「お前は来なくていい。家のことをやってろ」――結婚報告の場で、夫は息子の妻を連れ、私を蚊帳の外に置いた。二十六年間、家計も育児も私一人で支えてきた。なのに、夫は見知らぬ女を「家政婦」と紹介し、私を実家へ追いやった。そして離婚成立後、慰謝料を請求してきたのは、夫の方からだった。無能で鈍感だと言われ、全てを奪われた気がした。だけど、母が残してくれた古い木箱の中身が、全てを変えた。私は、彼らに相当…

「お前は来なくていい。家のことをやってろ」――結婚報告の場で、夫は息子の妻を連れ、私を蚊帳の外に置いた。二十六年間、家計も育児も私一人で支えてきた。なのに、夫は見知らぬ女を「家政婦」と紹介し、私を実家へ追いやった。そして離婚成立後、慰謝料を請求してきたのは、夫の方からだった。無能で鈍感だと言われ、全てを奪われた気がした。だけど、母が残してくれた古い木箱の中身が、全てを変えた。私は、彼らに相当...

夫の誠との離婚が成立した後、私は何度もあのマンションへ足を運んだ。やっとの思いで彼らの姿を目にしたのは、夕暮れ時のことだった。

物陰から様子をうかがっていると、エントランスから息子のカンタと、その妻のはる奈が現れた。その後ろから誠が出てくる。驚いたことに、誠の腕に、あの「家政婦」として紹介された女性、みなが絡みついていた。二人の振る舞いは雇用主と従業員のものではない。肩を寄せ合い、笑い合い、見つめ合う。それは明らかに恋人同士のそれだった。

はる奈が助手席に乗り込み、誠とみなが後部座席へ身を寄せ合うように乗り込んだ。車はエンジンをかけ、走り去っていく。私はその場に立ち尽くし、消えゆくテールランプを見つめ続けた。

「誠。あなたには、相当な代償を払ってもらうから」

声に出して、私は誓った。私を踏みつけにしてきた全ての者に、私は答える義務がある。母のためにも、母が残してくれたものを使い切る義務がある。絶対に許さない。その決意は、心の奥で固く結晶した。

私はさよ子。五十二歳の主婦だった。だが、もう「だった」だ。これからは、違う。

朝の六時、薄暗い台所で米を研ぐ。窓の外では小鳥が鳴き始め、近所の煙突から白い湯気が立ち上っている。息子のカンタが独立してからは、用意するのは夫である誠の朝食だけになった。手早く味噌汁を仕立て、焼き魚を皿に盛る。身支度を整え、玄関を出るのは七時半。そこから母の家へ向かい、デイサービスの送り出しを済ませてから会社へ向かう。九時の始業に間に合わせるには、毎朝この段取りで動くしかなかった。

結婚して、もう二十六年になる。新卒で地元の企業に勤めて三十年。仕事と家事を両立しながら、ここまで走ってきたつもりだ。

二年前、母が倒れた。軽い脳梗塞だった。一命は取り留めたものの、わずかに右半身に麻痺が残った。大抵の身の回りのことは自分でできるが、買い物など手助けが必要な場合がある。私は一人暮らしの母を放ってはおけず、仕事の合間を縫って実家に通うことを決めた。仕事、家事、介護。三つの時間が私の一日を埋め尽くしていた。

両親が離婚したのは、私が五歳の時だった。何があったのか、子供の私には知る術もないまま、父と離れ離れになった。一つ上の兄は父に引き取られた。それ以来、兄の顔を見たことはおろか、声を聞いたこともない。母は兄の話を口にすることを避け、私も幼心にそれを深く尋ねなかった。

母は女手一つで私を育ててくれた。内職と近所の食堂の手伝いを掛け持ちし、母の手はいつも荒れていた。冬になると指先がひび割れて血が滲んでいたのを覚えている。それでも母は弱音を吐かず、私の前では笑顔を絶やさなかった。

「さよ子、人を見る目だけは養いなさい。見た目や肩書きじゃない。その人が困った人にどう接するか。自分より弱い立場の人をどう扱うか。そこをよく見なさい」

母はよくそう言って私の頭を撫でた。当時は意味も分からず頷いていたが、大人になってから幾度となくこの言葉の重みを噛みしめることになる。

学校で嫌なことがあった日も、母はいつも黙って私の話を聞いてくれた。アドバイスを押し付けたりせず、私が話を終わるまで頷き続ける。話を得ると、湯気の立つ温かいほうじ茶を入れてこう言うのだ。

「あなたの中に答えはあるよ。お母さんは信じてる」

ほうじ茶の香ばしい香りが、台所の小さな食卓に広がる。あの時間が私の支えだった。

幼い頃の我が家の家計はいつも厳しかった。しかし私の記憶の中に「まずさ」という感触はない。母は工夫の名人で、近所の畑から分けてもらった野菜で美味しいものを作り、古着を直しては私の服に仕立て直した。冬の朝には火鉢の上で焼いた餅に甘い醤油を絡めて出してくれた。あの香りを思い出すと、今でも喉の奥が熱くなる。

中学に上がる頃、母は突然私名義の通帳を作った。

「働き始めたら、自分の口座は自分で持ちなさい。お金のことは、誰にも預けてはいけない」

そう言って通帳を私の手に握らせた母。当時の私は、なぜ母がこんなことを言うのか深く考えなかった。

高校では毎日のようにアルバイトをして生活を支え、大学も奨学金で通った。大学を出た後、私は地元の会社に就職した。最初は事務職で入社したが、数字を扱う仕事が性に合っていたのか、一年目から営業のサポートを任されるようになった。客先からの信頼も少しずつ積み上がり、自分の足で歩く実感を得られる職場となった。

そんな取引先の関連会社に務める誠と出会った。入社三年目の二十四歳の春のことだ。同じ業界の若手社員として合同の研修会の場で、私の隣に座った誠。冗談がうまく、人を笑わせる才能があり、何より自信に満ちて見える。私の地味な働き方とは対象的な華やかさに、私はすっかり心を奪われていた。

半年の交際を経て、誠から結婚を申し込まれる。

「俺と家族になろう」

そう言われて、私は少し照れながら頷いた。その夜、母の家に駆け込んでプロポーズされたことを報告すると、母は私の顔をじっと見つめた後、目を真っ赤にして泣いた。

「よかったね、さよ子。お母さん、嬉しいよ」

私を抱きしめる母。彼女の小さな体が、こんなにも温かいことをその時初めて知った。その後、母は仏壇に向かって何度も手を合わせる。誰に報告していたのか、私は尋ねなかった。

私も誠も仕事が忙しかったため、結婚式は挙げていない。カンタを授かったのは翌年の冬。母に妊娠を告げた日、母はまた泣いた。今度は両手を合わせ、天井を仰ぐようにして何度も「ありがとう」と繰り返す。誰に向けた感謝なのか、私には分からなかった。

カンタが生まれる際には、母は誰よりも早く病院に駆けつけた。新生児室のガラス越しに小さなカンタを見つめ、何度も目元を抑えながら呟いた。

「あなたが生まれた日のことを思い出したわ」

私自身が生まれた日のこと。そこに父はいたのか。母は何を思ったのか。聞きたいことは山ほどあったが、その時の私は自分が母になったばかりの感慨で胸がいっぱいで、何も尋ねられなかった。

カンタは健やかに育った。初めて立った日、初めて「ママ」と呼んでくれた日、運動会で一番を取った日。一つ一つの記憶が私の中に積み重なっている。母もカンタの成長を心の底から喜び、遊びに行く度にあれこれと食べ物を出してくれた。

仕事を続けながら家を守り、子を育てる。決して楽な日々ではなかったが、私はその忙しさの中に確かな手応えを感じていた。この穏やかな日々がこれからもずっと続いていく。私はそう信じて疑わなかった。

そんな中で倒れてしまった母。実家に通う朝の電車の中で、揺れる窓ガラスに映る自分の顔を見ながら私は思っていた。あと少しで母も回復するかもしれない。そしたら母と二人で温泉に行こうと。現実的ではないことは理解していたけれど、夢でも見なければ心のバランスは保てなかったのだ。

土曜の昼下がり、実家の縁側には穏やかな日差しが差し込んでいた。洗濯機を回し、母の好物の煮物を仕込み、薬の在庫を確認する。買い物リストに足りない品を書き加えながら、私は母の昼食の片付けを終えたところだった。母は食後の眠気に勝てず、座布団を枕にしてうたた寝を始めている。

「お母さん、風邪引くから」

軽くタオルケットを掛け直すと、母は目を閉じたまま小さく頷いた。年齢を重ねた母の顔には、皺の一本一本に苦労の跡が刻まれている。それでも口元には穏やかな緩みがあって、こうして眠っている姿を見ると私の張り詰めた気持ちもふっと柔らいだ。窓の外、庭の柿の木が風に揺れている。緑の季節にはまだ早いが、枝の合間に小さな緑の実が見え始めていた。あの木は、私が小学校に上がる前からずっとここに立っている。

母の寝顔を見ていると、結婚した頃のことがありありと蘇った。

誠と結婚したばかりの頃、私は世界がバラ色に染まったような心地で日々を送っていた。新居に選んだのは誠の勤務先に近い小さなマンションの一室。私たちには贅沢すぎるほど広くて綺麗な部屋だった。まだ若かった私たちにこのマンションを借りるのは難しかったため、母の名義で借りた。いずれは誠の名義に変更する約束で。家具を二人で選び、休日には買い物に出かけ、夕飯のメニューを相談しながら台所に立つ。何気ない日常が私には宝物だった。

そのバラ色はほんの数ヶ月で色を失う。きっかけはどこにあったのか、今となっては定かではない。最初の違和感は夕食の席だった気がする。私が仕事で帰りが遅くなり、出来合いの総菜を温め直して食卓に出した夜のことだ。

「これ、なんだよ」

誠は箸を取る前に皿を顎で示してそう言った。

「ごめんなさい。今日は会議が長引いて」

「俺の飯くらいちゃんと作れよ。お前、何のために結婚したと思ってるんだ?」

私は言葉を失った。誠は私が答えるのを待たず、テレビに目を戻して箸を取る。出来合いの総菜を何も言わずに食べ進めながらも、口元は不機嫌そうに下がっていた。

その夜から、誠の態度は少しずつ変わっていく。

結婚から一ヶ月ほど経った頃、私は誠の両親に挨拶に行きたいと申し出たことがあった。式を挙げていないので、義両親に顔を合わせたことがないのだ。結婚した以上は一度きちんと顔を合わせるのが筋だと私は考えていた。

「親はいない」

しかし誠が返したのはその一言だった。

「縁を切ってる。お前も、今後一切俺の親のことには触れるな」

低く押し殺した声に、私はそれ以上踏み込めなかった。誠の両親がどこに住んでいるのか、存命なのかどうかさえ私は知らない。それはすなわち、何かあった時に誠側の親族に頼れる相手は一人もいないことを意味する。その事実は後々になって私の選択肢を狭めていく原因となった。

家計の話を切り出したのは、結婚から半年が過ぎた頃。共働きの私たちはお互いの収入を一度合算してから生活費を捻出し、残りをそれぞれ管理しようと結婚前に話し合っていた。

「家計簿を作ったんだけど、月の生活費の分担、どうしようか」

ある時の夕食後、誠の前にノートを広げて私が切り出すと、誠は馬鹿にしたように笑う。

「お前も稼いでるんだろ? 家のことくらい、お前がなんとかしろよ」

ノートを覗き込みもせず、誠はソファーに身を沈めた。手元のリモコンでチャンネルを変えながら、もう話は終わったとばかりに私から目をそらす。

「でも、結婚前は……」

「俺は俺の金を好きに使う。お前も好きにすればいい。同じだろ」

その「同じ」の中身はまるで違っていた。家賃、光熱費、食費、日用品、誠の好物の酒やタバコに至るまで、気がつけば全て私の口座から引き落とされる仕組みになっていた。誠は自分名義の口座から一銭も家計に回さず、給料はそのまま自分の趣味と娯楽に消えていく。私は母に作ってもらった通帳のことを思い出した。「お金のことは誰にも預けてはいけない」という母の言葉を守ろうと、私は自分の貯蓄用の口座を別に維持する。生活費を負担する苦しさはあったが、毎月わずかでも自分の名義の口座にお金を残すことが、私のささやかな抵抗だった。

「俺は優秀だから、お前の何倍も稼ぐ価値がある人間なんだ」

誠がその口癖を口にするようになったのも、結婚して間もない頃からだ。会社の同期との飲み会から帰った夜、自分の昇進が遅れている話になると、誠は決まってこのセリフを吐いた。

「上司が無能だから、自分の能力を見抜けない。同期は要領がいいだけだ。実力は俺の方が上だ。いずれ俺は今の会社で頂点に立つ」

そんな言葉が繰り返された。私はそれを無理に否定することもなく聞き流していた。仕事の愚痴くらい誰にでもある。本人が自分を信じていられるならそれでいいではないか。ただ、その自信の強さに比例して、家での誠の態度はますます尊大になっていった。

カンタを授かったと分かった時、誠の顔に浮かんだのは驚きと戸惑いだった。

「今かよ」

それが第一声だった。

「お前、育休とか取るつもりなのか?」

「ううん。産休と育休を合わせて……」

「復帰するんだろ?」

私の妊娠を喜ぶ言葉も、これからの生活を案じる言葉もない。そのまま誠の関心は私の職場復帰の時期に集中した。子供が生まれることへの考えは、彼の中ではすでに支払いと収入の計算に変換されていたらしい。しかし私は、無事に生まれてきてくれることを願ってお腹に手を当て続けた。

カンタが生まれ、退院して家に戻った私に、誠は早々と次の言葉を投げた。

「保育園、もう探し始めろよ。無理だったらお前の母親に預けろ。とにかく、仕事には早く復帰しろ」

「まだ生まれたばかりなのよ」

「だからなんだ。生活費はどうする? お前が稼げないなら、お前の貯金から出せ。俺は一切金は出さないからな」

生後数日の赤ん坊を抱きながら、涙が出そうになるのを必死でこらえた。産後の重い体を引きずって、私は保育園探しを始めた。幸い近隣に空きのある園が見つかり、カンタは生後三ヶ月で保育園に預けられることに。預けた初日、保育士の腕の中で泣きじゃくるカンタを振り返り見ながら、私は職場に向かう。電車のドアに凭れて窓の外を見つめていると、視界が涙で滲んだ。

職場の同僚たちは、私の早すぎる復帰を案じてくれた。優しい声をかけてくれる先輩や同期の言葉に、私は曖昧に笑って頷く。家庭の事情を職場で詳しく話す気にはなれなかった。

復帰してからの日々は、文字通り綱渡りだった。朝五時に起きて朝食とカンタの保育園の準備。グズるカンタを抱えて保育園に走り、職場で一日を駆け抜けた。夕方六時のお迎えに間に合うように仕事を切り上げる。帰宅後はカンタの世話、夕食の支度、洗濯と片付け。カンタが寝静まった夜十時を過ぎてからようやく自分の食事を取る日もあった。その間、誠は何一つ手を貸さない。

「育児は女の仕事だろ」

カンタがグズろうが夜泣きをしようが、誠はソファーでテレビを見るか寝室にこもるかのどちらか。一度、深夜にどうにも泣き止まないカンタを抱えて彼に助けを求めたことがある。

「さっさと黙らせろよ。俺は明日、仕事なんだからな」

返ってきたのはその言葉だった。それ以来、私は誠に助けを求めることをやめた。

カンタはすくすくと育っていった。夜泣きの時期を抜け、自分の足で歩き始め、片言で言葉を話し始める。仕事と育児の両立は厳しかった。だが、カンタの成長を見ている時は、私は疲れも忘れることができた。母にもなるべくカンタの成長を見せてあげたいと、私は週末ごとに実家に通った。母はカンタを抱きかかえ、手作りのおやつを次々と出してくれる。私は家庭での苦労を母には極力悟られまいと務めていた。心配をかけたくなかったからだ。母は私とカンタがやってくるたびに心の底から嬉しそうな顔をしてくれる。それを思うと、私はまた一週間を頑張ろうと思えた。

カンタが小学校に上がる頃、誠に変化が訪れる。それまで育児に一切関わってこなかった誠が、カンタに対して急に関心を持ち始めたのだ。きっかけは、カンタが学校の徒競走で一番になったことだった。

「やっぱり俺の子だな」

優勝の知らせを聞いた誠は満面の笑みでカンタの頭を撫でる。カンタは誇らしげに父親を見上げた。その日から二人の距離は急速に縮まった。休日には誠がカンタを連れて遊びに行き、夕食の席でも父と息子の会話が弾む。私はその光景を台所から見守った。育児の苦労を分かち合えなかった寂しさはあったが、カンタが父親と楽しそうに過ごす姿は何より私の救いだった。

その安らぎが次第に違和感に変わっていったのは、カンタが三年生に上がった頃のこと。その日は誠から残業で遅くなると連絡が入ったため、夕食はカンタと二人だった。カンタが私のよそった味噌汁を一口飲んでから、こう言った。

「ママの味噌汁、しょっぱい」

「ごめんね。急いで作ったから。明日はちゃんと味見するから」

「いいよ。ママの料理は、どうせいつもまずいから」

その言葉に、私は箸を止めた。カンタの顔は無邪気だ。まるで天気の話をするかのような調子で、彼は私の料理を否定した。

「カンタ、どうしてそんなことを言うの?」

「だってパパが言ってたもん。ママの料理はまずいって。家のことも何もできないって。だからパパは外でご飯を食べてくるんだって」

私はそれ以上何も言わずに箸を置く。カンタは最後まで「まずいね」と言いながら夕飯を完食した。結局その夜、誠は深夜になるまで帰ってこなかった。

私は寝室で天井を見つめながら考える。誠が私のことを陰で何と呼んでいるのか、どんな話をカンタに吹き込んでいるのか。直接問いただしたかったが、誠は些細なことで不機嫌になる。下手に追求すればヒステリーを起こされる。カンタの前で夫婦喧嘩を見せたくない。私は黙って飲み込んだ。

それからもカンタは時折、私の心を切り裂く言葉を口にした。

「ママって、本当にバカだよね」

「ママの職場も、バカばっかりなんでしょ」

その度に、私はカンタを叱るでもなく誠を問い詰めるでもなく、心の奥にしまい込んだ。家庭を壊したくない。カンタの前で取り乱したくない。その一心だった。

カンタが高学年に上がると、学校との関わりも一層増えていった。PTAの役員選出、習い事の送り迎え、家庭訪問、進路相談。学校に関する一連の行事は、当然の役回りとして私の肩へ載せられる。しかし誠は、PTAの集まりにだけは顔を出した。いい父親のイメージを他の保護者に植えつけるためだと、後で知った。

「うちの妻は何もできないんで、色々学ばせたいんです。役に立たないかもしれませんが、是非お使いください」

保護者たちは「いい旦那さんね」などと言って誠を褒める。私はその度に、笑顔の下で唇を噛んでいた。

中学受験の時期になっても、誠の態度は変わらない。学校説明会、面談、模試の結果分析、志望校選び。一つ一つの場面で、私は仕事を調整して時間を作り、カンタの進路に向き合った。

「今度の面談、お願いできないかしら」

ある日、とうとう堪え切れずに私が口にすると、誠は面倒くさそうに眉を寄せる。

「やだよ。めんどくさい。それは俺の役目じゃないだろう。俺は外で稼いでくるのが役目だ。それに、俺は日頃からカンタの相談に乗ってるし。それでいいだろ」

「稼いでくる」という言葉が、私にはひどく空々しく響いた。生活費の大半は私の口座から消えていく。誠の収入がどこに流れているのか、私は知らなかった。聞いても答える人ではないし、聞くこと自体が新たな喧嘩の種になることを、私は学習していた。

カンタはそんな誠を見て育った。父は家にいない。家のことは母がやるもの。母は父の言うことに従うもの。その図式は、カンタの中で揺るぎない常識として根を下ろしていった。思春期に入ってから、カンタも家の手伝いを一切しなくなった。私が皿を運ぼうとしても、目の前のテレビから視線を外さない。

「ママがやればいいじゃん」

その一言で、カンタは私の頼みを避けるようになった。

カンタの進学先が決まり、合格通知を手にした日のこと。私が真っ先に伝えたかった相手は、誠ではなく母だった。電話の向こうで、母は私以上に喜び、「カンタ、頑張ったね」と何度も繰り返す。誠は合格通知を一瞥して「当然だろう」と漏らし、そのままビールを開けた。カンタの入学金も制服代も授業料も、私の口座から消えていった。それを当然と思っている誠の横顔を見ながら、私は何度も「何かが間違っているのではないか」と考える。それでも私は声をあげなかった。

「さよ子。まだいてくれたの?」

母の声で、私は現実に引き戻される。縁側のうたた寝から目を覚ました母が、半身を起こしてこちらを見ていた。私は慌てて湯呑みを置き、母の元へ駆け寄った。

「うん。夕飯の支度してから帰るから」

「ありがとうね。あなたも忙しいのに、悪いね」

母はそう言って、皺の寄った手を私の手に重ねる。彼女の手は、いつの間にか私の手より小さくなっていた。こわばった指先のぬくもりが、じんわりと私の手のひらに伝わってくる。

「私が好きでやってるんだから、気にしないで」

「あなたは、いつもそういうね」

私は母の手を握り返し、何も言わずに頷く。一通りの段取りを終えて時計を見ると、もう午後七時を回っていた。

「じゃあ、また来週ね」

「気をつけて帰るのよ」

母に手を振り、玄関で靴を履く。夜道を歩きながら、私は深く息を吐いた。これから家に帰っても、誠はテレビの前で寛いでいるだろう。「飯、早く」と一言。私の顔を見るなり、そう告げるだろう。私はまた台所に立ち、夕飯を温め直し、誠の機嫌を伺いながら一日を終えるのだろう。それが私の二十六年間の日常だ。家に帰るのが、少しばかり憂鬱だった。

その朝も、私は五時前に台所に立っていた。誠の朝食をお盆に乗せ、ラップをかけて食卓に置いた頃、東の窓に薄い朝日が差し込んできた。身支度を整え、七時きっかりに寝室の扉を叩く。

「ねえ、起きて。七時よ」

返事はない。もう一度声をかけると、布団の中から押し殺した怒鳴り声が漏れた。

「うるさいな。起きなくていいんだよ」

寝返りを打って背中を向けた誠に、私は思わず首をかしげる。

「どうして? 今日は平日でしょ?」

「はあ。無能なお前でも働ける職場が羨ましいよ。俺は会社の重役だから、出社時間も自分で決められるんだって」

布団から覗いた誠の口元が、不機嫌そうに歪んでいる。私はわずかな違和感を覚えた。一般企業の管理職に、そんな自由が許されるのだろうか。けれど誠の話を真っ向から疑えば、また面倒な議論になる。私は黙って様子を伺った。

誠は数年前に一度転職をしている。前の会社を辞めた時には「あそこは無能ばかりで、俺を正当に評価しなかった」と息巻いていた。今の会社に移ってからは、確かにそれ以前よりも誠の機嫌は良くなったように思う。

「私、会社に行くから」

その一言を告げて、寝室を後にした。

電車に揺られながら、私は手元のタブレットで会議資料を確認していた。朝一番から取引先との打ち合わせがあり、その後は社内会議が立て続けに三本入っている。会社に着いた頃には、もう頭の中に当日の段取りが組み上がっていた。打ち合わせは予定通り進む。私の説明にも特に質問は出なかった。

終わった後、会議室を出ようとした私の周りに後輩たちが集まってきた。

「さよ子さん、先ほどの数字の根拠なんですけど、あの件、私の担当案件にも応用できそうで。後で時間もらえますか?」

矢継ぎ早に飛んでくる質問に、一つ一つ丁寧に答えていく。近年、私の元にはこうして自然と人が集まる場面が増えていた。私に特別な能力があるとは思っていない。目の前の仕事に向き合い、分からないことを分からないままにせず、後輩たちがつまずいた箇所を覚えてきただけだ。それを三十年続けた結果、頼られる立場になっていた。

定時の鐘が鳴った時、私は手早く机を片付けて鞄を取る。

「お疲れ様。お母さん、調子はどう?」

「ありがとうございます。おかげ様でなんとか元気です。今日はデイサービスのお迎えがありますので、これで失礼しますね」

「無理しないでね。何かあったら、すぐ行って」

部署の誰もが、私が母の介護をしていることを知っていた。休暇や早退が必要な時も、嫌な顔一つせず出してくれる。むしろ私の体調を案じる声の方が多く、私はその度に職場の人間関係に救われていることを実感していた。

電車に飛び乗り、実家の最寄り駅で降りる。デイサービスの車が母を送り届ける時間に、私はなんとか間に合った。母の夕食を準備し、薬を飲ませ、明日の段取りを確認してから自宅に着く。

マンションの鍵を開けると、玄関に見慣れない女性物の靴があった。リビングに足を踏み入れて、私は息を飲む。ソファーに誠が座り、その向かいのソファーにカンタと若い女性が座っている。

「あら、はる奈さん、お久しぶりね」

はる奈とは何度か顔を合わせたことがあったが、ゆっくり話したことはまだない。三人ともよそ行きの服装で、これから出かける気配が漂っていた。

「カンタがはる奈ちゃんと入籍したんだ。だから、今からお祝いに三人で外食する」

私は耳を疑った。息子の結婚を、母親である私が事後報告で知らされる。それも当の本人たちが目の前にいる場で、夫の口から。はる奈は微笑みながら私に小さく会釈したが、罪悪感のかけらも見えなかった。

「そう、入籍したの? 知らなかったわ。是非お祝いさせて」

「いや、お前は来なくていい。家のことをやってろ」

冷たく言うと、誠が右手を私の前に差し出してきた。何かを催促するような仕草だ。

「何ぼさっとしてるんだよ。お祝いだって言ってるだろ。金、五万でいいから」

外食の代金を私に。はる奈の前で揉め事をするのはカンタの顔に泥を塗ることになる。そう判断した私は、財布から五万円を取り出して誠の手のひらに乗せた。誠は札束を一瞥もせずポケットに突っ込むと、カンタとはる奈を連れて玄関に向かう。三人は私の存在など気にも止めずに、笑い声を響かせながら出かけていった。

その日以来、誠はあまり家に帰らなくなった。

「あんたと一緒だから」が口癖になり、私がたまには私も一緒に行きたいと言っても、誠は鼻で笑うだけ。

「はる奈ちゃんも一緒なんだから、考えろよ。お前がいると、気を使わせるだろう。カンタだって、お前がいると気まずいに決まってる」

考えてみれば、カンタは中学に上がった頃から私とほとんど口を聞かなくなっていた。学校行事も受験も進路の心配も、全部私が抱えてきた。それなのに、カンタが相談する相手はいつも誠だ。進学で家を出てからも、カンタは私に連絡をよこさない。誠とは定期的に連絡を取っているらしい。入籍したことも、私だけが知らなかった。誠は前から把握していた様子なのに。

家計を吸い取られ、息子まで取られる。私の手元に残されているのは、実の母のみだった。

その二週間後、デイサービスの職員から「お母さんが倒れた」と電話が入った。私が会社で会議の準備をしている最中だった。受話器を持つ手が震え、頭の中が一瞬で空白になる。上司に事情を告げて職場を飛び出し、タクシーで病院に駆けつけた。

病院のベッドに横たわる母の顔は、朝の表情とは別人だった。点滴の管が腕に繋がれ、酸素マスクが口元を覆っている。担当医の説明によると、二度目の脳梗塞で、今度は左半身にも麻痺が及んでいた。

「命に別状はありませんが、今後は寝たきりに近い生活になると思います。介護の体制を整えていただく必要があります」

その言葉が、私の中で重い岩となって落ちてきた。母を一人にはしておけない。週末だけの介護で済む段階は、もう過ぎている。私は病院の長椅子に座り、何時間も考え続けた。仕事を続けるか、やめて母に専念するか。答えは、最初から一つしかなかった。

翌日、上司に退職の意向を伝えた。上司は驚いた顔をしたが、事情を聞くと渋い表情で頷いてくれた。

「さよ子さんがいなくなるのは、うちにとっても痛いよ。でも、お母さんを第一にしてあげて」

引き継ぎの段取りを整え、退職日を決める。三十年の勤続にしては、別れの段取りは呆気ないものだった。

家に戻り、誠に話を切り出すまでに数日かかった。誠はほとんど家に帰らず、たまに帰っても深夜だったからだ。ある夜、私は寝室で待ち続け、明け方近くに戻ってきた誠を捕まえた。

「話があるの。母の介護のために、仕事をやめることにしたんだけど」

誠は靴を脱ぎながら、面倒くさそうに顔を上げた。

「で、退職金はいくら出るの? 生活が維持されるなら、好きにしたらいいさ」

母の容態を案じる言葉も、私の決断を労う言葉もない。誠の関心は、退職金の金額とこれからの生活費にしか向いていなかった。

「ああ、あと。お前の通帳、見せろ」

拒否することは許される雰囲気ではない。私が通帳を差し出すと、誠は中身を確認して鼻を鳴らした。

「ま、これくらいあれば問題ないかな。今回はお前のわがままなんだからな」

「わがまま」という言葉が、心の奥に深く沈んだ。

引き継ぎの最終日、後輩たちが声を詰まらせて私を引き止める。普段は冷静な上司まで「何かあったら相談させて欲しい」と頭を下げてきたのには驚いた。引き継ぎ期間は想像以上に過酷だった。母の容態は日に日に悪化し、私は実家に泊まり込みで介護をする日も増えていく。仕事を抱えながら徹夜で母の世話をする生活が続いた。家に戻る回数が減ったことに、誠は不満を爆発させた。

「話が違うじゃねえか。家のこと、何もできていないだろう」

「少しは協力して欲しいの。今だけだから」

「お前の母親のことだろ。俺には関係ないんだから、巻き込むな」

彼の冷たい言葉に、私は何かが胸の中で音を立てて崩れる感覚を覚えた。

「そんな言い方……今のあなたの会社だって、母の知り合いの紹介で入社したんじゃない?」

「そうだっけ? だとしても、もう関係ないだろ」

その返答に、私は二の句が告げなかった。母が誠の転職の際に「知り合いがいるから」と紹介してくれた会社で、誠は今の地位を得ている。その恩すら、誠の中には残っていなかった。

思い返してみれば、誠は最初から母に関心がなかったように思う。結婚前に何度か実家に挨拶に連れて行ったが、誠は古い家を不機嫌そうに見渡すのみで、母の問いかけにはほとんど答えなかった。「ああ、別に」を繰り返すばかりで、礼儀という言葉を知らないかのような態度。帰り道では決まって「あんな家じゃ、何の資産価値もないな」と吐き捨てた。しかし母は誠に対してずっと笑顔だった。私の夫だから、カンタの父親だから。母は愛想を絶やさない。素っ気ない態度を取られても、誠の好物を覚えて毎回違うもてなしを用意していた。誠はそのもてなしを当然のものとして消費し、感謝の言葉一つ口にしなかった。その母の優しさを、誠は今、踏みにっている。

「とにかく、お前が家のことをちゃんとやらないなら、俺にも考えがあるからな」

捨て台詞を残して、誠は再び家を出ていった。

退職の最終日、後輩たちが送別会を提案してくれた。

「ごめんね。母の介護があるから」

私が頭を下げると、みんなは寂しそうな顔をしながらも、快く送り出してくれた。温かい言葉を背中で受け止めながら、私は会社を後にする。

家に戻ると、リビングが妙に片付いていた。ソファーには誠が座り、隣にカンタとはる奈が並んでいる。そしてその向かいには、私の知らない若い女性が腰かけていた。

「ああ、帰ったか。話がある」

誠は私を見上げもせずに告げた。

「彼女は中島みなさん。今日からこの人が家のことをやってくれるから。お前は、母親の家で暮らしていいぞ」

中島みなと紹介された女性は、薄く微笑んで会釈した。化粧の濃い、二十代後半と見える女性だ。家政婦というには、随分と若い。

「俺たちも、父さんが心配だからこのマンションで暮らすんだ。だから、あんたの荷物はさっさと実家にでも送ったよ。俺たちが使うからさ」

「カンタ」と呼ばれた瞬間、私は耳を疑った。私はもう、カンタにとって母親ですらないらしい。はる奈は私と目を合わせもせず、スマートフォンに視線を落としている。全てが決定事項として、私の周りで進行していく。

言われるがままに自分の荷物をダンボールにまとめ、その日のうちに実家への配送手続きをする。誠もカンタも、最後まで手を貸してはくれなかった。

実家に着いたのは、もう日が暮れた頃だ。ヘルパーさんが日中の母の様子を見守ってくれていた。お礼を伝えて引き継ぎを済ませると、私は母の枕元に腰を下ろす。そのまま、しばらく動けなかった。

あの家政婦と紹介された女性は、本当に家政婦なのだろうか。雇用した以上給料が発生するはずだが、その支払いはどこから出るのか。おそらく私のカードから引き落とされるのだろう。頭の中で様々な疑問が渦巻いたけれど、目の前で眠る母の顔を見ていると、それらの疑問はだんだんと小さくなっていった。今の私にできるのは、ただ母のそばにいることだった。

実家での生活が始まって二ヶ月ほど経った頃から、母は目に見えて弱っていく。食事の量も減り、起きていられる時間も短くなっていった。母は私が傍らにいると分かると、弱々しい手を伸ばして私の手を握ってくれる。骨張った指の感触が、私の支えになっていた。仕事をやめてこの家に来て正解だったのかもしれない。母のために全ての時間を注ぐことができる。それは奪われたものの大きさを補ってあまりある、最後に残された使命だった。

ある日の午後、珍しくカンタから電話が入った。着信画面に「カンタ」の文字が浮かんだ時、私は思わず母の枕元から離れて廊下に出る。離れて暮らすようになってから、カンタからの連絡は一度もなかった。心臓が早く打つのを感じながら、私は通話ボタンを押す。

「あ、母さん。ちょっとお願いがあるんだ」

久しぶりに聞いた「母さん」の響きに、胸が熱くなった。

「俺さ、家を買おうと思うんだけど、ちょっとお金が足りなくて」

「え? お父さんと一緒に暮らしてるんじゃないの?」

二ヶ月前にカンタとはる奈は私の家に住み着いたばかりではなかったか。それなのに今度は別に家を買うという話に、戸惑いを覚える。カンタまでもが、私から金を引き出そうとしているのか。そう思った瞬間、悲しみが胸を満たした。だが、次のカンタの言葉でそれはあっさりと払拭された。

「ああ。実は、俺とはる奈に子供ができたんだ。母さんの孫だよ」

私の孫。涙が出そうになるほどの喜びが押し寄せた。カンタとはる奈の間に生まれてくる小さな命。それは、長い間私が失い続けてきたものを補ってあまりある、新しい光だった。

「それで、家を買おうと思ったんだ」

「そう。おめでとう。いくら必要なの?」

「ちょっと多くて、できれば二千万あると助かる」

その金額に、私は息を飲んだ。用意できない金額ではない。しかし、簡単に出せるものではなかった。

「無理ならいいんだ。でも、母さんにはいっぱい迷惑かけたから、一番最初に母さんに赤ちゃんも抱いて欲しいと思ってるよ」

散々冷たい仕打ちを受けてきた息子から、初めて聞いたまともな気遣いの言葉。生まれてくる孫を最初に抱かせてくれる。そのささやかな約束が、私のこれまでの苦労を全て肯定してくれるような響きを持っていた。

「分かった。用意するわ」

「本当? ありがとう、母さん。引っ越しが終わったら、また連絡するから」

電話を切った私は、廊下にしゃがみ込んで涙を拭う。カンタがまた私を「母さん」と呼んでくれた。孫を抱かせてくれると言ってくれた。それだけで、私は全てを許せる気がした。

「電話、誰から?」

寝室に戻ると、母が目を開けてこちらを見ていた。

「カンタよ。赤ちゃんができたんですって。それで、家を買うっていうの」

「そう。協力して欲しいって?」

「うん。初孫だもの。何でもしてあげたい」

母は微笑んだけれど、その微笑みの奥に、私が読み取れない陰りがある。

「お母さんも嬉しいでしょ。ひ孫が生まれるのよ」

私はそう言ってベッドに近づく。母は私の手を取り、皺の寄った指で何度も撫でた。その時、母が何を思っていたのか。喜びで満たされていた私は、最後まで読み取ることができなかった。

カンタの口座に二千万円を送金してから、一ヶ月が過ぎた。「引っ越しが終わったら連絡する」と言っていたカンタからは、その後何の音沙汰もない。私は何度かメッセージを送ったが、返信はなかった。家を建てる手続きで忙しいのだろう。はる奈の体調管理もあるはずだ。そう自分に言い聞かせて、私は母の介護に集中することにした。

ある朝、台所で母の朝食を作っていると、スマートフォンが小さく震えた。カンタからのメッセージだ。

「父さんに渡してる家族カード、子供のものを買いたいから少し使っていい?」

短い文の後に、画像が二枚添付されていた。一枚は、はる奈の名前が書かれた母子手帳の表紙。もう一枚は、白黒のエコー写真。小さな影の中に、丸い頭らしき輪郭が見える。私は思わず画面を近づけて、その輪郭を何度も指でなぞった。私の孫だ。涙が滲んだ視界の中で、写真の輪郭がぼやけた。

「もちろん、子供のためなら使っていいわ。はる奈さんの体調は大丈夫? 何か他に手伝うことがあれば言ってね」

カンタからの返信はすぐに来た。

「もう安定期だから大丈夫」

そっけなささえ、私には嬉しく感じられた。それから何度かメッセージを送ってみたが、カンタからの返信は次第に途絶えていく。胸の中に小さな引っ掛かりが溜まっていったが、私はそれを意識しないよう努めた。

母の容態が急変したのは、その頃からだ。最初の頃は会話もできていたが、やがて受け答えがおぼつかなくなる。食事の量も減り、何度か救急車のお世話になり、入院と退院を繰り返した。

「さよ子。お前は、大丈夫かい?」

朦朧とした意識の中で、母はいつも私を心配していた。自分の体が弱っていく恐怖よりも、私の行末を案じている。ある夜、病院で点滴を受けている母が薄く目を開けていった。

「さよ子は、本当に頑張ってきたね。お母さんは知ってるよ」

私は母の手を握る指に力を込め、首を横に振る。

「お母さんが頑張ってきたから、私もここまで来られたのよ」

母は微かに笑った。皺だらけの目尻が、わずかに濡れている。

「さよ子は、強い子よ。困った時は、自分の中の声を聞きなさい」

子供の頃に母から何度も聞いたセリフだった。「あなたの中に答えはある。お母さんは信じてる」。あの言葉が形を変えて、私の胸に再び落ちてきた。

退院後の母は、意識がはっきりしている時間が短くなる。私はもう母が長くないことを覚悟していた。意を決して、私は誠に電話を入れた。最後に一度、母に会ってやってほしい。たとえ短い時間でも、誠とカンタが見舞いに来てくれれば母の励みになるだろう。私が家族と仲良くやっている姿を母に見せて安心させたい。そう願って、久しぶりに誠の番号を呼び出した。

数回の呼び出し音の後、不機嫌そうな声で電話に出た誠に伝える。

「母が、もう長くないの。私たちのことを心配しているから、最後に会ってくれないかと思って」

「はあ? なんで俺が。そもそも会って何になる? 俺にメリットはあるのか? 大体さ、ぼろくて古い家に住んでるお前の母親に遺産があるとも思えないし。利用価値なし」

母の命が燃え尽きようとしている時に、誠の口から漏れた言葉。それは「遺産」と「利用価値」という単語だった。私の母を、誠は一人の人間としてではなく、財産の換算対象としてしか見ていなかった。

「そんな言い方、ひどい」

彼の心ない言葉に泣きそうになる。しかし、今はそんな私の言葉にすら、誠はため息をつく。

「ひどくない。本当のことを言ってるだけだ。もうめんどくさいから、離婚しないか」

「離婚」という言葉が耳に流れ込んできた瞬間、思わず息を飲んだ。今まで意識しなかったわけではない。それは何度も脳裏に浮かんでは消えた言葉だ。

「分かってると思うけど、お前のせいだからな。介護だの何だのって帰ってこないで。家のことは全部ほったらかしだったろ」

私を母の家に追いやったのも、みなという見知らぬ女性を家政婦として連れ込んだのも誠ではなかったか。しかし彼は、自分が被害者かのようだった。

「お前と結婚してる意味ないから、離婚弁護士を通して財産分与の対応させるから」

「分かった」

私の口から漏れたのは、それだけ。争うすべもない。私自身の誠への思いも、その程度だったのかもしれない。母が亡くなろうとしている今、誠と争う気力は残っていなかった。長年の積み重ねが、ここで一気に音を立てて崩れた気がする。私はもう、何かを期待することをやめた。

電話を切る前に、私は一つ条件を口にした。

「渡している家族カードは、使わないで欲しいの。今度、返して」

「ああ、分かった。今度な」

彼の返事に、私は何の信頼も置けなかった。だが、口に出して伝えたことが、私のささやかな抵抗だった。

数日後、誠側の弁護士から正式な書面が届いた。財産分与の内容は、私がそれまでに積み上げてきた貯金の半分を誠に渡すというもの。誠はこの二十六年間、家計に一円も入れていなかった。その旨を相手の弁護士に主張したが、「生活費に当てていたお金は共有財産として扱われる」と押し切られてしまう。カンタに二千万円を送金する前であれば、半分を取られてももう少し手元にお金が残ったはず。私は唇を噛んで書面に応じた。可愛い息子と生まれてくる孫のためならば、仕方ない。今は働ける状態ではなく、母の介護が最優先だった。お金は、また働いて貯めればいい。

離婚の手続きが進む間も、母の容態は一進一退を繰り返す。そんな中、元同僚たちが頻繁に連絡をくれた。仕事の相談という名目だったが、本当は私の様子を案じてくれているのだとすぐに気づいた。退職した私を、職場の誰もが忘れずにいてくれたのだ。介護と離婚手続きで疲弊していた私にとって、後輩や上司からの相談電話は唯一気が紛れる時間だった。

ある日、後輩が電話口で冗談めかしてこう言った。

「どうせ今でもみんなの相談を受けてるんだろ。君の指摘は的確だからな。いっそ、コンサル会社でも立ち上げたらどうだ?」

私はスマートフォンを握ったまま、少し考え込んだ。コンサル会社。私のようなものに、本当にそんなことができるのだろうか。母の介護が落ち着いたら、何かしら仕事を再開しなくてはならない。元の業界に戻るのが現実的だが、それも悪くないかもしれない。私はわずかに口元を緩めた。

カンタとの連絡は、完全に途絶えていた。はる奈の妊娠は順調なのだろうか。経過を考えれば、出産が近づいているはずだ。心配で何度かメッセージを送ったが、既読すらつかない時もある。ある日、思い切ってマンションに行ってみた。久しぶりに見上げる自分のマンションは、夕暮れの空にいつもと変わらぬ姿で立っていた。

エントランスを抜け、エレベーターで上の階へ向かう。見慣れた廊下を歩き、見慣れた扉の前に立つ。鞄から鍵を取り出す指先が、わずかに緊張で震えた。ドアを開けようとして、思わず首をかしげた。鍵が、入らないのだ。私はすぐその場で誠に電話を入れる。

「ああ、俺が鍵を落としたんだ。防犯上不安だから、管理会社に相談して交換してもらった。つーか、離婚が成立したのに家に入ろうとしたのか。不法侵入で訴えるぞ」

私が反論する間もなく、通話は一方的に切られた。それ以降、誠に電話をかけても出ることはなくなった。私はあの家族から、完全に切り離されたのだ。

そして、雨の降る夜、母が息を引き取った。窓を打つ雨音に、母の呼吸が次第に浅くなっていくのを、私はベッドの傍らで見守った。母の手を握り、額の汗を拭う。何度も「お母さん」と呼びかけたが、やがて反応が消えた。最後に一度、目を開けて私を見た母。私を見つめる瞳の奥に、深い愛情と何かを託す決意のような光が宿っていたように思う。それが、最後だった。

葬儀と告別式は、母が住んでいた家から近い小さな斎場で執り行った。母と親しかった近所の方々、デイサービスの職員、母の昔の知人たち。決して大規模ではなかったが、母の人柄を忍ぶ温かい弔問客が次々と訪れた。誠とカンタにはメッセージで母の死を伝えているが、返信はない。葬儀にも顔を見せる気配はなかった。

弔問客の波が落ち着いた頃、私は会場の隅に立つ一人の男性に気づく。遠目だが、年配の白髪が混じりの男性だということは分かる。礼服に身を包み、他の誰よりも長い時間、母の遺影を見つめていたのが印象的だった。挨拶をしようとしたが、別の弔問客に呼び止められて一瞬目を離してしまう。再び視線を戻した時には、男性の姿はもうそこにはなかった。母の知人だろうか。気にはなったが追いかける余力もなく、ひとまず記憶の隅に押しやって葬儀の片付けに戻った。

四十九日が終わった頃、私の元に一通の手紙が届いた。差出人は、誠側の代理人を名乗る人物。財産分与の手続きはもう終わったはず。その時に対応した弁護士とは異なる人物のようだ。何かと思い封を開けると、中身は離婚に伴う慰謝料の内容証明だった。

私は震える手で書類を開き、目を通す。慰謝料の請求理由は二つあった。一つ目は、私が家を空けて家庭を顧みなかったこと。二つ目は、カンタが幼少期の育児放棄により心に傷を負い、現在まで影響を受けていること。これらが家庭崩壊の原因となり、離婚に至ったと書面には記されていた。

私は書類を持ったまま、しばらく言葉を失う。確かに家を空けたが、それは介護のためだ。家のことは他の女がするからと実家に行くように促したのは誠である。それに、カンタの育児放棄など、私は一度としてしていない。むしろ、私は誠が一切手を出さない育児をずっと一人で背負ってきたつもりだ。

書面の末尾には、参考人として複数の名前が並んでいる。カンタの小学校時代のPTAで、誠と親しかった保護者の名前。誠がいい父親を装って取り入っていた相手だ。今は誠の友人として、誠の側に立った証言を提供している。弁護士は依頼主の話を信じ、参考人からの裏付けを取り、書面を整える。事実がどうであるかは、依頼主の主張する事実が全てなのだ。理不尽さに、涙が溢れた。

自分も弁護士を立てるべきだろうか。私はそう考えながら、手元の残高を確認しようと通帳を取り出す。カンタに二千万円を渡した後、財産分与で半分を持っていかれた。それでも残高は数百万円あるはずである。母の家での生活費と、これからのために最低限のお金は確保している。通帳の最新ページを開いて、私は固まった。残高には、数十万円しか残っていない。

おかしい。いくら何でも、この十倍は残っていたはずだ。震える指で通帳のページを遡る。カード決済の引き落としが、立て続けに記録されていた。今度はカードの決済履歴を確認する。高級ブランド店、レストラン、高級食材店、ホテル代。誠に渡している家族カードの履歴だった。離婚が成立した後でも、カードの解約手続きが完了するまでにはわずかな時間差がある。誠はその隙を狙って、私のカードを使い倒したのだ。家族カードは返して欲しいと、私は確かに伝えた。誠の言葉は、最初から守る気のない返事だったのだ。

私はもう一度誠に電話を入れる。しかし、出ない。カンタにもメッセージを送ったが、返信はなかった。その夜、私はマンションに向かう。しかし、彼らに会うことはできなかった。

何度かマンションに通った末、ようやく彼らの姿を見ることができた。私が物陰から様子を伺っていると、エントランスからカンタとはる奈が現れた。元気そうなのが救いだ。カンタは一目で分かる高級ブランドの服に身を包んでいる。はる奈は腕に、私の月収の数倍はする高級バッグを下げていた。楽しそうに笑い合う二人。けれど、何かがおかしい。

私が目を奪われたのは、妊婦であるはずのはる奈の体型だった。妊娠を知らされてからもう半年近くが経っている。出産が近いはずのはる奈のお腹は、全く膨らんでいなかった。十センチはありそうなヒールの靴を履き、体を冷やすほどの露出の高い服。とても妊婦の姿とは思えない。個人差はあるにしても、これはあまりに不自然だ。

そこに誠が続いてエントランスから出てきた。驚いたことに、彼の腕に、みなと紹介されたあの家政婦の女性が絡みついていた。二人の振る舞いは雇用主と従業員のそれではない。腕を組み、肩を寄せ合い、笑いながら互いを見つめ合う。それは恋人同士の振る舞いに他ならない。カンタがマンションの前に車を回してきた。誰もが知る高級車のメーカーロゴが、夕日に輝いている。はる奈が助手席に乗り込み、誠とみなが後部座席に身を寄せ合うようにして乗り込んだ。車のドアが閉まり、エンジン音が遠ざかっていく。

私はその場に立ち尽くし、走り去る車を見つめ続けた。はる奈は妊娠していなかったのだろうか。家を買ったというのも、嘘だったのか。そしてみなは、いつから誠と恋人同士だったのだろう。頭の中でいくつもの疑念がぶつかり合う。送金した二千万円は、家の頭金などではなく、彼らの遊興費に消えていったのではないか。カンタの高級ブランドの服も、はる奈のバッグも、私のお金で買われたものかもしれない。

どうやって帰ってきたのか、よく思い出せない。気がついた時、私は仏壇の前に座り込んでいた。線香の燃え尽きた灰が、静かに冷たく固まっている。母の遺影が、いつもと変わらぬ穏やかな表情で私を見下ろしていた。

「お母さん、私、どうすればいい?」

声に出した瞬間、堪えていた涙が一気に溢れる。何年もかけて、私は何かを失い続けてきた。誠の愛情も、カンタとの絆も、お金も。気づかないうちに、全てを奪われていた。残されたのは、空っぽの体と虚しさである。

「お母さん……迎えに来てよ」

そんな弱音が口から漏れた。母のそばに行けば、もう何も奪われない。涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、しばらく仏壇の前から動けなかった。

いや、だめだ。私は自分の頬を両手で叩いた。私を信じ、最後まで私の心配をしてくれた母に、こんな情けない姿を見せられない。深く息を吸い、立ち上がる。仏壇をせめて綺麗にしておこう。母を弔い続けることが、今の私にできる唯一のことだった。

仏壇の埃を拭い、線香立てを洗い、仏具を一つずつ磨いていく。その作業の中で、私はふと仏壇の下段にある小さな引き出しに目を留めた。仏壇にはいくつもの引き出しが備え付けられている。普段使う線香やロウソクの予備が入っているのは知っていたが、全ての引き出しを開けたことは、思えば一度もなかった。

「古い線香があれば、入れ替えなくては」

私は何気ない気持ちで、一つずつ引き出しを開けていった。最下段の重たい引き出しを引いた時、私の手が止まる。そこには仏具ではなく、書類や写真の束が納められていた。古い色褪せた写真が何枚か。母が若い頃の写真、私が幼い頃の写真、誰かのお祝いの記念写真。私は懐かしさに胸を熱くしながら、一枚ずつめくっていった。

その時、引き出しの奥に、もう一つの何かが目に入る。色褪せた古い封筒。それと、その下に置かれた真新しい木箱。私はまず封筒の方を取り出した。封筒は何年も前のものらしく、紙の角が黄色く変色している。中には写真が入っていた。五歳くらいの私と、もう少し年上の少年が二人並んで映っている。少年の顔に見覚えはないけれど、私はその少年が誰なのか、直感で分かった。私が五歳の時に別れた、一つ年上の兄。父に引き取られて、それ以来一度も会ったことのない私の兄だ。母は、兄のことをずっと思い続けていたのだろうか。

次に木箱を開ける。中にはいくつかの書類と、新しめの封筒。書類は法律用語が並ぶ難解な文面で、私はざっと目を通しただけでは内容を把握しきれない。封筒の表書きには、母の達筆な字で「さよ子へ」と記されている。封を切ろうとした時、指先がわずかに震えた。母が私のために、何かを残したのだろうか。答えは、この封筒の中にあるかもしれない。

封を破り、中身を取り出す。そこには一通の手紙のようなものが入っていた。母の見慣れた文字で、丁寧な文字が綴られている。私は便箋を広げ、最後の一行を読む。そして、その内容に、私は息を止めた。

「え……」

二度、三度、同じ箇所を読み返した。だが、書かれていることは変わらない。母が私に宛てて残した言葉が、そこにはあった。私が全く知らなかったことが、記されていた。手紙の内容に従い、木箱の中を確認する。先ほどの書類の中に、ある場所の連絡先が入っていた。私はそれを手に取り、手紙と書類を見比べた。母が私のために、長い時間をかけて準備してくれていたもの。それが、目の前に並んでいた。

涙が頬を伝ったが、それは先ほどまでの絶望の涙とは全く違う種類のものだった。もう手は震えていない。気づくと、私は仏壇の前で背筋を伸ばしていた。両手で封筒と木箱を抱きしめ、母の遺影を見上げる。母は、いつもの穏やかな表情で私を見下ろしていた。

「お母さん、ここまで私のことを思ってくれていたのに……すぐに気づかなくて、ごめんなさい」

二十六年間、私は虐げられ続けてきた。それは、私自身の弱さの結果でもある。声を上げず、抵抗もせず、ただ耐えることを選んできたのは、他ならぬ私だ。けれど、ここから先は違う。泣き寝入りは、母に対する裏切りになる。母が残してくれたものを、無駄にすることは絶対にできない。私は母の遺影を見据えた。

「誠。あなたには、相当な代償を払ってもらうから」

声に出して、私は誓った。カンタも、はる奈も、みなも。私を踏みつけにしてきた全ての者に、私は答える義務がある。母のためにも、母が残してくれたものを使い切る義務がある。絶対に許さない。その決意が、心の奥で固く結晶した。

母の木箱を見つけてから、三ヶ月が経過した。仏壇の前で誓を立てたあの夜から、私の生活は内側から確実に動き始めていた。木箱の中に入っていた手紙、書類、そして連絡先。それらが私の手元にある以上、もう絶望に沈み続けている時間ではない。

この間、誠の弁護士を名乗る人物から慰謝料請求の書面が相次いで届いていた。最初の内容証明から始まり、催告書と形を変えながら、毎月のように郵便受けに投げ込まれた。手紙に同封された請求金額は、私の手元に残された貯金額をはるかに上回っている。

「調停を希望する」

それが、私が誠の側に出した回答だ。その回答に対して、誠は私のスマートフォンに直接メッセージを送ってきた。

「ビビって時間稼ぎか。相変わらず無能だな」

その文面を画面に映したまま、私はわずかに口角を上げた。誠は、私が弁護士を立てられるとは思っていない。当然だろう。誠とカンタたち四人が、私のお金を根こそぎ吸い尽くしたのだから。家族カードの使い倒し、財産分与で半分、そしてカンタへの二千万円。私の手元には、本来であれば弁護士を立てるための余力など残されていないはずだ。それでも、私は弁護士を立てた。五十代半ば、白髪が混じった落ち着いた風貌の男性。江藤弁護士だ。

この三ヶ月間、私は彼と何度も打ち合わせを重ねた。書類を読み込み、誠の主張を一つ一つ精査し、反論の手筋を組み立てる。一人ではとても抱えきれない量の情報を、江藤弁護士は淡々と整理し、私に説明してくれた。かつて三十年間、営業の現場に立ち続けてきた経験が、こうした打ち合わせの場では役に立っていた。書類の数字、契約の条文、法的な論点。それらを私は自分の頭で噛み砕き、理解し、納得した上で、江藤弁護士に意見を返す。

私が弁護士を立てたという連絡が誠の元に届いた時、彼はさぞ驚いたことだろう。

「貧乏人が無理するな。さっさと金払って楽になれ。分割で考えてやってもいいぞ」

送られてくる辛辣なメッセージに、私は一通も返さなかった。彼が次にどう動くのか、静観する立場に回っていた。

そして、三ヶ月の日程調整の末、ようやくこの日が訪れた。調停の場所は、私の家と誠の住むマンションの中間地点にあるレンタル会議室の一室。外装は地味な雑居ビルの三階。中に入ると、白い壁とグレーのカーペット。簡素なテーブルと折りたたみ椅子が並ぶ、実用的な空間が広がっていた。窓からは午後の柔らかい光が差し込み、テーブルの上にいくつもの細い影を作っている。

私と江藤弁護士は、約束の時刻の三十分前に到着していた。江藤弁護士はグレーのスーツに紺色のネクタイ。机に書類を整然と並べる仕草には、長年の経験を踏んできた者の落ち着きが感じられた。テーブルの向かい側にある誠たちの席にも、ペットボトルの水を一本ずつ用意しておく。江藤弁護士の手元には、分厚いファイルが二冊置かれていた。ファイルの背表紙には「岩崎誠関連資料」「中島みな関連資料」と書かれている。

約束の時刻が来ても、誠たちは現れなかった。十分が過ぎ、十五分が過ぎ、二十分が過ぎた頃、ドアが開く。誠とカンタの二人が入ってきた。誠はスマートフォンを耳に当てたまま、私に視線を寄越しもせずに椅子に腰を下ろす。カンタも無言で椅子を引き、誠の隣に座った。遅刻したことへの謝罪は、一切ない。

「はる奈さんとみなさんは、彼女たちにも来てもらうように伝えたはずだけど。弁護士さんも同席されるんじゃなかったの?」

「後から来る。みんな、お前みたいに暇じゃないんだ」

吐き捨てるような物言いに、私は表情を変えなかった。江藤弁護士もまた、感情を見せずに書類のページをめくっている。

「そう。私も、後から来てもらう人がいるから、そのつもりでね」

誠の眉が一瞬、ピクリと動いた。後から来る人の存在を、私は意図的に匂わせた。具体的に誰が来るのかは伏せたまま。誠の中でその一言が、ささやかな不安として作用してくれれば、それで十分だった。

調停を始めようとした矢先、誠が突然椅子から身を乗り出した。スーツの内ポケットから取り出した一通の封筒を、テーブルの上に叩きつけるように置く。封筒の表には、見覚えのある不動産管理会社の社名が印刷されていた。

「お前、これ、なんだよ。お前の仕業か。どうにかしろ」

封筒の中は、管理会社から発送された「契約終了及び退去状況確認」の通知だった。私はその書類のことを、すでに承知している。江藤弁護士に依頼し、必要な手続きを進めてもらった結果として届いたものだ。

「仕業って。契約者だった母が亡くなったんだから、当然の手続きでしょ」

「俺たちはまだ住んでる。これは違法だ」

声を荒げる誠に、私は表情を崩さずに答える。

「家答える。

「家賃も払っていないのに? あのマンションの家賃は、二十六年間ずっと私が支払ってきたわ。しかももう離婚して、私はあの家を出されている。あなたたちが住み続ける法的な根拠は、どこにあるの?」

誠の顔色がわずかに変わった。ここで江藤弁護士が、落ち着いた声で口を開く。

「誠さんは誤解されているようですが、現在この物件の賃貸借契約上の権利を有しているのは、さよ子さん側です。誠さんたちは契約名義人ではありません」

書類のページをめくりながら、江藤弁護士は淡々と説明を続けた。誠は何か反論しようとしたが、書類の数字と名義人の欄を示されると、口を半開きにしたまま固まった。

「さらに、契約者であった三枝様はすでにご逝去されています。管理会社としては、現在の居住状況を整理する必要がある。今回の通知は、極めて一般的な手続きに過ぎません」

「はあ? 俺は二十六年住んでるんだぞ」

逆切れ気味に声を張り上げた誠に、江藤弁護士は冷静に対応する。

「居住年数と契約上の権利は別問題です。なお、これまでの家賃についても、さよ子さん側が全額を負担されてきた事実は、口座記録から確認済みです。離婚も成立しておりますので、さよ子さんに誠さんたちの居住を維持する法的義務はありません」

私はテーブルの上で組んだ指を緩め、誠を正面から見据えた。

「そういえば、あなた。前に私に『不法侵入で訴える』って言ってたわよね」

誠の顔が、わずかに引きつる。

「実際のところ、法的権限が確認できないのは誠さんたちの方なのです」

その時、それまで黙っていたカンタが、ようやく事態を飲み込んだような顔で誠を見る。

「え、どういうこと? 俺たち、あのマンションに住めなくなるの?」

「黙ってろ」

苛立ち混じりにカンタを睨んだ誠は、唇を噛んで黙り込んだ。長年「実力主義」「俺は優秀」と豪語してきた男が、目の前の書類一枚に追い詰められていく。その姿を、私は感情を交えずに見つめていた。

そこに、ドアが開く音がした。はる奈とみなが、揃って会議室に入ってきた。二人とも、平日の昼間とは思えない派手な装いだ。はる奈は花柄のミニワンピース。みなはタイトなボディスーツに高いヒール。手にはそれぞれ、私が見たこともないブランドの紙袋を下げている。袋から漂う甘い香水の匂いが、会議室の事務的な空気の中に不釣り合いに広がった。

「遅れてごめんね。今日発売の新作スイーツの店に並んでたら、遅くなっちゃった。で、どこまで話進んだ? お金、ちゃんともらえそう?」

はる奈のあっけらかんとした物言いに、誠の顔がさらに歪む。調停の場であるという認識が、彼女たちには微塵もないようだ。二千万円を不当に引き出した相手の前で、新作スイーツの話を口にできる神経。私の中では、その鈍感さもまた四人の本性の一つの証拠として刻まれていく。

みなは誠の隣にパイプ椅子をわざわざ運んできて、その上にちょこんと腰を下ろす。当然のような所作で、誠の腕に自分の腕を絡め、肩を寄せた。私の心は、揺るぎはしなかった。マンションの前で二人の姿を目撃した日、私はすでにあの絶望を一度通り抜けている。三ヶ月かけて、私の中で全ては整理されていた。今ここで腕を絡ませる二人の姿は、私にとってもはや驚きの対象ではない。

そして、二人の後ろから見知らぬ男性が一人入ってきた。はる奈たちと同じ系統の派手なジャケットを着ている。強めの香水の匂いが、彼の周りに漂っていた。

「この方は?」

「うん。弁護士のタツヤ。私たちの友達。今、うちらの弁護してくれてるんだ」

「よろしくお願いします。自分、全然ロースターなんで」

軽い口調で、タツヤと呼ばれた男は私たちに笑顔を向けた。手に持っているのは、バインダー一冊だけ。弁護士というには、あまりにも軽すぎる立ち居振る舞いだ。財産分与の時に対応してくれた弁護士さんはどこへ行ったのか。そのやり取りを見ていた江藤弁護士の眉が、わずかに動く。彼はタツヤに対して、形式的な会釈で応じた。

「分かりました」

短く答え、江藤弁護士は再び自分の書類に視線を戻す。表情こそ崩さなかったが、私には分かった。江藤弁護士は、目の前の男に何らかの違和感を抱いていると。

私はテーブルの向かい側に座るはる奈に、穏やかな声で話しかけた。

「はる奈さん、体調はどう? 赤ちゃんは、今どうしてるの?」

「ああ、子供なら、今私の実家に預けてますから」

「そう。全然合わせてくれないから、寂しかったわ。二千万円も出させてもらったんだから、せめて写真を見せてもらえないかしら」

はる奈とカンタの視線が、一瞬交差する。何かを確認し合っているようだ。はる奈はわざとらしく長い間を取った後、スマートフォンを取り出す。画面をスクロールし、一枚の写真を私に向かって差し出してきた。液晶の中には、丸い頬をした赤ん坊がぬいぐるみに囲まれて笑っている画像が映っている。

「可愛いわね。男の子? 女の子?」

「え、見たら分かるじゃないですか」

はる奈が困ったような物言いをする。はる奈の視線が、ほんの一瞬カンタの方へ流れた。そこに、確認を求めるような色が確かに混ざっている。私は表情を変えず、もう一度同じ質問を繰り返した。

「それで、男の子、女の子? 赤ちゃんって、よく見分けがつかなくて」

「お、女の子です」

「あら、そう。女の子だったの? 今の人は、女の子にも男の子用のブランドの洋服を着せたりするのね。可愛いわ」

赤ん坊が着ていた洋服は、明らかに男児用の青いロンパースだった。胸元には、小さな新幹線のワッペンが縫い付けられている。はる奈の顔が引きつり、カンタもまた目を泳がせていた。その様子を、隣のタツヤは何が起きているのか分からないという顔で見つめている。私の隣で、江藤弁護士が自分のスマートフォンを取り出す。はる奈のスマートフォンの画面に向かってカメラを構え、無言でシャッターを押す。はる奈が慌てて顔を上げた頃には、江藤弁護士はすでにスマートフォンを操作し終えていた。

「ご想像の通りです。こちらの画像は、検索すれば一分で出てくるフリー素材サイトに掲載されている画像です」

江藤弁護士は、画面を私たちに向けて見せた。そこには、はる奈が今見せてきた画像と全く同じ写真が無料素材として掲載されているサイトの画面が映っていた。

「ちなみに、以前あなたがさよ子さんに送られたエコー写真も、母子手帳の表紙の写真も、同様に借用画像であることを確認済みです。名前の部分は、画像加工アプリで合成されたものですね」

会議室の空気が、凍りついた。

「はる奈さん、カンタ。説明してもらえるかしら? 子供は、本当はいないのね」

「いや、その、違うんだ」「それは……」

カンタとはる奈が、それぞれ言い訳を口にしようとする。私はそれを遮るように、もう一つの書類をテーブルに置いた。

「家を買ったという話も、嘘でしょ」

私が前に置いた書類は、カンタの名義で行われた不動産取得の有無を確認するための調査資料だ。江藤弁護士の手配で取り寄せたもので、カンタの名で登録された不動産は、現時点で一件も存在していないことが明記されている。

「二千万円。私はあなたたちのために、あの金額を出した。家のためにお金だと聞いて、生まれてくる孫のためならと思って。それなのに、子供もいない。家も買っていない。あの二千万円は、どこへ消えたのかしら」

カンタの顔から血の気が引いていく。はる奈は、私の視線から逃れようと目をテーブルに落とした。そして、私は江藤弁護士に目配せをした。彼が別のファイルから、新しい書類の束を取り出す。それは私名義のクレジットカードの利用明細だ。家族カードを通じて、誠が使い倒した記録の数々。明細の数字を、私は順番に指でなぞった。高級レストランの代金、ブランド品の購入、ホテルの宿泊費、海外旅行のチケット代。他にも、家具や高級食材などの購入履歴が並ぶ。離婚成立後、カードが解約されるまでのわずかな期間に、私の口座から数百万円分が引き落とされていた。

誠の顔が引きつる。みなは誠の隣で、体を固くしている。はる奈とカンタは目を伏せたまま、動けない。タツヤは、おどおどと視線を泳がせている。

「家族カードは返して欲しいと、私は確かに伝えたわよね。あなたは、『分かった、分かった』と答えたけれど。最初から、守る気はなかったんでしょ」

誠の口は、閉じたままだった。部屋の中央にある時計の秒針が、規則的な音を刻んでいる。窓から差し込む光の角度がわずかに傾いていた。調停が始まってから、もう一時間以上が過ぎている。それなのに、私たちはまだ本題の入り口に立ったばかりだった。

慰謝料の請求、財産分与の見直し、家族カードで消えた金額の返還、二千万円の取り戻し。これらを一つずつ、私は四人に向き合っていく。今日この日のために、三ヶ月をかけて準備してきたものを全て使い切る覚悟だった。

弁護士が書類を整え直す音が、会議室に響いた。私はテーブルの上で組んだ手を解き、湯呑みのお茶に口をつける。香ばしいほうじ茶の香りが、私の鼻腔をふっと通り抜けていく。母が入れてくれた、あのほうじ茶の香りに似ていた。私の中で、母の言葉が再び響いていた。

「あなたの中に答えはある。お母さんは信じている。困った時は、自分の中の声を聞きなさい」

母が残してくれた木箱の中身は、私に自分の中の声を取り戻させてくれた。今、私の中の声は、はっきりと答えを告げている。

「ここから先は、私が長年沈黙してきた分の声を、全て返していく時間だ」

「調停は、まだ始まったばかりよ」

穏やかな声で告げる。誠の額に、汗が一筋流れ落ちた。

会議室の空気は、もう完全に変わっていた。誠はおそらく、今日の調停を甘く見ていたのだろう。テーブルに並べられていく書類や、私の口から繰り出される問いに対し、誠は何一つ反論できないでいた。それはすなわち、誠たちがあらゆる場面を想定しての準備をしていない証拠でもある。弁護士を名乗るタツヤという男に至っては、「ロースター」と豪語したくせに、ここまで一言も発言らしい発言をしていなかった。バインダーは一度も開かれず、彼の隣のみなが誠と腕を絡めていた時から、視線を泳がせるばかりだ。

「そちらから特に説明がないようですので、続けて私からお話しします」

江藤弁護士は、新しい封筒をテーブルの上に置いた。中から取り出されたのは、数枚の写真である。写真には、みなと寄り添うようにして町を歩く誠の姿が映っていた。肩を抱き、腕を絡め、ホテルへ吸い込まれていく後ろ姿。別の写真では、レストランの個室で盃を交わす二人の正面図が、はっきりと捉えられている。明らかに、家政婦と雇用主の関係ではない。

「みなさん、あなたの恋人だったのね」

「待てよ。みなは、うちの家政婦として来てくれたんだぞ。彼女と交際を始めたのは、お前と離婚した後だ。不貞なんかじゃない」

声を張り上げる誠だが、江藤弁護士は絵に描いたように返さず、新しい写真を次々とテーブルに重ねていく。

「写真の撮影日時をご確認ください。こちらの写真は、お二人がご結婚されていた頃のものです」

写真の隅には、撮影日時を示す印が刻まれていた。日時は明らかに、私と誠の婚姻関係が続いていた時期。中には、誠が「カンタと会う」と言って家に戻らなかった日付と一致するものもあった。

「みなさんが家政婦として紹介された時点で、お二人の交際はすでに始まっていました。さらに付け加えると、みなさんとはる奈さんは旧知の友人関係にあります。みなさんを誠さんに紹介したのは、はる奈さん御本人ですね。四人で計画的に動かれていたことは、複数の証拠から確認済みです」

誠の顔色が、紙のように白くなっていた。カンタは両手で頭を抱え、はる奈は爪を噛みながら何かをつぶやき続けている。みなは、誠から一歩椅子ごと距離を取った。私の正面で、四人それぞれの自己防衛が、音を立てて崩れていく。

「ち、違う。さよ子が悪いんだ。介護ばかりで、家に帰らないから」

「それは不貞行為をしていい理由にはなりません」

即答する江藤弁護士の声色には、一切の感情がこもっていない。書類をただ証拠として淡々と並べていく。その平坦な口調が、却って誠を追い詰めていた。

「また、そちらが慰謝料請求の理由とされていたカンタさんへの育児放棄ですが、これも立証されません。当時の学校関係者複数名に確認を取っております」

カンタが、顔を覆っていた手の指の隙間から私を見る。私は、表情を返さなかった。

「カンタさんの学費、塾の月謝、習い事の費用についても、全てさよ子さんの口座から支払われていた事実が記録に残っています」

カンタの舌打ちが聞こえる。その時、みなとタツヤの方が騒ぎ始めた。

「ちょっと、立や、爪が甘いんじゃない? 私たちの弁護士でしょ。なんとかしてよ」

「知らねえよ。お前たちこそ、ちゃんと本当のこと言え。聞いてない話ばっかりじゃねえか」

言い争いを始めた二人の声は、私たちの方にまで筒抜けだった。調停の場における弁護士同士の応酬ならぬ、単なる内輪揉めだ。タツヤの口調からは、もはや「ロースター」と豪語した時の余裕は、かけらも感じられなかった。江藤弁護士はその喧嘩を一瞥もしない。私もまた、彼らに視線を向けることはなかった。

江藤弁護士が咳払いをして、話を進める。

「あなたたちは、計画的にさよ子さんからお金を奪おうとしましたね」

そう告げて、彼はテーブルの上にICレコーダーを置いた。小さな黒い機械の上で、再生ボタンが光る。江藤弁護士の指がそのボタンを押すと、ざわめいた店内の音が広がった。グラスの触れ合う音、笑い声、料理を運ぶ足音。やがて、その背景の中に、聞き覚えのある声が混ざっていく。

『さよ子は無能で鈍感だから、何も気づいてない。もっと金を取れるぞ』

『まあ、ばあちゃんに金がなかったのは残念だけどな。でも、ばあちゃんが倒れたおかげで、母さんを家から追い出すことができたから、結果オーライか』

『はる奈ちゃんは、引き続き妊娠中ってことで。あいつ、孫のためなら金出すぞ』

『カンタが二千万ゲットしたのは大きかったよね。これでみんなで旅行しようよ』

『私、行きたいところあるの? エステ、ホテルなんだけど』

『よし、今度みんなで行こう。結局、賢い奴が勝つんだよ』

会議室の中で、その音声を聞いている全員が動きを止める。誠の声、カンタの声、はる奈の声、みなの声。順番に流れてくる四人の会話には、私を貶める言葉が容赦なく並んでいた。それでも、心は揺れなかった。三ヶ月前の絶望の夜に、私はもう全てを覚悟している。ここで聞こえてくる言葉は、私の予想の範囲内に過ぎなかった。

レコーダーが停止すると、会議室には針が落ちる音さえ聞こえそうな沈黙が訪れた。

「こんな音声、どこで?」

言葉と同時に、誠がテーブルを強く叩く。その行動にも動じず、江藤弁護士は冷静に回答する。

「あなたに不信感を抱いていたのは、さよ子さんのお母様です」

誠の顔から、汗が一筋流れ落ちた。

「お母様は生前、あなたを調査するよう継続的に興信所に依頼されていました。日々の行動記録、不貞行為の証拠、ご家族内での発言記録。全ての証拠が、ここに揃っております」

「なんだって……」

誠が驚くのも無理はない。私自身も、初めてそれを知った時には、心の底から驚いたのだから。あの木箱の中には、江藤弁護士の連絡先と、もう一つの連絡先が記されていた。意を決して江藤弁護士の事務所を尋ねた時、彼は私に向かってこう言った。

「さよ子さん。お待ちしていました」

そして、事務所の応接室で向かい合った彼は、母との関係を順を追って話してくれた。江藤弁護士は、私の父の知り合いだったという。当時はまだ駆け出しの若手だった江藤弁護士は、父の離婚に立ち会いはしなかったが、その後も父や母と細かな繋がりを保ち続けていたらしい。母は若い頃から、「いざという時のために頼れる法律家を持つことの大切さ」を肌で知っていたのだろう。

母が誠に違和感を覚え、江藤弁護士に相談したのは、私と誠の結婚生活が始まって数年経った頃だったという。最初はほんの些細な相談から始まった。「夫の振る舞いが少しおかしい」「娘が苦労しているように見える」「何かあった時のために」と。やがて江藤弁護士は、信頼できる興信所を母に紹介した。それ以来、母は江藤弁護士と興信所を通じて、長年にわたって誠の素行調査を続けていた。私が知らないところで、母は私を守るために、ずっと準備を重ねていたのだ。

調査の中で、誠の不貞は最初の数年で既に確認されていたという。母はそれを私に告げなかった。告げれば、私が苦しむだけだと判断したのだろう。代わりに母は、証拠を積み上げ続けた。誠の女性関係、職場での不正、カンタの養育費の流れ、家計の全て。いつの日か私が必要とする時のために、母は記録に残し続けていた。

そして、四人の謀略が始まった時、母はすぐにそれに気づいた。カンタとはる奈の入籍前、誠とみなの交際開始。四人で集まって計画を練る飲み会の数々。全てが、興信所の継続調査の中で記録されていった。母は、途中から自分の最期を悟っていたのだろう。数年は自分が死んだ後の私のために、書類を整え、弁護士との連携を強め、興信所への依頼を継続していた。私が母の家で介護していた時間、母の意識の奥底では、いつも私のこれからのことが考えられていたのだ。その全てが、今この会議室で形となって、誠たちの目の前に並べられている。

「これらを踏まえまして、慰謝料を支払うのは、誠さん側であると思われますが」

江藤弁護士は、全ての書類をテーブルの上に整然と並べ直した。

「な、何なんだよ。でも、俺はみなと不貞なんかしてない。慰謝料は払わない。みなと付き合ったのは離婚後だ。誓って言えるぞ」

誠が声を張り上げる。その様子に対して、江藤弁護士はもう一つの封筒を取り出した。中身は、これまでとは別の写真だ。一枚、また一枚と並べられていく写真には、みなとは違う女性たちと共にいる誠の姿が捉えられていた。ホテルの前で別の女性と腕を組む誠。バーのカウンターで、また別の女性の手を握る誠。その隣の写真では、さらに別の女性が誠の肩にもたれかかっている。

「何これ? 誰?」

声をあげたのは、みなだった。椅子の上で背筋を起こし、写真の上に身を乗り出している。化粧の濃い顔に浮かんでいるのは、誠への愛情ではなく、自分が利用されていた可能性に対する怒りと困惑だった。

「これは、お前と会う前のだよ」

「それでは、やはりさよ子さんとの婚姻中に、複数の女性と不貞行為を行っていたということでよろしいでしょうか?」

「う、うるさい。どういうことよ?」

みなは誠の襟元を掴もうとする。誠はみなの手を払いのけながら、必死の弁解を試みている。カンタとはる奈はオロオロと二人の修羅場を見つめ、タツヤは完全に椅子に沈み込んで存在感を消していた。私と江藤弁護士は、その光景を黙って眺めた。

「お二人のことは、お二人で話してください。こちらは、こちらの手続きをするまでです」

その言葉に、ようやく我に返ったみなが、誠を睨んだまま椅子に座り直す。誠はヨレたシャツを整えながら、額の汗を手の甲で拭う。四人の結束は、もうとっくに崩壊していた。

江藤弁護士は、四人の修羅場を完全に無視して、次の書類を取り出した。

「誠さん。あなたには、別件で訴えが上がっています」

誠の眉が、ピクリと跳ねた。その言葉に、誠の表情から、残っていたわずかな抵抗の色さえ消えていく。

「あなたの勤務先における不正経費の計上。女性社員への精神的嫌がらせ。業務時間中の不適切な行動。社内のシステムログ。経理部門の調査記録。複数の女性社員からの匿名の告発。書面で揃った証拠だけでも、ここに数十件ございます」

書類の束が、これまでとは別の山となってテーブルの上に置かれた。誠の不正経費の使い道は、私を最も驚かせたものの一つだ。高級レストラン、ブランド品、ホテル代。私の家族カードで使っていたものと同じ系統の品目が、会社の経費としても処理されていた。要は、誠は私からも会社からも、二重に金を引き出して遊んでいたのだ。

「また、社内で『次期社長は自分だ』と豪語することによる応募な圧力行為。これらが複数の社内告発と外部調査によって、すでに把握されています」

誠の顔から、最後の血の気が引いていく。

「特に問題視されているのが、自分は『ある人物の紹介で入社した』と主張することで、自身への批判を封じ込めようとされていたことです。紹介者の名前を口にされなかったのは、紹介者ご本人をご存知なかったためでしょう。虚偽の権威を傘に着た、悪質な行為であると判断されています」

「何を言っているんだ? 俺はあの会社の中で……」

声を張り上げようとした誠を、江藤弁護士は冷静に遮る。

「あなたのお勤め先であるMKR商事様からのご依頼で、こちらの件についても調査しております」

その瞬間、誠の口が完全に閉じた。私の頭の中で、母の言葉がふと蘇る。

「知り合いの会社が、人材を欲しがっているのよ。社長さんはあと数年で定年なんだけど、次期社長がまだ決まってないらしくてね」

誠が前の会社を辞めた時、母がそう言って今の会社を紹介してくれた。あの時の誠は、母の言葉の「次期社長がまだ決まっていない」という部分に飛びついた。自分こそがその座にふさわしい人材だと。母の紹介で入った会社で、誠は「次期社長は俺になる」と豪語するまでに増長していった。もしかしたら、母はそこまで計算していたのかもしれない。自尊心の強い誠の性格を見抜き、知り合いの会社へと誘い込み、増長させを出し、結果として誠自身を追い詰める。あくまで私の頭の中の仮説に過ぎない。それでも、母が残した一連の手筋を見ていると、単なる偶然の結果には思えなかった。誠ももちろん、母がそこまで考えていたことなど夢にも思わないだろう。転職に成功した途端、母の紹介であったことを忘れるような男だ。かつて「ぼろくて古い家に住んでいると」母を見下した男が、その母に嵌められているという事実に、誠は永遠に気づけないまま終わるのかもしれない。

「ちょっと待て。誰だ? あの会社で、俺に指図できる人間なんてほとんどいないぞ。社長だって、定年間際のジジイだ。俺を排除するメリットなんてないはずだ。誰が俺を裏切ったんだ。権限もないくせに、俺を調べやがって。訴えてやる」

自分の悪事を棚に上げて、誠は大声で喚いた。長年「俺は優秀」と豪語し続けてきた男が、追い詰められて見せる本性は、見苦しいものだった。自分の落度を顧みず、責任を他に転嫁し、悪意を周囲に撒き散らす。二十六年間、私はこの男と暮らしていたのかと思うと、不気味なさが込み上げる。

会議室の時計の秒針が、また一つ進んだ。窓から差し込む光の角度がさらに傾き、テーブルの上の書類に長い影を落としている。調停が始まってから、もう二時間近くが経過していた。

誠が喚き続ける中、その時、会議室のドアが控えめにノックされた。誠の言葉が途中でピタリと止まる。はる奈とカンタ、みなもタツヤも、揃ってドアの方を振り返る。四人の視線が、扉に集中した。私の傍らで、江藤弁護士がわずかに姿勢を正すのが見えた。あらかじめ予定されていた来訪者を、彼は落ち着きを持って待っている。私は、深く息を吸った。

扉がゆっくりと開いた。会議室に入ってきたのは、一人の男性だ。六十代半ばとおぼしき、白髪が混じった落ち着いた風貌。仕立ての良い濃紺のスーツに身をまとい、丁寧に磨かれた革靴の音が、カーペットの上に控えめに響く。彼は入室すると同時に、深く頭を下げた。江藤弁護士もまた、椅子から立ち上がって頭を下げる。

「忙しいところ、ありがとうございます」

私もそれに倣って、頭を下げた。ここにいる四人にとって、入ってきた男性は完全に未知の人物だった。紹介する間も与えず、追い詰められていた誠が椅子を蹴って立ち上がる。血走った目で、男性を睨みつけた。

「おい、誰だよ、おっさん。どこかで見た顔だな。会社の人間か。お前が俺を落とし入れたのか。俺の実績に嫉妬して嵌めたのか。ああ?」

声を荒げる誠を、男性は表情一つ変えずに眺めた。その視線には、相手を見定める冷たさと、もはや救いようがないと感じたものを送り出す諦めが共存している。みなが、誠の隣で声を張り上げた。

「誠がモテるから嫉妬してるんでしょ。ジジイの嫉妬ってもないわ」

その時、江藤弁護士が、これまでで最も低い声色で告げた。

「おやめになった方がいいと思いますよ」

明確な警告だ。それでも、誠は止まらない。追い詰められた者の、最後の暴走を続ける。

「もう面倒くせえ。お前みたいなジジイがいる会社でなんて働けねえよ。こっちから辞めてやる。俺を必要としてる会社は、たくさんあるんだからな」

誠は自分の悪事が会社に把握されている事実を、たった今知ったばかり。会社を辞めて、なかったことにしようとしているのだろう。これまでも、誠はそうやって都合の悪い事実から逃げ続けてきた。絶対に、そんなことはさせない。私が動こうとしたその時、男性が落ち着いた口調で名乗った。

「申し遅れました。私は、三枝と申します」

丁寧に頭を下げる。その瞬間、誠の眉が険しく寄せられた。聞き覚えのある名前だったのだろう。

「はい。彼は、MKR商事の現社長にあられます」

「なんだって……」

誠の膝が、ぐらりと崩れた。彼は両手を絨毯について、肩で大きく息をしている。顔から血の気が引き、唇は乾いて、言葉を作れずに。それまで「会社の重役」を自称し、「次期社長は俺だ」と豪語していた男が、かつて「定年間際のジジイ」と侮蔑したその当人を、自分の目の前にしている。誠の中で二十六年間積み上げてきた自尊心の塔が、たった今、音を立てて崩れた。

「君の調査を依頼したのは、私だよ。安心してほしい。権限を持っているからね」

三枝はそう告げて、テーブルの開いている椅子に腰を下ろした。「権限」という言葉が、誠の中で何度も反響していることだろう。先ほど、誠自身が喚いていた言葉が、今、自分自身に跳ね返ってきている。みなは、化粧の濃い顔から血の気が失せていた。この会議室に入ってきたことを、激しく後悔しているのだろう。

「会社を辞めると言っていたが、自主退職は認めませんよ。社内調査委員会を経て、すでに処分は決定している。本日は、通知書を交付します」

「そ、そんな……委員会だの……」

誠の頭には、諭旨解雇がよぎっているのだろう。自主退職と懲戒解雇では、その後の人生に天と地ほどの差が生じる。退職金もなく、再就職も極めて困難になる。懲戒解雇となれば、誠はこの先、まともな仕事には就けないだろう。

「そんなの、酷だ。異義だ。本当に訴えるぞ」

先ほどまで「権限がない」と喚いていた口で、今度は「権限乱用」と言い始める誠。自分の発言に責任を持つことが、彼にはできないのだ。江藤弁護士が、視線をタツヤの方へ向けた。

「タツヤさん。誠さんは『訴える』と言っていますが、あなたの見解をお聞かせください」

突然話を振られたタツヤの体が、椅子の上で大きく跳ねた。完全に蚊帳の外だと思っていたのだろう。彼の口は何度も開閉を繰り返し、何の言葉も出てこない。

「へ、へけ。えっと、なんていうか……ダメだと思います。はい」

タツヤの答えに、江藤弁護士はわずかに息を吐いた。

「やはり。そちらの方は、弁護士ではありませんね」

「は、俺、弁護士だし。法律詳しいし」

「では、登録番号を伺ってもいいですか?」

「ば、番号? やだよ。個人情報だ。教えないぞ」

本物の弁護士であれば、登録番号を聞かれて困るものなどいない。むしろ求められれば、即座に答えるべきものだ。タツヤはおそらく、登録番号というものが何なのかさえ知らないのだろう。

「ちなみに、弁護士資格のない者が代理人として法律業務を行った場合、問題になる可能性があります」

その瞬間、タツヤの顔から血の気が引いた。椅子を弾くほどの勢いで立ち上がり、バインダーを胸元に抱きしめる。

「お、俺は何も知らないからな。はる奈、みな。金は返すから、今回のことはなかったことにしろ。いいな」

そう言うと、タツヤは逃げるように会議室を飛び出していった。重い扉が、乱暴に閉まる音がその場に残される。やはり、彼は弁護士ではなかった。

誠が床の上で、タツヤの去った扉を呆然と見つめている。

「はる奈、みな。あいつ、弁護士じゃないのか?」

「だって、タツヤが『法律に詳しい』って言ってたから。書類の書き方も知ってるって。前の弁護士は料金が高いから頼みたくないって言ってたでしょ。タツヤは、弁護士事務所に相談するより安くやってくれるって言ってたんだよ」

「だからって……」

頭を抱える誠。四人も揃っていて、まともな弁護士一人用意できなかった。多少料金がかかっても、以前の弁護士に頼んでおいた方が賢明だっただろう。

「全て、君自身の行いが招いた結果だな」

三枝が、誠を見下ろしたまま冷たく言い放つ。誠は床にうずくまり、しばらく動かなかった。だが、突如、彼は三枝の足元に這うようにして近づいた。両手を床について、土下座の姿勢で頭を下げる。

「三枝社長。今までのことは、心から謝ります。ですから、僕を次期社長として育てていただけませんか?」

私は思わず耳を疑った。会社で不正を繰り返し、女性社員にハラスメントを行い、虚偽の権威で社内を脅し続けてきた。何より、たった今懲戒解雇を宣言されたばかりの男が、こともあろうに次期社長として育てて欲しいとは。

「ちょっと、もうやめなさい。あなたは彼の会社にどれだけ損害を与えたと思ってるの? それなのに次期社長になろうなんて、厚かましいにも程があるわよ」

誠が、土下座の姿勢のまま私を睨み上げる。

「うるさい。底辺のお前に何が分かる? お前みたいに能天気に働いてた人間と、俺は違うんだ。俺は、必要とされる人間なんだよ。社長になって、損害も全部穴埋めして、チャラにしてやる」

その自信は、一体どこから湧いてくるのだろうか。誠は本気だった。床に突っ伏したまま、三枝の靴にすがるようにして繰り返す。

「お願いします。お願いします」

三枝は、床に這う誠を眺めながら、表情を変えなかった。やがて、低い声で口を開く。

「残念だが、次期社長は、誰にするかもう決めているんだ」

誠の動きが、ぴたりと止まった。

「MKR商事の次期社長は」

会議室の全員が息を飲んだ。誰もが、三枝の次の言葉を待っている。

「さよ子だ。彼女を、後継者として指名する」

その瞬間、会議室の空気が凍りついた。驚いたのは、誠だけではない。カンタも、はる奈も、みなも。そして、私自身も、三枝の口から出た言葉をすぐには理解できないでいた。

私が、次期社長。頭の中でその言葉が何度も反響する。驚きではなく、長年抑え込まれてきた何かが、たった今、解き放たれた感覚がある。椅子に腰かけたままだった私は、背筋を伸ばし、顔を上げた。三ヶ月前、仏壇の前で誓を立てた私自身が、今その誓を果たすための席に座っている。

誠が、床から立ち上がり、声を張り上げた。

「どうして、こいつなんですか? こいつは、底辺の仕事しかできない無能ですよ。あなたの親族が次期社長になるなら納得できますが、こんな女が社長なんて、理解できません」

ひどい言われようだが、私は何も発しない。私は三枝と目を合わせた後、真正面から誠を見据えた。

「どうして君は、彼女を無能だと思うのかね」

冷静な、しかし鋭い眼差しだった。誠は、言葉が出てこない。彼は、私のことを何も知らないのだ。

「二十六年もの間、君はさよ子の何を見てきた? 彼女がどんな仕事をし、どれほどの実績を上げ、どれほどの人に信頼されてきたか。君は、一度でも調べたのかね。妻が稼ぐ金しか見てこなかった人間に、彼女を無能と断じる資格はない」

誠の顔が、見る見るうちに赤く染まっていく。

「私は、彼女の前職の上司や同僚にも話を聞いている。判断力、決断力、人を見る目、後輩を育てる懐の深さ。全てにおいて、評価は一致していたよ。何より、彼女は人のために動ける人格者だ。それは、会社を率いる者にとって、最も大切な資質だ」

「これなら、俺の方が……」

「君が会社のために流した汗は、何だ? 交際費の使い込み? 女性社員へのハラスメント? 虚偽の権威の振りかざし? これらが、会社を率いる者の資質だとでも?」

誠は、再び口を半開きにしたまま固まった。

「そして、彼女は誰よりも賢い母親に育てられた。人を見る目、誠実さ、忍耐強さ。全てを、母親から受け継いでいる。あの女なら、会社を任せられる」

「ですから、どうして無関係のさよ子なんですか? 誰でもいいんですか?」

「誰でもいいわけではないよ。なぜなら、彼女は」

三枝の声が、わずかに低くなる。会議室の全員が、息を止めた。

「私の妹だからな」

私は、その時の誠の顔を、しばらく忘れないだろう。人は驚きすぎると、ここまで無表情になれるものなのか。三枝の言葉が誠の脳に届くまでに、長い時間がかかっているようだ。

結婚した頃、生き別れの兄がいることは、確かに誠に話していた。しかし、誠はその話に一度も触れたことはない。私に兄がいた事実など、彼の中ではとうに忘れ去られていたのだろう。

私が三枝と再会したのは、江藤弁護士に連絡を取ってすぐのことだった。江藤弁護士はMKR商事の顧問弁護士も務めており、三枝とは長年の付き合いがある。ある日、江藤弁護士に紹介されて、私は三枝と数十年ぶりに対面した。そして初めて気づいたのだ。母の葬儀の日、会場の隅で母の遺影を見つめていたあの男性が、三枝だったということに。

「君の想像通り、私の親族だよ。ま、君に何を言われようと、私はさよ子を次期社長にしたいと思っていたんだがね」

その時、私の中でいくつもの伏線が一気に繋がっていった。知り合いがいると言って誠に紹介した会社。次期社長がまだ決まっていないという母の言葉。誠が侮蔑していた「定年間際のジジイ」。全てが、一つの絵として私の中に像を結ぶ。

「誠。あなたは私から全てを奪ったつもりだったんでしょうけど、そんなことはなかったの。母は、あなたに全てを奪われないよう、私だけの財産をちゃんと残してくれたから。残念だったわね」

誠の顔から、最後の希望の光が消えた。

「母さん、俺は……母さんの息子だよね」

カンタもまた、誠の隣で目を見開いたまま動けないでいる。

「さあ。私に、息子なんていたかしら。確かに、二千万円を奪われたような気はするけど」

微笑みながら告げると、カンタとはる奈が揃って小さくなる。その時、視界の端で、みなが動いた。こっそり出口へ向かおうとしている。

「みなさん」

「あ、はい」

二人と足を止めたみなに、私は穏やかに告げた。

「後で、江藤先生から慰謝料のお話があるから、よろしくね」

みなは、その場に崩れ落ちた。

誠が、最後の賭けとして、土下座の体勢のまま私の方へ向き直る。

「さよ子。俺には、やっぱりお前しかいない。愛してる。だから、やっぱり直そう」

その言葉は、私のどこにも響かなかった。二十六年間、私が一度も聞かなかった「愛している」という言葉。今、このタイミングで吐き出された。それは、ただの乾いた音となって、会議室の空気に溶けた。

「誠。最低のクズでいてくれて、ありがとう。おかげで、あなたを制裁することに、何のためらいも持たなくて済むわ」

私は、誠に向かってにっこりと微笑む。二十六年間、私は彼の前で何度も無理に笑顔を作ってきた。今、私の口元に浮かんだ微笑みは、その全てを清算する笑みだ。

「それじゃあ、江藤先生。あとはお願いします。兄と、少し話をしてきますね」

私と三枝は、江藤弁護士に頭を下げて、会議室を後にした。扉の向こうから、誠の悲鳴のような嘆きが聞こえてきたが、私はもう振り返らなかった。

ビルの屋上に出ると、夕日が町を赤く染めていた。風は柔らかく、湿気を含んだ夏の名残りを運んでいる。私と三枝は、屋上のベンチに並んで腰かけた。会議室で繰り広げられたあの応酬が、今となっては別世界の出来事のように感じられる。長く息を吐くと、頭の中に詰まっていた緊張が解けていく。ようやく、私は自分自身を取り戻したのかもしれない。

「それにしても、びっくりした。私を次期社長にだなんて」

「母さんから、ずっと君の話を聞いていたんだ。君以外に、責任者は考えられなかった」

三枝は、母と密に連絡を取り合っていたという。再会した日、私は応接室で何時間も彼の話を聞いた。母が三枝に宛てて書いた手紙。母が三枝に語った私の話。三枝が母を見舞いに訪れた日々のこと。母と三枝は、私の知らないところで、深い絆を結び続けていた。

そもそも、父と母が離婚したのには、深い事情があったらしい。父の時代のMKR商事は、倒産の波に飲まれる寸前だった。会社を守るために、父は出資者の令嬢と結婚するしかなかったという。母とはまだ婚姻中だったが、会社のために離婚し、後継ぎのために三枝だけが父に引き取られた。相手の令嬢は、父より少し年上だったため、子供を産むことが難しかったのだ。母は、納得して離婚を受け入れた。その代わり、三枝との連絡を続けることは、約束として認めてもらっていた。

「育ててくれた母は、十年前に病気で亡くなった。その時、本当のお母さんに尽くしなさいと、私に告げたんだ。すぐに母さんに、介護の申し出をしたよ。でも母さんは、『さよ子が頑張ってるから』って、断った。君が、母さんの家に通い、やがて泊まり込みで介護をする日々の中で、母さんは君を誠の支配から徐々に引き離していったんだ」

私が母の家に通い、やがて泊まり込みで介護をする日々。それは、単なる介護ではなかったのかもしれない。母は、私を誠の支配から物理的に引き離すために、介護という形を使ってくれたのだ。

「父も、数年前に病気で亡くなったとは、三枝が教えてくれた。同時に、三枝がMKR商事の社長を継いだということも」

「母さんはね、本当に賢い人だよ」

「そうね。私は、まだまだ叶わないな」

そう言って、二人で立ち上がった。母が残してくれたもの。それは書類や財産だけではなかった。私を見守り続ける兄。頼れる弁護士。そして、「自分の中の声を聞きなさい」という最後の言葉。形のあるもの、形のないもの。その全てが、今の私を支えている。

「兄さん、ありがとう」

三枝は、ゆっくりと頷いた。夕日に染まったその横顔に、わずかな涙が見えた気がしたが、私はそれに触れなかった。夕日が、ビルの向こうへと沈んでいく。私たちは、その光が完全に消えるまで、屋上で並んで立ち続けた。

調停の日から数ヶ月が経った頃、事務的な処理が少しずつ片付いた段階で、江藤弁護士は私に四人の状況を報告してくれた。詳細な調査結果が記された書面と共に、江藤弁護士は応接室の向かいでこう語る。

「お知らせしておくべき情報がありまして、まとめてお伝えします」

語られた内容は、私が想像していた以上の落差を含んでいた。誠は懲戒解雇の処分後にMKR商事を去った後、同業他社への再就職を何度か試みた。しかし業界の人的は思いの他狭く、誠の不正の噂は、また間に同業者に共有されていた。履歴書を送っても面接に呼ばれず、人材紹介会社にも登録を断られる。かつて「会社の重役」と自称し、「次期社長は俺だ」と豪語していた男は、もはや一介の応募者としても扱われない立場にまで落ちていた。

慰謝料、財産分与の差し戻し、家族カードの不正使用分の返還。複数の法的請求が誠に対して並行して進められ、誠の資産はあっという間に底を突いた。マンションからの退去を余儀なくされ、借りられたのは古いアパートの一室だったらしい。そして、みなは誠の経済力が失われたと知った瞬間、姿を消した。みなは誠と暮らしていた間も、別の男性とも関係を続けていたという。調査によると、みなは誠の口座から相当額を引き出した後、その別の男性と連れ立ってどこかへ姿を消したそうだ。住民票の届け出も出ておらず、SNSも全て削除されていた。慰謝料の請求書も、宛先不明で戻ってきている。誠の手元には、みなが残していった派手な衣類と化粧品の山、そしてホテルやレストランの未払い請求書だけが残されていた。

カンタとはる奈の方も、無事ではなかった。カンタは、私のお金で買った高級車もブランド品も、全て差し押さえられた。家を建てる予定はそもそも存在しなかったため、マンションも追い出された二人は、はる奈の実家に身を寄せようとしたらしい。ところが、はる奈が金遣いの荒さを制御できなかったこと、嘘の妊娠で二千万円を引き出した事実。それらを知ったはる奈の両親は、娘の帰宅を拒んだ。結局、二人は郊外の安アパートに転がり込んだそうだ。カンタは誠の伝手で勤めていた小さな会社で、謹慎と降格の処分を受けた。はる奈は派遣の仕事を始めたものの、これまでの生活水準を保つことはできず、夫婦喧嘩が絶えない日々を送っているらしい。

達也については、無資格で法律業務を行ったとして、本物の弁護士から告発を受けたという。書面の作成だけでも数万円の報酬を得ていた件があり、これは弁護士法違反の対象となる行為だった。彼の今後も、決して明るいものにはならないだろ。

「以上が、現時点でこちらが把握している内容です」

書面を私に手渡しながら、江藤弁護士はわずかに眉を下げた。

「率直に申し上げて、ここまで予想通りに事が進んだ案件は、私の長いキャリアの中でも珍しい。それだけ、お母様の準備が完璧だったということです」

私は、書面を膝の上に置き、深く頭を下げた。母が残してくれた書類、興信所の調査記録、江藤弁護士という頼れる存在。その全てが整っていたからこそ、四人の自業自得はここまで綺麗に形をなしたのだ。応接室の窓の外で、外廊下の植木が秋の風に揺れていた。

それから、一年が経った。私は今、MKR商事の社長として、毎朝オフィスのデスクに向かっている。三枝は予定通り定年退職し、現在は相談役として、時折アドバイスをくれる立場に退いた。私は新しい立場に戸惑いながらも、長年積み上げてきた営業の現場感覚と、母から授かった人を見る目を頼りに、日々の判断を重ねている。

帰宅後は、母が暮らしていた家に帰る。リフォームを少し加えたが、母の仏壇は元の場所に、大切に据え置いている。帰宅すると、まずほうじ茶を入れて、仏壇の前で一日の出来事を母に報告するのが、私の新しい習慣になっていた。休日には、三枝と食事を共にすることが増えた。思春期以来、失われていた兄弟の時間を、私たちは少しずつ取り戻している。母の話、父の話、互いの仕事の話。語り尽くせないほどの言葉が、私たちの間にはまだ眠っていた。

ある夕方、母の遺影に手を合わせながら、私は呟いた。

「お母さん、私は今、本当に幸せよ」

仏壇の中の母の写真が、いつもの穏やかな笑顔で、私を見つめ返してくれていた。窓の外では、夕焼けが街を温かく包み始めている。明日もまた、新しい朝が来る。

Thumbnail