「うちの保護者の付き合いに中卒の人がいるなんて、警察のお世話になったんじゃないの? そうじゃなきゃ高校をやめるなんて正気の沙汰じゃないわ」
幼稚園の保護者会で、課長夫人にそう暴言を浴びせられた。続けて、その夫である課長本人も畳みかける。
「分かってる? 我が社は大卒が集まる会社だよ。チンピラの中卒には用はないんだ。僕が人事課長として責任を持って君を地方へ飛ばす。今週中にでも荷物をまとめておけよ」
意地の悪い課長の笑みに、吐き気が込み上げる。
「何か勘違いをされてませんか?」
止まらない悪口に、俺はゆったりと最高の切り札を切った。
俺の名前は南太。34歳、一児の父。そして、高校中退の経験者だ。近い将来、もし娘が「高校をやめたい」と言い出したら、自分は親としてどう反応すればいいのか。そんな想像をして、小さく震えている。
自分が恐れている事態を選んでおきながら、我が子に同じことをされる恐怖に襲われるとは、勝手なものだと思う。だが、当時の自分の無鉄砲さを振り返ると、それもまたなかなか怖い。
「俺、自分で仕事を作ってみたいんだ。今からでも子供にできるかもしれないことを思いついたんだ。だから頼む。俺を働かせてくれ」
私立の男子高校に通っていた俺は、高校2年の秋に親へ中退を申し入れた。学校の授業をきっかけにひらめいたアイデアを、事業として展開しようと思いついたのだ。子供だからだろうが、とにかく成功するに違いないという自信に心を打ち抜かれていた。
「お前の考えを誰かに話したことはあるのか? 熱意は分かった。だったら、家族以外の、事情を知らない人に冷静に判断してもらえ」
最初に相談した父は、俺を怒るでもなく説得した。それも諦めさせるのではなく、考えさせる方向で。自分のアイデアを第三者にしっかりと見てもらい、足を判断してもらい、共感する人がいるのであれば本当に起業を目指す。父はどこか落ち着いて俺の動きを観察していた。
俺は俺で、自分の夢のためにがむしゃらに走った。企画書やアイデアをまとめたレポートを手に企業家へアポイントを取り、事業に協力してくれそうな会社や人を見つけるべく、セミナーや企業支援のイベントに参加する。父に最終決断を告げる時には、企業に必要な資金や賛同者、協力企業を集め終わっていた。
「とにかく、俺は会社を作っていいと認めてもらえたと思う。甘いところはあるかもしれないけど、勉強してアドバイスを聞きながらやっていくつもりだ」
退学届けに必要だった父の署名をもらうため、俺は企業に向けたプランニングシートも父の前に出していた。
「これでもダメだと言うなら、俺は諦める。でも許してくれるのなら、退学を認めてください」
俺の決意に、父は何も言わずペンを取った。退学届けに署名をして、最後にこう言った。
「引き返すな。お前は自分の夢の他に、人の期待を背負っている。それを忘れるな。何があっても最後まで逃げるな」
こうして俺は、高校卒業を控えた年に学校をやめた。
「学生の、学生による、学生のための塾」。それをコンセプトに、俺は自分の部屋をオフィスとして授業を始めた。高校生や大学生が隙間時間に講師として勉強を教える。長期の事業も可能なら、必要とされている知識だけを短時間ピンポイントで教えてもいい。教える側も、教わる側も、金銭的・時間的負担が少なく済むような仕組みとして考えた。
当時、塾講師をしていた大学生の知人から、業界はバイトでも激務になると聞いていた。本来は自分の勉強を優先したいが、求められると仕事をしないわけにもいかない。そんな身近なところにあるストレスも、俺の事業は解消できる。そんなことを思いながら、俺は自分の会社を社会に送り出した。
それでも、起業から10年までの月日は予測不能の日々が続いた。顧客間のトラブル対応は日常茶飯事で、方々に頭を下げて回る。かと思えば、支援してくれていた企業の倒産もあった。まともに寝た日が記憶にない年も、休みがまるで取れない年もざらにあった。
そんな状態でも駆け抜けられたのは、若さと妻のしおりのおかげだろう。
「私、よくここまで待ったな」
「悪かった。俺の考えでは、もっと早く成功してプロポーズも早い予定だったんだ」
30歳まで2年を切ったところで、俺は高校時代から付き合っていたしおりにプロポーズをした。会社の成功と同じぐらい大事に考えていた結婚は、当初の想定よりも遅れた。しかししおりは俺を待っていて、気持ちよくプロポーズを受けて結婚してくれた。
しおりは結婚と同時に俺の会社に転職し、今では広報・営業企画の柱として活躍している。3年前には娘が生まれ、バリバリ働くママでもある。忙しない毎日を、手を取り合って過ごす。俺も父親として、夫として、何ひとつ怠ることのないように気を引き締めていた。
起業から16年。俺の会社は、中堅の同業他社との合併を控えていた。この合併は、小さなベンチャーだった我々が本格的に教育業界の社会に乗り込むためのターニングポイントになる。自分自身と会社にとって正念場の時、俺は社長として社員を鼓舞して明るく振る舞っていたが、内心には不安と心配が積もっていた。それでも前に進めていたのは、働く仲間の頑張りと、しおりと娘の支えがあったからだ。
「これでやっと、座って仕事する時間も取れるんじゃない?」
合併交渉が締結し、しおりはそんな冗談を言った。会社が大きくなり人員に余裕があれば、俺にも少し暇がつく。
「ちょっとだけでいいから、企業家風でも吹かせてさ、いいスーツでも着るよ」
「高級ブランドはダメ。嫌味になるからね」
しおりと笑い合いながら、明るい未来を想像する。そしてもう一つ、私生活でも変化を迎えた。
「ここなら、俺の実家としおりの実家、どちらにも近いよな」
俺は会社の転機とちょうど重なった娘の幼稚園入園のタイミングで、家を建てることにしたのだ。新興住宅街に、俺としおりの希望を詰め込んだこだわりの家を建てた。一生の贅沢をした気分だ。
「ま、頑張ってローン返そうね」
新居での生活を前に、俺はしおりと握手をした。ここまで来るのに忙しかったと言うしかない。だが、これで最初のピリオドを打てたのではないかと、ほっとしていた。
新居での生活は忙しく始まった。娘の幼稚園入園があり、会社も新体制での稼働への準備が進む。多忙で気の抜けない日々。それでも半年が過ぎた頃、娘の通う幼稚園で保育参観と保護者会の開催が知らされた。
「俺も行こうかな」
「ああ、本当? 保護者会も参加していいみたいだから、よかったら」
「ああ、そうするよ」
俺にとって初めての幼稚園でのイベント。当日、俺は楽しみな気持ちで家を出たが、まさか幼稚園で洗礼が待っているとも思っていなかった。娘の保育参観を無事に済ませて、保護者会に顔を出す。
なんとなく「そうだよな」と感じたのは、母親同士の付き合いが確立していたこと。しおりには数人の顔馴染みの母親たちがいて、俺はその人たちの旦那さんを含めて挨拶をした。
「ああ、それでこちらの田辺さん」
「あ、初めまして。南と申します」
しおりは知り合いの母親の一人を、俺に個別に近い形で引き合わせた。田辺さんと紹介され、俺は名乗って会釈をする。田辺さんはと言うと、俺を見て「どうも」と目を細めた。田辺さんのご主人が、合併する会社にお務めだという。
「じゃあ、これから同僚になるんですね。よろしくお願いします」
俺は笑顔で田辺さんに向き合っていたが、田辺さんの表情はいつまでも柔らかくならない。おかしいな、人見知りでもする人なのか。あれこれ人柄を推測しているうちに、田辺さんに盛大なため息を浴びせられた。
「あの、南さん。今は合併する側の会社の社長さんなんでしょう」
田辺さんは俺の経歴を調べていたのか、資料を読み上げるような口調で俺に問う。
「あなた、昔は学生起業家で注目されたとか」
全身をまじまじと見られ、感じは良くない。それから質問も止まらない。どこに住んでいるのか、家柄はどうなのか。初対面の人間にどうしてそこまで固執するのか、という単純な疑問。そして、この人は自分を嫌っているんだという確信も持つ。
「すみません。あの、お手柔らかに」
機嫌を取るチャンスはないか伺うと、田辺さんは俺にとどめを刺した。
「お手柔らかにって、社交術のつもり? まあ、そんなの半端に身につけて、癪に障ること」
田辺さんははっきりと俺への嫌悪感を口にした。驚いて何も言えず固まった俺に、追い打ちまでかける丁寧さも田辺さんは持ち合わせていた。
「起業して会社の社長かもしれないけど、まともな方なら大学を出て社会人を経験してから考えるんじゃないですか? あの、南さん。しおりさんもね、よくもまあ、中卒のご主人をようようとお披露目して。お里が知れるっていうのかしら」
「田辺さん、すみません」
「何? 何か言いたいことでも?」
「すみません。僕はともかく、妻には」
「あら、そう。じゃあ言うわ。人となり、生まれ育ちが知れているのはどちらなのか」
それを問いただしてみたくもなるが、騒ぎが嫌で、俺は田辺さんに主導権を持たせた。
「保護者の付き合いに、中卒の人がいるだなんて。起業のためとか言うのは嘘で、警察のお世話になったりでもしたんじゃないの? そうじゃなきゃ、高校をやめるなんて正気の沙汰じゃないわ」
田辺さんは最初から俺に小さな怒りを抱いているようだった。もしかしたら、それよりも俺に対して強烈な不満を抱いていただけなのかもしれない。しかし、どちらにせよ田辺さんは、自分の夫と俺が同じ会社で働くことを受け入れられないようだった。
「主人は会社の人事部に勤務しています。人事部長です。私から夫に、あなたを地方へ転勤させるよう言いますわ」
「はあ、そうですか」
「ええ。もしそれが承諾できないようでしたら、荷物もまとめて家を売って引っ越したら? 会社もやめて」
一瞬、田辺さんが会社の社長か大株主なのかと錯覚する。そのぐらい田辺さんは自信満々だった。自分と夫がどれほどの権力を持っていると思っているのか。仮に力がある人でも、いきなり気に食わない相手にここまでしないだろうと呆れる。
「ああ、あの、そうですね。今後について色々と考えて、話し合ってみます」
周囲がざわついたこともあり、俺はしおりの袖を引いた。そしてそのまま愛想笑いを浮かべて、田辺さんからじりじりと離れる。
「何なの、あの人? なんかエキセントリックなタイプなのかな?」
自分たちへの暴言も頭に残っているが、田辺さんの迫力のインパクトの方がはるかに大きい。しおりと言葉を交わし、娘の手を引いて家に帰る。
「あの幼稚園でいいのかな?」
「ああ、まあ、田辺さんだけが要注意なのかもしれないし。まだ分からないか」
娘が通う幼稚園での親同士の付き合いだ。大人の俺たちはともかく、心配なのは幼い娘だ。しおりと今後について話しながら、まずは様子を見ようとなった。入園したばかりだし、トラブルが大きくなるのであれば、取るべき処置を取ってする。
「もしこれで私たち側が過剰に反応したら、田辺さんの狙い通りなんだろうと思うし」
俺は穏やかではなかったが、しおりはしっかりと現実を見て冷静だった。田辺さんの言動を挑発だと捉え、正面から相手にしないと切り捨てた。
「とにかく、私たちはできることをしようね」
「ああ、そうか。そうだね」
しおりに言われ、怒りも静まった。それからしばらく、幼稚園での動きに目を向けつつも、俺としおりは仕事に全力投球した。新会社のフォーマットは固まりつつあり、あとは稼働するだけ。新社名も決まり、俺の心は弾んでいた。
そんな中で、幼稚園の恒例行事であるバザーが開かれた。しおりは係として、俺は当日に交通整理や警備をする父親の一員として運営に参加する。
「あの、南さん。ちょっとこっちにいらして」
田辺さんに朝一で目ざとく見つけられ、構える。見ると、夫と思しき男性も一緒だ。
「南さん、こちら主人の田辺です」
「どうも、田辺誠治です」
「まあ、妻から色々聞いてると思うけど」
田辺さんの夫、誠治さん。合併する会社の田辺人事課長。課長は俺を反吐が出るようなやる気のない表情で眺めると、けだるそうに話を続けた。
「僕もね、色々とあなたのことは調べたんですよ。何考えてるんだか。たまたま会社がうまくいって調子に乗った、かわいそうな若者って感じだね」
「ああ、そうだったのかもしれませんね」
「けど、調子が落ちたから、自分のところよりも上の会社に救ってもらおうと、都合のいいことを思いついたわけだ。やっぱり若造は考えが甘いもんだ」
田辺夫妻は、「夫婦は似た者同士」という話がぴったりはまる夫婦だった。高校中退の俺を見下し、俺のこれまでの人生についても勝手な思い込みで全てを決めつける。田辺課長に至っては、どうして自分が務める優良企業が、俺のようなチンピラが仕切る会社の面倒を見てやらなければいけないのかと嘆く。
「あのね、南君。分かってる? 我が社は大卒が集まる会社だよ。チンピラの中卒には用はない」
「ああ、そうですか」
「そうだ。だから僕が人事課長として責任を持って、君を地方へ飛ばす。覚悟して。妻もいたと思うけど、今週中にでも荷物をまとめたら?」
意地の悪い田辺課長の笑みに、吐き気が込み上げる。嫌な人だというのはもちろん、滑稽だという感覚も混じっていた。自分の気持ちが処理しきれなくなり、気持ち悪かった。
「あの、何か話に齟齬があるようですので、よろしいでしょうか?」
俺は一息飲み込み、田辺課長に忠告した。
「今回の合併、どうやら田辺さんのお勤め先が弊社を吸収すると思われているようで」
「え? そうだろ? そうじゃなきゃ、こんな無理筋」
「いいえ、そこがまず違うんです」
俺はじっくりと、今回の合併の経緯を説明する。まず、合併は田辺課長の務め先である中堅の、書籍の出版と学習事業を展開する会社から持ちかけられていた。業界の古参として長年堅実な経営を続けてきたが、少子化と社会のデジタル化から取り残され、業績を落とすようになっていたのだ。電子書籍販売への対応、ネットを使ったリモート事業環境の整備と人員管理が遅れていた。このままでは出版も学習塾も行き詰まる。その状況で、若い新社長が俺の会社にアドバイスを求めてきたのだ。
最初の話は業務提携や、こちら側からの人員派遣ということで進んだ。しかし相手側が将来を考え、方向に舵を切った。うちと合併し、新会社として生き残りを図る。こちらとしては、学習教材作成のノウハウと質の高い講師陣、国内の歴史ある名門校の蓄積された情報など、およそお金では数えきれないほどの資産を持ち込んでもらえる。
「弊社としては、今回の合併に関して、恩社へは感謝の気持ちを持っております。先ほどは『助ける』『助けない』との発言もありましたが、弊社は合併を手を取り合う機会だと認識しています」
俺には、田辺課長が言う「会社を救う」ような意識はない。あるのは、競争の激しい業界でライバルを減らし、上手に生き残ろうという思いだけ。だから俺は、合併し吸収する会社を見下しもしないし、哀れとも見ていない。切磋琢磨し、認め合うべき存在だ。
「それからもう一つ。新会社の社長は、私です」
俺の説明を軽蔑そうに聞く田辺課長は、俺が新会社でも社長職に就くと聞かされ、鼻を鳴らした。
「あのね、あんた、そこまで嘘並べるの? 現実見たほうがいいんじゃない? ますます手に終えないな」
「田辺課長こそ、もう少し情報を調べてみては?」
「あのね、俺は人事課長なの。人事に関することなら、知らないことはないの。だからあんたの言うことが嘘なの」
「私が社長職を引き続き努めること、それから幹部や従業員の人事に関しては、あなたが知るところではないかと」
新会社の詳細な人事情報はまだ発表されていない。社内で内々に通知はするが、それはこの段階で2週間後の予定だった。
「正式な人事は、これから通知いたします。その前に、田辺課長には聞き取りを受けていただくことになるかと思いますが」
俺は田辺課長にとっておきの切り札を出した。新会社発足に向けての人事監査。吸収する会社と自分の会社側で合わせて、人員にまつわる問題を洗い出す。俺はその機会を設けていた。その過程で、田辺課長の職務怠慢が報告として上げられた。それはちょうど、田辺夫人に詰め寄られた直後だ。
外回りと称して勤務中に競馬場へ行っている。過剰なノルマを設定し、罰金を徴収しようとした。一部の社員へ必要なパワハラを働いている。自分の仕事を部下に押し付ける。横柄で乱暴な田辺課長の振る舞い。当然ながら、社内では相当な問題になっていたようだ。しかし部下たちは、落とされないよう圧力をかけられ、これまで明るみになることはなかった。だが、今回の監査で様々な方面から告発が上がってきた。
「何のことか。言いがかりだ」
課長が苦し紛れに吐き捨てる。
「そうですか。ですが調査は進行しています。証拠も証言も集まっていますので、あとは田辺課長の意見を伺うだけです。ただ、くれぐれも立場を理解なさった方がいい。何かしらの処分は避けられない」
俺はそう、田辺課長と奥さんに告げる。
「嘘だ」
課長はそれだけ言って、ふらふらとどこかへ行く。奥さんはそれを慌てて追いかけていった。この後、田辺夫妻は体調不良を理由にバザーから退出したそうだ。
そして、そんなバザーからしばらくして新会社が発足し、新たな船出となった。俺は社長業を継続しており、しおりも引き続き仕事を続ける。あの田辺人事課長は、降格処分として会社に残してみた。会社としては「鍛え直してみよう」という、いたずらな好奇心もあった。相手のことだ。しかし田辺さんは課長職を剥奪された上に、年下や自分より学歴の低い者に使われるのが許せなかったようだ。いわゆるただのプライドの問題だが、田辺さんは退職届を叩きつけて会社を出ていった。
現在、田辺さんと奥さんは生活に困っているらしい。家は売らずにいるようだが、へそを曲げた田辺さんは仕事探しもせずに引きこもり。代わりにパートに出た奥さんは、地元企業で事務職にありついたらしい。しかし、その上司は中卒で大ベテランのご婦人だ。
「中卒の年寄りにこき使われてありえないって、ママ友に愚痴ってるみたいね」
田辺夫人の近況を、しおりが教えてくれた。奥さんはしぶとく幼稚園のママ友関係にしがみついて、不満を垂れ流しているそうだ。
そんな時間の経過を眺めながら、俺は仕事に真摯に向き合っている。会社が大きくなった分だけ、責任も増えた。しかし、それを成長の材料と、伸び上がるためのバネにしていきたい。会社と家族を守り、自分を認めてくれた社会に恩返しをする。俺にとって大事なことは、そうだと信じている。



