「――末期だって。全身に転移していてもうどうしようもないらしい」
電話越しの兄貴の声は、いつもと同じくらい落ち着いていた。俺は耳に当てたスマホを落としそうになり、手が震え始めた。嘘だろ。三年前、国を失った俺にとって、兄貴だけが最後の家族だった。そんな兄貴が、いきなり悪い冗談を言い出すなんて、何のつもりだと思った。だが兄貴の口調は変わらない。
「お前との約束、守りたかったんだけどな」
「そうだよ。お前と一緒に写真集を出して、いつか2人で海外で撮影もしたかった」
俺にはそれしか言えず、涙が流れる前に電話を切った。その瞬間、スマホが手から落ち、俺は膝をついて号泣した。
それから三ヶ月後、兄貴は両親の元へ旅立った。一ヶ月と言われていた命を、三ヶ月まで耐え抜いたのに、俺は葬式でも涙が止まらず、人目もはばからずに泣いてしまった。妻のなみさんは、非常に落ち着いて振る舞っているというのに、俺はなんて情けないんだろうと思った。
それから二年が経った今でも、俺は兄貴の死から立ち直れずにいた。両親が亡くなった時は、兄貴と二人で必死に生きていこうと誓い、乗り越えられた。でも今は、もう天涯孤独だ。家族の話ができる人もいない。兄貴の遺産は受け取ったが、そのお金に手をつける気にはなれなかった。兄貴が持っていた荷物の大半は、片付け分けとして受け取ったが、それを出すこともまだできない心境だった。
そして、兄貴の三回忌がやってきた。いい加減に立ち直らなければいけない。これを終えたら、きちんと向き合おうと心に決めて、法要を終えた。
するとなみさんに呼び止められた。
「これで、籍を抜きにします。今後、連絡しないで」
「え、どういうことですか? 」
「戸籍関係終了届けも出すつもりだから、私たちもう関係なくなるしね」
「あの、それって縁を切るってことですよ」
「お互い、その方がいいでしょ」
なみさんはそう言って笑った。まだ三回忌なのに――そう言いたかったけど、俺には口にすることができなかった。確かになみさんだってまだ若いし、今後、再婚したい人が出てくるかもしれない。それは分かるけど、なんとなく違和感があった。
三回忌を終えて家に帰り、一人になってため息をつく。回忌が終わったら立ち直ろうと決めていたのに、どうやらまだすぐにはできそうもない。なみさんのあの言葉は本心だろうけど、笑顔で言うことなのか。それから一週間後、俺はまだモヤモヤしたままで、自分自身に嫌気が差し始めていた。今日は飲もう。そう決めると、昔兄貴とよく行っていたバーに向かった。
安価街を歩いていると、見覚えのある女性が目の前を通っていった。隣の男性と腕を組んで歩いているのは、なみさんだ。俺の知っているおやかそうな雰囲気ではなく、夜の街が似合うような派手な装いだった。まあ、別に彼女がどこで誰と何をしようと関係ないんだけど、モヤモヤは一層増してしまった。
バーに入ると、まだ早い時間だからか他に客はいない。
「あと、君、久しぶりだね」
俺と兄貴のことを知っている数少ない人だと思ったら、俺は一連のことをマスターに愚痴に話していた。マスターは最後に俺に言った。
「でもさ、君がずっとそんな風に悲しんでたら、お兄さんも悲しいと思うよ」
優しい口調で言われて、俺は思わず涙がこぼれてしまった。そしてその日を境に、俺はなんとか前を向くことができた。
翌日、俺は片付け分けで受け取った兄貴の撮影機材の入った箱を開けた。そこには昔から兄貴が使っていたカメラも入っている。片付け分けの時、なみさんがこれが欲しいと言っていたけど、これだけはどうしても譲れないと無理を言って譲ってもらったものだ。何度か箱を開けて風を通したけど、手に取って自分で使うようになったら兄貴がいなくなったことを認めるような気がして、複雑な思いで手に取ることができなかった。
それを今、ようやく手に取って、その重みを感じていた。
「兄貴の大事なカメラは、この先、俺が使わせてもらうよ」
兄貴はもういないから、これから新しく二人で現地での写真を撮ることはできない。こういう意味では、いつか一緒に写真集を作って出版しようという約束はもう叶わなくなってしまったけど、このカメラで撮ったものなら、兄貴と一緒に撮ったも同然だ。俺は箱の中身を出して、一つ一つ丁寧に並べていく。そしてカメラ本体をケースから出すと、カメラと一緒に何かが落ちた。
何だろうと思って拾い上げると、それは俺への手紙のようだった。何回か折りたたまれて、カメラのケースに忍ばせてあったんだ。それを開くと、「斗へ」と書かれていて、その内容は俺の知らない兄貴の予名宣告をされてから書いたもののようだった。
「保険金の受け取り人は、お前になっているから、今後の人生に役立てて欲しい。でも、もしかしたら妻の手によって受け取り人が変えられているかもしれないから、確認して欲しい」
その保険は、随分前からかけていたもののようで、高校生の俺と一緒に暮らしている時、自分に何かあったら俺が困るだろうと、年齢にしては高額な金額をかけていたということを、俺は後に知ることになる。
この保険金は、もちろん俺は受け取っていない。ということは、なみさんが受け取ったに違いない。
俺はなみさんのこういう関係を全く知らないが見、聞くとなれば本人に直接聞くことになる。今更俺から連絡するのは気が引けるかと言って、兄貴の思いを無駄にするのも違う。俺が尊重するのは、やっぱり兄貴の思いだ。
俺はそう思って、まだ消去していなかったなみさんの電話番号へ電話をかけた。
「誰? 」
けだる層に出る相手の声は、俺の知っているなみさんの声ではなかったが、俺は意を消して話を始めた。
「なつみさん、俺です。は斗です」
「はあ、もう連絡するなって言ったよね」
完全にキャラが変わってきていると思ったが、こっちが彼女の本性なんじゃないかと、俺はなんとなく気づき始めた。
「担当直入に言いますけど、あなた、保険金詐欺しましたよね」
「はあ、何言ってるの? 兄貴の保険金、受け取りましたよね」
「保健金?

そりゃ妻が保険金を受け取るのなんて当然でしょ」
「それ、受け取り人は俺になっていたはずです」
「へえ。違うでしょ。私が受け取ったんだから、受け取り人は私なのよ」
「もしかして、お金に困ってたんじゃないですか」
「何? どうしてそんなこと聞くのよ。私にだって色々あるんだから、あんたに関係ないでしょ」
やっぱりこの人の本性はこっちなんだと思ったが、俺は全く見抜けなかった。でも、兄貴は結婚した後に見抜いたんだろうか。
「分かったら、2度と連絡してこないでね」
俺は電話を切られたスマホの画面を見て、ため息をついた。
それから一ヶ月後、今度は俺の目の前になみさんが現れた。
「そろそろ来る頃だと思っていた」
「久しぶりね、は斗君」
そこにいるのは、俺の知っている初めて会ったあの時の、おやかそうななみさんだった。よくここまで表変できるものだ。
「何ですか? 」俺は不機嫌に答える。
「ねえ、あの人の残したもの、他にあったんでしょ? それって私にも受け取る権利あるよね」
「ああ、写真集のことですか?
」
「そう、因罪に受け取る権利あるわよね」
「はあ。なんで? 」
「なんでって? 私はあの人の妻なんだから」
どうしてこんなことになったのかと言うと、あれは兄貴が亡くなってしばらくしてからのことだ。
俺の目の前には、出版社のご父さんという人が座っている。兄貴とはかなり前に知り合っていたらしく、俺と兄貴の作品を写真集にしたいと、俺を尋ねてきてくれた。また片付け分けでもらったカメラで兄貴が撮っていたデータを、ご父さんが持っていて、兄貴と話を詰めていたらしいが、兄貴がいなくなったことで止まってしまい、話はそのままになっていたという。
でも、兄貴が病室から送った手紙を読んで、この写真集を完成させたいと思ってくれたそうだ。俺はもちろんその話に乗った。俺と兄貴は、いつか二人で撮った作品を出版しようと約束していたからだ。
売れるとか売れないとか、そんなことは二の次で、とにかく作品として手元に残したいというのが俺たちの思いだった。
そうして出版したが、結論から言うと、無名の俺たちの写真集は売れなかった。相変わらず俺は細ぼと生活をしていたけど、ある日突然生活が一変する。
あの写真集がインターネットで評判になり、買い求める人が殺当していると、ご藤さんから連絡があったのだ。
二年も前の写真集が話題になることなんてあるのかと疑問だったが、インターネットで調べてみると確かにあの写真集が話題になっている。有名なインフルエンサーがSNSで絶賛し、その記事が拡散されていた。その写真集が話題になったことで、さらに次の写真集の出版も決まり、俺は堂々と写真家を名乗れるほどになった。
どこで知ったのか、なみさんはその因罪を目当てに、俺の元に現れたというわけだ。
ここから俺の反撃が始まる。
「あの写真集は、俺と兄貴がいつか出版したいと思っていたものだ。あんたなんかにその領域を怪我されたくない。帰ってくれ」
「何綺麗言ってるの? そんなのはどうでもいいのよ。それぞれに因税が入るんでしょ。だからそれを受け取る権利が私にもあるでしょ」
初対面の印象はどこへやら。この人はお金にしか興味がないようだ。
「保険金の話です」
「保険金?
あ、まだ言ってるの? 今はそのことはどうでもいいわ」
「どうでも良くはないですけど」
「じゃあ先に写真集の話をしますよ。あれは俺たちの慈悲出版で陰税は入らないんです。次に出した俺の写真集は、今、陰税がガっぽがっぽ入ってきてますけどね」
「はあ。何それ? どういうこと? 」
「そういうわけなんで、あなたが受け取れるお金は一戦足たりともありません。それよりも、あなたは保険金詐欺で訴えられる身ですけど、どうします?
」
「だから、保険金詐欺なんてしてないってまだ言ってるの? 」
「受け取り金の、三千万、何に使ったんだよ」
「あれは受け取り人は確かにあんたの名前になってたけど、そこまで言うと話は遮え切られる」
「そうでしょ。だから私のお金でしょ」
「だけど、それは兄貴が亡くなる直前に変更されていたんだ」
「筆跡鑑定の結果、いつでも出せるけど、まどろっこしいのはもう嫌だ」
俺は結論をはっきり言ってやるとなるみさんは明らかに顔色を変える。
「筆跡鑑定って。」
「あんたは、兄貴が入院すると、保険金のことを調べ始めたんだろ。それで受け取り人が俺になっていることを知った。このまま兄貴がいなくなったら、保険金は自分には一切入らない。だから受け取り人の変更を申請した。兄貴の許可もなく、自分で書いて」
青ざめたなみさんは後ずさるが、俺は容赦しなかった。
「兄貴が俺に手紙を残してくれてた。あんたが受け取り人を勝手に変更することを見通してたんだろうな。だから筆跡鑑定をした。証拠は揃ってるんだよ」
「そんなの? そんなの何かの間違いでしょ」
「あんたは、兄貴の保険のことを知って、その金額に目が膨らんだんだろ。違うか」
「兄貴の残した手紙には、保険金の話が出てから、あんたの性格が表変したって書いてあったよ」
なみさんは何も言えないのか、俺を睨みつけるだけで口を開かない。
「それを知ってからは、兄貴とはほとんど保険金の話しかしなかったらしいじゃないか。もう兄貴は長くないと知って、金のことしか見えなくなっていたんだろうな」
「兄貴を馬鹿にしすぎだよ」
「ふざけるな。違う。そうじゃない」
「何が違うんだよ。それに気づいた兄貴が離婚しようとしても、話をはぐらかして、結局兄貴は打つ手がなくなったんだよ」
「兄貴が生きてる間に俺に何も言わなかったのは、それでもあんたはそんなんじゃないって信じたかったからなんだよ」
「あんたはそれを裏切った」
「大方、保険金を手に入れた瞬間に生活が変わって、金遣いも見た目も派手になっていったんだろ」
「ひどい、そんなこと」
なみさんは反論してくるものの、覇気がなくなっている。
「じゃあ出るとこ出るか。保険金詐欺の罪は重いらしいけど、全額返してくれるなら、訴えるのはやめてもいい」
「全額って、一千万近くはもうないのよ」
「そんなのどうすれば」
なみさんは、自分の罪を認めたようだ。
「ようやく自分のしたことを認めたんだな。で、どうすんの?
」
人の顔色が青ざめていく瞬間を初めて見たが、なみさんの顔色はどんどん悪くなり、その場にへたり込んだ。
「分かったわ、全額、何とかします」
その後、俺は全額の三千万を受け取った。
なみさんは保険金で買ったブランド品を全て売りさばいたが、主に男に貢いでいたようで、微々たる金額しか用意できなかったらしく、実家に泣きついたそうだ。両親からはこっぴどく叱られ、足りない分は両親が立て替えると、お父さんからわざわざ謝罪の連絡があった。
なみさんは両親の監視のもと、朝から晩まで働き詰めで、両親にお金を返しているという。
俺は、写真集の出版も決まって、写真家として活躍している。
これもそれも全部、兄貴のおかげだ。
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