有給明け、出勤した瞬間、俺は自分のデスクの上に置かれた紙くずのようなものを見つめた。よく見ると、それはシュレッダーにかけられた俺の社員証だった。
「無能がやめて助かる。はい」
横井部長がニヤニヤしながら近づいてくる。何のことか分からずパソコンを開くと、受信ボックスに部長名義の退職メールが届いていた。俺が退職するという内容のメールだ。
「言っただろう。後悔させてやるって」
これは3年前に転職して働き始めた会社での話だ。食品や飲料の卸売り会社の情報システム部。俺を含めて社員はたった4人で、そのうち2人は派遣社員だった。売上重視の会社だから、営業部や企画部が花形扱いされ、俺たちのような部署は日陰の存在だった。
横井部長は名目上は情報システム部のトップだが、システム開発の経験がほぼない。元は営業部で、パソコン好きが高じて独学でシステムを学び、6年前に人手不足の情報システム部へ自ら異動してきた。そして元部長が転職で去ったあと、部長の椅子に座ったのだ。部長という立場だから、周りがフォローして何とか回していたらしい。
普段から部長は簡単な仕事しかせず、難しい業務は全部俺や派遣社員に押し付けてきた。社内システムに問題が起きれば、決まって俺のせいにされる。給料は安いし、責任ばかりがのしかかる職場だった。
1年半前、横井部長が大きな仕事を持ってきた。バラバラに運用されている社内システムを1本化するシステム開発だ。
「俺が中心となって進めるから、お前らはサポートな」
と意気込んだものの、いざ着手すると部長の技術力の低さが露呈した。結局、俺がメインとして開発を進めることになり、上層部との打ち合わせにも俺が出るようになった。部長の存在感はどんどん薄れていった。
半年かけてシステムは完成し、かなり好評だった。だが、評価されたのは俺だけ。横井部長は何も評価されなかった。それ以降、部長は俺を目の敵にし始めた。かなり複雑なシステムを開発し、俺が手柄を横取りしたと思い込んだらしい。
「あんまり調子に乗るんじゃねえぞ」
あの日の暗い目は今でも忘れられない。
部長からのいびりはエスカレートする一方だった。仕事を大量に押し付けられ、残業は当たり前。でも、そのおかげで少しだけ仕事の処理スピードは上がった。転職したい気持ちはあったが、忙しすぎて動く時間もなかった。
ある日、実家の母から突然電話がかかってきた。祖母が急に倒れて、危篤だという。
慌てて部長のところへ行き、午後から有給を取らせてほしいと申し出た。部長は雑誌を読みながら、面倒そうに言った。
「お前さ、社会人何年目だよ。仕事の方が大切に決まってるだろ」
「それはつまり、有給は認められないということですか?」
「はあ?俺はそんなこと言ってないけど。ただ、お前の仕事は誰も代わりにやってくれないぞ。責任は全部お前が追うことになるからな」
はっきりとは言わない卑怯な言い方だったが、今回は折れるわけにはいかない。俺は労働基準法の話を出して理詰めで攻めた。すると部長はイライラしながら、申請書類に乱暴なサインをして寄こした。
「勝手にしろ」
「お前、絶対に後悔させてやるからな」
恨みのこもった声を背中に受けながら、俺は急いで実家へ向かった。
それから5日後、祖母は亡くなった。俺は3日間の有給を取得した。横井部長にはメールで連絡したが、返信はなかった。
そして有給明け、俺を待っていたのは冒頭の光景だった。
「私は退職願いなんて作ってませんが」
そう言うと、部長は俺の肩を乱暴に掴み、部署の隅へ連れて行った。そして小声で脅してきた。
「お前がうちで働き続けるなら、お前が退職するまで徹底的にいびるからな。周りに訴えても無駄だぞ。部長の権限を使って揉み消してやる」
「俺さ、お前のこと大嫌いなんだよ。この前の有給の件で我慢の限界を迎えたってわけ。さっさと辞めた方がお前のためでもあるぞ」
そして、薄汚れた1円玉を俺の手に押し付けた。
「別れは1円な。自販機の横に落ちてたのを拾ったんだ」
手のひらに置かれた1円玉を見つめながら、俺はなぜか冷静だった。むしろ、すっと頭が冷えていくのが分かった。
「私も助かりました。退職の手続きが省けたので」
ニコッと笑って、部長に向き合う。
「その退職願、人事部に提出しておいてください。今ある仕事を片付けて、引き継ぎを終え次第、残りの有給を取得して会社をやめますから」
部長は呆気に取られていた。どうやら、俺がすんなり辞めるとは思っていなかったらしい。いびりたかっただけで、実際に辞められるとは考えていなかったのだろう。でも、ここまでコケにされて残る理由なんてなかった。
引き継ぎが終わったのは、それから半月後。最終出勤日、部長は俺に罵声を浴びせた。
「お前みたいな無能が会社を辞めたところで、どこも拾ってくれないぞ。転職する暇なんてなかっただろ。これからニート生活でもするのか?」
「ご心配どうも。では、失礼します」
軽く頭を下げて、部署の扉へ向かうと、部長は手に持っていた雑誌を投げつけてきた。避けると、何ごともなかったかのように扉を閉めた。その時、部長の顔がひきつっているのが見えた。
翌日、俺はいつもより遅く目を覚ました。のんびり身支度を整えていると、スマホが何度も光っている。着信が数十件。全て横井部長からだった。
しぶしぶ電話に出る。
「おい、一体何が起こってるんだ」
今まで聞いたことのない焦った声だ。
「何のごとでしょう?」
「機間システムが突然止まったんだ」
ああ、今日ですからね。
俺が開発した機間システムは、半年に1回更新が必要だった。更新は正しい順序で行わなければならないし、引き継ぎ資料に手順は書いてある。今日が更新日で作葉が必要だと部長には前もって伝えてあった。部長は会議の時、ずっと下向いて眠っていて話を聞いていなかったが、書類も渡してあった。部署のトップとして知らないでは済まされないだろう。
「とにかく今すぐ会社に来い。システムが止まって大変なごとになってるんだ」
「引き継ぎ資料に手順は書かれています。私がいなくても対応できるはずでは?」
「そ、それが見てもよく分からなくて」
他の派遺社員2人は体調不良で休みだと言う。実は、あの2人が今日休むごとを俺は知っていた。昨日の俺に対すろ言動を見て、何か思うごとがあったらしい。2人ともそろって休むとメールが送られてきていた。さらに、部長の元で働くのはもう無理だから派遺元に頼んで引き上げてもらうとも書いていた。2人とも俺と同じようこ会社を去る決意をしたのだ。
だが、横井部長には何も教えてやらない。自分勝手すぎる部長は、少しくらい痛い目を見る必要がある。
「すみません。俺もそちらへは行けません。有給を取得していますし、もう退職も決まってますからね」
「じゃあ退職は撤回だ。俺が上層部に行ってやるから」
「いいえ、結構です」
「なんでだよ。無職になってお前も困ってるだろ」
「いえ、すでに転職先は決まってますけど」
部長が絶句する。
「転職する前に、内定をもらってたんです。前勤めてた会社の元同僚に紹介してもらって」
前に勤めていた会社は社員同士の仲が良く、今も連絡を取り合っていた。元同僚に相談したところ、取引先を紹介してもらえることになった。トントン拍子に話が進み、有給に入る前に内定をもらっていたのだ。
「有給明けに退職願いを出そうとしてたんですけど、部長が先に色々やってくれたおかげで手間が省けました」
だから、あの時「私も助かりました」と言ったのだ。
「部長の方で対応できないなら、派遣社員たちが出勤してくるまで待つしかありませんね」
「待ってくれ。俺の話を聞いてくれ」
部長が追い詰められた様子で事情を明かす。上層部に一刻も早く対心しろと言われていて、システムが止まったままだと俺の責仁になるかもしれないと言う。
「あなたがどうなろうと知ったごとではありませね」
「ど、どうして」
「それを私に聞くんです?私が転職を決意したのはあなたのせいですよ。私を無能だと馬鹿にした上、仕事を押し付けてきて、そんな上司嫌いに決まってるじゃないですか」
俺は今までの鬱憤を全てぶちまけた。
「嫌いな上司のために私が何かしてあげるごとはありませ。そこまでお人好しじゃないので。あなたが責仁を追及されて何かしらの罰を受けても構いませ。むしろ、そのくらいしないとあなたは反省しないでしょう」
「お、俺が悪かった。反省してる。だから助けてくれ」
「お断りです。では、さようなら」
部長が何か叫んでいたが、容赦なく電話を切り、着信拒否に設定した。今日は転職先に挨拶しに行く日だ。横井部長にかまっている暇はなかった。
その後のことは、元部署の同僚から聞いた話だ。横井部長は責仁を追及され、上層部から厳しい叱責を受けた。さらに、派遣社員たちが横井部長の普段の言動が原因で業務の続行を拒否すると派遺元に報告。そんぁ上が上層部に伝わり、部長は再び呼び出され、再び注意を受けたそうだ。
周りから冷たい目で見られるようになった部長は、部署での居場所を失った。ほどなくして派遣社員が辞め、会社は急いで補充者を募ったが、給料が低くて誰も来ない。情報システム部は壊滅状態だという。
横井部長はそのまま部長の椅子に座っているが、適任者が来ればお払い箱になるだろう。異動や処分になるのではと社内では噂されていて、部長はその日が訪れるのをビクビクしながら待っているらしい。
一方、俺は転職先で充実した毎日を送っている。仕事量は多いが、給料もその分もらえる。社員同士も仲がいいし、理不尽な要求をする上司もいない。できればずっと働きたいと思えるいい職場だ。
あの日、手のひらに置かれた1円玉を見つめた瞬間、俺は確かに思った。この1円で、自分の未来が買えたのかもしれないと。



