「お前はお釈迦だけしてろ」
車内親睦パーティーで、俺の前だけにタンバ牛ステーキが運ばれてこない。ざわつく空気の中、部長の湯沢が楽しそうにそう言った。
なるほど。湯沢が仕組んだことだったのか。俺は怒りで腹が煮えくり返った。嫌がらせもここまで来たら国報者ではないかと思う。右隣の部下・片平は「なんてこと」と言って手で口を覆っている。壇上にはちょうどスピーチを始めようという社長の橋本の姿があった。
「じゃあ、帰りますね」
俺の名前は上城はると。35歳。とあるメーカーで営業課長をやっている。最近結婚したばかりで、念願のマイホームも手に入れた。ローンを早く返済しようと、日々節約に奮闘している。
だが、会社での人間関係に深刻な悩みがあった。上司である営業部長の湯沢大輔から、執拗に嫌がらせを受けているのだ。俺が高卒で課長職にいることが気に入らないらしく、学歴について語っては無能扱いしてくる。湯沢は名門大学の出身で、高卒の俺が同じ大学に入れないのは分かっている。だが、皆の前で「高卒無能」と言われ続ける日々は、とてもきついものだった。
この日も憂鬱な朝を迎えた。毎朝行われる部署内の朝礼が拷問でしかない。
「では、昨日の成績発表を行う。1位は、いつもの通り高卒無能の上城課長だ。はい、全員拍手」
「ど、どうも……」
パチパチと乾いた拍手が耳に痛い。俺は成績1位になることが多く、それは自分でも嬉しい。だが「高卒無能」という言葉は必要ないだろう。
この営業部、俺以外全員大卒だ。だから誰も俺が「高卒無能」と呼ばれるのをおかしいと思っていない。知っているのだ、湯沢が営業成績万年トップの俺に数字が追いつかず、僻んでいることを。皆に気づかれないところで、俺に「トップだからって調子に乗るなよ」「落ちこぼれだから土下座して数字取ってきてんだろ」とネチネチ嫌がらせをしているのだ。
最近一番酷かったのは、客先で自賛するプレゼン資料を、会社の新年会の案内と差し替えられていたことだ。出かける前に気づいて慌ててプレゼン資料をバッグに入れ直したが、俺の行動を見ていた湯沢が「ちっ」と舌打ちするのを聞き逃していない。数億単位の商談に行くと分かっていながら、なぜあんな子供じみたことをするのか理解に苦しむ。
湯沢の営業成績は、いつも俺に負けている。一度同行したことがあるが、トークは上手いのにどこか高飛車で強引だった。クライアントが引き気味だったのを鮮明に覚えている。
ある日、客先から帰社した俺は、机の上に親睦パーティーのお知らせが置かれていることに気づいた。
「へえ、タンバ牛か。うまいんだろうな」
パンフレットを手に取ると、美味そうなステーキの写真が視界に入り、思わず見入ってしまう。
「それ、とっても美味しそうですよね、課長」
気づけば部下の片平が俺の手元を覗き込んでニコニコしている。
「ああ、片平さんもパンフレットに目を通したんだね」
「はい。うちの会社の新年パーティーでは、毎年美味しいお肉が食べられますからね。確か昨年は松坂牛、その前はサンダ牛だったかな」
そこへ湯沢が戻ってきた。
「部長、お疲れ様です。部長も出られますよね、新年パーティー」
何のことかと呆ける湯沢に、俺はパンフレットをかざして見せた。本音は「お前と食いたくない」だが、口には出さない。代わりに湯沢の方が「お前と食いたくない」という感情を丸出しにしていた。
それから間もなく、新年パーティーへの出欠を記入する回覧が回ってきた。俺は自分の名前を丸で囲んで、湯沢に回す。
「へえ、今年は立食パーティーじゃないのか」
そういえば、今回は出席者全員に席を用意し、コース料理を振る舞うと書かれていたっけ。立食の方が気軽く誰とでも話せて良かったのに、と考えていると、湯沢が小さく鼻を鳴らした。
「上城課長、今年の親睦パーティーではぜひ我々の親睦を深めようじゃないですか」
「それどういう意味ですか?」
「同じ管理職として、部下の育成などについて語りたいというわけだよ。高卒無能君」
湯沢は唇を歪めて、嫌な笑みを浮かべた。
パーティー当日の朝。今朝の湯沢は珍しく、俺の成績を褒める時「高卒無能」と言わなかった。なぜなら今日は社長の橋本が営業部を訪れているからだ。橋本は毎朝、車内の全部署を順番に見学しては、感想を部署内の責任者に言う。表面的には温厚だが、「残念な朝礼だったね」と言われた部署の責任者は、その後広格処分となり窓際族に追いやられているという噂だ。
「では、昨日の1位を発表します。1位はいつもの上城課長です。皆さん拍手を」
社長が見ている朝礼とあって、皆もいつものようなパラパラな拍手ではなく、ちょっと大げさな拍手を送ってくれた。橋本も満面の笑みで拍手を送ってくれる。
「素晴らしいね、上城君。君は今や我が社のエースだ。これからも頑張ってくれたまえ。いや、いい朝礼だったよ、湯沢部長」
「光栄でございます。これからも精進していく所存でございます」
橋本が去っていくと、湯沢が俺の耳元で囁いた。
「調子に乗るなよ、無能郎」
夕方になり、親睦パーティーに皆が足を運び始める。会場は都内の一流ホテルの宴会場を貸し切って行われる。営業部はほぼ真ん中にある席を割り当てられていた。それぞれ名前の書かれた席に落ち着くが、俺の席は左に湯沢、右に片平だった。
左側が嫌すぎて、誰かに変わってほしいくらいだった。幸い湯沢はまだ来ていないので、男性社員に声をかけて席を変わってもらおうとするが、好き好んで部長の隣に座りたがる奴はいなかった。
「課長、大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
片平に「湯沢の隣が嫌なので席を変わりなさい」と命令できたらどんなに楽だろう。俺は「なんでもないよ」と答えて、渋々自分の席に落ち着いた。
湯沢はほどなくしてやって来て、俺の左隣にどすんと座った。空気が重くなった気がして、もう帰りたくなった。だが、ここで帰ったら負けだ。今日は朝からタンバ牛を楽しみにしてきたのだ。これを満喫するまでは帰れない。
テーブルに酒とソフトドリンクが置かれ始め、前菜も運ばれてくる。彩り豊かな野菜を使ったタイのカルパッチョだ。乾杯をすべく、皆それぞれグラスにビールやソフトドリンクを注ぎ始める。俺は湯沢に酒を注ぐのに抵抗感を覚えたが、「大人になるんだ」と自分に言い聞かせてビールを注いでやった。俺のグラスには片平がビールを注いでくれ、酒が飲めない片平のために俺はオレンジジュースを注いでやった。
総務部長が乾杯の挨拶をし、俺たちはグラスを掲げ、食事に集中し始める。スープ、パスタ、そして……タンバ牛だ。待ちに待ったタンバ牛ステーキが運び込まれてくると、俺は思わず手を合わせてビールを注いだ。ビンのビールでもまあいいだろう。
ところが、ステーキが次々とテーブルに置かれ始めると、違和感を覚えた。他の皆の前には美味しそうなタンバ牛ステーキが置かれているのに、俺の前には置かれないのだ。忘れられたのかと思いスタッフに声をかけると、慌てた様子で確認しに宴会場の外へ出ていく。
「課長のお肉、どうしちゃったんでしょうね」
片平は自分の前の肉に手をつけることなく、俺の肉を気遣ってくれる。だが、待っていたらせっかくのステーキが冷めてしまう。
「片平さん、いいから先に食べてて。俺は後で堪能するから」
するとスタッフが慌てて俺の元に駆け寄り、俺の分のステーキが発注されていないと耳打ちしてきた。
「発注されてないってどういうこと?」
そこで湯沢が笑い出した。
「お前はお釈迦だけしてろ」
なるほど。湯沢が仕組んだことだったのか。俺は怒りで腹が煮えくり返った。嫌がらせもここまで来たら国報者ではないか。右隣の片平は「なんてこと」と言って手で口を覆ってしまう。壇上には、ちょうどスピーチを始めようとしている橋本の姿があった。
「じゃあ、帰りますね」
俺は迷わなかった。日々チクチクと嫌がらせを受けているのに、タンバ牛まで取り上げるなんて許せない。食べ物の恨みの恐ろしさを思い知らせてやる。
俺はビジネスバッグを片手に立ち上がり、歩き出す。すると、壇上からマイクを通して「君待ちなさい」という声が聞こえてきた。あまりの大音量に首を傾げ、何が起こったのかと混乱していると、橋本が壇上から駆け寄って俺のそばへ走ってくる。
「どうした? 何があったんだ?」
「いえ、俺の分だけタンバ牛が発注されていないので、帰ろうかなと」
「なんだと? 誰が発注ミスをしたんだ? 総務か? それとも他の者か?」
橋本は真剣に食いついてくる。それを見ていた総務の担当者と湯沢も、こんな反応を見せる社長に怯えたのだろう。早足で歩み寄ってくる。
「俺は何もしてません。発注を止めた張本人なら、部長の後ろにいますけどね」
「君が発注を止めたのかね。所属と名前を言いなさい」
「営業部長の湯沢です。あの……実は上城課長から今日は体調が優れないと聞いておりまして、気を使って私がタンバ牛ステーキをキャンセルしておきました」
湯沢が苦しい言い訳を始めると、総務の担当者は安心して席に戻っていった。俺はそんなこと一言も言っていない。大体、部長は日々俺のことを「高卒無能」とか言ってるくせに、俺の身を案じるわけがない。
「湯沢君と言ったかな? 君は今の発言に、何か言い訳はあるか?」
「高卒無能なんて今日は言っていませんよ」
そこで湯沢は慌てて口を手で覆う。「今日は」と言ってしまったことに、マズいと気づいたのだろう。
「そうか、今日は言っていないのか。確かに私は今朝、営業部の朝礼を見学に行ったが、そういう発言は聞かなかった。だが、私のいない日には言っているということかね」
「いえ、そのような差別的発言は……」
「決して毎朝言ってますよね、部長。私たち営業は、どうしていつもトップの課長が無能呼ばわりされるんだろうって疑問に思っていました」
片平の勇気ある報告のおかげで、今まで湯沢が俺にしでかしてきた嫌がらせの一部が発覚した。
「社長、私は決してそのようなことは……」
「社長、私たちは知っているんです。課長は部長にずっと嫌がらせを受けてきました。小声で脅されたり、取引先に自賛する資料を差し替えられたり。もう、私たち我慢できません」
「湯沢君、君は実に残念な男だったのだな。ああ、実に残念だよ」
橋本に「残念だ」と2度も言わせたのだ。湯沢の今後がどうなるか分からない。
「社長こそ、どうして営業課長補佐をそんなに買うのでしょうか?」
すると橋本は口元を緩めた。
「あれはね、私の前妻の子なんだよ。実の息子なんだ」
「え?」
「いずれはこの会社を継いでもらうつもりだ。はると君に言っていなかったのかね?」
「言ってませんよ、そんなこと」
俺はどうでもいいとばかりに言い捨てた。
「父さん、俺はとりあえず帰りますよ」
「待つんだ、はると。湯沢君、君のはるとに対する嫌がらせ行為について、何か異論はあるかね?」
湯沢は白を切りたかったのだろうが、営業社員たちの目がある以上、嘘をついてもすぐにバレると思ったのだろう。下唇を噛みながら「ありません」と声を絞り出した。
「湯沢君、君の営業歴はどのくらいかね?」
「3年ちょっとです」
「はると君は17年、営業に居続けている。敬意を表するのが普通だ。彼が馬鹿にされる謂れはないと思うが」
「部長が馬鹿にしているのは、課長の学歴です。毎朝『高卒無能』って言って貶しています」
片平は普段から起こると手がつけられないという難点があるが、今も暴走状態にあるらしく、畳みかけるように橋本に報告している。皆の面前でこんなことになって、湯沢は公開処刑されているような気分ではないだろうか。
「もう帰っていいかな?」
その時、じゅうじゅうと音を立てるタンバ牛ステーキが1人前運ばれてきた。どうやら他の営業社員が俺のためにオーダーしてくれたようだ。
「お前は今運ばれたステーキを食べなさい、はると。そして君、君の今後については、この親睦パーティーが終わってから改めて検討することにする」
橋本はそこまで言うと、膝から崩れ落ちて四つん這いになっている湯沢を見下ろす俺と片平を置いて、壇上へ戻っていった。
「お前たち、覚えていろ」
腹から振り絞るかのような声で湯沢が言うが、社長に露見してしまったことなので、俺も片平も、そしてずっとこちらを注視している営業社員も、もう湯沢を恐れてはいなかった。
俺たちは湯沢を残して自席へと戻り、運ばれてきたタンバ牛を頬張った。湯沢は入り口付近で棒立ちしていたが、誰にも声をかけられることなく、自分のバッグだけ取りに戻ると、会場を後にしていった。
「お肉美味しいですよね」
「ああ、本当だな。ところで、湯沢部長の分が手つかずで残るんだが」
「私でよければいただきます」
「えっ、片平さん、胃袋に余裕あるの?」
400gはありそうな特大ステーキなのに、スリムな片平のどこにそんな余裕があるのかと不思議に思った。
「私、実は大食いなんです」
そうしてタンバ牛ステーキは一切れも残されることなく、皆の胃袋に収まっていった。
「ああ、腹が苦しい」
「でも美味しかったですよね」
片平の胃袋にはまだ余裕がありそうだった。
翌日、湯沢は出社するなり社長に呼ばれ、なぜか俺も呼ばれて社長室を訪れた。室内では橋本がメールチェックをしている最中だった。
「社長、おはようございます」
「おはよう。早速だが、君たちに話がある」
橋本はまず湯沢に対し異動を言い渡した。
「湯沢君を課長補佐への降格を命じる」
完全な窓際族への配置換えだな、と俺は思った。
「はると、お前には営業部長になってもらう。課長の椅子はしばらく空席になるので、お前が後輩たちを育て、課長にふさわしい人を抜擢しなさい」
俺の方は、少し複雑な気分だ。実力ではなく、親の七光での昇進だと思われてしまうだろう。こういうことが嫌だから、橋本と親子であることを明かさなかったのに、こんな形で露見するとは思っていなかった。
それから湯沢がいなくなった営業部内で、俺は部長として部下の管理や自分の仕事に追われる日々を送ることになった。
それから間もなく、書類に移動になった湯沢が営業部に顔を出した。何の用かと思っていると、湯沢は俺に深々と頭を下げてくる。
「今まで済まなかった。そこで、一つ頼みがある」
何だろうと湯沢の頼み事に耳を傾けると、
「俺が謝ったことを社長に話し、俺を営業部に戻してほしい」
なんと今度は俺の立場を利用しようとしている。これにはさすがの俺もカチンと来た。
「ちょっと詫びたぐらいで、自分の罪が許されると思うのか?」
「謝るしかないじゃないか」
「だから『高卒無能』だって言われるんだ」
この情報が回り回って橋本の耳に入り、湯沢は営業部へ出入り禁止となった。それから間もなく、湯沢は会社を辞めたという噂を耳にした。一時期は営業部長の座まで登り詰めておきながら、くだらないことでキャリアを棒に振るなんて、馬鹿らしいなと俺は思っている。
「部長、この書類確認できますか?」
「ああ、ありがとう。終わったら席に届けに行くよ」
「私が取りに来ますよ。部長なんですから、もっと偉そうにしていいんですよ」
俺たち営業部は、湯沢がいなくなったことでとても和やかな雰囲気になった。皆それぞれ今空席の営業課長の椅子を狙っているのだろうが、わざとらしく浮足立つ人間はいない。
俺は住宅ローンと自分の営業成績、そして部下の育成のために頑張ろうと思っている。



