アイロンのかかった白いワイシャツが、引き出しの中で静かに畳まれていた。妻が最後に選んでから、もう五年になる。黒川融像はそのシャツに一度も袖を通さないまま、毎朝引き出しを半分だけ開けて、折り目が崩れていないことを確かめる。それが彼にとっての朝の礼拝だった。愛することでも、愛されることでもなく、ただ折り目を守ること。それだけが、この六十八年の人生でまだ崩れていないものだった。
沼津の海に面した団地の一室。十二月の初旬、黒川は六畳の和室の真ん中に座り、茶ブ台の上に小銭を並べていた。千円札が三枚、五百円玉が二枚、百円玉が七枚、十円玉が十二枚。彼はそれを指で抑えながら、声に出さずに数えた。年金と駐輪場の仕事の収入から家賃や保険料を引けば、食費に回せるのは二万円を少し切る程度。その計算を彼はもう何十回も繰り返していた。計算することで、数字の外側にある不安を、数字の中に閉じ込めておくことができた。
朝の支度を終え、廊下に踏み出した瞬間、黒川は鼻の奥に何かを感じた。最初は錯覚だと思った。団地の廊下には、いつも何かの匂いが漂っている。しかし今朝の匂いは違った。酸っぱいような、腐敗しかけたものが密閉された空間の中でゆっくりと変質していくような匂いだ。生ゴミを長い時間放置した時に帰る、重く淀んだ空気の層が廊下にまで染み出してきていた。黒川は足を止めなかった。視線を前に向けたまま、息を浅くした。
四〇二号室には、白鳥千代という七十二歳の老女が一人で住んでいる。引っ越してきてから二年ほどになるが、黒川は一度も言葉を交わしたことがない。名前を知っているのも、団地の掲示板に張り出されていた緊急連絡先を無意識に読んだからに過ぎない。彼はただ早足になった。
沼津駅前の駐輪場。朝の七時半から始まる仕事に、黒川は七時二十分には立っていた。黄色いベストを着て、自転車の列を整える係だ。駅に向かう人々の流れの中で、彼の存在はほとんど意識されない。斜めに止められた自転車、通路を塞ぐように投げ捨てられた自転車。黒川は一つ一つを黙って直した。若い男が乱暴に自転車を立てかけ、隣の自転車が倒れかけた。男は振り返りもせずに改札へ消えていく。黒川は無言で支え、並べ直した。怒りでも、不満でもない。ただの動作だった。午前中の三時間で、そういうことが十数回あった。
昼の休憩、管理小屋で家から持ってきたお茶を注ぎながら、黒川は手帳を取り出した。今朝の計算をもう一度なぞるようにして数字を確かめ、また閉じた。午後も同じ時間が続いた。自転車が来る。並べる。人が消える。また自転車が来る。黒川はその繰り返しの中に、かなりの安堵を感じていた。ここには複雑なことが何もない。
仕事が終わり、黒川はスーパーへ向かった。目当ての総菜コーナーには、まだ値引きシールが貼られていない。彼は一度野菜コーナーをゆっくり歩き、小松菜を手に取り、また戻した。最終的にもやし一袋と特売の豆腐一丁だけを買い、店内の隅のベンチに腰を下ろして待った。午後八時四十五分を過ぎると、店員が黄色いシールを持って売り場に出てくる。今日はサバの塩焼き弁当が残っていた。少し覚めていて、米の硬さが少し進んでいる。黒川はそれを手に取り、賞味期限を確かめてそっと買い物かごに入れた。
団地に戻り、郵便受けを開けると、広告チラシと電力会社からの案内が入っていた。黒川はチラシを丸め、案内だけを取り出した。その隣、四〇二号室の名前が入ったボックスが半分開いているのが目に入った。郵便物が溢れそうになっていた。黒川はそちらを見ないようにして歩きかけた時、自分のボックスの案内の下にもう一枚紙が挟まっていることに気づいた。赤みがかった用紙だ。引き抜くと、自治会からの通知書だった。四〇二号室の宛名で、太字で書かれた一節が目に飛び込んできた。
「四〇二号室の住人に対し、廊下への移臭及び廃棄物の管理について早急な改善を求めます。近隣住民の生活環境を著しく損なっている状態が継続する場合、管理組合を通じて法的手続きを検討します。」
黒川は紙を二つ折りにし、四〇二号室のドアの郵便受けに差し入れた。それだけだった。自分には関係のないことを、正しい場所に戻しただけだ。
その夜、布団に入りかけた時、壁の向こうから音がした。最初は夢の中の音だと思った。引っかくような、聞きずるような、満慢な音。リズムも規則性もなく、断続的に続いている。黒川は上半身を起こした。布団の中に座ったまま、動かずに耳を済ませた。前脛の機関紙が冷えた焼きに反応して、わずかに痙攣する。胸の奥で小さな音が鳴る。壁の向こうの音は続いていた。五分ほどして、音は止まった。黒川はまた横になったが、眠れなかった。音が病んでもなお、壁の向こうに何かがいるという感覚が消えなかった。人がいる。それだけのことだ。隣に人が住んでいる。それだけのことだ。黒川はそう言い聞かせながら、夜明けまで眠れなかった。
あれから一週間が経った。壁の向こうの音は、その後また二度と聞こえた。一度は深夜の二時頃、もう一度は明け方の薄暗い時間に。その度に黒川は目を覚ましたまま布団の中で待った。音が止むのを待ち、それからまた眠ろうとした。朝は変わらなかった。六時に起き、顔を洗い、計算をし、ゴミ出しに行く。水曜日の朝、ゴミ集積場に自治会の班長、渡辺がいた。黒川より少し若い、六十四がそこいらの男だ。渡辺は笑顔で話しかけてきた。
「おはようございます。今日は少し寒いですね。四〇二はもう黒川さんと白鳥さんのお二人だけになってしまいましたね。私たち日本人はお互いに助け合ってこそでしょう。黒川さんは会社でも管理職をされていたとお聞きしていますし、ああいう方の扱いにも慣れていらっしゃるんじゃないかと思って。自治会の方でも動いてはいるんですけどね。なかなか行政は動いてくれなくて、ご近所さんとして少し様子を見ていただけると助かるんですが。」
渡辺の視線は穏やかだった。声も穏やかだった。しかし言葉の一つ一つが、責任という綱を少しずつ黒川の首に巻きつけていく構造になっていた。
「私はただの隣人でして。お力になれるかどうか分かりかねますが、よろしくご連絡ください。」
黒川はそう言って深く頭を下げ、その場を離れた。背中に渡辺の視線を感じながら。自分の手がわずかに固く握られていることに気づき、ゆっくりと開いて閉じた。お前には関係がない。唇の内側だけで、そう言い聞かせた。
その日の午後、仕事が終わって駅から団地へ向かう途中、細かい雨が落ちてきた。みぞれに近い冷たい雨だ。駅前のコンビニの前を通りかかった時、黒川は足を止めた。ガラス扉の脇に、人が立っている。白鳥千代だった。真冬の夜に貼る物の薄いコートを着て、袖口から出た手が赤く冷えている。彼女はコンビニの扉の横に立ち、視線を落としていた。手には、一枚の紙がくしゃくしゃに握られていた。黒川は何かが違うと感じた。彼女の目はどこも見ていなかった。思考という機能そのものが一時的に停止しているような、そういう目だった。
黒川は足を止めた。立ち止まるつもりはなかった。しかし体が先に止まった。通り過ぎればいい。あの老女は自分とは関係がない。頭の中の声がそう言った。しかし同時に、別の何かが体の奥で静かに抵抗した。彼は一歩踏み出し、すぐに止まった。一歩と一歩の間で、自分がどこへ向かおうとしているのかを自問した。答えが出ない間に、体は動いていた。黒川はコンビニの軒下に入り、白鳥の横に立った。彼女はすぐには気づかなかった。黒川が軽く咳払いをすると、白鳥はゆっくりと顔をあげた。
「ああ。」
それだけだった。まるで何年ぶりかに知り合いに会った時のような、穏やかで少し間の抜けた声だった。黒川は何も言えなかった。手の中の紙に、赤い文字が見えた。電気料金の滞納通知だった。
「お寒くないですか?」
白鳥はまた「ああ」と言い、少し考えるような間があって「寒いですね」と答えた。まるで今気づいたように。黒川が次の言葉を探している間に、白鳥は自分でコンビニの中へ入っていった。黒川は残った。一人で、みぞれはまだ降り続いていた。歩きながら、彼は右手で鞄の持ち手を握り直した。それ以上のことはしなかった。しなかったという事実だけが、足取りを重くした。
部屋に戻り、自分がコンビニの前で立ち止まったこと、横に立ったこと、「お寒くないですか」と言ったことを思い返した。必要のないことをした。しかし、後悔かと言われると、それとも少し違った。何に近いのか考えたが、言葉が見つからなかった。
その夜、早めに布団に入った。疲れていた。何かを考えた疲れ、考えないようにした疲れ。どちらとも言えない消耗だった。目を閉じると、白鳥の手の中の、電気料金の滞納通知の赤い文字が薄く浮かんだ。音がしたのは、それから二時間後だった。今夜の音は前より長く続いた。引っかくような音に、何か重い物を移動させるような鈍い音が混ざるようになった。黒川は上半身を起こし、暗闇の中で膝の上に両手を置いて座った。何もしなかった。できなかったのではなく、しなかった。壁を叩くことも、声をかけることもできた。しかし動かなかった。音が止んだのは、三十分ほど経ってからだった。黒川は横になった。壁というのは薄いものだと思った。団地の壁は、向こうで誰かが泣けばこちらに届く。それでも人は、その壁が完璧な仕切りであるかのように振る舞って生きている。黒川もその一人だった。今夜まで。その言葉が頭に浮かんだ時、彼はすぐに否定した。今夜も変わらない。自分には関係がない。しかし否定した言葉は、眠れない夜の天井に張り付いて、消えなかった。
十二月のある朝、黒川は玄関の引き戸を開けた瞬間に気づいた。足の裏に冷たさが伝わってきた。廊下の床が濡れている。水が広がっている。水は四〇二号室のドアの下の隙間から滲み出していた。薄く茶色がかって、白いぬめりのようなものが混じっていた。匂いは今朝特にひどかった。黒川は無意識に口で呼吸を始めた。靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、また靴を履いた。水の中を歩くのだから、スリッパでは意味がない。四〇二号室のドアを二度ノックした。返事はなかった。もう一度、今度は少し強く叩き、「白鳥さん、廊下まで水が来ています」と声をかけた。声は自分でも驚くほど低くかすれていた。返事はなかったが、ドアの向こうで何かが動く音がした。黒川はドアの部に手をかけた。回してみると、鍵はかかっていなかった。
ドアを押し開けた瞬間、空気が来た。匂いではなく、空気そのものが流れ出してきた。長い時間をかけて変質し続けてきた空気が、出口を求めていたかのように。黒川は反射的に顔を背けたが、すぐに元に戻した。部屋の中を見た。最初は全体像が把握できなかった。新聞紙の束が、天井まで届きそうな高さに積み上がり、部屋の奥まで続いている。その隙間にプラスチックのコンテナ、スーパーの袋、ペットボトル、弁当の空き容器が詰め込まれている。床は見えなかった。洗面台があるはずの方向から、水の音がしていた。ちょろちょろという音ではなく、ある程度の量が流れ続けている音だった。黒川は物の隙間をかき分けるようにして奥へ進んだ。洗面台の下の収納スペース、扉が半分開いている。奥のパイプの継ぎ目から水が吹き出していた。長い時間をかけて染み込んだゴミの重さで、パイプの接続部に負荷がかかり、継ぎ目が外れたのだろう。
黒川が振り返った時、白鳥千代が部屋の角に座っていた。膝を立て、その上に腕を置き、腕の上に顎を乗せている。まるで子供が拗ねて座っているような格好だった。ただ、その顔に感情の起伏が全くなかった。
「黒川さん」
彼女は言った。名前を覚えていることに、黒川は少し驚いた。白鳥は手を伸ばした。手の中に、丸い薄茶色のものが一枚あった。煎餅だった。白い粉を吹いて橋が緑色に変色している煎餅を、彼女は黒川に向かって差し出した。
「主人がもうすぐ帰ってきますから、これでも食べながら待ってください。」
声は糸のように細かった。黒川は煎餅を受け取らなかった。受け取れなかった。代わりに彼女の目を見た。怯えでも混乱でもなく、ただ穏やかに、自分のすぐ前にいる人間を見ていた。この老女の世界の中では、今のこの状況が普通なのだと黒川は悟った。腐敗した食べ物も、天井まで積み上がったゴミも、漏れ続ける水も、外から来た見知らぬ男も、全てが彼女の世界の中では何らかの文脈の中に収まっている。崩れた文脈であっても。
黒川は自分の部屋に戻り、押入れから古い雑巾を取り出した。洗面台の下のパイプを確認すると、継ぎ目が外れているだけで、パイプ自体は割れていなかった。黒川は腰をかがめ、手で継ぎ目を抑えた。真冬の水道水は刃物のように冷たかった。指の感覚がすぐに鈍くなった。それでも抑えながら、空いた左手で雑巾を差し込んで床の水を吸わせ、シンクに絞った。その作業を繰り返した。問題は、パイプを抑え続けることができないことだった。黒川はゴミの山の中から厚めのビニール袋を引き出し、パイプの継ぎ目に巻きつけた。次に、荷物用の紐を見つけて固定した。完璧な止め水ではないが、漏れる量は大幅に減った。それから、床の水を取り始めた。自分の部屋から大きめのタオルを二枚持ってきて、ゴミを少しずつ移動させながら下の水を吸い取った。カーディガンの袖口が濡れ、靴も濡れ、指先の感覚がなくなってきた。それでも止まらなかった。途中で止めることの方が、やりきることよりも不快だった。
白鳥千代はその間ずっと同じ場所に座っていた。客が来ているのを眺めているような顔で。作業が一段落したのは、三十分近く経ってからだった。廊下への水の流出は止まり、部屋の中の水も大体除去できた。黒川は立ち上がり、鞄を持った。すでに仕事の時間に間に合わない。遅刻の連絡を入れてから、白鳥の方を見た。彼女はまだ同じ場所に座っていた。黒川が帰ろうとしているのを見て、また手を持ち上げた。今度は煎餅ではなく、何かを差し出そうとするような、意味のない動作だった。
「すみません。水道の修理は、業者を呼んでください。」
黒川は言った。言いながら、この老女に業者が呼べるのかという疑問が頭をよぎった。白鳥は言った。
「ありがとうございました。」
声はしっかりしていた。礼儀は残っていた。人としての礼節の回路は、まだ切れていなかった。それがかえって、黒川の足を重くした。
仕事への遅刻は二十分だった。監督員は特に何も言わなかった。「了解しました」と言っただけだった。駅からの帰り道、黒川はスーパーの前を通った。今日は値引き時間を待たずに野菜を買って帰るつもりだった。しかし、自動ドアの前で足が止まった。中に入り、おにぎりのコーナーに歩いた。作り立てのサーモンのおにぎり、百二十八円。それから、いつものサバの塩焼き弁当を選んだ。レジで払いながら、自分の中のおにぎりを見た。百二十八円。今月の食費の計算に入っていない出費だった。一個だけだ。今日だけだ。団地に戻り、四〇二号室のドアの前に立った。中から音はしない。静かだった。黒川はおにぎりをスーパーのビニール袋に入れたまま、ドアの前にそっと置いた。チャイムも押さなかった。そのまま自分の部屋に入った。
質に戻り、手を洗いながら自分が今したことを確認した。水漏れを止めた。床を拭いた。遅刻した。おにぎりを買った。それだけだ。しかし、その「それだけ」が、今日から変わった何かを指しているような気がして、彼は頭を振った。
翌日の夕方、手は自然におにぎりのコーナーへ動いていた。梅干しのおにぎりが百十円で並んでいた。手に取り、しばらく持ったまま立ち、そして買い物かごに入れた。四〇二号室のドアの前に置く。チャイムは押さない。返事を待たない。それだけのことだった。三日目になると、ドアの前に置いた袋が翌朝には消えていることに気づいた。消えているということは、受け取っている。受け取っているということは、食べているのかもしれない。食べているかもしれないということは、今のところ生きているということだ。黒川はその事実だけを確認して、自分の部屋に戻った。
一週間が経った。手帳の食費の欄には、毎日小さな括弧書きの数字が並んでいた。百十円、百二十八円、九十八円、百三十五円。合計すると、最初の一週間だけで七百円を超えていた。七百円は黒川の一日分の食費より多い。翌日、駅からの帰り道、スーパーの前で足を止めた。今日は買わないと決めた。しかし、自動ドアが開き、温かい空気が流れ出してきた時、黒川はその空気に押されるように中に入った。結局、その日も買った。百二十円の昆布おにぎりだった。
右目の霞みに気づいたのは、仕事中だった。霞というより、光のにじみに近かった。駅のホームから差してくる朝の光が、右目だけ輪郭を曖昧にしたように見える。昼になっても夕方になっても、その霞は消えなかった。眼科に行くべきだった。しかし、眼科の診察は三割負担でも二千円を超える。今月の医療費の枠は、すでに点眼薬で使い切っていた。仕事が終わった後、薬局で薬剤師に症状を伝えると、市販の目薬を勧められた。六百八十円。処方薬より効果が劣るとは分かっていたが、黒川はそれを買った。その夜、鏡の中の自分の右目を見た。表面は変わらない。変わっているのは、内側から感じる景色だ。来月なら、眼科に行けるかもしれない。しかし、来月の食費の括弧書きの数字がどれほどになるかは、分からなかった。
おにぎりを置き始めて十日が経った頃、黒川は一つの判断を下した。このままではいけない。自分の判断で食べ物を届け続けることには限界がある。財政的な限界だけではない。もっと根本的な問題がある。自分は医者でも介護師でも福祉の担当者でもない。何かあった時、自分には何もできない。どころか、関わってしまった以上、何もできないことへの責任だけが残る。黒川は翌日の休みの日、沼津市役所に行くことにした。
福祉課の二階の窓口。番号札を取って待っていると、三十代半ばの担当者、木村が呼んだ。黒川は要点を整理して話した。隣人の状況、ごみ屋敷の状態、認知症の疑い、水漏れのこと、一人で生活できていないと思われること。できるだけ感情を廃して、事実だけを述べた。木村は事務的な笑顔で答えを返してきた。
「黒川さん、貴重な情報をありがとうございます。ただ、いくつか確認させていただかなければならないことがございまして。まず、白鳥様のご家族または法定代理人の方、いらっしゃいますでしょうか?」
「存じません。」
「白鳥様ご本人から、支援を求めるご意思の確認は取れていますでしょうか?」
黒川は少し間を置いた。「取れていません」と答えた。木村は書類的に頷いた。
「そうしますと、現行の介護保険制度の枠組みでは、本人の同意なしに行政側から強制的に介入することが難しい状況でして。もちろん、ご近所の方からのご連絡として記録はさせていただきますが、実際に動くためには、ご本人またはご家族からの申請が必要になります。また、仮に措置として動く場合でも、現在の特別養護老人ホームの待機者数は市内だけでも三百名を超えておりまして、即座に施設入所という対応は現実的ではないというのが実情です。」
黒川は木村の顔を見た。木村の目は書類に落ちていた。
「一つだけ聞かせてください。今、あの人が家事を起こすか、人を傷つけるか、そのどちらかが起きなければ、行政は動かないということですか?」
木村は顔をあげた。一瞬だけ、困惑に近い何かがその表情に浮かんだが、すぐに消えた。
「そのようなことが起きた場合は、緊急対応という形で別の窓口が動くことになりますが。現状では、地域包括支援センターへのご相談という形が最初のステップかと存じます。ご連絡先をお伝えしますので、」
黒川は差し出されたパンフレットを受け取った。三つ折りにされた紙に「高齢者のための地域包括ケア」という文字が印刷されていた。市役所を出たのは十一時過ぎだった。怒りはあった。しかしそれは、木村個人への怒りではなかった。木村は制度の中の一つの駒に過ぎない。駒に向かって怒っても意味がない。怒りの相手が見つからない怒りは、出口のない部屋に充満していく煙に似ている。黒川は歩きながら、その煙が自分の胸の中に広がっていくのを感じた。家族がいなければ動けない。本人の同意がなければ動けない。待機者が三百人。それは全て事実なのだろう。しかし、事実であることと、それで良いこととは別のことだ。
その四日後の午後、黒川は駐輪場で仕事をしていた。午後二時を過ぎた頃、ポケットの中の携帯電話が振動した。知らない番号だった。手袋を外し、電話に出ると、沼津市立病院の地域連携室からだった。
「黒川様のお電話でよろしいでしょうか? 本日午前中、白鳥様が沼津駅の構内で倒れているところを駅員が発見しまして、救急搬送されました。現在、意識はございますが、低体温と栄養失調の疑いがあります。お荷物の中に、黒川様のお名前が記載された紙が入っており、緊急の連絡先としてお電話させていただきました。」
黒川はしばらく何も言えなかった。風が吹いて、駐輪場の屋根のトタンが軽く震えた。
「分かりました。今日の仕事が終わり次第、伺います。」
電話を切り、携帯電話を見た。画面はもう暗くなっていた。あと二時間、仕事が残っている。その二時間、黒川は自転車を整列させながら、頭の中でずっと同じことを考えていた。荷物の中に、自分の名前が書いてあった紙。白鳥千代と自分の間に、書類上の繋がりは何一つない。なぜ、自分の名前が? 答えは出なかった。
病院に着いたのは夕方の五時過ぎだった。地域連携室の担当者、五十代の女性の田中が、経緯を説明してくれた。白鳥千代は今朝の九時頃、沼津駅の改札内のベンチに座ったまま動けなくなっているところを発見された。体温が三十五度を下回っており、脱水と低栄養の状態だった。意識ははっきりしているが、自分がなぜ駅にいるのか、どこへ行こうとしていたのかは答えられなかった。所持品の中に小さなビニール袋があり、その中に薬の空き瓶とくしゃくしゃになった紙が一枚入っていた。紙の裏に、鉛筆で「黒川優像」という名前と電話番号が書かれていた。黒川は黙って聞いた。
「白鳥様にはご家族の連絡先をお聞きしましたが、ご存知ないとおっしゃっていて。黒川さんはどのようなご関係になりますでしょうか?」
「隣人です。」
それ以上の言葉は見つからなかった。隣に住んでいるだけの、血縁も法的な繋がりも何もない隣人です。田中は頷いた。
「そうですか。実は、入院にあたって初期費用として五万円のお預かりをお願いしているんですが、本人の手元にそれだけの現金がなくて。ご家族の方に連絡が取れれば一番なんですが、もし黒川さんの方で何かということは…」
五万円。その言葉が黒川の胸の中に落ちた。石が水面に落ちるように、最初は音を立てて、それからゆっくりと波紋を広げた。五万円は、黒川が今年の冬のために買う新しい暖房器具の積み立てだった。今使っている電気ストーブは七年前に買ったもので、去年から温まりが弱くなってきている。そのための積み立てが、茶ブ台の引き出しの中の封筒に、ちょうど五万円入っている。黒川は田中の顔を見た。田中はこちらを見ていた。責めているわけでも、急かしているわけでもない目だった。ただ待っている目だった。黒川は立ち上がり、トイレに入った。個室に入り、鍵を閉め、便座の蓋を閉じたままその上に座った。五万円。暖房がなくなる。今持っている電気ストーブでは、最も寒い一月二月を乗り越えるのが厳しくなる。カーディガンを重ねて、靴下を二枚履いて、湯たんぽで足元を温めながら眠ることになる。それは辛いが、死ぬわけではない。一方、あの老女を誰も拾わないままにしておくことは、もっと直接的な何かに繋がる可能性がある。誰もが言い訳を準備している。言い訳の制度だけが磨かれていく。その言い訳の隙間から、人が一人落ちていく。黒川は立ち上がり、鍵を開けた。手を洗って、田中のところに戻った。
「少し手続きを教えてください。」
声は静かで、感情がなかった。手続きは三十分かかった。窓口で、入院費用の仮払いをしたい旨を伝えた。若い女性の担当者、佐々木が書類を確認した。
「お名前と、患者様とのご関係をお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?」
「黒川優像です。白鳥千代さんの隣人です。」
佐々木はわずかに間を置いたが、「かしこまりました」と言って書類を処理し始めた。金額は五万円ちょうどだった。財布の中には現金が三万円ほどしかない。残りは帰ってから封筒から出して持って来ようとした時、黒川の手が止まった。帰って封筒を開けるということは、その一連の動作の間に、自分が気持ちを変えるかもしれないという恐れがあった。黒川はコートの内ポケットに手を入れた。薄い通帳が入っている。残高は六万円に少し満たない程度のはずだ。彼はそれを窓口に出した。
「ATMでお引き出しされてから、お持ちいただく形になりますが。」
病院の一階に銀行のATMコーナーがあった。そこで五万円を引き出した。一万円札が五枚。黒川はそれを封筒に入れて窓口に戻った。佐々木に印鑑を求められ、コートの内ポケットから小さな印鑑ケースを取り出した。会社員時代から使い続けてきた個人の印鑑だ。それを取り出し、出金伝票に押した。インクが紙に染み込む感触があった。その瞬間、黒川の目の奥がわずかに熱くなった。泣きたいわけではなかった。泣く理由などない。しかし、何十年もかけて身につけた「感情を数字に変換する」という習慣が、この瞬間だけ、わずかに機能を失った。彼は気づかれないように視線を下に向けた。
病院を出た時は、外はすでに暗くなっていた。バス停で路線バスを待ちながら、今日使ったお金を計算した。往復で四百八十円。五万円の仮払い。合計、五万四百八十円。今月の残りの生活費は、これで極端に薄くなった。食費をもやしと豆腐だけに絞れば、なんとか月末まで持つかもしれない。白鳥千代の顔は、見なかった。ベッドに横たわる白鳥の顔を、黒川は一度も見なかった。田中に案内されて、そのまま手続きをして帰ってきた。なぜ顔を見なかったのか。見る必要がなかったのか、見たくなかったのか。
団地に戻り、四階の廊下を歩きながら、四〇二号室の前を通った。ドアは閉まっている。明かりは漏れていない。当然だ。人はいないのだから。しかし、部屋が無人になって初めて、この部屋が静かになったことに黒川は気づいた。壁の向こうから音がしていた日々は、今夜で終わっている。その静けさは、黒川が望んでいたはずの静けさだった。それなのに、今夜のこの静けさは、少し違う重さを持っていた。
質に入り、茶ブ台の引き出しを開けた。封筒を取り出した。中には何も入っていない。五万円は病院の窓口に置いてきた。空の封筒を手の中で持ちながら、黒川はしばらくその感触を確かめた。軽かった。封筒というのは、中身がなくなると、こんなに軽くなるのか。夕飯は冷蔵庫に残っていた卵と、もやしの残りで卵スープを作った。量は少なかった。食べながら、足が冷えてくるのを感じた。電気ストーブは今日もつけなかった。カーディガンをもう一枚重ねた。手帳を開き、今日の支出欄に数字を書こうとして、ペンが止まった。五万円という数字を、いつもの列に書くことがどうしてもできなかった。食費でも、交通費でも、医療費でもない。何という名前をつければいいのか、黒川には分からなかった。しばらく考えて、手帳の余白に小さく一言だけ書いた。
「白鳥市入院 仮払い 五万円」
それだけ書いて、手帳を閉じた。布団に入る前に窓の外を見た。今夜は雲が多く、星は見えなかった。風の音だけが古いサッシの隙間を通ってかすかに聞こえてくる。黒川は今夜、初めて比較的早く眠ることができた。疲れていたからだ。体が疲れていると、頭が考えることを諦める。考えることを諦めた頭は、そのまま眠りに落ちる。それは慰めではなく、ただの消耗だったが、今夜の黒川にはそれで十分だった。
白鳥千代が一時的な介護施設に移送されたという連絡が来たのは、入院から五日後のことだった。病院の地域連携室から、田中が電話をかけてきた。黒川は駐輪場の休憩時間に電話を受けた。
「白鳥様の状態が安定したこと。市内の一時受け入れ施設に移ることができたこと。今後の対応については、施設のケアマネージャーが引き継ぐこと。」
黒川はそれを聞きながら、テルモスの蓋を両手で持ったまま、管理小屋の壁を見ていた。
「それは良かったです。」
「黒川さん、先日はご負担をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした。仮払いの件は、今後白鳥様の資産状況が確認でき次第、清算の手続きをさせていただきます。」
黒川は頷いた。電話越しでは伝わらないとは思っていたが、それでも頷いた。「よろしくお願いします」と言った。電話が切れた。テルモスのお茶はすでに覚めていた。黒川はそれを一口飲んで、また蓋を閉じた。清算されるのは、いつになるのか。白鳥千代に資産があるのかどうかも分からない。あの部屋のゴミの中に通帳が入っているのかもしれない。あるいは、何もないのかもしれない。今考えても仕方のないことだった。
次の問題は、三日後に来た。管理会社から、書面が届いた。宛名は黒川ではなく、四〇二号室の白鳥だった。しかし、管理会社の担当者から黒川にも電話がかかってきて、「黒川さんが連絡先として登録されているため通知した」と言われた。手紙の内容は短かった。四〇二号室の現状について、近隣住民及び建物の衛生管理上の観点から、速やかな改善を求める。具体的には、室内に堆積した廃棄物の全量処分を、二週間以内に完了すること。期限までに、対応がなされない場合、管理規約第十七条に基づき、契約解除の手続きを進める場合がある。黒川はその手紙を三回読んだ。一回目は内容を理解するために。二回目は見落としがないかを確認するために。三回目は、自分がこれを読んでいることの意味を考えながら。管理会社に電話を折り返すと、担当者の坂本という男が出た。声は若く、言葉は丁寧だったが、その丁寧さの奥に「これ以上この案件に時間をかけたくない」という気持ちが透けていた。黒川は状況を説明した。白鳥千代が現在施設に入っていること、精神的な問題を抱えていること、身寄りがないこと。坂本は聞きながら「はあ、はあ」と言い続けた。それは愛想ではなく、時間稼ぎだった。
「事情はよく分かりましたが、建物の管理上、期限の延長は難しい状況でして。もし、白鳥様が退去されることになりますと、施設への入居継続が難しくなる場合もあるとは思うんですが、それはあちらの施設の方でご判断いただくことになりますので…」
黒川は電話を持ったまま、少しの間黙っていた。
「分かりました。」
それだけ言って、電話を切った。放り出されたという感覚があった。しかし、それは坂本への怒りではなかった。この国の構造の問題だと思った。制度と制度の間の隙間に落ちた人間を、誰も拾わない。拾う仕組みがない。仕組みがないから、誰かが個人として手を伸ばすしかない。その誰かが、今この瞬間、自分だった。
翌朝、黒川は仕事に行く前に、スーパーの開店と同時に入り、ゴミ袋のコーナーに向かった。指定の大型ゴミ袋。四十五リットル、一枚入りで三百二十円。黒川はそれを二枚取った。六百四十円。同じ棚にあった使い捨てゴム手袋を一パック二百八十円で購入した。合計、九百二十円。今月の食費の残りが、また減った。仕事の帰り道、管理会社への対応期限を頭の中で計算した。二週間。仕事のない日は週に二日。二週間で四日。四日で、四〇二号室のゴミを全て処分できるかどうか、検討がつかなかった。しかし、やってみるしかなかった。やらなければ、白鳥千代は住む場所を失う。住む場所を失えば、施設も困る。困った施設は、老女を受け入れられなくなるかもしれない。その連鎖の最初の一手が、あのゴミ部屋の片付けだった。
最初の片付けの日は土曜日だった。朝八時、黒川はゴミ袋と手袋を持って、四〇二号室の前に立った。鍵は病院に預けてあったものを、田中を通じて受け取っていた。冷たい鍵をポケットから取り出し、ドアを開けた。部屋の中の空気が、また来た。今度は以前より少し違った。老水が止まって日数が経ったせいか、湿気の質が変わっていた。濡れた腐敗から、乾いた腐敗へと移行しつつある匂い。どちらがましか、分からなかった。黒川はまず窓を一センチだけ開けた。それ以上開けると、外から見える。それだけの理由だった。冷たい空気が細い筋になって入ってきた。彼はゴム手袋を両手に嵌め、部屋の奥を見渡した。入り口に近い側から始めることにした。入り口が片付かなければ、奥のものを運び出すことができない。まず、通路を確保する。それは、どんな作業でも同じことだ。黒川は長年の管理職で、散乱した状況に優先順位をつけることには慣れていた。ただし、管理していたのは書類と人間であって、腐敗したゴミではなかった。
最初の袋を満たすのに、十五分かかった。新聞紙の束を三つ、ペットボトルを十数本、弁当の空き容器を重ねたものを二山。それだけで袋がいっぱいになった。二袋目は、少し早くなった。手が動き方を覚え始めた。何かを考えるのをやめて、ただ手を動かすだけになった。黒川はその状態が、意外と嫌いではなかった。考えなくていい時間というのは、今の彼には貴重だった。四袋目を廊下に出した時、黒川は腰を伸ばした。骨が鳴る音がした。痛みではなく、固まった筋肉が伸びる感触だった。窓の外を見ると、まだ三時間しか経っていなかった。しかし、袋は四袋しか片付いていない。部屋の状態を見渡すと、変わったのか変わっていないのか、ほとんど分からないくらいだった。それでも、黒川は手袋を外し、部屋を出た。廊下に並べた四袋のゴミは、今日は回収日ではないので、壁際に置いておくしかなかった。
二日目は日曜日だった。朝から細かい雪が混じった雨が降っていた。一月の静岡の天気だった。黒川はコートを着込み、作業用のゴム手袋の下に毛糸の手袋を一枚重ねた。外の気温は三度を下回っていた。二日目は、入り口のゴミを全て運び出し、奥の部屋まで通路を開けることを目標にした。しかし、奥に進むほど物の密度が高くなっていた。新聞紙の束は、縛った紐が経年で切れかけていて、動かす度にばらける。一かたまり動かすと、三倍分の量に散らばる。黒川はその度にまとめ直して、袋に詰めた。六袋目を廊下に運び出した時、手袋が濡れていることに気づいた。外側のゴム手袋が、破れていた。中の毛糸の手袋まで湿気が染みている。指先の感覚が薄くなってきた。一度質に戻り、手袋を変えた。茹でたてのお湯で手を温めようとしたが、流し台の蛇口から出てくる水は、ほとんど冷たいままだった。黒川は手を拭き、新しいゴム手袋を嵌めて、また四〇二号室に戻った。
七袋目、八袋目。だんだんとゴミの性質が変わってきた。入り口側は比較的新しいゴミだったが、奥に行くほど古いものが出てくる。日付の入った新聞紙が、三年前、四年前のものになっていく。九袋目を廊下に出した時、廊下の向こうから足音が聞こえた。黒川が顔をあげると、渡辺だった。自治会の班長が、廊下の向こうからこちらを見ていた。ゴミ袋が廊下に並んでいるのを見て、渡辺の目が一瞬だけ動いた。
「黒川さん、これは?」
「片付けています。」
黒川は短く、感情なく答えた。渡辺はゴミ袋の列を見て、また黒川を見た。
「ああ、そうですか。それはご苦労様です。やっぱり黒川さんが動いてくださいますよね。実はですね、管理組合でもずっと頭を悩ませていまして。収集日に、私どもの方でも袋を運ぶくらいはお手伝いを…」
「結構です。一人でできます。」
黒川はそう言って、頭を下げた。「お気遣いありがとうございます。」渡辺は何か言いたそうにしていたが、黒川はすでに四〇二号室のドアを押し開けていた。渡辺の気配が少しの間廊下に残って、それから消えた。
三日目は月曜日だった。仕事は午前中だけで、午後から片付けを再開した。部屋の奥まで通路が通ったことで、今日は隅の方に積み上がったものの塊を崩すことができた。窓際の東側の角。白鳥が最初に座っていた場所のそばだった。そこには特に密度の高いゴミの山があった。新聞紙の束がいくつも重なり、その下に衣類や雑誌が挟まっている。黒川はその山を上から順番に崩していった。新聞紙の束を三段ほど取り除いた時、その下に、何か別のものが見えた。形が違う。新聞紙でも容器でもない。黒川は手を伸ばして、引き出した。小さなノートだった。A6サイズほどの大きさで、表紙は薄い青色だったが、長年の間に色が抜けて、白に近い薄い色になっていた。ノートはビニール袋に包まれていた。丁寧に、しかし古いビニール袋で、テープで口を止めてある。周りのゴミが湿気と時間で変色している中で、このノートだけは乾いた状態を保っていた。黒川はそれを手に持ったまま、しばらく動かなかった。ビニールの口を開けることに、なぜか躊躇があった。これは、白鳥千代の持ち物だ。他人の持ち物を開けることは、秩序を守ることを信条とする黒川にとって、本来できないことだ。捨てるべきか。しかし、丁寧に包まれたノートを、中身も見ずにゴミ袋に入れることもできなかった。誰かが、これだけは守ろうとした。黒川はビニール袋のテープを、ゆっくりと剥がした。ノートを開いた。
最初の数ページは、きちんとした文字で書かれていた。家計の記録のようだった。水道代、電気代、食費、几帳面な数字が並んでいる。それが、どこかのページから乱れ始めた。文字が大きくなり、行がまっすぐ出なくなり、同じ言葉が繰り返されるようになった。
「今日は何日? 今日は何日? 今日は何日?」
その問いが三回、四回、五回と続いて、そこで別の記録に移る。黒川はそれを読みながら、手の中でノートが少し重くなったような気がした。気のせいだと思った。紙の重さは変わらない。しかし、読んでいる自分の手が、わずかに重力を強く感じていた。ページをめくり続けた。書いてある内容は、日によって全く違っていた。ある日は食料品の買い物リスト。ある日は、誰かへの手紙の下書きのようなもの。宛名は書いてないが、文章は息子へ向けられた言葉だった。息子の誕生日。息子が子供の頃に好きだった食べ物。息子が最後に来たのは、いつだったか。黒川はそれを読んだ。読むつもりではなかったが、読んでしまった。ページが終わりに近づいた。後ろから数ページのところに、他のページとは違う書き方をされたページがあった。文字が最初のページの丁寧な文字に似ていた。意識して、ゆっくりと書いたことが分かる文字だった。書かれていた日付は、二年前の春。短い文章だった。
「今日、四〇一号室の黒川さんが、ドアの前に落ちていた手紙を拾って、持ってきてくれた。何も言わずに渡してくれて、また自分の部屋に戻っていった。この団地で、私の顔を見て、顔を背けない人は、この人だけだ。もし私がいつか全部忘れてしまっても、どうか神様、この人に迷惑だけはかけないようにしてください。」
黒川は読み終えて、目を上げた。部屋の中の光は、夕方の光になっていた。一センチ開けたままの窓から入ってくる光が、床に細く伸びている。ゴミの山を半分ほど崩した部屋の中に、その光だけが静かにあった。黒川はノートを閉じた。ゆっくりと壁際まで歩いた。壁に背中を当てて、そのまま床に滑り込んだ。膝を立てて、両腕を膝の上に置いた。白鳥千代が最初にいたのと同じような、格好だった。手の中にノートがある。部屋のゴミは、まだ半分以上残っている。外では風が吹いていて、一センチの窓の隙間からかすかな音がしていた。黒川は動かなかった。泣くつもりはなかった。泣く理由があるとも思っていなかった。しかし、肩がわずかに動いた。カーディガンの下の肩が、小刻みに、静かに震えた。音はなかった。声もなかった。ただ肩だけが、この老人の体の中でどこかに収まりきれなくなったものを、細かく繰り返し外に逃していた。遠くから電車の音がした。長くなって、また短くなって、消えた。黒川は額に手を当てた。ゴム手袋をしたままの手だった。ゴム越しに、額の冷たさが伝わってきた。彼は少しの間その姿勢でいた。それから手を下ろした。立ち上がった。ノートをビニール袋に戻した。テープで止めた。それをコートのポケットに入れた。ゴミ袋ではなく、自分のポケットに。それだけのことだ。それ以上の理由は、今の黒川には言葉にできなかった。
その後一時間、黒川は残りのゴミを黙々と袋に詰めた。肩の震えは止まっていた。手は動いていた。窓の外が完全に暗くなった頃、四〇二号室は空になった。厳密には、冷蔵庫と洗濯機、押入れの中のいくつかの衣類は残っている。しかし、ゴミは廊下に積み上げた袋の中に収まっていた。合計で十四袋。三日分の作業の結果だった。黒川は部屋の真ん中に立った。自分の部屋と全く同じ間取りだった。しかし、何もなくなった状態で見ると、自分の部屋を鏡で映したものを見ているような、奇妙な感覚があった。空気は以前より動いていた。外の空気が、一センチの窓の隙間から入ってきて、部屋の中を少しだけ動かしていた。黒川は電気を消して、ドアを閉めた。
質に戻り、手を洗った。鏡の中の自分を見た。頬の肉が落ちている。目の下が暗い。カーディガンの袖口のほつれが、今日の作業でさらに広がっていた。黒川はそのほつれを指で触れた。引っ張らなかった。夕飯は、卵一個ともやしで作った炒め物だった。醤油を少し垂らしただけのもの。量は少なかったが、今日の黒川にはそれで十分だった。食べながら、ポケットの中のノートのことを考えた。いずれは、施設に届けるべきだ。しかし、今夜は届けられない。明日届けに行くかどうかも、今は分からない。食器を洗い、手帳を開いた。今日の支出を書いた。ゴミ袋の追加購入分、百六十円。それから手が止まった。手帳には、今月の食費の括弧書きの数字が並んでいる。七百円、八百円と積み上がってきたその数字は、今日で終わりだ。おにぎりを買う理由がなくなった。もう、届ける先がない。黒川はそのことを確認するように数字を眺め、それから手帳を閉じた。
布団に入る前に、黒川は窓のそばに立った。今夜は雪が降っていた。みぞれではなく、本物の雪だった。一月の沼津では珍しいことだ。団地の外の街灯の光に照らされて、雪が斜めに落ちているのが見える。屋根の端に積り始めている。黒川は窓ガラスに少し近づいた。自分の息が、白くなった。ガラスの内側に薄く曇りがついた。彼はその曇りを、カーディガンの袖で拭いた。曇りは消えて、また雪の降る夜の景色が見えた。今夜の自分の部屋は、いつもより静かだった。壁の向こうが空になったためだ。空の部屋が隣にある静けさというのは、人がいた頃の騒音よりも、ある種の重さを持つものだと黒川は思った。五万円はまだ戻っていない。戻るかどうかも分からない。今月の暖房は、電気ストーブの弱運転で乗り切ることになる。食費の括弧書きの出費は、来月からはなくなる。眼科には、来月の下旬以降に行けるかもしれない。それが今の黒川の計算の上での見通しだった。しかし、今夜、窓の外の雪を見ながら、黒川融像の目には、いつもの空洞のような諦めがなかった。失ったものがある。五万円と、体力と、積み立てていた暖房費と、この数週間の眠れなかった夜。それは確かにあった。そして、手に入れたものも、一つだけあった。コートのポケットの中の、古い青いノート。あの中に書かれていた言葉。「この団地で、私の顔を見て、顔を背けない人は、この人だけだ。」黒川はそれを手に入れたいと思っていたわけではなかった。ただ、それがそこにあったことを、今夜の自分は知っている。知っていることには、それ自体の重さがある。雪は降り続いていた。屋根の端の白さが、少しずつ広がっていく。遠くで、貨物列車の音がした。夜の線路を走る低い音が、雪の降る空気をくぐって届いてきた。黒川はその音が遠ざかるまで、窓の前に立っていた。それから、布団に入った。電気を消した。暗い部屋の中で、黒川融像は目を閉じた。体は疲れていた。しかし、今夜の疲れは、これまでの夜の疲れとは少し違う質のものだった。消耗ではなく、使ったという感触に近かった。自分の中の何かを、今日初めて使ったのだという感触。眠りが来るまで、それほど時間はかからなかった。



