。
その夜、俺は会長の行きつけの小料理屋の暖簾をくぐった。カウンターの奥の上座が会長の指定席だ。女将さんが俺の顔を覚えていて、「お尻と一緒に、会長さんは今日はご機嫌ですよ」と耳打ちしてくれた。嫌な予感がした。あの人の機嫌がいい日は、大抵誰かに何かを頼む日なのだ。
酒が二巡りした頃、会長は懐から1枚の写真を出した。
「縁談だ」
写真には着物姿の女性が映っていた。柔らかい顔立ちの綺麗な人だった。
「東山さんの会長の一人娘だ。東山しおりさん。32歳。父親はわしの古い友人でな。わしには孫みたいなもんだ。赤ん坊の頃から知っとる」
東山正規の名前は俺も知っていた。産業機械の部品を作る老舗のメーカーだ。県内に工場が2つあり、従業員は300人ほど。堅実な経営で知られていて、業界の評判も悪くない。
「社長の総一郎はな、職人上がりの実直を絵に描いたような男よ。ただまあ、色々あってな。娘の縁談になると周りが騒がしい家なんだ」
俺は写真を見ないようにしながら頭を下げた。
「会長、ありがたい話ですが、俺は結婚するつもりがありません」
「知っとる。お前さんが縁談をかたっぱしから断っとるのもな。先月は取引先の常務さんの娘さん、その前は銀行の支店長さんの紹介。全部会う前に断ったそうじゃないか。おかげでわしのところにまで『真野の社長は人間嫌いか』と聞きに来るもんがおるよ」
「人間嫌いで結構です。その方がお互い無駄がありません」
「35でそのセリフはちと寂しいのう」
「でしたら、しおりさんも同じです」
会長は手酌で酒を注ぎながら続けた。
「あの子はここ数年、縁談ばかり持ち込まれとる。相手はどれも家柄と会社目当てだ。この前の男は、釣書を見ながら東山正規の株の話しかせんかったそうだ。あの子はすっかり疲れとる。人と会うのが怖くなっとると、親父さんがこぼしとった」
「気の毒だとは思います。ですが、それと俺と何の関係が」
「だからな、今度の見合いは釣書なしだ」
会長は俺の目を見た。
「肩書きなし、家柄なし、年収の話もなし。ただの男と女として会って話して、会わなけりゃ流せばいい。そういう席を1度だけ作りたい。わしはな、それができる男をお前さんしか思いつかんのだ」
「なぜ俺なんですか?」
「便器の裏を磨く社長だからだ」
会長は真顔だった。
「頼む。1度でいい。会うだけ会ってやってくれ。あの子に。世の中には肩書きで人を見る人間もおるんだと。それだけ分かってもらえりゃ十分なんだ」
「会長、俺は4年前のことがあってから、人の目を信じられなくなっています。見合いの席に座っても、相手を疑うことしかできません。そんな男が言っても、しおりさんに失礼なだけです」
「疑ってもええ。疑って、それでもダメなら断ればええ。わしが頼んどるのは結婚じゃない。1度会うことだけだ」
73歳の御人が頭を下げた。俺は慌てて手を振って、結局その顔を上げてもらう代わりに、「1度だけ」という約束を飲んだ。
帰り道、夜風に当たりながら俺は考えた。会うだけは会う。だが、期待を持たせるのは相手に一番残酷だ。それなら最初から断られる男として座ればいい。釣書がないなら、俺が何者かを決めるのは俺の口だけだ。
日雇いの清掃員。貯金なし。家なし。それを聞いて、もし彼女が呆れるならそれでいい。呆れて断ってくれるなら、傷はどこにも残らない。どちらに転んでも破談。会長への義理は果たせて、彼女の時間も俺の正体も守られる。割り切れば完璧な計画だと思った。
翌日会社でその話をしたら、関口は書類を持ったまま渋い顔をした。
「それは津井会長にも相手さんにも嘘をつくってことですよ」
「嘘じゃない。俺は現場に出れば清掃員だ。応援にだって入る」
「屁理屈だ」
「破談にするための席だ。飾ってどうする?」
関口はしばらく俺を見て、それから大きなため息をついた。
「あんたのそういう意地っ張りは、いつか自分に帰ってきますよ」
俺は返事をせずに決済の書類に判を押した。
お見合いの当日はよく晴れた土曜日だった。俺はクローゼットの奥から、量販店で買った古い紺のスーツを引っ張り出した。独立したての頃、営業用に買った一着だ。袖口が少し擦り切れて、サイズも今の体には微妙に合っていない。仕立てのいいスーツも持ってはいるが、今日の役には合わない。ネクタイも一番地味なものを選んだ。靴だけは磨いた。これはもう職業病だから仕方がない。
鏡の前に立つと、9年前の自分が映っているようで妙な気分になった。あの頃の俺はこの格好で一緒に頭を下げて回っていた。今日はこの格好で頭を下げられるために行く。
約束の30分前にホテルに着いた。最上階の料亭の個室に通されると、会長はもう来ていて、その隣に写真の女性が座っていた。東山しおりさん本人は写真より線の細い人だった。淡い色の着物に、結い上げた黒い髪。年齢よりずっと落ち着いて見えるのに、湯のみを持つ手だけが少し硬い。ああ、この人は本当に見合いに疲れているんだな、とその手を見て思った。
「しおりさん、こいつが真野ハルト君だ。わしの知る限り一番よく働く男だよ」
しおりさんは畳に手をついて丁寧にお辞儀をした。
「東山しおりと申します。今日はお時間をいただきまして、ありがとうございます」
声まで綺麗な人だった。俺は自分の計画が早くも少しだけ憎らしくなった。
最初の30分は会長がほとんど1人で喋った。俺の名前と年齢、しおりさんの名前と年齢。それ以外の情報が一切出てこない妙な席だった。釣書なしという約束は、少なくともしおりさんの側では本当に守られているらしく、しおりさんは俺の素性を何も知らされていないようだった。
「いやあ、今日のはうまいのう。しおりさん」
「はい。とても」
「ハルト君はどうだ?」
「うまいです」
「お前さんは酒を覚えんか?」
しおりさんが口元を袖で隠して小さく笑った。笑うと目尻が下がって、写真の済ました顔よりずっと感じが良かった。何を考えているんだ、俺は。今日は壊しに来たんだぞ。
やがて料理が一段落すると、会長はよっこらせと腰を上げた。
「年寄りは長い用足しだ。ああ、若い2人でゆっくりやりなさい」
障子がしまって、個室に2人だけが残された。さあ、ここからが俺の仕事だ。そう思って湯のみに手を伸ばした時、先に口を開いたのはしおりさんの方だった。
「失礼ですが、お仕事は何をされているんですか?」
来た。俺は湯のみを置き、用意していた答えを口にした。
「清掃員です。日雇いの。貯金もありません」
しおりさんの箸が止まった。当然だ。俺は目を伏せたまま続けた。
「家も持っていません。アパート暮らしです。将来を約束できるものは何もないです」
嘘と本当を混ぜた言葉だった。現場に立てば俺は今も清掃員だ。だが貯金がないのは嘘だし、家がないのも嘘だ。それでもこの並べ方をすれば、誰もが同じ顔をする。困ったように笑って「そうですか」と言い、その日のうちに断りの連絡が入る。4年前のあの人が吐き捨てた声を思い出すまでもなく、世の中とはそういうものだ。
これで終わる。やっと解放される。俺は膝の上で手を揃え、断りの言葉を待った。だが、いつまで経っても呆気にとられた声は降ってこなかった。恐る恐る顔を上げると、しおりさんはまっすぐ俺を見ていた。困った顔ではなかった。むしろ何かを確かめるような静かな目だった。
「正直な方なんですね。お見合いの席でご自分を大きく見せない方に初めてお会いしました」
「大きく見せないというか、これが全部です。年も35です。学歴もありません。高校を出てからずっとこの仕事だけです」
「床を磨くお仕事はずっと?」
「ええ、気によって現場は変わりますが」
「そうですか」
しおりさんは頷いた。呆れるでも哀れむでもなく、ただ事実を受け取る頷き方だった。俺の並べた条件は、この人の中のどこにも引っかからずに通り抜けていくらしい。話が予定と違う方向に転がり始めている。
俺が言葉を探していると、部屋の襖が開いて仲居さんが新しい酒と水を運んできた。その時だった。仲居さんの盆の上でグラスが傾き、水が畳にこぼれた。若い仲居さんは顔色を変えて「申し訳ございません」と繰り返した。
体が先に動いていた。俺は畳に膝をつき、ポケットから畳んだタオルを出して水を吸わせた。畳の目に沿って押さえ、畳の縁の隙間まで指でなぞって、水気が残っていないか手のひらで確かめる。いつも現場でやっている。ただそれだけのことだ。
「お、お客様、そのようなこと私どもが」
「大丈夫です。汚れは気づいた人が拭けばいいだけです」
濡れたタオルを畳み直してポケットに戻し、顔を上げて俺は少し焦った。見合いの席で畳に這いつくばる男がどこにいる? 破談狙いとしては満点の行動かもしれないが、さすがに行儀が悪すぎた。
ところが、しおりさんは笑っていなかった。呆れてもいなかった。しおりさんは俺の手を見ていた。何かを忘れたようにタオルをしまった俺の手の辺りをじっと見つめて、それから小さく息を吸った。何かを言いかけてやめ、もう一度口を開いた。
「すみません。癖なんです。お見苦しいところを」
「いいえ」
しおりさんは首を横に振った。その目が少し潤んで見えたのは気のせいだと思った。
「いいえ、あの、素敵な癖だと思います」
それからのしおりさんは、それまでと別人のようによく喋った。俺の仕事のこと、現場は朝が早いのか、床を磨く機械はどれくらい重いのか、病院やビルの清掃では何が違うのか。質問は途切れず、しかもどれも妙に具体的だった。
「病院のお掃除は普通のビルと何が違うんですか?」
「使う道具を場所ごとに分けます。病室とトイレと外来で、モップも布も全部別です。汚れを落とすというより、汚れを運ばないための仕事ですね」
「運ばない?」
「ええ。それと病院は磨きすぎて光らせすぎてもいけないんです。床がピカピカすぎると、歩くのが不安な患者さんは滑りそうで怖い。だから艶を抑えて、その分だけ隅を丁寧にやります」
「隅ですか?」
「人の目は真ん中しか見ませんが、心は隅を見るんです。廊下の隅が汚れている病院は、どんなに設備が新しくてもどこか冷たく見えるものですよ」
しおりさんは箸を置いてじっと聞いた。それから「お上手」と言った。世辞の響きではなかった。俺は返事に困って湯のみの茶を飲んだ。
おかしい。計画では今頃、気まずい沈黙が個室を満たしているはずだった。俺の並べた悪条件に相手が困り果て、時計を気にし始め、折を見て会長が戻ってきて、後日なお断りが届く。そういう段取りだったはずだ。それがどうだ。俺は今、初対面の女性を相手に、汚れを運ばない掃除の講釈を垂れている。しかも楽しい。
俺は肩書きを外したまま、答えられる範囲で正直に答えた。現場の話をするのは嫌いじゃない。気がつけば1時間近くが経っていた。我に帰って、俺は慌てて背筋を伸ばした。何をやっているんだ? この席は壊すための席だ。
「あの、東山さん。さっきも言いましたが、俺には本当に何もありません。あなたのような方のお相手として、俺は」
「次はいつ会えますか?」
「え?」
「次に会っていただける日を伺っています」
しおりさんは背筋を伸ばしたまま、どこか嬉しそうに微笑んでそう言った。頬の方が少し赤かった。俺は完全に言葉を失った。
断られるための材料は全て出した。出した上で、この人は次の約束を求めている。
「どうしてですか? 俺は今日、あなたに呆れられるつもりで来たんです。清掃員で、貯金も家もない男ですよ」
しおりさんは少しだけ黙った。それから選ぶようにゆっくりと言った。
「肩書きよりも、今日のあなたの言葉の方が私は信じられます」
「少し考えさせてください」
それがその場で俺に言えた精一杯だった。断り文句の材料は山ほどあったはずなのに、どれ一つ口から出てこなかった。
やがて会長が戻ってきて、席はお開きになった。エレベーターの前でしおりさんはもう一度丁寧に頭を下げ、会長と先に降りていった。扉が閉まる直前、しおりさんは顔を上げて俺を見て、小さく微笑んだ。
帰り道のことは正直あまり覚えていない。気がつけば、俺は自宅マンションの前ではなく会社の資材倉庫の前に立っていた。無意識に足がそちらへ向いていたらしい。倉庫の鍵を開け、意味もなくモップ布の在庫を数えて、それから缶コーヒーを2本飲んだ。
断られるはずだった。断られる材料しか出していない。なのに「次はいつ会えますか」と聞かれた。あの言葉を口にした時のしおりさんの目を思い出す。嬉しそうで、それでいて何かを必死に掴もうとするような目だった。あんな目で俺を見た人は、これまでの縁談相手には1人もいなかった。4年前のあの人は、俺の話の途中でいつもスマホを見ていた。今日の人は、モップの重さの話を身を乗り出して聞いていた。それだけのことが、どうしてこんなに胸に残るのか自分でも分からなかった。
缶コーヒーを飲み終える頃、倉庫の棚の雑巾の山が目に入った。研修で新人たちが縫った、白い糸のかがり縫いだ。会社の雑巾は白と決めている。赤い糸を使うのは、俺がポケットに入れて持ち歩く自分のタオルだけだ。あれは母の色だから、あの色を縫っていいのは俺だけだと決めている。
なぜだか分からないが、あの畳の水を拭いた時のしおりさんの目が、ポケットのタオルの赤い糸に重なった。あの人はあの瞬間、確かに何かを見ていた。ただの後始末をあんな目で見る人がいるだろうか。考えても分からなかった。
分からないまま、その夜会長から電話があった。
「しおりさんからな。是非また会いたいと連絡があったそうだ」
「会長、俺は」
「破談狙いだったんだろ。関口君から聞いとる。あの男はな、お前さんが暴走しそうな時だけ、わしに保険をかけてくるんだ。まあ、そういうこともあろうかと思っとったよ。それでどうする? 断るか?」
「断ります」
そう言えばよかった。言えば会長は笑って引き受けて、この話は終わる。俺の生活は元に戻る。朝の現場と決済の書類と、それで回っていく人生に。なのに口から出たのは別の言葉だった。
「もう1度だけ会います。会って、ちゃんとお断りします」
「そうか。そうか」
会長はいかにも愉快そうに笑って電話を切った。電話を切ってから、俺は自分に言い訳をした。あんな風では相手に失礼だ。次に会って面と向かって、俺には結婚する気がないと伝える。それが筋というものだ。そうだ。これは後始末だ。後始末のはずだった。
2度目に会ったのは次の週の日曜だった。会うまでの1週間、俺は仕事の合間に何度も断りの筋書きを組み立て直した。次に会ったらまず礼を言う。それから結婚する気がないことを伝える。理由を聞かれたら「あなたのせいではない」という。よし、完璧だ。
完璧なはずなのに、約束の日が近づく度に、俺は柄にもなく美容室に寄ったり、靴をいつもより長く磨いたりしていた。
場所はしおりさんが指定してきた。てっきりホテルのラウンジか何かだと思っていたら、送られてきたのは古い商店街の入り口の地図だった。約束の場所に立っていたしおりさんは、着物ではなく白いブラウスに紺のスカートという格好で、俺を見つけると小さく手を振った。先週の見合いの席よりずっと年相応に見えた。
「すみません。こういう場所の方が落ち着いて話せる気がして」
「俺は助かりますよ。ホテルは仕事で行くと緊張しませんが、逆で行くと緊張します」
しおりさんは口元を抑えて笑った。よく笑う人だった。商店街を並んで歩いた。しおりさんは焼き鳥屋の煙に目を細め、金物屋の店先で足を止め、たわしの山を珍しそうに眺めた。俺が業務用のたわしと家庭用の違いを説明すると、店のおばちゃんまで会話に加わって、気づけば3人で笑っていた。
「お兄さん詳しいね。プロかい?」
「ええ、まあ、掃除の仕事じゃあ」
「奥さん、いい人捕まえたよ。掃除のできる男は絶対に大事にしな」
「お、奥さんではまだまだ」
と言ってから、しおりさんは真っ赤になった。俺は聞こえなかったふりをして、たわしを1つ買った。使う予定のないたわしだった。
団子屋の台で休んだ。みたらし団子を2本頼んで、しおりさんは1本を本当に美味しそうに食べた。
「こういうの久しぶりです。父がああいう立場なので、外で買い食いなんてするなと言われて育ちました」
「窮屈ですね」
「窮屈です。即答でした」
それからしおりさんは少し声を落とした。
「ここ何年か、お見合いばかりしていました。どの方も、私の顔ではなく私の後ろを見ているのが分かるんです。会社の名前とか、父の持っている株とか。この人は私が東山の娘でなかったら、絶対に会ってくれないんだろうなって。そう思いながら笑うのは、結構疲れるんですよ」
「分かります」
「え?」
「いえ、分かる気がするという意味です」
危なかった。俺は慌てて団子を頬張った。肩書きに寄ってくる人間に疲れ果てているのは俺も同じだ。だがそれを語れば、俺の後ろにあるものの話になる。
「変ですよね。初めてお会いした日に『貯金がありません』って言われて、どうしてかほっとしたんです」
しおりさんは団子の串を両手で持ったまま、少し笑った。
「この人は私に隠すものも飾るものもないんだって。そう思ったら、息が楽になって」
胸の奥で鈍い痛みが走った。隠すものだらけの男は、何も言えずに2本目の団子を頼んだ。その日、俺は断りの言葉を切り出せなかった。話が楽しかったからだ。それ以外に理由がなかった。
3度目は雨の日だった。駅前の古い喫茶店で、俺たちはコーヒーを2杯ずつ飲んだ。しおりさんは、会社では経理の仕事をしていること。学生の頃は図書委員だったこと。雨の匂いが嫌いではないことを話した。俺は現場で拾った話をした。深夜のモールに響くポリッシャーの音のこと。磨き上げた床に朝日が差す瞬間のこと。
「真野さんは、お仕事の話をする時みたいな顔しますね」
「そうですか?」
「はい。とても」
「私ね、小さい頃、夜の水族館とか閉店後のデパートとか、ああいう場面を想像するのが好きだったんです。みんなが帰った後の世界で、誰かが静かに働いている。そういうのって、少しだけ魔法みたいじゃないですか?」
「魔法だったら腰は痛くならないでしょうね」
しおりさんは声を立てて笑った。それから急に真面目な顔になって、テーブルに身を乗り出した。
「腰痛めていらっしゃるんですか?」
「いえ、例え話です」
「よかった。あの湿布は張りすぎると肌が荒れるので気をつけてくださいね。父がよくやるんです」
どこまでも人の体の心配をする人だった。窓の外の雨が少しだけ優しく見えた。
そう言って笑うしおりさんの顔を見ながら、俺は胸が重くなるのを感じていた。楽しい。楽しいからまずいのだ。この人は日雇いの清掃員の真野ハルトと会っている。貯金も家もないといった男の話を、身を乗り出して聞いてくれている。だが、その男は半分作り物だ。本当の俺は400人の会社を回す経営者で、この縁談を壊すためにわざわざ古いスーツを引っ張り出してきた男だ。会えば会うほど、嘘が積み上がっていく。
帰りの電車で、俺はスマホの画面を何度も開いた。「もうお会いできません」その一文を打っては消し、打っては消した。1度だけ送信の寸前まで行った夜がある。指が画面の上で止まった時、頭に浮かんだのはしおりさんの顔ではなく、団子屋の台の光景だった。1本のみたらし団子をあんなに嬉しそうに食べる32歳を、俺は他に知らない。あの人の周りには、団子1本を一緒に喜んでくれる人間が、多分ずっといなかったのだ。
俺は文面を消してスマホを伏せた。結局送れないまま、次の約束の日が来た。
4度目の別れは駅の改札の前で、しおりさんがふと言った。
「真野さん、無理をして会ってくださっていませんか?」
「え?」
「時々、すごく苦しそうな顔をなさるから」
心臓を掴まれた気がした。この人は人をよく見ている。思えば最初からそうだった。俺の手を見て、俺の癖を見て、俺の話す時の顔を見て。この人は俺の名刺の代わりに、俺の挙動の一つ一つを読んできたのだ。そういう人に嘘は長く持たない。言うなら今だった。実は結婚する気がないんです。この見合いも壊すつもりで来たんです。喉元まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。飲み込んで、代わりにこう言った。
「無理はしていません。それに、楽しいです。あなたと話すのは」
しおりさんの顔がぱっと明るくなった。改札の向こうで振り返って、深々と頭を下げて、それから小走りに去っていった。その後ろ姿を見送りながら、俺は自分で自分が分からなくなっていた。壊すための席だった。断るための後始末だった。それが今、俺は次に会う日のことを考えている。女性不信はどこへ行った? 結婚しないと決めた俺はどこへ行った?
夜、会社に寄ると関口がまだ残っていた。見積もりの束から顔を上げて、俺の顔を一目見るなり、関口はにやりと笑った。
「ほう。破談の進み具合はどうです?」
「うるさい」
「その顔で言われてもね」
関口は笑いを引っ込めて、机の上で手を組んだ。
「社長、折れたなら折れたでいいでしょう。ただね、正体の件だけは早く言った方がいい。ああいうのは、後になればなるほど刺さり方がひどくなる」
「分かっている。分かっているんだ」
だが、想像すると足がすくんだ。「実は社長なんです」と明かした瞬間、しおりさんの目の色が変わったら。あの人まで俺の後ろを見る目になったら。あるいは「今まで騙していたんですね」と軽蔑されたら。どちらの想像も同じくらい怖かった。いつしか俺は、しおさんに嫌われることを世界で一番恐れるようになっていた。破談狙いの見合いから2ヶ月足らずで、人間というものは我ながらいい加減なものだった。
梅雨に入った。しおりさんと会うのはもう6度目になっていた。会うたびに話は深くなり、会うたびに嘘の重さも増していった。それでも俺は会うことをやめられなかった。
その日、喫茶店でしおりさんが思いがけないことを言った。
「真野さんのお仕事、見てみたいです」
「仕事ですか?」
「はい。床を磨いているところ。いつも話だけ聞いていたら、どうしても見たくなってしまって。ご迷惑でしょうか?」
迷惑も何も、俺の現場は全て自社の現場だ。日雇いの応援として入る顔で案内するには、段取りがいる。俺は考えた末、週末の夜に入っている駅前のショッピングモールの現場を選んだ。しおりさんには「最近は同じ会社の応援ばかりで、あの現場には毎週入っている」のだと説明した。嘘の上乗せにもだいぶ慣れてきた自分を、割りながら嫌になった。
関口に頼むと、案の上盛大に呆れられた。
「つまりあれですか? 社員全員に社長を社長と呼ぶなと」
「その夜だけだ。頼む」
「嘘に嘘を重ねる男の顔ですよ、それは」
「分かってる。分かってて重ねるから重症だって言うんです」
関口は腕を組んで天井を仰ぎ、それから観念したように息を吐いた。
「島さんの名前にしましょう。あの人は口が硬い。若いのには、お客さんの見学だとだけ言っておきます」
散々嫌みを言いながら、関口は現場に話を通し、施設の防災センターに見学者1名の入館届けまで出してくれた。当日の班のみんなには事情は伏せて、「お客さんが見学に来るから、俺のことは真野さんと呼んでくれ」とだけ伝えてもらった。
土曜の夜11時。閉店後のモールにしおりさんはやってきた。動きやすい服に、髪を後ろで1つに結んでいた。薄暗い通路にポリッシャーの低い音が響く。しおりさんは邪魔にならない場所に立って、俺たちの作業をずっと見ていた。
その夜の班は俺を入れて6人だった。ベテランの島さんが機械を回し、若手が順番に水を回収し、モップで仕上げていく。一番の新入りは20歳の谷口だ。前の職場で心を潰されて、去年うちに来た子だった。最初の頃は人の目を見て話せなかったのが、今では班の誰より大きな声で指差し確認をする。ワックスの膜を薄く剥がし、汚れを取り、新しいワックスをかけて乾かす。単純に見えて、床の材質と痛み方で手順は毎回違う。
「あの、私もモップ持ってみてもいいですか?」
「重いですよ。仕上げの寸前の区画の隅ならどうぞ」
「大丈夫です。お、本当に重い」
モップを受け取ったしおりさんはよろけて、それでも見よう見まねで床を拭き始めた。腰が高い。手先だけで動かすから、すぐ息が上がる。島さんが堪えきれずに笑って、「腰を落とすんですよ」とコツを教えた。
「奥さん。モップはね、押すんじゃなくて、体ごと運ぶんです。ほら、そうそう。上手だ」
「お、奥さんでは、あの、これで合ってますか?」
「上等、上等。うちに来ますか?」
「お、本当ですか?」
本気にしそうなしおりさんに、班のみんなが笑って、夜中のモールに笑い声が転がった。10分後、しおりさんは額に汗を浮かべて、たった数メートルの廊下を拭き上げた。
「これは毎晩? この広さ全部?」
「ええ、毎晩です」
「腕がもう上がりません」
そう言いながら、しおりさんはなぜか誇らしそうだった。俺が機械を止めて床に膝をつき、照明の反射で塗り斑を確かめていると、しおりさんが近づいてきた。
「何をしているんですか?」
「光の帯を見ています。斜めから見ると、塗り斑は光の中に影で出るんです」
「綺麗」
しおりさんは床を見てそう呟いた。磨き上げた通路の床には、天井の非常灯が一直線に映り込んで、暗いモールの中に細い光の川が伸びていた。
「床って、こんなに光るものなんですね」
「どんなに汚れても、吹けば光ります。床も人も同じだと、俺は教わりました」
口をついて出たのは母の言葉だった。しおりさんがゆっくりとこちらを向いた。
「素敵な言葉。どなたの言葉ですか?」
「母です。母も清掃の仕事をしていました。学校とかビルとか。女手一つだったので」
「お母様は」
「今は、18の時に死にました。心臓の病気で。それで俺はこの仕事に入ったようなものです」
しおりさんはしばらく黙っていた。それから床の光の帯を見つめたまま、静かに言った。
「私の母も、亡くなっているんです。私が高校2年の冬でした。病気で入院していて」
「そうでしたか」
「はい。だから、あの」
しおりさんはそこで言葉を切って、床の光をじっと見た。何かとても大事なものを両手で測っているような横顔だった。それから小さく首を振った。
「いえ、この話はまた今度にします。今日は真野さんのお仕事の日ですから」
「聞きたくなったら言ってください。俺は聞くのは得意です。現場仕事は耳が暇なので」
「じゃあ、いつか。いつか必ず聞いてください」
何かを言いかけて、しまい込んだ。その横顔が少し気になったが、俺は深追いしなかった。人の傷には、その人が開けるまで触らない。病院の現場で覚えたことの一つだ。
休憩の時間、若手の班員たちに、しおりさんは差し入れの麦茶を配って回った。島さんに深々と頭を下げられて恐縮し、班の一人一人に名前を聞いて回っていた。ああいうことが自然にできる人なのだ。
谷口が緊張しながらしおりさんに話しかけていた。
「あの、真野さんの彼女さんすか?」
「ち、違います」
「まだ?」
「あの、違います」
「まだとは何だ」
俺は聞こえなかったふりをしてモップを絞った。あの、班のみんなはニヤニヤ笑っていた。
作業が終わったのは深夜2時前だった。乾きを確かめた通路を、しおりさんは端からもう一度眺めて歩いた。非常灯の光の帯が、磨き立ての床の上でまっすぐに揺れていた。
「明日の朝が、少しだけ羨ましいです」
「朝ですか?」
「一番最初にこの床を歩く人、きっと気持ちいいだろうなって」
「一番最初にこの床を歩くのは、開店前の警備員の小森さんだ」
そう教えると、しおりさんは「じゃあ、日本一贅沢な警備員さんですね」と笑った。
従業員口から外に出ると、雨上がりの空気が涼しかった。タクシーを待つ間、しおりさんが言った。
「今日来てよかったです。あの光る床の上を、明日の朝、何万人もの人が歩くんですね。誰が磨いたかも知らないで」
「それでいいんです。俺たちの仕事は、気づかれないのが一番いい仕事なんです。汚れていれば気づかれる。綺麗なら誰も気づかない。だから褒められることはほとんどありません。その代わり、俺たちがサボれば世の中は3日で分かります」
「気づく人もいますよ」
しおりさんはこちらを向いた。
「俯いて歩いている人ほど、床を見ていますから」
一瞬、呼吸が止まった。それは俺が20歳の頃からずっと胸の中だけで唱えてきた言葉だった。俯いて歩く人の目に映るのは天井ではなく床だ。誰にも話したことはない。関口にすらない。それをこの人は今、自分の言葉として口にした。
「東山さんは、どうしてそう思うんですか?」
しおりさんは少し笑って、遠くを見た。
「昔、俯いてばかりいた時期があったんです。その時に、床の綺麗な場所に随分助けられたので」
タクシーが来て、その話はそこで終わった。
帰り道、俺は1人で考えていた。あの人の中には、俺と同じ風景を見てきた時間がある。理屈ではなく、そう感じた。そしてそう感じてしまった夜から、俺の嘘は前よりもっと重くなった。
週が開けて、会社の廊下で関口に呼び止められた。
「社長、妙な話を聞きましてね」
関口は声を落とした。
「東山正規さんの周りをうろついてる縁談があるそうです。熊山建設の御曹司、熊山涼介とかいう男ですよ。うちの営業があちらの総務から世間話で聞いてきました。東山の社長さんが手を焼いているとか」
熊山建設。都心の再開発をいくつも手掛ける大手デベロッパーだ。うちも系列の商業ビルの清掃をいくつも受けている。その御曹司が、しおりさんを随分ご指名らしい。
「社長、うかうかしてると」
「俺は別に、うかうかも何も」
「はいはい」
関口は取り合わなかった。だが、俺の胸の中にはその名前が小さな棘のように残った。熊山涼介。その棘は思ったより早く、思ったより深く刺さってくることになる。
6月の終わりの夕方だった。俺はしおりさんをいつもの喫茶店に呼び出した。今日で終わりにする。そう決めていた。理由は単純だ。俺はこの人を好きになってしまった。気づいてしまえば、後は坂道を転がるだけだった。朝の現場で床を磨きながらしおりさんの言葉を思い出す。書類に判を押しながら、次に会う日を数えている。関口に指摘されるまでもなく、俺はとっくに手遅れだった。だからこそ、終わりにしなければならなかった。
好きになった人をこれ以上騙し続けることはできない。かと言って、正体を明かす資格が俺にあるとも思えない。最初から壊すつもりで座った席だ。積み上げた嘘の上に、本物の気持ちを立てていいはずがない。
前の晩、俺は一睡もできなかった。天井を見ながら、何十通りもの言い方を考えた。「実は会社をやっているんです」「実は破談にするつもりだったんです」。どの言い方も、口の中で転がすたびに嘘臭くなった。3ヶ月騙しておいて、好きになったから許してくれ。俺なら許さない。ならば結論は1つだ。何も明かさず身を引く。日雇いの清掃員に愛想を尽かされたと思ってもらえれば、しおりさんの傷は浅くて済む。時間が経てば、あの人はもっとまともな男とまともな縁を結ぶだろう。そう考えるたびに胸が焼けたが、これは自業自得の痛みだった。
窓の外は遅い雨だった。梅雨の終わりの、いつ止むとも知れない雨だ。俺は店の前で一度深呼吸をして、傘の水を丁寧に切ってから扉を押した。こういう時に限って体は普段通りに動く。心だけが置いていかれる。
しおりさんは先に来ていて、俺の顔を見ると立ち上がりかけ、それからゆっくり座り直した。
「今日はなんだか怖い顔をしていますね」
「東山さん。今日はお話があってきました」
注文したコーヒーには、2人とも手をつけなかった。湯気だけがテーブルの上でゆっくり細くなっていった。俺はテーブルに手をついて頭を下げた。
「もう、お会いするのをやめにしたいんです」
店の音が遠くなった。雨の音だけが窓を叩いていた。
「あなたはいい人です。俺にはもったいないくらいの人だ。だからこそ、これ以上は続けられません。俺には貯金も家もない。あなたに約束できる将来が何ひとつない。あなたのお父さんに顔向けできるものが何もないんです。最初から分かっていたことでした」
自分の声が自分のものじゃないみたいに聞こえた。半分は嘘で、半分は本当だった。財産の話は嘘だ。だが、あなたに差し出せる正直な自分がない、という一点だけは嘘ではなかった。
長い沈黙があった。やがてしおりさんが口を開いた時、その声は震えてはいなかった。
「顔をあげてください。真野さん」
俺は顔を上げた。しおりさんは泣いていなかった。まっすぐに俺を見ていた。
「1つだけ教えてください。私のことが嫌いになりましたか?」
「そういう話じゃありません」
「私のことが嫌いになりましたか?」
「いいえ」
「それなら、他の理由は全部大丈夫です」
しおりさんはテーブルの上で両手をぎゅっと握った。
「あなたはさっき、何もないと言いました。将来を約束できるものが何もないと。お見合いの日にも、同じことをおっしゃいました。あのですね、真野さん。私、ずっと言いたかったことがあるんです」
しおりさんは息を吸った。
「何も持っていない人は、こぼれた水をあんな風に拭いたりしません」
「え?」
「お見合いの日、仲居さんが水をこぼした時、あなたは誰よりも先に膝をついて、畳の目に沿って隅の隅まで手のひらで確かめて拭きました。仲居さんが恐縮しないように、『汚れは気づいた人が拭けばいいだけです』って笑って。あんなことができる人が、何も持っていないはずがないんです」
しおりさんの目に初めて涙が浮かんだ。
「商店街の金物屋さんで、あなたはたわしの説明をあんなに楽しそうにしました。夜のモールで、若い方たちがあなたを見る目を、私はちゃんと見ていました。ああいう目で見られる人が、何も持っていないはずないんです。あなたは、人の足元を守る手を持っています。俯いた人が安心して歩ける床を作る腕を持っています。それは、お金や家なんかよりずっとずっと大きな財産です。私はその財産に会いに来ているんです。だから」
しおりさんは涙をこらえて、それでも声を張った。
「だから、貯金がないくらいで、私を置いて行かないでください」
言い切って、しおりさんは自分の言葉に自分で驚いたように口元を手で抑えた。
「ごめんなさい。そんな汚い言い方。いえ、でも、取り消しません」
店の窓の外で、雨が少しずつ弱くなっていった。俺は何も言えなかった。「貯金がないくらいで」。この人はこの3ヶ月、俺の並べた嘘の壁を、そういう風に1枚ずつ、まるで意味のない髪切れみたいに扱ってきた。壁の中の俺は、その度に少しずつ軽くなっていた。そして今、最後の1枚まで剥がされて、俺は気づいてしまった。壁の内側に立てこもっていた4年間。俺はずっと、誰かがこうして叩いてくれるのを待っていたのだ。
言えないまま、目の奥が熱くなるのを止められなかった。35歳の男が喫茶店で泣くわけにはいかない。俺は天井を見上げて、それからコーヒーを一口飲んで、ようやく声を出した。
「辛い人だ、あなたは」
「辛くてもいいです」
しおりさんは涙を指で抑えながら、少しだけ笑った。
「私、お見合いを何十回もして、初めて分かったことがあるんです。条件が合うことと、息が合うことは、全然違うんだって。条件の合う人と話すと、私は上手に笑えます。でも、息の合う人と話すと、下手に笑えるんです。あなたの前の私、ずっと笑い方が下手でしょう。それが答えだと思うんです」
その顔を見た瞬間、俺の中で何かの音がした。4年前から胸の真ん中に刺さっていた、冷たくて硬いものが崩れる音だった。人はどうせ肩書きしか見ない。財布しか見ない。そうやって自分の周りに張り巡らせてきた壁が、確かに崩れ始めていた。この人は俺の後ろを見ていない。貯金なし、家なし、日雇いの清掃員。俺が積み上げた最悪の看板の、その奥にいる人間を見ようとしてくれている。
4年前、俺は人を信じるのをやめた。信じなければ傷つかない。疑っていれば安全だ。そうやって鍵をかけた部屋は、確かに安全で、そして墓場のように静かだった。その部屋の扉を、この人は3ヶ月かけて外から少しずつ叩き続けてくれていたのだ。「貯金がないくらいで置いて行くな」という、むちゃくちゃな理屈で。
だったら、俺はこの人に何を返せばいい? 答えは分かっていた。本当のことだ。会社のこと、破談狙いだったこと。全部話して頭を下げて、そこからやり直す。それしかない。
「東山さん。俺はあなたに話さなきゃいけないことが」
言いかけたその時だった。しおりさんのバッグの中でスマホが鳴った。しおりさんは画面を見て、すっと表情を消した。
「ごめんなさい。父からです。少しだけ」
しおりさんは席を立って、店の入り口で電話に出た。窓越しに見えるその横顔から、みるみる血の気が引いていくのが分かった。戻ってきたしおりさんは、無理に笑おうとして失敗した。
「ごめんなさい、真野さん。今日は帰らないといけなくなりました」
「何かあったんですか?」
「いえ、大丈夫です。大丈夫なんですけど」
しおりさんは傘の柄を握りしめて俯いた。
「父が倒れたと、会社から連絡が」
俺はその場で店の会計を済ませ、タクシーを止めてしおりさんを乗せた。閉まる直前のドアの向こうで、しおりさんは何度も頭を下げた。雨上がりの歩道に立って、俺はタクシーの尾灯が消えるまで見送った。
言えなかった。また言えなかった。だが、この時の俺はまだ楽観していた。話す機会はすぐに来る。父親の体調が落ち着いたら、全部話そう。そう思っていた。
東山総一郎さんは、心臓の血管が詰まりかけて入院した。引き金は過労だった。命に別状はないが、自宅療養では済まずに手術を受けることになり、術後のリハビリも含めて入院は長引きそうだという。しおりさんからそう連絡が来たのは、翌日の夕方だった。
それから、しおりさんと会える日はぱったりと減った。無理もない。父親の看病に加えて、社長不在の会社のあれこれが、娘のしおりさんのところへ押し寄せているらしかった。メッセージの返事は夜中に届くようになり、文はいつも謝罪から始まっていた。俺にできることは何もなかった。せめてもの思いで、しおりさんの体を気遣う短い文だけを送り続けた。返事はいつも「ありがとうございます」の一言に、無理につけたような明るい絵文字が1つ。その絵文字が返ってくるたびに痛かった。
2週間ぶりに会えた日、俺はしおりさんの顔を見て言葉を失った。頬がはっきりと痩せていた。場所は、総一郎さんが入院している隣町の大きな病院のロビーだった。母のいた青葉総合病院とは別の、新しくて明るい建物だ。診察を終えたしおりさんと、1階の売店の前で待ち合わせた。俺のような立場の男が病室まで上がるわけにはいかない。日雇いの清掃員の俺は、まだ東山家に堂々と名乗り出られる立場ではなかった。
自動販売機で冷たい麦茶を2本買って、ロビーの隅の長椅子に並んで座った。
「すみません。こんなところにまで」
「病院は通い慣れています。それより、眠れていますか?」
「あんまり」
しおりさんは両手で缶を包むように持って、少しだけ笑った。その笑い方が痛々しくて、俺は何か言おうとして言葉が見つからなかった。
その時だった。
「しおりさん、こんなところにいたんですか?」
声の方を振り向くと、仕立てのいいスーツの男が革靴を鳴らして歩いてきた。年は俺より少し下だろう。手に果物の籠を下げて、髪を丁寧に撫でつけている。男はしおりさんの前に立つと、俺には目もくれずに続けた。
「東山社長の顔を見てきましたよ。だいぶ顔色が良くなられた」
で、男はそこで初めて俺を上から下まで眺めた。量販店のポロシャツと、洗い晒しのチノパン。男の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。
「こちらは、病院の方ですか?」
「熊山さん。こちらは真野さん。私の大切な友人です」
熊山涼介。関口の言っていた名前が、目の前に立っていた。ああ、と熊山は荷物を持ち替えて右手を差し出してきた。
「熊山建設の熊山です。しおりさんのお父上には、仕事でお世話になっていましてね。失礼ですが、お仕事は?」
「清掃の仕事をしています」
「清掃?」
差し出しかけた右手が、すっと引っ込んだ。
「清掃って、あのビルの床を磨いたりする?」
「はい。その清掃です」
「へえ」
熊山は自分の腕時計にちらりと目をやった。値段を見せるための仕草だと、遅れて気づいた。
「いや、立派なお仕事ですよ。ええ、世の中には必要な仕事だ。誰かがやらないといけませんからね。ああいうことも」
一言一言に、薄い膜のような嫌味が張りついていた。こういう言い方をする人間を、俺は嫌というほど見てきた。正面から見下す奴より、お世辞の形で見下す奴の方が立ちが悪い。
熊山はしおりさんの方を向いて、聞こえよがしに言った。
「しおりさんも人が悪いな。友人というから、てっきりどこかの会社の御曹司かと。まあいい。しおりさん、この後お時間は? うちの父が食事でも」
「申し訳ありません。今日はこれで失礼しますので」
「またそれだ」
熊山は大げさにため息をついた。
「ねえ、しおりさん。あなたも分かっているでしょう。お父上があんな状態で、東山正規はこれから大変だ。新しい工場の土地の件も、メインバンクさんとの件も、うちが後ろにつくかつかないかで話がまるで変わってくる。こういう時のための縁談じゃないですか」
「その話は、父が元気になってからと申し上げています」
「時間はあまりないんですけどね」
熊山は俺の方へちらりと目をやって、にやりと笑った。
「それとも何ですか? 清掃員の彼が、東山正規を助けてくれるんですか?」
「熊山さん。この方への無礼は、私への無礼と同じです。お引き取りください」
「おやおや。いや、冗談ですよ。冗談。ただね、しおりさん。冗談で済まないのは、あっちの会社の方だ。それはあなたが一番よく分かってるでしょう」
しおりさんの肩が震えた。俺は膝の上で拳を握った。言ってやりたいことは山ほどあった。名刺1枚出せば終わる話でもあった。だが、俺は言わなかった。言えなかった。ここで正体を明かせば、それは同じ土俵で肩書きで人を殴る行為だ。それに何より、しおりさんへの告白より先に、こんな男の前で名乗ることだけは絶対に嫌だった。
俺は静かに立ち上がって、頭を下げた。
「東山さん、今日は失礼します。お父様、お大事に」
「真野さん、また連絡します」
しおりさんの目が「行かないで」と言っていた。分かっていて、俺はその場を離れた。あそこにあのまま座っていたら、俺は何を口走るか分からなかった。名乗るなら、こんな形ではないと決めていたからだ。
病院の玄関を出ると、夏の日差しが白く焼きついた。背中で熊山の笑い声が聞こえた気がしたが、振り返らなかった。エントランスの自動ドアの前で、俺は1度だけ立ち止まった。すりガラスに映った自分の顔が、情けないくらい歪んでいた。
その夜、俺は自宅のベランダで長いこと夜景を見ていた。眼下のビル群にはぽつぽつと明かりが灯っている。あの明かりのいくつかの下で、今夜もうちの連中が床を磨いている。俺はいつもならそれを思うだけで満ち足りた気分になれた。今夜はダメだった。悔しさで眠れないなんて、何年ぶりだろう。だが、悔しさの中身が自分でも意外だった。清掃員と見下されたことはどうでも良かった。母の代から慣れている。悔しいのは、しおりさんが俺のせいで小さくなって謝っていたことだ。あの人にあんな顔をさせたことだ。
翌日の夜、しおりさんから長い謝罪の文が届いた。「熊山さんの数々の無礼、私からお詫びします」という文面だった。画面の向こうであの人がまた小さくなって詫びている姿が見えるようだった。俺は返事を打った。
「気にしていません。あなたが謝ることは何ひとつありません。それより、少しでも眠ってください」
送ってからしばらく画面を見ていた。ややあって返事が来た。
「あなたと話していると、呼吸が楽になります。おやすみなさい」
その一文を、俺は情けないことに何度も読み返した。
数日後、関口が新しい情報を持ってきた。
「東山さん、思ったより追い込まれてますよ。社長の入院で、銀行が新工場の融資に及び腰になってる。そこへ熊山建設が、土地と融資の口利きをセットでちらつかせてるそうです。条件は言わずもがなでしょうな」
「縁談か」
「役員や親戚筋には、もう乗り気の連中もいるって話です。『娘1人で会社が守れるなら安いもんだ』と。ついでに言うと、その親戚筋が社長のことを恨んで、熊山側に取り入ったって噂もありますよ」
「安いもんだ」という言い方に、俺は吐き気がした。しおりさんの人生を、交渉の駒みたいに弾く人間があの人の周りに何人もいる。会長の言っていたことを思い出した。あの子は縁談に疲れとる。人と会うのが怖くなっとる。当たり前だ。会う人間の目が、みんなあの人の顔ではなくあの人の後ろの会社を見ているのだから。そういう目に囲まれて、あの人は何年も背筋を伸ばして笑ってきたのだ。
「社長、もう名乗ったらどうです?」
関口は静かに言った。
「あんたが出てけば、融資も土地の信用も正面から解決できる話でしょう。真野の名前は、そのためにあるんじゃないんですか?」
「それで解決したら、しおりさんはどうなる?」
「どうって」
「『清掃員の真野に助けられた』んじゃない? 『真野総合メンテナンスの社長に助けられた』ことになる。あの人はそういう貸しを一生背負う人だ。それに、俺はあの人にまだ嘘の詫び1つ言えていない」
関口は腕を組んで、長いこと黙っていた。
「順番ってことですか?」
「ああ。名乗るなら、まずしおりさんにだ。肩書きが役に立つのは、その後でいい」
言葉にしてみて、ようやく自分の中で筋が通った。だが、その筋を俺はすぐには通せなかった。
7月の半ば、津井会長に呼ばれて、またあの小料理屋へ行った。会長は俺の顔を見るなり、酒を差し出してきた。
「浮かん顔だな。東山のことか」
「耳が早いですね」
「総一郎とは40年の付き合いだ。あいつの入院も、熊山の坊やの動きも大体聞いとる。歯がゆいが、わしが金でも口でも出せば済む話でもない。あの総一郎は、わしには頼らんのだ。倒れてもこっちに電話1本よこさん。頑固者よ。まあ、いよいよという時は、わしが勝手に出るがな」
会長は手酌で自分の酒を満たして、ゆっくりと飲んだ。
「君。わしがなんで釣書なしの見合いなんぞという妙案を思いついたか、話したことがなかったな」
「聞いていません」
「わしの女房はな、ビルの窓拭きだったんだ」
初めて聞く話だった。
「わしは中学を出てすぐ、窓拭きの会社に入った。命綱1本で高いところにぶら下がる仕事だ。金もない、学もない。女房の千代子は取引先の社長令嬢でな、身分違いもいいところだった。周りは全員反対したよ。だが千代子はな、笑ってこう言ったんだ。『この人は、誰も見ていない43階の窓を、誰かが見る1階の窓と同じだけ磨く人です。私はそれを見て決めました』とな」
会長は少し笑って酒を置いた。
「わしはその後、一緒に働いて会社を大きくした。周りの態度はな、面白いように変わっていったよ。足を鼻で笑った連中が、こぞって頭を下げに来た。だがな、千代子だけは最初から最後まで何にも変わらんかった。窓拭きのわしにも、会長のわしにも、同じ顔で同じ味噌汁を出す。先に亡くなってもう10年になる。あれのおかげで、わしは自分を見失わんで済んだ」
「なあ、ハルト君。人間の値打ちというのはな、肩書きを全部剥がした後に残るもので決まる。わしはそれを女房に教わった。しおりさんにも、それを知ってほしかった。それだけの話よ」
「会長。俺はしおりさんに嘘をついたままです」
「知っとる」
「怖いんです。全部話したら、あの人の目が変わるのが。肩書きを見る目になるのも、嘘つきを見る目になるのも、どっちも怖い」
「ハルト君」
会長は俺の目をまっすぐ見た。
「お前さんは高校を出てから17年、床を磨いてきた男だろう。汚れというのはな、放っておくと床に焼きつく。嘘も同じだ。拭くなら早い方がいい。それは、お前さんの母さんの教えじゃなかったか」
母の口癖が胸の奥で鳴った。俺は酒を置いて、畳に両手をついた。会長の言う通りだった。俺は自分の商売の一番の基本を、自分の人生でだけ守っていなかった。
「まあ焦るな。汚れを拭くにも順番がある。今は総一郎の体と、しおりさんの気持ちが先だ。お前さんの告白は、それからでも腐りせん」
その晩、会長は最後まで俺に酒を注ぎ続けた。あの人は、叱り方まで温かいから困る。
数日後の夕方、会社の屋上で関口と缶コーヒーを飲んだ。しおりさんに全部話す。そう決めたと伝えると、関口が「ふうん」と鼻を鳴らしただけだった。
「まあ、いいんじゃないですか。お前は昔から説教が短くて助かる」
「説教できる身分じゃないですからね、俺は」
関口は缶を手の中で回しながら、ぽつりと言った。
「社長、覚えてますか? あんたが独立するって言って、日雇いの集合場所まで俺を誘いに来た日のこと」
「覚えてる?」
「あの頃の俺は最悪でしたよ。務めてた会社が潰れて、酒に逃げて、女房子供に逃げられて。日雇いの列に並びながら、俺の人生はもう終わったも同然だと思ってた。そこへあんたが来て、『うちに来ませんか』という。俺は言いましたよね。『俺なんか雇っても、経歴は真っ黒だぞ』って」
関口は笑った。
「したらあんた、何て言ったか覚えてますか? 『床は経歴を聞きません』」
「バカみたいな決め文句だ。でもね、あの一言で、俺は生き直したんですよ。去年、娘の結婚式に呼ばれました。『父の仕事は清掃業です』って、あいつ、式で胸張って言いやがった」
関口は空を見たまま、少し黙った。
「式でね、娘の隣で泣いている元女房を見ました。あいつには散々苦労をかけた。今更何にも言えやしない。でも、帰り際にあっちから一言だけ言われました。『いい勤め先に拾ってもらったのね』って。俺はあの一言のために、10年モップを握ってきたようなもんです。あんたの仕事は床を磨くことじゃない。人を磨くことだ。俺はそう思ってます。だからね、社長。しおりさんが本物なら、全部聞いた上であんたのそういうところを見てくれますよ」
柄にもないことを言った照れ隠しに、関口は缶コーヒーを一気に飲み干して、先に階段を降りていった。
その週末、しおりさんから連絡が来た。父の容体が安定したので、少しなら会えますと。会ったのは病院の近くの小さな公園だった。夕方の風に、蝉の声が混じり始めていた。俺は自販機で冷たい麦茶を2本買って、先についてベンチを拭いておいた。やってから、割りながら職業病だと思った。
やってきたしおりさんは、拭き跡の残るベンチを見て、それから俺を見てふっと笑った。
「拭いてくださったんですね」
「癖です」
「知ってます」
ベンチに座ったしおりさんは、この前より少しだけ顔色が良くなっていた。
「父がですね、昨日初めて売店のプリンを完食したんです」
「それは何よりだ」
「主治医の先生より看護師さんたちの方が厳しくて、父はすっかり頭が上がらないんですよ」
「いいお父さんですね」
「頑固なだけです。でも、今回のことでは少し反省もしているみたいで、ベッドの上でぽつりと言うんです。『会社のことばかりで、お前に苦労を背負わせてきたな』って。あんなことを言う人じゃなかったんですよ、昔は」
「病院のベッドというのは、人を正直にしますから」
「え、経験者みたいな言い方」
「まあ、長く見てきましたから。ベッドの上の正直な人たちを」
しおりさんはくすくす笑って、それから急に真顔になった。
「病院って不思議な場所ですね。世の中で一番辛い時間を過ごす場所なのに、時々一番優しいものにも出会う場所で」
「分かります」
「真野さんは病院の清掃もなさるんですよね」
「ええ、長くやっています」
「あの、変なことを伺ってもいいですか?」
しおりさんは膝の上で手を揃えて、少しためらってから言った。
「清掃員のお仕事を、恥ずかしいと思ったことはありませんか?」
まっすぐな問いだった。俺は少し考えて、正直に答えた。
「あります。子供の頃、母の仕事を恥ずかしいと思ったことがあります。自分が始めたばかりの頃も、同級生に会いたくないと思ったことがあります。でも、今は違います」
俺は公園の誰かが踏み固めた地面を見ながら続けた。
「誰かが汚した場所を綺麗にすると、そこをまた誰かが安心して歩けるんです。それに、床は正直です。磨いた分だけ必ず光る。人生で裏切らないものを1つだけあげろと言われたら、俺は床と答えますよ。それだけで、俺には十分でした」
返事がなかった。横を見ると、しおりさんは泣いていた。声も立てず、両手を膝の上で握りしめたまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「あの、東山さん。ごめんなさい」
しおりさんは指で涙を抑えて、笑おうとして失敗した。
「ごめんなさい。違うんです。悲しいんじゃなくて、あの、真野さん。私、近いうちに聞いていただきたい話があるんです。長い話です。私の母の話です」
「はい」
「父のことが落ち着いたら、必ず。その時に、ちゃんと聞いてください」
夕焼けが公園を染めていた。俺も話さなければならないことがある。そう言いかけて、やめた。この人の長い話を先に聞こう。俺の告白はその後だ。それが順番だと思った。
別れ際、しおりさんは俺に紙袋を差し出した。中には水色のタオルが2枚入っていた。
「この前現場で、皆さんが首にかけていたのを見て。そのお礼というか、暑い時期ですから」
「ありがとうございます。使わせてもらいます」
「本当は端を縫って差し上げたかったんですけど、私、裁縫が壊滅的で。玉結びで挫折しました」
「縫い方なら、そのうち教えますよ。うちの新人は全員できるようになります」
「じゃあ、私も新人ということで」
あの人はどうして、端を縫うことにこだわるのだろう。俺はその晩、もらった水色のタオルの1枚を、赤い糸で縫ってみた。茶箪笥の前で針を動かしながら、これを見たらあの人はどんな顔をするだろうかと、柄にもないことを考えていた。
8月の終わり、総一郎さんは退院した。その週の日曜、しおりさんから連絡が来た。「連れて行きたい場所があります」と。指定された駅で降りて、待ち合わせたしおりさんに案内されるまま、10分ほど歩いた。角を曲がった瞬間、俺の足が止まった。
青葉総合病院。古い8階建ての建物が、夏の終わりの空の下に立っていた。母を見取った病院。20歳の俺が日雇いで通った病院。外壁は俺の記憶よりずっとくすんで、正面玄関の庇には錆が浮いていた。
「ここ、ご存知ですか?」
「ええ、よく知っています」
しおりさんは病院の向いにある小さな公園に俺を連れて行った。桜の木が1本と、古いベンチが2つあるだけの公園だ。ここも知っていた。昼休みに何度も弁当を食べた場所だ。
ベンチに並んで座ると、しおりさんは膝の上でバッグを抱えて、静かに話し始めた。
「私の母は、この病院で亡くなりました。15年前の冬です」
心臓が嫌な速さで打ち始めた。
「私は高校2年でした。母の病気が分かったのは、その年の秋でした。もう手術のできない状態で、先生からは『年を越せるかどうか』と言われていました。同じ頃、父の会社が傾きました。大きな取引先が潰れて連鎖で、資金繰りが苦しくなって。あの頃の我が家は、本当にバラバラでした」
しおりさんは病院の建物を見つめたまま続けた。
「親戚が家にまでお金の話を持ち込んできました。母のお見舞いのふりをして、廊下で父を怒鳴る人もいました。『東山も終わりだ』と聞こえよがしに言う声を、私、母の病室の前で何度も聞きました。母は全部わかっていて、『ごめんね』って私にばかり言うんです。私は学校で笑って、教室で笑って、家でも笑って。どこにいても、笑う場所しかありませんでした」
しおりさんの声が少し震えた。
「12月の夜でした。母の容態が急に悪くなって、そのまま集中治療室に入った日があったんです。父は会社に戻らなければならなくて、私1人が病院に残りました。面会時間はとっくに終わっていて、廊下は薄暗くて。私、母の病室の前の廊下で、壁に寄りかかって座り込んでしまって。涙が止まらなかったんです。声を殺しても殺しても溢れてきて。このまま母がいなくなったら、私はどうやって生きていけばいいんだろうって。世界中に、私の味方はもう1人もいない気がして」
蝉の声が遠くなった。俺は動けなかった。記憶の底で、何かが軋みながら動き始めていた。面会時間後の薄暗い廊下。窓際にしゃがみ込んだ制服の少女。
「その時です。廊下の向こうから、モップの音が近づいてきたんです」
しおりさんはゆっくりと俺の方を向いた。
「若い清掃員の方でした。作業着で、痩せていて、私よりいくつか年上に見えました。その人は私の前で足を止めて、少し困ったような顔をして、それから私の隣の床を静かに磨き始めたんです。何も聞かずに。ただモップを動かしながら、ぽつりと言いました」
分かった。思い出した。全部思い出した。あの冬、外来のワックス掛けの夜間応援に入っていて、病棟の汚れの始末を頼まれた帰りだった。面会時間後の3階東病棟。俺の母が入院していた病棟と同じ並びの廊下。泣いている少女がいて、通り過ぎることができなかった。けれど、掛ける言葉なんか何ひとつ持っていなかった。だから俺は、隣の床を静かに拭きながら、母の言葉を借りたのだ。
「『汚れた場所は、誰かが拭けばまた歩けます。人も同じです。今辛くても、終わりじゃありません』。その人はそう言いました」
しおりさんの目から涙が溢れた。
「そして、ポケットから畳んだタオルを出して、私にくれたんです。端っこを赤い糸で縫った、手縫いのタオルでした。『返さなくていいです。あげます』って。私、そのタオルで涙を拭いて顔を上げたら、その人はもう廊下の向こうを磨いていました」
しおりさんはバッグを開けて、何かを両手で取り出した。古いタオルだった。何度も洗われて生地は薄くなって、それでも大事に畳まれたタオルの端に、色の褪せた赤い糸のかがり縫いが残っていた。母の縫い方だった。俺の縫い方だった。
「母は年が明けてすぐに亡くなりました。でも、私、あの夜から、泣きながらでも歩けるようになったんです。辛くなるたびに、このタオルを握って、あの言葉を思い出しました。高校を出て、大学に行って、父の会社に入って、ここまで歩いてこられたのは、あの夜の清掃員さんのおかげです。ずっと探していました。名札はありませんでした。病院に聞いても、『委託会社を通した日雇いの方までは分からない』と言われました。15年間、お名前も知らないままでした」
しおりさんはタオルを胸に抱いて、まっすぐに俺を見た。
「お見合いの日、あなたは『清掃員です』と言いました。まさかと思いました。そのすぐ後に、仲居さんがこぼした水をあなたが拭きました。畳に膝をついて、隅まで手のひらで確かめて。あの夜の廊下で見た手の動きと同じでした。『汚れは気づいた人が拭けばいい』。その言葉を聞いた時、心臓が止まるかと思いました。畳を拭いたタオルの端に、赤い糸が見えた気もしました。見間違いかもしれない。帰ってから何度も、自分にそう言い聞かせました。でも、夜のショッピングモールであなたは言いましたね。『どんなに汚れても、吹けば光る。床も人も同じだ』って。15年前のあの言葉と同じ、手触りでした。私、確信したんです。この人だ。この人が、あの夜の人だって。それでも、間違いだったら怖くて、ずっと聞けませんでした。調べればすぐ分かったのかもしれません。でも、釣書のない席で出会った人を後ろから調べるのは、私が一番されたくないことでした。私は肩書きで人を見る側に回りたくなかったんです。だから、私、あの夜言ったんです。『俯いて歩いている人ほど、床を見ていますから』って。あなたがあの夜の人なら、いつか思い当たってくれるかもしれない。そう思って、あれはあなたへの精一杯の合図でした」
しおりさんはタオルをそっと差し出した。
「あの、真野さん。あなたですよね」
俺はその古いタオルを見つめた。15年前の冬の夜が、音を立てて今日につながった。母をなくした病院の廊下で、母の言葉を借りて、身も知らぬ少女に渡した一言。俺にとってはただの癖の延長だった。その一言を、この人は15年間、命綱にして生きてきた。
目の奥が熱くて、うまく声が出なかった。それでも、言わなければならなかった。
「はい」
しおりさんの顔が、泣きながらゆっくりと崩れていった。
「あの夜の清掃員は、俺です。あの病院は、俺の母が死んだ病院です。あの言葉は俺の言葉じゃない。清掃の仕事をしていた母の口癖でした。タオルの赤い糸も、母に教わった縫い方です」
こんな偶然があっていいのか、俺には。その時だった。
「社長!」
公園の入り口から、大声と共に関口が駆け込んできた。汗だくでスマホを握りしめている。
「やっと見つけた。電話に出ないから、スマホの位置共有で追いかけてきたんですよ。桜町のグランドホテルで漏水です。宴会場の天井から水が来てる。主任じゃ決めきれない規模だし、あんたが捕まらないなんて初めてだから、嫌な予感までしてきて。今夜のうちに判断をもらわないと」
そこまで一息に言って、関口は凍りついた。ベンチのしおりさんと、しおりさんの手の中のタオルと、俺の顔を順番に見た。
「あ、社長」
夏の終わりの公園に、蝉の声だけが降っていた。
本当は関口の判断でも回る話だ。だが、あの相棒は会社の看板が関わる金の判断だけは、必ず俺に通す。それが創業からのあいつの流儀だった。関口は事態を察したらしく、真っ青になって後ずさりした。俺はスマホを出して現場の主任に直接電話をかけ、業者の範囲と業者の手配を指示した。展開上は、半分は仕切って使える。夜明けには間に合う。
関口は俺としおりさんを何度も見比べながら、逃げるように公園を出ていった。静かになった公園で、俺はベンチに座り直した。もう逃げ場はどこにもなかった。いや、違う。最初から逃げてはいけなかったのだ。
「東山さん。全部話します」
俺はベンチの上で膝に手を揃え、背筋を伸ばした。
「俺は日雇いの清掃員じゃありません。清掃と設備管理の会社をやっています。真野総合メンテナンス。社員とパートで400人。契約先は90か所。貯金がないのも、家がないのも、嘘です」
しおりさんは黙って聞いていた。
「あのお見合いは、最初から壊すつもりでした。俺は昔、肩書きと金だけを見られて、人としての自分ごと踏みにじられたことがあります。それからずっと、人が信じられなかった。会長への義理で席にはつく。だが、最悪の条件を並べて、あなたの方から断ってもらう。そのつもりで、わざと古いスーツを着ていきました。本当に失礼なことをしました。それに、あの席ではあなただけが何も知らされていなかった。俺の方は、あなたの名前も家の事情も先に聞いていました。何もかも、フェアじゃなかった」
言葉にすればするほど、自分の浅ましさが浮き彫りになった。それでも止めなかった。
「なのに、あなたは断らなかった。『次はいつ会えますか』と言った。会うたびに、あなたは俺の看板じゃなく、俺を見てくれた。気づいたら、好きになっていました。そうなったら、もう怖くて言えなかった。肩書きを知ったあなたの目が変わるのが怖かった。嘘つきだと軽蔑されるのは、もっと怖かった。社長としてではなく、何も持っていない俺を見てほしかった。それは本音です。ですが、やり方が卑怯でした。申し訳ありませんでした」
深く頭を下げた。膝の上で握った拳に汗が滲んだ。どれだけ経っただろう。頭の上に降ってきたのは、静かな、少し笑いを含んだ声だった。
「顔をあげてください。真野さん。何度も言わせないでください」
顔を上げると、しおりさんは泣き腫らした目のまま微笑んでいた。
「私は、社長だから会いたいと言ったんじゃありません。清掃員だと聞いても、また会いたいと思いました。それが答えです。あなたが何を持っていても、何も持っていなくても、私の答えは最初の日から変わっていません。あなたのお母様も、あの病院だったんですね」
しおりさんも、道の向こうの古い建物を見上げて静かに言った。
「あの夜、私の隣を磨いてくれた人は、お母様をなくした場所で、私を立ち上がらせてくれていたんですね。そのことも、一生忘れません。それに、嘘つきなのはお互い様です。私も、あの夜の清掃員さんかもしれないと思いながら、何ヶ月も黙って隣を歩いていたんですから」
しおりさんはタオルを大切そうにバッグへ戻して、いたずらが成功した子供みたいに笑った。俺はその顔を見て力が抜けて、気づいたら俺も笑っていた。夏の終わりの公園で、35歳と32歳が2人して鼻をすすりながら笑っていた。
帰り道、駅までの道を並んで歩いた。それはこれまでで一番短い道のりに感じられた。改札の前で、しおりさんがふと足を止めた。
「真野さん。少しだけ、時間をください」
「時間ですか?」
「はい。父のこと、会社のこと。決めなければいけないことがあるんです。それを決めてから、ちゃんと次の約束をしたいんです」
その言い方が胸の隅に小さく引っかかった。だが、俺は頷いた。この人にはこの人の順番がある。俺が俺の順番を守ったように。それが間違いだったと、俺はすぐに思い知ることになる。
4日後の夜、津井会長から電話がかかってきた。第一声で、ただごとではないと分かった。
「ハルト君。しおりさんが、熊山の縁談を受けると言い出したそうだ」
手からスマホが滑り落ちそうになった。
「総一郎から今しがた聞いた。あの子はな、役員も交えた親族会議で決めたらしい。日曜に、桜町のグランドホテルの料亭で、熊山の親父さんも交えた顔合わせの席を持つと」
「そんな。どうして」
「銀行だよ」
会長の声は苦かった。
「東山の新工場の融資の件、メインバンクが正式に渋り始めた。理屈はな、『代表がまた倒れたら、誰が会社を継ぐのか。王形の決まっとらん会社に長い金は貸せん』と。期限は月末。そこへ熊山建設が、土地の優遇と融資の後ろ盾をセットで持ってきた。ただし条件付きでな。あの家は、親戚筋が株を持っとる。親戚連中はしおりさんを囲んで、こう言ったそうだ。『お前が首を縦に振れば、従業員300人の暮らしが守れるんだ』と」
目の前が白くなった。病室の前で泣いていた17歳の少女に、世界はまた同じことをしようとしている。会社のため、家のため、お前さえ我慢すれば。あの人はまた、どこにいても笑う場所しかない場所へ、自分から戻ろうとしている。
「総一郎は反対しとる。総一郎には、見合いの相手はわしが身元を保証した男だと伝えてあるしな。だが、闘病上がりの身で、親戚と役員を抑えきれん。ハルト君。わしはお前さんに借りがある年寄りだ。最後にもう1つだけ、お願いをする。席は日曜の昼だ。総一郎には、わしの名代が1人行くかもしれんとも伝えてある」
桜町のグランドホテル。うちが清掃を受けている、あのホテルだった。
「それからな、ハルト君。わしが先に金を出せば、あの子は金で救われたことになる。あの子の前で、土俵を開けるのはお前さんの役目だ。わしは黒子に回る。行くか行かんかは、お前さんが決めろ」
電話を切って、俺は長いこと部屋の真ん中に立っていた。「時間をください」の意味が、今になって胸に刺さった。あの人はきっと、俺を巻き込まないために黙ったのだ。俺が正体を明かした直後だったから、なおさらだ。ここで俺に頼れば、俺の会社に貸しを作る。あの人は、自分の幸せのためには人に頼れない人なのだ。
翌朝、俺は会社の会議室に関口と役員を集めた。事情を全部話した。その上で、頭を下げた。
「無理を言う。会社の看板を、私用に使わせてほしい。今後、東山さんや熊山さん絡みでうちの社名が動く。場合によっては、採算の合わない仕事も取る。それを承知しておいてほしい」
関口は呆れたように笑った。
「何を今更。うちの看板は、そういうことのためにあるんでしょうが」
日曜日、俺は仕立てのいい方のスーツに袖を通した。鏡の前でネクタイを締めながら、割りながら皮肉なものだと思った。破談にするために古いスーツを選んだ男が、縁談に殴り込むために一張羅を着ている。
料亭の場所は会長が教えてくれていた。ホテルの入り口では、心得た支配人が待っていて、廊下の奥まで黙って案内してくれた。津井会長が最初から俺を通す腹を決めていてくれたのだ。
襖の前で、支配人は一礼して下がった。襖の向こうから男の声が聞こえた。
「ですからね、東山さん。うちとしても早く話を進めたいんですよ。しおりさんも、いつまでも浮かない顔をしてないで。ああ、そうだ。あの清掃員君とは、もう切れたんでしょうね。名前を調べる気にもなりませんでしたが、僕は心配していたんですよ。ああいう手合いは、金持ちの娘と見ると寄ってくるから」
俺は襖を開けた。座敷の空気が凍りついた。上座に熊山親子。その横に総一郎さんと、親戚らしき年配が2人。そして末席に、白い顔をしたしおりさんがいた。縁談の主役が末席に置かれている。この席であの人がどう扱われてきたか、席順が全てを語っていた。
「真野? なんだ君は」
熊山涼介が立ち上がった。俺の顔を思い出したらしく、眉間に皺を寄せて笑った。
「ああ、清掃員君か。びっくりした。なんだその格好。借り物か。ここは君みたいな人間が来る場所じゃないんだよ。大体、君自分の立場が分かってるのか。清掃員が令嬢に釣り合うわけないだろう」
「釣り合うかどうかは、俺が決めることでも、あなたが決めることでもありません」
俺は座敷に入り、テーブルの脇に立って総一郎さんに深く頭を下げた。
「東山社長。大切なお席に押しかけた無礼をお詫びします。ですが、どうしても申し上げたいことがあって参りました」
「おい、誰かこいつをつまみ出せ」
その時、それまで黙っていた熊山の父親が、初めて口を開いた。
「待て、涼介」
低い声だった。熊山建設の会長、熊山剛造。業界の会合で何度か顔を合わせたことがある。向こうも俺の顔をじっと見ていた。そして、見る見る顔色が変わった。
「あんた、真野の真野の社長」
「親父、何を」
「黙れ」
熊山剛造の声が座敷を震わせた。
「真野総合メンテナンスの真野ハルトさんだ。うちの管理物件の清掃を、いくつ任せとると思っとる。金座の複合ビルも、桜町の再開発も、みんなこの人の会社だ」
涼介の顔から、すっと血の気が引いた。
「え? いや、だってこいつ、日雇いの清掃員って」
「この方はな、今でも自分で現場に立つことで有名なんだ。うちの主要物件は、みんな値段でなく仕事でこの人を選んどるんだ。現場を預けて一番世話になっとる相手の顔も、お前は覚えとらんのか」
座敷が静まり返った。親戚の2人は口を半開きにして俺を見ていた。俺は懐から名刺入れを出した。この縁談が始まってから、初めて出す名刺だった。総一郎さんの前に、両手で差し出す。
「改めまして、真野総合メンテナンス代表の真野ハルトと申します。しおりさんとお見合いをさせていただいた、日雇いの清掃員です」
総一郎さんは名刺と俺の顔を見比べて、絞り出すように言った。
「どういうことですか?」
「順を追ってお話しします。その前に、1つだけ」
俺は熊山涼介の方へ向き直った。
「熊山さん。あなたは今、『清掃員が令嬢に釣り合うわけがない』とおっしゃいました。訂正してください。俺のためじゃありません。今この時間も現場で床を磨いている、うちの400人と、この国の全部の清掃員のためにです」
「いや、あれは」
涼介はさっきまでとは別人の、揉み手でもしそうな顔で笑った。
「し、失礼しました。真野の社長ともあろう方とは知らず」
「いや、それならそうと。最初から知らなければ、見下していいんですか?」
静かに聞いたつもりだった。だが、涼介は殴られたように黙った。
「あなたは病院のロビーでも、今日のこの席でも、俺が名乗る前と後で態度を変えた。人を肩書きで見るというのは、そういうことです。人を見下す人に、人の上に立つ資格はありません」
その時、真っ先に椅子の動く音がした。しおりさんが立ち上がっていた。白かった顔に、血の色が戻っていた。
「父さん。私、この縁談はお受けできません」
「し、しおりさん、あんた何を今更」
「ずっと言えなかったことを、今言っています」
しおりさんはまっすぐに熊山親子を見た。
「熊山さん。あなたは今、この人の名刺1枚で態度を変えました。私はこの5ヶ月、名刺を持たないこの人と会ってきました。この人は、こぼれた水を誰よりも先に拭く人です。深夜のモールで、誰にも気づかれない床を磨く人です。私は、肩書きを見て態度を変える人とは、結婚できません」
座敷は水を打ったように静かだった。最初に動いたのは、熊山剛造だった。息子の頭を無理やり押さえつけるようにして、総一郎さんとしおりさんに深々と頭を下げた。
「東山さん、しおりさん。息子の非礼の数々、親としてお詫びします。それから、縁談に取引を絡めるようなやり方を許しとったのは、わしの落ち度だ。進行中の土地の件は、縁談とは切り離して、正規の条件でお話しさせていただく。それが筋というものだ」
涼介は真っ赤な顔で俯いたまま、一言も発しなかった。2人が座敷を出ていくと、入れ替わるように襖が開いて、見慣れた顔がのっそり入ってきた。津井会長だった。
「なんだ、もう終わったんか。ええところを見損なったわい」
会長は拍子抜けした総一郎さんの隣にどっかり座ると、肩の方を叩いた。
「総一郎。銀行の件はな、うちの会社で連帯保証をつける。東山が返せん時は、うちが払うちゅうことだ。担保がいるなら、うちのビルを入れちゃえ」
「津井さん。しかし、それは」
「40年の友達に、頭1つ下げられんで何が社長か。お前さんが倒れたと聞いてから、わしはずっと出番を待っとったんだ。年寄りに格好をつけさせろ」
総一郎さんも何か言いかけて、言えなくて、口を一文字に結んで俯いた。その肩が、小さく震えていた。
その時、しおりさんが俺の前に来て、まっすぐに立った。
「真野さん。黙って決めようとして、ごめんなさい。あなたに頼れば、あなたの会社を取引の道具にしてしまう。それだけは嫌だったんです。だから、1人で終わらせるつもりでした。でも、あなたが襖を開けた時に分かりました。黙って消えようとしたことの方が、よっぽどあなたへの裏切りでした」
「お互い、順番を間違える癖があるみたいですね」
しおりさんは涙の残る顔で、深く頷いた。それから俺は改めて、総一郎さんに全てを話した。破談狙いの見合いのこと。嘘を重ねたこと。それを詫びた上で、しおりさんとのことを真剣に考えていることも。
黙って聞いていた総一郎さんが口を開く前に、しおりさんが隣から静かに言った。
「父さん。もう1つ、聞いてほしい話があるの」
しおりさんはバッグからあの古いタオルを取り出した。
「覚えてる? お母さんが集中治療室に入った夜。父さんは会社に戻らなきゃいけなくて、私1人で病棟に残ったでしょう。あの夜ね、母さんの病室の前で泣いていた私に、タオルをくれた人がいたの」
総一郎さんの目が、タオルと俺の間を行き来した。
「若い清掃員さんだった。『汚れた場所は、誰かが拭けばまた歩ける。人も同じだ』って言ってくれた。私、この15年、その言葉を杖にして生きてきたの。父さん。その人がね、この人なの」
長い、長い沈黙があった。総一郎さんはテーブルの一点を見つめたまま動かなかった。やがて、その目から涙が1筋落ちた。
「あの冬、私は会社を守ることで頭がいっぱいでした」
絞り出すような声だった。
「妻の病室に通いながら、頭の中は資金繰りのことばかりだった。娘が病院の廊下で1人で泣いていたことも、知らなかった。親として一番そばにいなければならん時に、私はこの子を1人にした。その夜に、この子を支えてくださったのが、あなただったとは」
総一郎さんは椅子から立ち上がり、俺に向かって深く腰を折った。
「ありがとうございました。娘の御恩に、あの親戚たちと同じ目であなたを測ろうとしたことを、心から恥じます」
「頭をあげてください、東山社長。俺はあの夜、ただ床を磨いていただけです」
それに、と俺はしおりさんを見た。
「救われたのは、俺の方です。この人は、俺がどれだけ最悪の条件を並べても、俺という人間だけを見てくれました。おかげで、俺は人を信じることを思い出せました。15年前の貸しがあったとしても、この5ヶ月で、利子をつけて返してもらいました」
しおりさんが泣きながら笑った。会長がわざとらしく大きな咳払いをした。
「で、総一郎。わしはそもそも、この2人の仲人だがな。どうだ? この縁談、進めてよかろうか」
総一郎さんは顔を上げて、俺を見て、しおりさんを見た。そして、初めて深い深い息と一緒に笑った。
「娘がこんな顔で笑うのを見るのは、妻が生きていた頃以来です」
それが答えだった。
10月の初め、揃って休みを取った平日に、俺としおりさんは青葉総合病院を訪ねた。正式に婚約の話を進める前に、2人で行きたい場所があった。行くべき場所は、ここしかなかった。アポイントを取って総務課を訪ねると、話を聞いた職員が「15年前からいる人を呼びますね」と、年配の看護師を連れてきてくれた。その人はしおりさんの顔を見て、目を丸くした。
「あなた、もしかして東山さんとこの、千鶴さんの娘さんじゃない?」
矢部さんと言った。15年前、しおりさんのお母さん千鶴さんの病棟を受け持っていた看護師で、今は看護部長になっていた。しおりさんのことも、毎日面会に通っていた制服姿のことも、よく覚えていた。
「大きくなって。あの頃のあなた、廊下でいつも背筋を伸ばして、泣いた顔なんか1度も見せなかったのよ。偉い子だなって、みんなで言ってたの」
「泣いていたんです。本当は。誰もいない時に、廊下で」
「知ってたわよ」
矢部さんは柔らかく笑った。
「看護師はね、廊下の涙には気づいても、気づかないふりをするのが仕事なの。その代わり、朝一番にあの廊下がピカピカだと、ほっとしたものよ。あの頃のこの病院は、床だけは本当に綺麗だったから」
「床だけはって」
「あら、悪口じゃないのよ。建物は古いし、経営は昔から苦しいし。でもね、あの頃の清掃の人たちは、本当によく働いてくれたの。夜中に廊下がすっと光っているとね。『ああ、今夜もこの病院は大丈夫だ』って。変な話だけど、そう思えたものよ」
俺は黙って頭を下げた。矢部さんは俺が何者か知らない。それでいいと思った。
院内を少し歩かせてもらった。15年ぶりの廊下は、記憶より暗かった。床のワックスは剥げ、隅には黒ずみが溜まっていた。経営が厳しく、清掃の委託費が年々削られているのだと、案内してくれた事務が申し訳なさそうに言った。病棟にはなんとか毎日入ってもらっているが、外来や共用部は週に数回になり、ワックスはもう何年もかけられていないという。
「本当は毎日磨きたいんです。ここは患者さんの多い病院ですから。ですが、医療費を削るか、廊下を磨くかと言われれば、どうしても医療が優先になります。どこの病院も同じ悩みですよ」
責める気にはなれなかった。数字を預かる人間には、数字の苦しさがある。それでも、俺は黒ずんだ廊下の隅から目をそらせなかった。15年前、この廊下は光っていた。俯いて歩く人のために、誰かが毎晩磨いていた。
3階東の廊下の前で、しおりさんが足を止めた。千鶴さんの病室があった場所。しおりさんが座り込んでいた場所。20歳の俺がモップを動かしていた場所。窓から見える中庭の木は、あの頃より一回り大きくなっていた。その壁の掲示板には、面会時間のお知らせに混じって、子供の描いた看護師さんの絵が張ってある。15年分の時間が、この建物の中をゆっくりと流れ続けていた。
しおりさんは長いことそこに立って、それから小さく息を吐いた。
「ここに戻ってくるの、ずっと怖かったんです。でも、今日は大丈夫でした」
「俺がこの廊下を磨いていたのは、15年前です。あれから、今日が初めてです」
「怖かったですか?」
「少し」
「でも、来てよかった」
「母が最後にいた場所に、見せたい人も連れてこられましたし」
しおりさんは目を丸くして、それから耳まで赤くなった。
帰り際、俺は事務に願い出た。この病院の清掃を、うちに任せてもらえないか。予算は今のままでいい。足が出る分は、うちが持つ。事務は困惑して、なぜそこまで、と聞いた。俺は少し迷って、正直に答えた。
「うちの会社の原点が、この病院の廊下にあるからです」
ちょうど契約更新を控えた時期で、今の業者さんも採算が合わずに更新を迷っていたと聞いた。話はその月のうちにまとまった。持ち出しになる分は、新人研修の実地現場として使わせてもらうことにした。関口は「黒字にならない現場ですよ」と文句を言いながら、誰よりも張り切って人員の手配をした。初日の朝礼で、関口は現場の班にこう言ったそうだ。
「ここは社長の学校だった場所だ。手を抜いた奴は、磨き直させる」
その班には、志願して入った谷口の名前もあった。あの夜のモールで、しおりさんに麦茶をもらった縁だと、本人は照れ臭そうに言っていた。
しおりさんも動き出していた。東山正規の経理の仕事を続けながら、病院と掛け合って、小児病棟の隅にある使われていなかった待合室を、付き添いの家族が息をつける部屋に作り替える。そんな計画を立ち上げた。壁を塗り直し、長椅子を入れ、温かい飲み物の出る機械を置く。費用はしおりさんが自分の貯金から出し、掃除はうちの若手が買って出た。
「病室の前の廊下で泣いている子に、今度は私が、座れる場所を作りたいんです」
計画を聞いた矢部さんは、その場で院長会議の予定を確認し、事務は苦い顔で決済の判を探し、結局2人とも一番の味方になった。病院というところには、ああいう大人が必ず何人かいる。制度の隙間を、自分の裁量でこっそり埋めている人たちだ。しおりさんのその言葉を聞いた時、俺は思った。15年前の夜にあの廊下に落ちた小さな種が、こんな風に芽を出すことを、あの頃の俺は知らなかった。母の言葉は、俺が思っていたよりずっと遠くまで転がっていくらしい。
11月。改修の終わった待合室と、磨き上がった病棟を揃って見に行った帰りだった。夕方の3階東の廊下は、西日を受けて端から端まで1本の光の帯になっていた。病院の床だから、艶は抑えてある。それでも磨きが揃っていれば、光は1本の筋になって通る。斑のない証拠だ。うちの班が仕上げた床だった。文句のつけようがなかった。
その光の上を並んで歩きながら、しおりさんがふと立ち止まった。
「真野さん。私、ずっと言いたかったことがあるんです」
「またですか? あなたのそれは、大体俺の急所に当たるんですが」
「はい。狙っていますから」
しおりさんは笑って、それからまっすぐに俺を見た。
「あの日も、今日も。あなたは何も持っていない人なんかじゃありませんでした。人を立ち上がらせる優しさを、ちゃんと持っていました。15年前の私の代わりに、言わせてください。あの夜は、本当にありがとうございました」
しおりさんは深々と頭を下げた。結い上げた髪の端に、西日が差していた。言葉が出てくるまで、少しかかった。俺はポケットの中のタオルを握った。しおりさんがくれた水色のタオルに、俺が赤い糸を縫った1枚だ。今朝、母の仏壇に手を合わせてから持ってきた。
「それなら、次はいつ会えますか?」
しおりさんが顔を上げた。
「あなたが最初にくれた言葉を、そのままお返しします。次も、その次も、そのまた次も。この先ずっと、会う約束を続けてもらえませんか? 俺と、結婚してください」
夕日の廊下で、しおりさんは泣き笑いの顔になった。
「今度は、私から聞くんじゃないんですね」
「返事を聞かせてください」
「はい。はい。喜んで」
俺はポケットからタオルを出して、しおりさんに手渡した。水色の生地に、赤いかがり縫い。
「あなたがくれたタオルに、母の色を縫ってきました」
そう言うと、しおりさんはそれを両手で受け取って、15年前と同じように、溢れた涙を拭いた。15年前、少女が泣いていた廊下で、俺たちは次の約束をした。今度の約束に、期限はなかった。
あれから2年が過ぎた。俺たちは翌年の春に式を挙げた。桜町のグランドホテルの、一番小さな式場だった。呼んだのは、身内と会社の仲間と、世話になった人たちだけ。あの夜の班の島さんも、谷口も、慣れないスーツで来てくれた。谷口は受付で、俺のことを「社長」と呼ぶか「真野さん」と呼ぶかで、最後まで迷っていたらしい。津井会長はもちろん仲人で、スピーチの半分は俺の破談狙いの暴露話だった。
「破談にするために古いスーツで来た男が、今日は一番いいスーツで立っとります」
会場は爆笑で、しおりは笑いすぎて泣いていた。式の最後、しおりは俺の母の墓に花を備えてくれた。ウェディングドレスのまま深々と頭を下げて。あの姿を、俺は一生忘れないと思う。
特等席には総一郎さんがいた。すっかり体調を取り戻し、東山正規の新工場も無事に着工した。義父となった総一郎さんは、月に1度うちに夕飯を食べに来ては、しおりの作る肉じゃがを「千鶴さんの味だ」と言って、嬉しそうに食べて帰る。
関口は相変わらずうちの専務で、相変わらず口が悪い。ただ、式の日だけは別だった。乾杯の音頭に立った関口は、グラスを持ったまましばらく黙って、それから一言だけ言った。
「社長。床は経歴を聞きません。人生も、そうみたいですね」
あの不器用な男が泣くのを、俺はあの日初めて見た。
青葉総合病院の清掃は、今もうちの現場だ。廊下の床は、端から端まで光っている。艶は抑えめに、その分だけ隅を丁寧に。この病院向けの作業基準書には、俺が自分で書いた一文がある。「廊下は、患者と家族の目線で仕上げること」。小児病棟の待合室は「付き添いさんの部屋」と呼ばれて、今日もどこかの家族が温かいお茶を飲んでいる。しおりは月に何度か部屋の様子を見に行って、置いてある絵本を入れ替えたり、壁の飾りを季節のものに変えたりしている。この前は、部屋の隅で眠り込んでいた付き添いのお母さんに毛布をかけて、そっと出てきたと言っていた。
矢部看護部長曰く、あの部屋ができてから、廊下で泣く人が1人減ったそうだ。ゼロにならないのが病院というところだ。だからせめて、泣いた後に座れる椅子と、温かいお茶があればいい。
病院の玄関には、小さな張り紙が1枚だけ増えた。
「床は毎日磨いています。俯いて歩く日は、どうぞ床を見てください」
矢部看護部長の発案だ。あの人は、結局俺の正体もあの夜のことも、全部どこかで聞き出してしまった。看護師というのは、本当に何でも知っている。
そして今年の冬、うちに娘が生まれた。名前は「いく」の。俺の母、いくよから一文字をもらった。しおりが是非そうしたいと言ってくれた。産声の廊下で、生まれたばかりのいくのを初めて抱いた時、俺は柄にもなく手が震えた。隣で総一郎さんが、俺より先に泣いていた。
孫の顔を見せてやれる親が、俺の側には1人もいない。それだけが少し寂しかったが、しおりが言った。
「大丈夫。お母さんはきっと、どこかの床をピカピカにしながら、見てますよ」
あいつは、たまに俺より俺の母のことを分かっているようなことを言う。
いくのを外に連れ出せるようになった最初の週末、俺たち3人は母の墓に行った。よく晴れた冬の日で、墓石は前の週に俺が磨いたばかりだった。墓を磨くのだけは、誰にも任せない。息子の意地というやつだ。
しおりは墓前にしゃがんで、長いこと手を合わせていた。何を話しているのかは、聞かなかった。ただ、立ち上がったしおりは少し泣いていて、それから笑ってこう言った。
「お母さんの言葉に、私、2回救われたんだなと思って。あの夜と、あなたに出会ってからと」
帰り道、ベビーカーを押しながら俺は考えていた。母は何も残さなかった。家も、金も、形のあるものは何ひとつ。ただ、口癖と、タオルの縫い方と、床の磨き方だけを俺に残していった。俺は長い間、それを財産だと思っていなかった。だが、違った。母の言葉は、あの冬の夜、病院の廊下で1人の少女を立ち上がらせた。その少女は15年後、破談狙いの嘘つきを立ち上がらせた。そして今、あの廊下を今日も誰かが、顔も知らない誰かのために磨いている。形のないものだけが、こんなに遠くまで届く。
会社は今も現場が最優先だ。俺は週に何日か作業服を着て、モップを握る。新人の研修では、今も最初に雑巾を縫わせる。古いタオルを半分に折って、端を白い糸でかがる。若い連中は最初、ぽかんとした顔をする。「針なんか持ったことがない」と文句も言う。この春の研修では、指を3回刺した19歳が「なんで買わないんですか」と口を尖らせた。
「捨てる前にもう一働きしてもらうんだ。タオルも人も、2度目の出番があるからな」
19歳はぽかんとしていた。構わない。いつか誰かの現場で、誰かの涙の前で、この1枚の意味が分かる日が来る。ちなみにその研修には、いつの間にか教える側に回った谷口がいて、俺の言い回しを完璧に真似して後輩に説教していた。ああ、やってる。癖は受け継がれていく。
津井会長は今も元気だ。月に1度、うちの夫婦をあの小料理屋に呼びつけては、「わしの目に狂いはなかったろう」と同じ自慢を繰り返す。その度に俺としおりは、聞くのは何度目でも、初めて聞く顔で頷くことにしている。御人の自慢話を聞けるうちは、聞けるだけ聞いておくものだ。
先週は、しおりといくのが青葉総合病院の現場に差し入れを持ってきた。抱っこ紐の中のいくのに、班の連中は仕事を忘れて群がった。しおりは待合室の様子を見て、それから3階東の廊下をゆっくりと往復して、帰っていった。あの廊下は、しおりにとって母親をなくした場所で、人生を拾った場所で、プロポーズをされた場所だ。一本の廊下がそれだけの意味を持つなんて、あの頃の俺たちは思いもしなかった。
夕方の現場で、磨き終えた床に差す光を見る度に、俺は母の声を思い出す。
「どんなに汚れても、吹けば光る。床も人も同じ」
母さん。あなたの息子は、今日も床を磨いています。隣には、あなたの言葉に救われた人がいます。俺の人生は、あなたが思っていたよりずっと明るい方へ転がりました。
玄関のドアを開けると、いくのを抱いたしおりが振り返って笑った。
「お帰りなさい」
「ただいま」
台所には夕飯の匂いがして、床にはいくののおもちゃが転がっていて、俺の帰りを待っている人がいる。破談狙いで座ったあの席から、間もなく3年になる。あの日、断られるために並べた「何もない」は、1つ残らず嘘になった。
ただいまと言える場所がある。それだけで、人生はもう十分に光っている。


