「ママ、終わったからスマホ貸して。」
ダイニングテーブルで宿題を終えたばかりの息子・ケ太にそう言われ、私は明日の準備を確認しながら、エアコンの温度を見上げた。設定は28度。義母がリモコンを隠すから、こうなるのだ。
私は美由紀。夫・剛と結婚13年目、義両親との同居生活中のパート主婦だ。
義母は「私一人だけなら電気代がもったいない」とエアコンのリモコンを隠すくせがある。でもケ太が台所で宿題をする時だけはつけてくれる。それでも28度。熱中症になるかと思った。
「美由紀さん、夕立だよ!早く洗濯物入れなさい!」
義母が台所に飛び込んできて、私が麦茶を飲んでいるのを見るなり怒鳴った。
「あんた、ご飯の支度もしないでサボってたのかい!」
「違います。暑くて倒れそうなんです」
言い返しても、義母は「口答えばかりの嫁だ」と叫ぶだけ。私は洗濯物を取り込みに行くしかなかった。
洗濯物はすっかり濡れてしまった。乾いて取り込むだけだったのに。
数年前、義父の定年退職を機に、退職金と私たちの貯金で家を建て、同居を始めた。しかし義母は「私もこれを機に専業主婦を定年退職するわ」と宣言。結局、家事は全部私一人の仕事になった。フルタイムでは無理だと、正社員からパートにしてもらった。
義母は手は出さないくせに口だけは出す。夫に相談しても「お袋が正しい」と義母の味方をする始末。
夫は同居してからどんどんわがままになった。私が夫の食器を片付けようとしただけで義母が激怒し、結婚した時の「いいところ」も思い出せなくなってしまった。
それでも私はケ太の成長だけを励みに、淡々と役割をこなしてきた。だが、半年くらい前から夫の様子が怪しい。急に身だしなみに気を使い始め、毎日ヒゲを剃り、鼻毛までチェックしている。スーツのズボンにアイロンがけまで要求された。
決定的だったのはネクタイだ。見慣れない高級ブランドのもので、調べたら2万円以上する。会社の後輩からのプレゼントにしては高すぎる。
翌日、ケ太が寝た後、私は夫を問い詰めた。夫はあっさり浮気を白状しただけでなく、怒る私を見下して笑った。
「浮気の1つや2つでうるさいな。浮気は男の甲斐性って言うだろ。お前がいつも綺麗にしてないから、他の可愛い女に目移りするんだ。夫を引き止められないお前が悪い」
逆切れされた。悔しくて、言い返した。
「お母さんがエアコンつけてくれないから汗で化粧だって流れるわよ!私のパート代だって生活費に入れてるし、いつも忙しくておしゃれなんてできない!」
でも夫は「女として終わってる」と言い放ち、話を強引に終わらせて寝てしまった。
その夜、私は眠れなかった。自分の人生、一体何なんだろう。毎日家事をしても誰からも感謝されない。むしろ当然だと思われている。夫からは愛されない。涙が止まらなかった。
しばらく後、ケ太がぽつりと言った。
「ママ、離婚すれば?」
「え?なんで?」
内心焦りながら笑顔で聞き返すと、ケ太はじっと私を見て、「別に、ただ思っただけ」と言ってゲームを始めた。
私は市の無料法律相談に行った。弁護士は「浮気の証拠がなくても、長年のモラハラで十分に離婚できる。勝てますよ」と太鼓判を押してくれたが、私が引っかかったのはケ太のことだった。
ケ太は10歳。判断能力があるとされ、子供の意見が尊重される。もしケ太が夫を選んだら、私は息子と暮らせなくなる。やっぱり離婚はできない。それが私の結論だった。
だが、それから夫は浮気を隠さなくなった。義母も義父も夫の味方で、私の前で平気で「若いお嫁さんと交代したらいいんじゃないか」と憎まれ口を叩く。ケ太の前でも私をけなす。
ある日、夫がケ太に「レベル上げしておけよ」とスマホを渡しながら、私に言った。
「宿題なんてやらなくてもいいだろ。準備なんて後でもいい。そんな神経質な女だからダメなんだ」
「宿題をしないとケ太が明日学校で困るのよ。ゲームは全部終わってからの約束でしょ」
言い返しても、夫は「俺みたいなちゃんとした大人になれるんだ」と自慢げ。義母も「剛は宿題なんて全然やらなかったよ」と相槌を打つ。義父まで「本当に生意気な嫁だな」と言い放つ。
夫は調子に乗ってケ太に聞いた。
「ケ太もママよりパパの方が正しいと思うだろう?パパの方が好きだろう?」
ケ太はちらっと私の顔を見てから、夫に笑顔で言った。
「うん。僕、パパの方が正しいと思う。パパ大好き!」
そう言って抱きついた。
もう無理だ。ケ太が私よりも夫を取るなら、結婚している意味がない。
私は弁護士に連絡を取り、淡々と離婚の準備を進め、夫に離婚を切り出した。夫はあっさり承諾。浮気相手に結婚を迫られているらしく、「お前から言い出せてくれてラッキー」とまで言われた。
残る問題はケ太の親権だった。私は当然ケ太と一緒に来ると思っていたが、ケ太の答えは「僕、パパと住む」だった。
「だってママと2人になったら、好きなだけで遊べないって言うし。もう僕、ママがいなくても自分のことは自分でできる」
確かに、ケ太は一人でお風呂にも入れるし、好き嫌いなくご飯も食べる。洋服だって自分で選べるようになった。でも寂しかった。息子の成長を、こんな形で知らされたくなかった。
「財産分与はちゃんとするし、慰謝料はしっかりもらうからね」
私が宣言すると、夫は「離婚はお前が言ったことだろ」と鼻で笑った。そこへケ太が言った。
「じゃあさ、綺麗な若いお姉さんと結婚するんでしょ?ママに手切れ金払ってくれなくなよ」
ケ太の口から「手切れ金」なんて言葉が出て、私は驚いた。夫は「お前には金しか残らないもんな」と薄笑いを浮かべる。悔しかった。
数日後、引っ越しの日。義両親は町内会のイベントに出かけ、夫とケ太だけが家にいた。
「ケ太、もう出ていくね」
名残惜しい気持ちで伝えると、ケ太の顔がガラッと変わった。
「はぁ、やっとか。もう演じなくていいんだね」
ケ太はにやりと笑った。
「演技って何のこと?」
私と夫が目をパチクリさせていると、ケ太は夫に向かって言った。
「あのさ、僕もママと一緒に行くから。養育費は後から請求するから、よろしくね」
夫が「はぁ?今さら何を言ってるんだよ」と叫んでも、ケ太はへっちゃらな顔だ。
「だって僕、ママと一緒の方がいいし」
私は驚きよりも、じわじわと嬉しさがこみ上げてきた。ケ太と一緒に暮らせる。でも、どういうことだろう。
ケ太はさらに驚くべきことを言い出した。
「あ、それとパパ、浮気相手の情報、全部ママのスマホに映しておいたから。パパもLINEでママ以外の女とあんなやり取りするなんて、ばっかじゃないの」
ケ太は夫にベッと舌を出すと、私に向き直った。
「ママ、ちゃんと証拠ゲットしたからさ。浮気相手からも慰謝料をもらってね」
「え、どうやったの?」
私と夫の声が重なる。
「だって僕、ゲームするから2人のスマホの暗証番号知ってるし。それに学校でパソコンの授業があるんだよ。スクショだってできるし、写真を転送するのだって簡単簡単」
つまりケ太は、合間に夫のスマホをあちこち見て浮気の情報を探し、私のスマホにこっそり移していたらしい。私は全く気づかなかった。
「ケ太、お前、俺を裏切ったのか!」
夫が激怒するが、ケ太は平然と言った。
「あのさ、僕の前にパパがママを裏切ったでしょ。浮気なんて最低だよ。ママを大事にしないパパなんて、大嫌い」
ケ太はあの日、私と夫の言い争いの声で起きてしまい、私の独り言まで聞いてしまったらしい。それで私を助ける方法を必死に考えて、ずっと演技をしていたのだという。
「ママは優しすぎるから、僕のために我慢しちゃうでしょ。でも僕、ママが辛いのは嫌なんだ。ママにはいつも本当の笑顔でいてほしい」
ケ太の言葉に、私は涙が止まらない。
「僕、パパもおばあちゃんもおじいちゃんも大嫌い。みんなママから助けてもらってお世話になってるくせに、ママを全然大事にしないし。だから僕が絶対ママを助けようと思ったんだ」
小さい子供だと思っていた。でも息子はこんなに心優しく、頼もしく育っていた。息子に気を使わせてしまったこと、いろんな思いが胸に押し寄せた。
「あなた、本当に情けないわね。私もケ太にこんなに助けられるとは思わなかったけど、息子からここまで言われて恥ずかしくないの?」
私が夫に言うと、夫は悔しそうにうつむいた。ケ太にすっかり騙され、恥ずかしかったようだ。
その後、私はケ太が集めてくれた証拠をもとに、浮気相手に慰謝料を請求し、夫にも別に慰謝料を請求した。ケ太が私と一緒にいるとはっきり言ったことで、私は無事にケ太の親権を取ることができた。
義両親はというと、離婚後、夫の浮気相手が同居を始めたが、やはり義母とうまくいかず、義母がエアコンのリモコンを隠したらしい。すると浮気相手は激怒し、義母の部屋に押し入って全ての部屋のエアコンのリモコンを奪い取り、そのまま家出した。結果、元夫と義両親は熱中症になった。命は助かったものの、義両親は認知症を発症し、元夫は重い後遺症が残ったらしい。
私はというと、職場に頼んでパートから正社員に戻してもらい、仕事も順調だ。ケ太も洗濯物を取り込んだり、お風呂掃除を手伝ってくれたりする。
私は自分の名前を思い出す。久美子。55歳の主婦。息子は大学を卒業し、自分のやりたいことを叶えるために上京していった。夫と2人暮らしの静かな日々。夫は定年間近の58歳。今では息子が時々送ってくれるメールが日々の癒しだ。
ある日、買い物の途中でスマホを見ると、兄からメッセージが届いた。
「近いうちに結婚式をするから」
私は目が飛び出るほど驚いた。兄の誠は性格はいいのに顔が残念で、いつも「もったいないな」と思っていた。相手は30歳のさゆり、26歳。上司に連れて行かれたキャバクラで知り合ったらしい。
後日、母と私、兄と兄嫁で食事に行くことになった。夫は仕事が忙しく、後日改めて挨拶することになっていた。
予約した店に向かうと、驚くべきことが発覚した。兄嫁のさゆりはすでに妊娠していて、お腹が大きくなり始めていた。
「付き合って3ヶ月での電撃結婚なんだよね」
兄が照れながら話す。3ヶ月でそんなに大きくなるっけ、と思ったが、成長は人それぞれかと納得した。
「今日は遠慮せず食べてね」
私が言うと、さゆりは「2個、2個」とメニューを眺め、一番高いステーキを頼んだ。
「やっぱりお肉を食べてスタミナつけないとね」
私がつわりがひどくて水も飲めなかったのを思い出す。彼女はかなりタフな体なのかもしれない。
「そういえば、久美子さんってどこで勤めてるんですか?」
「近所の工場よ」
「え、工場勤務なの?お兄さんはエリート社員なのに、苦労してるんですね」
突然の言いに、私も母もポカンとしてしまった。私はとっさに言い返した。
「工場と言っても環境はすごく整ってるし、お友達もたくさんできたから楽しいわよ」
「でも工場ってきつい仕事ですよね。私だったら絶対できないな。すごいですね」
一見褒めているように聞こえるが、あからさまに見下した態度だ。どうしようかと頭を悩ませていると、ちょうど料理が届いた。
「さあ、料理も届いたことだし、食べましょう」
母が手を叩きながらなんとか場を仕切り直した。兄はデレデレとさゆりを見つめていて、空気は悪いまま食事会はお開きになった。
その後、兄嫁が兄にブランド品を買わせ、毎月10万円近くお小遣いとして渡していることが発覚した。兄が母や私に頭を下げて金を借りに来たのだ。
「彼女には僕がいないとダメなんだ。それに若い子にはおしゃれさせてあげたいし。お前みたいな地味なおばさんになる前にな」
兄がそんなことを言うなんて。私はこの結婚に反対し、資金調達には協力しなかった。
2ヶ月後、結婚式の招待状が届いた。私は出席に丸をつけ、当日を待った。
結婚式当日、私は夫と会場に向かう準備をしていた。すると兄嫁から電話が来た。
「もしもし、さゆりです。ごめんなさい。誠さんが間違えて結婚式の招待状送っちゃったみたいで」
「間違えたも何も、私は兄の妹だし参加する権利はあるわ」
「え、私、久美子さんに出席して欲しくないです」
「はぁ?」
「だって元職場の子とか学生時代の友達がいっぱい来るんですよ。そんな中で久美子さんみたいなおばさんが工場勤務って知られたら最悪じゃないですか」
「だからってそんなこと」
「それに誠さんがお金のこと頼みに行った時、久美子さんは出してくれなかったでしょう。確かにそれを言われたら反論できないけど、お金を渡さなかったのは私なりの反対の意思表示だ」
「実際、断っておいてよかった。こんな非常識な人と兄を結婚させるのは間違いだ」
「旦那さんの稼ぎもないから、きつい工場のパートなんて言ってるんでしょう。そんなおばさんが、よれよれの何十年前のドレスなんて着てきたら恥ずかしいし。まあ、ご出席の無駄だから欠席で。工場勤務の貧乏人さん」
「わかりました。でもきっと後悔しますよ」
「何?一丁前に脅し?全然怖くないし。ただの工場員に何ができんの?じゃ、こっちは楽しくやるから。久美子さんはしっかりお留守番しててね」
そう言って、一方的に電話を切られた。
私があまりの出来事に硬直していると、夫がネクタイを締めながらこちらの様子を伺った。
「どうした?」
「いや、なんかね、さゆりさんが私には出席しないで欲しいって」
私がそう言った瞬間、夫の顔つきが変わった。普段は温厚であまり表情を出さない夫が、怒りに満ちた表情になった。
「スマホを貸しなさい」
夫はそう言って私のスマホを使い、兄と兄嫁にメッセージを送った。
「君たちがそんな対応をするなら、こちらにも考えがあります」
そして夫はそのまま会社用の携帯を使って何かを打ち始めた。
2時間後、私は夫と会場の前にいた。私は着物をやめてスーツに、夫も作戦のためにスーツ姿だ。私たちを見つけて両親が駆け寄ってくる。
「どうしたんだ、その格好は。早く支度をしないと間に合わないわよ」
「ごめん。兄嫁から連絡があって、私には出席しないで欲しいんだって」
両親が困惑していると、親戚一同が集まってきた。
「久美子さん、どうしてそんな格好で?」
問い詰められ、私は同じように答える。すると、親戚一同は絶句し、その後ざわめき出した。
「旦那の妹を呼ばないなんて、なんて非常識なんだ」
「自分の務める会社が久美子さんの夫である正彦さんが立て直したと知っての愚行か」
「こんな結婚式、めでたくもなんともないわ」
批判の声がどんどん大きくなって会場を埋め尽くした。それもそのはず。兄の誠が務めている会社は、夫が立て直した会社なのだ。
夫は経営コンサルタント事業を行っており、この近辺の個人商店や中小企業を盛り上げてきた。そのおかげで地元を離れた若者たちが戻ってきて、町はかなり元気になった。私は地元の大きなボランティア団体の団長をしている。子供たちのために預かり保育のボランティアや、公民館のリニューアルなどもしてきた。
そう、私たち2人はこの町にはなくてはならない存在なのだ。そんな2人をのけ者にしようとしたのだから、騒動が起きても仕方がない。
騒ぎを聞きつけて、今度は夫の会社の社員や兄の会社の人たちが駆けつけた。兄の直属の上司が怯えながら謝罪する。
「お前たち、今日は帰るぞ」
そう言って、兄の会社のメンバーは次々にいなくなった。
そこへ、世話をしてきたママさんたちが私の元に集まってくる。その中で、元々キャバ嬢をしていたという若い女性が私に話しかけてきた。
「あの子、旦那さんと出会う前に赤ちゃんができたって喜んで話してきたんです。まさかとは思ったけど、あの大きくなったお腹は多分…」
そう言って泣き始めた女性の背中を、私はさすってやった。
「本当の父親とさゆりはギャンブルにのめり込んでいて、多額の借金があるはずです」
これで全て納得がいった。つまり、子供を育てる費用や借金を兄に肩代わりさせ、自分たちは裏で悪巧みをしようとしていたのだ。
こんな騒ぎが起きているとは知らず、新郎新婦の2人が出てくる。普通なら拍手や歓声が飛ぶはずのその場面は、批判の声が絶えず飛んだ。
「何を考えているんだ?」
「恩を仇で返すつもりか?」
次々と罵声を浴びせられ、兄も兄嫁も困惑している。そして2人がこちらを見て、ズカズカと近づいてきた。
「久美子さん、あなたが何か吹き込んだんでしょう。せっかくの結婚式に何をしたんだ?」
私は救いのない人間を見るような目で見つめた。
「私、『こんな嫁はどうかと思う』って言ったよね。あの時は聞き入れてもらえなかったけど、改めて言わせてもらうわ」
「僕のさゆりに何てことを言うんだ」
「こちらからも、この結婚には賛成できないと言っておこう」
兄は夫の顔を見るなり、見る見る顔を青くした。
「お世話になっております」
「建前の挨拶はいい。君の本意は分かったから」
ダラダラと冷汗をかきながら頭を下げる兄を、さゆりはキョトンとした顔で見ている。
「誠さん、どうしてこんなおじさんに頭下げてるんですか?あなたはエリート社員なんだから、もっとビシッとしなきゃ」
「うるさい!」
兄はピシャリとそう言い放つと、さゆりの頭を掴んで一緒に深々と謝った。
「うちの会社と君の会社の人間は帰らせた。ある程度、どんなことが起きているのかしっかり話させてもらったから」
「え、私、さゆりさんに結婚式に出席しないように言われたのよ」
兄は私の言葉を聞いて、私とさゆりの顔を見比べる。
「そんなこと、一切聞いてないぞ」
「あと残酷なことを言うけど、彼女のお腹に宿っているのはあなたの子じゃない。さらにはあなたの給料を当てにして、多額の借金を背負わせようとしていたわ」
「なんだって…」
「嘘だと思うなら、買い与えたブランド品全部見せてもらったら?おそらくほとんど全てが質屋に行ってるから」
兄は絶句してフリーズしてしまった。
「君の昇格の話はなくなるだろう。こんな女性に簡単に騙されてしまっては、せっかく立て直した会社が無駄になりかねんからね」
追い打ちをかけるように夫がそう言って肩を叩くと、兄は膝から崩れ落ちてしまった。
さゆりは怒りで顔を歪めながら私を見上げる。
「せっかくうまくいってたのに、あんたのせいで台無し!」
「あっ…」
しまったという顔をして慌てて口を閉ざすが、口から出てしまった言葉は取り返しがつかない。彼女は吹っ切れてしまったのか、ゲラゲラと笑い出した。
「こんな人、給料目当てじゃなきゃ誰が結婚すると思う?しかも私みたいに若くて美人な女が、おっさんはさっさと墓に入って保険金だけ渡せばいいのよ」
そう言い放った後、テーブルにあったフォークを持ち、私に襲いかかってきた。
悲鳴をあげる私の横で、夫がさゆりの足首を蹴り、バランスを崩させる。盛大にこけて、しばらく動けなくなった。
さゆりは会場の警備員に捕まり、そのまま連行されていった。
「知り合いの弁護士の連絡先だ。こうなったら、あの女にたくさんの慰謝料を払ってもらおうじゃないか」
泣き崩れる兄に、夫は小さなメモを渡した。
「目が覚めるのが遅かった。あの時、久美子の忠告を聞いてれば…」
そう言って謝罪する兄には、少しだけ同情してしまった。
こうして壮絶な数ヶ月は幕を閉じた。
その後、兄はわずかに残された貯金を使い弁護士を雇った。頭の弱いさゆりはすぐに別の男と会っている姿が見つかり、今は集めた証拠をもとに、さゆりと男に慰謝料を請求しているところらしい。兄はすっかり心を入れ替え、「もう悪い女には引っかからないようにするよ」と落ち込んでいた。昇格の話こそなくなったものの、会社にはそのままいられることになったらしい。
「ねえ、助けてくれてありがとうね」
「いや、気にするな。久美子が傷つけられたと知って、自分が制御できなくなっていたからな」
恥ずかしそうに頬をかく夫。これからも大切にしようと誓ったのだった。



