「なあ、今回の修理代、ただでいいよな。なら、今後もずっとただにしてくれよ。」
取引先の部長、西岡の言葉に、俺の中で何かが切れた。
今までも、うちを「零細企業」と呼び、侮辱的な言動を繰り返してきた男だ。それでも耐えていたのは、社員たちのことを考えてのこと。そして、うちの技術を賞賛してくれた取引先の社長、黒部さんの存在があってのことだ。
俺は堪えて、冷静に口を開いた。
。
俺の名前はイチロー、56歳だ。小さな製造会社を経営している。元は町工場から始まった会社で、人数は今も少ない。俺の代でようやく今の形にしたばかりだが、技術力はどこにも負けない自信がある。
うちの強みは、緻密な設計で製造するギア、つまり歯車だ。10年近く前、俺が改良を加えて特許を取得した。個人的にも思い出深い部品である。
。
当時、既存のギアは高速回転時にわずかな歯のずれが生じ、精度が落ちてしまうという課題があった。これを克服しようと、来る日も来る日も試作を重ねた。
深夜まで工場に残り、何度も設計をやり直した日々だ。社員たちも巻き込み、意見をぶつけ合いながら作り上げた。
ようやく理想の噛み合わせにたどり着き、特許が下りた時、仙台からは「よくやった」と一言、肩を叩かれた。 。
あの時の感触は、今でも忘れられない うちの取引先には様々な企業があるのだが、中には12社ものグループ会社を抱える自動車部品メーカーもあった。今から3年前、うちの営業がダメ元で声をかけたのがきっかけだ。
うちは当時、特許ギアを使用した機械を開発したばかりだった。この機械は、いわゆる検品機械で、あらゆる分野生産ラインで活躍できる」先方の社長、黒部さんにも興味を持ってもらえたのは幸運だった]。
黒部社長は、以前、直接うちの工場に足を運んでくれたことがあるのだが、「これは素晴らしい」と、宝石を眺めるように目を細めていたのを覚えている。他の部品や、それらを使った機械製品を自らの手で見て、黒部社長はうちと契約することを決めてくれたのだ。
ではグループ会社12社のそれぞれの工場にも、この特許機械が何台も稼働している 。自動車部品の生産ラインにおいて、「この機械でなければ出せない精度がある」と。はいえ、機械さえあればいいわけではない」温度や湿度、日々の摩耗に応じた微調整があってこそ精度は保たれる」。だから3年前、機械を貸し出す形で使ってもらうことにした」。ゆくゆくは買い取ってもらう約束になっている」。その際、修理や保守も担当して欲しいと依頼され、その分の契約も交わした」 そうした理由から、定期的に先方の担当者とやり取りをする機会がある 。 . 元請け本社の購買部長が担当者なのだが、これがなかなかのクセ者だった」。
担当の名前は西岡という男だ」。西岡は名の知れた大学を出たエリートだと、会う度に自慢していた」 「俺は本来もっと大きな案件を任されるべき人間なんだ」。オタクみたいな零細企業の相手なんかする人間じゃないんだ」と、口癖のように嫌味を言う」。しかし西岡のようなタイプは、言い返せば言い返すだけこちらが損をするのだ」。
不快感だけが蓄積していく中、俺は気持ちを抑えながら、大人として聞き流していた」。
だが、西岡がここ最近になって妙に苛立ちを見せるようになったのだ」。別件で取引先の技術系の社員と仕事で話す機会があったのだが、どうやら取引先で、西岡の同期が自分より上の立場に出世したという」。つまり、自分も成果を出さなくてはと焦り出したというのだ」。
だからと言って、こちらに当たられても困る」。
話を聞いた時、失笑した」。西岡の振る舞いを思い出すと、疲れがどっと押し寄せてくる」。
西岡はやり取りの度に俺に突っかかり、仕様の簡略化や無理な量産を提案していたのだ」。
もちろん、あまりに唐突なことや、こちらの負担の大きいものは断ってきた」。その度に西岡は表向き引き下がるのだが、暗い目つきで俺を睨んできたのをよく覚えている」。
「本当にめんどくさいな」。零細企業のくせに、誰のおかげで飯が食えると思ってるんだか」。
うまくいかない苛立ちを、完全に逆恨みしているように見えた」。
「少なくとも、あなたではありませんね」。
この時ばかりは、思わずそう切り返していた」。たまたま席にいた数人が「プッ」と吹き出し、周知の事実となって、西岡はさらにきつい目で俺を睨んだ」。さすがに「しまった」と内心少し焦ったが、今にして思えば、これくらいは可愛いものだろう」。
そもそも、無理な要求というのは、いきなり上げられるケースの方が少ないだろう」。
「…西岡部長にも困ったものだ」。
仕事中、俺は思わず呟いていた」。つい独り言を漏らしたことに気がついて、俺は慌てて周りを見渡す」。俺のデスクは、他の社員たちが働く事務所にある」。だが幸い、独り言は誰にも聞こえなかったらしい」。みんな自分の仕事に集中している」。俺はほっと息を漏らし、改めてモニターに目を向けた」。
表示されたスケジュールには、来月にメンテナンスがあると記載されている」。この日は事前に聞いていた軽微な不具合を修理し、他に問題がないか確認する予定だ」。
西岡のいる会社に近い工場での作業になる」。
西岡は俺が来ることを知っているため、おそらく来るだろう」。つい言い返してしまったことがきっかけで、西岡は何かと俺に近づいてくるのだ」。そしてその度に嫌味を言い、また無理な要求を突きつけてくる」。
「気が重い」。この一言に尽きる」。他の社員に任せたいが、人手が足りない」。仕事は仕事と、割り切るしかないのだ」。無理を言われても、きっぱりと断るしかない」。
俺は心の中でそう思い、モニター内のスケジュールを閉じた」。
メンテナンスの日がやってきた」。現場に着き、機材を広げながら、ふと数ヶ月前のことを思い出す」。若手社員を連れて訪れた際、西岡は「開口一番」「オタクは修理屋のくせに、若いのまで連れてくるのか」と、部下に聞こえるように言い放ったのだ」。あの時の部下の悔しそうな顔を、俺は今でも覚えている」。以来、極力1人で現場に赴くようにしていた」。
問題なく予定通りの作業を終えられて、安どの息をつく」。
工具を片付けて駐車場に向かおうとしたところで、声をかけられる」。
「イチロー社長」。
声を聞いた瞬間、ぎくりと体が硬くなる。恐る恐る振り返ると、嫌な予感が的中する」 「西岡部長、お疲れ様です」。
俺は平静を装って挨拶したが、西岡は腕を組んで薄ら笑いを浮かべるのみだ」。
「話があるんだが、いいかな? 」「何でしょう? 」 どうせまた何か嫌味を言われるか、唐突に無理を要求してくるのだろう」。
「今回は修理作業をしたらしいな」「ええ、他に問題がないかの確認もしましたが」「はあ(笑い)」どうせまた高額を吹っかけたんだろう」と、西岡は大げさにため息をつきながら肩をすくめて見せる」。
「高額って…適正な価格ですよ」。
ニコリと営業スマイルを貼り付けて応じたが、心の中はチクチクと苛立ちが広まりつつあった」。
「はいはい。どうせ特許がどうたらこうたらって言うんだろ」。いいよな。オタクみたいな零細企業でも、特許って言葉があれば、うちのような大手からも甘い汁を吸える」。
「なんだその言い草は」と、さすがにむっとする」俺の表情が変わったのを見て、西岡は鼻を鳴らした」。
「だってそうだろ」。仮に修理作業が含まれてなくたって、毎回意味が分からんほど高い」。
西岡の値切った言い方に頭痛がした」。価格が高いというのは、以前も言われたことの1つだ」。金額に関しては、取引先の社長も直接話し合いに参加しており、決めた通りにしか請求していない」。
「以前、説明した通りです」。申し訳ございませんが、他にも予定がございますので」 、俺はそう言って西岡の横を通り過ぎようとする」 これ以上、時間を無駄にしたくなかった。
。
「イチロー社長、それはないんじゃないのか」。
通り過ぎ際、腕を掴まれる」。決して強くはなかったが、驚いてしまう」 「なあ、今回の修理代、ただでいいよな」。なら、今後もずっとただにしてくれよ」。
苛立ち、不快感が胸の奥で大きくうねった」 思わず「はあ?

」と口に出てしまう」 西岡も、できないことを言っていると分かっているのだろう」。その表情からは、真剣さのかけらもない」 「無理なら、業者変えるぞ」。底辺の零細企業でも、この意味分かるよな」。
瞬間的に、「誰のおかげで飯が食えるのか」という西岡の脅迫的な言葉が脳裏をよぎる」。同時に、俺の中で何かが切れる音がした」。
今までの我慢が、一気に、いわゆる「堪忍袋の緒が切れた」瞬間だ」。
どちらが一方的ということはない」。互いが互いを支えるから、契約が成り立つのだ」。こんな基本的なことさえ、西岡は分かっていない」。自分が施す立場だという、恥ずかしい勘違いをしているに過ぎない」。
俺の中には、激しい怒りと同時に、冷たい呆れのような感情が同居していた」。
頭の中に、社員たちの顔が浮かんでいく」。
社員たちの生活のことを考えるなら、この判断はきっと長い目で見て正解と言えるはず」。
俺は堪えて静かに、しかしはっきりと口を開いた」。
「はい、分かりました」。では、御社はもちろん、オタクのグループ12社に貸している特許機械も、全て今すぐ返せますよね」。
わずかの間、沈黙する。
「え? 」 西岡の口から間抜けな声が漏れた」 そして、見る見るうちに顔が真っ赤になっていく」 「ふ、ふざけるな」。何を言ってる? 「何言ってるんですか」 「無理なら業者を変えるって、おっしゃったじゃありませんか」。無理ですので、それならこちらとしては機械を全て返却していただくほかありませんが、何かおかしなことを言ってますか? 」
こちらが泰然とした態度を崩さないことで、西岡は目に見えて動揺している」。
「ちょ、ちょっと落ち着けよ」。大体、長年うちが使ってきたんだ」。急にそんなこと「貸してもらっている身で、何をおっしゃっているんです?
」 機械には、うちの特許が多く組み込まれている」。ましてや、まだうちが貸している状態」。つまり所有権はこちらにあります」。うちが返せといえば、それまでの話だ」。
俺の言葉に対して、「だ、だが」と言葉を濁しながら反論しようとする西岡に、俺はさらに言葉を重ねていく」。
「そもそも、今あなたがした発言は、脅迫にも等しい」。信頼関係の破綻を訴えるには十分でしょう」。これまでの無理難題の押し付け、暴言も含めてね」。
「俺が言ってないといえば、それで終わりだ」。
開き直った西岡がそう吐き捨てた時だった」。
「あの…」。
第三者の声が聞こえて、俺と西岡が視線を向ける」。
声の主は、さっきまで俺が作業していた工場の工場長が立っていた」。
「そ、すみません」。立ち聞きするつもりは…その…イチローさんが、これをお忘れになったので」。
差し出されたのは、紛れもなく俺の私物のドライバーだった」。うっかりしていたのだろう、お礼を言いながら工場長から受け取った」。
工場長の、厳しい視線が西岡に向けられている」。
「お前、なんだその目は? 」 工場長の視線の意味を感じ取ったのか、西岡が声を低くしている」。
感情の矛先が工場に向くのはまずいと、俺は間に割って入った」。
「ともかく、すぐに機械をお返しいただけるよう、お願いいたします」。こちらからも御社の社長には伝えますから」。
「社長に伝える」 その言葉が聞こえたのだろう、西岡の表情が露骨に変わった」。さっきまでは怒りを滲ませていたというのに、今度はさっと血の気が引いていく」 「な…待て」。それは…。
俺と俺の後ろにいる工場長に視線を向け、悔しそうに唇を噛みしめている」。
「さっきの発言はなしだ」。修理代もメンテナンス代も、買えなくていい」。俺は何も言ってないぞ」。おい、そこのお前も、何も聞いていない」。分かったな」。
慌ててそう言っていたが、もう遅い」。俺の硬い決意をよそに、西岡は逃げるように去っていく」 。
残された俺と工場長は、目を見合わせる」。
「…正直、前々からずっと目に余っていたんです」。うちの社員にも、聞くに耐えない言い方をする人でしたから」。
工場長はそう言ってため息をつき、「いざという時は、証言いたします」。西岡部長がイチロー社長や本社の社員さんに暴言を吐いているのを、私や工場員が何度も目にしていますから」と言ってくれた」。
翌日、俺は仕事で外出していた」。用件を終えての帰り道、俺はスマホが振動していることに気がつく」。画面には、西岡の名前が表示されている」。
「着信拒否にしておけばよかったな」と思いつつ、俺は無視を決め込んだ」。しかし電話は、何度も何度もかかってくる」。俺は仕方なく電話に出た」。
「何度もお電話をして、申し訳ございません」。
聞こえた声は、西岡のものではないと気づき、俺は口を噤んだ」。
「…あなたは? 」 恐る恐る尋ねると、声の主は心苦しそうに名乗った」。その瞬間、俺は息を呑む」。
「大変、御無沙汰しております」。
声の主は、グループを束ね、うちの技術を賞賛してくれた、あの黒部社長だったのだ」。
黒部社長によると、俺の直通の連絡先を知らなかったため、止むを得ず西岡のスマホを借りて連絡してきているとのことだった」。今朝早く、昨日の一件を知り、居ても立ってもいられなくなったそうだ」。
思えば、俺が動くより先に、事はもう動いていたらしい」。
でも、昨日俺と西岡の話を偶然にも聞いてしまった工場長が報告したのがきっかけだという」。
「そうですか」。工場長が」。
俺が呟くと、電話口で黒部社長が繰り返し謝罪する」。
「本当に申し訳ございませんでした」。全ては、社長の私の落ち度です」。特許機械をお返しするのは当然ですが、ただ叶うなら、どうしても直接謝罪をさせていただきたくて」。誠に恐縮ではございますが、そちらへ伺ってもよろしいでしょうか? 」
本当に辛そうな声に、俺はなんだか居た堪れなくなる」。だが、あくまで昨日の行為に及んだのは西岡自身の意思である」。
「来ていただかなくて結構です」。ちょうど近くにいますので、そちらへ伺います」。
「そんな、ですが…」。
「ただし、西岡部長がいることが条件です」。
そう告げると、黒部社長は戸惑っていたが、確かに承諾した」。
取引先に到着すると、俺はすぐに社長室へと通される」。部屋の中には、黒部と西岡の姿があった」。
普段の傲慢な姿からは想像できないほどに、西岡は縮こまっている」。俺と目が合うと、さっと顔を伏せてしまった」。
「この度は、弊社の西岡が大変申し訳ございませんでした」。
黒部社長が深く頭を下げる」。話を聞けば、西岡の要求は完全に独断であり、黒部社長はもちろん、他の誰もが知らなかったという」。
「工場長の他にも、西岡の普段の言動について裏付けが取れました」。機械を返却することは当然のこと、実質的な契約違反に等しい行為だったと、社内でも認識しております」。
黒部社長の言葉には、誠実さのようなものを感じる」。事実を受け止め、変に言い訳をしない」。この人と契約を決めた時も、そういった直向さを感じたからこそだった」 。
そう思っていると、西岡が口を開いた」。
「社長、私は会社のことを考えて…」。
「西岡君、君がすべきことは言い訳ではないはずだ」。
社長の鋭い視線に、西岡は息を呑む」。
「くっそ…俺は、俺はこんな奴に頭を下げるような人間じゃ…」。
これが本音なのだろう」。
「黒部社長、どうやら西岡部長には反省の心はないようですね」。
俺が立ち上がろうとすると、西岡は慌てて膝をつき、床に打ちつけんばかりに頭を下げた」。
なんて見苦しい土下座だろう」。誠意のかけらもない保身のための行動というのは、明らかだった」。
「零細企業と見下されてきた日々、社員を侮辱された屈辱」。その1つ1つが、今、頭の中を駆け巡っていく」。
「あなたは、自分を神様か何かだとでも思っていたんですか?
」 自分の権限以上の行為に及んだ結果です」。
「それは、だからこうして、だからこうして謝罪しているとでも言うんですか」。
これは言いながら、何度目かのため息をつく」。
「ともかく、黒部社長」。機械の返却時期に関しては、また改めて」。
「私が西岡部長のことを許すことはありません」。
「え、こ、こちらも厳正な処置を下しますので、その…」。
その瞬間、西岡が言葉にならない叫び声をあげた」。西岡の喚く声を背に、俺は社長室を後にしたのだ」。
それから半月、こういう結末にたどり着いた」。
黒部社長の誠意ある対応に鑑みて、返却までの猶予期間を設けた」。ただし、その間の費用や裁量権は、確実にこちらに有利な条件に改めた」。
その際、黒部社長が西岡のその後を教えてくれた」。西岡は最終的に、懲戒解雇となったそうだ」。その後、会社側が改めて調べたところ、うちだけでなく、他の小規模企業にも同じ扱いをしていたことが分かったという」。完全に自業自得である」。
返却される機械には、すでに信頼できる企業から問い合わせが殺到しており、黒部社長が次の借り手として声をかけてくれたようだった」。
西岡というクセ者は去ったが、黒部社長との縁は、これからも続いていく」。
社員たちを守れたこと、そして技術に誇りを持ち続けられたこと」。
これからも社員と共に、この会社を育てていくつもりだ」。


