「お姉ちゃんにタクシー券を全部あげた。嫁はダイエットしないと。」
夫の誠一は、親戚の集まりの当日、そう言って平然と笑った。父から渡されたタクシー券の束は、朝起きたら消えていた。代わりに置かれたメモには「運動不足解消に歩いて来い」と書いてある。
私は津田り子。31歳の専業主婦だ。2年前、会社の先輩だった誠一と結婚した。当時、右も左も分からない私を気遣ってくれた彼に、心から感謝していた。内気な私はなかなか気持ちを伝えられずにいたが、忘年会の帰り道、彼の方から「俺のこと好きだったりする? 」と聞いてくれた。「はい。私でよければ喜んで」——そう答えたのが、全ての始まりだった。
結婚が決まり、彼の実家に挨拶に行った時、初めて違和感を抱いた。突然現れた義姉の香りは、私を一瞥するなり「いかにも真面目そうね。私とは気が合わないかも」と言い放ち、笑いながら去っていったのだ。誠一は「お姉ちゃんはサバサバしててかっこいいだろ」と嬉しそうに語るばかりだった。
新婚生活は、香りのアポなし訪問から狂い始めた。「お菓子とかないの? 」とリビングでくつろぎながら言われ、コンビニに走らされた挙句、「ええ、ちょっと安っぽいな」と不満げな顔をされた。そして数時間後、彼女は仕事を辞める予定だと告白した。「評価してくれないからね」——それが理由だという。私が「もう少し考えてからでも」と提案すると、誠一が初めて強い口調で遮った。「り子、お前お姉ちゃんの考えが間違ってるっていうのか。」
香りは退職後、週末ごとに私たちのマンションに入り浸るようになった。「実家だと息が詰まるのよね」と言って、高級な夕食や酒を要求する。金を払う気配はない。「就職したら返すから」と言われて貸した金は、10万を超えていた。誠一に相談すると、彼は信じられない提案をしてきた。「り子、仕事やめてくれない? 」
「お姉ちゃんの相手をするためだけに、仕事をやめるなんておかしいでしょ」と訴えても、彼は聞かない。「家族が困ってるんだぞ」と。結局、退職は避けられたものの、香りの相談役を引き受けることになり、仕事中にも容赦なくメッセージが殺到するようになった。無視すれば「あなたって見かけによらず冷たいのね」と文句を言われる。やがて香りは会社にまで突撃してきて、「お金貸して」と受付から呼び出させる始末だ。同僚の冷たい視線を浴びながら、私は消耗していった。
「私、仕事やめる。専業主婦になるけどいいよね。」
疲れ果てた私の提案に、誠一は目を輝かせた。「ああ、それがいいよ。」
こうして私は退職し、香りの好き放題の日々が本格的に始まった。「今日はフレンチトーストの気分なんだ」「ストレス発散に付き合って」——彼女は朝から晩まで私を顎で使い、食べ物や金を要求し続けた。「仕事をやめたから楽になった」——そんな考えは、無駄だと知らされるだけだった。
金の使い込みが深刻になり、「そろそろ7桁に届きそう」と伝えると、誠一は激怒した。「お姉ちゃんを寄生虫みたいに言うな。」
そしてある日、銀行で残高を確認して、私は目を見開いた。先週より10万近く減っている。問い詰めると、誠一は香りを隣に座らせ、涼しい顔で言った。「銀行の金のことお姉ちゃんに渡したけど問題あるか?

」
「夫婦のお金を勝手に引き出して渡すなんておかしいでしょ」と声を荒らげても、彼は「家族の問題に向き合おうとしないお前が悪い」と言い放つ。香りは「近いうちに仕事決めるからさ」とニヤニヤ笑うばかりだ。
「それが、いつの話ですか? もう1年は経ってますよ。」
私の反論に、2人の顔色が変わった。「は? 何様のつもり? 」「専業主婦のくせに調子に乗るなよ。」
信じられない言葉の雨だった。「仕事をやめたのは、あなたたちがそうしろって言ったからでしょ」と叫んでも、彼らは「強制はしてなかっただろう」「勝手にやめたのはそっち」と、私を被害妄想扱いする。涙がこぼれても、2人は私を無視して楽しげに会話を始めた。
その後、誠一は「お前が反省するまで、夫としての義務を放棄する」と言い放ち、家事も夫婦の会話も一切拒否するようになった。香りは「誠意を見せてくれたら考えてあげる」と、ますます私をこき使う。「正直、私まだあなたを正一の妻とは思いたくないのよね」——彼女の言葉は、私の存在価値を否定するものだった。
心身共に疲弊した私は、久しぶりに実家へ足を運んだ。父は私の痩せた姿を見るなり、「もしかして誠一君とうまくないのか?
」と気づいた。全てを話すと、父は私を抱きしめ、「お前は優しすぎるからな」とだけ言った。そして、「今後はどうする? こっちに戻ってきてもいいんだぞ」と続けた。私は首を振った。「できれば、それは最後の手段にしたいの。2人に負かされたくない。」
父はしばらく考え込み、静かに告げた。「なら、考えがある。手伝わせてくれ。」
それから1ヶ月後、私は誠一に言った。「今度、私の実家で親戚の集まりがあるの。泊まりがけで参加しようと思ってるんだけど、誠一もどう? 」
当初彼は「面倒だな」と渋ったが、私が「タクシーをたくさんもらったから」と父から譲り受けた券の束を見せると、目を輝かせた。「それはありがたいな。」
当日の朝、目覚めると誠一の姿はなかった。引き出しを確認すると、タクシー券は消え、メモが一枚置かれている。「先に家を出た。歩いて来い。」
私は笑みを浮かべた。全て、予想通りだ。私はあえて歩いて実家へ向かった。タクシーを使う手もあったが、あえて歩く——後々、重要な証拠になるからだ。数時間歩いて到着すると、母が「正一君はもう来てるわよ」と教えてくれた。
玄関で出迎えた誠一は、私の姿を見ると周囲に「健康のためのダイエットですよ」と宣った。そこで父が静かに口を開いた。「ほう。どういう意味なの? 」
誠一は悪びれもせず言った。「り子に渡したタクシー券は、お姉ちゃんに全部あげた。嫁はダイエットしないと。」
その場の空気が凍りついた。父は小さく笑みをこぼし、「なるほどな。」とだけ言った。「その言葉、よく覚えておくよ。」
翌朝、私たち夫婦が目覚めたタイミングで、父がドアの外から声をかけた。「おはよう。今日はいい天気だぞ。一緒にウォーキングと行こうじゃないか。」
誠一は不満そうに「何を言ってるんですか」と反論するが、父は淡々と言い放った。「君自身が言ったんだろ。伴侶が太ってたら運動させるべきだと。」
「り子よりも君の方がよほど太ってるよ。」
誠一は青ざめた。「俺は太ってない。」
私は一年前の健康診断の数字を思い出しながら、静かに言った。「去年の検査結果から、10kgは確実に増えてたわよ。」
こうして、私たち3人はウォーキングを開始した。誠一は最初こそ張り切って歩いていたが、30分も経たないうちに息を切らせ始めた。「なんでお前そんなに平然としてるんだ?
」
「あなたとか香りさんの無茶ぶりのおかげじゃない? 」
私は、香りに散々呼び使われて鍛えられた足腰で、涼しい顔をしていた。父は、疲れ果てて立ち止まる誠一に、軽蔑の視線を向けた。「様の娘をあれだけコケにしておいて、その程度でへばるのか。」
誠一が息を切らせながら、「昨日のり子はきっと途中でタクシーかバスに乗ったはずだ」と逆切れしてきた時、私はスマホを取り出した。「マンポケアアプリで証明できるのよ。距離も経路も、動画で撮影もしてたんだから。」
録画された映像を見せると、彼は悔しそうに唇を噛み締め、無言で歩きを再開したが、10分後にはボロボロの状態になった。
人気のない場所で足を止め、私は誠一と向き合った。「信じられないわね。」
父が問い詰める。「姉に言われたから、自分の嫁を脅して従わせるのか。君の愛はどこへ行ったんだ? 」
誠一は気まずそうに言った。「気持ちがなくなったわけじゃなくて、ただお姉ちゃんを受け入れて欲しかっただけなんです。」
私は深く息を吐いた。彼の中で、姉は常に最優先だったのだろう。私への愛情は、その前では簡単に押し流されて消えていった。父が呆れたように言った。「よく見ろ。り子は、どこをどう見ても以前よりずっと痩せてるだろう。」
誠一は、今に至るまで私の変化に気づいていなかったのだ。それほどに、彼は私を見るのを避けていた。
ふと、私は彼が香りに相談を持ちかけるよう頼んだことを思い出し、言った。「なら、ここに呼んでくれる? 色々白黒つけなきゃいけないし。」
誠一は「お姉ちゃんが全部解決してくれる」と息巻きながら、香りを呼び出した。2時間後、香りはタクシーで現れ、開口一番に言い放った。「話は聞かせてもらいましたけど、いい大人がいびりだなんて恥ずかしいと思わないんですか?
」
私は静かに言った。「ちょっと待ってください。いびり云ぬ言うのなら、順番が違うと思います。」
香りは鼻で笑った。「もしかして私たちのあなたへの行為について言ってるの? だったら誤解よ。」
「じゃあ、あれは何なんですか? 」
「もちろん愛情よ。弟の嫁としてふさわしくなるための教育を、いびりだなんて。」
私はスマホを取り出した。「なるほど。じゃあ客観的に見てどうなのか、ここにいる人たちに判断してもらいましょう。」
直後、セットしてあった音声が流れ始めた。「は? 何様のつもり?
」「専業主婦のくせに調子に乗るなよ。」——かつて彼らが私に浴びせた言葉だ。それが、親戚たちの前で、否応なく再生された。2人の顔は、見る見るうちに青ざめていった。「この内容でいびりじゃないと思う人はいますか? 」
場にいた誰一人、手を挙げなかった。それどころか、彼らを睨みつける者ばかりだった。
「ちょっと路行なんて因質な真似はどうなの? こんなの捏造だ。」
香りたちは慌てて言い訳を始めたが、録音を認めるのか否かで意見が食い違い、言葉はますます価値を失っていった。私はさらに、ある物を取り出した。「これはね、家族口座の通帳よ。」
彼らが毎週多くの金を下ろしていた記録が、克明に記載されている。誠一たちは「夫婦のお金を使って犯罪だとでも言うわけ? 」と開き直ったが、私は淡々と告げた。「認めてくれたわね、自分たちの使い込みを。」
「家族口座のお金の大半は、私が働いてた頃のものだし、あなたが入れてた分なんて、香りさんたちの散財でとっくに使い切ってるの。」
「だから私は、あなたたちに対して訴訟を起こそうと思ってる。」
2人は絶句した。「訴訟だって?
」
私は微笑んだ。「判決を左右する証拠なら、私が多く所持しているのは、火を見るよりも明らかでしょ。」
追い詰められた誠一が、震える声で言った。「待ってくれ、り子。俺たちにも悪いところはあったと思う。そこは謝罪するよ。」
香りは不満そうだったが、誠一に「お姉ちゃん、頼むからここは俺に任せてくれ」と制され、渋々納得する。しかし私は、彼の言葉に内心冷めていた。「今後は反省して、心を入れ替えるよ。」——そんな言葉で、すべてが済むと思っているのだろうか。「改めて再構築など、不可能だと認識した上で、私は告げた。「ふうん。私たちがまだ夫婦でいられると思ってるんだ。」
「当たり前だろ。」
「正一は、私に隠してることない? 」
そう問いかけると、彼の表情が強張った。「なんだよ。言ってる意味が分からない。」
この瞬間、彼は自ら関係の修復を放棄したのだ。私は思わず声を上げて笑ってしまった。「話し合いできるわけないでしょ。」
私はバッグから書類の束を取り出し、床に叩きつけた。「部署の新人さんだって、とても仲良くしているよね。」
書類には、彼が若い女性と腕を絡ませ、ラブホテルに出入りする写真が、鮮明に収められていた。誠一の顔は真っ赤に染まった。「どうしていつの間に? 」
「あなた、浮気する人間の典型的な行動してたでしょう。帰りが遅い、家にいない、会話を避ける。」
「だから私、独身時代からの貯金で、調査会社に依頼したのよ。」
彼はただ震えているばかりだ。「私への気持ちがなくなったわけじゃないみたいなこと言ってたけど、じゃあ、これは何なの? 」
周囲の親戚から「何を黙ってるんだ」「誠意を見せろ」という声が上がり、耐えかねた誠一が叫んだ。「あ、愛してるのはり子なんだよ。」
「でも、俺たち夜の営みがあんまりなかっただろう。」
彼の視線は香りに向いていた。「お姉ちゃんの意思が、少なからず関与してたんだ。」
私は冷めた目で言った。「なるほどね。」
「香りさんに言われたんでしょ。」
誠一は「なんで知ってるんだ」と動揺し、あっさり自白した。私はため息をついた。「ただの推測よ。」
「彼女は、あなたが浮気していいって言ったらするんだ。」
さらに、私は香りの過去についても調査済みだった。「香りさんが、以前勤めてた会社の上司と、今も関係を続けてるのよね。」
香りの顔色が一瞬で凍りつく。「就職活動に身が入らないのも当然ね。」
「要は、金持ちの上司と結婚するまでの、つなぎを私たちに求めてたのよ。」
「弟の家に白の矢を立てたけど、問題が一つ——どうにも不快な弟の嫁の存在。」
「あなたは、私たち夫婦の関係を引っかき回し、自分に都合のいいように利用してたのよ。」
香りが「全部ただの妄想よ」と怒鳴るが、周囲の視線は、ますます冷たく鋭くなっていった。
最後に、私は誠一に問いかけた。「どう?
背景が分かった。」
「今、私とか香りさん、どっちが筋が通ってると思う? 」
誠一は言い訳がましい言葉を口にするばかりだった。「俺やお姉ちゃんの気持ちをもっと分かって欲しいというか。」
私はもう十分だと判断し、スマホで連絡を取った。直後、閉じていた隣の扉が開き、そこに義両親が立っていた。誠一と香りの実の両親だ。彼らは「り子さんのお父さんに、お前たちのことを相談されたからな」と、静かに告げた。「私たちは、り子の味方だ。」
義母は泣きそうな顔で私を見つめた。「君には取り返しのつかないことをしてしまった。本当にごめんなさい。」
その後、義父は2人を睨みつけ、「自分たちの行動を客観的に見てみろ」と一喝した。「どう考えても悪人な所業だろうが。」
私は、最後に3枚の書類を取り出した。「離婚届けと、慰謝料請求よ。」
「香りさんのは精神的な苦痛についての分、誠一のはそれに加えて浮気に関するもの。」
「もし従わないのなら、裁判になります。」
「この場にいる全員が、君たちの言動を目撃してるし、証拠もたくさんあるからな。」
香りが両親に助けを求めると、義両親はきっぱりと言い放った。「もしお前たちが同意しないというのなら、親子の縁を切る。」
2人は互いに責任を押し付け合い始めたが、私は誠一に向き直り、差し出された彼の手を容赦なく振り払った。「残念だけど、私はあなたがいなくても生きていけるわ。」
私は、独身時代から使っている口座の通帳を突きつけた。「2000万——これが、私が地道に投資で増やしてきた貯金よ。」
「これは特有財産よ。あなたには渡らない。」
誠一が絶望に染まるのを眺めながら、私はきっぱりと告げた。「これからについては、弁護士に一任するんで。」
「今後、あなたとか香りさんのことは、無視させていただきます。」
義両親の力も借りて、香りたちは外へと引きずり出されていった。「待って、り子さん。許してよ。」
見苦しく泣き叫ぶ2人だったが、最終的にタクシーに押し込まれて去っていった。
完全に彼らの姿が消えた後、見上げた空は雲一つない快晴だった。私の未来を祝福しているようで、爽快な気持ちだった。
その後、離婚は無事成立し、慰謝料請求も通った。義両親が全面的にバックアップしてくれたおかげだ。誠一は浮気が原因で会社を首になった上、浮気相手からも慰謝料を請求され、安アパートで苦しい生活を送っているらしい。香りは上司にあっさり捨てられ、義両親の下で再教育される毎日だそうだ。2人とも、ようやく自分たちの愚かさを知ったことだろう。
私は元の職場に復職し、投資も続けている。今では、心から穏やかな毎日を送っている。あの時、父が「お前は優しすぎるからな」と抱きしめてくれた言葉を、私は今も忘れないだろう。


