夕食後、リビングで夫が静かに、しかしはっきりと言った。
「かよ、この家から出て行ってくれ。この家は息子夫婦に使わせることにした。」
私は声が出なかった。十五年間、毎月十七万円のローンを払い続けてきたのは私だ。それなのに、私に一言の相談もなく勝手に決められていた。
「もう家の名義も変えた。荷物は週末までにまとめておいてくれ。」
夫の正一は書類を差し出した。息子の嫁である彩佳は笑いながら言った。
「お母さんが出て行ってくれたら、子供部屋ができますしね。」
息子の尚弥も平然と付け加えた。
「母さん、もう無理するなよ。施設の経営も俺たちでやる。時代は変わったんだ。」
彼らが言う施設とは、私が十五年前に夫と始めた高齢者施設のことだ。それも奪われるというのか。私は静かに立ち上がり、荷物をまとめ始めた。心の中で一つだけ呟いた。
「どうなっても知らないよ。」
泣かず、怒らず、玄関を出た。彼らは大事なことを見落としている。それに気づいた時、きっと後悔することだろう。
翌日、私は元同僚で看護師時代からの友人、俊子の家を訪ねた。彼女は何も聞かずに温かいお茶を入れてくれた。私はバッグから古いノートを取り出した。表紙は少し色褪せているが、中身は几帳面に記録されている。家と施設のローン記録だ。
「これ、全部かよさんが…」
「ええ。最初から最後まで、全部私の口座から引き落とされていたの。」
ノートには十五年分の数字が並んでいた。月々十七万円。それが百八十回。一度も欠かさずに払ってきた。ローンの名義は夫だが、実際に支払ってきたのは私だった。看護師として働いていた頃は夜勤も多く、その給料のほとんどをローンに当てていた。定年後は施設の運営に専念したが、利益は薄く、貯金を切り崩しながら支払いを続けた。
夫はお金のことには無関心だった。
「家計はお前に任せる。」
と言いながら、自分の収入は趣味に使っていた。息子の教育費も私が負担した。入学金、授業料の一部、教材費、生活費の補填。合計すれば三百万円を超える。それでも私は息子の将来のためだと信じていた。俊子は黙って私の手を握ってくれた。
「でも、それだけじゃないの。もっと大きな問題があって…二年前、夫が相続の整理をしておきたいって言い出したの。」
当時は何の疑いも持たなかった。夫が言うなら家族のためなのだろうと思った。夫は司法書士を連れてきて書類の束を差し出した。
「万が一のために、形だけ名義を変えておく。お前の権利は変わらないから。」
そう説明されて、私は安心して署名した。でも、それは嘘だった。名義が息子に移った瞬間、私には何の権利もなくなっていた。法律上、私の立場は完全に消えていた。
「ひどすぎるわ。訴えることだってできるのよ。」と俊子は言った。
私は首を振った。
「訴えても意味がないわ。それに、私が甘かったのよ。夫を、家族を信じすぎた。」
「じゃあ、これからどうするの?」
「何もしないわ。ただ見守るだけ。」
俊子は不思議そうに私を見た。私は静かに微笑んだ。
「あの子たちは、私がいなくても大丈夫だと思ってるの。でも、それは違うわ。十五年間私が支えてきたのは、家とローンだけじゃないのよ。施設の経営も、実は私が細かく管理していたの。看護師としての経験が運営には欠かせなかったのよ。」
入居者一人ひとりの持病を把握し、薬の管理も私が行っていた。血圧の記録、食事の制限、アレルギーの確認。これを怠れば命に関わる。スタッフのシフト調整も私の仕事だった。誰がどの時間帯に強いのか、誰と誰の相性がいいのか。業者との交渉も全て私がしていた。食材の仕入れ、医療機器のメンテナンス、清掃業者との契約。少しでも費用を抑えるために何度も値段交渉を重ねた。
息子は経営の表面しか見ていない。数字の上では理解していても、現場のことは何も知らない。彩佳は営業トークは上手だが、実務の経験はない。笑顔で話すことはできても、入居者の命を預かる責任の重さを分かっているとは思えなかった。
「支えてきたのが誰か、いずれ分かるわ。」
「何かあったら私も協力する。だから、遠慮なく相談してね。」
「ありがとう。あなたがいてくれて心強いわ。」
ノートを閉じると、表紙に小さく書かれた文字が目に入った。
「家族のために。」
十五年前にこのノートを作った時、書いた言葉だ。当時は家族のために頑張ることが幸せだと信じていた。でも今は違う。家族のために尽くしても、感謝されるとは限らない。それどころか当然のように扱われ、最後には追い出される。
俊子の家を出る時、空は少し明るくなっていた。私は一人で歩き始める。これから先、どんな未来が待っているのか分からない。でも、少なくとも私は自由だ。誰かに利用されることも、軽く見られることもない。
それから数週間が経った。私は俊子の紹介で小さなアパートを借りることができた。家具も最低限のものだけだが、静かで落ち着いた生活だ。誰にも文句を言われず、誰にも当然だと思われない。それだけで心が軽くなった。
ある日の午後、スーパーの帰り道、私は少し遠回りをして施設の前を通るルートを選んだ。様子を見ておきたかった。どうなっているのか、この目で確かめたくなった。
施設の駐車場に差しかかると、見慣れない光景が目に飛び込んできた。大きな撮影用の車が二台、玄関前に止まっている。カメラを持った若い男性が建物の外観を撮影していた。玄関には新しい垂れ幕が掛かっている。
「優位の里 再スタート。赤い力で介護の未来を変える」
派手な文字が風に揺れている。彩佳が笑顔でカメラに向かって手を振り、尚弥は腕を組んで満足げな表情をしていた。
私は施設の玄関に近づいてみた。すると、若い職員が慌てて駆け寄ってきた。
「すみません。今日は撮影中なので、関係者以外は立ち入り禁止なんです。」
見たことのない顔だ。新しく雇われた人だろう。
「ああ、そうなの。ごめんなさいね。」
私は何も言わずに引き返した。振り返ると、彩佳がこちらをちらりと見ていた。でも目が合っても何も言わなかった。まるで私が透明人間になったかのようだった。
帰り道、私は考えていた。撮影車、垂れ幕、新しい職員。全てにお金がかかっている。施設の利益は薄いはずなのに、どこからその資金が出ているのか。貯金を切り崩しているのか、銀行から借り入れをしたのか。どちらにしても、長く続くやり方ではない。
夕方アパートに戻ると、スマホが鳴った。画面には藤村さんの名前。長く施設に入居している方で、私が運営していた頃からお世話をしてきた。いつも穏やかで、私のことを気にかけてくれる優しい人だ。
「もしもし、藤村さん?」
「かよさん、お久しぶりです。お元気ですか?」
「ええ、元気よ。藤村さんは?」
「ちょっと心配なことがあって…」
声に不安が滲んでいる。私は椅子に座り、静かに耳を傾けた。
「最近、ご飯が冷たいんです。以前は温かかったのに。それに、薬を間違えることもあって…先週、隣の部屋の山田さんが違う薬を渡されたそうなんです。」
私は思わず眉を潜めた。薬の間違いは命に関わる。
「新しい職員さんたちは、みんな若くて元気なんですけどね。でも、なんだか慣れてないみたいで。今のところは大丈夫です。でも、前の方が良かったなって、みんな言ってるんです。」
私は何と答えていいか分からなかった。
「かよさん、また戻ってきてくれませんか?」
その言葉が胸に刺さる。でも、私はもう戻れない。
「ごめんなさい。でも、新しい体制になれるまで、少し時間がかかるだけかもしれないわ。」
「そうですね。すみません、愚痴を言ってしまって。」
「いいのよ。また何かあったら、いつでも電話してね。」
通話を切った後、私は窓の外を見つめた。やっぱり始まっている。現場の崩壊が。
その夜、今度は俊子から連絡が入った。
「かよさん、優位の里のことを聞いた?」
「藤村さんから少し聞いたわ。」
「スタッフが半分やめたらしいの。給料の未払いもあるって。」
「そう…」
「尚弥さんたち、派手な宣伝にお金をかけすぎて、現場にお金が回ってないみたい。それに、新しく雇った職員もほとんど経験のない人たちばかりで、現場が回らないって。やめたスタッフから聞いたわ。」
「かよさん、あなたはどうするの?」
「何もしないわ。もう私の問題じゃないから。」
俊子は少しの間、黙っていた。
「そうね。でも、何かあったら言ってね。」
「ありがとう。」
電話を切った後、私は引き出しからノートを取り出した。新しいページを開き、日付とメモを書く。
「藤村さんより連絡。食事が冷たい。薬の誤り。」
「俊子より情報。スタッフ半減。給料未払い。」
淡々と記録していく。感情は込めない。ただの事実として残しておく。ノートを閉じて、私は小さく呟いた。
「やっぱりあの子たちは、数字も現場も知らない。」
施設運営は表面だけ見ていてもうまくいかない。入居者一人ひとりの状態を把握し、スタッフの士気を保ち、業者との信頼関係を築く。それができなければ、どんなに派手に宣伝しても中身は空っぽだ。私はそれを十五年間の経験で知っていた。でも彼らは知らない。そして、知ろうともしなかった。
それからさらに数週間が過ぎた。ある朝、スマホを開くと施設の公式アカウントが目に入った。以前は私が管理していたが、今は息子と嫁が運用しているようだ。投稿には明るい写真と派手な文字が並んでいる。
「若き経営で介護の常識を変えます。」
「利用者様第一の新しい優位の里。」
写真には笑顔の職員と入居者が映っている。でもよく見ると、映っているのはいつも同じ職員だ。おそらく撮影用に雇われた人たちだろう。コメント欄には「素晴らしい」「応援しています」という言葉が並んでいる。表面だけは華やかでも、中身はどうなのか。
その日の午後、私は昼食を買おうと商店街を歩いていた。すると、施設に食材を納めている八百屋の店主が、店の前で腕を組み困った顔をしていた。私は少し迷ったが、声をかけた。
「こんにちは。」
「ああ、かよさん。お久しぶりです。」
店主は私の顔を見て、少しほっとしたような表情を浮かべた。
「実は…ちょっと困ってまして。」
「どうしたんですか?」
「優位の里さんのこと、ご存知ですか?」
「ええ、少しは。」
「実は先月と今月の支払いがまだなんです。連絡しても『来週には必ず』って言うばかりで。」
やはり、支払いが滞り始めている。次に肉屋の前を通ると、そこの店主も電話で誰かと話していた。
「いや、だからもう三回目なんですよ。いつになったら払ってもらえるんですか?」
声が大きく、苛立ちが伝わってくる。私は足を止めずに通り過ぎた。おそらく施設のことだろう。業者への未払いが確実に広がっている。
午後、私は銀行に立ち寄った。通帳記帳のためだ。機械に通帳を入れると、先月の引き落とし記録が表示された。月十七万円。最後のローン引き落としだ。十五年間、百八十回目の支払い。これで全てが終わった。私は通帳を見つめながら、静かに呟いた。
「これで完全に終わり。家も施設も、もう完全に彼らのもの。名義も実態も、全て。でも、支払いを終えた今、私には何の責任もない。」
銀行を出て帰り道を歩いていると、またスマホが鳴った。俊子からだ。
「もしもし。かよさん、また情報が入ったの。」
「何?」
「施設の補助金申請が通らなかったらしいわ。」
「補助金?」
「尚弥さんたちが運営資金を補助金で賄おうとしてたみたい。でも、書類の不備で却下されたって。」
私は立ち止まった。補助金の申請は細かい書類と実績が必要だ。私が運営していた時は、毎年きちんと準備していた。でも彼らにそのノウハウはない。それに、職員の離職率が高すぎて自治体からも注意を受けているらしい。
「そう…」
「大丈夫なの?あの施設。」
「分からないわ。」
「そうね。また何かあったら連絡するわ。」
「ありがとう。」
電話を切った後、私はベンチに座った。目の前には小さな公園が広がっている。子供たちが遊び、母親たちが笑っている。平和な光景だ。でも私の心の中には、静かな予感が広がっていた。補助金の却下、業者への未払い、職員の離職。これらは全て崩壊の前兆だ。
施設運営はお金だけでは回らない。信頼と実績、そして現場の安定。それがなければ、どんなに派手に宣伝しても、遅かれ早かれ破綻する。私はそれを知っていた。でも彼らは知らない。彩佳は「古い仕組みを壊したんだから当然」と言うだろう。尚弥は「すぐ補助金が入る」と根拠のない楽観を口にするだろう。でも、現実はもっと厳しい。
私は立ち上がり、アパートへの道を歩き始めた。夕日が長い影を作る。その影を見ながら、私は心の中で呟いた。
「支えを失ったものは、いずれ崩れる。」
それは予感ではなく、確信だった。
冬の訪れと共に、街路樹の葉が散り始めた頃。私の生活は静かで穏やかな日々が続いていた。小さなアパートでの一人暮らしにもすっかり慣れた。朝はゆっくりとコーヒーを入れ、昼は近所を散歩し、夜は読書する。ある日の午後、買い物から帰ると、スマホに俊子からの着信履歴が三件あった。急いで電話をかけ直す。
「もしもし、俊子。どうしたの?」
「かよさん、大変なの。施設で事故があったらしいわ。」
私の手が一瞬止まる。
「入居者さんが救急搬送されたって。薬の誤投与が原因らしいの。」
「薬の誤投与?」
「それだけじゃないわ。食事も冷めたまま出されたり、入浴の介助ミスもあったって。職員ももうほとんど残ってないらしいの。新しく雇った人たちも、すぐにやめていくって。」
「そう…」
「利用者さんのご家族が怒鳴り込んできたらしいわ。今、施設の前に報道のカメラも来てるって。」
私は窓の外を見た。遠くに施設の建物が見える。
「かよさん、見に行ってみたら?」
「いえ、私が行く必要はないわ。」
「でも…」
「大丈夫。もう私の問題じゃないから。」
そう言いながらも、私の胸には小さな痛みがあった。でも行くわけにはいかない。もう私の居場所ではないのだ。電話を切った後、私はしばらく考えていた。薬の誤投与は、最も起こしてはいけないミスだ。私が運営していた時は二重チェック体制を徹底していた。看護師の資格を持つ私が最終確認をし、記録も必ず残していた。でも、その仕組みを知らない彼らには管理できなかったのだろう。
私は上着を羽織って外に出た。俊子の言葉が気になったのだ。見に行く必要はないと自分に言い聞かせながらも、足は自然と施設の方向へ向かっていた。
施設の近くまで来ると、異様な光景が広がっていた。救急車が一台、玄関前に止まっている。その周りには報道のカメラと記者たち。施設の前には怒った表情の家族が数人立っている。彩佳が玄関から出てきて頭を下げていた。その表情は引きつっていて、笑顔はない。尚弥は彩佳の後ろに立ち、困惑した顔をしている。
記者の一人がマイクを向けた。
「事故の原因は何だと考えていますか?」
「それは…現在調査中です。」
「職員の大量離職が原因という声もありますが…」
言葉につまる彩佳。尚弥が前に出ようとするが、何も言えず立ち尽くしている。
私は少し離れた場所からその様子を見ていた。帽子を深くかぶり、顔が見えないようにしている。すると、別の記者が声をあげた。
「前運営者の白川さんはどこにいらっしゃいますか?白川さんにコメントをいただきたいのですが。」
私の心臓が一瞬跳ねた。彩佳が困った顔で答える。
「前運営者はもう関わっておりません。」
「では、運営が変わってから何が変わったのでしょうか?」
彩佳は何も答えられず、ただ頭を下げるばかりだ。
私は静かにその場を離れた。足早に歩きながら、胸の奥が騒めくのを感じる。これは予想していたことだ。でも、実際に目にするとやはり胸が痛む。あの施設で私は十五年間働いてきた。入居者たちの顔も一人ひとり覚えている。彼らが今、どんな不安を抱えているのか。それを思うと心が重くなった。でも私は立ち止まらなかった。戻ることはできない。一度失った信頼を取り戻すのは簡単ではない。それに、私が戻ったところでもう遅い。名義も権利も全て彼らのものだ。私が口を出す立場ではない。
アパートに戻ると、私はソファに座り込んだ。窓の外はもう薄暗くなり始めている。私は目を閉じて、深く息を吐いた。
「崩れるべきものが崩れているだけ。」
そう自分に言い聞かせる。でも胸の痛みは消えない。入居者たちのことが心配だ。藤村さんは大丈夫だろうか。他の方々も不安に怯えているのではないか。でも、私にできることはもうない。
私はスマホを手に取り、藤村さんに電話をかけようか迷った。でも、やめた。今電話をしても、何もしてあげられない。それどころか、余計に混乱させてしまうかもしれない。私はスマホを置いて立ち上がり、キッチンで水を飲みながら窓の外を見つめた。遠くに見える施設の明かり。それは今日は少し暗く見えた。
夜、もう一度俊子から電話があった。
「かよさん、見た?」
「いえ、見ていないわ。」
「地域ニュースで報道されてたわ。施設の事故のこと。救急搬送された方は命に別状はないって。でも、施設の運営体制に問題があるってニュースで言ってたわ。自治体も調査に入るらしいの。補助金の不正受給の疑いもあるって。」
「不正受給?」
「書類を偽装して補助金を多く受け取ろうとしたらしいわ。でも、すぐにバレたみたい。」
私は目を閉じた。やはり、そこまで追い詰められていたのか。資金繰りに困り、不正に手を染める。それは最もやってはいけないことだ。
「かよさん、あなたは何もしないの?」
「できることはないわ。俊子、もう私には権利がないのよ。名義も経営権も全部彼らのもの。私が戻っても何もできない。」
俊子はしばらく黙っていた。
「分かった。でも辛いわよね。」
「ええ。でも、これは彼らが選んだ道。私が責任を取ることじゃないの。」
「そうね。」
電話を切った後、私は長い間窓の外を見つめていた。夜の闇の中、施設の明かりが小さく光っている。その光を見ながら、私は静かに呟いた。
「私がいなくなった時どうなるか。答えはもう出ている。」
それは悲しい答えだった。でも、それが現実だ。支えを失ったものは崩れる。私が支えていたものは、もう崩れ始めている。
夜十時を過ぎた頃、スマホが鳴った。画面を見ると「尚弥」の文字。息子からの電話だ。施設の事故以来、初めての連絡だった。私は画面を見つめたまま動けなかった。今まで何度もこの着信を想像していた。いつか彼らから助けを求められる日が来ると。でも、実際にその時が来ると、心は複雑だ。息子の声を聞きたいような、聞きたくないような。
スマホは鳴り続けている。私は深く息を吸い、画面をタップした。
「もしもし。」
「母さん…」
声が震えている。いつもの自信に満ちた調子はどこにもない。まるで小さな子供のように頼りない声だった。
「母さん、お願いだ。助けてくれ。」
私は黙って聞いていた。スマホを持つ手に少し力が入る。
「施設がもう限界なんだ。職員は誰もいないし、入居者さんのご家族からは毎日クレームが来る。」
電話越しに荒い息遣いが聞こえる。背後では彩佳の鳴き声が聞こえた。
「お母さん、お願いします。」
電話が少し遠くなり、尚弥が彩佳に何かを言っている声が聞こえる。その声は苛立っているようだったが、すぐに抑えられた。そして、再び私に向かって話し始める。
「母さん、俺たちが悪かった。全部俺たちが間違ってた。」
「そう。」
短く答えながら、私は心の中で整理していた。彼らは今、追い詰められている。でも、それは自業自得だ。私を追い出したのは、彼ら自身の選択だった。
「だから、戻ってきてくれないか。母さんがいなきゃ、もう施設は回らない。」
私は窓の外を見た。夜の闇の中、街灯が静かに光っている。この静けさが今の私には心地よく感じられる。
「尚弥。あなたは覚えてる?私を追い出した時のこと。」
「それは…」
「あの時、あなたたちは何て言った?『母さんの時代は終わり。若い世代に任せる』って。」
尚弥は黙り込んだ。
「あなたたちが選んだ道を、自分たちで何とかしなさい。」
「でも母さん、このままじゃ施設が潰れる。入居者さんたちはどうなるんだ?」
その言葉に私の胸が少し痛む。入居者たち、藤村さんや他の方々。彼らは何も悪くない。穏やかな笑顔、感謝の言葉、小さな日常の喜び。それらを思い出すと胸が締め付けられる。でも、私は首を横に振った。
「私が戻ったところで、本当の解決にはならないわ。一時的に助けても、また同じことの繰り返しになるだけよ。それはあなたたちが考えること。」
「利用なんて…」
「そうでしょ。困った時だけ頼って、また必要なくなったら追い出す。そんなことはもうしないわ、母さん。」
声が大きくなった。
「冷たいよ、そんなの。実の息子が困ってるのに、見捨てるのか?」
私は静かに答えた。
「見捨てるんじゃないわ。あなたたちが私を追い出したの。忘れた?」
「それは父さんが言い出したことで…」
「でも、あなたは止めなかった。それどころか賛成したわよね。」
私はあの日のことを思い出していた。リビングで三人が笑いながら私を追い出した日。誰一人として私を引き止めようとはしなかった。尚弥は何も言えなくなった。背後でまた彩佳の泣き声が聞こえる。
「お母さん、本当にごめんなさい。私たちが間違ってました。どうかお願いします。」
電話が彩佳に変わったようだ。
「お母さん、あなたが亡くなってから、何もかもうまくいかないんです。」
「そうでしょうね。」
「職員はみんなやめるし、取引先も断ってきて、もうどうしていいかわからないんです。」
「それは大変ね。」
「だから戻ってきてください。お願いします。私たち、もう限界なんです。」
私は少しの間黙っていた。そして、静かに言った。
「彩佳さん。あなたたちは私を追い出した時、何て言ったか覚えてる?」
「それは…」
「『お母さんが出て行ってくれたら、子供部屋ができる』って、笑いながら言ったわよね。」
彩佳は泣きながら答えた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。」
「謝る必要はないわ。あなたたちは自分たちの望む通りにしたんだから。結果が望んだものと違った。それだけのことよ。」
彩佳はしばらく泣いていた。そして、また尚弥に変わった。
「母さん、頼む。このままじゃ本当に終わる。父さんも、もう何もできないって言ってる。」
正一の名前を聞いて、私は少し驚いた。
「正一は何て言ってるの?」
「父さんは『母さんに頼るしかない』って。でも、自分からは言えないって。」
「そう。」
やはり、夫は最後まで逃げるのか。自分で決断したことなのに、責任は取れない。
「母さん、父さんのためにも戻ってきてくれないか?」
「いいえ。」
私はきっぱりと答えた。
「尚弥、私はもう戻らないわ。名義も権利も全部あなたのもの。自分で何とかしなさい。」
「母さん…」
「それに、今さら戻ったところで信頼も戻らない。業者も入居者さんのご家族も、一度失った信頼を取り戻すのは簡単じゃないのよ。」
尚弥は黙っていた。
「あなたたちがやるべきことは、きちんと謝罪して責任を取ること。私に頼ることじゃないわ。」
「でも、どうすれば…」
「それはあなたが考えることよ。」
「母さん、本当にもう助けてくれないのか?」
私は深く息を吸い、静かに答えた。
「尚弥、あなたは大人でしょ?自分で選んだ道の責任は自分で取りなさい。それに、もう私には権利がないの。法律上、あなたが所有者。私が口を出す立場じゃないわ。」
尚弥は何か言いかけましたが、私は続けた。
「あなたたちが私を必要だと思うなら、最初から追い出すべきじゃなかった。でも、あなたたちは私を追い出した。それがあなたたちの選択よ。」
返事はなかった。背後で彩佳がまた泣いている。
「尚弥、頑張りなさい。これはあなたたちの問題よ。」
「母さん…」
「もう電話切るわね。」
「待って…」
私はそのまま通話を終了させた。画面が暗くなり、部屋には静寂が戻る。私はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。息子の声がまだ耳に残っている。震える声、泣きながら懇願する彩佳、言い訳をする尚弥。彼らは本当に困っているのだろう。でも、それは彼らが自分で招いた結果だ。
私は机の前に座り、引き出しからノートを取り出した。表紙を撫でながら、小さく呟いた。
「親は最後まで子供の面倒を見るものじゃない。」
十五年間、私は家族のために尽くしてきた。ローンを払い、施設を運営し、息子の教育を支えてきた。でも、それは当然だと思われ、最後には笑いながら追い出された。感謝の言葉一つなく。もう同じ過ちは繰り返さない。彼らが困っているのは分かる。施設が潰れれば入居者たちも困るだろう。藤村さんの不安そうな顔が浮かぶ。でも、それは私の責任ではない。私が戻っても、また利用されて捨てられる。そんな未来しか見えない。彼らは変わっていないのだから。
私はノートを閉じて、椅子に深く座った。胸の奥に小さな痛みがある。母親として息子を見捨てることへの罪悪感。それでも、私は自分の決断を曲げない。これは私の人生だ。誰かのために犠牲になる人生は、もう終わりにしたのだ。
私は立ち上がり、窓の外を見た。遠くに施設の建物が見える。その明かりは以前より暗く見えた。
「あなたたちが選んだ道。自分で歩きなさい。」
その言葉を心の中で繰り返しながら、私は窓から視線を外した。もう振り返らない。私の決意は揺るがなかった。
翌朝、スマホが鳴った。画面には見知らぬ番号が表示されている。昨夜の電話の後、私はほとんど眠れなかった。息子の声、彩佳の泣き声が何度も頭の中で繰り返される。でも、私の決意は変わらない。
「もしもし。白川かよと申しますが…」
「おはようございます。こちら市の福祉課の田中と申します。お時間よろしいでしょうか?」
私は背筋を伸ばして答えた。この電話が何を意味するのか、なんとなく予感があった。
「はい、大丈夫です。」
「実は、施設の運営についてお話を伺いたいのですが…」
「分かりました。」
「現在、施設の運営体制と補助金の使途について調査を進めております。つきましては、前運営者である白川様にいくつかお伺いしたいことがございまして。」
「白川様が運営されていた期間の記録をご提出いただくことは可能でしょうか?」
私は少し考えた。この記録を提出すれば、真実が明らかになる。私がどれだけ誠実に運営してきたか、そして彼らがどれだけ杜撰だったか。
「はい、可能です。どのような記録が必要ですか?」
「施設の収支記録、補助金の申請書類、職員の配置記録などです。お手元にございますでしょうか?」
「はい、全て保管しています。」
「それは助かります。できれば今週中にご提出いただけますでしょうか?」
「分かりました。準備して持参します。」
「ありがとうございます。それでは、後日詳細なメールをお送りいたします。」
電話を切った後、私は引き出しを開けた。そこには十五年分の記録が整理されて保管されている。収支記録、補助金の申請書類、職員の勤務表、入居者の健康記録。全て貴重にファイルに綴じられている。
運営していた頃、私は毎日のように記録をつけていた。それは義務でもありましたが、何より入居者の安全を守るためだった。一つのミスが命に関わることもある。だからこそ、記録は欠かせなかった。私はそれらを机の上に並べた。青いファイル、赤いファイル、黄色いファイル。色分けされた十五年分の記録。これが私が十五年間積み上げてきた証拠だ。誠実に、丁寧に、一日も欠かさず記録してきた証だ。
数日後、私は市役所を訪れた。福祉課の窓口で、田中さんという女性職員が出迎えてくれた。
「白川様、お忙しい中ありがとうございます。」
「いえ、こちらこそ。」
私は持参したファイルの束を机の上に置いた。田中さんは驚いたような表情を浮かべた。
「これは全て白川様が管理されていた記録ですか?」
「はい、十五年分です。」
田中さんは一つ一つのファイルを丁寧に確認し始めた。ページをめくる音が静かな部屋に響く。
「素晴らしいですね。これほどきちんと記録されている施設は珍しいです。」
「ありがとうございます。」
「特に補助金の収支記録が明確ですね。何にいくら使ったのか、全て記載されています。」
私は少し考えてから答えた。
「補助金は税金です。国民の皆さんが納めたお金を施設のために使わせていただいているのですから。だからこそ、一円たりとも無駄にはできません。きちんと記録し報告するのは当然だと思っていました。」
田中さんは頷きながら記録を見続けた。
「職員の配置記録も詳細ですね。シフト表、研修記録、資格証明書のコピーまで…」
「はい。職員の質が施設の質を決めますから。私は職員たちの努力をきちんと記録として残したかったのです。」
「白川様が運営されていた期間は、事故やトラブルの報告がほとんどありませんね。」
「入居者の安全が第一ですから。二重チェック体制を徹底し、特に薬の管理は看護師である私が最終確認をしていました。小さなミスが命に関わりますから。」
田中さんはしばらく記録を見ていた。そして、顔を上げた。
「白川様、率直にお聞きします。なぜ運営をやめられたのですか?」
私は少し迷ったが、正直に答えることにした。
「家族の事情です。名義を息子に譲ることになりまして。」
「そうですか…」
田中さんは少し複雑な表情を浮かべた。
「実は、現在の運営体制について、多くの問題が明らかになっています。補助金の不正受給の疑い、職員の大量離職、入居者への不適切なケア。全てが白川様が辞められた後に起こっています。」
私は黙って聞いていた。
「白川様の記録と現在の記録を比較すると、その差は歴然です。」
田中さんは別のファイルを開いた。それはおそらく現在の運営記録だろう。
「現在の記録は、ほとんど形式的なものばかりです。補助金の使途も曖昧で、職員の配置も適切ではありません。」
「現在の運営者である息子さんは、経営の経験がおありですか?」
「いえ、ありません。」
「では、なぜ運営を任せたのでしょうか?」
私は静かに答えた。
「それは家族の判断でした。」
田中さんはそれ以上は聞かなかった。
「分かりました。この記録は調査に大変有効です。コピーを取らせていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。それでは、後日改めてご連絡いたします。」
私は市役所を後にした。帰り道、私は空を見上げた。冬の空はどこまでも澄んでいる。私は自分がやってきたことが間違っていなかったと、改めて感じた。十五年間、誠実に運営してきた。それが今、証拠として残っている。
一週間後、俊子から連絡があった。
「かよさん、聞いた?施設に営業停止命令が出たらしいわ。」
「営業停止?」
「補助金の不正受給が認定されたんだって。それに、運営体制が基準を満たしていないって。補助金の返還命令も出たらしいわ。かなりの金額になるって。」
私は窓の外を見た。
「そう…」
「入居者さんたちは、他の施設に移ることになったらしいの。」
「それは良かった。入居者さんたちがきちんとした施設で暮らせる。それだけが私の願いでした。」
「かよさんが提出した記録が決め手になったらしいわよ。あなたがきちんと管理していたから、どこから運営がおかしくなったのか明確になったって。」
私は何も言わなかった。
「かよさん、あなたは正しかったのよ。」
「ありがとう。」
「これからどうするの?」
「今まで通りよ。静かに自分の人生を生きるだけ。」
「そうね。それがいいわ。」
電話を切った後、私はノートを開いた。最後のページに小さく書き込む。
「営業停止命令。助成金返還命令。入居者さんは他施設へ。」
日付と共に記録を残した。これで全てが終わったのだ。私が支えてきたものは崩れた。でも、それは私の責任ではない。彼らが選んだ道の結果だ。私はノートを閉じて窓の外を見た。遠くに見える施設の建物。その明かりはもう消えていた。
夕方、チャイムが鳴った。私は玄関のドアを開けた。そこには正一、尚弥、彩佳の三人が立っていた。三人ともやつれた顔をしている。正一の髪は白くなり、尚弥は目の下に隈ができている。彩佳は泣き腫らした目で私を見つめていた。
「お母さん、お願いです。戻ってきてください。」
私は何も言わず三人を見つめた。
「母さん、頼む。もう一度チャンスをくれないか?」
「チャンス?」
「俺たちが間違ってた。全部俺たちが悪かったんだ。」
私は静かに答えた。
「そうね。あなたたちが間違ってたわ。でも、それはあなたたちの問題よ。私には関係ないの。」
彩佳が一歩前に出る。
「お母さん、お願いします。施設は営業停止になって、私たちはもう何もできないんです。」
「それは当然の結果よ。」
正一がようやく口を開いた。
「かよ…俺が悪かった。」
私は夫を見た。十五年間家計を私に任せて、自分の趣味に全てお金を使っていた夫。息子に家を譲ると決めたのも夫だった。
「全部俺の判断ミスだった。お前を追い出すべきじゃなかった。」
「今さら、そんなことを言われても…」
「頼む。もう一度、一緒に…」
私は首を横に振った。
「無理よ。もう終わったことなの。」
「母さん…」
私は静かに、しかしはっきりと言った。
「あなたたち、私を追い出した時のこと覚えてる?三人は黙った。『若い世代に任せる。母さんの時代は終わり』って、あなたたちは言ったのよ。だから、私はチャンスを渡したわ。あなたたちが望んだ通りに。」
彩佳が泣きながら言った。
「でも、私たちには無理でした。」
「そう。無理だったのね。私は三人を見つめた。でも、それは私の責任じゃないわ。あなたたちが自分の力を過信したのよ。」
「頼む…」
「正一、あなたは十五年間、何をしてきたの?家計を私に任せて、自分は趣味にお金を全部使ってたわよね。」
正一は何も言えなかった。
「尚弥、あなたは経営の経験もないのに施設を継ごうとした。そして失敗した。彩佳さん、あなたは私を厄介者扱いして追い出そうとした。」
彩佳は泣いている。でも、私はもう許さないわけじゃない。ただ、戻らないだけ。
「あなたたちが変わらなければ、私が戻っても同じことの繰り返しよ。」
「変わる。俺たちは変わる。本当だ。」
私は静かに続けた。
「でも、もう遅いのよ。施設は営業停止になった。名義も権利も全部あなたたちのまま。私が戻っても、法的に何もできない。それに、私はもう疲れたの。十五年間、家族のために尽くしてきた。でも、感謝されることはなかった。」
私は扉に手をかけた。
「これからは私の人生を生きるわ。誰にも邪魔されずに。」
「お母さん!」
「さようなら。」
そう言って、私は静かに扉を閉めた。扉の向こうで彩佳の鳴き声が聞こえる。正一が何か言っている。でも、私はもう振り返らなかった。窓から外を見ると、三人はまだ玄関前に立っている。やがて、三人は肩を落として歩き去っていった。
私は窓から視線を外し、椅子に座った。胸の奥に小さな痛みがある。でも、それでいいのだ。これが私の選択だ。
「どうなっても知らないよ。」
その言葉がもう一度心に響いた。今度は脅しでも予告でもない。ただの事実だった。
春が訪れた頃。町には桜が咲き始めていた。私は郊外の小さな平屋を借りて、そこで暮らしていた。小さな庭があり、私は花壇の手入れをするのが日課になった。チューリップ、パンジー、ビオラ。色とりどりの花が庭を彩っている。
ある日の午後、玄関のチャイムが鳴った。扉を開けると、藤村さんが立っていた。
「かよさん、お久しぶりです。」
「藤村さん、お元気でしたか?」
「ええ、おかげ様で。新しい施設で元気にしています。」
私は藤村さんをリビングに案内し、お茶を入れた。
「かよさん、素敵なお家ですね。」
「ありがとうございます。小さいけれど、居心地がいいんです。」
藤村さんは私の手を握った。
「かよさん、本当にありがとうございました。」
「何がですか?」
「あなたが記録を市に提出してくださったおかげで、私たちは新しい施設に移ることができました。」
「それは良かったです。」
「今の施設は職員さんたちも優しくて、食事も温かいんです。まるで、かよさんがいた頃の施設のようです。」
私は微笑んだ。
「あの時、かよさんが戻らなかったのは正しかったと思います。」
「そうですか?」
「ええ。あなたが戻っていたら、また同じことの繰り返しだったでしょう。でも、あなたが記録を出してくれたおかげで、私たちは救われました。」
「藤村さん…」
「かよさん、これからも元気でいてくださいね。」
「はい。藤村さんも。」
藤村さんが帰った後、俊子から電話があった。
「かよさん、聞いた?旧施設の建物、売却されるらしいわよ。」
「そうですか。」
「尚弥さんたち、借金の返済で大変らしいの。」
「そう…でも、かよさんには関係ないものね。」
「もう関係ないわ。」
「かよさん、今度遊びに行ってもいい?」
「もちろん。いつでもどうぞ。」
電話を切った後、私は庭に出た。花壇の手入れをしながら、私は考えていた。旧施設はもう存在しない。でも、それでいいのだ。本当の施設は建物ではなく、心の中にあるのだから。
私は立ち上がり、空を見上げた。青い空に白い雲が流れている。
「今度の場所は、誰も追い出さない場所にするの。いつかまた、新しい形で人の役に立てる日が来るかもしれません。でも、それは焦らなくていい。今はただ、静かに自分の人生を楽しむ。それが私の幸せです。」
庭の花が風に揺れている。その光景を見ながら、私は微笑んだ。穏やかで自由な日々。それが私の新しい人生だった。



