「中卒かよ。じゃ、契約する価値ないな」…

「中卒かよ。じゃ、契約する価値ないな」...

会議室に響いたのは、嘲笑にも似た乾いた笑い声だった。名刺を交わし、淡々と話が進んでいたはずの商談。だが、俺が「中卒です」と一言伝えた瞬間、相手の態度は一変した。

森本と名乗った営業部長は、鼻で笑いながらこう言った。

「なんだ、中卒かよ。じゃ、契約する価値ないな」

その言葉を最後に、俺はゆっくりと席を立った。一礼だけして、無言で会議室を後にする。彼は知らない。この契約がどれほど自社の運命を左右するものだったかを。そして俺も、家具を軽んじる者に妥協するつもりはない。

俺の名前は浜野大機。中堅家具メーカー「浜野工房」の社長だ。

元々は裕福とはほど遠い家庭で育った。親は真面目に働いていたが、兄弟も多く、進学の費用を出す余裕はなかった。高校への進学を勧められることもあったが、これ以上親に迷惑はかけたくないと、自分の意思で中学卒業と同時に働く道を選んだ。

当時、求人誌で見つけたのが野谷製作所だった。地元の家具製造業者で、決して大企業ではなかったが、手作りの家具にこだわる職人気質な会社だった。俺はそこでゼロから全てを学んだ。図面の見方、木材の選び方、加工の基本、塗装、仕上げ。朝から晩までがむしゃらに働いた。

その姿を見てくれていたのが、先代の社長である谷さんだった。

「お前には才能がある。それに何より、家具に対する目がいい」

そう言ってくれた谷さんは、職人としてだけでなく、経営の面でも俺を少しずつ育ててくれた。展示会への同行、価格交渉、仕入れ先の選定、営業会議。自分でも驚くほど、知識も経験も吸収できた。気づけば俺が開発した家具は、野谷製作所の中でも人気の商品になっていた。デザインと実用性を兼ね備えた独自のシリーズは、次第に指名買いも増えていき、取引先からの信頼も集めた。

そして数ヶ月前、谷さんが体調を崩し、引退を決意したことをきっかけに、俺が正式に会社を引き継ぐことになった。社名は「浜野工房」へと改めた。野谷製作所の伝統と、俺自身の名を掛け合わせた名前だ。ブランド戦略も見直し、販売店任せだった流通も再構築。中身のない量産には手を出さず、家具と向き合うことを信念に、製品と向き合い続けてきた。

ありがたいことに、品質には自信がある。素材も国産の良質な木材を使用し、製造工程も全て国内。職人の手によって丁寧に仕上げられた家具は、一点一点が作品と呼べるものになった。その姿勢が評価され、浜野工房は知る人ぞ知る存在になった。名前が世間に広く知られることよりも、家具にリスペクトを持ってくれる相手とだけ取引する。それが俺たちのポリシーだ。

だからこそ、新規の取引先はここ数年あえて増やしていなかった。だが最近、ある企業から「どうしても取引させて欲しい」という熱意ある連絡が届いた。家具販売チェーン「フューチャーリビング」。業界内でもそこそこ名の通った準大手だが、近年は売上が低迷しているという話も聞いていた。

正直、最初は断ろうと思っていた。だが先方の社長、大塚氏は非常に誠実で、家具への理解も深かった。「家具の本質を大切にしたい」というその姿勢に、俺は心を動かされた。だからこそ、異例的に数年ぶりに新規の承諾をすることにした。ただし、あくまでも誠実な姿勢が続く限りという条件付きでだ。

商談当日、俺はフューチャーリビングの本社を訪れた。受付を済ませて会議室へ通されると、机の上にはこちらが送っていた資料一式が並んでいた。必要最低限の準備はされているが、どこか機械的で、温かみは感じない。

しばらくして、ガチャッと扉が開いた。入ってきたのは、がっしりとした体格の男。だらしなく緩めたネクタイ。歩きながらスマホをいじっている姿が見えた。

「営業部長の森です。どうもどうも」

そう言って、名刺を片手で差し出してきた。受け取ると同時に俺も名刺を渡すが、森本はちらっと目を通しただけで、無造作に胸ポケットへ突っ込んだ。

「浜野工房? どこのそれ? 聞いたことねえな。地方の町工房すか?」

すでに言葉の端々に見下しが滲んでいたが、俺は気にせず、会社の成り立ちや取り扱い商品について簡潔に説明した。形式的なやり取りが一通り進むと、森本が椅子にもたれかかりながら訪ねてきた。

「で、浜野さんっておいくつ?」
「30代後半です」
「へえ、若いっすね。どこの大学出てるんです? 美大とか?」
「いえ、中卒です。現場の仕事をしながら職人として技術を積み上げてきました」

その瞬間、森本の口元が吊り上がり、吹き出すような声が漏れた。

「マジっすか? 中卒? 冗談でしょ? いや、受けるわ。中卒の社長とか、まだ実在するんすね。てか、それでブランドとか語っちゃうんすか?」
「学歴と品質は関係ありません。うちは製品の質で勝負しています」
「いやいやいや、関係あるでしょ、普通に。中卒でも入れるような会社ってことは、他の社員もその程度でしょ。客から見たらレベル低い会社にしか見えないっすよ」
「職人の経験と目利きで作り上げた製品です。誇りを持って提供しています」
「誇り? 笑わせないでくださいよ。高けえ値段つけてますけど、どうせどっかで手抜いてんじゃないの。職人技って言えば騙せると思ってるんでしょう。中卒がやってる無名のブランドが、何正当価格ずらしてんのって話っすよ」
「価格には素材と工程の正当なコストが含まれています。ごまかしは一切していません」
「そんなもん、言ったもんがちでしょ。大体、浜野工房初めて聞いたわ、そんな名前。俺らみたいに全国に展開してる会社が、なんでわざわざオタクみたいな下請けと組まなきゃいけないんすかね」

森本はさらに椅子を揺らしながら、不敵に笑って続けた。

「ま、今回の話はなかったことで。うちは準大手なんで、もっとまともなとこと付き合いますんで。いやあ、マジで時間の無駄でしたわ」

無言で立ち上がる俺。資料を静かに閉じ、丁寧に一礼して席を離れた。

「何マジになってんすか? 社会は甘くないっすよ、中卒さん」

後ろからの声を無視して扉に手をかける。

「お疲れさま。ご立派な町ブランドで頑張ってくださいよ」

会議室のドアが閉まる音だけが、静かに響いた。

あの一瞬で、取引の価値はゼロになった。家具に敬意を持たない相手に、こちらが時間を使う理由はない。

会社に戻ると同時に、俺はすぐに電話を手に取った。宛先はフューチャーリビングの社長、大塚健吾。先ほどの商談でのやり取り、特に森本の態度を、彼自身が報告するとは到底思えなかった。

コール音が数回鳴った後、落ち着いた声が受話器越しに響いた。

「これはこれは、浜野さん。今日はお忙しい中ありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」

その一言だけで、森本から何も報告が行っていないことが分かった。彼はきっと、何事もなかったことにしたまま終わらせるつもりなのだろう。

「申し訳ありませんが、契約はしておりません」
「え?」

静かな戸惑いが、電話越しにも伝わってきた。

「それはどういうことでしょうか? 商談は無事終わったのではないですか?」
「はい、無事に終わりました。ですが、契約に至るには大きな問題がありました」

俺は会議室で森本が何を言ったのか、その全てを、言葉を選びながらも一切の誇張なく伝えた。森本が俺を中卒として見下し、会社を馬鹿にし、ブランドも品質も否定したこと。契約はなかったことにすると一方的に打ち切りを宣言したこと。その全てが、家具に対する冒涜であること。

「そんなことが…」
「『中卒の社長と契約する価値はない』『無名ブランドのくせに強気すぎる』『どうせ不正してる』『ウチは準大手だから組む必要はない』。森本部長はそういった発言をされました」
「信じられません…」
「御社のように家具を取り扱う会社が、そのような価値観で動いているのであれば、当社としては取引はできません。家具は人の暮らしに深く関わるものであり、それを見下す姿勢は容認できません」
「ま、待ってください。私は本当に御社との取引を望んでおります。森本の発言が事実であれば、当然に対処いたします。ですから、どうか…」
「事実関係を確認された上で、御社がどう判断されるかはお任せします。ただ、私は御社の営業責任者が私の目の前で、会社も人間も貶したという事実を持って判断しています。御社の方針と体制が変わらない限り、うちの家具を並べる気はありません。それだけはどうかご理解ください」
「はい…承知しました。事実関係を確認し、改めてご連絡差し上げます」
「それでは、失礼します」

受話器を置くと、深い息が漏れた。怒りではない。虚しさでもない。ただ残念だった。それだけだ。こちらは家具という、人の生活に根ざすものを真剣に扱っている。だが相手がただの商品としか見ていないのならば、交わることはない。

浜野工房の看板を掲げる以上、俺は誰とでも取引するわけじゃない。リスペクトのない場所には絶対に並べない。それが俺の仕事に対する信念だ。

数十分後、フューチャーリビングの社長室に森本が呼び出された。重苦しい空気が漂う中、森本はスーツのボタンすら留めずに足を踏み入れる。

「どうもっす。今日の件、あれなしにしときましたから。いや、あれはちょっとないっすよ。中卒が社長とか、どう考えても格が落ちるでしょ。うちのブランドイメージに合わないっす。正直、ああいうなんちゃって職人系って一番信用ならないんっすよね」

「お前、今何と言った?」
「え? いやいや、事実じゃないっすか? 浜野工房、名前すら聞いたことないし。値段も強気すぎるし。胡散臭さしか感じなかったっすよ。あと、自信だけは一人前でさ。どうせ手抜きで高くつけてんでしょう。うちがわざわざあんなとこと契約する必要あります?」

大塚の表情が、失望にゆっくり染まっていく。低い声で、言葉を吐き出すように返した。

「浜野工房は、旧・野谷製作所が名を変えた会社だ」

一瞬、空気が凍りついた。

「お前、知らないのか? 野谷製作所といえば、国産木材家具のトップブランドだ。展示会では数々の賞を取り、百貨店や有名建築家との取引もある。その魂と技術を受け継いでいるのが、今のお前がバカにした浜野工房なんだよ」
「え、マジで? あの野谷製作所が…」
「そうだ。代表の浜野社長は、先代の元で技術を磨き、後継者として指名された人物だ。お前はその人間に、『中卒のくせに』『無名ブランドだ』と。よくもそんなことが言えたな」
「いや、知らなかったんで…」
「知らない? 知らなければ侮辱していいのか? お前のその学歴で人を測る価値観が、会社の命綱を断ち切ったんだよ。言っておくが、銀行の融資も、取引先の不動産も、全て浜野工房の商品導入が前提だったんだ。それが決まれば、立て直しの目途が立つはずだった。その希望をお前のたった数分の放言で、全てぶち壊したんだよ。お前が何をしたか理解してるのか? お前のせいで、会社が潰れるかもしれないんだぞ」
「すみません。本当にすみません…」
「すみませんで済むか!」

怒声が社長室に響き渡り、森本の背中がびくりと震えた。その場に立ち尽くす彼の顔からは完全に血の気が引き、唇だけがわずかに震えていた。ようやく自分のやったことの重みが、音を立てて落ちてきたのだった。

森本は社長室を出るなり、真っ青な顔でスマホを握りしめた。つい数時間前まで馬鹿にしていた相手に、今度は自ら頭を下げなければならない。それでも、もうこの一手しか残されていないことを、本人が一番よく分かっていた。

その頃、俺は工房の事務所で書類整理をしていた。そこへ事務員が慌てた様子でやってきた。

「浜野さん、フューチャーリビングの森本様からお電話です」

予想していた名前に、俺はゆっくりと受話器を取った。

「浜野です」
「も、森本です。先ほどは大変失礼なことを申し上げまして、心よりお詫び申し上げます」

いきなりの土下座だ。声が震えている。ついさっきまで俺を笑い飛ばしていた男とは思えないほど、必死な響きだった。

「どういう風の吹き回しですか?」
「…恥ずかしい限りですが、御社が我が社にとって極めて重要な取引先になると、今になって知りまして。私は無知で、調べもせず…な言動を、本当に申し訳ございませんでした」

謝罪の言葉ばかりが続く。その上で、奴は再びこんなことを言い出した。

「続けまして、もし可能であれば、再度商談の機会をいただけませんでしょうか? 改めて精一杯、誠意を持って対応させていただきたいと思っております」

何を今更。俺は迷いなく、はっきりと答えた。

「もう結構です。御社の姿勢は、先ほどの商談でよく理解できましたので」
「あ、お願いです! あの時は私の一存で…会社としては本当に御社との契約を望んでいたんです」
「謝罪で撤回するつもりはありません」

声を遮るように強めに言い切った。その瞬間、電話の向こうから息を飲む音が聞こえた。

「私は、家具や職人、そしてそれに関わる人たちを軽視する相手と、今後一切関わる気はありません。いくら謝罪しても、あの時の態度が御社の本音だと、私はそう受け取りました」

しばらく沈黙が続いた。森本は言葉を探しているようだったが、もうこちらの答えは決まっている。電話越しの静寂が、重たく漂っていた。

沈黙の後、森本の声色が変わった。それまでの丁寧すぎる謝罪口調から一転。急に感情を荒らげた、泣き声混じりの調子になった。

「お、お願いします! 本社と契約できなければ、弊社は本当に倒産してしまうんです!」

手口を変えてきたな。そう思った。言葉を変え、トーンを変えれば、こちらが折れるとでも思っているのだろう。だが俺の心は、すでに一ミリも揺らがなかった。

「社員が…社員たちが路頭に迷うんです! 私の判断ミスで、私の責任でこんなことに…」
「社員を盾にして謝罪が通ると思っている、その姿勢が嫌です。本当に大切な契約だったのなら、そもそも御社の社長はあなたに、それ相応の責任と自覚を持たせておくべきでした。それがなされていなかった時点で、会社全体の体制にも疑問を感じます」
「ですが、私自身もここまでの事態になるとは…」
「物に対しても人に対しても敬意を持てない人間が、『ここまでの事態になるとは思わなかった』と平然と言う。そんな会社と、信頼関係を築けるわけがないでしょう」

それでも森本は諦めなかった。

「お願いします! 銀行にも取引先にも話が進んでいるんです。御社の商品がなければ、全部パーになってしまうんです! どうか今回だけでも、どうか助けてください!」

だが、もう聞く耳を持つつもりはなかった。

「御社の体質そのものに、私は不信感を持ちました。今後どのような形であれ、当社との取引は一切お断りいたします」

それを最後に、俺は静かに受話器から耳を離し、通話終了のボタンを押した。ピ、という電子音が最後の言葉だった。そのまま受話器を元の位置に戻す。

机の上には、森本が投げ捨てるように扱ったあの名刺が一枚。自分の信頼を、そして会社の未来を自らの手で粉々に砕いた男の姿が、そこに重なって見えた。どんなに取り繕っても、土壇場の涙でも、通用しないものがある。

俺たちは物を売っているのではない。信用と真心を届けている。それを踏みにじった相手に、もう二度と手は差し伸べない。

その後、フューチャーリビングは急速に信用を失い、金融機関の融資は凍結。出資予定だった企業も次々に手を引き、取引話も全て白紙に戻された。数ヶ月後、資金繰りが尽きて会社は倒産。森本も当然、職を失った。責任者として名指しされたわけではないが、プロジェクトを潰し、投資を逃した張本人として、業界では彼の名前が一際悪い意味で立っていた。噂によれば、転職先を探しているらしい。だが、これまでの態度を見てきた人間は多い。部下にパワハラをしていた。取引先を見下してトラブルばかり。自分のミスを他人に押し付けていた。そんな話ばかりが広まり、面接にも通らない。最近は泣き落としのような態度に変えていると、ある業界筋から聞いた。

「本当は反省しているんです。今回は運が悪かっただけで」

そう言っては頭を下げるらしい。でも、今更だろう。誰かの努力や信頼を軽んじて、自分だけ上に立とうとしたのだ。

俺たち浜野工房は、あの件の後も地道に仕事を続けた。結果として、誠実な取引先と新たに出会うこともできた。無理な拡大はしない。俺たちらしく、心を込めて届けるだけだ。社員たちもそれを誇りに思ってくれている。

俺は静かに言った。

「家具はただの物じゃない。思いを載せて届けるものだ。そう信じてる」

それに頷く仲間たちを見て、俺は胸が熱くなった。

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