「ちょっと話せますか?」
俺の深刻な様子に彼女は小さな声で言った。奥で2人で話しましょうか?そう言って彼女は俺の手を引いて厨房へ連れて行った。店の常連客たちはこちらをチラチラ見て、何を話しているのか聞き耳を立てていた。
「私はあなたと仕事以外でもずっと一緒にいたいです」
え?人生で初めて自分から告白してしまった。
俺の名前は中野優一。父の会社を手伝っている33歳独身だ。会社はリフォーム会社でそこそこ大きい。毎日仕事が忙しくて彼女を作る余裕もないというのは、ただの言い訳だろうか。休日の楽しみはうまい店に食べに行き、その店の食事をSNSにアップすることだ。和食も洋食も何でも好きだが、昔ながらの風情のある店が特に好きだった。
俺は幼い頃に母を亡くし、父と兄と3人で暮らしてきた。兄は5つ上で早くに就職し、今は東京にいる。小さい頃から料理を作っていたのもあって、漠然と料理人になる夢を持っていた。自分が作った料理で家族に喜んでもらえるのが嬉しかった。
高校生になる頃には、卒業したら調理専門学校に進みたいと思っていた。しかし父は会社を立ち上げたばかりで家に余裕がなく、兄も働き始めたばかり。自分だけわがままは言えなかった。俺は専門学校を諦め、見習いから雇ってもらえる和食料理店に就職した。
そこの大将はとても親切に調理の基本を教えてくれた。最初は皿洗いや下ごしらえばかりだったが、真面目な仕事ぶりを評価してくれたのか、出汁の取り方、魚のさばき方、包丁使いまで全部教育してくれた。数年後には調理場のリーダーを任されるまでになった。仕事はきついこともあったが、何より料理が好きなんだと実感しながら働く日々は楽しかった。
しかし、ある日、父が怪我をした。転んで足を骨折し、歩けなくなってしまった。現場の仕事ができなくなった父の会社を、俺は放っておくことができなかった。
「父さん、俺が会社を手伝うよ」
「でもお前、やっと調理場を任されるようになったんだろ」
「でも、このままだと父さんの会社は誰かが継がないといけない。今から勉強するよ」
父は申し訳なさそうにしていたが、俺がそう言うと安心したのか、嬉しそうに笑った。料理の道は惜しいが仕方ない。これが自分の運命なのだと納得した。
店を辞める時、大将は「お前がやめちまうなんてなあ。うちの店も困るけど、何より才能がもったいないぜ」と言ってくれた。「ここまでお世話になったのに本当に申し訳ありません。でもここでの経験は俺の人生の財産です」と深々とお辞儀して店を去った。
それから俺は動けない父の代わりに現場へ行き、会社の仕事は父についてもらいながら必死に勉強した。この年になって新しいことを頭に入れるのは本当に大変だった。唯一の安らぎの時間はうまい飯を食べている時くらいだった。暇があれば店を調べて、昼休みに食べ歩きをした。
ちょうどその日も現場の仕事の昼休憩で近くの定食屋を探していた。すると昔ながらの看板に、昭和のドラマに出てきそうなカツ丼屋を見つけた。不思議と足が向いた。SNSで調べたが、その古ぼけた店は何の口コミもなかった。中に入ると客は誰もいない。「今日は外れかな」と思ったが、引き返すこともできなかった。
「いらっしゃいませ」
可愛らしい小さな女の子に出迎えられたからだ。小さいのにしっかり接客ができて驚いた。
「ママ、お客さん来たよ」
女の子が奥へ入っていくと、のれんをくぐって一人の女性が出てきた。小柄だが、くっきりとした目鼻立ちの綺麗な人だった。こんな店からこんな美人が出てくるとは思わず、一瞬言葉を失った。じっと見つめていると、心配そうにこちらを見てくる。
「あの、メニューはお席にあります」
「あ、ああ、すみません。じゃあカツ丼を1つ」
「カツ丼ですね。少々お待ちください」
微笑んで厨房へ入っていった。その間、先ほどの小さな女の子が水とお絞りを持ってきてくれた。この店の看板娘のようだ。数分待つと、明らかに大きいどんぶりが運ばれてきた。
「あの、カツ丼を頼んだんだけど…」
「今日は他にお客さんもいないから、大盛りサービスです!」
元気いっぱいにそう言うと、女の子は奥へ引っ込んでいった。腹は減っているし、食べられるか。箸を割って、湯気が出ている出来たてのカツ丼を頬張った。いろんな店でカツ丼を食べてきたが、正直に言うとここのカツ丼はいまいちだった。カツは美味しいし揚げ方も良い。卵もトロトロだが、味に締まりがないというか。
そう思いつつもカツ丼を最後まで食べた。食事の後、水を飲んで一息ついていると、ふとこの店に来たことがあることを思い出した。それは俺がまだ小さかった頃。父と兄と一緒に3人でここでカツ丼を食べた。その時は年配の男性が一人で切り盛りしていて、店も活気があって人気店のようだった。カツ丼はすごく美味しくて、また食べたいと思った。しかし子供だった俺はどうやってこの店に来たのかも忘れ、父に「また行きたい」と言うこともできないまま、ずっと忘れていた。
この店はやっぱり昔は美味しくて有名なカツ丼屋だったはずだ。俺も料理人だったから、人の料理に口を出すことはあまりない。口コミも、いくらまずくても書かないようにしている。しかし、昔食べた味とどうして変わってしまったのか。その疑問を解決したくて、失礼ながら店の人に聞いてみることにした。
「あの、ここって結構昔からやっていますよね。僕、昔ここに来たことがあるんですが、なんかちょっと変わったなって思って」
店には先ほどの綺麗な女性が一人だけのようだった。
「申し訳ありません。お口に合わなかったでしょうか?」
女性は悲しそうな表情で謝った。
「いや、責めたいわけじゃなくて、ただ昔と味が変わった理由が知りたくて」
女性はこの店の元天ぷら職人の娘だと言った。父親が急に倒れ、自分が継ぐしかなく、必死に味を再現しようとしているのだが、なかなか出せないのだという。
「ごめんなさい。お客さんにこんな相談して。本来ならダメですよね。私もどうしたらいいか毎日悩んでいて、お客さんも全然来ないし、このままじゃお店を続けていくのは厳しいと思っていて…」
女性は店の看板をクローズにし、今までのことを詳しく話してくれた。名前は上田美穂。両親は離婚していて、父と2人暮らしだった。苦労して育ててくれた父に楽をしてもらいたくて、一般企業に就職し、ある程度稼げるOLをしていた。サラリーマンの男性と交際し、娘のゆのちゃんを妊娠した。仕事は辞め、その男性と結婚し、しばらくは平和で幸せな生活をしていた。
しかしゆのちゃんが大きくなるにつれ、元旦那とは価値観の違いが生じてきた。彼はゆのちゃんの世話は一切せず、子育ては全て美穂さんがしていた。それなのに教育に関しては自分の理想があるらしく、美穂さんのしつけが気に入らないと口を出してきた。さらに義母は美穂さんに辛く当たり、何でも美穂さんのやることを否定した。元旦那は美穂さんの味方ではなく、義母と一緒になって美穂さんを攻撃した。
もうこれ以上はこの親子とはやっていけない。そう思って、美穂さんはゆのちゃんと一緒に夜逃げ同然で家を出たという。
「出戻りの娘を父は何も言わずに迎え入れてくれました。しばらくは父も元気に店をしていたんですが、数年経った頃、その父が倒れてしまって…。父はもうこの店を閉めようと言っていましたが、私はお父さんがやってきたこの店を残してあげたかった。素人の私に何ができるか分からなかったけれど、父が残してあったレシピノートがあったのと、数少ない常連さんからの『亡くなったら残念だ』という声で、なんとか店を続けている状態なんです」
父は美穂さんが店を継いでくれると言った後、すぐに容体が悪化し、そのまま帰らぬ人となってしまった。最後には「ありがとう」と言いながら涙を流して息を引き取ったらしい。
美穂さんはそこまで話すと涙をこらえきれなくなってしまった。そんな様子を見たゆのちゃんが「ママ、泣かないで」と後ろから抱きしめた。
俺は彼女の人生がどこか自分と似ていると思った。父親に育てられ、父に恩返しするために今の仕事を頑張っているところも同じだ。いても立ってもいられなくなり、次の瞬間、俺の口から驚きの言葉が出ていた。
「美穂さん、俺がこの店を手伝ってはダメでしょうか?」
「え?手伝う?」
美穂さんは涙を拭いながら驚いて俺を見た。
「仕事の後、少し厨房に立つぐらいしかできないかもしれませんが、それでも少しお役には立てるかも。俺、実は前職は料理人なんです。和食屋の厨房を任されるくらいにはなったんですよ」
「そうだったんですか。でも、こんな初めてお会いした方に手伝ってもらうなんて申し訳ないです。ご自身のお仕事もお忙しいのに」
「俺は料理が趣味みたいなもんなんです。小さい頃来た客ってことで、これも何かの縁ですよ。無理はしないようにしますので、気にしないでいいですよ」
美穂さんは少し安心したような表情で「じゃ、じゃあよろしくお願いします」と答えた。俺は昼の休憩中だったことを思い出し、慌てて一度仕事に戻った。
そしてその日の仕事が終わると、美穂さんの待つ店へ早足で向かった。
「中野さん、お疲れ様です」
そう迎えてくれた彼女の笑顔を見て、俺は心臓がバクバクしてしまった。手伝うことになったのは境遇が似ている彼女を助けたい気持ちもあるが、そうではなく、単純に彼女に惹かれているだけなのかもしれない。純粋な彼女の前で下心は出すまいと必死に自分を抑えた。
「では、早速出汁から取ってみましょう。あのカツ丼は具材はとても美味しかったんです。調理法も間違ってはいない。あとは出汁の味と少し調味料を加えれば味が締まると思うんですが」
「なるほど。何かが足りないと思っていたんです。父のレシピノートにも隠し味は書いていなくて…。おそらく父は自分の感覚で調味料を入れていたんだと思う」
俺たちは協力して試作を繰り返した。俺は毎日仕事を定時で切り上げ、丼屋の手伝いをした。美穂さんは俺のアドバイスのもと、様々な調理法を試してくれた。彼女の努力家で諦めない姿に、また胸がときめいた。だんだんと美穂さんの作るカツ丼は、父が作っていた時代の味に近づいてきた気がした。
そんなある日、カツ丼屋の手伝いを終えて家に帰ると、父に呼び出された。
「優一、ちょっと来なさい」
父に呼び出される時は、大体何か言いたいことがある時だ。
「最近仕事は定時で上がっているようだが、その後どこへ行っているんだ?何か変なことに巻き込まれたりしていないだろうな」
「そんなことないよ。ちょっと趣味に時間を使ってるだけ。仕事はちゃんとしてるからいいだろう」
俺はカツ丼屋のことは一切話さなかった。今話したら父に止められそうな気がしたからだ。俺が本当は料理人をしたいなんて、父は知らない。料理への情熱がここまであることも、美穂さんという存在がいることも、今はまだ話すタイミングではないことを分かっていた。
「分かったが、仕事は本当に大丈夫なのか?しっかりと利益を出さないと、うちみたいな企業はすぐに消えてしまうんだ」
父からの圧力は俺にはかなりの打撃だった。手伝えるのも、もしかしたら時間の問題なのかもしれない。やっぱり料理ではなく、会社の代表としてやっていかなければいけないのだろうか。
そんなモヤモヤしていたある日の夕方、珍しく兄が東京から帰ってきた。突然の来訪に俺も父も驚いたが、久しぶりの3人での時間は意外と話が弾んだ。兄は東京で結婚して家族もいる。大手の建築会社に就職し、父の自慢の息子だ。
「実は今日は2人に話があってさ」
「え?何?」
こんなに改まって話されるのは初めてだったから、俺は緊張してしまった。
「あのさ、前から考えていたんだけど、父さんの会社を俺に継がせてくれないかな?」
「どういうことだ?」
「俺は就職して今の会社に入ったのも、いずれ父さんの会社を継ぐための下積みだと思ってたんだ。今の職場を辞めることは妻も理解してくれてる」
「でも、俺が継ぐことにしたんだから、兄さんは気にしなくていいんだよ」
「それはいいんだよ。父さんが頑張って続けてきた仕事を、俺にやらせて欲しい」
「でもなあ、今優一が頑張ってくれてることだし…」
俺は、先日言えなかったことを今言わなくてはと思った。
「父さん、俺、実はさ、最近ある店を手伝っているんだ。仕事の後遅く帰ってくるのはそのせいなんだよね」
父と兄は驚いたようだが、真剣に話を聞いてくれた。
「昔父さんと行った店に久しぶりに行ったら、そこの店主と出会って、昔の味が出せなくて困っててさ。それで俺が手伝うことになったんだ。俺、やっぱり自分は料理が好きなんだなって実感した。もし兄さんが父さんの会社を継いでくれるなら、俺は俺の夢を追いかけていいのかなって」
兄は嬉しそうに頷いてくれた。父はどこか決まりが悪そうに頭を掻いている。
「そうだったのか。お前の意思を聞かずに、いつもお前には仕事を押し付けていたんだな。すまん。これからはお前の好きなことをしてほしい」
そう言うと父は俺に頭を下げた。
「いいんだよ、父さん。ここまでの道は何も無駄じゃなかったと思う。俺は自分のやりたいことに気づいて、色々なことに自信を持てるようになった。好きな料理を仕事として、一生向き合っていく覚悟が今やっとできたような気がするんだ」
「優一、ありがとうな。会社のことは俺に任せて。俺もお前の夢を応援するよ」
「ありがとう。父さんも兄さんも」
「ところで、お前が手伝ってる店はどんな調子なんだ?」
「うん。味はなんとか頑張って昔の味を再現できそうなんだけど、問題は集客の方なんだよね。いまいち口コミも広がらないし、若い人も来てくれないし」
「店の外観や内装はどうなんだ?入りやすい雰囲気にはなっているのか?」
俺は父の言葉に頭を叩かれたような気分だった。そうか。あの店に足りないのはそういうところだったのか。確かに店は古いし、昔のままだ。インテリアも昭和のままだ。
「お前がリフォームの提案をしてやればいい。俺もよかったら手伝うよ」
俺は今の仕事で培ったことをすっかり忘れていた。料理ばかりに目が行きすぎて、お客さんの立場で足りていないところを見つけきれていなかった。
次の日、早速俺は兄を連れて美穂さんの店を訪れた。
「初めまして。いつもお世話になっています。優一の兄です。今日はお店をちょっと見せていただきに来ました」
「よろしくお願いします」
美穂さんは兄の来店に少し緊張している様子だった。店をけなされたらどうしようと思っているのだろう。
「なるほどね。古き良きみたいな雰囲気は残しつつ、清潔感のある感じでリフォームするのはどうかな。うちの会社の宣伝も兼ねてってことで、工事費はうちが持つのはどうだろう?」
「え、いいの?」
「その辺は父さんにも俺から言うし、うまくやるよ。リフォームが成功してお互いのお客さんも増えれば万々歳だろ」
俺は嬉しい報告を美穂さんにした。
「で、でも、うちにはそんなお金がありません。父が残してくれたお金も、もう底を尽きてしまったし…」
俺は兄がしてくれた宣伝の件を話した。
「ここのリフォームはうちの会社がしました、みたいな宣伝をしてくれたらそれでいいから」
美穂さんは申し訳なさそうにしながらも、リフォームに関しては了承してくれた。「楽しみにしています」と言ってくれた。
兄は先に帰り、俺はその日も美穂さんの仕事を手伝った。味はだいぶ美味しくできるようになった気がする。いや、むしろ最近は先代の味を超えてきてるかもしれない。美穂さんの習得の速さにも驚いた。同時に、自分なんてもういらないのではないかという漠然とした不安も出てくるようになった。
俺はその日の夜、帰ってから兄と共に店のリフォーム工事の計画を練った。兄は父に予算のことと宣伝費を兼ねた工事であることを相談してくれた。父は俺が手伝っている料理店ということもあって、今回の件を了承してくれた。
「いいの?本当に?」
「あそこのカツ丼、うまかったよな。懐かしくなったよ。お前たちを連れて行った日を思い出してな。今回は優一がそこを手伝っているということで、父さんからのプレゼントだ」
父と兄が計らってくれたことですぐに、リフォームの企画書を美穂さんに見せに行った。
「私、こういうことには詳しくないから分からないけど、とても素敵に変わりそう。どうぞよろしくお願いします」
そうして早速、店の改装工事が始まった。店のスペースの半分ずつを工事したので、長く休業せずに済んだ。この間も俺と美穂さんは一生懸命に店の営業を続け、俺は店の宣伝をどうするか模索していた。若い人に来てもらうにはSNSを活用するのが一番だ。でも年配で昔の店を知っている人にも来てほしい。俺はSNSと紙ベースのチラシと両方を使って宣伝することにした。「昔ながらの味」「昭和レトロ」ということで。
ついにリフォームも終わり、その日が来た。昼前からお客さんはそこそこに来てくれた。お昼には外に並ぶほどの人だかりだった。
「こんなに人が来てくれるのは、父の時以来です」
美穂さんは涙を拭いながら、忙しく店の仕事をした。夕方、少し人が少なくなった頃、俺は美穂さんに休憩しようと声をかけた。ずっと言えていなかった、俺の気持ちを伝えようと思った。
「お疲れ様。よかったね、美穂さん」
「優一さん、本当にありがとうございました。私たちのお店の再建に力を貸してくださって、心から感謝しています。優一さんがいなかったら、何もかもここまでできませんでした」
「いやいや、俺は何も。俺こそ、手伝わせてもらってありがとう。自分がどんなことをしたいのか分かった気がするよ。それでね、美穂さん。もし美穂さんが良かったらなんだけど、これからも俺、ここで働かせてもらっていいですか?」
俺は座敷に正座して、美穂さんの正面を見て言った。店の中にはまだお客さんがいたが、近所の人や常連さんたちだったから、俺たちが話し始めると「なんだなんだ」とみんな興味津々だった。
「あの、優一さん。ちょっと奥で話しましょうか」
みんなの視線を気にして、美穂さんは俺の手を引いて厨房の中へ入った。ゆのちゃんは常連さんたちと楽しそうに会話している。
「優一さん、うちにずっといてくれるんですか?」
「はい。料理も好きですし」
「それは料理のためだけでしょうか?」
「はい」
「私は優一さんとこれからもずっと一緒にいたいなって思っているんです。それは、お店以外でも」
俺は最初、美穂さんが何を言っているのか分からなかったが、だんだんと彼女からの愛の告白だということに気づいた。
「美穂さん、それって、俺のこと好きってことですか?」
「は、恥ずかしい。人生で初めて自分から告白してしまいました」
美穂さんは耳まで真っ赤になって、必死で顔を隠している。俺は自分の胸がこんなに速く打てるのかというくらいドクドクしているのが分かった。
「美穂さん、先に言わせてしまってごめんなさい。俺も、俺も美穂さんが大好きです。美穂さんの努力家なところや、みんなに愛される笑顔や、ゆのちゃんという宝物を育ててるところも。というか、実は一目惚れかもしれないです」
俺は頭を掻きながら言った。
「どうだったんですか?」
「私もあの日、初めて優一さんが来た時から、素敵な優しい人だなって。最初は親切な人だと思っていただけな気がするけど、毎日仕事終わりに手伝いに来てくれて、私に調理のことも優しく教えてくださって…。こんな人とずっと一緒にいられたら幸せだろうなって、そんなことばかり考える自分に気づいて。でも、こんな私の気持ちはズルいと言ってはいけないと思っていました。密かな片思いにしようって思っていたんですが…」
美穂さんはそこまで言うと、ほっとしたのか何なのか、涙をポロポロこぼし始めた。
「美穂さん、大丈夫?」
「ごめんなさい。嬉しくて。好きな人に好きって言ってもらえるなんて。私、幸せ者すぎますね」
「ママ!」
その時、ゆのちゃんが走って入ってきた。
「ママ、なんで泣いてるの?優一さんにいじめられたの?」
「違うのよ。えっとね…。優一さんはママのことを世界で一番大切にしてくれる優しい人よ。そんな人と両思いだって分かって、嬉しくて涙が出たの」
「わかる。…ちょっと難しいかな」
確かに、ゆのちゃんにはまだ嬉し泣きというものが分からないかもしれないな。でも俺たちの関係が少し進んだことは、子供ながらに理解してくれたようだ。
「じゃあ、優一さんがパパになるの?」
ゆのちゃんの目はキラキラ輝いていた。
「ゆのちゃん、俺がパパになってもいいかな?」
「うん、いいよ。優一さんがパパになるの、嬉しい」
最高の返事をゆのちゃんにもらえた俺は、思わずガッツポーズをしてしまった。
「うおー、おめでとう」
カウンター越しに厨房の中の話を聞いていた常連さんたちが、俺たちに向かって拍手をして祝ってくれた。
「やだ、みなさん聞いてたんですか?」
「うん。みんなでずっと聞いてたよ」
「きゃあ、もうやめてよ」
美穂さんは泣き笑いみたいになって顔をくしゃくしゃにしていた。そんな彼女の顔がたまらなく愛しかった。
それから1年後、俺と美穂さんは結婚式を挙げた。式には店の常連さんや俺の父と兄夫婦が来てくれた。ゆのちゃんは可愛いリングガールをしてくれた。兄は父の会社を継いで、経営は今や右肩上がりだと父は喜んでいる。俺たちの店もあれから客足は絶えず、地元の人気店としてテレビ局の取材が来ることもあるくらい繁盛している。
美穂も、俺も、そしてゆのちゃんも。みんなで力を合わせて店を盛り上げ、楽しく家族経営ができていると思う。あの日、ふらっと寄ったカツ丼屋で、まさか運命の出会いが待っているとは思わなかった。俺たちの絆は、この店のように長く続いていくことだろう。



