「取引は即中止します」
その言葉を聞いた瞬間、奴の顔から笑みが消えた。だが、すぐにまたバカにしたように嗤い返してきた。
「何言ってんだよ、日本酒で酔ったか?」
俺は営業スマイルを張り付けたまま、静かに言い放った。
「さっき入ってきた時に気づいたんだが、お前の奥さん、かよさんだよな。俺が経営している会社と取引がある会社の社長なんだ」
「はあ?何寝ぼけたこと言ってんだ。中卒が社長になれるわけないだろ」
俺は名刺を取り出して、奴に突きつけた。
「そこに書いてある通り、俺は社長だ」
奴の顔が凍りつく。その時、タイミングよく奥さんと子供が戻ってきた。かよさんは俺の顔を見て、慌てて頭を下げた。
「先ほどは挨拶もできず申し訳ございませんでした。先日は接待いただきありがとうございました」
その様子を見て、奴は完全に言葉を失っていた。
俺の名前は広川浩司。独身の25歳だ。今でこそ会社を経営しているが、ここに至るまでの道のりは決して平坦なものではなかった。
中学校までは優しい両親と二つ下の弟と一緒に暮らしていた。だが、中学2年の時に両親が交通事故で突然亡くなった。あまりに急な出来事で、俺も弟も何が起こったのかすぐには理解できず、ただ呆然とするしかなかった。
それまで疎遠だった親戚が押しかけてきて、葬儀はあっという間に終わった。その後は決まり文句のように、俺たちの引き取り合戦ならぬ押し付け合いが始まった。それをぼんやり眺めながら、俺はようやく「もう二度と両親には会えないんだ」と実感が湧いてきた。そこで初めて涙が溢れ、それを見た弟も泣き出し、二人で抱き合って大泣きした。
親戚たちは口々に「どこの家も二人一緒に面倒を見ることはできない」と言った。このままだと、たった一人の家族と引き離されてしまう。俺は親戚たちに頭を下げて頼んだ。施設に入るので、二人一緒に入れてほしいと。弟の面倒は自分が責任を持って見ると。
親戚たちは顔には出さなかったが、心の中ではみんなホッとしていたことだろう。こうして俺と弟は養護施設で暮らすことになった。
最初はなかなか馴染めず苦労したが、元々社交的な性格だったこともあり、一ヶ月も経つ頃には他の子供たちや大人たちとも過ごせるようになった。中学3年になり進路の話が出始めた頃、施設は嫌いではなかったが、俺は弟と二人で施設を出て暮らしたいと思うようになっていた。やはり家族だけでいたいという思いもあったし、施設にはルールがあって窮屈な思いをすることも多かった。
弟には、両親がいないからと言って不自由な思いはさせたくなかった。そのためには、俺が就職して生活費を稼がなければならない。同級生たちが高校受験に向けて勉強する中、俺は就職活動を始めた。中卒の俺を雇ってくれるところはほとんどなく、選り好みできる状況ではなかったが、なんとか雇ってくれる会社を見つけた。同級生たちが全員高校に進学する中、俺は一人働きに出た。
そんなこともあり、同級生とは疎遠になっていった。だが、弟と二人で暮らせて、俺は満足だった。その弟も今では立派な社会人になった。しっかり大学を出て、新卒社員として日々頑張っている。弟は就職と同時に家を出たので、今は俺の一人暮らしだ。
そして先日、仕事から帰ってポストを開けると、見慣れない封筒が入っていた。中には中学校の同窓会の招待状が入っていた。高校には行っていないから、同級生と顔を合わせるのは実に十年ぶりくらいになる。
俺が頭を悩ませた原因の一つに、元同級生の吾妻の存在があった。奴は父親が大きな会社の社長で、地元でも有名な金持ちだった。両親を亡くしたばかりの俺にどう関わっていいか分からず、同級生たちはみんな腫れ物に触るように接してきたが、吾妻だけは違った。
俺が高校受験をせずに就職することを先生から聞いたらしい。奴は取り巻き連中と一緒にやってきて、こう言い放った。
「おい、お前、高校にも行けないくらい貧乏なんだってなあ。かわいそうに」
その顔はどう見ても同情しているようには見えず、俺のことを見下しているとしか思えなかった。俺は「別にただ弟と一緒に暮らしたいだけだから」と思ったが、奴は続けた。
「施設にいるだけあって普段から貧乏臭いのに、中卒で就職とか。お前の人生もう終わったな」
俺は腹が立ったが、ここで奴と揉めてもいいことは何一つない。教師たちも、奴の父親が学校に毎年多額の寄付をしているからか、奴が何をしても止めることはなかった。言い争いになっても、きっと奴の肩を持つだろう。俺は言い返すことをやめて、無視することに決めた。
だが、そんな俺の態度が気に食わなかったのか、奴からの嫌がらせはエスカレートしていった。教科書を破られる、体操服がゴミ箱に投げ入れられる。今思えば立派ないじめだったが、先生も同級生も誰も止めに入ることはなかった。俺はひたすら我慢してやり過ごすしかなかった。「どうせあと数ヶ月で卒業したら、もう会うことはない。気にするだけ無駄だ」と自分に言い聞かせた。それでも、中学生活最後の一年は奴のおかげで地獄のようだった。
同窓会には奴もきっと参加するだろう。噂では、高校卒業後に有名私立大学へ進学したと聞いていた。まさに金持ちのエリート街道まっしぐらというわけだ。
俺には中学卒業後も連絡を取り合っている友人が何人かいた。その友人たちに同窓会のことを聞くと、みんな参加すると言う。俺は奴のことが気がかりだったが、「奴もさすがに大人になっただろうし、あの頃のままではないかもしれない」と思った。友人たちに説得されて、俺は参加の欄にチェックを入れた。
同窓会当日、俺は事前に待ち合わせをしていた友人の北村順二と再会した。お互い忙しくて最近は会っていなかったため、近況報告をしながら会場へと向かった。会場に着くと、まだ開始時刻前だというのに大勢の人で賑わっていた。小さな子供の姿も何人か見えた。招待状に「家族がいる人は連れてきてもいい」と書いてあったから、同級生の誰かの家族だろう。
受付を済ませて会場である料亭の中に入ると、外観からも高級感が漂っていたが、内装もやはり豪華だった。俺は普段こういった場所に縁がないため、少し緊張してしまった。隣の順二も同じようで、二人で大人しく従業員の案内に従った。宴会場に着くと、俺たちはなるべく目立たない隅の席に座った。
続々と集まってくる同級生たちを見ていると、大人になっても中学の頃の面影が残っている人が多くて安心した。順二としばらく人間観察を楽しんでいると、襖が開いて見知った顔が入ってきた。吾妻だ。隣にいるのは奥さんと子供だろう。奴が来ると、中学時代と同様に周りに人が集まり始め、ぺこぺこと頭を下げ始めた。要するに、奴に媚びを売る取り巻き連中だ。奴は満足げな笑みを浮かべながら、彼らと言葉を交わしていた。奥さんと子供は別室へ移動していった。確かに、ここは騒がしくて落ち着いて食事もできないだろうからな。
そう思っていると、ふと吾妻と目が合った。まずいと思って慌てて目をそらしたが、時すでに遅し。奴は俺の方に近寄ってきた。
「誰かと思えば、中卒の浩司君じゃないか。ちゃんと死なずに生きてこれたんだな」
そう言って、ニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んでくる。
「貧乏すぎてとっくにくたばってると思ってたよ。貧乏人っていうのは意外と頑丈なんだな」
俺は暴言を気にしないようにしながら、挨拶だけを口にした。
「久しぶりだな、吾妻」
「おいおい、お前なんかが呼び捨てするなよ。吾妻さんか吾妻様だろ」
そう言いながら奴が笑うと、傍らの取り巻き連中も一緒になって笑い始めた。順二は俺の隣で悔しそうに奴のことを見ていた。俺は「こいつは年を取っても変わらないんだな」と思って、呆れてしまった。人のことを見下して、何が楽しいのだろうか。
「俺の嫁さん見たか?美人だろう。美人なだけじゃなく、社長なんだ」
どうやら奴は奥さんをここに連れてきたのは、みんなにお披露目して自慢したかったからのようだ。奴の自慢話によると、奥さんはある会社の社長で、奴は父親の会社で課長職に就いているらしい。今はまだ課長だが、ゆくゆくは父親から社長の座を継ぐことになっているとのこと。奴の話に、取り巻き連中は口々に「すごい」「羨ましい」と言って奴を持ち上げていた。
自慢話に興味がない俺と順二は、二人で料亭の美味しい料理を楽しむことにした。俺たちが食事をしていると、また奴が俺の方に近寄ってきた。
「お前、中学の時から思ってたけど、見るからに貧乏臭いよな。もっといい服着ろよ。あ、そんな余裕ないか。中卒だもんな」
俺は別に自分の服装が貧乏臭いとは思っていない。派手なものが好きではないからシンプルなものが多いが、清潔にしている。それに中学の時はみんな同じ制服だったんだから、貧乏臭いも何もないと思うんだが。
「お前が臭くなくても、こっちは困るんだよ。貧乏臭くて敵わない」
そう言って、奴は鼻で笑った。
「同窓会の会場をここに決めたのも俺なんだ。いつも贅沢してるからね。お前みたいな貧乏人は、こういう時じゃないと来れないよな」
いい加減、俺に絡んでくるのをやめてくれないだろうか。このままではせっかくの同窓会が全然楽しめない。俺が奴にそれを伝えようとした瞬間、俺の頭の上から何かが降ってきた。周りにいた同級生から悲鳴が上がった。
「貧乏人を清掃してやるぞ」
そう言って笑う奴の手には、日本酒の一升瓶が握られていた。どうやら俺の頭に降ってきたのはこの日本酒らしい。奴は俺の頭の上から、一升瓶ごと日本酒をぶっかけてきたようだ。隣にいた順二が慌てて何か布きれを探しに行った。
「俺が消毒してやったんだから、感謝しろよな。お前みたいな奴にこの日本酒はもったいなかったかもなあ」
そう言ってゲラゲラ笑う奴の後ろで、取り巻き連中も俺を指さして笑っている。関係のない同級生たちは俺に哀れみの目を向け、ひそひそ話しているだけで、誰も助けに来る様子はなかった。まあ、ここで奴に睨まれてもいいことなんてないもんな。きっと地元に残ってる人間が大半だろうから、自分たちのことを考えたら奴に逆らわない方が賢明だと思うのも仕方がないことだ。
だが、俺はもう我慢の限界だった。どうしてここまでされなければいけないのか分からない。そっちがその気なら、こっちにも考えがある。
順二が持ってきてくれたおしぼりで軽く服と頭を拭いてから、俺は静かに立ち上がって、奴に微笑んで見せた。営業スマイルだ。そして、奴に向かって言い放った。
「取引は即中止します」
その言葉に、奴は一瞬ポカンとした顔をしたが、すぐにまたバカにしたように笑い始めた。
「何?日本酒で酔っ払っちゃった?何わけわかんないこと言ってんだよ」
俺は営業スマイルのまま、奴に向かって静かに話した。
「さっき入ってきた時に気がついたんだけど、お前の奥さん、名前はかよさんだよな。俺が経営してる会社と取引がある会社の社長なんだよね」
「はあ?何寝ぼけたこと言ってんだよ。中卒が社長になるなんてできるわけないだろ」
俺はポケットから自分の名刺を取り出して、奴に突きつけた。
「そこに書いてある通り、俺は社長だよ」
俺は中卒で働き始めたが、そのまま負け組の人生を送ることは絶対に嫌だった。仕事の合間に独学で経営について猛勉強し、弟が大学に入れたのを見届けてから起業し、成功を収めたのだ。
「そんな、そんなことはありえない。名刺なんてどうせ自分で勝手に作った偽物だろう」
そう言って認めようとしない奴のところに、タイミングよく奴の妻であるかよさんと子供が戻ってきた。かよさんは俺の顔を見て、ハッと声を上げた。
「先ほどは挨拶ができず、すみませんでした。あと、先日は接待いただき、ありがとうございました」
かよさんは慌てて頭を下げて挨拶をしてきた。その様子を見ていた奴は、愕然とした表情で黙り込んでいる。
「せっかくしていただいたのに、大変申し訳ないのですが、この度の取引はなかったことにしたいと思います」
「え、それはなぜでしょうか?」
かよさんが慌てて聞いてきたので、俺は奴を指差して言ってやった。
「あなたの旦那さんに暴言を吐かれ、挙句の果てに日本酒を頭からかけられました。人に対してこんな失礼なことをするような方のご家族とは、取引したいと思えません」
「なんですって?あなた、これは一体どういうことなの?」
奴は猫なで声を出して、かよさんにすり寄っていく。どうやら奴はかよさんの前では猫をかぶっているようだ。奴の発言に、俺の隣にいた順二が声を上げた。
「嘘じゃありません。『中卒の貧乏人』って何度も馬鹿にしてきましたし」
順二の言葉に奴はハッとしたが、かよさんの方は顔面蒼白になって俺に謝り始めた。
「主人が大変失礼なことをして、申し訳ございませんでした。よく言って聞かせますから、どうか取引中止だけはご勘弁いただけないでしょうか?音者との取引がなくなってしまったら、私の会社は立ち行かなくなってしまいます」
俺は必死に頭を下げるかよさんを見て、少し申し訳なく思ってしまった。かよさんが悪いわけではないのだが、ここで奴を許すことはできない。
「かよ、こんな奴に頭を下げるなよ。そんなことしなくていいんだ」
この後に及んでも、奴はまだ俺のことを認めたくないらしい。奴がそう言い寄ると、奥さんはキッと睨みつけた。
「あなたは口を閉じて。広川さんの会社は私の会社にとって一番大きい取引先なのよ。なんてことをしてくれたのよ」
かよさんの言葉に、今度は奴の顔が引きつっていく。やっと俺がかよさんの取引先の社長だと認めざるを得なくなったようだ。
「あなた、私の前では本性を隠していたのね。他人に対してこんな振る舞いをする人と一緒にいることはできないわ。子供の教育上も良くないし、離婚よ」
かよさんの放った「離婚」という言葉に、奴は脂汗を流し始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。離婚なんてしたら、親父に何て言われるか」
普通はかよさんのことを愛してるから別れたくないとか、子供と離れたくないとか言う場面じゃないのだろうか。俺はそう思わずにはいられなかった。
「そんなこと、私の知ったこっちゃないわ。自業自得でしょ」
かよさんはそう言い放ち、俺の方に向き直った。
「そういうわけで、私は離婚して他人になりますので、どうかご容赦ください。このままでは従業員の給料も払えなくなってしまいます」
かよさんの言葉に、俺は「とりあえず、今回のことは一回持ち帰らせてもらう」と告げて、順二と料亭を後にした。そして近くの服屋で服を買い、二人で飲み直しに繰り出したのだった。
その後、吾妻とかよさんは本当に離婚することになった。どうやら奴は俺以外に対しても、職場でパワハラやセクハラまがいの言動を繰り返していたらしく、それがかよさんと父親の耳に入ったのだ。かよさんからは子供の養育費と慰謝料を請求され、父親からは見放されて会社を解雇された。今は家も追い出されて、どこにいるのか誰も知らない。ただし、かよさんによると養育費などの支払いが定期的にあるから、どこかで生きて働いていると思うとのことだった。
ちなみにかよさんの会社とは、彼女が離婚したことで取引中止の話もなくなり、取引を続けている。そして俺はと言うと、あの奴の行き過ぎた行為により、俺に同情する同級生が増え、順二以外にも友人と呼べる存在ができた。奴の取り巻き連中は俺が社長と知って、媚びへつらい寄ってきたが、俺は取り合わなかった。虫がいいとはこのことを言うのだと実感した。
俺の会社の業績は右肩上がりで、充実した日々を送っている。先日、弟から連絡があり、俺のように起業を目指したいと相談された。「兄貴に憧れて」と言われて少し気恥ずかしくはあったが、弟に尊敬してもらえる兄でいられて良かったと思った。きっと俺が中卒で働き始めた時に、その後の人生を悲観して諦めていたら、今の俺はいなかっただろう。どんな時も自分の境遇を嘆くことなく、前を向いて努力を続けていたら、結果は必ずついてくるのだと思った。
俺はこれからも、弟に誇れる兄でいるため、そして自分の会社で働いてくれる社員たちのために、努力をし続けて前に進んでいこうと思っている。



