二十年前の雪の夜、俺は十四歳で両親を亡くし、叔父の家を飛び出して公園のベンチで死にかけていた。誰にも見つからないまま、このまま眠ってしまおうと思った。そこへ現れた見知らぬ老夫婦が、冷え切った俺を風呂屋に連れて行き、握り飯を食わせてくれた。あの日から、俺はこの二人に育てられた。だが、二十年ぶりに故郷へ帰って成功した姿を見せに行った時、銭湯は消えていた。そして、遺品の中から見つけた一枚の封筒と、…

二十年前の雪の夜、俺は十四歳で両親を亡くし、叔父の家を飛び出して公園のベンチで死にかけていた。誰にも見つからないまま、このまま眠ってしまおうと思った。そこへ現れた見知らぬ老夫婦が、冷え切った俺を風呂屋に連れて行き、握り飯を食わせてくれた。あの日から、俺はこの二人に育てられた。だが、二十年ぶりに故郷へ帰って成功した姿を見せに行った時、銭湯は消えていた。そして、遺品の中から見つけた一枚の封筒と、...

雪の散る暗い公園で、俺はベンチに膝を抱えて震えていた。もう三日、まともに物を食べていない。声を出す力さえ残っていなかった。

「坊や、こんなところでどうしたの? 随分冷え切った体をして」

そう声をかけてきたのは、小さなおばあさんだった。隣には、不機嫌そうな顔をした背の高いおじいさんが立っている。

「うちはすぐそこで風呂屋をやってるの。とにかく体を温めな。話はそれからでいいから」

おじいさんは何も言わず、自分の着ていた丹前を脱いで、俺の肩にかけてくれた。古びた湯の匂いがした。

あの夜、この二人に拾われていなければ、俺は間違いなくあの公園で死んでいた。そして、この出会いが凍りついた俺の人生を根っこから溶かしていくことになるなんて、震えていた俺は知るよしもなかった。

俺の名前は橋本レン。今は「あかり」という温浴施設の会社をやっている。スーパー銭湯やサウナを全国に四十店舗ほど展開し、去年の年商は五十億円を超えた。雑誌には「裸一貫からの成功者」なんて大げさに書かれることもある。確かに、俺には学歴もないし、後ろになってくれる親もいなかった。若い頃の俺は、何もかも自分の力で築いてきたと本気で思っていた。

でも、それは違う。今の俺があるのは、全部二十年前のあの冬、名前も知らない俺を家に招き入れてくれたあの老夫婦のおかげだ。あの日の家の温かさを、俺は一日だって忘れたことがない。

俺が生まれ育ったのは東京の下町だった。木造のアパートが立ち並び、商店街にはいつも威勢のいい掛け声が響いていた。父は小さな運送会社でトラックを走らせ、母は近所のスーパーでレジを打っていた。決して裕福ではなかったけれど、六畳一間の狭いアパートで三人身を寄せ合って笑う毎日は、子供の頃の俺にとって何ひとつ足りないもののない幸せだった。

父はひどく無口な人だった。家に帰ってきても、母の話に「ああ」「うん」と短く返すくらい。そんな父が、まるで人が変わったように喋る時間があった。銭湯の帰り道だ。うちのアパートには風呂がなかったから、父と俺は週に何度も商店街の銭湯に通った。広い湯舟に首まで浸かると、父はいつも決まって「はぁー」と間の抜けた声を出す。それがおかしくて俺も真似をする。すると父は少し口数が増えて、トラックで通った遠い町の話や、俺が生まれた日に病院まで走った話をポツポツと聞かせてくれた。

湯から上がると、脱衣所で母が待っている。三人で一本のフルーツ牛乳を回し飲みして、星の見える夜道を歩いて帰った。父は俺の背中を流す時、決まって「大きくなったなあ」と言った。広い湯舟の中で見上げた父の背中は、世界で一番大きくて一番頼もしいものだった。

母はよく笑う人だった。俺の誕生日には決まって肉じゃがと、母の作る不格好なケーキが食卓に並んだ。父はそういう日でも多くを語らず、ただ俺の頭を大きな手でポンと叩いて、照れたように笑った。それがうちの父なりの精一杯の祝い方だった。お金はなかったけれど、俺たち家族にはいつも笑いが絶えなかった。そんな毎日がいつまでも続いていくものと、俺は信じて疑わなかった。

その毎日が、俺が十四歳になった冬、一晩で消えてしまった。雪の散る夜だった。両親は遠い親戚の法事の帰りに事故にあった。居眠り運転の大型トラックが、二人の乗った軽自動車に正面からぶつかったのだという。俺が部活から帰った時、家には誰もいなかった。夜になっても帰ってこない。そして朝が開ける頃、警察から電話がかかってきた。父も母ももうこの世にはいないと告げられた。あまりにも突然で、現実だとは思えなかった。涙は一滴も出てこなかった。

葬儀がどんな風に過ぎていったのか、よく覚えていない。気がつくと、ほとんど会ったこともない父の叔父の家に引き取られていた。叔父には叔父の暮らしがあった。突然転がり込んできた中学生の親戚など、邪魔者でしかなかったのだろう。叔父も叔母も、俺とまともに目を合わせようとしなかった。一緒に食卓につけば、それだけで空気が重くなる。ある夜、布団越しに叔父が小声で言い争っているのが聞こえてきた。

「あの子をいつまで置いておくんだ。うちにそんな余裕はない」

その言葉が俺の胸に深く突き刺さった。悪いのは自分なのだと思った。学校にも居場所はなかった。両親が事故で亡くなったという話はあっという間に広まった。「あいつ、親いないんだってさ」。そんな声を聞くたびに、俺はただ下を向いて早く一日が終わることだけを願った。いつの間にか誰とも口を聞かなくなり、笑い声も忘れていった。

ある冬の夜、俺は叔父の家をそっと抜け出した。これ以上ここにいても迷惑をかけるだけだ。自分さえ消えてしまえば、みんなが楽になる。子供なりに本気でそう信じていた。ポケットには小銭が少しだけ。行く当てなんてどこにもなかった。

それから三日間、俺は当てもなく町を彷徨い歩いた。最初の日に菓子パンを一つ買って、あとは公園の水道の水で腹を膨らませた。夜は駅の隅やビルとビルの細い隙間で、膝を抱えて寒さに震えながら長い夜が明けるのを待った。

三日目の夜、空から白いものが散らつき始めた頃、俺はとうとう一歩も歩けなくなって近くの公園のベンチに倒れ込んだ。もういいや。ここで眠ってしまえば楽になれる。誰も困らない。雪が頬に冷たく落ちてくるけれど、それを払いのける力さえもう残っていなかった。

そこへ、あの声が聞こえたのだ。

「坊や、しっかりしな。生きてるかい?」

おばあさんは俺の冷え切った手を自分の両手で包んでくれた。おじいさんは不機嫌そうな顔のまま、俺の腕を肩に回し、ほとんど抱えるようにして立たせてくれた。

「ほら、捕まれ。すぐそこだ」

商店街の一番外れに、ぼんやりと明りのついた建物があった。古い瓦屋根の上から煙突が突き出している。紺色の暖簾には白い字で「日の出」と染め抜かれていた。引き戸を開けると、番台の奥から湯の匂いと懐かしい湿った空気が流れてきた。

おばあさんは俺を脱衣所の前に座らせると、冷たい服を脱がせて湯舟の方へ促した。

「冷えた体にはまず湯が一番。ゆっくりな」

俺はふらつく足で湯舟に入った。その瞬間、体中の皮膚が一斉に悲鳴をあげた。痛いくらいに熱い。けれど、その暑さが凍りついていた指先や足先を一本ずつ溶かしていくのが分かった。両親を失ったあの朝からずっと胸の奥で張り詰めていた何かが、湯の中でゆるゆるとほどけていく。気がつくと、俺は声をあげて泣いていた。あの朝から一滴も出なかった涙が、もう止まらなかった。湯気の立ち込める中で、俺は小さな子供のように泣きじゃくった。

どれだけそうしていたのか分からない。ようやく湯から上がると、脱衣所には乾いたタオルと着替えが用意されていた。おじいさんのものらしい、少し大きめのシャツとズボンだった。洗い立ての洗剤の匂いがして、それだけでまた目の奥が熱くなった。

番台の奥の小さな座敷に通されると、古い茶卓の上には湯気の立つ味噌汁と大きな握り飯がいくつも並んでいた。空っぽだった俺の腹が、ぐうっと大きな音を立てた。

「冷たいものばかり食べてたんだろう。あったかいうちにおめ」

俺は握り飯にかぶりついた。塩の効いた、何の変哲もない握り飯。それなのに、こんなにうまいものを俺はそれまでの人生で食べたことがなかった。一口放るごとに涙がこぼれて、握り飯がしょっぱくなる。それでも俺は夢中で食べ続けた。おばあさんは何も聞かず、ただ空になった茶碗に何度も味噌汁を注いでくれた。おじいさんは少し離れたところで腕を組み、俺が食べる様子を黙って見ていた。

やがて、ぽつりと低い声で言った。

「事情は聞かねえ。話したくなったら、その時話せばいい。今夜はここの二階で寝ろ」

俺は箸を止めておじいさんの顔を見た。眉間にしわを寄せた怖い顔をしている。それなのに、その目だけはなぜかひどく優しかった。

その夜、俺は二階の小さな部屋に布団を敷いてもらい、あの湯の匂いのする丹前をかけて眠った。階下からは、おじいさんとおばあさんが何やら小声で話している声がかすかに聞こえてくる。その低い話し声は、不思議と俺の心を落ち着かせてくれた。久しぶりに寒くない夜だった。久しぶりに、一人ではない夜だった。

翌朝目を覚ますと、階下から味噌汁のいい匂いが漂ってきた。恐る恐る降りていくと、おばあさんが「おはよう。よく眠れたかい」とにっこり笑って迎えてくれた。その朝、俺は初めて二人の名前を知った。おじいさんは田端源さん。おばあさんは田端トキさん。この「日の出湯」という銭湯を、夫婦二人きりで四十年も続けてきたのだという。

朝食をご馳走になった後、俺はこっそり店を出ていこうとした。これ以上、見ず知らずの他人の世話になるわけにはいかない。靴を履いていると、後ろからおじいさんの声が飛んできた。

「おい、行く当てがあるのか?」

俺は黙ったまま首を横に振るしかなかった。

「ないんだろう。なら、しばらくここにいろ。ただし、ただ飯は食わせねえぞ。風呂屋の仕事を手伝え。それでチャラだ。文句ねえな」

不機嫌そうな言い方だったけれど、それは居場所をなくした俺に、精一杯差し出してくれた手だった。

その日から俺の風呂屋暮らしが始まった。朝は誰よりも早く起きてボイラーに火を入れ、湯が湧くまでの間に脱衣所と洗い場を掃除する。昼過ぎに暖簾を出したら番台に座り、下駄箱の鍵を渡して客の靴を預かる。夜、最後の客が帰った後は、広い洗い場の床を隅から隅まで磨き上げた。最初のうちは何ひとつまともにできなかった。湯加減を間違えてはゲンさんに怒鳴られ、洗い場で足を滑らせて桶を山ほど割ってはまた叱られた。

それでもゲンさんは、決して俺を追い出そうとはしなかった。

「いいか、風呂ってのはな、暑すぎてもぬるすぎてもいけねえ。客の体が一番ほっとする温度ってのがあるんだ。それを指先で覚えろ」

口は悪いが、教える時だけは妙に丁寧だった。一ヶ月もすると、湯に手を入れただけで今日の湯がちょうどいいかどうか分かるようになってきた。ある朝、一番風呂に来た年配の客が「え、今日の湯はいいだ」と呟いた時、ゲンさんが俺をちらりと見て、ふっと口元を緩めた。たったそれだけのことが、俺には飛び上がりたいほど嬉しかった。

日の出湯には本当にいろんな客が来た。仕事帰りの大工、子供を連れた若い母親、腰の曲がった常連のおばあさん。みんなゲンさんとトキさんに声をかけて、一風呂浴びて帰っていく。壁一面に書かれた富士山。積み上げられたケロリンの黄色い桶。冷蔵庫で冷えた瓶の牛乳。そのどれもが、俺がもう二度と手に入らないと思っていた家族のぬくもりを、少しずつ思い出させてくれた。

常連の中に、タケじいさんという大工の老人がいた。俺が番台に座り始めた頃、タケじいさんは俺の顔を見るたびにニッと笑ってこう言った。「ゲンさん、どこからいい後継ぎが来たじゃねえか」。後継ぎという言葉が居心地悪くて、でも嬉しかった。

トキさんの作る料理は、いつも体の芯から温まるものばかりだった。俺が箸を進めるたびに、トキさんは心の底から嬉しそうな顔をした。

「いっぱいお食べ。あんたは育ち盛りなんだから、遠慮なんていらないの」

俺はトキさんの作る飯を毎日三杯も四杯もおかわりした。叔父の家ではあんなに喉を通らなかった飯が、ここではいくらでも腹に入った。三人で囲むささやかな食卓。テレビの音とゲンさんの晩酌とトキさんの笑い声。それは、俺があの冬に失ったはずの家族の食卓そのものだった。

ある日、ゲンさんが俺に一枚の木の札を差し出した。下駄箱の鍵に結ぶ、手作りの下駄札だった。そこには彫刻刀で、お世辞にも上手とは言えない字で「レ」と彫られていた。

「お前の札だ。なくすなよ。お前の靴を置く場所が、この家にはちゃんとあるってことだ」

たった一枚の木の札。それなのに、俺はそれを握りしめたまま、その場で俯いて泣きそうになった。俺にも帰ってくる場所があるのだ。靴を脱いで上がっていい家があるのだ。俺はその下駄札を、まるで宝物のように、それからずっと肌身離さず持ち歩くようになった。

暮らしが少し落ち着いてきた頃、俺は一度だけゲンさんにお金を返そうとしたことがある。叔父の家を出る時に握りしめていた泣けなしの小銭と、その後コツコツと貯めた小遣いのありったけだった。けれどゲンさんは、差し出した封筒を受け取ろうとしなかった。

「金は要らねえ」

そう言うと、太い人差し指で俺の胸の真ん中をトンと一度突いた。

「その代わり、一つだけ覚えておけ。お前がいつか大人になって、どこかで寒さに震える奴を見つけたらな。その時は、今度はお前がそいつを温めてやれ。それでこの貸しは綺麗に返したことになる。いいな。それで貸し借りなしだ」

俺はその言葉の意味を、その時は半分も分かっていなかった。ただ、ゲンさんの目があまりに真剣だったから、俺は何度も頷いた。

その年の春、ゲンさんとトキさんは俺を高校に通わせてくれた。学費も毎月の授業料も、二人が黙って面倒を見てくれた。俺は何度も断った。これ以上迷惑はかけられない。働いて返すと言い張ると、ゲンさんは珍しく声を荒げた。

「ガキが金の心配なんかするんじゃねえ。お前の仕事は、ちゃんと学校に行って勉強することだ。それが俺たちへの一番の恩返しなんだよ」

学校から帰ると、俺は自然と「ただいま」と言うようになった。トキさんは決まって番台の奥から「おかえり」と答えてくれた。たったそれだけの何でもないやり取りだったけれど、当時の俺にとって、その一言がどれほど大きな支えだったか。「ただいま」と言える場所がある。「おかえり」と言ってくれる人がいる。それは当たり前のようでいて、本当はどんな宝物よりも尊いものなのだと、両親を失った俺は痛いほど知っていた。

夏には三人で商店街の夏祭りに出かけた。ゲンさんは仏頂面のまま、それでも俺に綿飴を買ってくれた。トキさんは俺の浴衣の帯を、まるで本当の孫にするみたいに丁寧に結んでくれた。気がつけば、俺はいつの間にかまた笑えるようになっていた。

けれど、温かいだけの日々がいつまでも続いたわけではなかった。まず、俺自身の中に消えない引け目があった。血のつながりもない他人に飯を食わせてもらい、高校にまで通わせてもらっている。その事実が、ふとした拍子に重くのしかかってくる。自分はただ施しを受けているだけの厄介者なんじゃないか。ゲンさんとトキさんは何も求めない。だからこそ余計に、俺はその大きな優しさにどう報いればいいのか分からず苦しかった。

学校でもつまずいた。秋の遠足を前にしたある日、クラスで集めた積立金がなくなる騒ぎが起きた。誰が言い出したのか、真っ先に疑われたのは俺だった。担任にまで呼び出され、身に覚えのないことで頭を下げさせられそうになった。その話をどこからか聞きつけたゲンさんが、滅多に見せない剣幕で学校に乗り込んできた。職員室の扉を勢いよく開けると、ゲンさんは担任の前にドンと仁王立ちになった。

「うちのレンが、人様のものを盗むようなことは絶対にしねえ。四十年、客の靴と財布を預かって商売してきたこの俺が言うんだ。間違いねえ」

番台に座り続けてきたゲンさんの言葉には、不思議な説得力があった。結局、なくなったお金は別の生徒の鞄の底から出てきた。ただの早とちりだった。けれど、ゲンさんが職員室で言ってくれた「うちのレン」という一言を、俺はその後何度も何度も思い返した。世間がどんな目で見ようと、ゲンさんは俺を信じてくれた。そのことが、折れかけていた俺の背中をもう一度まっすぐに伸ばしてくれた。

試練はそれだけでは終わらなかった。次の壁は、日の出湯そのものに立ちはだかった。俺が世話になり始めた頃には、町の家にはとっくに内風呂が当たり前になっていた。わざわざ銭湯に足を運ぶ客は、年を追うごとに減るばかりだった。ある朝、俺はボイラー室で、ゲンさんが古い帳簿に深いため息をついているところを見てしまった。

追い打ちをかけるように、ゲンさんが倒れた。寒い冬の朝のことだった。いつものようにボイラーに火を入れようとしたゲンさんが、突然胸を押さえてその場にうずくまった。俺は夢中で救急車を呼んだ。幸い命に別状はなかったけれど、医者からは長年の無理がたたって心臓がだいぶ弱っていると告げられた。

その夜、俺は床に横たわるゲンさんに告げた。

「ゲンさん、俺、学校をやめるよ。やめてここで働く。ボイラーも掃除も番台も、これからは俺が全部やるから。だからゲンさんはもう休んでくれ」

ゲンさんは布団の中からギロリと俺を睨みつけ、弱った体からは想像もつかないほど強い声で怒鳴った。

「ふざけるな。誰がそんなことを頼んだ。お前が学校をやめたら、俺はお前を拾ったことを死ぬまで後悔することになる。お前はお前の道をまっすぐ行きゃいいんだ。それが俺たちのためなんだよ」

その夜、トキさんがそっと俺の隣に座って、静かに打ち明けてくれた。

「あの人ね、レンちゃんが来てから本当に元気になったの。毎朝あんたを見送って、学校に行く背中を見るのが楽しみで。お店が苦しいのはそりゃ本当。でもね、それとこれとは別の話。あんたがちゃんと学校に通ってる。それがあの人にとって何よりの薬なの」

自分がこの家にいることはゲンさんの重荷になっているとばかり思っていたけれど、二人は俺がここにいてくれること、ただそれだけを喜んでくれていたのだ。ならば、俺にできることは一つだけだ。ゲンさんに言われた通り、ちゃんと学校に通って立派な大人になること。それが二人への何よりの恩返しになる。俺はそう心に決めた。

町の人たちも、傾きかけた日の出湯をそれぞれのやり方で支えてくれた。向いの豆腐屋のおじさんは「売れ残りだから」と言っては、毎晩のように豆腐や油揚げを届けてくれた。

「ゲンさんとこにはな、若い頃、うちが家事で全部焼けた時に随分世話になったんだ。こんな豆腐の一丁や二丁じゃ、とても返しきれねえよ」

この町では、ゲンさんとトキさんに助けられた人が俺の他にもたくさんいるらしかった。困っている人を見ると放っておけない。それがゲンさんとトキさんという人だった。日の出湯はただ体を洗うだけの場所ではなかった。この町の人たちにとって、心の寄り所そのものだったのだ。

ゲンさんとトキさん、そして俺。血のつながらない三人の奇妙な暮らし。それでもその家は、いつだって湯のように温かかった。ただ、この頃から俺は一つの違和感に気づき始めていた。ゲンさんが、湯舟ではしゃぐ小さな子供をひどく遠い寂しそうな目で見つめていることがあった。番台の奥にある小さな仏壇の前で、長い間じっと手を合わせていることもあった。その仏壇には、俺の知らない中学生くらいの男の子の写真がそっと飾られていた。一度だけ「あれは誰なのか」と尋ねかけたことがあるけれど、ゲンさんの丸めた背中がそれ以上は聞いてくれるなと言っているような気がして、俺は口を噤んだ。

高校三年になると、俺は自分の進む道について真剣に考えるようになっていた。俺の答えは最初から決まっているつもりだった。日の出湯を継ぐ。ゲンさんとトキさんのそばで、この銭湯を守っていく。それ以外の道なんて考えられなかった。ある日、客が引けた後の洗い場で、俺は思い切ってそれをゲンさんに打ち明けた。

「ゲンさん、俺、この店を継ぎたい。大学なんか行かなくていいよ。ここに残ってゲンさんの跡を継いで、日の出湯を守っていきたいんだ」

ゲンさんはしばらく黙ったまま、湯の立つ湯舟を見つめていた。それから、いつになく静かな声で口を開いた。

「その気持ちはありがてえ。けどな、レン。この商売はもう先がねえんだ。風呂のある家がこれだけ当たり前になっちまったら、銭湯なんて門はいつか町から消えていく。俺はそれでいい。最後までこの店と心中するつもりだ。だが、お前は別だ。お前はまだ若い。これからいくらでも広い世界へ行ける。俺みてえに、この小せえ番台で終わらせるんじゃねえ。外へ出ろ。出て、お前のやり方で、お前の場所で人を温める仕事をしろ。湯屋にこだわる必要はねえ。困ってる奴を温める方法なんて、世の中にいくらでもあるんだからよ」

ゲンさんはそこで少し言葉を切ると、珍しくしみじみとした声で続けた。

「俺はなあ、お前が立派になってどっかで誰かを温めてる。そう思えるだけで、それで満足なんだ。それが俺の生きてきた証になるんだからよ。だから遠慮なんかしねえで行け」

その夜、なかなか寝つけずにいると、トキさんが二階へ上がってきて俺の隣に腰を下ろした。

「父さんの言ったこと、他人行儀だなんて思わないでおくれね。あの人はね、あんたのことが可愛くて可愛くてしょうがないの。可愛いからこそ、こんな先のない町に縛りたくないのよ。広い世界で思いきり羽ばたいて欲しいの。それがあの人の親心なんだから」

「親心」。その言葉が俺の心の奥深くまで染みていった。もう二度と手に入らないと思っていたものを、ゲンさんとトキさんはこんなにも惜しみなく俺に注いでくれていた。

ちょうどその頃、商店街には再開発の話が流れ始めていた。古い店をまとめて安く買い取り、その後地に大きなマンションを建てるという話だった。一件、また一件と長く続いた店が暖簾を下ろしていく。スーツを着た不動産屋の男が何度も日の出湯を訪ねてきては「ここを売れば一生財産になりますよ」と持ちかけた。けれどゲンさんは、その男が来るたびに一言もなく追い返した。

「ここはな、ただの土地じゃねえんだ。売り物じゃねえ。何度来たって同じだ。帰れ」

なぜそこまで頑なにゲンさんがこの土地と店にこだわるのか、その頃の俺には分からなかった。

やがて高校卒業の春が来た。卒業式の日、ゲンさんとトキさんはわざわざ店を休んで式に来てくれた。ゲンさんは慣れないネクタイを締め、トキさんは一丁の着物を着て、体育館の一番後ろから俺の晴れ姿を見守ってくれた。式の後、ゲンさんは「まあまあだったな」とだけ言ってプイと横を向いたけれど、その目の縁がうっすらと赤くなっているのを、俺は見逃さなかった。

担任の勧めもあって、俺は地方の温泉地にある大きな保養施設で働くことを決めた。住み込みで、湯の管理から客のモテなしまで何でも一から学べる仕事だった。人を温める仕事を選んだのは、間違いなくゲンさんとトキさん、そして日の出湯のあの湯のおかげだった。いつかゲンさんとトキさんに立派になった姿を見せたい。そして、ゲンさんと交わした貸し借りなしの約束を必ず果たしたい。その一心が、俺を前へと突き動かしていた。

町を出る前の夜、ゲンさんは俺を客のいなくなった湯舟に誘った。二人で並んで熱い湯にゆっくり浸かった。ゲンさんはいつものように「はぁー」と間の抜けた声を出す。それは、いつか父がよく出していたあの声とそっくりだった。ゲンさんは湯気の向こうでぽつりと言った。

「達者でやれよ。たまには帰ってこい。言うくらい、いつでも沸かしといてやるからよ」

俺は湯の中で何度も頷いた。溢れた涙が湯船に落ちても、誰にも気づかれないのがありがたかった。けれど、この時の俺はまだ知らなかった。この夜の湯が、ゲンさんと一緒に浸かる最後の湯になることを。

旅立ちの朝、ゲンさんは「見送りなんざ嫌だ」と言って店の奥から出てこなかったけれど、俺が荷物を背負って引き戸に手をかけた時、奥からあの不機嫌そうな声が飛んできた。

「レン。困ってる奴がいたら、温めてやるんだぞ」

トキさんは停留所まで送ってくれた。バスが来るまでの間、俺の手を握ってポロポロと涙をこぼした。

「体にだけは気をつけるんだよ。ご飯、ちゃんと食べるんだよ」

俺はポケットの中のあの「レ」の下駄札をギュッと握りしめた。バスが走り出す。窓の外でトキさんがいつまでも手を振っている。その小さな姿が角を曲がって見えなくなるまで、俺はずっと窓に張り付いて見ていた。必ず立派になって、この恩を返しに帰ってくる。俺は心の中で固く誓った。

けれど、俺がその誓いを果たすのは、それから十六年も先のことになってしまう。

町を出てからの俺は、とにかくがむしゃらに働いた。保養施設では誰よりも早く起きて湯船の番をし、誰よりも遅くまで床を磨いた。ゲンさんに仕込まれた「客の体が一番ほっとする湯加減」を、俺はもう指先で覚えていた。やがてその働きが認められ、二十代の半ばには新しいスーパー銭湯の立ち上げを任されるようになった。そして二十八歳の時、俺はわずかな貯金を元に独立した。自分の温泉施設を一件、また一件と増やしていった。

会社の名前は「あかり」とつけた。本当はあの日の出湯の名前を継ぎたかったけれど、それはあまりに恐れ多くてできなかった。代わりに、雪の夜に俺を導いてくれたあの番台の小さな明りを思い出して「あかり」と名付けた。俺が作る施設はどこも飛び切り広くて清潔で、設備も完璧だったけれど、俺が一番大切にしていたのは設備の豪華さなんかじゃない。ここに来ればほっと一息つける。体だけじゃなく、心まで温まる。ゲンさんとトキさんがあの小さな日の出湯で俺にしてくれたことを、俺はもっと大きな形にしてたくさんの人に届けたかった。それこそが「あかり」が多くのお客さんに選ばれた一番の理由だったと思う。

仕事は面白いように広がっていったけれど、夢中で走っているうちに月日はあっという間に過ぎていった。最初の数年は盆と正月に年賀状を送るくらいで、なかなか町へは帰れなかった。独立してからは、もっと帰れなくなった。いつか落ち着いたらちゃんと顔を見せに行こう。そう思っているうちに、何年も経ってしまった。そういえば、ここ数年トキさんからの年賀状が届かなくなっていた。気にはなっていたけれど、忙しさにかまけて俺は胸騒ぎに蓋をしてしまっていたのだ。

会社が軌道に乗り、店舗が四十を超え、年商が五十億を超えた時、俺はようやく一区切りついた気がした。そして固く決意した。あの町へ帰ろう。ゲンさんとトキさんに立派になった姿を見せよう。それで「貸し借りなし」だと言われたあの約束を、今こそ返しに行こう。手土産代わりに、俺はあの町に「あかり」の新しい店を出す計画書まで鞄に詰め込んだ。

あの冬からちょうど二十年。俺がこの町を出てからでも十六年が過ぎていた。

十六年ぶりに降り立った故郷は、すっかり様変わりしていた。見慣れた店の多くは、知らないチェーン店に変わっていた。それでも俺は、抑えきれない気持ちのまま商店街の一番外れへと急いだ。あの紺色の暖簾のある場所へ。

そして、日の出湯があったはずの場所に立ち尽くして、俺は言葉を失った。銭湯は痕跡もなく消えていた。あの古い瓦屋根も、空へ突き出した煙突も、紺色の暖簾も、何もかもが綺麗さっぱりなくなっていた。そこにあったのは、白い線で区切られただけの味気ないコインパーキングだった。湯の匂いも湿った空気もどこにもない。ただ冷たい冬の風だけが、ガランとした駐車場を吹き抜けていく。

俺は何かの間違いだと思いたかった。震える足で近所を歩き回り、昔からありそうな古い米屋を見つけて先の老人に尋ねた。

「日の出湯の田端さんは、どこへ行ったんですか」

老人は気の毒そうな顔で、ぽつぽつと教えてくれた。

「日の出湯の源さんは、もう八年も前に亡くなったよ。心臓を悪くしてね。最後まで店を閉めようとはしなかったんだが。女将のトキさんはそれからも一人でしばらく湯を沸かし続けていたけれど、数年前にとうとう体を壊して店を畳んだんだ。土地も手放してね。今は二つ先の角の古いアパートで一人暮らししているはずだよ」

俺はその場にしゃがみ込みそうになった。ゲンさんが亡くなっていた。八年も前に。それなのに、俺は何も知らずにのうのうと自分の仕事に明け暮れていた。膝から力が抜けていった。

俺は教えられたアパートへ走った。古びた木造二階建てのアパート。一階の一番奥の部屋。表札には、消えかかった字で「タバタ」とあった。俺は震える手でその扉を叩いた。しばらくして、扉がゆっくりと開いた。中から顔を出したのは、すっかり背の丸くなった小さな小さなおばあさんだった。あの雪の夜に俺の手を包んでくれた人が、そこにいた。

「トキさん、俺です。レンです。橋本レンです。覚えてますか?」

トキさんはしばらく不思議そうに俺の顔を見上げていた。やがて、その曇った目が見開かれていった。しわだらけの両手が口元を覆う。

「レンちゃん。本当にレンちゃんかい? あの雪の夜の」

俺はもう頷くことしかできなかった。トキさんはよろめくように俺に近づくと、その小さな手を伸ばして俺の頬に触れた。

「大きくなって。こんなに立派になって。お父さんに見せてやりたかったよ」

その瞬間、俺の目から涙が溢れ出した。二十年前、あの湯舟で泣いた時以来の、とめどない涙だった。

狭い部屋に上げてもらうと、小さな仏壇にゲンさんの写真が飾られていた。あの仏頂面のゲンさんが、写真の中で少しだけ照れたように笑っていた。その横には、見覚えのある中学生の男の子の写真も並んでいた。俺が線香を上げて手を合わせていると、トキさんが古い箪笥を一つ、大事そうに抱えて戻ってきた。そして蓋を開けて、中から色あせた封筒を取り出した。

「これ、覚えてる? あんたが昔、お父さんに返そうとしたお小遣い」

それは二十年前、俺がゲンさんに突き返されたあの封筒だった。

「父さんね、これだけは絶対に使っちゃいけないって、ずっとずっと取っておいたの。あんたが一生懸命貯めた大事なお金だからって」

封筒の中には、あの時のままの小銭がそっくり残っていた。俺はそれを握りしめて、声を殺すこともできずに泣いた。たった数百円の子供の小遣いだった。それを、ゲンさんは亡くなるその日まで宝物のように大事に守り続けてくれていたのだ。

箪笥の中には、他にもたくさんの紙切れが入っていた。新聞や雑誌の切り抜きだった。どれもこれも「あかり」の記事だった。俺の顔が載った小さな記事まであった。

「お父さんね、あんたの名前が新聞に載るたびに、嬉しそうに切り抜いてね。眼鏡をずらして何度も何度も読み返してたの。『あの坊主は今頃、立派に人を温めてるかなあ。会いたいなあ』っていつも言ってた」

黄ばんだ切り抜きの一枚一枚に、ゲンさんの指の跡が染みついているような気がした。俺が忙しさにかまけて忘れかけていたその長い間も、ゲンさんとトキさんはこうして一日も忘れることなく俺を思い続けてくれていた。ゲンさんは俺の活躍をずっと見守ってくれていた。俺が帰ってくるのを待っていてくれた。それなのに、俺は間に合わなかったのだ。

「最後はね、苦しい息の下でもあんたのことばかり。『レンは達者かな。ちゃんと飯食ってるかな』って」

俺は仏壇の前で、子供のように泣きじゃくった。ひとしきり泣いた後、トキさんはもう一枚の写真、あの中学生の男の子の写真をそっと手に取った。

「この子はね、マコトっていうの。私とお父さんのたった一人の息子よ。この子も、中学二年の冬に病気で亡くなってね。ちょうど、あんたと同じ十四歳だった」

俺は息を飲んだ。

「それからお父さんはね、寒い夜に震えてる子を見ると、どうしても放っておけなくなったの。マコトがまだその辺で震えているんじゃないかって。思えてしょうがなかったんだろうね。日の出湯はね、あんただけじゃなかったの。行き場のない子やお腹を空かせた子に、ご飯を食べさせてた。あの雪の夜、公園であんたを見つけた時、私ね、一瞬マコトが帰ってきてくれたのかと思ったの」

俺は言葉を失った。あの夜、二人が俺にかけてくれたあの惜しみない優しさ。その奥に、こんなにも深い悲しみと、こんなにも大きな愛情が隠されていたなんて。俺は自分が思っていたよりも、ずっと大きなものをあの二人から受け取っていたのだ。

「困ってる奴を見つけたら、今度はお前が温めてやれ。それで貸し借りなしだ」

ゲンさんのあの言葉は、ただの教訓なんかじゃなかった。我が子を失ったゲンさんが、その悲しみの底から絞り出すようにして紡いだ、祈りのような言葉だったのだ。

その夜、俺は一睡もできなかった。頭の中をゲンさんの声がぐるぐると回り続けていた。

「今度はお前が温めてやれ。それで貸し借りなしだ」

俺は鞄の中の計画書を取り出した。「あかり」の新しい店をこの町に出す計画。綺麗に整った、効率のいい今風のスーパー銭湯の図面。けれど、俺はそれを静かに破り捨てた。俺が本当にやるべきことは、こんなことじゃない。ゲンさんが俺に残してくれたのは、こんな立派な図面を引くための金儲けの知恵なんかじゃなかった。あの雪の夜、何の見返りも求めずにただ俺を温めてくれた、あの一杯の湯の心だ。それをこの町にもう一度取り戻すこと。それこそが、俺にできるたった一つの恩返しだった。

翌朝、俺はもう一度トキさんの部屋を尋ねて、深く頭を下げた。

「トキさん、お願いがあります。俺に、日の出湯をもう一度この町に立てさせてください。ゲンさんとトキさんがやってたみたいに、寒い思いをしている子が、お腹を空かせた誰かが、ただで温まれって、あったかいご飯を食べられる。そんな場所を。そして、もう一度だけ、女将になってもらえませんか?」

トキさんはしばらく言葉を失っていた。やがて、そのしわだらけの顔をくしゃくしゃにして、何度も頷いた。

「いいの? 本当にいいの? そんな夢みたいなこと」

「いいんです。いや、俺がやりたいんだ。ゲンさんとトキさんに教わったことを、今度は俺が次の誰かに渡していきたい。それが俺にできる、たった一つの恩返しだから」

俺はすぐに動き始めた。まず取りかかったのは、コインパーキングになっていたあの土地を買い戻すことだった。持ち主との交渉は何度も壁にぶつかった。それでも俺は決して引かなかった。あの場所でなければ、まるで意味がなかったからだ。何度も足を運び、頭を下げ、ようやく土地を取り戻した時には、最初の話から三ヶ月が過ぎていた。

会社の役員たちは当然のように反対した。「ただで人を入れる風呂屋なんて、一銭の得にもならない」と、はっきり口にするものもいた。俺は、二十年前のあの冬の夜のこと、ゲンさんとトキさんのことを何ひとつ隠さずに話した。話し終わる頃には、反対するものは一人もいなくなっていた。

設計士には昔の日の出湯の写真を何枚も渡して、あの瓦屋根を、あの煙突を、できるだけ昔のまま蘇らせて欲しいと頼んだ。壁の富士山も、当時と同じ絵を描ける絵師を探し回って、ようやく見つけ出して描き直してもらった。工事の間、トキさんは毎日のように現場へ来て、少しずつ形になっていく日の出湯を眩しそうに眺めていた。その顔は、日に日に若返っていくように見えた。

そして半年後、あの場所に新しい日の出湯が帰ってきた。完成した日、俺はトキさんと二人で出来上がったばかりの日の出湯の前に立った。あの瓦屋根、あの煙突、紺色の暖簾。何もかもが、二十年前のあの夜のままだった。トキさんはしばらく声も出せずに、ただその建物を見上げていた。そして、ぽつりと「お父さん、見てるかしら」と呟いて、目元を指先で拭った。

オープンの日、紺色の暖簾を二十年ぶりにその先にかけた。煙突からは白い湯気がまっすぐ冬の空へと登っていく。その日、新しい日の出湯には驚くほど多くの人が集まってくれた。商店街の古い顔ぶれ、あの豆腐屋の跡を継いだ息子さん、腰の曲がったタケじいさんの孫、そして俺の知らないたくさんの大人たち。

その中の一人、俺と同じくらいの年の男が俺のところへやってきて、深々と頭を下げた。

「あんたが、日の出湯を立て直してくれた人か。実は俺も昔、ゲンさんに拾われたんだ。家に居場所がなくってね。雪の日に、湯に入れてもらって、飯を食わせてもらった。あんたもそうなんだろ?」

俺は胸が詰まって声が出なかった。ただ、強くその手を握り返した。ゲンさんとトキさんが二十年、三十年とかけて温めてきた灯りは、こうしてたくさんの人の中で今も消えずに燃え続けていたのだ。聞けば、その日集まった大人たちの中には、他にもかつて日の出湯で湯と握り飯をもらった者が何人もいた。今は会社員になったもの、家庭を持って子供を育てているもの、小さな店を構えたもの。みんな、ゲンさんとトキさんに救われたあの日の子供たちだった。誰に言われたわけでもないのに、日の出湯が帰ってくると聞きつけて、自然と集まってきたのだという。

その輪の中心、脱衣所の長椅子のそばに置かれた車椅子に、トキさんがいた。俺はトキさんの膝の上に、ゲンさんの遺影を静かに置いた。トキさんは富士山のペンキ絵を見上げ、それから遺影に向かって語りかけた。

「お父さん。見えますか? 日の出湯が帰ってきましたよ。レンちゃんがこんなに立派になって、私たちの湯をもう一度立ててくれましたよ」

トキさんの頬を、涙がとめどなく伝っていった。俺はそんなトキさんの肩をそっと抱いた。俺たちは二十年という長い時間を遠回りして、ようやくもう一度家族としてこの場所に帰ってくることができたのだ。

俺は番台の上に、あの「レ」の下駄札を飾った。ゲンさんが不器用な手で彫ってくれた、俺の居場所の証だった。集まった人たちの前で、俺はありったけの思いを込めて挨拶をした。

「俺は二十年前、両親をなくして一人ぼっちで冬の公園で死にかけていました。そんな俺を、この日の出湯のゲンさんとトキさんが、何も聞かずにただ体を温めてくれた。あの一杯の湯がなかったら、今の俺はいません」

声が震えた。それでも俺は続けた。

「ゲンさんは俺に言いました。『お前が大人になって、寒さに震えてる奴を見つけたら、今度はお前が温めてやれ。それで貸し借りなしだ』と。ゲンさん、俺、やっとその約束を返しに来ました。これからこの家で、俺がゲンさんとトキさんの代わりに、たくさんの人を温めていきます」

気がつけば、脱衣所のあちこちからすすり泣く声が聞こえていた。それは悲しみの涙ではなかった。長い年月の果てにようやくたどり着いた、幸せの涙だった。

その日の夕暮れ時、一人の少年がおずおずと暖簾をくぐってきた。薄い上着で肩をすぼめた、寒そうな子だった。どこか、二十年前の俺によく似ていた。俺は番台を降りて、その子のそばへ行き、しゃがんでこう言った。

「いらっしゃい。寒かっただろう。まずは体を温めな。話はそれからでいいから」

あの雪の夜、トキさんが俺にかけてくれた言葉が、二十年の時を超えて今度は俺の口から自然とこぼれ出ていた。少年はこわごわした顔で俺を見上げ、それからこくりと小さく頷いた。その瞳に、二十年前の自分が重なって見えた。

「さあ、こっちへおいで。今度は俺がお前を温める番だ」

新しい日の出湯が始まってから、俺はできるだけ時間を作ってはこの町に帰ってくるようになった。会社のことは信頼できる仲間に任せ、月の半分はこの番台に座った。トキさんは近くの部屋から毎日のように顔を出してくれた。番台の隣の椅子に座って、湯に来る客一人ひとりに「お帰り。ゆっくりしていってね」と優しく声をかける。その優しい声は、二十年前と少しも変わっていなかった。

ある日、客の引けた洗い場で、俺はずっと胸に燻っていたことをトキさんに打ち明けた。

「俺、ゲンさんの死に目にも会えなかった。八年も何も知らずに。ゲンさん、俺のこと駄目なやつだって怒ってたよね」

トキさんはゆっくりと首を横に振った。

「とんでもない。あの人はね、一度だってあんたを恨んだことなんてないよ。むしろね、あんたが遠い街で歯を食い縛って頑張ってる。立派にやってる。それが何より誇らしかったの。『会いたい、会いたい』って言いながら、でも邪魔しちゃいけないって、ずっと我慢してたの」

トキさんは遠くを見るような目で、ゲンさんの最後のことをぽつりぽつりと話してくれた。

「あの人が最後に入院した時、病室の窓からどこかの煙突の煙が見えたの。そうしたらあの人、ふっと笑ってね。『レンの奴、今頃どこかででっかい湯を沸かしてるかもしれねえな』って。それがあの人の、最後の言葉みたいなものだったの」

俺は言葉を失って、その場にうずくまった。ゲンさんは最後の最後まで、俺のことを思っていてくれたのだ。会いに来るのが遅すぎた。その悔いは、きっと一生消えることはないだろう。それでも、その悔いを抱きしめて俺はこれから生きていくのだと、静かに思った。

トキさんは、俺の手をあの雪の夜のように両手で包んでくれた。

「だからね、レンちゃん。あんたはちゃんと約束を返したんだよ。これで貸し借りなし」

俺はその言葉に首を横に振った。

「いや、まだだよ、トキさん。俺はこれからこの湯で、何百人も何千人も温めていく。ゲンさんに返しても返しても、足りないくらいだ」

トキさんはふっと笑って、こう言った。

「それでいいの。お父さんはね、貸し借りなしより、そっちの方がずっと嬉しいんだから」

その言葉に、俺は長い間心に燻っていたものがすっと溶けていくのを感じた。ゲンさんへの恩は、一生かけても返しきれない。でも、それでいいのだ。返しきれないからこそ、俺は一生誰かを温め続ける。それが、ゲンさんとトキさんが俺に残してくれた生き方そのものなのだから。

俺はその日、トキさんに一つ頼み事をした。これからは、血が繋がっていなくても、俺の本当の家族としてそばにいてほしいと。トキさんはまた涙ぐみながら、何度も何度も頷いてくれた。両親をなくしてから長い間ぽっかりと開いていた俺の家族の席に、その日ようやく温かい人が一人座ってくれた。それは、二十年もの時をかけて俺がようやく取り戻した、ぬくもりだった。

それから三年が過ぎた。新しい日の出湯はすっかりこの町に馴染んでいた。夕方になれば、仕事帰りの人や学校帰りの子供たちで脱衣所は賑やかになる。湯上がりに飲む瓶の牛乳は、昔のままの値段に据えた。そして、行き場のない子が訪ねてくれば、いつでもただで湯に入れて温かいご飯を出す。番台の奥には、いつも誰かのための握り飯が用意してある。ゲンさんとトキさんが守ってきたその習慣を、俺は廃するつもりはなかった。

「あかり」の店はその後も少しずつ全国に増えていった。けれど、俺にとって一番大切な店は、いつだってこの小さな日の出湯だ。どんなに会社が大きくなろうと、俺の原点はあの雪の夜の一杯の湯にある。それを忘れたら、俺はきっとただ金儲けが上手なだけのつまらない男になってしまう。

トキさんは去年の春、眠るように静かに息を引き取った。最後の日まで、トキさんは番台の隣に座って、客に「お帰り」と声をかけ続けてくれた。息を引き取るその時、トキさんは俺の手を握りながら「レンに会えて、本当に良かった。いい人生だったよ」と何度も呟いていた。俺は「出会ってくれてありがとう」と心の底から伝えた。ゲンさんの隣に。そして息子のマコトの隣に。トキさんは静かに帰っていった。きっと今頃は、あの三人で賑やかにやっているに違いない。

番台の上には、四枚の写真と一枚の下駄札が並んでいる。仏頂面のゲンさん。優しく笑うトキさん。十四歳のままのマコト。そして、笑って映る俺の父と母。みんな、この湯を見守ってくれている。俺は毎朝店を開ける前に、その写真に向かって手を合わせる。「おはようございます。今日も一日、よろしくお願いします」と。そうすると、不思議と心がちゃんとする。番台に座っているのは俺一人だけれど、俺はちっとも一人ぼっちじゃない。ゲンさんもトキさんも、いつだって俺のすぐそばにいてくれるのだから。

先日、あの夕暮れに暖簾をくぐってきた少年が、また店に来てくれた。あれからすっかり元気になって、今ではうちの常連だ。もう、寒そうに肩をすぼめてはいない。番台の俺に「こんばんは」と元気な声で挨拶してくれる。湯から上がって瓶の牛乳を飲み干すと、その子は照れながら俺に言った。

「おじさん、俺、大人になったらおじさんみたいに、誰かを温められる人になりたいな」

俺はその濡れた頭を、ぐしゃりと撫でた。ちょうど、ゲンさんが昔俺にしてくれたように。ああ、こうやって巡っていくんだな。俺はしみじみとそう思った。ゲンさんの灯した灯りは、トキさんの優しさは、こうしてまたこの子の中へと受け継がれていく。

「貸し借りは、これでいいんですよね。ゲンさん」

俺は湯の立つ湯舟を見つめながら、心の中でそっと問いかける。答えは帰ってこない。でも、なんとなく分かる気がする。ゲンさんはきっと、あの仏頂面で「ふん」と鼻を鳴らして、こう言うはずだ。

「当たり前だろ」

今日も、日の出湯の煙突からは真っすぐな湯気が登っている。番台の小さな明かりが、誰かの帰りを待つように灯っている。あの雪の夜、凍えた俺を救ってくれたあの明かりと同じように。

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