「ねえ、なんで貧乏人のあんたがこんなとこにいるの?ここVIPエリアよ。やだ、あんたってもしかして一般のラウンジと間違えたんじゃないの?」
空港ラウンジで中学時代の元彼女・若葉に突然そう言われた。中卒の俺を真っ向から見下したような笑みを浮かべて。彼女は隣に立つ男の腕に絡みつきながら、わざとらしく自慢を続けた。
「私の彼、大手ゼネコンのエリートなのよ。あの超話題のタワマンの最上階を買ってくれたんだから」
その言葉を聞いて、俺はあることに気がついた。彼女たちがまだ気づいていない事実に。さらにその直後、意外な人物が現れて状況は一気に逆転するのだった。
俺の名前は富長司。今は不動産デベロッパー会社に勤めている。10歳の頃から母方の祖父母の家で暮らしていた。祖父母は穏やかで優しい人たちだったが、暮らしに余裕があるわけではなかった。だから俺は少しでも家計の足しになればと、中学時代から近所の小さな不動産会社でアルバイトを始めた。
中学生にできることなどたかが知れていたけれど、雇ってくれた社長はとてもいい人で、時間が空けば自身の経験談や、いい建設業者を見分ける方法など、本当にさまざまなことを教えてくれた。あの頃の体験は今でも俺の原点になっている。
中学卒業後、高校進学も考えたが、俺は不動産業界をもっと深く知りたいと思い、中卒で就職する道を選んだ。
それから月日は流れ、俺も27歳。周りの同世代ではちらほら結婚の話が出始めている。先日も会社の取引先経由で見合い話を持ち込まれた。だが俺には、いまいち恋愛や結婚に踏み切れない理由があった。
中学の頃、俺には山田若葉という彼女がいた。ちょっとわがままなところがあったが、可愛くて明るくて人気者のクラスメイト。俺は小さい頃から勉強が好きだったので学内でもトップクラスの成績を維持していたのだが、それを知った若葉が「勉強を教えてほしい」と言ってきたのがきっかけで親しく話すようになった。
告白してきたのは彼女の方からで、俺もその頃には彼女のことを憎からず思っていたので、二つ返事でOKした。
だが、中学卒業を目前に控えたある日、俺は突然若葉に振られてしまった。理由を聞かせてくれと口にした俺に、彼女は言った。
「あんたの貧乏に、これ以上付き合いきれないのよ。頭はいいから将来性を見込んで付き合ってあげてたのに。あんたが中卒で就職するとか言い出すから。とにかく今後は私に近づかないで」
そう吐き捨てるように言って、若葉は俺の前から去っていった。彼女にとっては軽い気持ちで付き合った相手だったのかもしれないが、俺にとっては初恋だった。
それ以降、俺は恋愛に積極的になれなくなった。何人か付き合った人はいたものの、すべて長続きせずに今に至っている。仕事は忙しいながらも順調だったが、未だ独身で彼女の影すらもなかった。
そろそろトラウマだなんだと言っている場合でもないか、と思い始めてはいたが、まだ踏ん切りはつけられずにいた。
あの日、俺は空港ラウンジのVIPエリアで仕事のメールを何件か確認しながら、待ち合わせまでの時間を潰していた。すると、コツコツとハイヒールが床を叩く音が近づいてきた。
「え、司君?」
VIPエリア特有のゆったりとした雰囲気にはそぐわない高い声に驚いて振り向くと、そこには中学時代の元彼女である若葉が、物珍しそうな様子でこちらを見ていた。中学卒業以来の再会だ。
27歳になった彼女は、あどけなさを残しつつもすっかり大人の女性になっていた。派手な化粧や、TPOをわきまえていない過剰なアクセサリーのせいか、中学の頃には見られなかった、どこかすれた印象のある女性へと変貌している。
俺が黙り込んでいると、若葉はこちらを頭の先からつま先までじろじろと無遠慮に眺め回し、唐突にふっと吹き出した。
「うわあ、七五三みたい。あんたみたいな貧乏人がこんな高そうなスーツ着ても全然様にならないのよね。何それ? 社交辞令? なら優しくしてあげないとね。僕ちゃん、よく似合ってるよ?」
そう言って、いかにも小ばかにしたような笑いと共に彼女は早速暴言を吐いてきた。そして、隣に立っていた男性に絡みつくようにして体をくっつける。
「ねえ、道さん。この人、私の中学時代のクラスメイトで、富長司君。彼、中学時代から働き者でね、ご実家が貧乏らしくって、中学からアルバイトもしてて、で、中卒で就職されたのよ」
言葉こそ丁寧に取り繕っているが、どこをどう聞いても嫌味だ。彼女と親しいらしい男性は、悪意たっぷりに紹介された俺の経歴に驚いたように目を丸くした後、彼女と同じようにしてじろじろとこちらを見てきた。
「初めまして。北村正道です。こちらの若葉さんとは婚約していて、近々結婚式もあげる予定なんですが。そうですか、彼女のクラスメイトでいらっしゃるんですね。彼女、その頃から可愛かったんでしょうね」
婚約者の褒め言葉に、横の若葉が「もう、正道さんたら」などとわざとらしく恥ずかしがりながらも、まんざらでもなさそうな顔をしている。
「ああ、まあ、そうですね」
俺は精一杯の愛想笑いでそれに答えた。どうでもいいが、若葉の高い声が響くたびにVIPルームの空気がどんどん居心地の悪いものになっていることに、二人はまったく気づいていないらしい。さっさとこの場を切り上げてしまいたいが、俺という獲物を捉えた彼女はなかなか解放してくれそうになかった。
「ねえ、なんで貧乏人のあんたがこんなとこにいるの? ここVIPエリアよ。やだ、あんたってもしかして一般のラウンジと間違えたんじゃないの? ああ、私たちは今からハワイに行くのよ。私が贅沢しなくてもいいって言ったんだけど、彼が張り切っちゃって」
困り顔を浮かべながらも、明らかな自慢を口にする。また彼女のあざとい上目遣いに、北村さんはデレデレと鼻の下を伸ばしている。
「だって、大事な若葉に喜んでもらいたくて」
「うん。ありがとう。道さん大好き」
もはやこの場で浮かれているのはこの二人だけだろう。俺を含めた周りの人々は、彼らのやり取りがいつまで続くのかと渋い顔をしている。だが、若葉たちは鈍感を絵に描いたような顔をして、必要以上に俺へと絡んできた。
「こちらの道さんね、有名大卒で今は大手ゼネコンに務めてらっしゃるエリートなの。それも、彼、会社からも将来は期待されていて、今度同期の中で一番早く課長になるのよ」
自分の手柄でもないのに得意げな様子で若葉はそう告げてくる。北村さんも、そんな婚約者をいさめるわけでもなく、「どうだ」と言わんばかりに俺を一瞥してくる始末だ。
そんな彼を見て、俺はわずかに眉を動かした。若葉から告げられた勤務先の名を聞いて、それが彼の名前とつながるような感覚を覚えたのだ。ああ、どこかで聞いたことがあったな。俺が記憶をたどっていると、若葉はまだペラペラと話し続ける。
「そういや、あんた不動産屋に就職したんでしょ。ってことは、正道さんの会社の下請けみたいなもんじゃない。ほら、せっかくの機会なんだし、ご挨拶しなさいよ」
そう言って彼女は笑った。そして北村さんも、追従するようにして薄笑いを浮かべて俺を見てくる。
「へえ。富長さんは不動産でしたか。中卒ならさぞご苦労されてることでしょうね。ああ、これも何かの縁だ。もし割のいい案件があれば優先的にそちらへ回しますよ」
「いえ、例は結構ですから」
「え、まあ、道さんてば優しいんだから。ほら、あんた感謝しなさいよ。何をぼーっとしてんのよ」
賑やかなことこの上ない彼らを見て、どうやらこの二人は似た者同士なのだなと俺は思った。若葉ほどあからさまではないが、俺へと向けられる北村さんの視線にも多分に侮蔑が含まれている。
俺は密かに相手を観察しながら、分かりやすく困った顔をして首を横に振った。
「いえ、そこまでしていただく義理もありませんので」
とにかくこの場を早く終わらせたい。その一心で曖昧に首を振り、俺はラウンジを出ていこうと思ったのだが、そのタイミングで再び若葉が喋り始める。
「ねえねえ、聞いて。正道さんね、こないだ二人の新居としてタワーマンションの最上階を買ってくれたのよ。先日もいっぱいニュースになってたから、いくら貧乏人のあんたでも知ってるでしょ。タワーマンション。ほら、だから駅前の人気があってなかなか抽選が出ないんだけど、道さんがコネを使ってくれてね。ちょっと、仮にも不動産屋なんだから、話題のマンション知っときなさいよ」
いまいち鈍い俺の反応に、苛立った調子で言う。だが、今の彼女の言葉で、俺はようやくすっきりしていた。なぜ北村さんの名前に聞き覚えがあったのか、その疑問が溶けたからだ。
ああ、なるほど。そういうことか。
そして俺が口を開きかけたその時、背後から本来の待ち合わせ相手である男の声が俺たちの間に割って入ってきた。
「ごめん、司、待たせたな。なかなか仕事が終わらなくってさ。ああ、そちらのお二人。お邪魔しちゃってすみませんね。ただね、ちょっと聞き覚えのあるマンションの話題が聞こえてきちゃって」
「はっ? 誰?」
と言いたげな顔をして眉を寄せる若葉に、向井は飄々とした様子で自己紹介した。向井はどこでも誰とでも仲良くなれるという特技を持つ男で、俺が5年ほど前に知り合った親しい友人の一人だ。今日は彼と一緒にとある物件を見に行く約束をしていた。
親しみやすくはあるけれど、どこか抜け目のなさも感じさせる向井に、若葉たちは圧倒されているらしく、ポカンと口を開けている。
だが向井はそんな彼らを気にした風もなく、むしろ彼らに言って聞かせるような口調で、わざとらしく俺へと問いかけてきた。
「なあ、こちらのお兄さんが買ったらしい。そのタワーマンションって、司の会社が建てたものだよな」
するとその言葉にいち早く反応したのは若葉の方だった。
「え? どういうこと? 司君の会社って?」
そして一歩下がって、横をうかがうと、なぜか北村さんが向井の顔をまじまじと見つめ、それから何かに気づいたように言葉をなくし、顔色を悪くしているのが見えた。
しかし婚約者の異変には気づかないのか、若葉はふんと鼻で笑い、こちらを一瞥する。
「ちょっと、いくら冗談でもあまりにお粗末よ。こんな中卒の貧乏人の勤め先が建てたマンションですって。どこの誰だか知らないけど、そんな冗談言って私たちをバカにするつもり?」
不愉快そうに苛立った声をあげる若葉だが、そんな婚約者の腕を、もはや顔面蒼白となった北村さんが力任せに引っ張る。
「え、ちょっと痛い。道さん」
「若葉、今すぐ謝って」
「はぁ? どういうこと?」
「いいから謝れ」
つい先ほどまで自分と一緒になってのろけていた婚約者の豹変に、若葉は何が何だかわからないといった顔をしている。北村さんはそんな彼女に向かって、震える声で事実を告げた。
「こちらの富長さんは、小照明あのマンションを建てた会社にお勤めだ。いや、それだけじゃない。俺が買ったあの部屋も、元々は彼の持ち物だったものだ。彼はその会社の社長の息子で、副社長をされている」
「え、何それ?」
瞬間、動きを止めたようにして若葉は固まった。
そうなのだ。実は俺の父は経営者一族の長男で、俺の勤めるデベロッパー会社の社長でもある。俺が祖父母の家に預けられていた理由は、父が海外勤務となったからだった。母を早くに亡くしていた俺は、母との思い出が残る日本を離れることを嫌がった。だから父は仕方なく母方の祖父母に俺のことを頼んだのだ。
父は俺の教育費や生活費、それから世話代としての諸々を祖父母に振り込むつもりだったらしいが、倹約家で穏やかな生活を送っていた祖父母はそれを断った。そして俺は、質素な暮らしをする祖父母のもと、過度な贅沢をするでもなく育ち、中学ではアルバイトに精を出した。
その後、父や祖父母は高校進学を勧めてくれたが、それを押し切って中卒で就職したのは、早く社会へ出て仕事を覚えたかったからだ。将来的に親の会社を継ぐというのは決まっていたけれど、俺はそのレールに甘えたくはなかった。また父も仕事には厳しい人だったから、いくら実の息子と言えど適正がないとなれば、容赦なく俺を後継者候補から外していただろう。それが分かっていたため、俺はとにかく今まで一生懸命仕事へと打ち込んできたのだ。
だが、俺の家の事情は若葉には伝えていなかった。彼女は少しおしゃべりなところもあったから、俺が大手企業の社長の息子だとわかれば、構わずべらべらと話すかもしれないと危惧していたからだ。そんな話が広まれば、父や祖父母、また俺自身も様々な厄介ごとに巻き込まれかねない。それに俺は、俺自身のことを見て、きちんと向き合ってくれる人を求めていた。
その思いは見事に裏切られることになるわけだが、それは人を見る目のなかった俺にも責任はある。
現在、北村さんの言う通り、俺は親の会社で副社長の座につき、個人的にも不動産投資を行っている。そして向井とはその投資を通して知り合い、親しくなった。あのタワーマンションも、予約開始当初から何室か所有していたが、この度向井に勧められてハワイに別荘を一軒買うこととなり、そのうちの一室を売りに出したのだ。今日も別荘の件で二人で現地に赴く予定だった。
まさか空港のラウンジで元彼女やその婚約者と顔を合わせることになるとは、俺も予想していなかった。それも、北村さんが購入したのが売りに出したそのマンションだったとは。
世の中、思いもよらない偶然もあるものだと、俺は内心しみじみしてしまった。
婚約者から俺の現在を告げられた若葉はと言えば、「嘘でしょ」と呟いたまま、未だに信じられない様子で呆然としている。自身の出自をはっきり告げなかった俺も悪いとは思うが、彼女は彼女で俺のスペックしか見ていなかったのだから、それはお互い様ということにしてもらいたい。
しばらく黙り込んでいた向井が、北村さんに向かって淡々と口を開いた。
「さて、北村係長。ああ、もうすぐ課長か。大手企業の課長になろうという方が、こんなところで彼女と一緒になって、ああいう失礼な態度をとるというのはいかがなものだろうか」
向井の指摘に、真っ青になっていた北村さんがさらにビクッと肩を揺らす。
「向井、お前、北村さんと知り合いなのか?」
北村さんの態度を見ていても、彼らが初対面とはとても思えない。俺が首をかしげてそう問えば、向井がゆっくりと答えた。
「そう。北村さんがお勤めの会社と取引先をさせてもらっている会社に務めているのが、この僕。ちなみにこの度、専務へ昇進しました。1年ほど前かな、北村さんとも顔合わせしてるよね」
と、矛先を振られた北村さんは、脂汗を浮かべながら無言で頷いた。
「ああ、1年前に少しだけ挨拶した程度だから、すぐに思い出せなかったみたいだけどね」
向井がそう言って笑う。言動こそ軽いものの、その実向井は長年やり手の監査部長として活躍していたことは俺も知っている。そしてこういう時の彼は、やはりその抜け目のなさを存分に発揮していた。
向井は自身のスーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、操作する。すると流れ出したのは、先ほど北村さんが若葉と共に俺へと絡んでいた一場面。見間違いようのないほど綺麗に録画されている。それを目にして、北村さんが小刻みに震え出す。
「はい、この通りです。この録画を、僕の報告と一緒に北村さんの会社の役員にはあげておくから」
その言葉に、とうとう立っていられなくなったのか、北村さんがその場でがっくりと膝をついた。
その時、ちょうど俺たちが乗る予定の便のアナウンスが入る。
「ねえ、ちょっと、今の何? どういうことよ?」
物言わず黙り込む婚約者と、その横で取り乱している若葉を一瞥し、俺は向井に促されるままロビーへと向かったのだった。
これは後から聞いた話であるが、あの二人は早々に喧嘩別れとなったようだった。また、北村さんは言及の上、平社員へと降格。せっかく買ったマンションのローンも払えなくなり、結局1日も住まないまま売却することとなったらしい。
北村さんと別れた若葉のその後までは分からない。自慢の彼氏とタワマンを失ったのは残念であろうが、まあ身から出た錆なので同情の余地はない。
それにしても、今回の件で、俺はなんとなく引っかかったままになっていた中学時代の靄がすっきり抜けたような気がした。そう、過去は過去だ。それを変えることはできないが、その代わり俺はこれからの未来を自分で作っていくことができる。肩書きや立場でなく、俺自身を見て向き合ってくれる人を大切にしていこう。
俺は改めて決意を新たにしたのだった。



