退職金の振り込み通知が届いた朝、松原秀夫は鏡の中の自分を見つめた。白髪交じりの髪、細く削れた頬。それでも背筋だけは、一本の棒を飲み込んだようにまっすぐだった。62年間、この姿勢だけは崩さなかった。崩すことが自分には許されないと思っていた。
通知書の数字を三度確認した。間違いない。1500万円。35年間、物流の現場で叩き上げてきた男への、社会からの最後の評価だった。
秀夫はその紙を折りたたみ、背広の内ポケットに丁寧にしまった。妻の千代子にはまだ見せていなかった。見せる前に、自分の中で計画を固めたかった。
2026年6月、東京郊外の住宅地。秀夫は30年間務めた物流会社を定年退職した。会社が用意した小さな送別会は、会議室に折りたたみテーブルを並べただけのものだった。部下たちは笑顔で花束を差し出したが、その目には隠しきれない安堵の色があった。秀夫の部署では、一つの書類に二つの判子が必要で、会議は必ず30分の議事録を作成し、ルールを破った者には例外なく始末書を書かせた。それが秀夫のやり方だった。部下たちは花束を渡しながら、心のどこかで厄介者が去ることを喜んでいた。秀夫にはそれが見えていた。見えていたが、口にしなかった。
帰宅の電車の中で、秀夫は退職金の使い道について考えた。正確には、すでに決めていた。1500万円のうち8割、つまり1200万円を住宅ローンの残債に当てる。30年かけて払い続けてきたあの家のローンを、この機に完全に清算する。それだけだ。それだけで自分は全ての重荷を下ろした自由人になれる。
駅から自宅までの10分間。秀夫は商店街の閉まったシャッターを横目に歩いた。かつてこの道沿いには肉屋も魚屋も文房具屋もあった。今は半分以上が薬局かコンビニに変わっているか、あるいはただ錆びたシャッターが降りたままだ。時代が変わったと人は言う。秀夫にはそれが何を意味するのか、まだよくわからなかった。
家の玄関を開けると、千代子が廊下の雑巾掛けをしていた。ゴム手袋をつけたまま顔を上げ、「お疲れ様でした」と言った。声に感情はなかった。秀夫が帰宅するたびにこの挨拶を35年間繰り返してきた女の声は、もうどんな温度も持っていなかった。
秀夫はネクタイを緩めながらダイニングに腰を下ろした。千代子が麦茶を持ってきた。秀夫はコップを受け取りながら「今日から心配いらないぞ」と言った。千代子は黙って隣の椅子に座った。
秀夫は退職金の通知書をテーブルに広げた。千代子の目がゆっくりと数字の上を動いた。秀夫は続けた。「1200万円を住宅ローンに当てる。残りは300万円台に残るが、それで2人分の年金が出るまでの生活費は十分だ。これで俺たちはやっと自分の家を完全に手に入れた。30年分のしがらみが全部消える」
千代子はテーブルに視線を落としたまま、少しの間何も言わなかった。台所の方から鍋の蓋が小さく振動する音がした。がけっぱなしにしていたのかもしれない。しかし彼女はそちらに立つ様子を見せなかった。
「もし急に何か必要になったら、その時はどうするんですか?」千代子は言った。声は低く抑えられていた。秀夫はすぐに答えた。「年金が月27万入る。2人で暮らすのに足りないはずがない」
千代子は顔を上げた。「私の収入はもうないんですよ」と言った。「それも分かった上での計算だ」と秀夫は遮った。千代子の右手がテーブルの上に置かれていた。指先が少しだけ折れ曲がっていた。秀夫はそれに気づかなかった。あるいは気づいていたが、意味を読み取らなかった。彼女がそうやって拳を握りかけるのは、言いたいことを飲み込んでいる時だということを、35年間連れ添っておきながら彼は知らなかった。
翌日の朝、秀夫は銀行の窓口に並んだ。平日の午前中、高齢者と主婦が列を作っていた。秀夫はその中に自分が混じっていることにわずかな居心地の悪さを感じた。つい昨日まで自分はトラック10台を管理する部門の長だった。それが今日は番号札を持って長椅子に座っている。しかし、番号が呼ばれ窓口で手続きを進めるうちに、秀夫の中に充足感に似たものが生まれてきた。30年分の負債が消える。30年間毎月引き落とされ続けた数字が今日で終わる。担当者が処理の完了を告げた時、秀夫は思わず一つ頷いた。「ありがとう」と言った。自分でも珍しいと思った。
家に戻ると、千代子は洗濯物を畳んでいた。「終わったぞ」と秀夫は言った。千代子は手を止めずに「そうですか」とだけ答えた。秀夫は台所に水を飲みに行き、窓の外の庭を見た。雑草が伸びていた。そういえば庭の手入れをいつからしていなかっただろうと思ったが、それ以上考えることもなく、居間の椅子に座ってテレビをつけた。
退職から2週間後。最初の2週間は秀夫にとって奇妙な時間だった。朝6時に目が覚めるが、行くべき場所がない。着替えて食卓に座り、千代子が作った朝食を食べ、新聞を読む。それが終わるとすることがない。秀夫はその空白を家事の監督で埋めようとした。千代子が買い物から帰るとレシートを受け取って品目を確認した。「なぜこの醤油なんだ。いつもより20円も30円も高い」と秀夫は言った。千代子は無言でエプロンをつけた。部門内の帳簿を査定するように、秀夫はレシートの隅まで目を走らせた。「このネギ、もう少し安い店があるだろう」と彼は言った。千代子は台所の奥に引っ込んだ。
昼食の時間になると、千代子は秀夫が嫌いなことを知っているはずの、独特の匂いのある納豆のおひたしを出した。秀夫は黙って箸をつけた。言えば言い訳が始まる。黙って食べればこの緊張した食卓が少しでも早く終わる。そう計算してのことだったが、千代子は対面の席で自分の箸だけを動かし、秀夫の様子など見ていないように振る舞った。食後、秀夫が新聞を読んでいると千代子が掃除機をかけ始めた。秀夫の椅子のすぐ横、わざとらしいほど念入りに。掃除機のモーター音の中で、秀夫は記事の一行を何度も読み直した。内容が頭に入らなかった。
ある日、秀夫は引き出しの奥から古い名刺を取り出した。部下の名刺、取引先の名刺、業界の知人の名刺。数えると30枚以上あった。彼は1枚1枚を確認しながら、誰に連絡できるだろうかと考えた。
翌日の昼前、秀夫は部下だった男に電話をかけた。山下という、今は係長になっているはずの男だ。3年前まで秀夫の直属にいた。「秀夫さん、お久しぶりです」という声は明るかった。「今日の午後にでも一杯どうだ」と秀夫は言った。電話の向こうで一瞬の間があった。「ああ、今日は…」山下の声がわずかに詰まった。「今日はちょっとお客さんの対応が」と言いかけて、「また今度」と続けた。その「また今度」という言葉が秀夫の胸のどこかに引っかかった。2人目にかけた男は出なかった。3人目は「会議中だ」と言った女性社員が代わりに出て、「後で掛け直します」と言ったが、その日の夜までかかってこなかった。秀夫は4人目、5人目と続けた。誰も捕まらなかった。
その夜、秀夫はスマートフォンの画面を開いた。以前まで自分も入っていたはずの部署の連絡用グループチャットを探した。どこにも見当たらなかった。退職と同時に削除されていた。当たり前のことだ。しかし、その当たり前が秀夫には腑に落ちなかった。部署の連絡事項は今も動いているはずで、そこから自分だけが切り取られてしまったという事実が、画面の明かりの中でじわじわと輪郭を持ち始めた。
翌週の火曜日、秀夫は公共職業安定所に併設された中高年再就職センターに出向いた。ズボンにアイロンをかけ、現役時代に使っていた古い革靴を磨き、過去の業務実績をA4用紙3枚にまとめた資料を自作した。自分の経歴は評価されるはずだと秀夫は思っていた。物流部門の管理職として20台以上のトラックルートを最適化し、コスト削減にも貢献した。数字で示せる実績がある。
窓口に案内されたのは40代前半と思われる男性の担当者だった。紙を短く切り込んだ無表情な男だ。秀夫は資料を差し出した。担当者はパラパラと1度だけページをめくり、次の瞬間には静かにテーブルに置いた。「2026年ですからね」と担当者は言った。「物流の管理職のポジションは、今ほとんどAIの自動化システムが入っています。62歳で経験年数がいくら長くても、システムを扱えない方の採用は厳しい。実際に動いている求人票をお見せしましょうか」
担当者がモニターを向けると、そこに並んでいたのは「倉庫内軽作業」「夜間警備員」「清掃スタッフ」という文字だった。時給は1100円から1200円の範囲。秀夫は画面を見た。声が出なかった。「管理職としての経験は、こういった現場作業の求人では評価されにくいんです」と担当者は言った。「むしろ、体力として動ける体力と、指示に従える柔軟性が求められます。管理職が長い方は、かえって現場に馴染みにくいと採用担当に見られることもあって」
秀夫の中で何かが急速に満ち始めた。「指示に従える柔軟性」。その言葉が秀夫の中でゆっくりと繰り返された。35年間、自分が指示を出す側だった。ルールを作り、基準を設け、部下を評価し続けてきた。その蓄積が全て「指示に従えない厄介な経歴」として、今この瞬間に変換されようとしていた。
秀夫は椅子から立ち上がった。担当者が顔を上げた。「失礼します」と秀夫は言った。声が震えていたかもしれない。資料を手に取り直すこともなく、そのまま掴んでセンターの出口まで歩いた。引き戸を開けて外に出た瞬間、6月の蒸し暑い空気が顔に当たった。秀夫は駅前の公園のベンチに腰を下ろした。時刻は昼過ぎで、子供の声も遠く、ベンチに人の姿はなかった。持ってきたA4用紙3枚の資料が手の中で少しだけよれていた。秀夫はそれを膝の上に置いて、動けなかった。太陽がベンチの正面から照り付けていた。日陰を探す気にもなれなかった。秀夫はただそこに座って目の前の砂場を見ていた。砂場には誰もいなかった。錆びたスコップが1本、土の中に刺さったまま放置されていた。
どれくらいそうしていたか分からない。唇の内側が乾いてきた頃、秀夫は立ち上がった。資料を鞄の中に押し込み、駅の方へ歩き始めた。途中、コンビニの自動ドアの前を通りすぎた時、ガラスに自分の姿が映った。背筋は相変わらずまっすぐだった。しかし、その真っすぐな姿勢の中に、何か支えるものがなくなったような空洞だけが残っているように見えた。秀夫はすぐに目をそらした。
家に帰ると千代子はいなかった。テーブルの上に「今日は区民センターへ行きます」と書いた短いメモが残されていた。秀夫は冷蔵庫を開け、麦茶のボトルを取り出して直接口をつけて飲んだ。いつもなら千代子が禁じていることだった。今日は誰もいない。その夜、秀夫は1人でビールを飲んだ。千代子が帰ってきた時も、秀夫は居間でテレビを見ていた。再就職センターの話はしなかった。千代子も聞かなかった。食事の間、2人は天気の話を少しして、それきりだった。
退職から3週間目の金曜日の夜、秀夫は1人でスーパーの帰り道を歩いていた。千代子から頼まれた豆腐と大根をレジ袋に下げていた。いつもと違う道を通った。最近は少し変化をつけないと、1日の中に何の区切りも生まれない気がした。路地を曲がったところに薄暗い居酒屋があった。引き戸の前に「今日の日替わり定食」という手書きの張り紙がしてあった。秀夫が引き戸に手をかけた時、中から人の声が聞こえてきた。よく知っている声だった。引き戸を引いた。4つほどあるカウンター席の端に、小柄な男が1人でグラスを傾けていた。山崎部長。いや、もう部長ではない。秀夫がこの会社に入った頃、まだ係長だった男。その後部長まで登り詰めたが、秀夫より2年早く58歳で早期退職した男だ。名前は山崎茂。今年で65歳になるはずだった。秀夫が知っている山崎は、いつも紺のスーツを着て、定例会議では決して声を荒げずに発言した。声の通る、威圧感のある男だった。しかし、カウンターにいる男の背中は丸まっていた。シャツは洗いが甘いのか、首元が黄ばんでいた。グラスには安い焼酎が入っていた。
秀夫が隣の席に腰を下ろすと、男は顔を上げた。目があった瞬間、山崎の顔が1度だけ緊張し、すぐに力が抜けた。「秀夫か」と山崎は言った。声は枯れていた。秀夫はビール1杯だけ頼みながら、「久しぶりですね」と言った。山崎はグラスを見つめたまま「ああ」と答えた。2人はしばらく黙って飲んだ。テレビが野球の中継を流していた。秀夫はビールを半分飲んで、それから山崎に聞いた。「今は何をされているんですか?」山崎は少し間を置いた。「何もしてないよ」と山崎は言った。声に何の感情もなかった。秀夫はその言葉の意味がすぐには飲み込めなかった。何もしていないというのは、どういう状態か。
山崎は焼酎を一口飲んでから話し始めた。「退職した年に、退職金で残ってたローンを全部片付けた。気分良かったよ。これで自由だって思った。それからハローワーク行って再就職の相談したら、警備員か清掃か倉庫作業しかないって言われた。最初はプライドがあって断ったよ。俺が警備員なんて、って。でも半年後に貯金が尽きてきて、しぶしぶ警備員やってみたら、現場のリーダーが20代のやつで、ずっと指示されたんだよ。書類の置き方から休憩の取り方まで。そいつが俺に向かって『正しい仕事のやり方も知らないんですか』って言った時、俺は立ち上がって帰った。それきりだ」
山崎はグラスを置いた。「女房は去年、離婚届けを持ってきた。子供は2人とも出て行っていた。家は売って、今は月4万の部屋に住んでいる。年金はまだ先だ。毎月の生活費が心細い。友人に連絡しても誰も来ない。誰かに会いたくなったら、こういう安い居酒屋に来て1人で飲む」
秀夫はビールのグラスを両手で包んだ。グラスはすでにぬるくなっていた。山崎が話している内容が、自分の未来を映した鏡のように秀夫の目の前に並んでいた。退職金でローンを片付けた。現金が尽きた。再就職はうまくいかなかった。プライドが邪魔をした。妻が去った。友人は誰も来ない。秀夫は山崎の横顔を見た。65歳の元部長の男が、安い居酒屋のカウンターで1人で焼酎を飲んでいた。その背中の丸さが秀夫には直視できなかった。秀夫は財布を取り出し、ビール代をカウンターに置いて立ち上がった。「お先に失礼します」と言った。山崎はテレビを見たまま「ああ」とだけ言った。引き戸を開けて外に出た。夜の路地は蒸し暑かった。秀夫は足を止めた。ビニール袋の中で豆腐と大根が小さく揺れていた。
家まで歩く間、秀夫は何も考えないようにした。しかし、頭の中には山崎の声が繰り返されていた。「貯金が尽きた。現金がなくなった」。秀夫は手元の残金を頭の中で計算した。退職金から1200万円を使った後、残っているのは300万円だ。月17万円の年金が出るまで2年以上かかる。300万円を2年以上で割ると、月12万円ちょっとにしかならない。秀夫は千代子が言った言葉を思い出した。「もし急に何か必要になったら、その時はどうするんですか?」その時は大丈夫だと秀夫は答えた。年金があると言った。年金が出るまでの2年間は月12万円で生活しなければならない。それは知っていた。しかし、今日センターで見た求人票の時給が頭の中に重なった。1200円。秀夫が新卒で入った頃のアルバイトの時給より、35年経っても大して変わらない金額。そこに自分が並ぶとしたら、何が残るのか。
玄関のドアを開けると、廊下の電気がついていた。千代子が戻っていた。秀夫はレジ袋を台所に置き、手を洗った。「帰りが遅かったね」と言った。声はいつもと同じ温度だった。秀夫は居間の椅子に座り、引き出しを開けた。通帳がそこにある。残高は分かっている。しかし、秀夫は通帳を手に取り、最後のページを開いた。数字を見た。300万円に満たない数字。その下に、さらに引き落としの予定が並んでいた。固定資産税の残り、国民健康保険料、水道・光熱費の口座引き落とし。秀夫は通帳をゆっくりと閉じた。手の中に薄い冊子の重さだけが残った。35年間積み上げてきたものが、今この手の中にあるものの重さしかない。そのことが秀夫には言葉にならなかった。言葉にしてしまったら、何かが取り返しのつかない形で崩れる気がした。
台所から千代子が夕食の準備をする音が聞こえてきた。包丁がまな板を叩く音。鍋に水が入る音。いつもの音だった。35年間、ずっとそこにあった音だった。秀夫は目を閉じた。背筋だけはまっすぐに伸ばしたまま。
7月の初め、松原秀夫は朝5時50分に目を覚ました。会社勤めをしていた頃から変わらない時間だった。しかし、起き上がって洗面台の前に立ち、歯ブラシを手に取ったところで、今日も行くべき場所がないことに気づく。その気づきが訪れるたびに、腹の底に何か重いものが沈むような感覚があった。秀夫はそれを意識しないよう、いつもより丁寧に歯を磨いた。着替えは欠かさなかった。白いシャツの襟を立て、アイロンで折り目をつけたスラックスを履いた。たとえ行き先がなくても、部屋着で1日過ごすことだけは自分に許さなかった。それが最後に残った習慣だった。
朝食のテーブルには、千代子が作った味噌汁と白飯が並んでいた。ほうれん草のおひたし、焼き鮭の半切れ、漬け物が3切れ。秀夫は椅子を引いて座り、「いただきます」と言った。千代子は流し台に向かったまま「うん」とだけ返した。背中が秀夫に向いていた。食事を終えると秀夫は食器を重ねたが、千代子は台所に来て、いつもの動作で片付け始めた。秀夫は新聞を広げた。しかし、紙面の活字が頭に入ってこない。目は字を追っているが、意味が染み込んでこない。秀夫は三度同じ段落を読んで諦めて、ページをめくった。
9時頃、千代子が「スーパーへ行く」と言った。秀夫は新聞から顔を上げた。「何を買うんだ」と秀夫は聞いた。「今夜の材料と、洗剤が切れているから」と千代子は答えた。秀夫は立ち上がり、「一緒に行く」と言った。千代子は一瞬だけ動きを止め、すぐにバッグを肩にかけた。「どうぞ」といった声には、拒む気力もないような響きがあった。
スーパーの中で、秀夫は千代子の隣についてカートを押した。野菜売り場、肉売り場、調味料の棚。千代子が商品を手に取るたびに、秀夫は値札を確認した。「その豆腐より、隣のやつの方が20円安い」と秀夫は言った。千代子はしばらく商品を見比べて、「これは豆の種類が違う」と言った。「それがいくらの違いを生むんだ」と秀夫は言った。千代子は返事をせず、当初の豆腐をカートに入れた。醤油の棚の前で、秀夫はまた口を開いた。「これ、先月も同じやつを買っていたな。プライベートブランドの方が120円安い」千代子はラベルを読んでいた。「こちらの方が原材料の質がいい」と千代子は言った。「120円の差で原材料の質を語るのか」と秀夫は言った。声が少し大きくなっていた。隣の棚で商品を見ていた年配の女性がちらりとこちらを見た。千代子は何も言わず、自分の選んだ商品をカートに入れた。秀夫の胸の中に何か詰まったものがあったが、人目があったので引き下がった。
レジで会計を終えると、千代子はレシートを受け取りバッグの内ポケットに入れた。秀夫が手を出した。「見せろ」と秀夫は言った。千代子はレシートを渡した。秀夫は歩きながら数字を確認した。合計4230円。秀夫は内訳を指で辿った。さっきの醤油が380円。プライベートブランドは260円だった。豆腐は180円。隣は160円だった。帰り道、秀夫は黙って歩いた。千代子も黙って歩いた。2人の間に会話はなかった。信号待ちで並んだ時、秀夫は言った。「1ヶ月で換算すると、今だけで300円近く余計に使っていることになる」千代子は信号機を見ながら「300円」と繰り返した。その声に温度がなかった。秀夫はそれ以上何も言わなかった。
午後、秀夫が居間で新聞の残りを読んでいると、千代子が掃除機をかけ始めた。居間のカーペットから始まり、廊下、台所。秀夫が座っている椅子の足元まで来た時、秀夫は足を持ち上げた。千代子は秀夫の椅子の下を念入りにかけた。モーターの音が耳に刺さった。秀夫は新聞を顔の高さまで上げて、紙で顔を隠した。掃除機が止まった。千代子が延長コードを巻き取る音がした。その後、雑巾を絞る音が台所から聞こえてきた。床を拭き始めた。秀夫の椅子の足元まで来た時、また秀夫は足を上げた。千代子は床を拭いた。何も言わなかった。秀夫も何も言わなかった。しかし、この無言のやり取りが秀夫には奇妙な消耗を与えた。責められているわけではない。しかし、責められているより応えた。
夕食は煮物だった。大根と厚揚げの煮物。秀夫の好物ではなかったが、文句を言う気力がなかった。千代子は秀夫の向かいに座り、2人でテレビを見ながら食べた。テレビでは高齢者向けの健康番組が流れていた。秀夫はその画面をぼんやり眺めながら、自分が今そのターゲット層に完全に収まっていることを意識した。不快だったが、どうしようもなかった。
6月、秀夫は食器を流しまで運んだ。千代子が洗い始めた。秀夫は台所の入り口に立ったまま、何か言いたい気持ちと何も言えない気持ちが混在している感覚を持て余していた。結局何も言わずに居間に戻り、ソファに座って目を閉じた。
7月の半ば、秀夫は名刺の束を引き出しから取り出してテーブルの上に並べた。退職前に交換した取引先の名刺、同業他社の管理職、社内の別部署の人間。20枚以上あった。秀夫はそれを1枚1枚確認して、電話をかけられそうな相手を選んだ。最初に選んだのは、同じ物流会社の別部署でかつて秀夫と同じ役職についていた中村という男だった。秀夫より3歳年下で、よく業界の勉強会で顔を合わせた。退職の挨拶をした時、また連絡しましょうと言っていた。秀夫はその言葉を社交辞令ではなく本気だと受け取っていた。
電話は3回コールして出た。「中村さんですか?松原です」と秀夫は言った。「ああ、松原さん。しばらくですね」と中村は言った。声は明るかった。「お元気ですか」と秀夫は聞いた。「まあまあです」という答えが返ってきた。秀夫はしばらく近況を話した後、「今度お昼でもどうですか」と誘った。電話の向こうで少しの間があった。「来月はちょっと予定が立て込んでいて」と中村は言った。「では、再来月はどうだ」と秀夫が続けると、「その頃になればまた落ち着いているかもしれません」と曖昧な答えが返ってきた。具体的な日は決まらなかった。
次にかけたのはかつての部下の田中だった。3年前まで秀夫の直属にいた男で、今は別の部署で主任になっているはずだった。田中は電話に出るまで時間がかかった。出た瞬間、背後に会社の雑音が聞こえた。「松原さん」と田中は言った。「お久しぶりです」という言葉の後に、「今ちょっと移動中で」と続いた。要件は手短に、という雰囲気が声に滲んでいた。秀夫は今度、飯でもどうかと誘った。田中は「そうですね。是非」と言った。しかし、その次の言葉は「また連絡しますね」だった。3人目は出なかった。4人目は会議中だと別の社員が代わりに出た。5人目は、折り返しの電話が結局来なかった。秀夫は受話器を持ったまま、しばらくテーブルを見ていた。この電話が来ることを5人目は忘れたのか、あるいは忘れたふりをしているのか。どちらにせよ、電話は来なかった。
夕方、秀夫はスマートフォンを開いた。かつて会社の部署内で使っていたグループチャットを探したが、やはりなかった。退職と同時に外されていた。秀夫は別のアプリを開いた。業界の知人が数人いる緩やかな繋がりのグループがあったはずだが、そちらも最後の既読が3ヶ月前で止まっていた。秀夫はそのグループのメンバーリストを開いた。自分の名前はあった。ただいるだけで、誰も話しかけてこない。秀夫はアプリを閉じた。
翌日の昼過ぎ、秀夫は近所の公園に出かけた。昼を過ぎた公園には、幼い子供を連れた母親が2人と、犬を散歩させている老人が1人いた。秀夫はベンチに座り、しばらく噴水の水を眺めた。噴水の音だけが続いた。秀夫の隣のベンチに老人が犬を連れて腰を下ろした。老人は秀夫に向かって頷いた。秀夫も頷き返した。それだけで2人は別々に空を見た。秀夫は手元に何も持っていなかった。スマートフォンも持ってこなかった。新聞も本もない。ただベンチに座って、木漏れ日が時間ごとに角度を変えていくのを感じていた。かつて自分は1日に何百件もの判断をしていた。書類の決済、ルートの変更、クレームへの対応、部下の評価。それが今、こうして公園のベンチで空を見ている。秀夫はその落差を頭の中でうまく処理できなかった。怒りとも悲しみとも違う、名前のつかない感触だった。
帰り道、秀夫はコンビニによった。特に欲しいものがあったわけではなかったが、時間を潰したかった。雑誌コーナーを眺め、おにぎりを1つ取って戻し、ペットボトルのお茶を1本買った。レジの店員が「ポイントカードはお持ちですか」と聞いた。秀夫は首を振った。店員はレシートを差し出して「ありがとうございました」と言った。その軽い業務が、秀夫がその日に人と交わした最後の会話だった。
7月の終わり、午後2時頃、玄関のインターホンが鳴った。千代子が出ると、「尚弥だ」という声が聞こえてきた。秀夫は居間から立ち上がった。松原尚弥は35歳になっていた。秀夫と千代子の1人息子で、大学卒業後に就職した会社を3年で辞め、それからいくつかの仕事を経て、今は物流関連のスタートアップに務めていると言っていた。半年ほど前に顔を見せて以来の帰宅だった。尚弥は玄関に入ってきた時、隣にもう1人男を連れていた。秀夫は廊下に出てその男を見た。40代後半と思われる体格のいい男だった。グレーのストライプのスーツを着ていた。生地は光沢があり、ネクタイとポケットチーフが同系色で揃えてあった。秀夫が現役の頃に何百人も見てきた、見栄えで勝負している営業マンの外見だった。
「父さん、久しぶり」と尚弥は言った。秀夫は廊下に立ったまま「久しぶりだな」と返した。尚弥の顔色は悪くなかったが、どこか落ち着かない様子があった。目線が秀夫と男の間を行き来した。「こちら、黒田さん。俺がお世話になっているコンサルタントの方で、父さんに是非ご挨拶をと思って」と尚弥は言った。黒田洋介と名乗ったその男は、名刺を両手で差し出した。秀夫は受け取り名刺を確認した。「物流チェーン投資顧問 黒田洋介」。秀夫は名刺を胸のポケットに入れ、「どうぞ」と居間に案内した。千代子がお茶を持ってきた。4人でテーブルを囲んだ。秀夫は尚弥の隣に座り、黒田は向かいに座った。
黒田はお茶を一口飲み、「松原部長のご活躍は尚弥君からよく伺っておりました」と言った。秀夫は眉を動かした。「部長ではなく、次部長でしたが」と秀夫は訂正した。黒田はすぐに「失礼いたしました。次部長でいらっしゃいましたか。物流管理の分野でその立場にお登りになるとは、並大抵の努力ではないはずです」と言った。秀夫の中で何かがわずかに緩んだ。黒田は話を続けた。最近の物流業界の変化について、自動化の波が現場管理職の経験をいかに置き去りにしているか。その話をした。秀夫は黙って頷いた。黒田は言った。「しかし、逆に言えば、現場を知り抜いている方の視点こそが、今のシステム化された業界では希少価値を持っている。若い連中はデータしか見ない。実際の動きのリズムや、現場の人間関係から生まれるトラブルの種を、体感として知っている人間が本当に少ない」
秀夫は黒田の言葉を聞きながら、再就職センターで担当者に言われた言葉を思い出していた。「現場作業の求人では管理職は評価されにくい。指示に従える柔軟性が必要だ」。あの言葉と黒田が言っている言葉はまるで逆だった。黒田の言葉の方が秀夫には正しく聞こえた。尚弥が口を開いた。「父さん、黒田さんが紹介してくれた事業案件があるんだけど、俺も一緒に参加しようと思ってて。父さんの経験が生きる分野だから、一緒にどうかと思って今日来たんだ」秀夫は尚弥を見た。尚弥は秀夫の目を正面から見ていた。真剣な顔だった。黒田がテーブルに資料を広げた。A4サイズの数枚のカラー印刷された紙だった。表紙には「物流中継ハブ投資プロジェクト 第3期募集」と書いてあった。黒田は資料を指でなぞりながら説明し始めた。埼玉県内に中規模の物流倉庫を複数借り上げ、中継拠点として企業に貸し出すビジネスモデルだという。出資者には毎月利益配当が入る仕組みで、想定利回りは月15%。
秀夫は資料の数字を見た。月15%。秀夫は物流業界に35年いた。月15%の利回りが何を意味するか分からないはずがなかった。しかし、黒田が次に言った言葉が秀夫の中で引っかかりを薄めた。「松原次部長のような経験をお持ちの方に、顧問的な立場でご参加いただければ、実際の倉庫運用についてのご意見を伺えます。それ自体に価値がある。金銭的な投資だけでなく、人的な関与という意味でもご参加を歓迎します」黒田は言った。顧問。秀夫の中でその言葉が旗を立てた。再就職センターで清掃スタッフの求人表を差し出されてから数週間、誰も秀夫に「顧問」という立場を提案しなかった。会社の同僚たちは電話に出なかった。部下たちはグループチャットから秀夫を消した。しかし、この男は秀夫の経験に価値があると言っている。
秀夫は腕を組んで黒田を見た。「出資額の規模は」と秀夫は聞いた。黒田は少し前傾姿勢になった。「第3期の募集ですので、最低出資額は300万円からとなっています。上限はありませんが、多くの参加者様は300万から500万でスタートされています」と黒田は言った。秀夫は資料を見た。300万円。今の手元資金のほぼ全てだった。
その日の夕方、黒田と尚弥は帰った。秀夫は玄関で2人を見送り、引き戸を閉めた。居間に戻ると、千代子がお茶の残りを片付けていた。秀夫は椅子に座り、もらってきた資料をテーブルに置いた。千代子がそれを横目で見た。「尚弥が連れてきた男の話だ」と秀夫は言った。千代子はテーブルを拭きながら「どんな話ですか」と聞いた。秀夫は資料の概要を話した。「物流倉庫への出資。利回りは月15%」。千代子の手が1度止まった。「月15%」千代子は繰り返した。秀夫は「最初はそう聞こえるが、業界の知識がある人間が関与することで実現できるモデルだと、黒田さんが説明していた」と言った。千代子はまた動き始め、「そうですか」とだけ言った。
その夜、秀夫は布団の中で目を閉じたまま考えた。300万円を投じれば、月に45万円の収入になる計算だった。年金の2倍以上だ。それが本当なら、千代子に頭を下げながら買い物をする必要もなくなる。再就職センターで清掃の求人表を見せられる屈辱も終わる。顧問という立場で、自分の経験が再び意味を持つ。一方で、秀夫の頭の中に別の声があった。物流業界に35年いた自分が、月15%の利回りをどう評価すべきか知らないわけがない。正規の事業でそれが実現できるなら、なぜ銀行や証券会社を通さずに個人投資家を募るのか。なぜ尚弥が連れてきた見知らぬ男が自分に話を持ってくるのか。考えれば考えるほど、その疑念は別の考えに押されていった。もしかしたら自分は物流のことを知っているから、かえって慎重になりすぎているのかもしれない。業界の常識を超えたモデルが存在しないとは言えない。尚弥は息子だ。息子が悪い話を持ってくるわけがない。それに黒田は秀夫の経験に価値があると言った。その言葉だけは疑う理由がなかった。
翌週の月曜日、秀夫は尚弥に電話をかけた。「もう1度、黒田さんに会えるか」と秀夫は言った。尚弥はすぐに「ああ、調整するよ」と答えた。その声の中に、何か急いでいるような、しかし隠そうとしている色があった。秀夫はそれを感じたが、意味として受け取らなかった。
翌日の水曜日、秀夫は1人で、尚弥に教えてもらった住所へ向かった。最寄り駅から徒歩5分。古びたオフィスビルのエレベーターを降りると、小さな受付があり、内側に打ち合わせのテーブルが2つ置かれていた。壁には物流拠点の写真が何枚か貼ってあった。倉庫の外観と、フォークリフトが並んでいる内部の写真。秀夫はそれを眺めた。写真の中の倉庫は、秀夫が30年以上関わってきた現場と似ていた。黒田が奥から出てきた。「今日は尚弥君は来ない」と黒田は最初に言った。秀夫は頷いた。黒田は椅子を進め、前回の続きとして、より具体的な資料を広げ始めた。埼玉県北部の物件リスト、月の収支モデル、過去の出資者の声として簡単なコメントが印刷された紙。秀夫は1枚1枚を見た。数字は細かく精緻としていた。黒田はプロジェクターを使わず、全て紙の資料で説明した。秀夫はそれを好ましく思った。プレゼンテーションで派手なスライドを使う営業マンより、紙で地道に説明できる人間の方が信頼できるという感覚が秀夫にはあった。それもまた秀夫の目を曇らせる要因になっていたが、その時の秀夫には見えなかった。
最終的に黒田は契約書を1枚出した。秀夫は隅々まで読んだ。法律用語が多く、完全には理解できなかったが、出資金額と利回りの条件、返金に関する条項が記載されていた。秀夫はもう1度最初から読んだ。その時、秀夫の頭の中に千代子の顔が浮かんだ。この通帳から300万円を動かすことを千代子はまだ知らない。言うべきだと秀夫は一瞬思った。しかし、同時に別の考えが来た。言えば反対される。千代子は数字に弱い。リスクを言えば必ず怖がる。しかし、自分には業界の知識がある。今度ばかりは自分の判断を信じていい。成功してから話せばいい。
秀夫は黒田を見た。黒田は何もせかさなかった。「ゆっくりお考えください」と言って、自分のコーヒーを飲んでいた。その余裕が秀夫にはかえって信頼感を与えた。せかす人間が怪しいと秀夫は思っていたからだ。せかさない人間は安心だと。秀夫は胸のポケットから万年筆を取り出した。退職の際に部下たちからもらったものだった。箱に入ったまま使っていなかったが、今日はなぜかこれを持ってきた。キャップを外し、契約書の署名欄に自分の名前を書いた。筆圧が強かった。書きながら手の中に汗が滲んだが、秀夫は気づかないふりをした。書き終えた名前を見た。松原秀夫。その文字が紙の上に残った。黒田は静かに受け取り、コピーを1枚渡した。「お振り込みは今週中に」と黒田は言った。秀夫は頷いた。
帰りのエレベーターの中で、秀夫は1人だった。鏡張りの壁に自分の姿が映った。シャツの首元をきちんと整えた、背筋の真っすぐな男がいた。その男の顔はどこか見知らぬ人のように見えた。秀夫は視線をそらし、数字が1から5へと変わっていくのを見ていた。
帰宅すると千代子は台所にいた。秀夫は靴を脱ぎながら「ただいま」と言った。千代子は「お帰りなさい」と言った。秀夫は居間を通りすぎ、寝室の引き出しを開けた。通帳を取り出した。300万円に満たない残高のページを開き、しばらく見た。明日銀行へ行く。秀夫は通帳を元の場所に戻した。引き出しを閉めた。そのまま洗面台へ行き、顔を水で洗った。鏡の中の自分を見た。背筋はまっすぐだった。秀夫はタオルで顔を拭き、台所へ向かった。千代子が夕食の準備をしていた。「何を作っているんだ」と秀夫は聞いた。「肉じゃがです」と千代子は言った。秀夫は頷き、「そうか」と言った。食事の間、秀夫は尚弥の話も黒田の話も、今日署名した書類の話も、何も言わなかった。千代子も今日の出来事を聞かなかった。2人でテレビを見ながら食べた。
夜、布団に入ってから秀夫は目を閉じた。300万円。それが来月には45万円の利益を生む。来月にはまた45万円。秀夫はその数字を頭の中で積み上げた。しばらくすると眠気が来た。秀夫は眠った。隣の布団で千代子が寝返りを打つ音がした。千代子は眠れていなかった。しかし、秀夫にはそれが聞こえなかった。
7月の最終月曜日の朝、千代子は台所の引き出しを開けた。医療費の支払いが今月末に重なっていた。秀夫の定期的な心電図検査の自己負担分、千代子自身が半年以上前から通っている内科の処方薬、合わせて2万円に満たない額だったが、手元の現金が心細くなっていたので通帳から少し下ろそうと思っていた。引き出しの奥の、いつも通帳を入れている薄い封筒を取り出した。中身を確認した。通帳があった。千代子はページを開いた。残高の数字を見た瞬間、千代子は動きを止めた。もう1度数字を確認した。300万円近くあったはずの残高が、3万2000円になっていた。日付は先週の木曜日。出金の適用欄には「振り込み」と書かれていた。
千代子はしばらく通帳を持ったまま立っていた。台所の窓の外で、近所の子供が自転車で通りすぎる音がした。千代子の指先が通帳の角を少しだけ折り曲げた。居間に移った千代子は秀夫を探した。秀夫は洗面台の前にいた。千代子は廊下から声をかけた。「通帳、見ましたよ」と言った。秀夫の手が止まった。鏡越しに千代子を見た。千代子は通帳を両手で持ち、秀夫に向けて差し出した。秀夫は洗面台を離れ、廊下に出た。タオルで手を拭きながら、千代子が持つ通帳の数字を見た。秀夫の表情は動かなかった。動かないようにしていた。
「これはどういうことですか?」千代子は言った。声は低かった。叫ぶ一歩手前のところで、何かが喉の奥に引っかかって止まっているような声だった。秀夫は「説明する」と言った。「居間に行こう」と続けた。千代子は動かなかった。廊下で2人は向かい合ったまま立っていた。秀夫は話した。尚弥が紹介してくれた投資案件のことを話した。物流倉庫への出資、月15%の利回り、黒田という顧問のこと。秀夫は努めて落ち着いた声で話した。専門的な知識のある自分が判断したと言った。来月には利益が入ると言った。千代子は秀夫が話している間、1度も顔を上げなかった。通帳を持ったまま、廊下の床を見ていた。秀夫が話し終えると、千代子はゆっくりと顔を上げた。その目には涙がなかった。涙が出る前の段階の、乾いた怒りがあった。
「なぜ私に言わなかったんですか?」千代子は言った。秀夫は「反対すると思ったから」と言った。千代子の右手が通帳を持ったまま少し震えた。わずかに唇が動いた。しかし、声は出なかった。次の瞬間、千代子は通帳をテーブルに叩きつけた。秀夫が思っていたよりずっと大きな音がした。続いて、テーブルの上にあった結婚記念の小さな花瓶を床に払い落とした。花瓶は割れなかったが、転がって壁に当たった。千代子の胸が早く上下していた。「私の通帳なんですよ。私が親の介護をしながら時給800円のパートを何年も続けて貯めたお金なんですよ。それを、なんであなたが1人で決めるんですか?」秀夫は何も言えなかった。千代子の言葉が正確に事実だったので、言い返す言葉がなかった。
2人はそれぞれの部屋に引っ込んだ。昼食は各々で済ませた。夕食の時間になっても、千代子は台所に来なかった。秀夫は冷蔵庫を開け、残っていた昨日の煮物を皿に移してレンジで温めた。1人で食べた。千代子の部屋のドアは閉まったままだ。その夜、秀夫は布団の中で黒田に電話をかけようと思った。しかし、何を聞けばいいか分からなかった。来月の配当は予定通りかと聞けば、予定通りですと答えるだろう。その答えを聞いて、何が確認できるのか。秀夫はスマートフォンを置いた。天井を見た。暗い天井に、今日の千代子の顔が浮かんだ。通帳を持ったまま震えていた右手が、秀夫の目の裏に残っていた。
8月の第1週、火曜日の夜、秀夫と千代子は別々に食事を終え、別々に風呂に入り、居間では顔を合わせないように時間をずらしていた。1週間がそうやって過ぎていた。秀夫は新聞を読むふりをしながら、実際には文字が目の上を滑るだけで何も読めていなかった。テレビがついていた。7時のニュースだった。キャスターが経済ニュースを読んでいた。秀夫はそれを半分だけ聞いていた。次の項目に移った時、秀夫は無意識に顔を上げた。「埼玉県を拠点に展開していた物流投資名目の詐欺グループが発覚しました」キャスターが言った。「被害額は複数人に渡り、総額は数億円規模に上ると見られています」秀夫の体が硬直した。画面には警察の記者会見と、発覚された事務所とされる場所が映し出されていた。続いて、容疑者と見られる人物の顔写真が画面の隅に表示された。秀夫はその顔を見た。黒田洋介だった。秀夫はリモコンを持っていた手を止めた。テレビの画面から目が離せなかった。記者会見で警察の担当者が話している。「物流倉庫への出資を名目に、架空のプロジェクトへの投資を募り、配当金を支払う実態がなかった。主な容疑者はすでに出国し、行方不明となっている」出国。秀夫はその単語を頭の中で3度繰り返した。
台所の方で音がした。千代子が出てきた。テレビを見て、画面のテロップを読んだ。千代子の顔が変わった。秀夫を見た。秀夫はテレビを見たまま動けなかった。グラスが秀夫の手から滑り落ちた。畳の上に落ちて水が広がった。秀夫はそれを見たが、体が動かなかった。千代子が台所からタオルを持ってきて床を拭いた。2人は何も言わなかった。テレビのニュースは次の話題に移っていた。
秀夫は立ち上がった。鞄を掴んだ。千代子が秀夫を見た。秀夫は靴を履いた。「どこへ行くんですか?」千代子が言った。秀夫は答えなかった。引き戸を開けて外に出た。夜の住宅街を秀夫は歩いた。正確には、走るように歩いた。頭の中が騒がしかった。黒田が紹介してくれたビルの住所が頭に浮かんだ。電車に乗った。乗り換えを2回した。最寄り駅で降り、5分歩いた。ビルの前に着いた。夜の9時を過ぎていた。エントランスのドアは施錠されていた。秀夫は横の呼び出しパネルを見た。5階のボタンを押した。何の反応もなかった。もう1度押した。同じだった。秀夫は建物の周囲を一周した。看板があった場所を確認した。壁に小さな跡が残っていた。看板が取り外された後の跡だった。秀夫はその跡を手で触れた。エレベーターに乗り、5階のボタンを押した。扉が開いた。廊下の電気はついていたが、奥の部屋のドアが半ば開きになっていた。秀夫は近づいた。中を覗いた。がらんとしていた。テーブルはなかった。椅子もなかった。壁に貼られていた写真もなかった。床に紙くずが数枚散らばっていた。秀夫は中に入り、床に落ちている紙を1枚拾った。見積もり書の断片だった。会社名が印刷されていた。秀夫が知っている名前ではなかった。紙を置いた。秀夫はその場に立ったまま壁を見た。先週まで写真が貼ってあった場所に、テープの跡が残っていた。秀夫はその跡を見ながら、自分の膝が小刻みに震えていることに気づいた。震えを止めようとしたが、止まらなかった。秀夫は廊下に出た。エレベーターに乗らず、非常階段を使った。1段ずつ降りながら手すりを掴んでいた。手すりが冷たかった。1階の出口を押して外に出た時、腹の奥から酸っぱいものが込み上げてきた。秀夫は近くにあったゴミ箱の蓋を手で掴み、しばらく前かがみになった。中身は出なかったが、体が何度も波を打った。秀夫は体を起こした。夜の空気を吸った。300万円、手元に残った3万円、月々の固定費、年金が出るまでの時間。その計算が頭の中で始まった。答えが出た。答えは最悪だった。
翌日の水曜日、昼前、秀夫は千代子を連れて電車に乗った。昨夜のことを話した。千代子は黙って聞いていた。電車の中で話せる内容ではなかったが、2人には話す場所がなかった。尚弥の住む北区のマンションに向かった。尚弥が今の住所を教えたのは半年以上前だったが、秀夫は手帳に書き留めていた。11階建ての比較的新しいマンションだった。秀夫は眺めながら、月の家賃がいくらか頭の中で計算した。15万円はするだろうと思った。インターホンを押した。しばらく間があった。出ない。もう1度押した。今度は出た。尚弥の声だった。「何だ」と言った。「父さんと母さんだ」と秀夫は言った。また間があった。「今ちょっと」という声の後、扉の鍵が開く音がした。エレベーターで8階まで上がり、廊下を歩いた。尚弥が部屋のドアを少し開けて待っていた。秀夫と千代子が近づくと、尚弥の顔が見えた。髭が伸びていた。目の下に隈があった。シャツのボタンが1つ外れたままだった。
「入れ」と秀夫は言った。尚弥はドアを大きく開けた。秀夫と千代子が中に入った。室内は散らかっていた。テーブルの上に空のペットボトルが3本並んでいた。床にコンビニの袋がそのまま置かれていた。秀夫は部屋を見渡してから尚弥を見た。尚弥はドアの横に立ち、腕を組んでいた。「昨日のニュースを見たか」と秀夫は言った。尚弥は黙っていた。「黒田が詐欺で捕まった。もう出国したそうだ。俺が渡した300万円は戻ってこない」尚弥は床を見た。秀夫は尚弥の顔を見ていた。尚弥は目を上げなかった。秀夫の中で何か嫌な予感が形を取り始めた。「お前は知っていたのか」と秀夫は言った。声が思ったより低くなった。尚弥は少しの間があってから顔を上げた。秀夫を見た。その目に後悔の色はなかった。疲れた色はあった。しかし、それは罪悪感ではなく、追い詰められた人間の目だった。「俺も被害者だよ」と尚弥は言った。声は平坦だった。「黒田に騙されたのは俺も一緒だ。俺だってあいつに金を入れていた」秀夫は尚弥の言葉を聞いた。「被害者」。秀夫はその言葉を飲み込もうとした。しかし、引っかかりがあった。引っかかりの形が秀夫には最初分からなかった。
千代子が口を開いた。「尚弥、あなたが黒田さんをお父さんに紹介したんでしょう」と千代子は言った。声が静かだった。怒るより静かな声の方が、時に鋭い。尚弥が千代子を見た。「紹介したのは本当だ。でも俺も信じてたんだ。あの話を」と言った。ただ、秀夫はその言葉の重さを測りながら、別のことを考えていた。尚弥が黒田のことを話してきた時、尚弥はこう言った。「父さんの経験が生きる分野だから」。その言葉が秀夫には引っかかっていた。父親の経験が生きると思っていたなら、父親の弱点も知っていたということではないか。
「お前に紹介料が入ったか」と秀夫は言った。尚弥の体がわずかに固まった。一瞬だけだったが、秀夫はそれを見た。尚弥は「そういう仕組みではなかった」と言った。秀夫は黙っていた。尚弥は続けた。「紹介とかじゃなくて、俺の借金を一部立て替えてもらう話があって」と言いかけて止まった。「借金」と千代子が繰り返した。尚弥は目をそらした。秀夫の中で嫌な予感が確信に変わった。「お前は自分の借金を返すために、俺を使ったのか」と秀夫は言った。声は静かだった。怒鳴らなかった。怒鳴る必要がなかった。その言葉が事実かどうか、尚弥の顔が答えを出していた。
尚弥はうつむいた。しばらく黙っていた。そして顔を上げた時、その顔の表情が変わっていた。それまでの気まずさが消え、別の何かに置き換わっていた。秀夫にはすぐには分からなかったが、それは開き直りだった。「だからって何だよ」と尚弥は言った。声が上がった。「俺だって苦しかったんだよ。会社もうまくいってないし、金も回らないし、追い詰められてたんだ。そこへあの話が来た。紹介すれば、俺の借金を一部帳消しにしてやると言われた。断れるわけがないだろう」
千代子が一歩前に出た。「尚弥、それはお父さんとお母さんを騙したってことでしょう」と言った。静かな声だった。尚弥は千代子を見た。「騙したって言葉は違う」と尚弥は言った。「俺も騙されたんだ。全員が被害者なんだよ。そこに父親も含まれるってだけで、俺が特別悪いわけじゃない」
秀夫は尚弥の顔を見続けた。この男の言葉の意味が、秀夫には少しずつ分かってきた。分かれば分かるほど、体の奥底から何か冷たいものが上がってくる感覚があった。怒りではなかった。怒りより静かで、怒りより長く続くものだった。「お前が俺の老後の貯金を使って自分の借金を処理しようとした。それは事実か」と秀夫は言った。尚弥は黙った。黙ったことが答えだった。千代子がよろめいた。秀夫が気づいて腕を掴んだ。千代子は秀夫の腕を掴んで体を支えた。尚弥は動かなかった。「で、帰ろう」と秀夫は千代子に行った。千代子は頷いた。2人は玄関に向かった。尚弥は部屋の中に立ったままだった。秀夫がドアを開けた時、尚弥が口を開いた。「俺のことを責めても金は戻ってこないぞ。年寄りが欲をかくから騙されるんだ。もう俺に連絡してくるな」秀夫は振り返らなかった。千代子も振り返らなかった。ドアを閉めた。
廊下は静かだった。エレベーターのボタンを押した。扉が開いた。秀夫と千代子が乗り込んだ。扉が閉まった。秀夫は壁のボタンを押した。エレベーターが動き始めた。千代子は秀夫の腕を掴んだままだった。秀夫は前を向いていた。階数を示す数字が8から7、6、5と変わっていった。秀夫は数字を見ていた。それ以外を見る気力がなかった。
翌週の月曜日、早朝、秀夫はハローワークに出かけた。今度は資料を持っていかなかった。スーツも着なかった。くたびれたカーゴパンツとシャツだけで出かけた。背筋だけはまっすぐだった。それだけは意識せずにそうなった。窓口で相談せずに、求人票の棚を自分で見た。工場の夜間ライン作業。コンビニの深夜シフト。倉庫内仕分け作業。秀夫はそれらを1枚1枚抜き取り、手の中に重ねた。管理職の求人は見なかった。その日の午後、秀夫は1枚の求人票に電話をかけた。冷凍倉庫での荷物の積み下ろし作業。資格不要、年齢不問、即勤務可と書いてあった。秀夫は電話をかけ、「明日から来られますか」と聞かれ、「来られます」と答えた。面接なしで採用が決まった。
夜、秀夫は千代子に話した。倉庫で働くことにしたと言った。千代子はしばらく秀夫を見た。それから「分かりました」と言った。何も言いたくなかった。秀夫もそれ以上言わなかった。翌日の夜の9時、秀夫は作業着を着て倉庫に向かった。電車で40分、駅からバスで10分。工場地帯の外れにある大きな冷凍倉庫だった。入り口で名前を告げると、担当者に更衣室を案内された。防寒着を渡された。手袋と帽子も渡された。作業エリアに出ると、他の作業員が数人いた。20代と30代が混在しているように見えた。秀夫はその中に混じり、担当者から今夜の作業内容を聞いた。冷凍食品の箱を入荷ラインから取り、指定の棚番号へ運ぶ。一箱の重さは最大で20kg程度。今日は今夜だけで150箱ほどある。作業を始めた。倉庫の中はマイナス18度だった。防寒着を着ていても、最初の10分で足先から冷えが上がってきた。秀夫は箱を持ち上げ、台車に積み、棚まで運んだ。一往復するたびに床に設置された温度計が目に入った。数字が動かなかった。1時間が過ぎた頃、同じラインで作業していた若い男が秀夫の方を見た。20代半ばに見えた。短く刈った髪に防寒着を着ていた。その男が秀夫に向かって「遅いっすよ」と言った。声は低く、周りに聞こえる程度の大きさだった。秀夫は箱を持ちながら男を見た。男は続けた。「ここは流れ作業なんで、1人が詰まると全体が止まるんです。今夜入ったばかりでも関係ないんで」秀夫は何も言わなかった。箱を棚に置き、空の台車を戻した。もう1度ラインに向かった。2時間が過ぎた。秀夫の腕が重くなってきた。箱を持ち上げる動作が最初より時間がかかっていた。若い男がまた口を開いた。今度は秀夫の真後ろに来て、聞こえる声で言った。「もっと急いでもらえませんか?亀みたいに動かれると困るんで」秀夫の胸の奥で何かがじわじわと熱くなり始めた。秀夫は今日まで、何十年この国の物流を支えてきた側にいた。ルートを組み、人員を動かし、夜中の緊急対応に何度も対処してきた。それが、この倉庫で20代の男から亀と呼ばれている。秀夫は箱に手をかけたまま動きを止めた。倉庫の冷気が肌に刺さった。頭の中で声が2つ。交互に言葉を発した。1つは「耐えろ」。もう1つは「なぜ俺がこんな場所で耐えなければならないのか」。
若い男がまた言った。「聞こえてますか?早くしてもらわないと、僕らの仕事に響くんで」秀夫は持っていた箱を置いた。近くの棚の上に、作業用のバーコードリーダーが置かれていた。秀夫はそれを手に取った。重さがあった。プラスチック製の頑丈な器械だった。秀夫はそれを持ったまま若い男を見た。男が秀夫の視線に気づいて口を閉じた。秀夫はバーコードリーダーを振った。壁の鉄板に向かって投げつけた。金属と金属がぶつかる音が倉庫に響いた。他の作業員たちが振り返った。秀夫は息を吸った。「お前はいくつだ」と秀夫は言った。声が震えていた。「俺の孫の年齢じゃないか」倉庫が静かになった。誰も動かなかった。若い男は秀夫を見たまま固まっていた。しばらくして奥から担当者が歩いてきた。秀夫は担当者を見た。担当者は状況を確認し、「今日はここまでで結構です」と秀夫に言った。「給与は今日の分は出ません。器械を損傷させたので、弁償の可能性もあります」秀夫は何も言わなかった。防寒着を脱いで更衣室に戻し、自分の服に着替えた。靴を履いた。外に出た。バス停まで歩いた。夜の工場地帯には誰もいなかった。街灯が一定の間隔で光っていた。秀夫はバス停のベンチに座った。次のバスまで20分あった。冬に近い夜の空気の中で、秀夫は足元を見た。作業靴の底に、倉庫の冷気がまだ残っているような気がした。財布の中身を確認した。今夜の給料はない。交通費、往復で900円使った。それだけが今夜の記録だった。雨が降り始めた。秀夫はバス停の屋根の下に体を移した。雨が屋根を叩く音がした。秀夫の中を見た。何も持っていなかった。バーコードリーダーを壁に投げつけた感触だけがまだ手のひらに残っていた。その感触が秀夫には何とも言い表わせなかった。怒りの残骸でも後悔の証でもあった。ただ、それが全てではなかった。秀夫にはそれがどういう感情なのか、もう名前をつける余力が残っていなかった。バスが来た。秀夫は乗り込んだ。深夜の路線バスには、秀夫以外に乗客が2人いた。1人は作業服のまま眠っていた。もう1人は窓に顔を向けていた。秀夫は1番後ろの席に座り、窓の外の暗い街を見た。雨粒が窓を流れ落ちていった。電車に乗り換え、自宅の最寄り駅で降りた時、時計は深夜の1時を回っていた。家の玄関のドアを開けると、廊下の電気がついていた。千代子が起きていた。台所の椅子に座って湯飲みを両手で包んでいた。秀夫が入ってきた音がして、千代子が顔を上げた。秀夫の濡れた服を見た。何も聞かなかった。秀夫も何も言わなかった。秀夫は洗面台で顔を洗い、着替えて居間に戻った。千代子が湯飲みをもう1つ持ってきた。温かいお茶だった。秀夫はそれを受け取った。テーブルの上に置き、しばらく湯気を見ていた。千代子は自分の椅子に戻り、また湯飲みを両手で持った。2人は何も言わなかった。時計が動く音がした。雨が窓を叩く音がした。秀夫はお茶を一口飲んだ。熱かった。それでも飲んだ。
8月の中旬、松原家の冷蔵庫の中はほぼ空になっていた。扉を開けると白い内壁が見えた。卵が3個、残り少ない味噌が入った容器、豆腐が半丁。醤油のボトルに、底をついた茶色い液体がわずかに残っているだけだった。秀夫は扉を閉めた。開けた時間が無駄だったと思った。倉庫を夜中に飛び出してから1週間が経っていた。給料は出なかった。交通費の900円だけが手元から消えた。残高は3万2000円のままで、そこから家賃と光熱費の口座引き落としが続いていた。今月末には残高がどこまで下がるか、秀夫は頭の中で計算したが、途中でやめた。計算するたびに出る答えが、同じ場所に帰ってくるからだった。千代子はこの1週間、毎日スーパーへ行った。しかし、カゴの中に入れるものは1回ごとに減っていった。もやし1袋、豆腐1丁、切れ端の安い魚。レジの前で金額を確認しながら、一品を棚に戻すこともあった。秀夫はそれを1度だけ見ていた。スーパーのレジ前で、千代子が棚から取ってきたキャベツを少し考えてから元の場所に戻しに行った。秀夫は千代子のその背中を入り口から見ていたが、声をかけなかった。かける言葉がなかった。
ある朝、千代子が台所で何かを探している音がした。引き出しを開けたり閉めたりする音だった。秀夫が居間から覗くと、千代子はエプロンのポケットから何かを取り出していた。指輪だった。結婚指輪だった。千代子の指にはめていた細い金の輪が、蛍光灯の下で鈍く光った。千代子はそれを手のひらに乗せて、しばらく見ていた。秀夫は見ていたが、入ってこなかった。昼前に千代子は出かけた。エコバッグを1つ持っていた。買い物へ行くにしては時間が遅く、スーパーとは反対方向へ歩いていくのを秀夫は窓から見た。秀夫は窓から離れた。居間の椅子に座り、テーブルの木目を見ていた。千代子が帰ってきたのは2時間後だった。エコバッグの中には、小さな紙袋が1つ入っていた。千代子は台所のテーブルにそれを置いた。中から薄い封筒を取り出した。封筒の中に折りたたまれた紙幣が入っていた。数えると、3万2000円だった。千代子は数えてから、台所の引き出しに封筒をしまった。秀夫はその一連の動作を廊下から見ていた。
「何をしてきたんだ」と秀夫は言った。千代子は引き出しを閉めてから秀夫を見た。「指輪を買い取ってもらいました」と千代子は言った。「ついでに、しまってあった帯留めと、昔もらったブローチも一緒に。合わせて3万2000円になりました」と千代子は続けた。声は平坦だった。秀夫は台所の入り口に立ったまま、何も言えなかった。千代子はエプロンを畳みながら言った。「今夜はご飯を炊いて、昨日の残りで食べましょう」秀夫は頷いた。頷くことしかできなかった。
夕飯の時、千代子は茶碗を2つ出した。白飯と、冷蔵庫の残り物を寄せ集めたようなおかず。秀夫は箸を取り上げてその皿を見た。豆腐と卵を炒めたものと、昨日のもやし炒めの残り。それだけだった。秀夫は一口食べた。味が薄かった。調味料を節約しているためだと秀夫には分かった。千代子は秀夫の向かいに座り、静かに食べ始めた。見上げることもなく、しかし食事を残すこともなく、小さな口で少しずつ食べていた。秀夫はその横顔を見た。千代子の左手の薬指に、指輪はなかった。その指が箸を持って動いていた。秀夫は視線を皿に戻した。飯を口に運んだ。30年以上前、あの指輪を買いに行ったデパートのことを秀夫は急に思い出した。給料2ヶ月分だと店員に言われ、高いと思いながら買ったことを覚えていた。千代子がその時どんな顔をしたか、秀夫には正確に思い出せなかった。食事が終わった。千代子が皿を台所へ運んだ。秀夫は椅子に座ったまま、しばらくテーブルの上を見ていた。何もないテーブルの上に、2人分の茶碗の跡だけが残っていた。秀夫はそれを拭き取りたかったが、立ち上がる気力が出なかった。そのまま座っていた。
8月の最終水曜日の午後、秀夫は税金の書類を広げていた。固定資産税の第3期分の納付書が届いていた。金額は6万3000円。手元の残金と、来月の年金が入るまでの時間を計算した。秀夫は鉛筆でメモ帳に数字を書いた。書いては消した。書き直しても同じ数字が出た。窓の外では道路工事の音が断続的に聞こえていた。コンプレッサーの振動音と、アスファルトを砕く単調な音。秀夫はその音を聞きながら計算を繰り返した。税金、健康保険料、今月の光熱費、食費の最低限。それらを足して残高から引くと、マイナスになった。秀夫は電卓の数字をリセットして、もう1度打った。同じ結果だった。腹が痛んだ。秀夫は最初、姿勢が悪かったせいだと思い、背筋を伸ばした。しかし、痛みは消えなかった。鈍く波を打つような痛みだった。秀夫は深呼吸をした。工事の音が続いていた。痛みは引かなかった。それどころか、少しずつ強くなっていった。秀夫は電卓を置き、椅子に背を持たれた。みぞおち辺りを手で抑えた。抑えると少し楽になった気がして、秀夫はそのままの姿勢で目を閉じた。疲れているだけだろうと思った。ここ数週間、まともに寝られていない。体が限界に来ているだけだ。十分ほどそうしていると、痛みが急に強くなった。波ではなくなり、絞り上げるような感覚に変わった。秀夫は思わず前傾姿勢になった。机に両手をついた。額に汗が滲んだ。呼吸が浅くなった。秀夫は床に降りた。畳の上に膝をついた。体を丸めた。痛みが腹の中心から背中に向かって広がっていた。冷たい汗が首筋を流れた。秀夫はそのまま横になろうとして、畳に頬をつけた。千代子が台所から出てきた。居間の入り口で秀夫を見て、一瞬体が固まった。すぐに秀夫のそばに来た。「どうしたんですか?」千代子は言った。秀夫は答えようとしたが、声が出なかった。代わりに「腹が」とだけ言った。千代子が秀夫の背中に手を当てた。体が震えていることに気づいた。秀夫の口元を見た。秀夫は口を抑えた。千代子は立ち上がり、洗面器を取りに行った。戻ってくる前に、秀夫は口から何かを吐いた。畳の上に落ちた。それを見て、千代子の顔が変わった。赤かった。千代子はすぐに電話をかけた。救急車を呼んだ。秀夫は畳の上に横たわったまま天井を見ていた。天井の木目がゆっくり揺れているように見えた。実際には揺れていなかった。秀夫の視界が揺れていた。救急車が来るまでの時間。千代子は秀夫の横に座っていた。秀夫の手を握っていた。秀夫はその手の温かさを感じた。指輪がない指の温かさを、秀夫の手のひらが感じた。
搬送された病院で検査が行われた。秀夫は処置台に横たわり、医師の言葉を聞いた。「胃潰瘍の進行による出血。ストレスと不規則な食事が長期間に渡って積み重なった結果です。緊急手術が必要で、手術後も入院が必要になります」と言った。秀夫は天井を見たまま「分かりました」と答えた。手術室に入る前、廊下で千代子が秀夫の横を歩いた。秀夫はストレッチャーの上で千代子の足元を目で追った。千代子は白い廊下の蛍光灯の下を、小さな足で歩いていた。秀夫は口を開いた。「千代子」と呼んだ。千代子が顔を向けた。秀夫は続ける言葉が出てこなかった。千代子は秀夫の手に自分の手を重ねた。それだけだった。手術室のドアが開き、秀夫は中に運ばれていった。
手術は3時間かかった。千代子は待合室の椅子に座って待った。夜の8時を過ぎていた。待合室には他に誰もいなかった。蛍光灯が明るく、外の闇との対比がはっきりしていた。千代子は自分のバッグを膝の上に置いたまま、壁の時計を見ていた。時計の針が動くたびに、千代子の頭の中で数字が動いた。手術費用、入院費用、それを払うための手段。手元に残っているのは、指輪を買い取ってもらった3万2000円から食費を引いた残りだけだった。秀夫の通帳の残高は1万円を切っているはずだった。千代子はバッグからスマートフォンを取り出した。秀夫の弟に電話をかけようと思った。秀夫より5つ年下で、埼玉に住んでいる。秀夫が入院したことは知らせなければならない。指が画面の上で止まった。それから電話を発信した。コールが5回鳴り、繋がった。秀夫の弟の嫁が出た。千代子は申し訳なさそうに、秀夫が入院したことを伝えた。電話の向こうで、相手が夫を呼ぶ声がした。少し待って、秀夫の弟が出た。千代子は状況を説明した。電話の向こうの弟は「それは大変だったね」と言った。しかし、声の中にどこか距離感があった。千代子は費用のことを話した。「入院が長引けば、手術費と合わせてかなりの金額になる」と千代子は言った。「少し相談させてもらえないか」と続けた。電話の向こうで沈黙があった。それから弟が言った。「正直なところ、うちも今余裕がなくて。子供の学費が来年から重なるし、自分たちの老後のこともあるし。先日、秀夫が退職金でローンを全部返したって聞いていたから、てっきり余裕があるのかと思っていたんだ」
千代子は受話器を持ったまま壁を見た。退職金でローンを全部返したから、余裕があると思われていた。その言葉が千代子の頭の中で繰り返された。翌日の朝、千代子は秀夫の古い同僚に電話をかけた。秀夫が現役だった頃の同期会のグループに入っていた男で、年賀状のやり取りが今も続いている人間だった。千代子が状況を話すと、「それは心配だね」と言ってくれた。しかし、続いたのは「うちも定年後は収入が減ってね」という話だった。千代子は途中で話題を変えた。3人目に電話した相手は、秀夫が現役の頃に付き合いのあった取引先の総務担当者だった。その人物は電話に出た瞬間から声が固かった。千代子が秀夫の入院を伝えると、「それは大変ですね」と言った後、「ただ、うちは会社の関係者以外への金銭的な支援は難しくて」と早々に言い添えた。千代子はまだ金銭の相談をしていなかった。病院の廊下のベンチに座り、千代子はスマートフォンを膝に置いた。電話をかけるたびに、同じ壁にぶつかった。退職金でローンを返したんでしょう。余裕があると思っていた。うちも今は余裕がない。千代子は目を閉じた。廊下のどこかでワゴンを押す音がした。消毒液の匂いが流れてきた。千代子は目を開けた。泣かなかった。気力と、泣く必要性の両方が今の千代子にはなかった。代わりに、コートの袖口を口に当て、少しの間息を止めていた。ワゴンを押す音が遠ざかった。廊下が静かになった。
秀夫の病室に戻ると、秀夫はベッドの上で点滴を受けながら目を覚ましていた。千代子が入ってきた音に気づいて顔を向けた。「どうだった」と秀夫は言った。声が枯れていた。千代子は椅子を引き、秀夫のベッドの横に座った。「あちこちに電話しました」と千代子は言った。それだけ言って、後は続けなかった。秀夫も聞かなかった。答えが出ていることは、千代子の顔を見れば分かった。
退院の見通しが出た頃、千代子は1人で自宅に戻り、不動産屋に電話をかけた。秀夫の病室を出る前に、秀夫には話した。「家を査定に出す」と千代子は言った。秀夫はベッドの上で天井の患部を見ながら「分かった」と言った。止める理由がなかった。止めるための選択肢が、もうどこにもなかった。不動産屋の担当者は翌日の午前中に来た。30代とおぼしき男で、スーツを着ていた。丁寧な言葉遣いだったが、家の中を見る目は素早く正確だった。「31年、駅から徒歩12分、4LDK」。担当者はメモを取りながら各部屋を回り、壁の状態を確認し、台所と浴室を写真に収めた。1時間ほどで査定が終わり、担当者はダイニングテーブルに査定書を広げた。千代子は向かいに座り、数字を見た。担当者が言った数字は、秀夫が退職金で繰り上げ返済した時の残債より、随分低い数字だった。「市場価格という点では、この辺りが妥当ですが」と担当者は言った。千代子は「もう少し上がらないですか」と聞いた。担当者は少し考えた顔をした。「今のご時世と物件の築年数を考えると、この数字が売れる可能性の高い上限に近いです」と言った。千代子は担当者を帰らせてから、病院へ向かった。秀夫の病室に入り、査定書を取り出した。秀夫は自分でベッドの角度を上げ、紙を手に取った。点滴の管が腕についていた。秀夫は査定書の数字をゆっくりと読んだ。沈黙があった。秀夫は査定書を胸の上に置いた。天井を見た。この家のローンを最後まで自分で払い切るつもりだった。退職金を使い、30年分の借金を0にした。あの瞬間、自分が勝ったと思っていた。その家を、今、医療費と今後の生活費のために売る。しかも、買った時より低い価格で。秀夫の喉の奥で何かが詰まった。千代子が秀夫の手の近くに自分の手を置いた。「どうしますか?」と千代子は言った。秀夫は天井から視線を下ろし、千代子を見た。「やるしかないだろう」と秀夫は言った。声が枯れていた。千代子は頷いた。
翌日、担当者が契約書類を持って病院に来た。秀夫は病室のベッドの上でそれを受け取った。ページをめくった。秀夫は法律の文章を読み慣れていたが、今日は文字が掴みにくかった。目が文字の上を動くのに、意味が頭に届くまで時間がかかった。担当者が重要な箇所を差し示した。秀夫は1つ1つ確認した。担当者が「こちらにご署名をお願いします」と言い、ペンを差し出した。秀夫はそれを受け取った。入院着のまま、点滴の管を引っかけないようにだけを動かして、書類を左手で抑えた。ペンが紙に触れた瞬間、秀夫の目の奥で何かが揺れた。泣くのではなかった。涙が出るより前の、体の奥の何かが溶けるような感覚だった。秀夫はペンを動かした。「松原秀夫」と書いた。筆跡が普段より少しだけ乱れていた。担当者が書類を受け取り、「ありがとうございます」と言って頭を下げた。秀夫はペンを戻した。担当者が部屋を出て行った後、病室には秀夫と千代子だけが残った。窓の外に、夏の終わりの空が見えた。入道雲が遠くに残っていたが、その輪郭は少し崩れていた。秀夫はその雲を見た。千代子は手元を見ていた。点滴の管が秀夫の腕の中に、少しずつ液体を送り込んでいた。秀夫は口を開いた。「31年」と言った。千代子が顔を上げた。「あの家に31年住んだな」と秀夫は言った。千代子は少しの間秀夫を見てから「そうですね」と言った。声に感情はなかった。しかし、その声が部屋に満ちた後、千代子は視線を窓の外に向けた。秀夫も外を見た。2人は窓の外の空を、しばらく一緒に見ていた。廊下でナースが歩く音がした。点滴機器が小さな電子音を出した。秀夫の手の甲に貼られたテープが、蛍光灯の光を反射していた。秀夫は右手を動かして、テープの端を指先で触れた。剥がすわけでもなく、ただ触れた。その感触が何かに似ていると思ったが、何に似ているのか、秀夫には言葉にできなかった。
夕方、千代子が帰り支度を始めた。コートを羽織り、バッグを肩にかけた。秀夫は今夜も1人で病室に残る。千代子は秀夫のそばに来て「また明日来ます」と言った。秀夫は頷いた。千代子が部屋を出た。廊下を歩く音が遠ざかった。やがてエレベーターの音がして消えた。病室に1人になった秀夫は、ベッドを少しだけ倒した。天井を見た。白い天井だった。どこにいても天井は白い。自分の家の天井も白かった。あの家の今の天井に、去年の台風の後から小さな染みができていた。秀夫は気になっていたが、直す機会を逃していた。今頃、それが何だったのか気になっても、あの天井を見ることはもうない。秀夫は目を閉じた。暗い視界の中で、不思議と様々な音が聞こえた。点滴の電子音、廊下の足音、遠くの換気扇の音。それらが混ざり合って、秀夫の意識の奥に沈んでいった。眠りが来る前の最後の意識の中で、秀夫はあの家の玄関の鍵の感触を思っていた。退職した日の朝、玄関を出る時に回した鍵の、あの重さを。もうあの鍵を持つことはない。鍵ごと誰かに渡してしまった。秀夫の意識はそこで途切れた。
10月の初め、松原秀夫が引っ越しトラックを待っていたのは朝の7時だった。31年住んだ家の玄関先に、ダンボール箱が12個積まれていた。家具のほとんどは処分した。大型の食器棚は引き取り業者に持って行ってもらった。秀夫が長年使っていた木製の本棚は、近所のゴミ集積所に出した。千代子の嫁入り道具だったタンスは売れなかった。結局、粗大ごみとして出した。回収者が来た朝、千代子はカーテン越しにそれを見ていた。秀夫は見なかった。引っ越しトラックが来た。業者の男が2人。手際はよく、ダンボールを積み込んだ。秀夫は邪魔にならないよう、玄関の脇に立っていた。男たちは秀夫を見ていなかった。仕事として体を動かしているだけで、秀夫が何者で、なぜここから去るのかには関心がなかった。それが当然だった。秀夫はそれを分かっていた。分かっていても、自分が風景の一部になったような感覚が居心地悪く残った。最後のダンボールが積まれ、業者の男が確認書類にサインを求めた。秀夫はボールペンを受け取り、書いた。男はトラックに乗り込み、走り去った。排気ガスの匂いが漂い、消えた。秀夫は玄関を振り返った。鍵を持っていた。不動産屋に渡す前の最後の数分だった。千代子が隣に立った。2人は並んで、空になった玄関の内側を眺めた。靴箱だけが残っていた。処分しきれなかったからではなく、次の住人のために残すことになっていたからだった。秀夫の古い革靴が1足、中に入ったままになっているのを、秀夫は今になって思い出した。言い出せなかった。もう取り出す時間はなかった。ドアを閉めた。鍵を回した。最後に1度だけ回した時の手応えが、秀夫の手のひらに残った。それを持って、2人は駅まで歩いた。
新しい住まいは、電車で3駅先の線路沿いにあった。駅から歩いて2分という利便性だけが取り柄で、後は何もなかった。1DK。6畳と台所。築40年。不動産屋が最初に案内した物件の中で、最も家賃が低く、最も条件が悪かった。秀夫は内見した瞬間、壁の染みと窓の鍵の緩みに気づいたが、何も言わなかった。言う立場になかった。部屋に入ると、ダンボール箱が壁際に積まれていた。業者が先に運んでくれていた。千代子は箱を開け始めた。秀夫は立ったまま部屋の中を見渡した。6畳間の端から端まで歩いて5歩だった。窓を開けた。線路が見えた。鉄道の柵が部屋の窓から30mも離れていなかった。秀夫が窓の外を確認しているうちに、電車が通過した。ガラスが振動した。天井から白い粉が1つ、ひらりと落ちた。秀夫は落ちた粉を見た。見ながら何も言わなかった。窓を閉めた。
その夜、2人はコンビニで買ったおにぎりを食べた。米を炊けるようになるのは明日以降だった。秀夫は鮭のおにぎりを1つ、千代子は梅を1つ。2人で座卓を挟んで座り、ラップを外しながら食べた。テレビはまだ接続されていなかった。部屋の中に音がなかった。電車が通るたびに壁が振動した。おにぎりを食べる音が、その振動の隙間に聞こえた。食べ終わった後、千代子が布団袋を持ってきた。中に布団が入っていた。今夜は、古い布団を1枚ずつ敷いて寝ることになった。秀夫はそれを聞いて「分かった」と言った。千代子が布団を広げ始めた。秀夫も手伝った。6畳間に2枚の布団を並べると、部屋の半分が埋まった。横になりながら、秀夫は天井を見た。天井のクロスに、茶色い染みが1つあった。前の住人が何かをこぼしたのか。雨漏りか。秀夫には判断できなかった。天井の染みを見ながら、今日1日の出来事を頭の中で辿った。あの家の鍵を回した時の感触。靴箱の中に残した革靴。ダンボールを積み込む業者の視線。電車の振動。おにぎりの飯の音。それらがぼんやりと頭の中を漂って、やがてどこかへ消えた。
10月の中旬、ある朝、千代子は6時に起きた。秀夫がまだ眠っている間に、台所で顔を洗い、エプロンをつけた。それから、引き出しの中にある紙を1枚確認した。先週、区の施設から届いた採用通知だった。「東京駅トイレ清掃スタッフ 週5日 朝7時から午後1時 時給1100円」。最寄り駅のトイレが主な担当区域だった。千代子は掃除道具の入ったバッグを肩にかけ、部屋を出た。駅まで歩いた。朝の駅は通勤客で混んでいた。千代子は人の流れに逆らわないように歩き、清掃員専用の入口から構内に入った。ロッカーに私物を預け、指定の清掃着に着替えた。同じ清掃の仕事をしている女性が2人いた。1人は千代子より10歳ほど若く見え、もう1人は同じか少し年上だった。3人はほとんど話さなかった。道具の確認をして、担当エリアへ向かった。千代子の担当は、改札近くの女性トイレと、ホーム横の多目的トイレだった。ゴム手袋をはめ、便器の内側に洗剤をかけ、ブラシを持った。31年前、秀夫と2人で見つけたあの家の白い壁の浴室を、初めて掃除した日のことを、千代子はふと思い出した。あの頃の自分は、あの浴室を丁寧に磨いた。自分の家だから。今、この便器も同じように磨く。仕事だから。違いはそれだけだ。千代子は思った。思いながら、手を動かした。昼前に、酔った男が多目的トイレに入ってきた。昼間から酒の匂いがした。男は千代子が清掃中だと知りながら入ってきて、奥の個室に消えた。千代子は清掃を中断し、廊下で待った。しばらくして男が出てきた際、千代子の顔を見て何か言った。言葉は聞き取れなかったが、笑いながら言ったことは分かった。千代子はその男の目を見た。何も言わなかった。男は去ってしまった。千代子はまた中に入り、掃除を続けた。午後1時に仕事が終わり、千代子は着替えてロッカーを閉めた。帰りは寄り道をせずに歩いた。家の鍵を開け、中に入ると秀夫が居間にいた。千代子の顔を見て「お疲れ」と言った。千代子はエプロンを外しながら「うん」と答えた。疲れていた。しかし、疲れていると言う気力も今日はなかった。秀夫は台所に立っていた。千代子が帰ってくる前に、何か作ろうとしていた。鍋に水が入っていた。しかし、火がついていなかった。秀夫は千代子を見た。「今日は俺が作る」と秀夫は言った。千代子は少し秀夫を見てから「分かりました」と言い、居間の座卓の前に座った。秀夫は冷蔵庫を開けた。卵とキャベツの半分と豆腐があった。秀夫は卵を取り出した。フライパンを出した。油を少しだけ入れた。火をつけた。卵を割った。黄身が2つ並んだ。秀夫はそれを箸でかき混ぜた。焦がさないように火加減を調節しようとしたが、どのくらいが適切か分からなかった。炎を少し弱めた。しばらくして、何かが焦げる匂いがした。秀夫はフライパンを見た。卵の端が茶色くなっていた。秀夫は箸で動かそうとしたが、そこにくっついて剥がれなかった。油が足りなかった。秀夫はフライパンを火から外した。卵の半分が焦げていた。秀夫はそれをそのまま皿に移した。千代子が顔を上げた。秀夫は皿を座卓に置いた。「焦げたな」と秀夫は言った。千代子は皿を見て「大丈夫です」と言った。2人で食べた。焦げた卵は苦かった。しかし、千代子は残さなかった。秀夫も残さなかった。食後、秀夫は台所で食器を洗った。千代子の分も。フライパンの底の焦げ付きを、スポンジでこすった。なかなか取れなかった。秀夫はしばらくこすり続けた。千代子が横に来て、「重曹をかければ取れます」と言った。秀夫は重曹がどこにあるか知らなかった。千代子が引き出しから取り出し、フライパンにかけた。少し待ってから、秀夫がスポンジで擦ると、今度は取れた。秀夫は黙ってこすり続けた。千代子は隣で洗い物の残りを片付けた。2人は肩を並べて、狭い台所に立っていた。
10月の末、封書が届いた。差出人を見て、千代子の手が止まった。尚弥の名前があった。千代子はしばらく封筒を持ったまま立っていた。秀夫が気づいて「何だ」と言った。千代子は無言で封筒を差し出した。秀夫が受け取り、差出人を確認した。秀夫は封を切った。中の書類を取り出した。表題を読んだ。「自己破産した旨の通知及び扶養義務免除に関する書面」。秀夫は1行ずつ読んだ。千代子は秀夫の隣に立ち、同じ書類を横から目で追った。紙面には、松原尚弥が東京地方裁判所に自己破産を申し立てたこと。破産手続きの開始に伴い、法的手続きに基づいて親への扶養義務の履行が困難であることを通知する旨。丁寧な法律用語で記されていた。最後に、弁護士事務所の名前と連絡先があった。尚弥の署名は、勝手に印刷されていた。手書きではなかった。秀夫は書類を最後まで読んだ。もう1度最初から読んだ。文面は変わらなかった。秀夫は書類を座卓に置いた。千代子は部屋の隅に行き、壁を向いて立った。秀夫にはその背中が見えた。千代子の肩がゆっくりと上下した。泣いているのか、ただ息をしているだけなのか、秀夫には判断できなかった。秀夫は声をかけようとした。しかし、何と呼びかければいいかわからなかった。「千代子」と呼べばいいだけだったが、その2文字が喉の手前で止まった。しばらくして、千代子が振り返った。目が赤かった。しかし、涙は流れていなかった。千代子は座卓の前に座り、書類を手に取った。もう1度読んだ。読み終えてから、書類を元通り折り、封筒に戻した。「どこかに連絡しますか?」と千代子は言った。「弁護士に問い合わせるとか」と続けた。声は落ち着いていた。秀夫は千代子を見た。しばらく考えた。「意味があるとは思えない」。しかし、それを口に出すことで千代子が何かを失うような気がして、秀夫は少し考えてから「一応、聞いてみてもいいかもしれない」と言った。千代子は頷いた。しかし、その後2人ともしばらく動かなかった。電話をかけようという気力が、どちらにも湧いてこなかった。夜になっても、書類は封筒に戻したまま座卓の隅に置かれていた。夕食は、豆腐の味噌汁と、千代子が仕事帰りにスーパーで半額になっていた魚の切れ端を買ってきたものだった。2人は食べた。テレビをつけた。バラエティ番組が流れていた。誰かが大きな声で笑っていた。千代子はその笑い声を聞きながら食事を続けた。笑い声がうるさかったが、消す理由もなかった。千代子も黙って食べていた。食後、千代子が食器を洗っている間、秀夫は座卓に座ったまま、テレビを見ていなかった。封筒を見ていた。封筒は斜めになって座卓の端に置かれていた。秀夫はそれをまっすぐにした。まっすぐにしてから、また見た。尚弥のことを考えた。35年間、何をしていたのか。何度も転職し、その都度理由を言わなかった。借金があることを言わなかった。親を利用することに、どこかで踏み切った。その踏み切った瞬間、尚弥は何を考えていたか。秀夫には想像できなかった。想像しようとすると、腹の傷が引き攣るような感覚があった。手術の傷はもう癒えていたが、痛みの記憶だけが時々戻ってきた。秀夫は腹に手を当てた。何もなかった。ただ、自分の体の表面があった。
10月の最終週、雨の夜。窓の外で雨が降り始めたのは、夜の9時頃だった。電車が通るたびに窓が振動し、その合間に雨音が聞こえた。電車と雨と、2種類の音が交互に来た。秀夫は座卓に座り、手元の電卓を見ていた。来月の出費の計算を、途中でやめていた。千代子が台所から出てきた。手に、半額のシールが貼られた弁当を2つ持っていた。夜の9時を過ぎてから買いに行き、残ったものを半額で買ってきた。最近は毎日そうしていた。9時を過ぎれば弁当が半額になることを、千代子はいつの間にかなが覚えていた。2つの弁当を座卓に並べた。プラスチックの蓋を外した。秀夫は自分の分を引き寄せた。箸を取った。弁当の中身は幕の内だった。それぞれの仕切りの中に、小さな料理が収まっていた。秀夫は1つ食べた。冷めていた。電子レンジで温めようかと思ったが、千代子がすでに箸を動かしていたので言わなかった。2人は弁当を食べた。電車が通った。振動があった。弁当の蓋が少し動いた。千代子がそれを手で抑えた。電車が通りすぎた後、雨音が戻ってきた。秀夫は箸を置いた。弁当を半分ほど食べたところで、手が止まっていた。千代子は気づいて秀夫を見た。秀夫は弁当を見ていた。千代子は何も言わなかった。秀夫はしばらくそのままでいて、それからまた箸を取り、食べた。食べ終わった後、秀夫は弁当の空の容器をゴミ袋に入れた。千代子の分も入れた。ゴミ袋を台所の所定の場所に戻した。台所の蛇口が少し垂れていた。秀夫は蛇口を締め直した。閉め直しても、まだわずかに垂れた。秀夫はそれをもう1度閉めた。今度は止まった。秀夫は蛇口から手を離した。居間に戻ると、千代子が畳んであった座布団を2枚出して、座卓の前に置いていた。電気を1つ消した。部屋が少し暗くなった。残った1つの光が、天井の古い電球色で部屋を満たした。2人は座布団に座った。秀夫が先に座り、千代子が後から座った。座卓を挟まず、同じ側に並んで座った。6畳間は狭く、並んで座ると肩が近かった。秀夫は膝の上に両手を置いた。千代子も同じように膝の上に手を置いた。雨の音がした。電車が通った。振動があった。電球がかすかに揺れた。天井の染みが、影の中に溶けた。秀夫は口を開いた。しかし、言葉が出てこなかった。声を出そうとして、喉の奥で何かが詰まった。秀夫は一度、静かに息を吸った。「すまなかった」と秀夫は言った。声が枯れていた。それでも、言葉ははっきり出た。千代子が秀夫を見た。秀夫は正面を向いていた。壁を見ていた。「退職金のことも」と秀夫は続けた。「黒田のことも、尚弥のことも、お前に何も相談しなかった。全部、俺1人で決めた。それが全部、間違いだった」千代子は秀夫を見続けた。秀夫の横顔を見た。62歳の男の横顔だった。頬がこけ、目の下に影があった。しかし、背筋は今もまっすぐだった。座布団の上に座っていても、背筋だけは変わっていなかった。千代子はその背筋を見た。35年間、ずっとこの背筋を見てきた。うるさいと思ったこともあった。今は違った。今、この背筋が、何かを必死に支えているように見えた。千代子は秀夫の手に、自分の手を重ねた。秀夫の手は乾いていた。指先が少し冷たかった。千代子の手も冷たかった。2つの冷たい手が重なった。秀夫は動かなかった。千代子も動かなかった。電車が通った。窓が振動した。2人の手が、その振動の中でわずかに揺れた。それでも、千代子の手は秀夫の手の上にあった。秀夫は目を閉じた。頭の中でここ数ヶ月のことが、一気に来た。退職金の通知書を開いた朝。再就職センターで差し出された求人票。山崎が安い居酒屋で1人で飲んでいた背中。尚弥と黒田が並んで玄関に立った午後。空になったビルの5階の廊下。病院のストレッチャーの上で、手術室に運ばれながら見た千代子の足元。家の鍵を最後に回した時の手の感触。それらが頭の中で1列に並び、それからバラバラに崩れた。崩れた後、何も残らなかった。残ったのは、今この部屋だけだった。雨の音と、電車の音と、千代子の手のぬくもりだけが、秀夫の体に届いていた。何も解決していなかった。来月の家賃は払えるか分からなかった。尚弥とは縁が切れた。手術の傷はまだ完全には癒えていなかった。千代子は毎朝、他人のトイレを磨きに行く。秀夫は仕事がなかった。2人の先に、明るい見通しはなかった。1つもなかった。それでも、今夜この部屋にいた。6畳間に座布団を2枚並べ、冷めた弁当を食べ、半額の食材で生きていた。秀夫はそれを惨めだとは思わなかった。惨めと思う気力ももうなかった。ただ、ここにいた。千代子もここにいた。雨が強くなった。窓を雨粒が叩く音が大きくなった。秀夫は目を開けた。窓の外は暗く、雨しか見えなかった。電球色の光の中で、秀夫は壁を見た。壁に何もなかった。前の家では、退職記念の時計がかかっていた場所だった。引っ越しの時に外したが、新しい部屋にかけるための釘がなかった。時計はダンボールの中にある。千代子が手を動かした。秀夫の手の上から離れた。秀夫は千代子を見た。千代子は立ち上がり、台所へ行った。しばらくして、湯飲みを2つ持って戻ってきた。お茶を入れていた。秀夫の前に1つ置き、自分の前に1つ置いた。それからまた座った。今度は、秀夫から少し距離を置いて座った。並んでいたが、先ほどより少し離れていた。千代子は自分の湯飲みを両手で包んだ。秀夫も湯飲みを手に取った。温かかった。口をつけて飲んだ。緑茶の味がした。薄かった。茶葉を節約しているためだった。それでも、温かかった。秀夫はもう1口飲んだ。電車が通った。窓が震えた。湯飲みの中のお茶が小さく揺れた。秀夫はそれが落ち着くのを見た。揺れが収まり、お茶の表面が平らに戻った。秀夫はまた飲んだ。千代子が言った。「明日も早い」と言った。秀夫は頷いた。千代子は湯飲みを置き、立ち上がった。秀夫も立ち上がった。布団を敷いた。6畳間に2枚並べると、端から端まで埋まった。電球を消した。部屋が暗くなった。雨の音だけが残った。秀夫は横になった。千代子も横になった。2人の間に、50cmほどの隙間があった。秀夫は天井を見た。暗くて、何も見えなかった。染みがどこにあるか分からなかった。秀夫はそのまま目を開けていた。眠れなかった。しかし、眠れないことを気にしなかった。雨が屋根を叩いていた。電車が1本通った。また雨の音に戻った。千代子の寝息が聞こえた。眠っているのかもしれなかった。秀夫には分からなかった。長い夜だった。明日も来る、明後日も来る。その先も、同じような日が続く。それに向かって、今夜は何も持っていなかった。貯金も仕事も息子も誇りも。秀夫が一生かけて積み上げたと思っていたものが、今この部屋のどこにもなかった。それでも、呼吸していた。千代子も呼吸していた。暗闇の中で、2人分の息が部屋に満ちていた。秀夫はそれを聞いていた。他に聞くものがなかったので、ただそれを聞いていた。やがて、秀夫の目が重くなった。眠気ではなく、疲労だった。意識が薄くなる手前で、秀夫は最後にもう1度、千代子の息遣いを聞いた。続いていた。それを確認してから、秀夫の意識は暗い部屋の中に溶けていった。



