厨房から女将の慌てた声が聞こえてきたのは、ちょうど予約の宴会が始まる直前だった。
「板長がいない……どうしたらいいの……」
俺は思わず声をかけた。「何かあったんですか?」
女将のさやかさんは振り返り、申し訳なさそうに頭を下げた。「お見苦しいところをお見せしてしまって、申し訳ございません」
「頭を上げてください。一体何があったんです?」
さやかさんは客である俺に話すべきか迷っているようだった。俺は言った。「俺に手伝えることがあるかもしれません。遠慮なく話してください」
彼女はぽつりぽつりと話し始めた。料理長が出勤しておらず、連絡もつかないのだという。従業員の一人が料理長の家に向かったが、車で一時間以上かかる場所に住んでいて、仮に連れて来られたとしても予約の時間には間に合わない。今日の宴会は地元の有力者が主催するもので、この旅館と昔から付き合いのある大切な相手らしい。
俺は覚悟を決めて言った。「さやかさん、俺に料理を任せてもらえませんか?」
「え……お客様にそんなことをお願いするわけには……」
「俺、これでも料理人でしたから」
さやかさんは俺の目をじっと見つめ、少し迷った後に「お願いします」と頭を下げた。
俺は厨房に入り、食材を確認してコースを考えた。鎌倉の老舗旅館だけあって、いい食材が揃っている。京都で学んだ知識をプラスすれば、満足してもらえるものが作れるはずだ。俺は厨房のスタッフにテキパキと指示を出し、料理を作り始めた。
久しぶりに料理に向き合って、俺は自分が浮き足立っていることに気がついた。京都にいた頃は周りからの評価ばかり気にして、純粋に料理を楽しむことができなくなっていた。父はいつも忙しいながらも楽しそうに料理に向かっていた。俺がなりたかったのは、ああいう料理人だったんだ。
宴会は無事に始まり、料理を運ぶさやかさんが驚いた顔で言った。「カトウさん、何者なんですか?」
「ただの元料理人ですよ」
俺が笑って答えると、さやかさんはおかしそうに首をかしげて笑い、料理を運んでいった。すべての料理を出し終えた瞬間、厨房のスタッフ全員が拍手を送ってくれた。俺は込み上げてくるものをこらえて、みんなに礼を言い、自分の部屋へ戻った。
部屋でお茶を飲んでいると、ドアをノックする音がした。開けるとさやかさんが立っていて、宴会の主催者が今日の料理を作った人に会いたがっていると言う。俺はちょっと抵抗があったが、さやかさんの顔に泥を塗るわけにはいかないと、後ろについて行った。
宴会場で待っていた男性は、俺を見て目を丸くした。「まさか君はカトウ君じゃないか」
なんと彼は、俺が優勝した全国の料理コンテストで審査員を務めていた真部慎太郎だった。彼は鎌倉や横浜で有名なホテルを経営する資産家で、講演家としてもテレビに出演している人物だ。
「ここで真部さんにお会いできるとは思いませんでした」
「俺もまさかこの旅館で君の料理を堪能できるとは思わなかったよ。君が京都の旅館を辞めたことは耳に入っていた。あれだけの才能があるのに、もったいないと思っていたんだ」
真部さんはさやかさんに、俺の経歴を話して聞かせた。さやかさんは驚いて俺を見た。「カトウ様がまさか、そんなすごい料理人だったなんて……」
真部さんを玄関まで見送った後、俺の部屋の前でさやかさんが言いづらそうに口を開いた。「カトウ様、お願いしたいことがあるんです」
部屋に招き入れると、さやかさんは重い口調で話し始めた。料理長が家で倒れ、病院に運ばれたという知らせが入ったのだ。もともと持病があり、それが悪化したらしく、医師からは治療に専念するよう指示が出た。もう旅館で働くことはできない。厨房を仕切る人間がいなくなってしまった。
「どうか、うちで板長として厨房を仕切っていただけませんか? お客様もスタッフも、カトウ様の料理を絶賛していました」
さやかさんは深く頭を下げた。俺は、さっき久しぶりに感じた充実感を思い出していた。ここでなら、この旅館のさやかさんやスタッフと一緒なら、失った自信を取り戻せるかもしれない。
「わかりました。お引き受けします」
「本当ですか? ありがとうございます」
それから俺はこの旅館の板長として働き始めた。俺が新しい料理長になったことを知った真部さんがテレビやSNSで広めてくれたことで、それまで地元の人しか知らなかった旅館は大繁盛した。外国からの旅行客もたくさん来るようになり、毎日があっという間に過ぎていく。さやかさんも美人女将として有名になり、テレビの取材が来るようになったが、俺は一切取材を受けなかった。有名になったがゆえに嫌な思いをしてきたからだ。これからは料理を嫌いになりたくない。楽しんで料理に向き合いたい。さやかさんはそんな俺の気持ちを優先して、俺への取材はすべて断ってくれた。
それから俺は一心不乱に料理に打ち込み、お客さんの喜ぶ顔を見るために努力を続けた。そして、この旅館で働き始めて丸三年になる今日、俺はさやかさんとの結婚披露宴をこの旅館で主催している。働き始めてから一年ほど経った頃、俺の告白で交際が始まり、俺とさやかさんが出会った記念日である今日、結婚することに決めたのだ。
俺はこれからも、この旅館で料理を楽しみながら、生涯の伴侶となるさやかさんを支えて生きていこうと思っている。



