私はあの日、心から信じていた娘に背中を押され、谷底へ落ちた。六年後、私は彼女が最も幸せな日を迎えた宴の席に、帰ってきた。私たちは姉妹のように育った。なのに彼女は私の髪を簪で飾ってくれたその手で、私を死に追いやった。彼女は生前、私の死を偽り、私の座を奪い、私の名を消した。でも、彼女は知らなかった。あの山に、私を拾ってくれた老婆がいたことを。そして、私が誰よりも高みに立って帰ってくることを。あの…

私はあの日、心から信じていた娘に背中を押され、谷底へ落ちた。六年後、私は彼女が最も幸せな日を迎えた宴の席に、帰ってきた。私たちは姉妹のように育った。なのに彼女は私の髪を簪で飾ってくれたその手で、私を死に追いやった。彼女は生前、私の死を偽り、私の座を奪い、私の名を消した。でも、彼女は知らなかった。あの山に、私を拾ってくれた老婆がいたことを。そして、私が誰よりも高みに立って帰ってくることを。あの...

お関は、この世で誰よりも千代を信じていた。千代もまた、幼い頃から共に育ったお関を、実の妹のように思っていた。しかし、その信頼の裏で、お関の心には長い年月をかけて育てられた欲望が、静かに根を張っていたのである。

晩秋のある朝。二人は連れ立って裏山へ登ることになる。その道の先に何が待っているのか、まだ誰も知る由はなかった。

栗谷村は、桜井藩の外れに位置する小さな里だった。村の取りまとめを担う豪農の家として、藤原家があった。慎ましい造りの屋敷だったが、代々藩に仕えてきた家柄として、村では一目置かれていた。

その台所で、まだ夜も明けきらぬうちから、嫁の千代が一人、火を起こしていた。指先が凍えるほど冷え込んだ朝で、千代は白い息を吐きながら、乾いた松の薪を一つずつ火窯にくべていく。前夜の雨で木が湿っていたせいか、火はなかなか燃えつかなかった。

そこへ台所の戸がきしみながら開き、お関が入ってきた。千代の実家から付き従ってきた女中で、千代より二つ三つ年下だ。幼い頃より共に育ち、藤原家へ嫁いできた千代にも従ってきた。

お関は、火の前にうずくまっている千代を見るなり、慌てて駆け寄った。

「お嬢様、夜明け前からまたご自分で火を起こしていらっしゃるのですか」

お関は千代の手から火吹き竹を取り上げ、自分の袖で冷え切った手を包み込んだ。

「この手は氷のようです。さあ、お座りください。お関が火を起こします」

千代は、その心遣いがありがたく、思わず目頭が熱くなった。この広い屋敷の中で、自分を一人の人間として見てくれるのは、この娘だけだからだ。

「ありがたいことよ、お関。お前がいなければ、私はこの家でどう生きていけばいいのか」

「そんな寂しいことをおっしゃらないでください。お関がおそばにおります。いつまでもお仕えいたします」

しかし、お関の心の奥底には、幼い日の消えない記憶があった。かつて裕福だった頃、客が訪れた時に、幼いお関が千代とお茶を出そうとしたことがあった。その時、屋敷の年配の女中がお関を強く引き離し、「お前は下女に使える身の上ぞ」と叱ったのだ。幼い千代が、こっそりと薬と握り飯を運んできてくれたことをお関は覚えていた。ありがたさと、拭いきれない悔しさが、お関の胸のうちでいつまでも絡み合っていた。

朝餉の片付けの後、大きな甕に水を満たしておくのが千代の役目だった。千代が天秤棒を担ごうとすると、お関がすぐに駆け寄って受け取った。

「お嬢様、今日は私がいたします。昨夜はお歳の世話でお疲れでしょう」

「いや、お前も夜明けから走り回っていただろう。これくらいは私がする」

だがお関は聞き入れなかった。庭の使用人たちが井戸端を通りかかる頃を見計らい、わざと重たげに天秤棒を軋ませながら横切っていく。それを見た下女の一人が声をかけた。

「お関、若様の分までお前一人でやっているのか」

「そんなことはございません。若様が怠けているのではございません。昨夜、若様はお婆様のお世話で眠れなかったので、お関が見かねてお手伝いしているだけです」

お関は千代を貶める言葉は一言も口にしなかった。だが、使用人たちの目には、千代が自分の仕事をお関に押し付けて休んでいるように映った。

甕を台所の大桶に注ぎ終えると、姑の志乃の甲高い声が響いた。

「嫁や、どこにいるのだ。何をぐずぐずしておる」

千代は急いで志乃のもとへ駆けつけた。志乃は火鉢の前に座り、不機嫌な顔で千代を睨みつけていた。

「朝餉の汁がすっかり覚めているではないか。温かい汁一つすら差し上げられぬとは、何たる嫁だ」

「申し訳ございません。炉の火の加減が悪うございまして」

千代が詫びても、志乃は聞く耳を持たなかった。

「そういえば、そなたの実家から何か分けると言っていた話はどうなったのだ。輿入れしてから何年経つと思っておる。未だに何も持ってこぬではないか」

千代の胸は重く沈んだ。実家は傾き果て、父が亡くなってから残ったものは、古びた家財と母が譲ってくれた品が数点だけだった。志乃が持参金にこだわるのには訳があった。藤原家の暮らし向きはこの数年で悪化しており、息子の京之助の学問所にも少なからぬ金がかかっていた。亡き夫が遺した借金を何とかしなければという思いが、志乃の執着となり、その矛先が嫁である千代に向けられていたのだ。

千代は何も言い返せず、部屋を辞して縁側の橋まで来たところで、堪えていた涙を袖で拭った。その姿を、庭の片隅からお関が見ていた。

お関はほうきを手にしたまま、陰に半ば身を隠し、千代が声を殺して泣く様子を見ていた。だが、すぐには駆け寄って慰めようとはしなかった。ただ静かに、その光景を目に焼き付けていた。

「あの奥様の望むものが金であるならば、それさえあればこの家の心を動かすのは難しくはあるまい」

お関はそう胸のうちで呟いて、そっとその場を離れた。

その夜、千代の夫・京之助が藩校から屋敷へ戻ってきた。京之助は二十代半ばの若者で、藩校での学びを重ね、いずれ藩の登用試験を受けてお役目を賜ることを目指していた。心の優しい男だったが、家のことにはとんと疎く、妻がどんな辛さを味わっているかをよく知らなかった。

「今日も母の世話をしてくれたそうだな。苦労をかける」

「いいえ。旦那様こそ、日々の学問でお疲れでしょう」

京之助は頷くばかりで、妻の顔色に潜む翳りには気づかなかった。二人の間には、いつも通り気まずい沈黙が流れた。

夜が更けてから、千代はそっと身を起こした。眠りについた夫を残し、隣の間へ渡ると、お関はまだ眠らず、行灯の下で千代の着物を縫っていた。

「どうなさったのですか」

「眠れなくてな。少し、そなたの側に座っていてもよいか」

二人は並んで座り、千代はポツリポツリと心の内を打ち明けた。

「私はこの家で、一体何なのであろうな。お母様は私を金を運ぶ道具としか見ておらぬ。旦那様は私の心を分かってくださらぬ。実家は傾き、帰る場所さえない」

お関は千代の手をそっと握りしめた。

「そのようなことをおっしゃらないでください。この世の誰がお嬢様に背を向けようとも、お関だけは最後までお味方でございます」

その言葉に千代は涙が溢れ、箪笥の小引き出しから小さな物を取り出した。銀細工の簪だ。梅の花を彫った品で、母親が病の床で「持っていきなさい」と千代に渡してくれた、母の形見として残る数少ない品の一つだった。

「お関、この簪の片方を受け取っておくれ」

「お嬢様、それはお母様から賜わった大切な簪ではございませんか。お関がこのようなものをいただくわけには」

「構わぬ。一本を二つに分けて、片方は私が挿し、片方はお前が挿しておくれ。この家で、私たち二人は姉妹も同然ではないか」

千代はそう言って、お関の髪に片方を挿してやった。梅の銀が行灯の光にほのかに輝いていた。お関は挿してやった簪を指先でそっと確かめてから、頭を下げて涙を拭うふりをした。

「この恩は、必ずお関がお返しいたします。今にご覧に入れます」

その瞬間、千代の胸の奥で何かがちくりと痛んだ。幼い日、共に膳を囲んだ頃の温かさが一瞬蘇ったのだ。だがお関は、すぐにその痛みを押し殺した。今更情に流されれば、これまで積み重ねてきたものが水の泡になる。お関はそう自分に言い聞かせた。

「女中などと思わずともよい。お前が幸せに暮らしてくれれば、それで十分だ」

千代はお関の背を優しくなでた。その夜、千代は久しぶりに心が安らぎ、深く眠りについた。

お関は千代を見送った後、一人行灯の前に残った。障子を閉めると、先ほどまで滲んでいた涙はすっと消えていた。お関は簪を行灯の火にかざして眺めてから、腰に下げた赤い帯留めをゆっくりと撫でた。紅い珊瑚をはめ込んだ木彫りの品で、貧しい暮らしの中で早くに亡くなった母が唯一残してくれた形見だった。どれほど困窮しても、この帯留めだけは決して手放さなかった。

「お嬢様がそこまで信じてくださるなら、あの座をいただくのも思いのほか容易かろう」

お関はそう一言だけ呟いて、行灯の火を消した。闇の中で、銀の簪と紅い珊瑚玉だけが、しばし冷たく光っていた。

雪が降り積もるうちに、お関の企みは少しずつ大胆になっていった。千代が作った味噌を冷たい板の間に置いたのはお関で、米倉の鍵を別の場所に隠しては、千代が夜中に倉を出入りしたかのように話して回った。志乃の疑いは深まり、屋敷の者たちも、千代よりもお関の言葉を先に信じるようになった。顔を見ても目を逸らし、何か大事なことがあれば真っ先にお関の名を呼ぶようになった。志乃は普段使いの小さい鍵を、まずお関に預けるようになった。屋敷の力の均衡が、静かに傾いていくのを誰もが感じ取っていた。

ある日、千代はお関が志乃の膳を運ぶ姿を目の当たりにした。お関の腰には、閉まっておいたはずの米倉の鍵まで下がっていた。

「その鍵は、どうしたのだ」

「奥様に、お米の様子を見てくるようにと言われてございます」

お関はそう言うばかりだった。千代はその言い訳を信じられなかった。しかし、幼い頃から共に暮らしてきた娘を、すぐさま罪人と決めつけることもできなかった。

二日後の夜、さらに怪しいことがあった。廊下でかすかな足音が聞こえ、千代が襖を開けると、お関が布に包んだ包みを胸に抱えて、千代の部屋から抜け出してくるところだった。折り重なった布の間から、銀の器のようなものが一瞬覗いた。千代は包みを開けようと厳しく言おうとしたが、お関の髪に挿された簪が闇に光る瞬間、幼い日の顔が重なって浮かんだ。千代は、最後の一度だけ信じてみることにし、ゆっくりと道を開けてやった。

しかし、千代は何も気づかなかったわけではなかった。翌朝、自分の長持ちを改めてみると、失われた品は見当たらないものの、衣類の重なりが不自然に乱れ、底板には見覚えのない泥の跡が残っていた。京之助に知らせようと思ったが、京之助はすでに藩校へ出立した後だった。千代は台所の年配の女中に、昨夜お関が布包みを抱えて自室から出てきたことを打ち明け、もし自分の身に何かあれば、必ず京之助へ伝えてほしいと頼んだ。

まさに翌日、ついに大事が起こった。志乃が、輿入れの時に千代の実家から持参された銀製の懐中時計が忽然と消えてしまったのだ。絵に梅の花が彫られた貴重な品で、節句や大切な客が来る時に取り出されるものだった。屋敷中が大騒ぎとなり、志乃が使用人たちを庭に呼び集めた。

「この家で、我が家の金に手をつけた者がいる。正直に申し出れば許してやるが、隠し立てすれば奉行所へ突き出すぞ」

使用人たちは震えながら互いの様子を伺い、誰一人口を開こうとしなかった。お関がおずおずと一歩前に進み出て、手にした布包みを差し出した。

「奥様、恐れながら申し上げます。これを、千代様のお部屋を片付けておりましたところ、長持ちの下から見つけましてございます」

お関が震える手で布を解くと、梅の花が彫られた懐中時計が鈍く光りながら現れた。庭にいた使用人たちが一斉に息を飲んだ。その中で、台所の女中が一人、不安げな顔でお関を見ていた。お関が布包みを抱えて千代の部屋から出てくるのを見ていたからだ。しかし、志乃の気性を恐れ、唇を噛むだけであった。

千代は全身が蒼白になった。

「それは私の預かり知らぬこと。私の部屋にどうしてそんなものがあるのです」

しかし、志乃の耳にはもはや何も届かなかった。志乃はつかつかと歩み寄り、千代の頬を容赦なく殴った。乾いた音が庭に響いた。

「このような盗人の嫁を我が家に迎えたとは。この家の恥を消すには、お前が出て行くしかない。二度と私の前に現れるでない」

千代は誰もいなくなった庭に一人残され、ただ涙を流し続けた。

その夜、縁側を通りかかったお関の口元には、短い笑みが浮かんでいた。懐中時計を長持ちの下に仕込み、自分で取り出したのはお関自身だったのだ。千代には何もできなかった。冷たく映された味噌の入った皿と米倉の鍵、前夜の包みの間から見えた銀器、そしてお関の手から出てきた懐中時計。これらが一本の糸で繋がっていく。お関の仕業ではないか。千代は初めて、その疑いを最後まで拭い去ることができなかった。

盗人の濡れ衣を着せられて三日目の朝、京之助が藩校の登用試験を控え、しばらく城下に留まるべく屋敷を立つことになった。門口で見送られながら、京之助は千代の頬に残るかすかな赤みに目を留めたが、母が呼んでいるという声に遮られ、何も言わずに出てしまった。

「留守の間、母上の機嫌をよく取っておきなさい」

それが、京之助が千代にかけた最後の言葉になった。

守ってくれる人一人いない中、千代は台所の下女にも劣らぬ扱いを受けるようになった。ちょうどその頃、お関が笑みを浮かべて千代の元へ近寄ってきた。

「お嬢様、ここでこうしておられてはいけません。裏山の岩壁に、今珍しい岩茸が群れております。お嬢様ご自身が山に登り、真心を込めて採って奥様にあげれば、どんなにお怒りの奥様とて、お気持ちも和らぐでしょう。お関がご案内いたします」

千代はしばらく黙っていた。まさか、共に育った娘が自分の命まで奪おうとするはずはない。そう思う一方で、お関が何を企んでいるのか、この目で確かめておきたいという思いもあった。千代は返事をする前に、台所の女中に「これからお関と裏山へ岩茸を取りに行く。昼を過ぎても戻らなければ、京之助へ知らせるように」と言い残した。

「そうか。参ろう」

二人は笠を一つずつかぶり、霧の立ち込める裏山へ登っていった。山道はお関が先に立って導く。心中を過ぎる頃から、お関は人の足の踏み入らぬ深い谷へと分け入っていった。

「お関、ここは初めて通る道だが、誠にこの道でよいのか」

「はい。あと少しでございます。この上に、人の手の入らぬ岩茸の群れがございます」

ついに二人は、目もくらむような崖の上にたどり着いた。足元には、霧に沈んだ谷がはるかに広がっていた。

「お嬢様、あちらをご覧くださいませ。あの岩の間に、岩茸がびっしりと生えております」

お関が指し示す方向へ、千代は恐る恐る崖の端へと近づいた。足元の岩肌に着物の裾が引っかかり、わずかに緩んだ。千代が腰をかがめて下を覗き込んだ、まさにその時だった。背後で人の気配が迫り、お関は両手を千代の背中に当て、力の限り押した。

「お嬢様。その命、これからは私がいただきます」

その声と共に、千代は短い悲鳴をあげて谷底へと転落した。落ちるその一瞬、千代は本能的に両手を伸ばし、お関の帯留めを掴んだ。ビリと乾いた音が響き、帯留めの布は、元々通っていた木目の筋に沿って真っ二つに裂けた。片方は千代の手の内に握られたまま谷底へ落ちていき、もう片方は、引きちぎれた糸と共にお関の腰に残った。

崖の上に一人残されたお関は、荒い息を整えながら下を見下ろした。今ならまだ間に合う。助けを呼べばよい。その思いが一瞬胸をよぎったが、お関はすぐに振り払った。

「ここで引き返せば、これまでのことが全て無駄になる」

お関は落ちていた千代の草履を拾い上げ、岩に引っかかっていた草履を崖の端に、わざと足を滑らせた事故に見えるように並べた。それから自分の草履を崖の下へ投げ捨て、髪を振り乱して山を降りていった。

その様子を、麓で焚き木を割っていた樵が遠くから見ていた。深い霧のせいで顔までは分からなかったが、悲鳴の後、赤いものを腰に下げた女が一人で山を降りていく姿だけは確かに見ていた。樵は余計なことに首を突っ込みたくなかったので、その日は口を紡いだ。

屋敷に着くなり、お関は庭にうつ伏せになり、大声で泣き叫んだ。

「奥様、お嬢様があの深い谷の底へ」

志乃はその場に凍りついた。しばらく黙って立ち尽くしていたが、その顔には驚きと恐れ、そして打算がよぎった。

「このことを決して外へ漏らすでない。嫁が病いでひっそりと世を去ったとだけしておけ」

志乃は屋敷と長年付き合いのある医者に金を渡し、千代が急な熱病で亡くなったと口裏を合わせた。村の戸籍方にも賄賂が渡され、千代は死んだものとして記された。こうして千代は、人々の記憶と記録から跡形もなく消し去られた。

しかし、天は千代を完全には見捨てなかった。崖は一気に谷底まで切り立っていたわけではなく、段々の急斜面が折り重なっていた。千代の体は松の枝に何度も当たりながらも勢いを殺され、斜面の途中、湿った落ち葉が厚く積もった場所に落ちた。全身は傷だらけで無事なところはなかったが、細い糸のような命だけは辛うじて繋がっていた。

ちょうどその頃、その山の奥を一人で彷徨う者がいた。薬草を採って何とか暮らしを立てている、お辰という老婆だった。お辰は落ち葉の間から白い手が突き出ているのを見つけ、驚いて駆け寄り、落ち葉をかき分けて千代を引き出した。鼻先に手を当てると、息がかすかに続いている。お辰は布を裂いて傷口をきつく縛り、自分の羽織りを脱いで千代の体を包み込み、山道をかけ下りて炭焼きの男を呼び集めた。二人は木の枝と縄で即席の担架を組み、千代を乗せて険しい山道を一歩一歩下ろしていった。

こうして千代は、お辰が山で一人暮らす小さな小屋へと運ばれた。お辰は自ら採った薬草で、千代を心を込めて看病した。

目を覚ました最初の夜、千代は背中に触れる手の感触に飛び起き、獣のような目でお辰を見つめた。お辰はそれ以上近づかず、そっと布団を掛け直すと、少し離れたところに座って千代が落ち着くのを黙って待った。幾日か過ぎ、ようやく千代は正気を取り戻した。しかし、自分の名前を思い出そうとすると、頭の中は霧が立ち込めた崖のように白く霞んでしまう。

崖から落ちた衝撃と、幾日も生死の境を彷徨ったことで、千代は過去の記憶をほとんど失ってしまっていた。名前も顔も思い浮かばない。しかし、背後から自分を力任せに押した二つの手の感触だけは、体の奥底に残っていた。

お辰は、血に染まった千代の右手に、赤い帯留めの破片が固く握られているのを見ていた。それを解いて綺麗に拭っておき、千代が正気に戻るとそっと差し出した。千代はそれが何であるかは思い出せなかったが、赤い珊瑚玉が手のひらに触れた瞬間、背後から足音が迫り、体が谷底へ傾く感覚が、一瞬よぎった。

「覚えておらんでもよい。名前がなければ、わしがつけてやろう。雪の朝に見つけた命だ。雪の名を授けよう」

お辰は千代の手をそっと包み込んだ。こうして千代は、山の中で新しい命と新しい名前を得た。

山の冬は長く厳しかった。力を取り戻した雪乃は、お辰が採ってきた薬草を洗い、乾かし、束ねる手伝いをした。手はためらいもなく動き、薬の名前が記された札も自然と読み解いていった。お辰は雪乃が転ぶ度に手を貸そうとしたが、ある時からそれをやめ、少し先に立って歩くだけにした。雪乃が自分の足で立ち上がるのを待つためだった。

お辰は、急に倒れた人の息を確かめる術も雪乃に教えた。喉と胸を楽にして息の道を開く法、手首で脈を測る法も、手本を見せて教えてくれた。雪乃は幾度も見て、幾度も真似た。いざという時に何をすべきか、体で覚えていった。

一方、山の麓の藤原家では、全く異なる世が開かれつつあった。志乃は山で起きたことが漏れれば大事になると使用人たちを脅し、外には若い嫁が急な病で亡くなったとだけ告げていた。お関は、その空いた嫁の座にじわりじわりと足を踏み入れていった。

「奥様、お茶は必ずお関がお淹れいたします。この薬湯を飲まれて、お体を休められませ」

お関は志乃の茶番を自ら整え、寝床を自ら敷き、肩をもみ、甘言を絶やさなかった。志乃は初めはただ使い勝手の良い女中だと思っていたが、日ごとにお関なしでは一日も過ごせぬようになっていった。

「倉の鍵は、お前が預かっておきなさい」

志乃は自らの手で、お関に鍵を手渡した。

しばらくして、村の口入れを兼ねる女が志乃の元を訪れ、それとなく持ちかけた。

「若旦那様がこのまま後添えをお迎えにならぬのであれば、お関を京之助様の側女に取り立てる道もございましょう」

この話を伝え聞いたお関は、待てば必ず妻の座が得られると信じるようになった。しかし、京之助は母がいくら勧めても、千代以外の話に一切耳を貸さなかった。お関の顔を見ることすら避けた。

二年が過ぎても望みが叶わないと悟った時、お関の執着は藤原家の闇と金を我が物にする欲望へと、静かに姿を変えていった。お関は米倉の鍵を握ると、村に出入りする米問屋の午堂と通じるようになった。午堂は村に流れてきて間もない男で、お関が密かに持ち出す穀物を、見て見ぬふりをしながら黙って買い取っていた。

「お前が倉の鍵を握っておる限り、わしとの商いは続けられよう」

午堂は番頭を振りながら笑った。お関はその言葉に頷き、米を少しずつ流し始めた。初めのうちは、米が一俵二俵消えても誰も気づかなかった。米俵を運び出す夜、お関は、太い柱の前で泣いていた千代の姿を思い出すことがあった。しかし、その度に幼い頃に受けた屈辱の記憶と、報われぬ下女の身の上を思い出しては、胸の奥を固く閉ざした。

数日後、藩校にいた京之助が戻ってきた。京之助は屋敷に入るなり妻を探したが、志乃から嫁が急逝したと聞かされ、その場にへたり込んだ。

「あまりに急ではないか。亡骸をきちんと確認したのか」

「亡骸は、もう。それがしが全て整えた。棺に納めてしまった」

志乃は言葉を濁すばかりだった。京之助はお関にも尋ねたが、お関の話には崖の場所や時刻について微妙な食い違いがあった。京之助はそれでも母と下女の言葉を疑うだけの証拠を持たず、悶々とした日々を過ごすこととなった。

その日から、京之助は魂の抜けたように裏山を彷徨った。お関が示した谷は、実は本当の崖とは尾根一つ隔てた反対側だった。いくら探しても手がかりは見つからなかった。それでも京之助は、妻が死んだという言葉を心では受け入れられなかった。彼は近隣の猟師や樵に毎年決まった額の金を渡し、山中で人の噂を聞けば必ず知らせてくれるよう頼み続けた。

ある年、遠く離れた里に見知らぬ女が現れたという噂を耳にし、京之助は駆けつけたが、女はすでによそへ移った後で、会うことは叶わなかった。京之助は、いくつも持ち込まれる再婚の話をことごとく断り続けた。妻の部屋には誰も手を触れさせず、輿入れの時の調度もそのままにしておいた。机の上には冗が積もっていった。

一方、尾根を超えた山奥で、雪乃は着実に立ち上がりつつあった。長い冬が過ぎ、春が訪れた。ある日、薬草を売りに出た里で、村の外れに住む老婆が雪乃を見て言った。

「おや、その袖の折り方。誰かに似ておるような」

雪野は思わず息を詰めた。

「いや、まさかな。栗谷村の嫁は、とうに亡くなったと聞いたが」

その老婆はそう呟いて立ち去った。雪乃は、誰かに見つめられるかもしれないという恐れを、初めて胸に刻んだ。

その夜、雪乃はお辰にこの出来事を話した。

「栗谷村という名前が、なぜか耳に残りました」

「その名を忘れぬうち、胸のうちにしまっておくがよい」

お辰はそう言った。

その日、さらに騒動があった。茶屋の前で、一人の老人が餅を食べていて、突然のどを押さえて倒れたのだ。雪乃は人をかき分けて進み出て、お辰に教わったとおり老人の背中を強く叩いた。喉に詰まっていた餅のかけらが、ぽとりと地面に落ちた。正気を取り戻した老人は、この里の一番の豪農・大和田彦左衛門だった。

「娘よ、この耄碌じじいの命を救うてくれたな。一体、どこの家の娘じゃ」

「私は、名家も家も、すでに失った者にございます。昨年の秋、山で動けなくなり、全てを失い果てました。山中で私を拾ってくださったお辰という老婆と暮らし、雪乃と呼ばれております」

大和田は、雪乃にしばらく自分の家に留まってくれるよう懇願した。雪乃は大和田家に身を寄せることとなった。

働き始めて間もなく、大和田彦左衛門は、若き日に大病を患った時、梅の紋を掲げた家の者に助けられたことがあると口にした。雪乃が大和田家の広間に掲げられた古い薬箱を見た瞬間、大和田は目を見張った。

「あの時、自分を治療して薬を与えてくれたのは、この大和田の家だったのだ」

二人はしばし言葉を失い、長い説明の代わりに、静かに手を取り合った。

大和田家での日々は、雪乃に失われたものを一つずつ取り戻させてくれた。そんなある日、大切な客が訪れた。藩の奉行所に組頭として仕える若き役人・桐生竜之進だった。桐生は大和田の甥の残した子で、早くに妻を亡くし、一人身のまま執務に励んでいた。温厚でありながら仕事は綿密で、上役の信頼も厚い人物だった。

ある日、桐生が大和田家を訪れると、一人の女中が高価な茶器を割ってしまい、震えながら平謝りしている場面に出くわした。周りの者が女中を責め立てる中、雪乃は進み出た。

「この者一人の落ち度ではございません。器の片付けを急かした私にも落ち度がございます」

雪乃は自らも責任を引き受けた。桐生はその姿を見て、深く心を動かされた。

数日後、桐生の奉行所でも似たような出来事があった。部下の手違いで書き付けに誤りが生じた時、桐生は上役の前で自分の確認不足だと、部下の名前を出さずに頭を下げた。この話を聞いた雪乃は、人の上に立ちながら人を庇うことのできる方だと、桐生への思いを深めた。

ある晩、桐生は雪乃の懐にある赤い帯留めに目を止めたが、訪ねかけて、雪乃の顔が曇るのを見て、すぐに言葉を飲み込んだ。

「無理に聞くことではございませぬな」

その心遣いに、雪乃はようやく胸のうちを明かす気になった。

「私は、どこかで誰かが私を待っているのではないかと、恐ろしゅうございます」

「それでも私は、その方を共に探しましょう。たとえその果てに、そなたを手放すことになろうとも」

桐生の言葉に、雪乃の凍りついていた心が少しずつ解けていった。

大和田は、雪乃の身の上を確かなものにしておかねばならぬと思い立ち、藩に養女の願いを差し出した。許しを得て、大和田家に雪乃の名前が加えられた。月日は流れ、絆は深まり、ついに大和田が二人の縁を取り持つことに決めた。雪乃は長くためらったが、桐生の変わらぬ思いに、ついにその手を取った。こうして名を失った山中の女は、桐生の妻となった。

翌年、藩内でひどい飢饉があり、領内の統治に大きな乱れが生じた。桐生は混乱の収拾にあたり、領民への米の割り振りを綿密に取り仕切った。それが認められ、桐生は藩の奉行職という重責につくことになった。雪乃も、誰も蔑ろに扱うことのできない、奉行の妻となった。それでも、自分を救ってくれたお辰と大和田の家を訪ね、変わらず山で過ごすことを忘れなかった。

千代が栗谷村から消えて六年目となる春、雪乃は何の脈略もなく、見知らぬはずの台所の情景が蘇るのを覚えた。誰の顔も浮かばないが、火の前にうずくまる自分の姿だけがはっきりと見えた。数日後、梅の花の彫られた品を目にした時は、銀の何かを握る手の感触が指先に蘇った。雪乃はその度に胸のざわめきを覚えながらも、それが何であるか言葉にすることができなかった。

そして、ある夜。女中が一人、糸の切れた赤い帯留めを持って雪乃のもとを訪れた。

「奥様、結び目が解けてしまいました。これをもう一度お結びいただけませぬか」

雪乃は帯留めを受け取り、赤い糸口を指に絡めた。結び目を閉めようとした時、懐に閉まっておいた帯留めの欠片が畳に落ちた。赤い珊瑚玉が石の床に当たり、澄んだ音を立てた。

「片方の糸口が切れると、もう片方もすぐに緩みますものね」

その言葉と同時に、雪乃の指先が震えた。霧の立ち込める崖、背後から迫った足音、背中を押した二つの手、引き裂かれた赤い帯留め、そして忘れていたはずの声が、耳元で鮮やかに蘇った。

「お嬢様。その命、これからは私がいただきます」

その声と共に、雪の降り積もった日々の記憶が、堰を切ったように蘇ってきた。私を盗人の濡れ衣を着せ、崖から突き落としたのは、幼い頃から共にいたお関だった。

雪乃はその夜、桐生に全てを打ち明けた。桐生は驚いたが、まず何よりも先に震える雪乃の手を握った。

「そなたに罪はない。今こそ、奪われた己の身分を、無念を共に取り戻そうぞ」

雪乃は落ち着きを取り戻すと、あの日の出来事を一つ一つ思い返し、誰が何を見ていたかを順に思い出した。台所の女中ならば、あの晩の包みを見ていたはず。麓の樵ならば、あの日の崖の上で誰かを見たはず。そして、倉から流れた米の行方を辿れば、必ずや証拠が見つかるはずだと、雪乃は考えを巡らせた。

桐生は信頼の置ける家来たちを栗谷村へ遣わした。数日のうちに、あの夜の台所の女中と麓の樵の行方が確かめられた。二人はすでに奉行所へ密かに呼び出され、覚えていることをありのままに申し述べていた。加えて、午堂が長年つけていた帳面も奉行所の手によって押収されていた。午堂は幾度も呼び出しを受け、厳しい尋問の末、罪を軽くしてもらう代わりに知る限りのことを全て話すと約した。

ちょうどその頃、志乃の還暦の宴が近く開かれるとの知らせが届いた。雪乃はしばし考えてから言った。

「人のいないところで問い詰めれば、また偽りで逃げようとするでしょう。お関が最も高みに登ったと信じているその日、皆の見ている前で真実を明らかにいたします。ただし、あの帯留めの欠片をお関がまだ持っているかどうかは、その日にならねば分かりませぬ。それゆえ、あまり早くに捕らえてはなりません」

桐生は奉行所に全ての調査内容をあらかじめ知らせ、当日には役人が門の外で控える手はずを整えた。証人たちは後から加わることとし、この日はあくまで、お関に逃げ場のない場を作ることが目的だった。

ついに、志乃の還暦の宴の日が明けた。藤原家の庭には朝から日よけの大きな幕が張られ、膳が並みきれぬほどの料理が用意された。その中をお関が、晴れ着の着物の裾を引きながら歩いていた。頭には、あの夜千代から贈られた銀の簪が、今も輝いている。腰には、六年ぶりに再び下げた赤い帯留めが揺れていた。誰の目にも触れさせなかった帯留めをこの日ばかりは晒したのは、自分がこの家を真に手にしたことを村中に示したいという思いからだった。

神座には、還暦を迎えた志乃が座っていた。しかし、志乃の顔色は暗かった。棺に着物だけを納めて嫁の一生を終わらせた過去が、この頃しきりに夢の中に蘇るのだ。

まさにその時、門の外が騒がしくなり、駕籠が一軒、庭の前に止まった。藩の奉行桐生様の内儀が来られたという噂に、庭がどよめいた。駕籠の簾が上がり、笠をかぶった夫人が静かに降り立った。お関はすぐに駆け寄り、腰を折った。

「まあ、奥方様がこのような田舎へ。心を込めてお持て成しいたします」

笠の内から漏れる声は、低く、どこか冷ややかだった。

「心を込めて、か。そなたは、その言葉を随分と軽々しく使うようになったのだな」

お関は思わず身を竦めた。夫人が静かに笠を外した。その顔を見た瞬間、お関の手から懐中時計が落ち、石の床に当たって砕け散った。

庭が息を殺した。死んだはずの千代が、藩の奉行の妻となって、目の前に立っていたのだ。

「お、お嬢様」

お関が後ずさると、従ってきた家来たちが進み出て、静かに道を塞いだ。

「自らの手で私を突き落とした。生きて戻るはずがないと思ったのであろう」

「違います。あれは事故でございました」

お関は激しく首を振ったが、家来が取り出した赤い帯留めを受け取り、雪乃が懐から取り出した欠片と合わせると、木目の筋も割れた断面もぴたりと重なり合った。庭のあちこちで低い呻き声が上がった。

雪乃はさらに、お関の髪に挿された簪へと目を向けた。

「その簪も、まだ挿しておったか。あの夜、私が姉妹の証としてお前に与えた物だ」

お関の涙がようやく溢れ出たが、この涙を今度は誰も信じようとはしなかった。

門の外から、連れて来られた台所の女中と樵が入ってきた。女中はまず、あの晩お関が布包みを胸に抱えて部屋から出てくるのを見たこと、布の間から銀の器が見えていたことを証言した。続いて樵が、あの日音を聞いた後、赤いものを腰に下げた女が崖の上に何かを置いて、一人で山を降りていくのを見たと証言した。二人の証言はそれぞれ別の場面を語っており、それが重なり合って、初めてあの日の出来事の全貌が浮かび上がったのだ。

人々の目が一斉にお関へと注がれた。そこへ奉行所の役人に伴われた午堂が、帳面を手に庭へと入ってきた。お関は最後の望みを見出したかのようにすがりついた。

「午堂殿、何かお話を」

しかし午堂は、お関の方を見ようともせずに言った。

「これにお関殿が自ら運んだ穀物の日付と量が全て記されております。手前はすでに調べを受け、正直に申し述べて罪を軽くしていただく約束にございます。これ以上、お関殿を庇うことはできませぬ」

長年通じ合ってきた者が、あっさりと自分を裏切ったことに、お関はその場に崩れ落ちた。

「私はただ、良い暮らしをしたかっただけにございます」

雪乃は、冷ややかにそれを聞いた。

「良き暮らしを望む心が、人の命を奪う理由にはならぬ。貧しさ故にそなたを疎んだことなど一度もない。私が与えた情けを、そなたが刃に変えた。そのことだけが、ただただ無念でならぬ」

門の外で待機していた役人が庭に入ってきた。お関はそこでようやく地面に伏して泣きじゃくった。雪乃はしばし沈黙した後、言い放った。

「私は助けを叫ぶ間さえ与えず、そなたは私の背中を押した。この先の罪は、奉行所にて明らかにされよう」

役人に連れ去られていくお関の髪から、簪が抜け落ち、石の上を転がっていった。お関は門へ引き摺られながらも振り返り、その簪を見つめた。凍えそうに青ざめた唇がかすかに震えたが、ついに何も言えぬまま連れ去られていった。

お関が門の外へと消えると、雪乃は神座の志乃へと向き直った。庭には、まだ砕けた懐中時計の破片が散らばっていた。

「お母様。私は今日、お母様を責めに参ったのではございません。盗人の濡れ衣を晴らし、死んだ者として消された我が名を取り戻しに参ったのです」

雪乃の言葉に、志乃は一言も返せなかった。膳は、宴の間中、誰も手をつけることはなかった。

その後、お関は奉行所での尋問で、懐中時計を盗んだこと、雪乃を裏山から突き落とした罪を語り、全てを自白した。偽りで積み上げた座は、一夜にして崩れ去った。お関は奉行所の沙汰を受け、二度と栗谷村へ戻ることはなかった。あれほど望んだ地位も、蓄えた金も、頼みとした午堂にも見放された。そして何より、千代が挿してくれた簪を手に取り戻すことは、二度と叶わなかった。

一方、雪乃は京之助にもこの真実を知らせねばならないと考え、桐生に頼んで京の下へ使いをやった。京之助は、全てを投げ打って駆けつけた。

「そなた、誠に生きておられたのか」

京之助の目には涙が光っていた。彼は懐から古びた一枚の布を取り出した。それは千代が輿入れの時より使っていた品で、京之助があの日から一度も手放さず、妻の部屋をそのままにして持ち続けていたものだった。

京之助は膝を折り、母の罪を代わりに詫び、妻を守ってやれなかった不甲斐なさを詫びた。雪乃はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。

「旦那様。私はあの日、崖にて一度死にました。今の私は、あの頃の私ではございません。私を生かしてくれたのは、山のお辰婆でした。何も覚えぬ私を、あるがままに慈しんでくださったのは、今の私の夫でございます」

京之助は頷いた。

「そなたの言うことは全て正しい。そなたの新しい軌跡を、私が遮ることはできぬ」

京之助は二度と妻として迎え戻したいとは言わなかった。その代わり、一通の文をしたため、自分にはもはや妻として迎え戻る資格がないこと、そなたの新しい生活を妨げぬことをはっきりと書き記した。

雪乃はそれを受け取り、「旦那様のことは忘れませぬ。けれど、もうあの家へは戻れませぬ」と答えた。

京之助は母が作り上げた偽りを自ら明らかにし、正式な離縁状を奉行所へ差し出した。奉行所は偽りの死亡届を取り消した上で、その離縁状を受理し、大和田家の養女・雪乃としての身分と桐生家との縁を正式に認めた。千代という名前に着せられた汚名は注がれた。彼女は、これからも雪乃として生きる道を選んだ。

数日後、雪乃は大和田彦左衛門とお辰を訪ね、深々と頭を下げた。

「お館様、おばあ様。あらゆるものを失った私を、娘のようにお育てくださいました。これからは、私がお二人をお世話いたします」

その言葉に、大和田は肩を撫でながら幾度も頷き、目を潤ませた。お辰は雪乃の手を握り、小さく鼻をすすった。雪乃はお辰を自らの側に迎え、温かな部屋で穏やかに過ごさせた。

その秋、藤原家にはさらなる変化が訪れた。還暦の宴の後、村の女たちは藤原家への足を遠ざけ、田畑の一部は人手に渡り、満ちていた米倉にはただ空の埃だけが残った。使用人たちも一人また一人と屋敷を去っていった。息子の京之助も、必要な言葉以外は母と目を合わせようとはしなかった。罪を守ろうとして人を失った者の末路が、そこにはあった。

ある日、志乃が杖をつきながら大和田家を訪ねてきた。腰の曲がった、みすぼらしい老婆となって、雪乃の前に膝を折った。

「私は、家を守ったつもりで、家そのものを壊してしまった」

志乃は震える声でそう言い、懐からかつてお関に預けていた倉の鍵と、千代の死を記した偽りの死亡届の写しを取り出し、静かに畳の上に置いた。雪乃はしばし言葉なく古びた鍵を見下ろしていたが、やがて静かに言った。

「私は忘れませぬ。けれども、憎しみの中では生きませぬ」

志乃は項垂れ、残された者もいない寂しい屋敷で、一人寂しく過ごすこととなった。

翌年の春、雪乃と桐生の家には笑い声が絶えなかった。桐生は奉行職にあってなお領民のことを綿密に見定め、雪乃は誰からも敬われる良き妻となった。しかし、高みに登っても、決して人を粗末に扱うことはなかった。困っている者の難を先に気にかけ、飢饉の時には米蔵を開き、病に苦しむ者には自ら薬を調合してやった。家来に尋ねられて、雪乃はこう答えた。

「私とて、かつては何も持たず、峠を越える旅の者でありました。座が高くなったとて、人の値打ちが変わるわけではございません」

ある日、米蔵を開いた帰り道、雪乃はいつも裏山の峰をしばし眺めてから屋敷へと戻った。あの日、自分を突き落とした崖も、自分を拾い上げてくれた谷も、同じ山の中にあった。人の心もまた、その山と同じように、闇と光の両方を抱えているのかもしれない。雪乃は幾度もそう思った。

春の日の昼下がり、雪乃は庭に出て、長らく空を見上げていた。傍らでは、お辰が日向ぼっこをしながら草を編み、桐生は縁側で書物を読んでいる。雪乃は懐から、一つに戻った紅珊瑚の帯留めを取り出し、手のひらに乗せた。二つに裂かれて六年を彷徨った品は、今や再び一つに戻っていた。

桐生が縁側から歩み寄り、隣に腰を下ろした。

「何を思いにふけっておられる」

その問いに、雪乃は帯留めをそっと手のひらに乗せて言った。

「過ぎ去った日々のこと、そして、これから先の日々のことを」

「そなたが失ったものは大きかった。だが、そなたが取り戻したものも、それに劣らず大きい。これから先は、失うことよりも、得ることを共に数えていこうぞ」

雪乃は頷いて、その肩にそっと頭を預けた。千代という名前に着せられた罪は、こうして晴れた。しかし、彼女が選んだ名前は雪乃だった。人を突き落とした手は、いずれ己の足元を崩し、人を救った手は、いつか再び己を支え返してくれる。

雪乃の物語は、人に差し出した情けと憎しみが、結局どこへ帰っていくのかを、長く語り伝えることとなった。

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