「おい、口を慎しめ。一生許さないのは俺の方だ。」
妻は、俺が言い返すとは思っていなかったのか、少し怯んだ。だが、一度口を開いてしまえば、もう止まらなかった。
「香りは俺の子じゃないんだろう?」
そう言いながら、証拠の写真を妻に突きつけた。すると妻は一瞬驚いたものの、すぐに開き直った。
「そんなもの、もう時効でしょ。今更どうでもいいじゃない。明日は香りの結婚式なのよ。」
俺はその態度に呆れ果てた。土下座とは言わない。でも、せめて心からの謝罪の言葉を聞けたら、ほんの少しは許す気になったかもしれない。しかし、妻には全く反省の色がない。絶対に許せなかった。
妻の金切り声で目が覚めたのだろう。娘も起きてきて、「ちょっと何を騒いでいるの?睡眠不足はお肌の大敵なのよ」と呟いた。妻も娘も、自分のことしか考えていない。
俺は妻と娘を一瞥し、寝室へ行くと、いつもの出張用のバッグを持ってきた。出張に慣れているから、貴重品や着替えをまとめるのに5分もかからない。俺は自分の荷物の少なさに笑いが出た。
「なんで笑ってるのよ。気持ち悪いわね。あ、ちょっと、どこ行くのよ。」
妻が叫ぶが、むしろ、なんで俺が血の繋がらない娘の結婚式に、浮気をしている女と一緒に出席しなければいけないのか。俺はすーっと息を吸い込んだ。
「いい加減にしろ。お前も香りも俺を散々バカにして嫌ってきたが、俺の気持ちを少しでも考えたことはあったか?俺はいい夫、いい父親であろうとずっと努力してきた。お前たちはどうだ?お前たちのしていることはモラハラだぞ。俺を金ヅル扱いするなら、もっと俺に優しく大切にするべきだったのに。浮気を開き直るような悪い女とは夫婦ではいられないし、香りも俺の子ではないから、お前たちとは縁を切る。あんなに毎日俺に出ていけと言っていたんだ。お前たちの望み通り、俺は消えてやろう。ただ、俺のことを馬鹿にした代償はしっかり払ってもらうからな。」
俺はそれだけ言うと、口々に叫ぶ妻と娘の言葉に答えず、そのまま外に出た。行く先はもう決まっているし、今後の見通しも立っている。
振り返ると、俺の人生はあの日から転がり始めた。
俺は45歳の、どこにでもいる中年男性だ。昔、大学生の時に妻を妊娠させ、大学を中退して働くことになった。妻とは大学時代の合コンで知り合った。デパートの年上のお姉さんたちと約束を取り付けたと友達に誘われ、ほいほいついていき、酔っ払って気づいたら翌朝、ラブホテルで目が覚めた。まあ、関係を持っちゃったし、付き合うことになったが、一晩で妊娠したと言われ、大学を中退して結婚した。
俺がすぐに就職できた仕事が交通誘導員だった。妻と娘には「誰にでもできる仕事でダサい」と馬鹿にされるが、実際はコツもいるし、なかなか難しい上に、ものすごく過酷な仕事だ。夏は炎天下、冬は極寒の風の中で立ち続ける。その場に応じた臨機応変な判断を求められ、通行人や車の運転手から暴言を浴びせられる時もある。それでも俺はこの仕事が嫌いじゃなかった。俺を雇ってくれた会社の社長にも恩義を感じているし、仕事仲間たちともうまくやっている。
娘と嫌悪になったきっかけは、娘が14歳の頃だったと思う。それまでも「防犯用ロボットでもできるじゃん」と馬鹿にしていたが、俺は気にしなかった。交通誘導員という専門の資格もあって、ちゃんと給料も払われる以上、社会には必要な仕事だ。娘はまだ幼いから分からないだけ。いつかきっと、俺のことも俺の仕事も分かってくれると信じていた。
ある時、偶然現場が娘の中学校の近くだった時があった。俺は友達と帰宅中の娘を発見し、笑顔で手を振って「かおり、気をつけて帰れよ」と叫んだ。父親が娘を見つけただけだし、俺としてはごく自然な行動のつもりだった。ところが、娘は不機嫌そうな顔で俺を睨んで無視したのだ。その場にいた同僚は「娘さん、反抗期なんだね」と苦笑いだった。
だが、話はこれだけでは終わらなかった。なんと俺の会社に匿名で「そちらの交通誘導員から突然セクハラ的な暴言を吐かれた」というクレームが入ったのだ。状況からして、俺のことを娘が言ったとしか思えない。事情が分からない上層部は不適切事案として俺に厳重注意をしてきたが、納得がいかないし、何より困惑した。
家に帰って、俺は娘に「どういうことだ」と問い詰める。すると娘は逆ギレした。
「私が友達と一緒にいる時に話しかけて来ないでよ。あんたみたいな作業員が私の親なんて恥ずかしいのよ。」
娘はどうやら自分の友達に、父親は裕福な会社役員だと嘘をついていたらしい。でも俺に声をかけられて、友達に嘘がバレてしまい、八つ当たりしてきたというのが真相だった。
「お父さんは作業員じゃない。交通誘導員だよ。」
俺は訂正したが、娘の怒りを煽っただけだ。
「そんなのどっちでも同じよ。学校の友達の家はみんな普通の会社員なのに。なんでうちは肉体労働者なのよ。社会の底辺じゃん。」
「かおり、仕事に優劣なんてないぞ。会社員だって俺だって普通に働いているんだ。どっちが偉いとかすごいとかいうことはないし、お父さんみたいに外で働く人も社会には必要なんだ。」
俺は静かに諭してやる。でも娘は親を「あんた」呼ばわりする始末で聞く耳を持たない。そこへ妻がやってきて、「でもさ、あんたなんて誰でもできる仕事をしているわけだし、会社員の方が稼げるんじゃない」と娘に加勢した。娘は勝ち誇って「ほらね、やっぱり社会の底辺じゃん」と根拠なく騒ぐ。
俺は二人から言われて、さすがにカチンと来た。
「その底辺に養ってもらっているのは誰だよ。」
つい強めの口調で言ってしまうと、妻は大げさに「まあ、そういうのをモラハラって言うのよ。じゃあ、誰が育児をしていると思っているの?」と即座に言い返してきた。普段の言動を見ればどっちがモラハラだと俺は言いたい。でも、十倍以上で跳ね返ってくるから、俺はじっと我慢する。俺がこの時我慢したことで、二人は何を言っても大丈夫だと俺を甘く見て、暴言はエスカレートしていく一方になった。
妻と娘を養うため、今まで真面目に働いてきたのに、どうしてこうなったんだろう。妻はとにかく金を稼いでこいの一点張りで、俺は割りのいい長期出張の仕事も進んで受けた。妻は実家で面倒を見てもらうから大丈夫だと言い、実際、妻の弟が結婚して実家を追い出されるまで、妻と娘はずっと実家にいた。俺は時々会いに来る「おじちゃん」扱いだ。義両親は普通の常識人で、妻に何度も俺に対する扱いをもっとちゃんとしろと怒ってくれた。でも妻の態度が改まったことはなく、月日が経つにつれ、娘も妻そっくりに成長して俺を馬鹿にするようになってしまう。
最近では、朝少しでもゆっくりしていると「ほら、さっさと仕事行けよ。脳なしは出ていけ」と妻が口汚く罵ってくる。娘も「うわっ、くっさい。あんたが家にいると汗臭くてしょうがないわ。早く消えろ」とまで言って、俺を家から追い出そうとする。俺は反論を諦め、家を出た。
娘の結婚式は来週に迫ってきていたから、もう少しすれば娘は結婚相手と暮らし始め、俺の肩の荷も一つ降りる。俺はそれだけを楽しみに、結婚式の日を待っていた。
ところが、その日の出来事は急展開した。仕事中、妻がスーツ姿の男と手をつないで歩いていくのを目撃したのだ。遠くて男の顔はよく見えなかったが、相手の女性は間違いなく妻だった。ただ一緒に歩いているだけなら、誰か知り合いに会っただけかもしれないし、道を聞かれて案内しているのかもしれない。でも明らかに違う。イチャイチャしていて、どう見ても恋人同士のような態度で、鈍感な俺にもすぐに分かった。妻はどうも浮気をしているらしい。
俺は頭がカッと熱くなった。俺には散々な態度を取る妻が、誰かに媚びを売っている。相手がスーツだったことにも腹が立った。俺を肉体労働とバカにしたのは、スーツのインテリ男と付き合っていたからかとムカムカしてくる。絶対に許さない。浮気の証拠を掴んでやる、と息巻いたのはいいものの、俺はすぐに現実に困ってしまった。金はほとんど妻から奪われ、俺にあるのは雀の涙ほどのへそくりだけ。探偵や弁護士に依頼するにはとても足りない。
俺は仕事中、必死で考える。そして、ついに仕事が終わる頃には良いアイデアを思いついた。俺は早速行動を起こし、まず仕事仲間たちに連絡を取って助けを求めることにした。俺の後輩や同僚たちが、あちこちの現場で仕事をしているのだ。特にうちの近くの現場担当者を中心に、妻の写真をメールで送り、「もし見かけたら連絡してくれ」と言っておく。次に、俺でも用意できるあるものを買いに行き、自宅に仕掛けることにした。
数日後、俺のスマホに連絡が来た。よりにもよって、娘の結婚式の前日だ。連絡があったのは駅前の交通誘導員からで、道路を歩く妻と浮気相手の写真をばっちり撮ってくれている。その後、ラブホテルに消えたと報告が来る。俺も同僚も、棒を振っている時は写真を撮る余裕はないから、交通誘導員の仲間だけでなく、それぞれの作業員たちにも声をかけ、休憩中に目を光らせていてくれたそうだ。
俺は仲間に感謝しつつ、複雑な気持ちだった。明日は娘の結婚式なのに、そんな直前まで浮気をするのかという妻への失望。娘のことがちらっと頭をよぎる。妻の浮気は間違いないが、娘は知っているのだろうか。
でも、そんな心配も男のアップの写真を見て吹き飛んだ。娘は天然パーマで昔から悩んでいたが、浮気相手の男もくるくるの天然パーマだ。髪型も相まって、男と娘の顔が瓜二つと言ってもいいくらいそっくりで、どう見ても親子だった。娘は妻にも俺にも全然似ていない。妻は自分の祖父だと言い張っていたから信じていたのに。DNA鑑定をすればはっきり分かるだろうが、素人目にも血の繋がりを感じさせる。妻の浮気は昨日今日始まったことじゃない。つまり、ずっと長い間、俺を騙し続けていたんだ。
俺は動揺し、がっかりしつつも、心のどこかでほっとしていた。あんなモラハラ妻と別れなかったのは、娘のことがあったからだ。俺は小さい頃から自分の娘だと信じて、可愛がって世話をしてきた。いくら憎まれ口を叩かれても、血の繋がった我が子だと思ったから、ずっと我慢してきた。でも、もういいんだ。そう思うと気が楽になった。
俺は仕事が終わるのを待ち、弁護士事務所に出かけた。俺の会社の顧問弁護士さんが俺の事情を聞き、「証拠が集まったらすぐに来い」と言ってくれたのだ。弁護士さん自身も最近、金目当てだった悪い妻と離婚したばかりで、「絶対に勝たせてやるからな」と俺以上に気合いが入っていた。弁護士さんの支援と八つ当たりが混じっている気がしてならないが、俺としてはありがたい。
すっかり遅くなってから家に帰ると、「遅いじゃないの」と妻から怒鳴られた。普段、俺が何時に帰ろうと気にも止めないくせに。明日が娘の結婚式だからか、ピリピリしているようだ。妻は俺が浮気の証拠を掴んでいることなど知らない。いつものように俺に対して高圧的に、「寝坊して遅刻なんてしたら、一生許さないわよ」と指を突きつけて迫ってくる。
俺は疲れていたこともあってか、「おい、口を慎しめ。一生許さないのは俺の方だ。」となった。
「な、何よ。生きなこと言うんじゃないわよ。」
妻は俺が言い返すと思わなかったのか、少し怯んだ。こうして、先ほどのやり取りになる。俺は妻と娘を一瞥し、寝室へ行くと、出張用のバッグを持ってきた。出張に慣れているから貴重品や着替えをまとめるのに5分もかからない。俺は自分の荷物の少なさに笑いが出た。
「なんで笑ってるのよ。気持ち悪いわね。あ、ちょっとどこ行くのよ。」
妻が叫ぶが、むしろ、なんで俺が血の繋がらない娘の結婚式に、浮気をしている女と一緒に出席しなければいけないのか。俺はすーっと息を吸い込んだ。
「いい加減にしろ。お前も香りも俺を散々バカにして嫌ってきたが、俺の気持ちを少しでも考えたことはあったか?俺はいい夫、いい父親であろうとずっと努力してきた。お前たちはどうだ?お前たちのしていることはモラハラだぞ。俺を金ヅル扱いするなら、もっと俺に優しく大切にするべきだったのに。浮気を開き直るような悪い女とは夫婦ではいられないし、香りも俺の子ではないから、お前たちとは縁を切る。あんなに毎日俺に出ていけと言っていたんだ。お前たちの望み通り、俺は消えてやろう。ただ、俺のことを馬鹿にした代償はしっかり払ってもらうからな。」
俺はそれだけ言うと、口々に叫ぶ妻と娘の言葉に答えず、そのまま外に出た。行く先はもう決まっているし、今後の見通しも立っている。
引導と決別宣言をしたことで、俺の気持ちはかなり軽くなった。俺は娘の結婚式をすっぽかし、そのまましばらく行方をくらますことにした。
翌日、俺のスマホには着信が何度も来ていたが、俺は一切出ない。留守電には妻と娘が何度も悪口を吹き込んでくるし、メールには見るに耐えないひどい内容が書かれている。しばらくは「絶対に許さない。訴えてやる」という脅しが中心だったが、日が経つとだんだんと様子が変わってきた。ついに妻から「お願い、戻ってきて。あなたのこと愛してるの」という懇願のメールが届いた時には、プッと笑ってしまった。ようやく俺が本気で帰ってこないと分かったのだろうが、もう遅い。
俺は社長の好意で会社の寮に居候させてもらいながら、妻と浮気相手を訴える準備を進めた。妻と浮気相手を目撃した日、俺は自宅にあるものを仕掛けた。それは盗聴機だ。俺の小遣いなんて微々たるものだから、探偵に依頼する余裕なんてない。でも、妻と娘のことだから、俺のいないところでボロを出すと考えた。
案の定、結婚式当日の朝、妻と娘の会話がばっちり取れている。娘もどうやら俺が実の父親でないことを知っていたらしく、「じゃあ、本物のパパを呼ぼうよ。これを機にあの親父と別れて、パパと結婚すればいいじゃん」と話している。妻は娘を「ダメよ」と止めた。
「香りのパパはね、奥さんの家庭に婿入りして、義両親と同居しているの。奥さんのことは全然愛していないんだけど、奥さんの父親が役員をしている会社で働いているから、もし奥さんと別れたら仕事もやめさせられて無一文になっちゃうわよ。」
妻は怒りながら娘に、「あいつも最後まで騙されていればいいものを。香り、あんたもバレないように気をつけるのよ」と注意する。娘は軽い調子で「私、そんなヘマはしないから大丈夫よ。彼は私にベタボレだし、全く疑ってもいないわ」と高笑いだ。
俺はゾっとした。まさか娘もたらし込み狙いだったとは。親子揃ってとんでもない。
こうして妻と娘が自爆する形で証拠も手に入れられたし、離婚裁判も浮気相手の慰謝料請求の裁判も、全て俺に有利に進んだ。娘のDNA鑑定の結果、やはり浮気相手の子供だったことが発覚。浮気相手はある会社の役員の婿養子で、最初は甲斐性なしだった。浮気相手は義父の会社で働いていたそうだが、離婚に伴い職も失ったらしい。自業自得だ。
俺は娘の結婚相手の男性一家にも連絡を取り、盗聴機で録音した内容を聞かせる。すると娘はスピード離婚され、相手から慰謝料請求されていた。娘は俺に向かって「なんてことをしてくれたんだ」と怒鳴ってきたが、罪のない人を騙そうとしたのだから当然だろう。俺は娘の相手の男性の両親から「息子が騙されなくて済んだ」とお礼だとばかりに金一封をいただいた。
妻とは無事に離婚が成立し、家は売り払った。財産分与の総額から慰謝料を差し引くことで、俺は慰謝料を一括でもらい、妻を無一文で放り出すことに成功した。俺は義両親からすごく謝られた。義両親は妻に愛想を尽かして感動したようだ。今、元妻と元娘は風呂なしアパートで極貧生活をしているらしい。
全てが終わって、俺はようやく自分の人生を取り戻せた気がした。元々、甲斐性なしが嫌がるような遠方の長期出張にもホイホイ行っていたから、いろんなところに知り合いが多い。自由になる時間もお金も増えたし、時にはのんびり旅行でも楽しみながら、誰からも罵倒されない平和な日常を満喫しようと思っている。
「私、お寿司屋さんになる。」
それは、幼い頃の私の言葉だ。父は寿司職人で店を持っていて、母も一緒に手伝っていた。私は寿司職人に憧れていたけど、それを知らない父は「女は寿司職人になれない。娘もなりたくないだろう」と諦めていたらしい。だから「女の子がお寿司屋さんじゃいけないの?」という私に、父は驚きながらも喜んだという。後に母から「父があの時、本当に嬉しそうな顔をしていた」と聞いて、私は幼い頃の自分を褒めてあげたくなった。
私の名前は泉。36歳の寿司職人だ。職業のことを言うと「女なのに寿司職人なんて」と言われることが多々ある。私の父も、私が寿司職人になりたいと言った時には心配したらしい。でも私は父に憧れていたし、一人っ子の私はいずれ父の店を継ぎたいと昔から思っていた。父に技術を教えてもらい、調理師学校にも通い、他の店でも修行もした。そして5年前から、私は父の店で寿司職人として働いている。
そんな私は以前から付き合っていた人と結婚した。夫の陽士は、私が修行をしていたお店で働いている。修行している頃から同い年で会話が弾み、息が合って結婚した。陽士とは仲良くやっているんだけど、近距離別居のお母さんがちょっとくせものだ。お母さんに溺愛されて育ってきた陽士は、お母さんの言うことは絶対という節があって、ほとんど言いなりだ。
結婚式の時、私は自分で探した結婚式場であげたかったのに、「そんな新しい式場じゃなくて、昔からある伝統的な式場であげなさい」とお母さんが口を出し、結局私の反対も虚しくそこで式を上げることになってしまった。その恨みは何年経っても忘れられない。その一件でお母さんのことを嫌いになってしまったので、私は最低限の付き合いをしていたけど、住んでいるところが近いだけに何かと口を出して陽士に会いに来る。3年前にお父さんが亡くなってから、一人でいるのが寂しいのか家に来る回数が増え、正直私は迷惑している。陽士に言ったこともあるけど、「そのうち慣れるよ」なんて言って軽くかわされてしまう。まあ、連れ合いのお父さんが亡くなったんだから、一人息子の顔を見たくなるのも分かる気もするし、いずれ落ち着くかな、なんて思ったまま3年が経ってしまった。
そして、事件は起こった。ある日、買い出しに行った父の車が事故に巻き込まれ、父が突然亡くなってしまったのだ。私も母も悲しみが大きすぎて、しばらく立ち直れなかった。陽士も心配して「お店どうする?俺が手伝おうか」と言ってきてくれた。確かに母が手伝ってくれているとはいえ、職人が私一人というのは負担が重い。母とも相談して、陽士にも手伝ってもらうことになった。
良いな父は、自分に何かあった時のためにと遺言を残していたようで、お店の常連さんでもある弁護士さんが父が亡くなってからしばらくして、それを持ってきた。弁護士さんが言うには、父は遺言書を毎年見直していたそうだ。何かあった時、母と私が困らないようにと気にしていたらしい。その遺言書には「実家は母に、店は私に相続させる」と書いてある。それから私には「この店をどうしていきたいか」を綴った手紙が渡された。心配性の父がやりそうなことだ。私と母はそう言い合って、父が亡くなってからようやく笑うことができた。
父がいなくなって、陽士に手伝ってもらうようになり、なんとか店を開けていたけど、ここで問題が起こる。店は私が相続したもので、陽士はあくまで手伝いだけ。でも事情を知らない新規の客は、男が店主だと思うのが普通。そのせいか、陽士はどんどん態度が大きくなった。陽士の握った寿司を出すと、昔からの常連さんが「あれ?」という顔をしたのも、私は見ている。このままではお客さんにも申し訳ないし、陽士のためにも良くない。私は腹を決めて、陽士に話すことにした。
家に帰ってきて、私は陽士に「話がある」と言った。
「なんだよ、そんな深刻そうに。」
楽天家の陽士は笑いながら、私の対面に座る。
「言いにくいんだけど、お店のことで話があるの。」
そう言うと、さすがの陽士も真面目な話だと思ったらしく、大人しく話を聞き始めた。
「最近の陽士が雑になってきてるよね。あの店にはお父さんが大事にしてきた常連さんが今もたくさん来てくれているし、もう少しちゃんとしてほしいんだけど。」
すると陽士が珍しく神妙な顔になり、考え込んだ。その時、インターホンが鳴り、誰かと思ったらお母さんだった。
「後で来てもらってよ。大事な話の最中なんだから。」
私はそう言ったけど、玄関に行った陽士はお母さんを連れて中に入ってきた。私はため息をつく。するとお母さんが私を睨みつけた。
「これからのお店のことを話してたんですって。だったら、私が同席しても構わないわよね。」
「はい?」
私はお母さんの言っている意味が分からず聞き返した。
「だって、大事な息子のお店のことよ。母親の私も知っておいた方がいいでしょう。」
そう言ってテーブルに座り、お茶を要求し始める。どんな神経してるんだろう。私は頭を抱えながら、放っておくと余計うるさいお母さんに、しぶしぶお茶を入れて持っていく。するとそのお茶を飲んだお母さんは、突然喋り出した。
「あのお店、臭いのよね。あんなんじゃこの先大変よ。もっと時代の波に乗らないと。泉さんのご両親は世代が古いから仕方ないけど、あんなお店、新しいお客さんがつかないでしょう。これからは映えるお寿司で話題性を作らないとだめよ。カリフォルニアロールとか、絶対映えるわよ。」
「え、カリフォルニアロールって…?」
私は露骨に嫌な顔をしてしまったけど、お母さんはそんなことにも気づかない。私は両親の遅くにできた子で、私の両親と陽士のお母さんの年齢は一回り離れている。それに若作りが好きで流行り物が好きなお母さんとは、圧倒的に感覚が合わない。私もどちらかと言うと伝統を大事にしたいので、今は父の店を守ることにしている。だからお母さんの考えはうちの店にはいらない。
それなのに、お母さんは一人でペラペラと喋り出す。
「この際、泉さんのお母さんには引退してもらって、私がお店に立とうかしら。お客さんからは“若女将”なんて呼ばれちゃうかも。」
若女将って、自分は若いって言いたいのかな?私にはお母さんがもはや何を言っているのか分からなくなってきた。ふと陽士を見ると、何やら考え込んでいるようだ。そして、一通り自分の思いを語ったらしいお母さんは、陽士に話しかける。
「ね、いい考えでしょう。陽士が店主なんだから、あなたの好きにしたらいいのよ。今までの古臭い伝統を守っていくのか、新しいお店にして繁盛させていくのか、答えは簡単じゃないの。」
すると陽士は頷いてしまった。
「そうだな。今後あの店は俺と母さんで仕切るよ。泉は従業員としてついてくればいいから。」
「はあ?」
いきなり上から目線になった陽士に怒りを感じたが、陽士は止まらない。
「嫌なら出ていけよ。」
完全にお母さんに支配されてしまったようだ。店主と言われて天狗になってしまったんだろう。陽士が自分の店を持つのが夢だということは知っていた。父が亡くなった時、手伝ってくれると言ったのは陽士の優しさだっただろうし、本心だったはず。でも、お母さんが「あの店は陽士のもの」とよく言っていたのも知っている。お母さんは陽士が私の父から遺言で店を相続したと勘違いしているようだ。陽士はきっと、そう言われていくうちにその気になってしまったんだ。
まさかこんなことを言うとは思っていなかったから、もっと早く陽士と話をするべきだった。後悔だけが押し寄せる。その間もお母さんは私に圧をかけてくる。
「ほら、泉さん、陽士がこう言ってるのよ。どうするの?」
そこで私は、一気に色々なものが吹っ切れて笑顔になる。
「わかりました。喜んで。ただ、あの店の名義は私になっているので、買い取ってもらう形になりますよ。」
そう言うと、陽士は慌てて言った。
「買い取り?俺、そんな大金なんて持ってないよ。」
ここで陽士が我に帰ってくれるかと思ったけど、お母さんがまた図々しく喋り出した。
「大丈夫よ。お父さんの遺産がまだあるもの。あの店は立地もいいし、もっと売上が上がるんだから、1000万くらいでどうかしら。」
お父さん、中小企業とはいえ役員だったしな。相当財産があったんだな、なんて思いながら、私はお母さんに言った。
「一度、話を整理させてください。契約書を作って、きちんとさせましょう。私は一度実家に帰って母に報告してきます。1週間ください。連絡しますから。」
そう言って、大急ぎで必要なものをバッグに詰め込んで実家に戻った。実家に戻って母に話をすると、母は驚いて悲しんだが、私の計画を聞くと少し嬉しそうな顔をする。そこから1週間、私は弁護士事務所に行ったり不動産会社を訪ねたりとにかく大忙しだった。
1週間後、私は契約書を持って、弁護士さんと一緒に陽士の元へ戻ると、案の定お母さんも同席している。そして、父から相続したあの店は陽士に譲渡する形になった。契約を交わすと、私は引っ越し業者を呼び、自分の荷物を運び出す。驚いている陽士に向かって、離婚届を突きつけた。
「え、離婚?」
「嫌なら出ていけって言ったよね。こういうことでしょ。」
戸惑う陽士に、またお母さんが言った。
「怖い嫁ね。陽士にはもっと若くて可愛い子を結婚させるわ。さっさと離婚して出ていきなさいよ。」
このお母さんは本当に私のことが嫌いだな。まあ、私も嫌いだし。これで縁が切れると思うと清々する。陽士のことは好きだったけど、お母さんと縁が切れることはないだろうし、こんな状態じゃこの先やっていけない。店を乗っ取られると思った時に、私は離婚を決めた。陽士はまたお母さんに急かされる形で、離婚届に判を押す。こんなに情けない人だとは思わなかったな。私は悲しい気持ちでその場を立ち去った。
それから1ヶ月、私は再び寿司屋の店主として店をオープンさせた。あの1週間で、私は父の遺言書を保管してくれていた弁護士さんに相談した。「1000万円ならあの店の相場以上だし、譲渡するなら契約書を作成する」と言ってくれて、それを頼んだ。そして、元々父から言われていたことを実行に移す。
遺言書と一緒にもらった手紙の中には「これからは伝統だけでなく、新しい時代の流れも取り入れていかないと、この店はやっていけなくなるだろう。泉の思うようにやりなさい」と書かれていた。そして「この店だとお客さんも限られるから、ここを売って新しい土地で新規一転するのもいい。そこからは泉の責任で頑張りなさい」とも書かれていて、父が亡くなった直後はあの店を守ることをまず第一に考えたけど、きっと今が私の責任で頑張る時なんだと理解し、お店の常連さんで父の親友が社長である不動産会社に足を運んだ。生前、父からその話を聞いていて、その時は「力になって欲しい」と言われていたと、社長自ら物件を探してくれた。内装はそこから紹介してもらった工務店にお願いしたけど、そこの社長もお店の常連さんだった。私は修行に必死で、あまりお客さんの話を父から聞いたことがなかったけど、どうやら人に慕われていて、広い人脈を持っていたようだ。皆が私に協力してくれて、私は新しい店をオープンさせることができた。
今までよりもテーブル席を増やし、お子様メニューも作り、家族連れを誘致した。するとこれが大当たりで、「手頃な値段で本格的な寿司を家族で楽しめると」インターネットの口コミでも話題になり、昼間や夕方はファミリー層、夜は昔からの常連さんや仕事帰りのサラリーマンといった風に、時間帯でターゲットが分けられて、なかなか評判になっていった。
すると、ある日お店を開けようとしていると店先で声をかけられた。顔を上げると、そこには陽士の姿がある。
「泉、俺たちやり直さないか?」
「はあ?」
ぬけぬけとそんなことを言う陽士に、私はため息が出る。あれからずっと連絡もなかったのに、今更何なの?
「泉がいなくなって初めて、その大切さに気づいたって言うか。とにかく、俺が間違ってたから、戻ってきてほしいんだ。」
よく聞く、当たり前のセリフを言う陽士に、私は呆れてしまった。
「お母さんにそうやって言われたの?」
図星だったのか、陽士は視線を泳がせる。
「店、全然お客さん来ないんだって。常連さんが言ってたわよ。好奇心で覗いてみたら、メニューはガラっと変わっていて、伝統とはかけ離れた創作寿司が並んでたって。見た目は奇抜だけど味は美味しくない。何もかも値段が高いし、もう行きたくないって言ってたわ。創作寿司って、難しいのよね。」
そう言うと、陽士は反論してきた。
「あれは母さんのアイデアだ。俺はやめようって言ったんだけど、母さんが作ろうって言って。それに母さんは接客なんてしたことがないから、お客さんに敬語は使えないし、料理の出し方も雑。でも、買い取ったお金を出したのは母さんだから、何も言えなくて…。」
だんだん弱気になっていく陽士を見て、私は笑えてきた。
「あのお母さんが接客なんて無理でしょう。もてなされることしか考えてないんだし。誰かをもてなしているところ、見たことある?それにお母さんの料理、申し訳ないけど美味しいなんて思ったこと、一度もないわ。そんな人の提案する料理が、まともなわけないでしょ。私はこうなること分かってたけどね。」
「分かってたなら、どうして止めてくれなかったんだよ。」
「どうして止めなきゃいけないのよ。妻より母親を取るんだから、私が助ける義理なんてないわよ。店主って言われて天狗になって、私を追い出したのは陽士でしょ。自業自得よ。」
私と陽士が言い合っていると、どこからともなくお母さんが出てきた。物陰に潜んでいたとは、まさに鬼の居ぬ間に洗濯ものだ。一体どこまで邪魔をすれば気が済むんだろう。
「泉さん、この店、繁盛してるらしいじゃない?私たちがここを手伝ってあげるわ。一人じゃ大変でしょう。」
今までは義理の母だったから言いたいことは我慢していたけど、今では他人。我慢することはない。私は今までの鬱憤を晴らすかのように言ってやった。
「あれだけ大きな口叩いたんだから、あの店、繁盛してるんですよね。“若女将”として奉仕してるんですよね。」
そう言うと、お母さんは黙って私を睨みつけてきたので、私も睨み返した。
「あなたの手伝いなんて要りません。料理の出し方も雑だし、お客様に敬語を使えないなんて問題です。自分の店が潰れそうだから、今度はまた私の店を乗っ取りに来たんですか?でも、もう買い取れる資金もないですものね。1000万なんてすぐに回収できるって言ってたそうですけど、実際には赤字だらけじゃないんですか?早くなんとかしないと、生活できなくなりますよ。」
そこまで言うと、ようやく言い返せなくなったお母さんに、私は笑いが込み上げてきた。
「せいぜい仲良く親子で頑張ってください。あの店の常連さんたちは、今では私の店の常連さんですから、もうあなたたちの店に行くことはないと思いますよ。ほら、帰って。」
反論する気力を失ったのか、陽士とお母さんは悔しがって帰って行った。
ほどなくして、陽士の店は閉店。借金だけが残り、実家も売りに出した。古いアパートに引っ越し、お母さんは文句を言っているらしいけど、そこで初めて陽士に怒られ、しぶしぶパートに出ているという。陽士は別の店で働き始めたけど、この狭い業界だから悪評が広がっていて、かなり辛く当たられているらしい。
私はと言うと、調理師学校時代の女の後輩を弟子にして、数少ない女性寿司職人の店としてメディアの取材にも応じている。伝統を大事にしながら、男社会のこの業界に新しい風を吹かせるべく、日々奮闘している。忙しいけど、充実していて楽しい毎日だ。



