土砂降りの雨の中、店のドアを開けて現れたのは、骨と皮だけのように痩せこけた五歳の孫・瞬一だった。震える手でその冷たい体を抱きしめ、私は尋ねた。
「瞬一、どうしたの?パパとママは?」
すると瞬一はか細い声で信じられない事実を告げる。
「パパとママとトル君は海に遊びに行った。僕は置いてかれた。」
その瞬間、私の頭の中で何かがプツリと切れた。土砂降りの雨の中、この子をたった一人で置き去りにして、自分たちだけ海水浴とは。私は冷たく濡れた孫を強く抱きしめながら、腹の底から湧き上がる黒い怒りを感じていた。夫は変わり果てた孫の姿を見て、言葉もなく立ち尽くす。
ダイニングテーブルに焼きたてのクリームパンと温かい牛乳を置くと、瞬一は夢中でそれに食らいついた。
「瞬一、ゆっくりでいいのよ。パンはまだたくさんあるからね。」
夫も優しい声で語りかける。
「そうだぞ。もう誰もお前からパンを取り上げたりしないからな。ここがお前の家なんだ。」
その言葉に瞬一はぴたりと動きを止めた。そしてその小さな瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「じ、じじばば……ありがとう。ありがとう。」
今までずっと我慢してきたのだろう。しゃくり上げて泣くその小さな背中を、私と夫はただ黙って優しく撫でてやることしかできなかった。
私の名前はみ子。夫の竹之と二人で町の小さなパン屋を営んでいる。私たちには両太郎という一人息子がいるが、今はもう離れたアパートで暮らしている。その息子夫婦が私たちの悩みの種だった。息子の嫁であるみちるさんと共に、毎月のように生活が苦しいと金の無心に来る。
「両太郎もみちるちゃんもまだ若いから。」
夫はそう言って、私たちの決して楽ではない生活の中から毎月高額な仕送りを続けたのだ。
息子夫婦には二人の子供がいる。上の子は瞬一。病気で早くに亡くなった両太郎の前の妻との子だ。下の子はトル。今のお嫁さんであるみちるさんとの間にできた子である。二人の孫は本当に可愛くて、店に遊びに来ては私の焼いたパンを嬉しそうに頬張る。その笑顔が見たくて、私たちは無理を重ねていたのかもしれない。このささやかな幸せが、ある日を境に音を立てて崩れ去ることになるとは、この時の私は知るよしもなかった。
仕送りを始めてから数ヶ月、私と夫の心配よそに息子夫婦の金遣いは荒くなる一方だった。みちるさんはSNSで見栄を張るかのように毎週のように新しい服やバッグを買い、両太郎は夜な夜な友人たちと飲み歩いているようだった。そのお金が、私たちがパンを焼いて必死に稼いだお金だと思うと腹が煮え繰り返る思いである。
特に、孫への態度の違いは誰の目にも明らかだった。この前店に遊びに来た時のこと。トルがケーキが食べたいと一言こぼすと、みちるさんはすぐに近くの高級洋菓子店に走り、一番大きなホールケーキを買ってきた。そしてトルの皿にだけ、イチゴがたくさん乗った一番いい部分を取り分ける。瞬一が羨ましそうにそれを見つめているのに、二人は全く気づかない。それどころか、両太郎は瞬一にこう言ったのだ。
「瞬一は大きいんだから我慢しろよな。」
みちるさんの実の子であるトルにはそうやって何でも買い与える。それなのに、前の妻の子である瞬一の服はいつもよれよれで、季節に合っていないことさえあった。
お正月に私たちがお年玉を渡した時のこと。夫と相談し、せめてもの思いで瞬一のポチ袋にだけ少し多めにお金を入れて渡した。
「瞬一、これで好きなものを買うのよ。」
瞬一は一瞬ぱっと顔を輝かせた。だがその笑顔はすぐに隣にいたみちるさんによってかき消される。
「あら、瞬一、ママが預かっておいてあげるわね。」
そう言ってみちるさんは瞬一の手からポチ袋をひったくってしまった。両太郎もそれを見て見ぬふり。呆然としてしまった瞬一に、私はかける言葉も見つからなかった。
帰り際、私はたまらず瞬一に声をかけた。
「ごめんね、瞬一。」
すると彼は小さな顔を上げて、けなげに笑ってみせる。
「うん。大丈夫。僕お兄ちゃんだから平気だよ。」
その笑顔が私の心に鋭い棘のように突き刺さった。
さすがに我慢の限界だった私は、帰り際に息子夫婦を呼び止めた。
「両太郎、みちるさん、ちょっといいかしら。」
私のただならぬ雰囲気に、二人は面倒くさそうに振り返る。
「毎月生活が苦しいと言っているけれど、あなたたちのお金の使い方は少し目に余るわ。それに瞬一のこと、あの子の服もずっと同じままだし、もっと気にかけてあげて。」
私の言葉に両太郎は頭をかきながら気のない返事をした。
「はいはい、分かってるって。なあ、みちる。」
「ええ、分かってますよ、お母さん。これからは瞬一のこともちゃんと考えますから。」
口ではそういうものの、二人の目には全く反省の色が見えない。これ以上強く言っても、のらりくらりとかわされるだけだろう。下手に刺激して、瞬一に合わせてもらえなくなるかもしれない。
「本当にお願いよ。」
そう言うのが精一杯だった。少しは響いてくれるだろうか。そんな淡い期待を抱きながらしばらく様子を見ることにした私だったが、その期待が打ち砕かれるのにそう時間はかからなかった。
この子を守ってやれるのは私たちしかいない。そう思っていた。だが、事件が起きた。
凍えるように寒い冬の日。そういえば先日、息子たちが店に来た時にトルのマフラーが置き忘れてあったのを思い出した。何度か連絡しても繋がらない。ちょうど配達の帰り道だったこともあり、心配になって私は息子夫婦のマンションに直接届けに行くことにした。
部屋の前に着き、インターホンを鳴らす。しばらくしてドアが開き、面倒くさそうに顔を出したのは両太郎だった。
「ああ、なんだ母さんか。何の用だよ。」
「トル君がマフラーを忘れていったから届けに来たのよ。」
私は部屋の中を覗き込むが、いつもなら駆け寄ってくるはずの瞬一の姿が見えない。トルだけがリビングでおもちゃを広げて遊んでいた。私が不審に思っていると、ふとリビングの奥にあるベランダの窓に小さな人影が映っているのが見えた。上半身裸のまま、ガタガタと震えている瞬一だった。
「瞬一?あなた、そんな格好で何してるの?」
慌てて窓を開けて瞬一を部屋に入れようとしたその時、両太郎は私の腕を掴んでそれを静止した。
「母さんには関係ないだろう。」
「そんなことより、どうして瞬一がベランダにいるの?」
私が問い詰めると、両太郎は真顔でこう言った。
「ああ、そいつがトルのおやつを盗み食いしたから、罰を与えてるんだ。少し頭を冷やさせないと。」
「罰?こんな寒い日に裸で外に出すのが罰だっていうの?」
よく見ると瞬一の頬はこけ、唇は紫色になっている。これはただのしつけではない。
「もういいでしょ。瞬一に万が一があったらどうするの?」
私が瞬一の腕を掴んで温かい部屋に入れようとした瞬間、キッチンから金切り声が飛んできた。
「やめてください。この子、甘やかさないで。」
鬼のような形相で立っていたのはみちるさんだった。
「私たちの子育てに口出しするなら、もうここには来ないでください。」
「あなたたちのは子育てじゃない。限界を超えているわ。」
私の叫びも虚しく、二人は私を家から無理やり追い出した。バタンと目の前で閉められたドア。その向こうから聞こえる瞬一の鳴き声に、私の体は震えることしかできなかった。
その夜、私は夫に全てを話し、二人で児童相談所に電話をかける。だが帰ってきたのは厳しい現実だった。
「お気持ちは察しますが、あざや怪我といった直接的な証拠がない限り、我々が強制的に介入するのは難しいのです。」
絶句する私に、職員は言葉を続ける。
「下手に動くと、息子さん夫婦が警戒して、お孫さんとの接触を一切断ってくる可能性もあります。」
悔しくて涙が出たが、私たちにできることはただ耐え、次なる機会を待つことだけだった。
それからというもの、私は日記をつけ始めた。いつか必ず瞬一を救い出す。その日のために、奴らの非道を一日も忘れぬように。
四月、瞬一の誕生日。私たちがプレゼントしたミニカーは、その日の中にトルのおもちゃ箱に入っていた。両太郎に問いただすと、「瞬一はもう飽きたって言ってたから」と悪びれもせずに言う。隣の瞬一はただ黙って床を見つめているだけだった。
五月、瞬一が熱を出したと聞いた。心配で様子を見に行くと、彼は子供部屋の布団で一人、苦しそうに咳込んでいる。リビングからは両太郎とみちるさんがテレビを見ながら大笑いする声が聞こえてきた。病院に連れて行くよう懇願する私に、みちるさんは「大げさですよ、お母さん。子供なんて熱を出すのが仕事みたいなものじゃないですか」と笑って言いのける。その週末、二人は私たちからの仕送りで買った新しい服を着て、トルだけを連れてテーマパークへ出かけていった。
六月、私が瞬一のために編んだセーター。次に会った時、彼はそれを着ていなかった。みちるさんに聞くと、「あの子、汚しちゃったから捨てました」と一言。だが後日、近所のリサイクルショップでそのセーターが売られているのを私は見てしまったのだ。
そうして私たちは耐え続けた。季節は流れ、半年が過ぎる頃。そして運命の日がやってくる。
その日は朝からよく晴れた穏やかな日だった。だが昼過ぎ、空がかき曇り、突然バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨が町を襲った。店の外は前が見えないほどの土砂降り。こんな日に来るお客さんもいないだろうと、そうじまを考えていた。その時だった。
からんと、店のドアが開いた。そこに立っていたのは、ずぶ濡れになった小さな男の子。着ているTシャツは泥だらけで、骨と皮だけのように痩せている。
「瞬一……」
それは変わり果てた瞬一の姿だった。彼はよろよろと私の方へ歩み寄ると、か細い声でこう言った。
「ばあば、お腹空いた。パンちょうだい。」
私は言葉を失い、震える手で瞬一を抱きしめる。冷え切った体。ごつごつと骨ばった背中。
「どうしたの?パパとママは?」
涙ながらに尋ねる私に、瞬一は衝撃の事実を告げた。
「パパとママとトル君は、海に遊びに行った。」
「海?」
「うん。僕は置いてかれた。」
その瞬間、私の頭の中で何かがプツリと切れる音がした。土砂降りの雨の中、この子をたった一人で置き去りにして、自分たちだけ海水浴。許さない。絶対に許してたまるものか。私は冷たく濡れた孫を強く抱きしめながら、腹の底から湧き上がる黒い怒りを感じていた。
冷たく濡れそぼった瞬一を、私は店の奥にある自宅へと連れて帰った。夫の竹之は変わり果てた孫の姿を見て言葉もなく立ち尽くす。だがその瞳の奥には、私と同じ静かで燃えるような怒りの炎が宿っていた。
私たちはまず瞬一を温かいお風呂に入れた。そして夫が昔両太郎のために買ったものの、結局一度も着なかった少し大きめのパジャマを着せる。ダイニングテーブルに焼きたてのクリームパンと温かい牛乳を置くと、瞬一は夢中でそれに食らいついた。
「瞬一、ゆっくりでいいのよ。パンはまだたくさんあるからね。」
夫も優しい声で語りかける。
「そうだぞ。もう誰もお前からパンを取り上げたりしないからな。ここがお前の家なんだ。」
その言葉に瞬一はぴたりと動きを止めた。そしてその小さな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「じじばば……ありがとう。ありがとう。」
今までずっと我慢してきたのだろう。しゃくり上げて泣くその小さな背中を、私と夫はただ黙って優しく撫でてやることしかできなかった。
この子の涙が私たちの決意を鋼のように固くした。
「み子、この子はもうあいつらには任せられない。」
「ええ、分かっています。この子は私たちが育てましょう。絶対に。」
そしてもう一つ、私たちを長年苦しめ、瞬一をここまで追い詰めた元凶。息子への仕送りは、今日この瞬間を持って完全に止めます。夫は私のその言葉に力強く頷いた。
その日の夜、私は息子夫婦の家の留守番電話に、冷たく事実だけを吹き込んだ。
「瞬一は私たちが預かりました。何かあればこちらに連絡してください。」
感情を一切排した事務的な声。だが息子夫婦からの連絡は一向に来ない。
数日後、瞬一の幼稚園から「瞬一君がずっとお休みですが」と心配する電話が店にかかってきた。両太郎が幼稚園に「病気で休む」とだけ連絡していたらしい。世間体を気にして嘘をつく一方で、息子を本気で探そうとはしない。その身勝手さに吐き気がした私たちは、弁護士に相談の上、探偵を雇うことを決めた。
そして瞬一を保護してから二週間後、店の電話がけたたましく鳴り響いた。息子の両太郎からだった。
「おい、どういうことだよ。金が振り込まれてねえじゃねえか。生活できなかったらどうすんだよ。」
予想通りの第一声。私は氷のように冷たい声で返した。
「あら、両太郎、久しぶりね。それより瞬一のこと、心配じゃないの?」
「はあ?そんなことより金の話をしてんだよ。こっちは生活がかかってんの。ふざけんじゃねえ。」
「ああ、そう。」
私は拳を握りしめ、静かに言い放つ。
「あなたたちの金の使い道は、探偵を使って全て調べさせてもらったわ。」
電話の向こうで両太郎が息を飲むのが分かった。私は探偵の報告書の内容を一つ一つ突きつけた。私たちが汗水垂らして稼いだお金でブランド物を買い漁り、高級焼肉店で外食三昧。これが「生活が苦しい」人間のやること?その間、瞬一はたった一人で家に置き去りにされ、空腹に耐えていたのよ。ボロボロの服を着せられてね。
私の言葉に、両太郎は情けない声で許しを請い始めた。
「ごめん、母さん。これからは真面目に働くから。だから仕送りを……」
「見えた。」
私はこの二週間ずっと考えていた罰を、静かに宣告した。
「ええ、援助はしてあげる。でも現金は一切渡しません。家賃や光熱費の請求書はこちらに送りなさい。食料品も、私たちが選んだ最低限のものを週に一度取りに来ることね。」
「は?現金なし?どういうことだよ、それ。」
電話の向こうで両太郎の動揺が手に取るように分かる。隣にいたみちるさんの「なんですって」という金切り声も聞こえてきた。
「そ、そんな自由になる金がなかったら、どうやって生活しろって言うんだよ。」
「嫌なら働きなさい。それがあなたたちが瞬一にしてきたことへの、当然の報いよ。」
私がそう言って静かに電話を切ると、両太郎は絶望に息を詰まらせるような音を立てた。
それからわずか一時間後、店のドアがバンと乱暴に開けられた。形相を変えた両太郎とみちるさんが息を切らして飛び込んできたのだ。
「母さん、さっきのはどういうことだよ。冗談だろ?」
「そうですよ、お母さん。私たちこれからどうすればいいんですか?」
二人は店のカウンターに詰め寄ると、必死の形相で私に詫び願い始める。
「悪かった。俺たちが本当に悪かった。瞬一のこともこれからはちゃんと見る。だから、だからお願いだ。今まで通り現金を……」
「お願いします、お母さん。私、もうブランドも買いません。真面目にやりますから。ねえ、お願い。」
床に膝をつき、土下座までしそうな勢いで頭を下げる二人。だが、その目に涙はなく、あるのはただ金の供給源を断たれることへの恐怖だけ。その浅ましい姿に、私の心は氷のように冷え切っていた。
「今更何を言っているの?あなたたちの言葉なんてもう信じられないわ。」
「そうだ。お前たちのせいで瞬一がどれだけ辛い思いをしたと思ってるんだ。」
奥から出てきた夫も、厳しい声で二人を突き放す。
「決定は覆らないわ。嫌なら今すぐ二人で仕事を探しなさい。お帰りなさい。」
私たちの揺るがない態度に、二人は顔を見合わせ、やがてその表情が懇願から怒りへと変わっていくのを、私は静かに見つめていた。
だが、金のなる木を断たれた息子夫婦の行動は、私の想像をはるかに超えて卑劣なものであった。
翌日、店の前にパトカーが止まる。両太郎たちが「孫を誘拐された」と被害届を出したのだ。さらにSNSで発信していると知った。「鬼畜な祖父母に愛する息子が誘拐されました」。私たちを悪者に仕立て上げた嘘の情報が拡散され、店は深刻な営業妨害を受ける。すぐさま私たちは弁護士に相談をした。弁護士が集めてくれた近隣住民の証言を警察署に提出するも、警察官の反応は鈍い。
「お気持ちは分かりますが、これらは状況証拠です。一方で、申立者から正式な被害届が出ている以上、我々も動かざるを得ません。」
言葉を失った私に構わず、警察官は続ける。
「このままでは、あなたたちを未成年者誘拐の容疑で逮捕することになります。」
絶望した私たちはすぐに弁護士に相談した。
「一度、警察の言う通りにしましょう。悔しいですが。」
そう説得され、私たちにはもう選択肢は残されていなかった。
数日後、私たちは警察官に付き添われ、瞬一をあのマンションへ送りに来ていた。ドアを開けて出てきた両太郎とみちるさんは、勝ち誇ったようなねっとりとした笑みを浮かべている。
「なんだよ母さん。まだ分かんねえのか?法律は俺たちの味方なんだよ。この誘拐犯。」
「だから言ったじゃないですか。私たちの言うことをさっさと聞いて、黙ってお金だけ出してればよかったのよ。」
二人は瞬一の腕を乱暴に掴むと、あざけるように私たちを見下した。
「瞬一、ごめんね。ダメなばあばで、本当にごめんね。」
私が涙ながらに謝ると、瞬一はただ小さく首を横に振った。その姿に胸が張り裂けそうになりながら、警察官に促され、私たちがその場を去ろうとした。まさにその時、開け放たれたドアの向こう。リビングの光景が目に飛び込んできた。散らかったおもちゃ、食べかけのお菓子、そして部屋の隅にある棚。その瞬間、私の脳裏にある記憶が鮮明に蘇った。
「待ってください。」
私は叫ぶと、夫と弁護士に目配せした。
一年ほど前のことです。あのマンションの近所で空き巣被害が多発しているとニュースで見て、心配になって。
「おお。それで俺たちがあいつらに、防犯用としてネットワークカメラをプレゼントしたんだったな。」
「ええ。リビングに置いておけば、外出中の家の様子がスマホで確認できるからって。息子たちはプレゼントしてくれるならと喜んで受け取った。あれがもしや、今も見られるはずです。」
その言葉に、両太郎とみちるさんの顔色が一瞬で変わった。
「は、ネットワークカメラだって?ま、まさか、あの時の……」
「あれ、どうしたのよ。」
両太郎とみちるさんが慌て始める。
「それに設定は私たちがやったんです。だからアカウントのIDとパスワードも私の控えがあります。先生、これです。」
私は急いでスマホを取り出し、メモ帳アプリを開いて弁護士に見せた。形相を変えたみちるさんが叫ぶ。
「早くリビングの棚の上よ。あれを壊して。」
その言葉に両太郎も全て思い出したようだ。
「くそ。」
両太郎はリビングに向かって走り出そうとした。証拠を隠滅する気だ。だが、その動きは屈強な警察官によって容易に阻まれた。
「動くな。事情が悪いぞ。」
警察官が両太郎の腕をがっしりと掴み、床に押さえつける。みちるさんも私たちに掴みかかろうとしたところをもう一人の警察官に取り押さえられた。
「離せ!離しなさいよ!」
「くそ、離せ、この野郎。」
二人が喚き散らす中、弁護士は私のスマホの画面を見ながら冷静にノートパソコンを操作し、クラウドストレージにアクセスした。
「ありました。一年分の映像データが全てここに保存されています。」
両太郎たちがその存在を忘れ、電源を入れていたカメラは、この一年間の地獄を全て記録し続けていた。パソコンの画面に映し出されたのは、音声付きの鮮明な虐待の記録だった。食事を与えられず罵声を浴びせられる瞬一。ベランダに締め出され、泣き叫ぶ瞬一。それはもはや、誰にも言い逃れのできない決定的な証拠だった。
私はその動画ファイルを警察官たちの目の前に突きつけた。画面を見た警察官の顔色が変わる。両太郎とみちるさんは顔面蒼白になりながら、必死で言い訳を始めた。
「違う。これはしつけだ。こいつが言うこと聞かねえから、しつけの一環なんだよ。」
「そ、そうよ。それにこれは瞬一が悪いことをした罰で。ほら、あの子、嘘ばっかりつくし。私たちは悪くないんです。」
その見苦しい言い訳を、年配の警察官の一人が唸るような低い声で遮った。
「黙りなさい。しつけだと、裸で冬のベランダに何時間も締め出すのがどこの世界の仕置きだ。食事もろくに与えず、自分の子供を奴隷のように扱うのが親の勤めか。」
もう一人の若い警察官も、怒りに震える声で続ける。
「子供が嘘をつく?お前たちが今までついてきた嘘に比べれば何だと言うんだ?SNSでこの人たちを犯罪者扱いし、世間を騙したお前たちが、どの口で言う。」
厳しい叱責に、二人は完全に沈黙した。
「あなたたちは瞬一を、邪魔な厄介者としか思っていなかった。でもね、私たちにとっては、瞬一もトルも、目に入れても痛くないほど可愛い、大切な宝物なのよ。」
私の後ろに隠れる大切な孫の姿を一瞥し、私は再びもはや家族ではない二人に視線を戻す。
「あなたたちはその宝物を傷つけ、私たちの愛情を踏みにじった。自分たちの欲望のために、この子の心を、体を、未来を平気で壊してきた。もう二度と、あなたたちに親と名乗る資格はない。」
声は怒りに震えていた。それでも私はありったけの力を込めて、最後の言葉を突きつける。
「懇願しても無駄よ。私たちの前に現れないで。そして、あなたたちと親子の縁は、今日この瞬間を持って完全に切ります。」
私の決然とした言葉がその場の空気を切り裂く。全てを失ったことを悟った二人は、その場に崩れ落ちた。
「はあ……ああ……終わった……」
両太郎は言葉も出ず、ただ口をぱくぱくさせている。金も家族も居場所も、全てが自分の手からこぼれ落ちていく感覚に、ただ震えることしかできない。
「いやあ、そんな……縁を切るなんて……ごめんなさい。ごめんなさい。私が、私が全部悪かったのだから。見捨てないで、お母様。」
みちるさんは私の足元に泣きながらすがりついてきた。
「今更どの口が言うの?あなたたちが瞬一に浴びせてきた罵声。与えなかった食事。無視し続けた涙。このカメラが全部覚えているわ。あなたたちが行く場所は私たちの隣じゃない。自分の罪と向き合う、冷たくて暗い場所よ。」
夫の竹之も吐き捨てるように言った。
「この子がどれだけお前たちをパパママと呼んで愛情を求めていたか。そのけなげな気持ちを、お前たちはゴミのように捨てたんだ。絶対に許さん。」
その言葉が引き金になったかのように、両太郎はわっと泣き崩れる。
「父さん、母さん、ごめんなさい。俺は、俺はただ楽したかっただけで。こんなことになるなんて。助けてくれ。もう一度、息子として……」
警察官が素早く両太郎の腕を掴んだ。
「事情が悪いぞ。お前たちが助けを求めるべき相手はご両親じゃない。お前たちに傷つけられた、この小さな子供だ。だが、もう遅い。」
「いや、やめろ。離せ。母さん、父さん、助けてくれ。ごめんなさい。もうしませんから。」
全てを失い、みともなく泣きじゃくり、地面にすがりついて許しを請う二人の姿を、私は何の感情もなく、ただ冷ややかに見つめていた。
私たちが親子の縁を切ると告げたあの日から、全てはあっという間に進んでいった。防犯カメラの映像が決定的な証拠となり、両太郎とみちるさんは児童虐待の罪で逮捕され、世間を騒がせた裁判の末、二人揃って実刑判決が下される。もう、あの二人が子供たちの前に現れることはない。
私たちの店にかけられていた嫌がらせの電話や落書きも、事件の真相が報道されるとともにぴたりと止む。それどころか、SNSで私たちを誹謗中傷していたアカウントは次々と削除された。逆に「パン屋さん、頑張って」「子供たちを守ってくれてありがとう」といった応援のメッセージが全国から届くようになった。
全てが終わり、平穏な日々が戻るはずだった。だが、刑務所にいる両太郎から私たちの元へ何度も手紙が届くようになったのだ。便箋には震えるような字で、反省と謝罪の言葉がびっしりと書き綴られている。「母さん、父さん、本当にごめんなさい。ここは地獄です。みちるも毎日泣いてばかりで、もうどうにかなりそうだと言っています。」だが、その文章の最後は決まってこう締めくくられていた。「出所したら必ず更生してみせる。どんな仕事でもします。だからどうか、どうかもう一度だけチャンスをください。」
結局この後に及んでも、自分たちの犯した罪の重さより、未来の生活の心配しかしていない。その浅ましさに、私はもう何の感情も抱かなかった。夫の竹之は、両太郎からの手紙が届くたびに、封も切らずに私の目の前でびりびりに破り捨てる。それが私たちの揺るがない答えだった。
私たちにはもう、守るべき新しい家族がいる。裁判が全て終わった後、私たちは弁護士に相談し、正式な手続きを踏んだ。瞬一だけでなく、トルも私たちの養子として引き取ることにしたのだ。二人はもう、私たちの孫ではない。血の繋がりを超えた、掛け替えのない息子だ。
最初は戸惑っていたトルも、今ではすっかり私たちに懐いてくれている。瞬一は弟ができた時のように、いつもトルの面倒を見てくれる優しいお兄ちゃんになった。
ある日の夕食の時間。
「じじばば、今日のハンバーグ、ねるの手伝ったんだよ。」
「兄ちゃんすごいの。まるまるって上手だった。」
にこにこと話す二人が本当に可愛い。
「ほお、これは大したもんだ。瞬一はパン作りだけじゃなくて、料理の天才でもあるんだな。」
「二人ともたくさんお食べ。これからは、ずっと好きなものをお腹いっぱい食べられるんだからね。」
私の言葉に、二人は顔を見合わせて満面の笑みで「うん」と頷いた。
血の繋がりだけが家族じゃない。本当の家族とは、互いを思いやり、「ありがとう」と「ごめんね」を素直に言い合える関係のことなのだと、この子たちが教えてくれた。今日も店のオーブンからは、パンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。その匂いに包まれながら、二人の可愛い息子たちの笑い声を聞く。それが私たちにとって、何者にも変えがたい最高の幸せなのである。



