目の前の新入社員が、地面を踏み鳴らしながら狂ったように叫んでいた。
「俺は未来の社長様だぞ!お前のような生意気な部下は首だ!」
新入社員であるはずの社長の息子、大畑正幸は、部長である俺に対して偉そうな態度で怒鳴り散らしていた。社長という大きな後ろ盾があることで、彼は自分が他の誰よりも偉いと勘違いしているようだった。
「今はまだ俺が上司だ。君に俺を首にする権限はない。少し落ち着きなさい」
冷静に説得しようとするが、まったく効果はない。彼はますます激しく地面を踏み鳴らし、「首だ、首だ」と叫び続けた。そんな彼に、周囲の社員たちの冷たい視線が突き刺さる。しかし頭に血が上っている彼は、周りの様子にも気づいていないようだった。
「首だと言ってるだろうが!今すぐ出ていけ!」
「その言葉は本気か?」
「当たり前だ!」
きっぱりと答える彼に、俺はこの会社に未来はないと悟った。俺はすぐさま上層部に掛け合うことにしたが、上層部の人間は社長の息子とトラブルを起こしたくないのか、困った顔で唸るばかりだった。最終的には「君の部署の問題なんだから、君が円満に解決したまえ」という、いつもの丸投げをしてくる。
そんな上層部の対応に、俺は心底がっかりした。そして、この会社にもう未来はないと見切りをつけた。
「社長の息子が首だとおっしゃるんで、俺は首を受け入れますよ。長い間お世話になりました」
そう言うと、焦って引き止める上層部の声を無視し、さっさと部屋を出た。俺は部下たちが目を丸くして見つめる中、自分の私物を整理し、その日のうちに会社を去ったのだった。
事の始まりは、桜の花びらが散り始める頃に行われた入社式だった。
俺の名前は岡本健二。大学卒業と同時にある会社に入社し、長い間会社のために尽力してきた。現在は営業部で部長の役職を任されている。部長となってからは後輩の育成にも力を入れ、会社をよりよくしようと努力してきた。その甲斐あってか、社内での俺の評判は良く、同僚たちからの信頼も熱い。
俺は仲間たちと力を合わせながら仕事に取り組んできたが、問題が一つだけあった。それはこの会社の社長と上層部の丸投げ体質である。社長や上層部の人間たちは、自ら会社の実態を把握しようとはせず、全てを現場任せにする。何か問題があって訴えても、「そっちでどうにかしてくれ」とばかりの対応で、真剣に取り合ってくれないのだ。
現場がいくら頑張っても上がこれでは、いずれは歪みが生まれてしまうかもしれない。そんな不安を抱えながらも、俺は目の前の仕事に毎日真摯に取り組んでいた。
入社式の日、新入社員たちが緊張した顔で次々と会場に入ってくる。微笑ましい気持ちで彼らを眺めていた俺は、その中に一人だけやけに尊大な態度の新入社員がいることに気づいた。彼は先輩社員たちに頭を下げることもなく、他の新入社員たちを威圧するようにしながらドカッと椅子に座る。そしてそのまま足を組み、スーツのポケットに両手を突っ込んだ。周りの新入社員がピシッと背筋を伸ばして座っている中、一人だけだらけた姿勢で座っている彼の姿は、誰が見ても異様だった。
俺は近くにいた人事部長に小声で尋ねた。
「あそこにいる新入社員、誰だか分かるか?」
「ああ」
人事部長は俺の視線を辿り、すぐに俺が誰のことを指しているか分かったらしい。それまで柔和な笑みを浮かべていた彼の顔が、不快そうに歪む。
「あれは社長の息子の正幸君だよ」
その答えを聞いて、ようやくあの新入社員の不遜な態度に合点が行った。虎の威を借る狐というやつなのだろう。
「正幸君は入社試験を受けたのか?」
「まあ一応な。いい成績じゃなかったけど」
人事部長は社長の息子をコネ採用しなければならなかったことに悔しさを抱いているのだろう。彼の顔にはありありと不満の色が浮かんでいる。
「でもこれから苦労するのはお前だと思うぞ」
俺がキョトンとしていると、彼は俺を同情するような目で見て言った。
「彼は営業部に配属される予定だからな」
「嘘だろ」
俺は呆然とつぶやき、再度社長の息子に目を向ける。彼は先ほどと変わらない体勢で座りながら、退屈そうに欠伸をしていた。その姿を見れば見るほど、不安しか湧いてこない。
「あれ?拒否できないか?」
「無理だな」
半分冗談で言った言葉に真剣な声で返され、俺は思わず頭を抱えるのだった。
入社式終了後、新入社員たちは配属先を伝えられ、各自が自分の職場となる部署へ向かった。俺が管理する営業部にも数人の新入社員がやってくる。もちろんその中の一人は社長の息子である正幸君だ。
「今日から営業部に入ってきた新入社員たちだ。じゃあまずは一人ずつ自己紹介をしてもらおうか」
俺のデスクの前に一列に並んだ新入社員たちは、正幸君を除いて誰もがガチガチになっていた。彼らは先輩社員たちからの視線を一斉に浴びながらも、なんとか自己紹介を終えていく。
そして最後の一人、正幸君の番となった。彼は物怖じする様子もなく一歩前に出ると、堂々とした口調で語り始めた。
「俺は大畑正幸。この会社の社長の息子だ。いずれはこの会社を継ぐことになるが、とりあえず今はこの営業部で我慢してやる。少しの間でも俺と一緒に仕事ができるんだ。光栄に思え」
あんまりな自己紹介に、誰もが気圧されポカンと口を開けている。新入社員たちの彼を見る目には、恐怖の色さえ混じっていた。
さすがにこの状況は看過できず、俺は一つ咳払いをして彼を窘める。
「正幸君、君は確かに社長の息子かもしれないが、今はただの新入社員に過ぎない。もう少し慎みを持って周りに接してくれないか?」
「はあ?なんだよお前」
彼は俺の言葉など聞く耳を持たず、逆に苛立ったようにこちらに絡んできた。
「営業部の部長の岡本健二だ。これから君たち新入社員は俺の指示に従ってもらうよ」
「たかが部長ごときが俺に偉そうな口聞いてんじゃねえ」
彼は乱暴な口調で怒鳴ると、ふらふらした様子で出口へ向かう。
「おい、どこに行くんだ?」
「今日は顔合わせだけだろ。もう用は済んだから帰る」
そういうなり彼は本当に帰ってしまった。その瞬間、我に帰った社員たちの怒りが爆発する。
「なんだあいつ?」
「仕事も知らない新入社員が偉そうに」
当然となる社員たちを沈めるのは俺の仕事だが、今回に限っては彼らを止める気になれなかった。彼らの気持ちが痛いほどよくわかるからだ。
残された新入社員たちは、自分たちが悪いわけでもないのにひどく気まずそうな顔をしており、身の置き所もない様子だ。俺は騒ぐ社員たちをひとまず放置して、先に彼らのフォローに回る。
「こんな騒ぎになって悪かったね。君たちも今日は帰っていいよ。本格的な仕事は明日から始まるから、よろしくね」
俺の声かけに彼らはホッとしたような顔になり、丁寧に頭を下げて部屋を出ていった。
あれこそが本来の新入社員というものだ。そんなことを思いながら彼らのことを眺めていると、いつの間にかそばに来ていた課長の田中が苦笑交じりに言った。
「あれは苦労しそうですね」
「全く、飛んだお荷物を押し付けられたよ」
俺は愚痴をこぼしながら、未だに騒ぐ社員たちの収拾に向かう。彼らはようやく落ち着きを取り戻したが、どの顔も一様に不満だ。明日から何もトラブルが起きなければいいが、不安な思いを抱きながら俺は気持ちを切り替えて通常業務へと戻った。
翌日からは新人研修が行われることとなり、俺は新入社員たちにそれぞれ教育係を割り振る。正幸君には田中をつけることにした。田中は営業成績トップの優秀な社員で人柄も申し分ない。彼には苦労をかけてしまうが、正幸君の手本になってくれればと思ったのだ。
「初めまして。課長の田中友です。これからよろしく」
田中はにこやかに正幸君に挨拶をするが、彼はそんな彼を睨みつけるような目で見ていた。椅子にふんぞり返ったまま、挨拶も返さない。しかし田中はそのくらいのことではいちいち動揺せず、早速仕事の説明に取りかかった。
田中はまず必ず覚えなければいけない細々とした仕事を教え始めたが、正幸君は全く興味なさそうな顔で、メモを取ろうともしない。挙句の果てには「次期社長にこんな細かい仕事が必要か」などと言い出す始末。それでも田中は怒らず、それらの仕事の大事さを説いていたが、彼の心に響いている様子はない。さすがに目に余ったので俺も注意しに行くが、それでも彼の態度は変わらなかった。
「こんなつまらない仕事じゃなくてさ、もっと大きな仕事やらせろよ」
「田中が今教えている仕事は、そういった大きな仕事をする上でも必要なものだ。まずは基礎を身につけないといけないんだよ」
「めんどくせえな。こんなことやってられるか」
彼はふてくされて、その後全く話を聞こうとしなかったので、他の社員の邪魔になるよりはと思い早めに家に帰らせた。しかしこれでは他の社員にも示しがつかないし、何よりこちらの仕事も全く進まない。
思い悩んだ俺は、その日の業務終了後に思い切って社長に直談判に行くことにした。大畑社長は嫌な顔もせずに会ってくれたが、どうも俺の言いたいことを理解してくれなかった。彼は自分の息子を全面的に信頼しているらしく、「あの子は優秀だろう」と的外れなことを言うばかりで、全く話にならない。結局何の解決策も得られないまま、俺は社長室を後にした。
この先もこんな調子では、正幸君はいつまで経っても使い物にならないだろう。どうしたものかと頭を悩ませつつも、結局いいアイデアは生まれず、ズルズルと時間だけが過ぎていった。
それから一週間後、その日は田中が大事な商談に向かう日で、俺も同行する予定になっていた。商談の相手は取引先の水島社長。彼は会社にとってもかなり重要な人物だ。
俺たちが取引先へ行く準備をしていると、そこに正幸君がやってきてとんでもないことを言い出した。
「今日は商談に行くんだろ。連れて行って取引先に俺を紹介しろよ」
驚いた田中が何か言う前に、俺は彼を諭すように言った。
「正幸君、今日は俺たちが動く大事な商談なんだ。一緒に行くのはまた別の機会にしてくれ」
「そんな大きな商談ならなおさら連れて行けよ。向こうも社長の息子がいた方が喜ぶだろう」
相変わらず話を聞かない彼に、俺は大きなため息をつく。
「この商談は田中を中心として進めてきたものだ。社長の息子とかそういうのは関係ないよ」
「はあ。いつもヘラヘラ笑ってるだけのおっさんに何ができるんだ?こんなやつじゃ頼りないから、俺が言ってやるって言ってんだよ」
田中を馬鹿にするようなセリフに、さすがに俺の我慢も限界を超えた。俺は厳しい声でこの態度の悪い新入社員を一喝する。
「いい加減にしないか!」
俺の大声に部署内は静まり、社員たちが何事かとこちらに注目する。正幸君も驚いたような顔で俺のことを見ていた。
「それが上司に対する態度か。今すぐ彼に謝罪しなさい」
「は?ふざけんなよ。なんで俺がこんなおっさんに謝らなきゃならないんだよ」
俺に怒られたことがよほど腹に据えかねたのか、正幸君は顔を真っ赤に染めて俺に怒鳴り返してきた。
「俺は社長の息子だぞ!お前らとは立場が違うんだよ!」
「社長の息子だろうが何だろうが、君はまだ何も分からない未熟な新人だ。その新人が上司である田中にあのような口を聞くなどあってはならない」
喚き散らす正幸君に、俺は泰然とした態度で告げた。社長の息子を刺激するのはあまり得策ではないかもしれないが、彼をこのままにしたら会社がダメになってしまう。会社の未来のためにも、彼には成長してもらわなければならない。
しかし、そんな俺の気持ちが正幸君に通じることはなく、彼は濁った目で俺のことを睨みつけた。
「俺は未来の社長様だぞ。お前のような生意気な部下は首だ」
「今はまだ俺が上司だ。君に俺を首にする権限はない。少し落ち着きなさい」
「うるさい!うるさい!」
冷静に説得しようとするも、全く効果はない。正幸君はだんだんと地面を踏み鳴らすと、狂ったように「首だ」と叫び続けた。そんな彼に周囲の冷たい視線が突き刺さる。しかし頭に血が登っている彼は、周りの様子にも気づいていないようだった。
「首だと言ってるだろうが!今すぐ出ていけ!」
「その言葉は本気か?」
「当たり前だ!」
呆れたように訪ねる俺に、正幸君はきっぱりと答える。全く反省する様子もない彼の姿に、さすがにこのままにしておけないと思った俺は、すぐさま上層部に掛け合うことにした。
しかし、上層部の人間は社長の息子とトラブルを起こしたくないのか、困った顔で唸るばかり。最終的には「君の部署の問題なんだから、君が円満に解決したまえ」と、お得意の丸投げをしてくる。そんな上層部の対応に、俺は心底がっかりした。そして、この会社にもう未来はないと見切りをつける。
「社長の息子が首だとおっしゃるんで、俺は首を受け入れますよ。長い間お世話になりました」
そう言うと、俺は焦って引き止める上層部の声を無視し、さっさと部屋を出た。それから今日の商談予定だった水島社長に謝罪の連絡を入れる。
「すみません。急に会社をやめることになったので、今日のお商談には伺えなくなりました」
電話の向こうで水島社長が驚愕の声を上げるが、俺は詳しい説明はせずに丁寧に謝罪だけして電話を切る。もうこの会社がどうなろうと知ったことではないのだが、水島社長には悪いことをしてしまった。
そんなことを考えながら、俺は部下たちが目を丸くして見つめる中、自分の私物を整理し、その日のうちに会社を去ったのだった。
それから二ヶ月後、俺は同業他社に転職して仕事に忙殺されていた。俺のこれまでの業績が認められ、即戦力として雇ってもらえたのだ。
ある日、俺が商談先に向かおうと外を歩いていると、バッタリ正幸君と出くわした。どうやら昼食の最中らしいが、どこか疲れた様子だ。俯きながら歩いていた正幸君は俺に気づくと顔を上げ、丸まっていた背筋をピンと伸ばす。そして表情を引き締め、強がるように尊大な口調で言った。
「俺に首を切られたおっさんじゃないか。職探しでもしてるのか?」
俺が黙っていると、彼は優越感に浸りながらニヤニヤと笑う。
「その年齢で首になったんじゃ、転職もできないんじゃないか。未来の社長様に逆らうからそういうことになるんだぜ」
俺は肩を竦め、静かに反論した。
「ご期待に添えなくて申し訳ないが、今はもう違う会社で働いているよ」
彼の会社のライバルでもある会社の名前を告げると、彼は驚きに目を見張る。しかし、すぐにまた意地の悪い笑みを浮かべると、俺のことを馬鹿にしきった調子で言った。
「見栄を張るのもほどほどにした方がいいぞ。後で恥をかくのは自分だからな」
そのセリフ、そっくりそのまま彼に返したいものだ。そんなことを思いながら、俺は懐から自分の名刺を取り出す。その名刺を見た正幸君は、俺の言っていることが事実だと知って固まってしまった。
俺は名刺をしまいながら、世間話をするような調子で彼に近況を尋ねる。
「それで君は仕事の方はどうなんだ?うまくやれてるのかい?」
その質問に彼は一瞬苦しい顔になったが、すぐに「順調に決まってるだろう」と胸を張って答えた。
「俺のことより自分の心配でもしてろ。また首にならないようにな。せいぜい頑張るんだな」
彼はこちらを威嚇するように睨むと、捨てゼリフを吐いて去っていった。どうも様子がおかしかったが、もう俺の気にすることでもないだろう。俺は彼のことを頭から追い出し、今日の商談相手である水島社長に会いに行った。新しく入った会社も水島社長と縁があり、今日は新規契約の相談をすることになっていたのだ。
俺が商談場所に到着すると、水島社長は笑顔で手を振ってくれた。
「いや、また君と仕事ができて嬉しいよ」
「私もです」
和やかな雰囲気の中、商談は進み、無事に契約は結ばれた。俺が契約書をまとめて帰り支度をしていると、水島社長が「そういえば」と話を切り出す。
「君が前にいた会社、大変なことになってるらしいよ」
「そうなんですか」
驚いて聞き返す俺に、水島社長は詳しいことを教えてくれた。どうやら俺が社長の息子のせいで首になったという話が広まったらしく、社内ではそれを不服とした優秀な人材が次々に退職していったそうだ。社長は相変わらず現場のことなど何も把握できておらず、何も分からないまま優秀な人材を失い、手前になっているという。社員たちは社長の息子のせいだと声を上げているが、自分の息子が優秀だと信じている社長は彼が元凶だとは信じられず、戸惑っているらしい。
「大畑社長の社員に丸投げをする姿勢は以前から不審感があったが、やっぱり大きな問題になったね」
水島社長は今回の騒動についても、それほど驚きはないようだ。おそらくいずれ何かしらのトラブルが起きると予測していたのだろう。
「私があの会社と取引を続けていたのは、君を初めとした営業部との信頼関係があったからだ。君が唐突に首になったと聞いた時は本当に驚いたが、今となっては別の会社に移って良かったと思うよ」
その言葉に頷きつつ、俺は自分を信頼してくれている水島社長に感謝する。実は今の会社にすんなり入社できたのも、水島社長がライバル社に声をかけてくれたからだ。水島社長は俺が退職したその翌日にはライバル社に話を持ちかけており、次の職場を探す間もなく転職することができたのである。
「あの会社もこれからかなり大変だろうが、もううちには関係ないしな。今はもう契約してないんですか?」
「君がいないのに契約を続ける意味はないからな。あの会社とは先日で契約がゼロになったよ」
「そうですか」
優秀な人材が辞め、大口の契約もなくなり、今頃大畑社長や上層部は慌てふためいていることだろう。しかし、これも自分たちがしっかりと現場の監督を行わなかった結果だ。自業自得だと諦めるしかないだろう。
「向こうの会社との契約を切った分、これから君の会社が忙しくなるぞ。大丈夫か?」
挑むように訪ねる水島社長に、俺は「任せてください」と自信に満ちた声で答えた。
それから三ヶ月後、俺は再び田中と一緒に仕事をすることになる。彼も俺が退職してから会社を辞め、この会社に転職してきたのだ。田中の優秀さはこの会社でも発揮されており、転職初日からバリバリ働いている。前の会社で行うはずだった水島社長との相談も、今の会社で無事に商談成立となった。
ある日の休憩中、田中と一緒に昼飯を食べていると、田中がふと思い出したように前の会社の話題を持ち出した。
「前の会社、人材不足で大変みたいですね」
「ああ、社員が次々辞めていったんだろ」
「はい。俺が辞めた時も相当ひどかったけど、今はもっとひどいことになってるんじゃないかな。人材不足で経営が立ち行かなくなってるみたいです」
「それは相当だな」
社長と上層部はともかく、あの会社には多くの優秀な社員がいた。彼らが揃って辞めてしまったとなれば、会社自体の存続が危ぶまれるのも当然だ。
「大畑社長もここまで来て、やっと息子が原因だってわかったらしいですよ。大激怒して正幸君を首にしたとか」
「もっと早く気づいて欲しかったな」
「もはや倒産寸前ですしね」
いくら立派な会社でも、中で働く人たちがいなければどうにもならない。新たな人材の確保も難しいとなれば、今更息子を首にしたところで、会社を立て直すことはできないだろう。
「それで正幸君はどうしてるんだ?」
「大畑社長に縁を切られて、あちこちを転々としてるそうですよ」
「あの性格じゃ、どこへ行っても雇ってもらえないだろうな」
「聞いた話じゃ、日雇いのアルバイトを点々としてるって噂ですよ」
「それは大変だな。雇う方が」
「全くです」
俺の言葉に田中は苦笑しながら頷く。どちらかといえば、俺以上に正幸君に苦労させられた田中だ。色々と思うところもあるのだろう。これまでのことを労うつもりで「お前も大変だったな」と言うと、田中はキョトンとした顔をし、それから笑顔で首を横に振った。
「いえ、彼には結構感謝してるんですよ。あの会社を辞めるきっかけをくれたんで」
確かにそう言われれば、そうかもしれないな。俺もあそこで彼が入社してこなければ、社長や上層部の姿勢に不満を持ちつつも、あのまま働き続けていただろう。今ここにいることもなかったはずだ。
しかし彼に首にさせられたおかげで、この会社と出会い、ストレスなく働けるようになった。また、能力が正当に評価されるこの会社では、以前よりもずっとやりがいが感じられる。自分で選んだ転職ではなかったが、この会社に入社できて本当に良かった。幸い営業成績で貢献することができているので、この調子で頑張っていれば、俺を拾ってくれた会社に恩返しができるだろう。
これからも気を抜くことなく、水島社長や同僚たちの信頼に答えていこうと思う。



