夫の正から「お前が買った高級車は父さんにプレゼントする。逆らったら離婚だ」と言われた時、私は最初、冗談かと思った。だが、彼の目は本気だった。私たちが一緒に選んで、私の名義でローンを組んだばかりの新車を、義父に贈れと言うのだ。
私は35歳の会社員、ゆか子。夫の正とは同僚の紹介で知り合い、結婚した。義両親は明るく優しい人たちで、義母は初対面の時、「この年までお嫁さん候補を連れてこないから心配してたのよ」と言った。その言葉は、当時まだ独身だった私の心に少し刺さったが、気づかないふりをしておいた。
結婚生活は比較的穏やかだった。週末には二人で車で日帰り旅行に出かけるのが趣味だった。私の愛車はそろそろ限界で、次の車検までに買い替えを検討していた。夫に相談すると、「ゆか子の車なんだし好きにすれば」と賛成してくれた。ただ、「どうせ買い換えるなら、もう少し大きい車にしたら」と提案された。
次の週末、二人で車を見に行った。車を見始めると、夫の方が興奮していた。「これがいいよ」と夫が指さしたのは、かなり高額な車だった。確かに性能もいいし、広さも申し分ない。しかし、そこまでの金額を考えていなかった私は躊躇した。
「じゃあ俺の名義でローン組む。どうせ運転する頻度は同じくらいだし、家計から出すんだからどっちだっていいよね」
夫がそう言い出し、その方向で検討することにした。何度か他の車も見に行ったが、やはり最初の車が一番よく、私たちはそれに決めた。しかし、夫の名義ではローンが通らなかった。転職したばかりということが引っかかったようだ。
すると夫は店員に向かって悪態をついた。「せっかく買ってやろうって言ってんのになんとかならないの?」
夫の嫌いなところの一つだ。どこの店に行っても、店員に対する態度がどこか見下している。私が夫を止めると、夫はふてくされて外にタバコを吸いに行ってしまった。夫は我儘なところがある。私に対しても気に入らないことがあるとすぐに「離婚」と言う。本当に面倒だ。
私は店員に平謝りをした。もっと安い金額ならローンが通りやすいかもしれない。それに、安いのなら一括で買ってもいい。
そう思って店員に相談していると、夫が戻ってきた。
「ねえ、ゆか子の名前で買えばいいんじゃないの?どうせ払うのは俺だけどさ」
私は悩んだ。実際、この車がいいと思ってしまったから、他の車ではピンとこない。私は契約書類にサインをした。
納車までは数ヶ月かかると言われていたので、私は車が届くのを楽しみにしつつ、今までの車との別れを惜しみながらドライブに出かけた。助手席の夫はスマホをいじりながら、「この狭い空間ともようやくおさらばか」なんて言っている。
ドライブの途中で、夫に運転を代わった。助手席のダッシュボードに置きっぱなしのスマホが目に入り、私が何気なく見ると、メッセージが来ていた。「新車買ったのか。しかも高級車じゃん」
それは夫の会社の同僚からで、夫が早速自慢していたようだ。夫は見え坊なところがあるので、私の名義だということは言っていないだろう。別にいいかと思っていたが、この車が私たちの運命を変えてしまったのだ。
3ヶ月後、ようやく納車された車で初めて向かったのは義実家。義父が定年退職をしたというので、お祝いをしようと訪れた。夫は「親孝行しないとな」と常日頃言っていたので、いい機会だったようだ。
義父は出迎えてくれた時、「ええ、これが新車か。いいなあ、かっこいいな」と車の中を見て楽しそうにしていたので、「今度これで一緒に出かけましょうね」と言うと、とても喜んでくれた。義母も「私も行きたいわ。温泉旅行なんてどうかしら」と乗り気だったので、私は義両親の希望も聞いて計画を立てることにする。
義実家では、義父の仕事の話や夫の子供の頃の話も聞いて、なかなか楽しい時間だった。印象的だったのは、「私、本当は女の子が欲しかったのよ。娘と一緒に出かけたり、服の貸し借りをしたり、楽しいことがたくさんあると思っていたのに、生まれたのは正、あなたよ」という話だ。「だからゆか子さん、もしよかったら今度2人でお出かけしましょうね」と言ってくれて、私は嬉しくなった。
しかし、夫はこれが面白くなかったようだ。義母は笑いながら言っていたし、夫のことを「いらない」なんて一言も言っていないのに、一人でふてくされている。結婚前は拗ねているところも可愛いと思ったけど、こう頻繁だとちょっと鬱陶しい。
その場はなんとかやり過ごし、私たちは家に帰った。
翌日、仕事から帰ってきた夫がリビングに入ってくると、「お前が買った高級車は父さんにプレゼントする。逆らったら離婚だ」と言った。
「は?え、何言ってるの?」私は冗談かと思って笑ってやり過ごそうとしたが、どうやら夫は本気のようだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうしてそんな話?父さんがあの車を羨ましそうに見てただろう。だから定年退職のお祝いにプレゼントして、父さんに乗ってもらうのが最大の親孝行だ」
「は?」私は呆れてしまったが、夫は何のスイッチが入ったのか、一歩も引かない。夫は元々頑固なところがあるし、そういう時に私が従わないと激怒することもある。
「面倒だな」と思いながら、「お父さんとは一緒に出かけようってことになったじゃない。車をプレゼントだなんて」と言って説得を試みるが、聞く耳を持たない。押し問答が続き、ついに夫が怒り始める。
「俺は一人息子として、父さんや母さんに恩返しがしたいんだ。生まれたのが娘じゃなくて息子で良かったって思わせたいんだよ」
夫は昨日、義母が「本当は娘が欲しかった」と言っていたのを未だに気にしているようだ。もしかしたら、義母が私と出かけたいと言ってくれたことへの対抗心かもしれない。私も呆れてしまったが、さすがにあの金額の車をプレゼントなんてできない。
「温泉旅行をプレゼントしようよ。昨日だってそう言ったでしょ」
それでも納得しない夫は、私を睨む。
「行き遅れのお前と結婚してやったんだぞ。何の取り柄もないお前と。この暮らしだって誰のおかげでできてるんだよ。たまには俺の言うことくらいちゃんと聞け」
私はその暴言を聞いて、夫への感情が一気に覚めてしまった。行き遅れだって。自覚はあったけど、他人に言われると腹が立つ。むしろ私は家事もやっているし、何もできない夫よりマシだろう。私も働いているし、夫の給料だけで生活しているわけでもない。
そう思うと、夫の嫌なところばかりが頭の中に浮かんでしまう。店員に対する態度、すぐ不機嫌になるところ、変に頑固なところ。今まで気にしないようにしていたのに、苛立ちに変わる。そんな思いが交錯して何も言えずにいると、夫は一度部屋を出て戻ってくる。そして、持ってきた何かを私に渡してきた。
「え?」
私の目に飛び込んできたのは、離婚届だった。驚いて顔をあげると、「車の名義変更の書類だけ書いてよ。嫌なら離婚届を書いて出て行ってもいいよ」と言った。しかも離婚届は、ご丁寧に記入済みだ。私は切れた。
「分かりました」
私がそう言うと、夫は満足げに頷き、離婚届をその場に放り投げて自室に行ってしまう。翌日、夫は「これが必要なんだって」と車の名義変更に必要なものを持ってきた。ローンを組んだばかりなのに、名義変更ってできるんだっけ?疑問に思いながらも、私は書類を受け取る。
私はそれが気になって、車を購入した店に確認をすると、ローンを組んでいる状態での名義変更は結構面倒みたいだと分かった。それに使用者が変わるから書き換えや義父の同意も必要で、夫の望むサプライズプレゼントにはできない。そもそも義父は車を欲しいという素振りはなかった。これを説明すれば、夫も諦めるだろう。
それと、私は車の売却に関しても相談した。なんだかケチがついた気がして、これに乗り続けるかどうかは検討したいと思ったのだ。すると、人気の車種だし生産が追いついていなくて、今だと納車までかなり時間がかかるから、高額で買い取ってもらえそうだと分かった。だとしたら、それをローンの返済に当てて、私好みの車を選び直すのも手だ。
仕事から帰ってきた夫に「ローンを組んでいるから名義変更は随分と面倒らしい」と伝えると、
「じゃあもう1台買うしかないじゃん。父さんは絶対喜ぶからさ」
「は?何言ってるの?そもそもお父さんは車を欲しいなんて言ってないでしょ」
「じゃあやっぱり離婚か」
夫はそう言って、また自室に行ってしまった。もう無理だ。これで謝ってくるならもう少し様子を見ようと思ったけど、もう結婚生活は続けられない。私は自分の荷物を片付けることにした。車も売却することにし、一番高い値段をつけてくれた店が後日取りに来てくれるという。これで安心だ。
私は翌日、夫が仕事に行っている間に引っ越しをしようと企んでいた。これで何もかも終わる。そう思って金曜日の仕事を終え、家に帰ると、駐車場に車がなかった。
「え?」
驚いて玄関に入り、車の鍵がかかっているところを確認する。
「ない」
私は青ざめて夫に連絡をした。しかし、何度電話をしても出ない。「連絡ください」とメッセージを送っても、既読すらつかない。夫がどこかに乗っていったのだろうか。でも、あの車はもう…
3時間後、ようやく夫からメッセージが届いた。「同僚と旅行に行ってくる。お互い頭を冷やそう」
「はあ」
私はスマホの画面に向かって、思わず声をあげてしまった。悔しくて仕方なかったが、旅行と言うからには少なくとも今夜は帰ってこないだろう。
私はここ数日で立てた計画を一気に進める。会社で付き合いのある不動産屋に電話をし、確保しておいてもらった部屋を契約した。引っ越し業者にも連絡。翌朝、引っ越し業者が私の荷物と家具家電を運び出してくれた。新居は近くだったし、昼過ぎには私の新生活がスタート。肩の荷が下りたからか、私は鼻歌を歌ってしまった。
すると、スマホの着信音で目が覚めた。夫からの電話だ。家に戻って私がいないことに驚いて電話をしてきたのかも、と思い、私はちょっとニヤニヤしながら電話に出る。
「ゆか子、助けてくれ」
私の予想通り慌てた声の夫だが、どうも家にいるわけではなさそうだ。夫は続ける。
「新車の保険が出ないんだ」
私は何のことだかわからず、「は?」と言ってしまう。その返答に夫は怒り出す。
「だから新車の保険だよ。事故ったから保険会社に連絡したのに、保険に入ってないって言うんだ」
そこまで聞いて、私はようやく理解した。
「事故ったってどういうこと?どこで?怪我は?」
一応心配をして聞くと、夫はふてくされたように言う。
「俺は悪くない。向こうの不注意だ。そんなことより保険の話はどうなってるんだよ」
「はあ」私はため息をついた。
「私、しばらく車に触らないでって言ったよね。正も分かったって言ってたでしょ。どうして勝手に乗って行ってるのよ。それに、別々に車を使う時は事前に言う約束、前からしてるでしょ」
「今はそんなことどうでもいいんだ。とにかくゆか子から保険会社に連絡してくれよ」
事故と聞いてさすがに不安になったけど、これだけ怒る元気があるんだから、多分大したことではないのだろう。私は淡々と事実を述べる。
「その車、今盗難届け出してるの。家に帰ったら車がなくなってたから、警察に届けた。そもそもその車、今日買い取りに来てもらう予定だったのよ。それなのに事故って、どうしてくれるの?売却が決まったから保険も解約済み。車に触らないでって言った時に解約してたのよ」
夫はそれを聞いて理解したのか、慌て出した。
「え、じゃあちょっと待ってくれよ。いくらなんでも、俺がいつも乗ってる車なのに盗難扱いなんて。じゃあゆか子はまずその盗難届を取り下げてくれ。保険の話は分かった。お金のことは帰ってから話そう」
そう言われて、「はい、そうですか」というわけがない。
「ああ、そうそう。言い忘れてたけど、私と正はもう他人なの。3日前にすでに離婚届を出して受理されたし。ついでに言うと、私もうあの家にいないから」
「はあ?」
電話越しに夫、いや、元夫の声が響いた。何やら騒いでいるが、私は電話を切った。その後も着信が鳴り続けて面倒だったので、電源を切る。
翌日、私は仕事の休みをもらって部屋の整理をしていた。朝になって電源を入れたスマホは、元夫からの着信で埋め尽くされている。夜中の1時頃にも着信があった。でも、離婚届を記入して放り投げてきたのも、離婚だと言って脅してきたのも元夫だ。離婚を突きつければ私が何でも言うことを聞くと思ったら大間違いだ。
確かに結婚当初は、「離婚」と言われると従ってしまっていた。35にもなってようやく結婚できたのに、そんなにすぐ離婚なんてしたら世間体が悪すぎると思っていたからだ。だから今回も私が従うと思ったのだろう。さすがに積み重なったら、そんな迷いは吹っ切れた。
色々考えながら部屋の片付けをしていると、スマホの着信音が響いた。どうせ元夫だろうと思って確認すると、義母からだった。
「昨日正から連絡があって、事故にあったとか、ゆか子さんが出ていったとか、よくわからないことばかり言ってたんだけど、どういうこと?」
そう聞かれたので、私は義母に全てを話した。
「お父さんとお母さんには申し訳ないのですが、離婚はもう成立しています。今回の車の金額や財産分与は、後日話し合いの場を設けようと思っています」
そう言うと、義母は私に土下座をした。
「もしよかったら、その話し合いに立ち合わせてくれないかしら。正がおかしなことを言い出したら困るでしょう」
そう言ってくれたので、離婚後の話し合いは義実家で行うことになった。
後日、久しぶりに義実家を訪れると、義父が元夫を叱っている最中だった。私の姿に気づいた義母が「おかえり」と上げてくれる。元夫は案の定、ふてくされた態度でいたが、義父に雷を食らって、しぶしぶ頭を下げた。しかし、
「お前が勝手なことばっかりするから、俺の人生めちゃくちゃだよ」
と言ってきたので、「今まで事あるごとに離婚すると言ってきたことはモラハラに値する。弁護士に相談してある」と伝えると、元夫はみるみる青ざめた。
話し合いの結果、盗難届を取り下げたことへの示談金や、新車の元々の購入金額を元夫が負担することで合意。足りない分は義父が立て替えてくれるそうだ。
帰り際に義母が「ゆか子さんとお出かけできなかったのが残念だわ」と言ってきたので、「私でよければまた」と言って、その場を後にした。
事故にあった時に同乗していたのは、やはり夫があの日車を自慢していた同僚たちだったそうだ。その現場にいた同僚たちは、車は私の名義だったこと、元夫が離婚されていたこと、車は盗難届を出されていたことなど、全てを知ってしまった。そして職場でだんだんと噂が広がり、影で笑われるようになったそうだ。
そのタイミングで移動の話が出たので、居づらくなっていた元夫は喜んでその話に飛びついた。でも、移動というよりも左遷で田舎に飛ばされたそうだ。家事ができないのでご飯はコンビニ、洗濯はコインランドリーなんて考えてたらしいけど、行ってみたら周りには何もなく、スーパーまでは車で30分。コインランドリーなんて見当たらないらしい。だから家事をどうしてるかなんて怖くて聞けないと、この間食事に誘った義母から聞いた。
義母は本当に誘ってくれると思っていなかったと歓喜してくれて、今は年上の友人として付き合っている。私は新しく身の丈にあった車を買って、昔のように一人旅を楽しむことができて満足だ。



