峠道で、十二歳になる少年が、幼い妹を背負ったまま、見知らぬ男の袖にすがりつきました。
「一度だけ、たった一度だけ、おっさんと呼ばせてください。妹の命さえお助けいただければ、それで良いのでございます。」
背中の妹は高い熱に浮かされ、苦しげにうめくばかり。素足は泥にまみれ、着物は破れ、その姿は一目で流れ者の兄弟と分かるものでした。峠の向こうからは、棒を手にした荒くれ者たちが、父を巻き上げるようにして迫ってきます。
男は古びたすげ傘を差し、顔を汗で濡らした風体の道中姿。どこにでもいる旅人にしか見えません。しかし、少年が必死に掴んだその男の袖は、白峰藩に生きる者ならば、本来誰一人軽々しく触れてよいものではありませんでした。
空には、登り始めたばかりの満月が、遠道を静かに照らしていました。
どうして、病に臥せった妹を背負って、少年は命を狙われていたのか。
すべては、この兄弟がまだ幼い流れ物として、雨と寒さの中を彷徴っていた頃から始まります。
時は天明年間、上州のとある藩の内でのこと。あの年は天の大飢饉の爪跡が深く残り、村外れに打たれた立札が寒々しく広がっていました。この藩の山里に、捨吉という男の子が暮らしていました。年は十二。痩せてはいましたが、日に焼けた顔に、目は力強い子でございました。そして、五つになる妹が一人。名をお月と申しました。
二人には親も家もなく、身を守るため、真の苗字を名乗ることもできませんでした。あるものといえば、互いに握り合う二つの手と、古びた守り袋一つだけでした。
今から七年前のこと。捨吉が五つ、お月は生まれて間もない赤子でした。父は芦田龍像と申し、藩主に使える実直な家臣でした。ところがある夜、屋敷に大勢の者たちが押し入り、父は無実の疑いをかけられて連れ去られました。母は幼い二人を抱えて逃げようとしましたが、追手の目を引きつけるため、自ら屋敷に残る道を選び、その夜、命を落としたと申します。
屋敷に仕えていた老僕は、火の手の中をくぐり抜けて二人を抱え、いくつもの峠を越えて山里まで逃れたのです。老僕は、兄弟に素性を悟られぬよう、男の子には「捨吉」、満月の夜に生まれた女の子には「お月」という名を与え、それから晩もかけて、龍像より託された短い数え歌を捨吉に教え込みました。
「意味はまだ分からずとも良い。いつか必ず役に立つ日が来る。」
老僕はそうして、捨吉に行く度にその歌を唱えさせました。捨吉は幼心に、なぜこんな訳の分からぬ歌を覚えねばならぬのか、不思議に思っておりました。しかし、老僕の目ざしがあまりに真剣であったため、捨吉は毎晩、子守唄のように口ずむようになったのです。
しかし、老僕はそれから二年ほどして病に倒れ、ほどなく静かに息を引き取りました。臨終の床で、老僕が残した言葉はただ一つ。
「決してその歌を忘れるでない。いつかそなたを助ける鍵となろう。」
それより後、兄弟は真によりどころなく、この世を渡り歩くことになりました。捨吉はお月を背負い、あちこちの村を渡り歩きました。昼は人の家の水を組んでは一膳の飯を恵んでもらい、夜は矢倉の木の下で妹を懐に抱いて眠るのでございます。春には山に登って草の根を掘り、夏には小川で貝を拾い、秋には人の畑に落ちた芋を拾い、冬には市場を巡って、家の前で息を吹きかけました。捨吉の手の甲はいつもひび割れておりましたが、妹の前では一度も辛い顔を見せることはございませんでした。
ある冬の夜、兄弟が橋の下で震えておりますと、痩せた野犬が唸り声を上げて近づいてまいりました。捨吉はすぐさまお月を背に隠し、両手を広げて立ちはだかりました。
「あちらへ行け。お月には指一本触れさせぬぞ。」
石を拾い上げて構えると、犬はじりじりと後ずさりして去っていきました。お月は兄の背にしがみつきながら震えて尋ねました。
「兄様、怖くないの?」
「何が怖いものか。兄様がついている。案ずるでない。」
捨吉は平気なふりをしておりましたが、実はその小さな胸も、早鐘のように打っておったのです。
またある時には、幾日も食べ物にあり付けぬまま、商家の角先で飯を恵まれた時も、その日の飯を一口も口にせず、そのまま妹の元へ持ち帰って食べさせてやったこともございました。
「俺は先に食べたから、早くお前も食べな。」
それは偽りでございました。捨吉は一日にも一度もまともな物にあり付けぬ日が続くことがありましたが、妹の前ではいつも腹が満ちているふりをするのでございました。ある時、お月がそんな兄の手をそっと握り、小さな手で兄の痩せ細った指を一本一本触れてみて、言いました。
「兄様、私は半分でいい。兄様も一緒に食べて。」
捨吉は笑って妹の頭を撫でるのでございましたが、振り向く捨吉の目元は赤く濡れていたのでございます。
ある年の冬、兄弟は大きな在所の市場に流れ着きました。捨吉はお月を道端の火鉢の側に座らせ、
「お月、兄が戻るまでここを一歩も動いてはならぬぞ。知らぬ者が呼んでも、決してついて行ってはならぬ。」
と言い含めました。
「うん。兄様、すぐ戻ってきて。」
捨吉は人足たちの中に混じって、米俵を運ぶ仕事にありついたのです。幼いというので初めは誰も相手にしてくれませんでしたが、捨吉が歯を食いしばって大人一人分の俵を運ぶのを見て、次第に仕事を任せてくれる者が現れたのでございます。肩の皮がむけ、足がふらつくほどでございましたが、捨吉は妹の笑顔を思い浮かべ、黙々と働き続けました。一日中俵を運んで手にしたのは、わずかな銭のみでございました。それでも捨吉はその銭を握りしめて、駆け戻りました。
「お月、これで芋を買おうぞ。」
その一言にお月の顔はぱっと明るくなったのです。兄の手を握って芋屋の前に立つお月は、この世の全てを手に入れたような顔をしておりました。
ちょうどその頃、一人の老婆が兄弟の様子をじっと見つめておりました。腰の曲がった老婆で、およいと申しました。若かりし頃、藩主に仕えたことのある女でございます。およいはお月の顔をしばし見つめてから、
「あの目ざし。あの輪郭。どこぞで見た覚えがある。」
と呟きました。それは、はるか昔、自分が父代わりとなって育てた幼き日の龍像の面影が、幼いお月の額の上に重なって浮かんできたのでございます。しかし、龍像はすでに久しく前に処刑され、生き残りはないと聞き及んでおりました。およいは激しく首を振り、「まさか、そのようなことがあろうはずもない」と自らに言い聞かせましたが、それでも胸の高鳴りは容易には収まりませんでした。
それでも、およいは杖をつきながら兄弟に歩み寄り、捨吉の手を取りました。
「親御はどちらにおいでかな。」
捨吉は幼き頃に親を失いました故、苗字も知らず育ちました、と答えるのみでした。およいは懐から握り飯を取り出して兄弟の手に握らせ、
「人というものは、己の根を知らずとも、その根が消えてなくなるわけではない。隠された血筋というものは、いつか必ずその持ち主の元へ帰っていくものよ。」
と申しました。それからおよいは、お月の首にかけられた古い守り袋に目を止め、指先をわずかに震わせました。この結び目は、お月の母が自ら結んだものであろう。およいはそう確信したのです。しかし、確かめる術もなく、また騒ぎ立てれば二人に災いが及ぶことを恐れて、その場ではただ、
「この守り袋だけは、決してなくしてはならぬぞ。」
と言い残すにとどめました。しかし、およいの胸のうちには、この日から静かな決意が芽生えておりました。己の目に狂いがないか、密かに確かめずにはおれぬと思ったのです。
その日の夜、お月は高い熱を出しました。捨吉は祠の下で妹を抱きながら、およいの言葉を幾度も反芻いたしました。お月の額に手をやると、火のように熱くなっておりました。
「お月、お前、熱があるではないか。すぐ薬を求めてくるから、しばし辛抱してくれ。兄が必ず戻る。お月、私を行かないで。」
捨吉の胸はどきりと沈みました。
さて、その在所より一里ほど離れた場所に、また別の大きな在所がございました。この地一体を我が者顔で束ねておったのが、黒沢自然という男でございます。自然は白峰藩の国元では大身の家老でございました。元は藩主の本邸がある城下に本邸を構えておりましたが、五年ほど前よりこの地に別邸を設け、しばしば城下と行き来しながら暮らしておりました。この在所こそ、かつて自らが落とし入れて滅ぼした芦田龍像の故郷だったからでございます。
自然の別邸は高い板塀が城壁のごとく巡らされ、表門の前には常に用人ばかりが控えておりました。その家はまるで小さな城のようでございました。庭には珍しい銘石が数多く飾られ、蔵には米穀が溢れんばかりに積まれておりましたが、その米がどこより出たものか、在の者で誰もあえて問う者はございませんでした。自然は肉付きの良い顔にいつも笑みを絶やさぬ男でしたが、その笑みの裏には歯を食いしばるような冷酷さが隠されておりました。自然は年貢の毛長を偽り、収穫を実際より多く書き換えさせ、その差額を己の蔵へ運び入れておりました。飢饉の最中に蓄えられるはずの備え米までも横領し、これに異を唱えた百姓は、未進米の名目で田畑を取り上げられたのでございます。堪えかねて夜逃げをする家も少なくございません。の者たちは自然の名を聞くだけで震え上がり、その目に触れれば、一夜のうちに家が潰れることも珍しくはございませんでした。
自然には誰にも明かせぬ秘密が一つございました。幾年前、自らが龍像に濡れ衣を着せて葬った一件でございます。龍像は元より自然と同じ藩主に仕える家臣であり、実直で不義を見過ごせぬ気性の男でした。その龍像が、自然の密かな不正を突き止めてしまったのです。追い詰められた自然は、逆に龍像に濡れ衣を着せることを思い立ちました。文書を偽り、偽の証人を雇い、龍像を落とし入れたのです。龍像は無実のまま死罪を命じられ、その家は一夜にして取り潰しとなりました。それより自然は、後悔と悪夢に苛まれ、龍像の残した幼子たちが生きているのではないかという恐れに絶えず苛まれておりました。夢の中には、いつも腹に刀傷を負った龍像の亡霊が現れ、自然を静かに見つめるのです。
「そなたが我が家を滅ぼしたのだ。されど天が知り、地が知る。我が子らが生きておる限り、真実は必ず明らかになろうぞ。」
「黙れ。皆死んだわ。そなたの子らは皆死んでしまったのだ。」
自然は悪夢から飛び起きることが常でございました。その悪夢に苛まれる度、自然はいよいよ告白になり、罪の意識を振り払わんとするかのように、百姓たちをさらに厳しく取り立てるのでございました。
ある日のこと、自然の元に、市場で龍像の生き残りについて探りを入れている老婆がいるという知らせが届きました。密偵の一人が市場の隅でその老婆の様子を遠くから見届けたのです。老婆が二人の子供に何やら熱心に語りかけている様子も。さらに別の手の者からは、男の子と女の子の二人が、古い守り袋を大切に身につけているという噂も伝えられました。
自然の顔から血の気が引きました。
「生きておったのか。あの子らが。」
自然はその場に思わず立ち上がり、全身に鳥肌が立ちました。もしあの子らが生き延びて真実を知るようなことがあれば、自然がこれまで築き上げてきた全てが一夜にして崩れ去るのです。自然は直ちに用人を呼びつけました。
「男の子一人と女の子一人の連れだ。年の頃は十二と五つ。女の子は古い守り袋を身につけている。これを見つけ次第、捉えよ。」
用人の中の一人は、かつて城下にて龍像の顔を見知っていた者でした。それ故、捨吉の顔を一目見れば分かるはずもない、と自然は踏んだのです。
翌朝、捨吉は熱を出したお月のために、薬を求めて駆け出しました。役場までは一里ほどの道のりでしたが、道を尋ね進むうちに、思いのほか時間がかかってしまいました。薬種屋で手銭が足りぬと言われ、捨吉は必死にすがりましたが、薬種屋の主人は「それほどまでに急ぐなら、山向こうの薬草取りを頼るが良い。ただしその道は近頃物騒でな、荒くれた者どもが道を塞いでおるという噂も聞くぞ」と言うばかりでした。捨吉はその言葉を聞き流し、なおも道を急ぎました。山を降りる頃には、日はすでに西へ傾いておりました。
その賤道の峠の手前で、捨吉は用人の者どもが固めているのに気づきました。その中の一人が捨吉の顔を一目見るなり、目を細めました。
「この者、顔が龍像にそっくりではないか。捉えよ。」
捨吉は身を翻して逃げましたが、用人どもはすでに先回りして待ち伏せておりました。地が暮れる頃には、東の空から満月が登り始めておりました。捨吉は家に駆け込み、お月を背に負いました。わけも分からぬお月は驚いて泣き出しました。
「兄様、痛い。怖い。」
「お月、何も言わずに兄の背中をしっかり捕まっておれ。良いな。」
捨吉は裏山を越え、月明かりの村里を駆け抜けました。風を切って走り、小川を渡り、木の枝に顔を打たれ、石に足を取られ、幾度も転びながら、それでも歯を食いしばって走り続けたのです。用人の叫び声が背後で轟き、追手の棒が捨吉の背に向かって振り下ろされました。捨吉は辛うじて身をかわしましたが、その拍子に体の均衡を失ってよろめきました。その時、峠の向こうの峠道に、一人の男の後ろ姿が見えたのです。よれよれのすげ傘を差した、見知らぬ男でございました。
捨吉は、もはやこれ以上は走れぬところまで力を使い果たし、その男の元へ最後の力を振り絞って駆け寄ったのです。
「一度だけ、たった一度だけ、おっさんと呼ばせてください。妹の命さえお助けいただければ、それで良いのでございます。」
見知らぬ男は足を止め、己の袖にすがりついた幼子を見下ろしました。男の目がわずかに細まりました。峠の向こうから用人どもがどっと押し寄せてまいります。
「そこにおる子供を捉えよ。」
男はしばしの間、捨吉を見つめてから、ゆっくりと体の向きを変えました。
「この子らは我が子である。いかなる理由があって、人の子を追うのか。」
男は静かに問いました。用人の頭は「藩の命にて、あの子らを捉えねばなりませぬ」と答えました。
「その命とは、いずれのお方であるか。それをもう一つ伺いたいものだ。」
男が問い返しますと、それは答えられぬと用人は偽りなく申しました。用人が捨吉に手をかけようとしたその時、男がその腕をぐいと掴み、
「むやみに手をかけるでない。この子に指一本でも触れれば、その元やからでも、そなたらを容赦はせぬぞ。」
と低い、しかし有無を言わさぬ声で申したのです。その声には並々ならぬ威厳が込められており、その場に居合わせた者たちは思わず息を飲んだほどでございました。
傍らに控えていた痩せた従者が、「これはこれは、このお方をどなたと心得ての物言いか」と割って入りました。
「野兵衛と申す男の家来でございます。」
男の物腰があまりに堂々としていたため、用人どもも出鼻を挫かれ、頭は渋々しながら、
「今日のところは退散しよう。しかし、覚えておかれよ。あの子の正体を必ずや暴いて見せると。」
と言い残して、引き上げて去っていったのです。
捨吉はその場に崩れ落ち、詰めていた息を吐き出しました。男はお月の額に手を当て、
「これはひどい熱ではないか。野兵衛、近くの家へ運び、医者を呼ぶのじゃ。」
と申しました。こうして捨吉とお月は、思いがけずも見知らぬ男の世話になることになったのです。
男は近くの家に兄弟を連れて行き、腕の良い医者を呼び寄せました。医者は脈を見てから、
「この幼さで、よくぞここまで持ちこたえたものよ。体が随分と弱っておる故、しっかりと食べさせ、ゆっくり休ませねばなりませぬ。」
と申しました。男は治療費の一切を引き受け、「この子が回復するまで、日々世話をいただきたい。費用は我が全て持ちましょうぞ」と申したのです。幸いにもお月の熱は次第に下がっていったのです。男はまた、捨吉のためにも温かい飯を用意させました。捨吉が幾日も食べ物にあり付けずにおったことを、一目で見抜いておったのです。
「これ、そなたも食べるが良い。そなたが倒れては、妹の面倒は誰が見る?」
捨吉は温かい飯を前にして、思わず喉を詰まらせ、目から涙をぽろぽろとこぼしたのでございます。
「泣かなくても飯を食いながら泣けば、塩気が逃げるぞ。」
男の優しい言葉に、捨吉はいよいよ涙をこぼしました。親を亡くしてより、これほど温かく接してくれる大人と出会ったことは初めてでございました。ゆえに、その晩、従者の野兵衛の胸のうちには、疑念が巣食っておりました。あまりに都合よく袖にすがりついたこの兄弟、もしや黒沢自然の放った間者ではあるまいかと、暗に密かに捨吉の身の回りを改めたのです。しかし、見つかったのはただのぼろ切れと、防寒用の藁、そしてお月の小さな下駄の片方だけでございました。間者の持ち物とは到底思われぬものばかりでした。それに、幼いお月が夢の中で「兄様」と呼びながら魘される声を聞くにつけ、野兵衛の疑いは次第に溶けていったのです。これは間者の芝居などではない。誠の兄弟の情である、と野兵衛は深く合点いたしました。
翌朝、野兵衛は捨吉に密かに詫びました。
「お許しください。昨夜、そなたを疑うてしもうた。」
捨吉が「この世は油断のならぬことばかりと存じております。ゆえ、構いませぬ」と答えますと、野兵衛は帰って胸を打たれ、この幼さで既にそこまでの分別を持っておるとは、といよいよこの兄弟を守らねば、と心に誓ったのでございます。
野兵衛はかつて、己の父もまた些細なことで主家を追われながらも、死ぬまでの信じる道だけは曲げなかったのだと、捨吉にぽつりぽつりと語り聞かせたのでございます。
「父は貧しさゆえに、幾度も苦しみました。しかし、それでも死ぬまでの信じる道だけは曲げなんだ。正道を歩む者は、たとえこの世で報われずとも、その心だけは決して汚れることがないのだと。それがしはそう信じております。」
その男は、実はかつて白峰藩を治め、今は家督を世子に譲って隠居の身にある大殿でございました。家を譲った後も、民の暮らしぶりを己の目で確かめようと、身分を隠して藩内を巡っておられたのです。
ある日、野兵衛が「大殿、そろそろ御屋敷へお戻りにならねばなりませぬ」と言ったのを、捨吉は偶然耳にしてしまいました。
「大殿とは、それはよほど高き身分のお方にのみ使われる言葉ではございませんか。」
捨吉の胸はにわかに高鳴り始めたのでございます。
翌朝、捨吉は覚悟を決めて、男の前に膝をつきました。
「大殿様、私は失礼をいたしました。先日は、死して詫び申し上げねばなりませぬ。」
男は目を丸くし、
「これはこれは。いつ知ったのじゃ。」
「昨日、お二方の御話をつい耳にしてしまいまして。」
と答える捨吉に、男は、
「良いのじゃ。あの時、大殿と知って袖を取ったわけではあるまい。ただ妹を救わんとする誠の思いばかりであったろう。」
と申しました。捨吉は恐る恐る尋ねました。
「大殿様は、何も御家をお譲りになられてまで、このように身をやつして旅をなさいますのか。」
男はしばし遠くを見つめてから、
「藩主であった頃は、政務に追われ、日々の民の暮らしをこの目で確かめる暇がなかったのじゃ。隠居の身となって、ようやく身軽になって、こうして藩内を巡ることができるようになったのじゃ。」
と静かに答えられました。それから男は捨吉を見つめて、しみじみと申したのでございます。
「捨吉よ、一つ頼みがある。当分の間、このことを父上と呼んでくれぬか。」
捨吉はしばしためらいましたが、静かに、
「父上。」
と申しました。その一言に、大殿の胸は思わず熱くなったのでございます。大殿には実の子がすでにございましたが、世子として厳しく育ててきたため、親子として心を通わせる機会は多くございませんでした。それゆえ、何の打算もなく差し出された「父上」という一言は、大殿の胸へ深く沁みたのです。その日より、捨吉は男を父上と呼び、お月も習って「父上、父上」と慕って付き従うようになったのでございます。
大殿は兄弟と共に過ごすうちに、この在所の民が黒沢自然の悪政に苦しめられている様をつぶさに目にすることとなりました。ある夕暮れ、村外れの百姓の家に立ち寄ると、その家のあるじが、
「今年もまた年貢米の取り立てが厳しく、蓄えは底をつき、冬を越せるかも定かではありませぬ。」
と胸の内を語ったのです。あるじの妻もまた、
「幼い子らに食べさせるものすら、日々に乏しくなってまいります。」
と目に涙を浮かべて申しました。旁らに座っておった年配の百姓も、深いため息をつきながら、
「若い頃には、この村もそれほど貧しくはございませんでした。黒沢様がこの地にお見えになってから、年々暮らしが立ち行かなくなってまいりましてな。」
と申しました。大殿はその話を黙って聞き、
「民が苦しんでおるとは、我が国を納めておった頃には知らなんだ。これも我が不明のせいじゃ。」
と深く塞ぎ込まれたのです。この一夜の光景は、大殿の胸にいつまでも重く残りました。
大殿は時間を見つけては、捨吉に手本となる文字を教えてやりました。
「これ、この文字を真似て書いてみるが良い。」
捨吉はぎこちない手つきながらも真剣な面持ちで筆を動かし、大殿はその筋の良さに内心感心しておりました。
ある日のこと、砂の上に文字を描かせておりますと、捨吉がふと、幼き頃に覚えたという奇妙な数え歌を無意識に口ずさみました。
「一つ、井戸端、石の下。二つ、木札、裏の印。三つ、三日月、主の証。」
「それは、いかなる歌か。」
と大殿が尋ねますと、捨吉は幼き頃に老僕から繰り返し教え込まれたもので、意味は分からぬまま覚えております、と答えるのみでした。大殿はその歌がただの童歌ではないことを感じ取りましたが、その時にはまだ言葉の示す意味までは解き明かせませんでした。
ある朝、お月が小さな手に山芋をいくつか握って、大殿に差し出しました。
「父上、これどうぞ。裏の畑で採ってきたものです。」
大殿はその小さな手をしばしじっと見つめてから、山芋をそっと口に含み、
「ありがとうよ、お月。うまいぞ。」
と申しました。お月がにこりと笑うと、大殿の顔にも思わず笑みがこぼれたのです。思えば、大殿がこのように心から笑うことも久方ぶりのことでございました。晴れたある日には、大殿が己の手で凧を作ってやりました。竹を削って仕上げた凧を、捨吉が糸を握って走らせますと、凧はふわりと空へ舞い上がったのです。お月が手を叩いて喜び、大殿はその様子を見守りながら、この子らと共にあるならば、この人生もきっと変えられるであろう、と静かに思われたのでございます。
その頃、家の周りにはいつしか見慣れぬ男たちが姿を見せるようになっておりました。ある者は店先で長く立ち止まり、ある者は道の向こうから家の出入りを伺っております。野兵衛は自然の手の者に違いないと見て警戒を強め、大殿にもしばらく市中へ出るのは控えられた方が良いと申し上げたのです。
およいの方もまた、密かに動いておりました。市場で見かけた噂を頼りに、かつて龍像に使えていたという年配の使用人を探り出し、その者から、かつて龍像の家で家老職を務めていた喜助が、御家取り潰しの後、妻子の命を盾に取られ、自然の元へ仕えることを強いられたという話を聞き出したのです。およいは自然の密偵に気づかれぬよう、日を変え、道を変えては少しずつ確かな手がかりを集めていきました。ある日、およいは無名の文を大殿に届けさせました。文には「黒沢の屋敷に喜助という家老あり。かつて龍像に仕え、今も胸に悔いを抱える者故、密かに当たられよ」とだけ記されておりました。
野兵衛はその文を大殿に示し、
「この差し出し人は、誠に信じて良いものでございましょうか。」
と尋ねましたが、大殿は藁にもすがる思いの今は、これにかける他あるまい、と申したのです。
ある夜、大殿は眠るお月の枕元に外してあった守り袋へ目を止められました。色は褪せ、紐もほつれておりましたが、その結び目だけは腕の立つ者が心を込めて結んだものと見えました。大殿が捨吉にこの守り袋はどこで手に入れたものか尋ねますと、捨吉は幼き頃よりお月につけており、老僕に「これだけは決してなくしてはならぬ」と言われたことがございます、と答えました。
大殿は恐る恐るその紐をほどきました。すると中から、家紋を刻んだ小さな木札と、極薄く折りたたまれた紙片が現れたのです。紙片には、女の細やかな手で、二人が芦田龍像の子であることと、それぞれの生まれた年が記されておりました。木札の家紋を見た大殿の顔から血の気が引いていきました。
「これが、これが、どうしてここに。」
大殿の指先はわなと震えました。それは、大殿がはるか昔、無二の友であった龍像に、証の印として送った品だったからです。大殿は懐から、自らが長年身につけてきた乳母の形見を静かに取り出し、木札と重ね合わせました。二つは、ぴたりと合致いたしました。この兄弟こそ、無実の罪に問われて果てた龍像の残した子らだったのです。
大殿の目の前に、日の友の面影が鮮やかに浮かび上がりました。若き頃、大殿はその友と二つとない間柄でございました。共に書を読み、共に弓を引き、国の行く末を語り合った間柄でございました。龍像が処刑された日、大殿は何一つなすことができませんでした。偽りの証を見抜けぬまま、みすみす友を死なせてしもうたのです。それが大殿にとって、いつまでも胸に残る痛みでありました。
「この子らが生きておったとは。天が我をこの地へ導いたのじゃ。今こそ、あの無念を晴らす時が来たのじゃ。」
大殿は静かに誓われたのです。その夜、大殿は野兵衛を呼び寄せ、
「この一件については、過ぎたること、儂の身内の者に密かに連絡を取り、万端の備えを整えていただくのじゃ。ただし、証もなく迂闊に動けば、自然は必ずや言い逃れをいたそう。確固たる証を揃えるまでは、決してこちらの動きを悟られてはならぬ。」
と重ねて言い含めたのです。
大殿がこのように自然を責める決意を固める一方で、黒沢自然もまた密偵放ち、兄弟とその男の行方を探っておりました。密偵どもは藩中のあちこちに潜み、ある者は物売りに化け、ある者は物乞いをよって、大殿の家の出入りを追っておりました。
「あの男は尋常ならざると見えます。下手に手をかければ、大きな災いを招きかねませぬ。」
そう報告する密偵に、自然は怒鳴りつけました。
「黙れ。高が流れの旅人に、それがどのほどのことがあろうはずがない。」
自然はまず、あの男と兄弟の仲を探ることとし、家の主人へ密かに人をやって、あの男はお役所に追われる大罪人であるという偽りの噂を流させました。恐れをなした主人は、その日のうちに家を立ち退くよう求めました。大殿は主人を責めることなく宿を引き払い、兄弟と共に町外れの古びた廃屋へ移ったのです。自然はその新たな居所を突き止めると、次に捨吉の心を揺さぶろうといたしました。密偵を使い、捨吉に密かに近づかせました。
「良い奉公先を世話してやろう。あの男の傍を離れて、我が元へ参れ。さすれば、そなたも妹も、生涯不自由なく暮らせようぞ。」
捨吉はその言葉に一瞬間が揺らぎました。妹を飢えさせずに住むという言葉は、幼い捨吉には大きな誘いでした。しかし、捨吉はやがてはっきりと首を横に振り、
「嫌でございます。私はあのお方の元を離れませぬ。あのお方は、私ども兄弟の御恩人にございます。縁を切りて返すような真似はいたしませぬ。」
と突っぱねたのです。捨吉はすぐさま大殿にこの一件を申し上げました。大殿は捨吉の頭を撫でて、
「よくやった、捨吉よ。そのような誘いに揺るがぬとは、誠に志しの高い子じゃ。」
と大いに褒めてやられましたが、その面持ちには深い暗さの色が浮かんでおりました。自然の手がいよいよらつさを増しておったからです。
奸計が通じぬと見た自然は、いよいよ卑劣な手に出ました。大殿の都合で家を出て、廃屋に身を寄せていたある夜、自然の手の者は廃屋の納屋へ火を放ったのです。炎と煙が立ち上り、野兵衛はお月を抱いて外へ飛び出しました。ところが、そこには数人の荒くれ者が待ち伏せておりました。野兵衛はお月を背に庇い、刀を抜いて応戦いたしましたが、背後から棒で打たれ、血を吐いて膝をついてしまいました。その隙に、荒くれどもはお月を奪い、用意していた馬車に乗せて逃げ去ったのです。
「待て、お月を返せ。」
野兵衛は傷ついた体を引きずりながら追おうといたしましたが、ついに力尽き、その場に崩れ落ちました。それは全て自然の手の者が仕組んだ放火と待ち伏せでございました。日が暮れ、ようやく落ち着いた後、一行は村外れの小さな祠へ身を移しました。戻ってきた捨吉はこの一部始終を聞くと、その場に崩れ落ち、
「全ては私のせいでございます。」
と己を責めました。この世にただ一人の妹でした。親を失い、険しい世をさすらう間、互いに互いだけを頼りに生きて参ったのです。そのような妹を守りきれなかったことが、捨吉には耐え難いほどに辛かったのです。大殿もまた、拳を固く握りしめ、
「なんと卑劣な男か。」
と怒りに震えられました。
その夜、捨吉は祠の外へ出て一人夜空を見上げておりました。すると野兵衛が静かにより添い、
「あまり己を責めるでない。全てはあの悪者の仕業であるものを。」
と申しました。
「野兵衛殿、私はこれまで、ただ己が力なき流れ物であるとばかり思うておりました。それゆえ、いつも世を呪っておりました。」
「持てよ。この世がいかに辛かろうと、正しい心を失わねば、必ずや日の当たる日が来るものよ。」
野兵衛のその言葉に、捨吉の心の内で何かが静かに固まったのです。
その夜、大殿は捨吉に、これまで胸に秘めていた真実を明かしました。
「捨吉よ。そなたの父は流れ者ではない。この藩の重臣、芦田龍像であった。そして、その龍像を陥れた悪者がいた。無実の罪を着せて葬った。その悪者こそ、黒沢自然である。そなたら兄弟が生きておることを知り、己の罪が露見することを恐れて、これほどまでに付け狙っておったのじゃ。」
捨吉は雷に打たれたように全身を固くいたしました。そして大殿は、自らの過ちも包み隠さず語ったのです。
「龍像を救えなんだのは、我が未熟のせいじゃ。偽の証を見抜けぬまま、みすみす友を死なせてしもうた。」
捨吉の両の目から熱い涙が止めどなく溢れました。それは悲しみの涙ではなく、ついに己の根を知った喜びの涙と、そして必ずや父の無念を晴らさんとする決意の涙でございました。その瞬間、捨吉の脳裏に幼き日の数え歌が鮮やかに蘇ってまいりました。
「一つ、井戸端、石の下。二つ、木札、裏の印。三つ、三日月、主の証。」
大殿は、はっと気づかれました。
「井戸端の石の下とは、何かの証の隠し場所に違いない。木札の裏の印とは、偽りの証文に記された裏の印。そして三日月の形とは、偽造に用いられた証の傷を示しているのではないか。」
「父上、私はいかがせばよろしいのでございますか。」
捨吉が尋ねますと、大殿はその肩へ手を置きました。
「この歌が示す場所を探し出すのじゃ。そこに、自然の偽りを打ち崩す証が残されておるやもしれぬ。」
その夜更け、大殿たちが身を寄せていた祠に、喜助が密かに訪れました。およいの文を受け取った喜助が、ついに業を決して、野兵衛の元へ参ったのです。喜助は震える声で申しました。
「龍像が取り潰された後、それがしは妻子の命を盾に取られ、自然に従う他ございませんでした。偽りの証文を認めたのも、この手にございます。この罪、どうかお許しください。」
大殿が数え歌を聞かせますと、喜助の顔色が変わりました。
「間違いございませぬ。井戸端の石の下とは、龍像様の屋敷に残る古い井戸のことでございます。木札の裏の印とは、偽の証文の裏に押された割り印のこと。三日月の証とは、偽造に用いた判子に残る傷のこと。」
その夜、大殿と野兵衛は捨吉を伴い、喜助の案内で龍像の屋敷跡へ向かいました。井戸端の石を掘り返しました。そこから現れたのは、今は亡き龍像が自然の不正を記した下書き、偽りの証文の裏に押された割り印、そして三日月型の傷を残す判子でございました。こうして、数え歌が示した証は、ついに全て揃ったのです。
証を掘り出した後、野兵衛はその足で馬を走らせました。若殿は証を改めると、直ちに兵を差し向けられました。夜が明ける頃、野兵衛は手勢を伴って大殿の元へ戻ったのです。大殿は兵を自然の別邸の周囲へ密かに配置し、無闇に刺激してお月に危害を加えさせることのないよう、まずは捨吉と野兵衛だけを伴って屋敷へ入ることにいたしました。道中、捨吉が訪ねました。
「父上、誠にお月を無事に救い出せましょうか。」
「案ずるでない。我が必ずやそなたとお月を守り抜く。この父が約束いたそう。」
大殿は足を止め、さらに静かに申しました。
「捨吉よ、いかなる権力者であろうと、天の理を逃れることはできぬ。罪を犯したなら、必ずや罰を受けねばならぬ。それが上に立つ者の道であり、この藩が正しくあるための道でもある。」
ほどなくして、自然の別邸が見えてまいりました。高い塀と固く閉ざされた表門は、まるで要塞のようでございました。
別邸の奥座敷にて、自然は人質にとったお月を前に、座っておりました。お月は泣きはらした目で、部屋の隅で壁際に小さく縮こまっておりました。
「ほほう。よくぞ、一人で乗り込んで参ったとは。愚かなことよ。」
お月は捨吉の姿を見て、わっと泣き出しました。
「兄様。」
「お月、しばし待つのじゃ。必ず助け出すぞ。」
捨吉がお月に駆け寄ろうとしますと、用人どもが槍を突き出して阻みました。
「幼いものを人質に取るとは。その罪、誠に重いぞ。」
大殿が静かに言い放つと、自然は冷笑しました。
「何を今さら、きれいごとを。貴様に説教される筋合いはない。」
まさにその時、追い詰められた自然の顔つきが凄まじいものへと変わり、脇に置いていた刀を手に取って、お月の方へ身を躍らせたのです。
「邪魔をするな。この娘さえ人質にあれば、しばし猶予ができる。」
お月が悲鳴を上げました。大殿がお月を庇うようにその前に立ちはだかり、振り下ろされた刀を辛うじて払いのけましたが、その切っ先が大殿の腕をかすかに切り裂きました。
「お月に触れるでない。」
その瞬間、野兵衛が背後より自然の腕をねじ上げ、刀を取り落とさせたのです。自然はなお、
「もう手遅れだ。我こそこの藩の実権を握る者。この場で、そなたらを捉えてやる。」
と言い張りました。しかし、野兵衛が若殿の書状を突きつけると、自然の腰に控えていた用人たちは顔色を変え、次々と刀を収めました。その直後、屋敷の外から声が轟きました。
「殿様の命である。黒沢主膳、罪によりお召しである。屋敷を取り囲め。用人共ごと、捕らえよ。」
自然はその場に崩れ落ちたのです。お月は泣きながら捨吉の元へ駆け寄りました。
「兄様、お月、無事であったか。誠に良かった。」
兄弟はしっかりと抱き合い、これまで追われ、息を潜めて流した涙が、今は喜びの涙となって溢れてでたのです。お月は囚われている間、恐ろしさのあまり幾度も泣き崩れましたが、それでも「兄が必ず助けに来る」という思いだけは、片時も手放さなかったのです。大殿はお月の傷一つない体を確かめると、ほっと息をつき、その旁らでお月は大殿の腕の傷に気づき、小さな手ぬぐいを取り出して、そっと巻きつけてやったのです。
「父上、痛いの?」
「父というものは、この前に立つものじゃ。かすり傷じゃ。案ずるでない。それより、お月が無事であったことが何より嬉しい。」
捨吉もまた大殿の旁らに膝をつき、
「父上、お助けいただき、誠にありがとうございます。」
と頭を下げました。三人は、そのようにしっかりと寄り添うたのでございます。血の繋がりこそなくとも、その心は誠の親子と何ら変わるところはございませんでした。
数日後、城下にて正式な吟味が開かれました。若殿自らが上座につかれ、ご用人が自然の罪状を読み上げる、厳かな場でございました。一座の前には、龍像が書き残した自然の不正の記録、偽りの証文の裏に押された割り印、そして三日月型の傷を残す判子が並べられました。喜助は自然の命を受けて文書を偽造した経緯を、一つ一つ包み隠さず証言いたしました。およいもまた召し出され、兄弟の顔立ちと守り袋の結び目、さらに紙片に記された生まれた年を確かめ、
「この二人は、確かに芦田龍像様の御子に相違ございませぬ。」
と涙ながらに申し上げました。捨吉もまた幼き日に教え込まれた数え歌を、一座の前で唱えました。
「一つ、井戸端、石の下。二つ、木札、裏の印。三つ、三日月、主の証。」
自然はなお、
「これは罠じゃ。証など後からいくらでも作れよう。」
と言い逃れをいたしました。しかし、文書に残る筆跡、隠し印、判子の傷、喜助の証言、そして長年付き合いのある者の一致する証言の前に、もはや逃れる余地はございませんでした。
若殿より、正式な裁断が下されました。
「黒沢主膳は、無実の罪を着せて人を死に追いやり、藩の米を横領し民を苦しめ、幼子を人質に取った大罪人である。よって、役職を召し放ち、黒沢家の禄を没収の上、死罪を申し渡す。」
この一言に、存命を許された家臣たちも深く頷いたのでございます。用人の者たちも捕らえられ、その罪に応じた処分を受けました。喜助は自ら証を差し出したことを以て罪一等を減じられましたが、それでも御役目を解かれ、蟄居を命じられました。喜助が屋敷を去る朝、捨吉は、
「真実を申してくださったことだけは、忘れませぬ。」
とだけ告げたのです。喜助は「幾年月、龍像様を落とし入れた罪を胸に秘めたまま、誠に苦しい思いをして参りました」と深く頭を下げて立ち去っていったのです。その後ろ姿を見送りながら、捨吉はこの人もまた、長きに渡り己の罪と向き合い続けてきたのだと、複雑な思いを抱いたのでございます。
この裁きの結果は藩よりの触れとして、正式に藩内へ知らされました。藩は半年をかけて、自然によって不当に取り上げられた田畑を持ち主の元へ返していきました。田畑を取り戻した百姓たちは、涙を流しながら鍬を握りしめ、荒れた畑を再び耕し始めたのです。閉ざされていた店にも灯が戻り、在所には久方ぶりに人々の笑い声が響くようになりました。
大殿は捨吉とお月を城下へ引き取り、龍像の家名の再興を若殿に願い出ました。願いは聞き届けられ、捨吉は芦田の姓を取り戻すこととなったのです。この知らせは屋敷中に静かな喜びをもたらしました。かつて龍像に仕えていた家臣たちも、龍像様の御子が生きておられたとは、と涙ながらに祝いの言葉を述べたと申します。捨吉はそれでも、幼き日の名をそのまま残すことを望みました。
「身を隠すために授かった名ではございますが、この名で妹を守り、この名で父上と出会いました。どうか、この名だけは残させてくださいませ。」
大殿はその願いを聞き入れ、
「よかろう。その名こそ、そなたが生き抜いてきた証が刻まれておる。」
と申しました。それから大殿は、捨吉にしみじみと言いました。
「捨吉よ。名を奪うことはできても、人の生き方までは奪えぬものぞ。そなたが険しき世を正しい心を失わずに耐え忍んできたからこそ、今日この真実が明らかになったのじゃ。守り袋やこの証はあくまで手がかりに過ぎぬ。そなた自身が積み重ねてきた日々こそが、誠の証であったのじゃ。」
お月もまた芦田の姓を取り戻しましたが、幼き頃より親しんできた「お月」という名をそのまま名乗ることを望んだと申します。生まれた夜に月が輝いていたことにちなむこの名を、お月自身が愛着を持っておったからです。
屋敷に入った兄弟は、ようやく人並みの暮らしを送ることができるようになったのです。あれほど度々病に臥せっていたお月が、今は屋敷の中を駆け回り、ほがらかに笑うようになりました。捨吉は学問と武芸に励み、めきめきと腕を上げていきました。若殿もまた、この兄弟をことの他可愛がり、身内の者のように接してくださったと申します。
「兄様、ここが本当に私たちの家なの。もう、流れ歩かなくて良いの?」
「うむ、お月。これからは俺たちはどこへも流れ歩かなくて良い。ここが俺たちの家だ。」
お月の顔に晴れやかな笑みが咲きました。
ある日、大殿は二人を伴い、山里の外れにひっそりと祀られていた龍像夫婦の墓へ参りました。長らく手入れもされずにいた墓は雑草に覆われ、苔むしておりました。大殿はまず家臣に命じて墓を清めさせ、新しい花と水を供えさせました。それから墓前に深く頭を下げ、
「龍像よ。そなたを救えなんだが、どうか許してくれ。これよりは、この子らを我が命に代えても守り抜くと誓う。」
と誓われたのです。捨吉は墓前へ深く頭を下げて泣き、龍像へ初めて心の底から、
「父上。」
と呼びかけました。それから旁らに立つ大殿を振り返り、もう一度同じ言葉を口にしたのです。お月もまた墓前に小さな手を添え、
「父上、母上、私たちはもう大丈夫でございます。」
と幼いながらに語りかけたのです。実の父母を失った兄弟は、あの峠の夜、もう一人の父と出会ったのでございました。家族とは、同じ血を持つものだけを申すのではございません。命をかけて守ろうとするその心こそが、人と人とを親子にするのでございます。
歳月が流れ、捨吉は後に藩の家老を務める人物へと成長し、若き日に自らが味わった飢えと寒さを忘れることなく、困窮する者への施しを欠かさなかったと申します。捨吉は藩内に蔵を設け、豊作の年には米を蓄え、飢饉の折には困窮する百姓たちへ分け与えました。その姿は、かつて峠道で兄弟を救い、父となってくれた大殿の姿といつしか重なり合っていったのです。お月もまた兄が治める藩を支え、身寄りのない子供たちの世話に力を尽くしたのです。かつて自分たちがそうであったように、親を失い家もなく彷徨う子供を見つけては、屋敷に引き取り、読み書きを教えてやったと申します。お月に引き取られた子供たちは、後年こう語ったそうです。
「お月様は、いつも『怖くても大丈夫』と旁らにいてくださった。」
それは、かつてお月自身が兄から受け取った優しさそのものでございました。
およいは屋敷の一室にて余生を送ることを許され、二人の成長を見守り続けました。大殿はおよいのために日当たりの良い離れの一室を用意させ、何一つ不自由のないよう取り計らわれたのです。およいは涙ながらに、幾度もお礼を申し上げたと申します。
ある満月の夜、捨吉とお月は縁側にて、あの峠の夜のことを語り合いました。
「お月よ、そなたは覚えておるか。あの峠道で俺が大殿の御袖にすがりついた、あの夜のことを。」
「あの頃は幼うございましたが、兄様が旁らにいてくださったから、耐えることができました。」
その言葉に、捨吉の胸は熱くなりました。あれほど険しい世の中にあっても、妹がそれほどまでに兄を信じてくれていたのだと、改めて胸に染み入ったのです。
「あの月光の下で、父上になってくださったことを覚えております。」
とお月は付け加えました。そこへ、ふと大殿が静かに歩み寄られたのです。
「おう、二人して何を語らっておったのじゃ。」
「あの峠の夜のこと。」
大殿もまた静かに歩み寄り、二人と並んで満月を見上げられました。
「あの月の下で、この子らと出会うたことこそ、天の授けた縁であった。」
大殿はそうして静かに夜空を見上げられました。満月の光は、かつて三人が出会うた登り道と同じように、縁側へ寄り添う親子の姿を、いつまでも優しく照らしておりました。



