「どうして家にいないの? 5分以内に、息子の飯を作りなさい」…

「どうして家にいないの? 5分以内に、息子の飯を作りなさい」...

鍵穴に差し込んだはずの鍵が、なぜか回らない。何度やっても、ドアはびくともしない。鍵を確認する。間違いなく、いつも使っている我が家の鍵だ。疲れで頭が回っていないのだろうか。もう一度、慎重に鍵を差し込んでみる。やはり入らない。その時、ドアの向こうから声がした。

「あら、ひかりさん、何してるの?」

義母の声だった。ドア越しに話しかけてくる。

「鍵が開かないんです。故障でしょうか?」

しばらく沈黙が続いた後、義母の声が再び響く。今度は、さっきまでとは明らかに違う調子だった。

「ああ、そうそう。鍵、変えさせてもらったのよ。ええ、だって、あんたが実家に帰った時点で、もうここは退去したものと判断したから」

理解が追いつかない。退去? 私、ちょっと待ってください。

「私はただ、母の看病で一晩家を開けただけです」

「一晩も連絡なしに家を開けるなんて、普通じゃないでしょう。それにあんたがいなくても、我が家は何も困らないのよ」

勝手な言葉ばかりが並べられていく。ドア越しの会話が、現実のこととは思えない。

「住民票もここにありますし、私の私物も全部部屋にあります」

「ああ、それね。後でダンボールに詰めて送ってあげるから、住所、教えて」

「待ってください、お母さん。これは法的に問題があります。私は正当な居住者として──」

「法的? 何それ? めんどくさい。あのね、ひかりさん。年収750万もある息子に、いつまでも寄生するのはやめてくれる? もう帰ってこなくていいわよ」

年収750万。寄生するのはやめろ。この言葉を聞いた瞬間、私は確信した。義母は何も知らない。何も分かっていない、と。

「分かりました。出ていきます」

それだけ伝え、私はその場を去った。あれから3日が過ぎた。ビジネスホテルの狭い部屋でノートパソコンに向かっている時だった。携帯電話がなる。画面には、義母の文字。

「はい」

「ひかりさん、一体何をしたの?」

「どういうことですか?」

「水も電気も止まったのよ。あんたが何か細工したんでしょ?」

水と電気が止まった。

「細工って、何のことですか?」

「とぼけないでよ。あんたが出ていった途端にこれよ。嫌がらせでしょ」

「公共料金の引き落としは私の口座からでした。その口座を解約しただけです」

「そんな……だって、あれは樹の名前で……」

「名義は樹さんでしたが、入金していたのは私です」

電話の向こうで、義父が声を張り上げた。

「おい、電話を代われ。ひかり、樹の口座を見たら残高が1円だったぞ。あんたが金を抜いたんだろう」

「お父さん、私は樹さんの口座からお金を抜いてはいません」

「嘘をつけ。昨日まで60万近くあったはずだ」

「それは私が毎月入金していた生活費ですよ。その入金を止めただけです」

「入金だって? 樹が稼いだ金だろう?」

「いえ、私の収入からです」

「何を言ってるの? うちの樹は月60万稼いでるのよ」

「お母さん。樹さんは漫画家でしたが、連載は半年前に終了しています。新しい仕事の依頼もありません」

「そんなはずないわ」

「毎月ちゃんと入金していたのは私です。家計口座が樹さん名義だっただけです」

「だったら、証拠を見せろ」

「通帳の記録をご確認ください。私の名前で振り込まれているはずです」

「じゃあ……じゃあ、今までの生活費は全て私が負担していたの?」

「そんなバカな。樹は人気漫画家だぞ」

「過去の話です」

義両親は何も言い返せずに電話を切った。きっと現実を受け入れたくないのだろう。でも、事実は変わらない。私が家計を支えてきたという真実は、もう隠せない。この3日間で、彼らがどれだけ私に依存していたかが明らかになった。

しばらくして、今度は私の担当編集者である天音から連絡が入った。

「ひかりさん、お疲れ様です。進捗はいかがですか?」

「おかげさまで順調です。それより、相談があるんです。今回のこと、記録として残しておいた方がいいでしょうか?」

「もちろんです。通話記録、メールのやり取り、銀行の取引履歴、全部残してください」

「分かりました」

「きっと向こうから仕掛けてきます。その時のために、今から準備しておくんです」

天音の言葉には確信があった。彼女は出版業界で数多くの人間関係のトラブルを見てきている。電話を切った後、私は手帳を開いた。今日の出来事を丁寧に書き残していく。時刻、通話内容、相手の発言。1文字1文字、正確に記録していく。

これまで、私は家族の平和を保つために多くのことを我慢してきた。樹の収入が途絶えても黙っていた。義両親の無理な要求にも答えてきた。でも、もうその必要はない。銀行の通帳を確認する。毎月25日、樹の口座へ30万円の振り込み。食費、光熱費、その他諸々を含めて月40万円近い出費。全て私の収入からだった。手帳にその詳細も書き加える。日付、金額、用途。義家族がどれだけ現実を見ようとしなくても、数字は嘘をつかない。全てが後に重要な意味を持つことになるとは、この時はまだ知らなかった。ただ1つ確実だったのは、もう後戻りはできないということだった。

数日後、天音の助言通り、私は専門家に相談することにした。彼女が紹介してくれた弁護士の白川弁護士は、冷静で信頼できる印象だった。そして、彼の弟である探偵の蒼井も、この1週間で驚くほど多くの証拠を集めてくれた。そして今日、私たちは樹の実家を訪れる。もう逃げも隠れもしない。全ての真実を明らかにする時が来た。

樹の実家のチャイムを押す。ドア越しに義母の声が聞こえる。

「どちら様?」

「光です。今日は慰謝料の請求に来ました」

ドアが勢いよく開く。義母と義父が立っていた。

「慰謝料ですって? 何をバカなこと言ってるの?」

「そっちこそ、家から勝手に出ていって、生活費も止めやがって」

「失礼いたします。弁護士の白川と申します。こちらは調査を担当した蒼井です。よろしくお願いします」

「弁護士? 調査? 何のことよ」

「樹さんの不貞行為について、慰謝料を請求させていただきます」

「不貞? そんな出鱈目は──」

「出鱈目ではありません。こちらをご覧ください」

白川弁護士が資料を取り出す。蒼井が補足する。

「樹さんが女性と接触している記録です。3月15日午後2時、イタリアンレストランでの食事。同日午後4時前、映画館へ。そして午後6時半、パークサイドホテルへの入室記録もあります」

「そんなの合成でしょ。今どき、写真なんていくらでも加工できるじゃない」

「写真だけではありません。SNSの投稿時刻と位置情報が一致しています。樹さんが『仕事で忙しい』と投稿した時間に、実際は女性とホテルにいました」

「だから、それも作り物だろう」

「ホテル側から本人確認を取っています。防犯カメラの映像、宿泊記録、クレジットカードの利用履歴、全て一致しています」

「そんな……樹がそんなことするはずない」

義母の声には動揺が隠せずにいた。これまで息子を盲信してきた彼女にとって、この事実は受け入れ難いものなのだろう。でも、現実はそう甘くない。私は長い間、幻想を支え続けてきた。樹が才能ある漫画家だという幻想。家計が安定しているという幻想。夫婦が愛に満ちているという幻想。

「さらに、樹さんの経済状況についてもお話しする必要があります」

「経済状況? 樹は月60万稼いでるぞ」

「樹さんの連載は半年以上前に止まっています。最後の入金は昨年9月の出版社からの15万円でした。現在の収入は0です。最後に確認された入金は、光さんの私物を無断で売却したネット売買での売上、2万3000円でした。そして現在の口座残高は1円です」

義母の顔が青ざめる。

「嘘よ。そんなはずない」

「出版社側にも確認を取りました。樹さんとの契約はすでに打ち切られており、今後の仕事の予定もないとのことです」

「だって、樹は人気作家だったんだぞ」

「残念ですが、担当編集者によると、最後の作品は読者からの評価が低く、ネット上では盗作疑惑まで出ていたとのことです」

「そんな……」

「ひかりさんは2年間にわたり、月平均40万円を家計に入れていました。総額は約960万円になります」

「そんなに……」

「お父さん、お母さん。私がどれだけ支えてきたか、今ならお分かりいただけるでしょう」

「でも、でも、樹は頑張ってたのよ」

今でもまだ息子を庇おうとしている。母親として当然の反応なのかもしれない。でも、その愛情が樹をここまで甘やかし、現実を見えなくさせたのではないだろうか。愛情と過保護は違う。本当に愛するなら、時には厳しい現実を受け入れさせることも必要だったはずだ。

「頑張っていたのはひかりさんです。樹さんは作家活動と偽って、実際は不倫相手との時間を過ごしていました。こちらが不倫相手との交際記録です。期間は約8ヶ月。この間、樹さんは家にいると偽って、週3回以上外で会っていました」

「週3回……」

「私が残業で遅くなった日、実家に行った日、出張の日。全て狙い撃ちでした」

「そんなこと、知らなかった」

「無知は免罪符にはなりません。ひかりさんが受けた精神的苦痛、経済的損失は明確です。さらに、樹さんはひかりさんのクレジットカードを無断で使用していました。不倫相手との食事代、ホテル代、プレゼント代、合計で約80万円です」

「80万も……」

「全て私の知らない間に使われていました。明細を見て初めて気づいたんです」

「光さん……私たち、何も知らなくて……」

「知らなかったでは済まされません。あなた方はひかりさんを『寄生中』と呼び、鍵を変えて自宅から閉め出しました」

「それは、樹が稼いでいると思ってたから……」

「思い込みで人を傷つけた責任は重大です。しかも、ひかりさんが家を出た後も、『出ていって正解。もう帰ってこなくていい』と発言しています」

「そんなつもりじゃ……」

「つもりじゃなくても、言われた私の気持ちを考えたことはありますか? ひかりさんは、慰謝料として、樹さんに300万円、あなた方には精神的苦痛に対して100万円を請求いたします」

「400万? そんな大金、払えるわけないじゃない」

「では、法的手続きに入らせていただきます。給与の差し押さえも、財産の差し押さえも可能です」

「給与って……俺は無職だぞ」

「それも調査済みです。あなたは3年前に早期退職し、現在は年金のみ。奥様はパート収入、月8万円。しかし、住宅ローンの残債が1200万円あります」

「なんで、そんなことまで……」

「調査は合法的に行っています。公開情報の範囲内です」

私はこの場の空気の変化を感じていた。義両親の顔からは、これまでの傲慢さが完全に消え去っていた。真実の重みがようやく彼らにも理解できたのだろう。でも、私にはもう同情する気持ちはなかった。この2年間、私がどれだけ苦しんだか。そして、彼らがどれだけ私を軽んじてきたか。彼らが今感じている困惑や絶望は、私がずっと1人で抱えてきた感情だった。家計を支えるプレッシャー、嘘をつき続ける夫への失望。そして何より、自分の努力が全く認められない孤独感。ようやく彼らも、私が味わってきた現実の重さを知ることになった。これは復讐ではない。全てに決着をつける時が来たのだ。

実家での対決から2日後のことだった。天音から緊急の連絡が入る。

「ひかりさん、大変です。週刊誌から連絡がありました。『うちの嫁は人気作家のくせに、生活態度が悪い』という情報提供があったそうです。でも、安心してください。すでに対処済みです」

「対処って?」

「情報提供者の本人確認が取れなかったそうです。電話の声だけで、名前も住所も曖昧で、編集部の方も信憑性に欠けると判断してボツにしました」

義母がやったのだろう。でも、自分の身元を明かすことはできなかったようだ。なぜなら、嘘がバレるから。義母は、息子の妻が有名作家だということを自慢したかったのだろう。でも、同時に私を貶めたいという矛盾した感情も抱いている。結局、中途半端な情報提供になってしまい、週刊誌側にも相手にされなかった。彼女の行動は一貫性がなく、感情的になりすぎている。これが今後の彼らの行動パターンになりそうだ。

「ありがとうございます。でも、これで終わりでしょうか?」

「分かりません。念のため、ネット上も監視しておきますね」

その日の夜、私のSNSアカウントに大量の通知が届いた。『人気作家の妻の正体を暴露』『家庭を顧みず仕事ばかり』『夫の才能に嫉妬して一方的に家を出る』『年収数百万の夫を見下し金銭的に支配』『これが現代女性の本質』といった投稿が拡散されていく。でも、樹は大きな誤算をしていた。私の読者たちの反応は、彼が期待したものとは正反対だった。

『作家の私生活を勝手に晒すなんて最低』
『奥さんが稼いでたのに、何言ってるの?』
『この人の漫画、つまらなかった記憶がある』
『名誉棄損じゃない?』

コメント欄は私を擁護する声で溢れていた。そして翌日、天音から連絡が入る。

「ひかりさん、出版社に苦情メールが大量に届いています」

「苦情?」

「樹さんの投稿を見た読者の方々からです。『作家の私生活と作品の質は関係ない』『夫婦の問題を大袈裟にするのはおかしい』という内容がほとんどです。300通を超えています。編集部としても看過できない状況です。正式に声明を出すことになりました」

その日の午後、出版社から声明が発表された。天音が読み上げてくれる。

「『作家の私生活と作品の質は無関係である。また、一方的な情報発信による中傷行為は許容できない。読者の皆様には、作品そのものでご判断いただきたい』。これで公式の立場を明確にしました」

「ありがとうございます。でも、まだ終わりじゃないかもしれません。白川さんから連絡は来ていませんか?」

その時、携帯電話がなった。白川弁護士からだった。

「ひかりさん、緊急事態です。樹さんのSNSアカウントから、さらに悪質な投稿が行われています」

「どのような?」

「あなたの実名、住んでいたマンション名、勤務先の出版社名まで晒されています。これは完全に犯罪行為です」

実名まで。

「しかも、『この女は夫の金を盗んで逃げた泥棒』『読者を騙している偽作家』など、明らかな虚偽の内容です」

「そんな……」

「ひかりさん、蒼井です。すでに樹さんのアカウントから発信されている証拠は抑えました。発信IPアドレスと名義の特定も完了しています。仮処分の申請を行います。アカウントの凍結と投稿の削除を求めます」

「お願いします」

しかし、義母の悪意は、彼女自身の首を絞める結果となった。仮処分の申請から12時間後、義母のアカウントは凍結された。しかし、それまでに彼女の投稿は数千回もスクリーンショットされ、逆に義母を批判する投稿が大量に作られていた。

『逆恨み怖い』
『事実を認めたくないんだろうね』
『息子を甘やかした結果がこれか』
『完全に名誉棄損じゃん』

ネット上では義母への批判が殺到していた。そして、思わぬところから援軍が現れる。

「ひかりさん、驚くことが起きています」

「何ですか?」

「あなたの読者の方で、弁護士をされている方が、無料で法的支援を申し出てくださいました。しかも、10人以上です」

「10人も……」

私は驚きを隠せなかった。作品を通じて読者の方々と繋がっているとは感じていたが、こんな形で支援していただけるとは思ってもみなかった。

「皆さん、『表現の自由を守るため、作家を支援したい』とおっしゃっています。樹さんの行為を表現者への攻撃として捉えているようです」

「そんな……ありがたすぎて……」

「それだけではありません。読者の方々が『ひかりさん応援プロジェクト』なるものを立ち上げて、あなたの作品を改めて宣伝してくださっています。売上も、前月比で200%アップしています」

樹と義母の悪意は、完全に裏目に出た。彼らの思惑とは正反対に、私への支援の輪は広がり続けていた。そして、決定的な出来事が起きる。

「ひかりさん、重要な報告があります」

「何でしょう?」

「樹さんのSNS投稿と、そのお母様の投稿を証拠として、名誉棄損で刑事告発することが可能になりました。警察も動いています。ネット上での誹謗中傷行為に関して、捜査を開始するとのことです」

「刑事告発……」

「はい。民事だけでなく、刑事事件として立件される可能性が高いです。特に、お母様の投稿は悪質で、懲役刑の可能性もあります」

私は複雑な気持ちだった。ここまで事が大きくなるとは思っていなかった。でも、彼らが最初に仕掛けてきたのだ。私は何も悪いことはしていない。ただ真実を守ろうとしただけ。そして、それを多くの人が理解し、支援してくれている。

「分かりました。お任せします」

「必ず勝利します。ひかりさんの名誉を回復させましょう」

SNSという武器を使って攻撃を仕掛けた義家族。しかし、その剣は最終的に彼ら自身を傷つけることになった。彼らは私を孤立させ、社会的に抹殺しようとしたのだろう。でも、その計画は完全に裏目に出た。むしろ、私への支援の輪を広げ、彼ら自身が社会的な批判を浴びることになった。感情的になりすぎて、戦略性を欠いた行動だった。もし冷静に計画を立てていれば、もう少し巧妙にやったかもしれない。でも、それが彼らの限界だったのだろう。

新しいアパートに引っ越してから1週間が過ぎた。静かな環境で、ようやく集中して執筆できるようになった。読者からの支援メッセージも日々届き、私の心は少しずつ癒されていく。夜中の2時を過ぎていた。新作の原稿に集中していると、玄関のドアの鍵がガチャガチャと音を立てた。最初は空耳かと思った。でも、音は確実に玄関から聞こえてくる。

ガチャガチャ。ガチャガチャ。

鍵穴に何かを差し込んで回している。この時間に……。私は静かにパソコンを閉じ、玄関に向かった。ドアスコープから外を覗く。青白い顔をした夫、樹が立っていた。

「開けろよ。光、いるんだろ?」

「樹さん? なぜここに?」

「なぜ? 俺は夫だろ。妻の家に来て、何が悪い?」

「でも、ここは私の新しい住所です。あなたには教えていません」

「探偵なんて使いやがって。俺の生活を監視しやがって」

「私が探偵を雇ったのは、不倫の証拠を集めるためです」

「不倫なんてしてない。ただの友達だ」

「ホテルの記録もあるのに、まだそんなことを」

「証拠なんて捏造だろ。あの弁護士と探偵が来る段になって作った偽物だ」

まだ、そんなことを言っている。現実を受け入れることができないのだろう。でも、それは私の問題ではない。

「樹さん。話があるなら、弁護士を通してください」

「弁護士? バカバカしい。夫婦の問題に、他人を挟むな」

「夫婦の問題? あなたが他の女性とホテルに行った時点で、もう夫婦ではありません」

「だから違うって言ってるだろ。お前が勝手に勘違いしてるだけだ」

「勘違い? では、なぜ私のクレジットカードで、彼女にプレゼントを買ったのですか?」

「それは……それは……」

「説明できないでしょ。なぜなら、事実だから」

「うるさい。とにかく開けろ。話し合おう」

「お断りします。これ以上、話すことはありません」

「開けろって言ってるんだ。俺は夫だぞ。権利がある」

ドアの鍵がガチャガチャと激しく回される。樹は完全に冷静さを失っていた。

「権利? あなたにそんな権利はありません。今すぐお帰りください」

「帰る? 帰るもんか。お前が俺の人生をめちゃくちゃにしたんだ」

「めちゃくちゃにしたのは、あなた自身です」

「俺の漫画が売れなくなったのも、お前のせいだ。お前が俺の足を引っ張ったからだ」

「あなたの漫画は、私が支援する前から評価が下がっていました」

「うるさい! 俺は天才漫画家だ。お前みたいな三流作家とは格が違う」

私はその言葉を聞いて、改めて確信した。この人とは、もう2度と関わりたくない。

「樹さん。今すぐ立ち去らないと、警察に通報します」

「警察? 馬鹿げてる。夫が妻の家を訪れて、何が悪い?」

「ここはもう、あなたの家ではありません。不法侵入です」

「不法侵入? ふざけるな。俺たちはまだ夫婦だ。離婚なんてしてない」

「法的手続きは進行中です。そして、あなたには私に近づく権利はありません」

「権利? 権利ってなんだ? 愛があれば十分だろ」

「愛? 他の女性と不倫しておいて、愛ですって?」

「あれは違う。ただの慰めだ。お前が冷たいから、俺は寂しかったんだ」

「慰め? 寂しかった? まだ、そんな言い訳をしている」

樹は最後まで自分の責任を認めようとしない。全て私のせい、社会のせい、環境のせい。こんな人と一緒にいては、私の人生そのものが無駄になってしまう。彼はもう変わることはないだろう。変わる気もないし、変わる必要性も感じていない。だから、私が変わるしかなかった。この状況から抜け出すのは、私自身の手でやるしかなかったのだ。

「私が冷たかった? 毎月40万円も家に入れていたのに」

「金の話ばかりしやがって。愛はもっと大切なものだろ」

「その愛とやらで、生活費は払えるんですか?」

「生活費なんて些細なことだ。俺の才能があれば、いつでも稼げる」

私は疲れ果てた。この人と話すのは、壁に向かって話すのと同じだった。もう十分だった。これ以上、この人の相手をしている時間が惜しい。私には書きたい物語があり、応援してくれる読者がいて、支えてくれる仲間がいる。そんな大切な時間を、この人のために使うわけにはいかない。警察を呼ぶことに躊躇はなかった。むしろ、なぜもっと早く決断しなかったのかと思うほどだった。自分の人生を守るためなら、どんな手段を取ってもいいのだ。

「110番通報します」

「やめろ。警察なんて呼ぶな。俺は何も悪いことしてない」

私は携帯電話を手に取り、110番をダイヤルした。

「はい。警察ですか? 住居侵入未遂の件で通報します」

「住居侵……何それ? 俺は妻に会いに来ただけだ」

「午前2時30分頃から、元夫が私の住居でドアの鍵を回し続け、『俺は夫だ』などと大声で叫びながら侵入を要求しています」

「元夫? 元夫ってなんだ? 俺たちはまだ夫婦だぞ」

「現在も玄関前に居座っている気配がありません。至急対応をお願いします」

「光、電話を切れ。俺たちで解決できる問題だ」

「住所をお伝えします」

10分後、パトカーのサイレンが聞こえてきた。樹の声が急に小さくなる。

「おい、ひかり。警察なんて大げさだろ。話し合いで解決しよう」

「今さら、何を言っているんですか?」

警察官の声が聞こえる。

「そこの方、身分証明書を提示してください」

「身分証明書? なんで俺が……」

「深夜に他人の住居で騒いでいるという通報がありました」

「他人? 俺は夫だぞ。これは夫婦間の問題だ」

「夫婦間の問題でも、住居侵入未遂は犯罪です」

「住居侵入未遂? バカバカしい。俺は妻に会いに来ただけだ」

私はドアを開け、警察官に状況を説明した。樹は警察官に取り押さえられていた。

「今後、この住所に近づかないでください。再度近づいた場合は、逮捕します」

「はい? 何の罪だ?」

「ストーカー規制法、住居侵入罪、威力業務妨害、複数の容疑があります」

「そんな……俺は愛する妻に会いに来ただけなのに」

警察官は樹を連れ去っていく。私は初めて、本当の静寂を感じることができた。

翌日、白川弁護士から連絡が入る。

「ひかりさん、昨夜の件、お疲れ様でした。警察からも連絡をいただきました」

「ありがとうございます」

「ひかりさん、蒼井です。実は、樹さんの行動を監視していました。昨夜だけではありません。1週間、樹さんはあなたの周辺をうろついていました。新しいアパートの周りを何度も回ったり、近くのコンビニで待機したり。防犯カメラにも3度映っています。明らかにストーカー行為です。すでに接近禁止命令の申請を行いました。裁判所からの許可が降りれば、樹さんはあなたから500m以内に近づけなくなります」

「500m……」

「はい。違反した場合は、即座に逮捕されます。今回の件で、樹さんは完全に法的な監視下に置かれることになりました。これで、安心して生活できます」

「ありがとうございます」

「ひかりさん、これで本当の意味での決別が始まります。もう、振り返る必要はありません」

私は窓の外を見つめた。空は晴れ渡っていて、新しい1日が始まろうとしていた。もう誰にも縛られない。もう誰にも脅かされない。私は自分の人生を、自分の意思で歩んでいける。これまで、どれだけ多くの時間を樹や義両親のために費やしてきたことだろう。彼らの機嫌を取り、彼らの嘘に付き合い、彼らの都合に合わせて自分を殺してきた。でも、もうその必要はない。私は私として生きていけばいい。

樹の深夜の住居侵入未遂事件から3日後、再び樹の実家を訪れることになった。今度は最終的な慰謝料の支払いについて話し合うためだ。白川弁護士と蒼井も同行している。これが最後の対面になるだろう。

樹の実家のドアを開けた義母の顔は、以前とは全く違っていた。傲慢さは消え、疲れ切った表情をしている。

「ひかりさん、来てくださったのね。弁護士さんも……」

リビングに通される。義母と義父は縮こまって座ったが、その姿はまるで別人のようだった。

「それでは、慰謝料の件について、最終的な話し合いを始めさせていただきます」

「慰謝料……そのことなんですけど、正直に言います。払えないんです」

「払えない?」

「退職金もないし、貯金もほとんど残ってないの。借金もあるんだ。住宅ローンが1200万、カードローンが200万」

「調査で把握していますが、現在のお2人の月収は、年金とパートで合計18万円程度ですね」

「そうなのよ。それで生活するのがやっとで……少しだけ時間をくれないか」

「……何とか、分割でも何でも……」

私は2人の様子を見ていた。かつて私を『寄生中』と呼んだ人たちが、今は哀れな姿で懇願している。でも、もう同情する気持ちはなかった。人は変わるものだ。状況が変われば、態度も変わる。彼らの豹変ぶりは見事だった。これが彼らの本性なのだろう。強いものには媚び、弱いものには傲慢になる。そして、自分が弱い立場に回った途端、今度は哀れみを請う。

「お父さん、お母さん。私がどれだけ支えてきたか、考えたことありますか?」

「それは、今になって思えば……」

「今になって? 2年間、毎月40万円近くを家計に入れ続けた私の気持ちを、1度でも考えてくださいましたか?」

「それは、知らなかったから……」

「知らなかった? 何度も説明したのに、聞く耳を持たなかっただけでしょう」

その時、玄関の方から足音が聞こえた。樹が帰ってきたのだ。

「ただいま。って、なんだよこれ。また弁護士か」

「樹さん、お疲れ様です。今日は最終的な話し合いです」

「最終的って何だよ。俺はまだ諦めてないぞ」

「諦めてない? 何をですか?」

「俺の漫画家人生だよ。俺は終わってない。新シリーズのプロットもあるし。雑誌の編集長だって『自作を持ってこい』って先月言ったんだ」

私は樹の顔を見つめた。まだ、そんな嘘をついている。現実を受け入れることができないのだろう。哀れだった。これほどまでに現実逃避を続ける人を見たことがない。盗作疑惑まで出ているのに、まだ才能があると言い張っている。もはや妄想の域に達している。この人と一緒にいたら、私まで現実が見えなくなってしまいそうだった。だからこそ、距離を置いて正解だったのだ。そして今、完全に決別する時が来た。

「樹さん、確認済みです。あなたに次の仕事はありません」

「確認って何だよ。誰に確認したんだ?」

「出版社の編集部に直接確認いたしました。編集長によると、樹さんとの契約は昨年10月に正式に終了しており、今後の執筆予定もないとのことです。『自作を持ってこい』という発言も事実とのことでした」

「そんなはずない。俺は才能があるんだ」

「さらに、最後の作品について盗作疑惑が浮上しています。出版社が内部調査を行った結果、複数の既存作品との類似点が発見されました」

「盗作? バカバカしい。俺のオリジナルだ」

「出版社側がすでに内部調査に入りました。新連載の予定は、現時点でゼロです。今後も仕事を得ることは困難でしょう」

樹の顔が青ざめる。ようやく現実が見えてきたのかもしれない。

「樹。そんなこと、本当なのか?」

「違う。俺は悪くない。全部、光のせいだ。光が俺の足を引っ張ったから、こんなことになったんだ」

「私のせい? 具体的に、何をしたというのですか?」

「俺の創作活動を邪魔して、家事を押し付けて、俺の時間を奪って……」

「家事? 私が全部やっていましたよね。あなたは何もしていませんでした」

「それは、俺が創作で忙しかったから」

「創作? 不倫相手と会っていただけでしょ」

「不倫じゃない。あれは心の拠り所だったんだ。お前が冷たいから、俺は寂しかったんだ」

「心の拠り所? 私のお金を使って、他の女性とホテルに行くことが、心の拠り所ですか?」

「また金の話ばかりしやがって。愛はもっと大切なものだろう」

「愛? あなたが私に愛を示したことなど、1度もありません」

「そんなことない。俺はお前を愛してる。だから結婚したんだ」

「愛していたら、他の女性と不倫しますか? 私の収入に依存しながら、感謝の気持ちも示さないのですか?」

「それは……」

「もうやめなさい。見苦しいぞ」

義父が口を挟んだ。私は立ち上がった。もう十分だった。この人たちとの関係は、今日で完全に終わりにしたい。

「皆さん、最後に1つだけ言わせてください」

3人が私を見つめる。

「人は、誰かに依存して生きることはできます。でも、責任を持たずに寄りかかり続けた先には、何も残らないんです」

「なんだよそれ。説教か?」

「愛も信用も、自分で積み重ねなければ手元には残らない。あなたたちは、それを私に背負わせてきました。でも、もう私は背負いません。私は、利用される存在ではなく、選べる存在でいたい」

「選べる存在って……」

「そうです。自分の人生を自分の意思で決める存在です。誰かの都合に振り回されるのではなく、自分の価値観で生きる存在です」

「お前は俺の妻だろ。勝手なことを言うな」

「勝手? 私が勝手ですか? 2年間、家計を支え続けて、あなたの嘘に付き合い続けて。それでも、勝手ですか?」

「だから、俺は感謝してるって」

「感謝? その感謝とやらは、他の女性とのホテル代に消えていったのでしょうね」

「もう昔の話だろ。これから頑張るから」

「これから? もう遅いんです。信頼は、1度失えば2度と戻りません」

「ひかりさん、私たち、どうすれば……」

「お母さん。覚えていますか? 私を何と呼んだか」

「それは……」

「『寄生中』とおっしゃいましたよね」

「あの時は、事情を知らなくて……」

「事情を知らなかったから、人を傷つけてもいいのですか?」

義母、義父、樹。3人とも、何も答えることができずにいた。長い沈黙が続く。その沈黙の中で、私は確信していた。これで全てが終わったのだと。

「それでは、慰謝料の件については、法的手続きを進めさせていただきます。財産の差し押さえも含めて、可能な限りの回収を行います」

「うちは、家しかないのよ。住宅も差し押さえの対象になるの?」

「家を失ったら、俺たちはどこに住めば……」

「それは、あなたたちが考えることです。私はもう、関係ありません」

「光、そこまでしなくても……」

「そこまで? あなたたちが私にしたことを考えれば、これでも優しすぎるくらいです」

私は振り返ることなく、樹の実家を後にした。外の空気が、とても清々しく感じられた。荷物を下ろしたような、軽やかな気分だった。振り返ってみれば、この2年間は私にとって大きな学びの時間だった。人を信じることの大切さと同時に、自分を守ることの重要性も知った。無償の愛には限界があり、一方的な犠牲は美徳ではないということも理解した。そして何より、自分の人生は自分で選択しなければならないということを実感した。これからは、もう誰かの期待に答えるためではなく、自分の信念に従って生きていこう。

それから半年が過ぎた。樹は接近禁止命令により、私から500m以内に近づくことができなくなった。ストーカー行為で警察の監視下に置かれ、完全に接触不能となった。もう2度と、私を脅かすことはできない。義両親は借金と滞納により、ついに家を手放すことになった。1200万円の住宅ローンと200万円のカードローンが重くのしかかり、生活は完全に破綻した。それでも、私にはもう関係のないことだった。離婚も正式に成立した。裁判所で最後の手続きを終えた時、私は心の底から実感した。自分の人生を取り戻したのだと。

今朝、天音から嬉しい報告があった。

「ひかりさん、素晴らしいニュースです。新作の読者アンケートが届いているんですが、『勇気が出た』『自分も頑張ろうと思った』という反響が続々と届いています」

「本当ですか?」

「特に女性読者からの支持が圧倒的です。『ひかりさんのように強くなりたい』『私も自分の人生を取り戻したい』というメッセージばかりです。次の期待も高まっています」

電話を切った後、私は新しいアパートの窓際に座った。朝の光が部屋いっぱいに差し込んでいる。晴れ渡った空を見ながら、静かに微笑む。もう、誰にも縛られない。もう、誰にも利用されない。もう、誰かの都合に振り回されることもない。私は、自分で選んだ道を歩いている。机に向かい、新しい原稿を広げる。今度は、誰にも遠慮することなく、本当に書きたい物語を紡いでいこう。

「どうして家にいないの? 5分以内に、息子の飯を作りなさい」

「今、夫と家にいますけど」

「え? 何をバカなこと言ってるの? 息子なら私の隣にいるわよ。あなたは、息子の嫁でしょ」

元義母から突然の電話。かつての私なら、また理不尽な要求かと頭を抱えていただろう。でも、今の私は冷静だった。話が噛み合わないのは、彼女が真実を知らないから。元義母はきっと思い知ることになる。本当にバカなのは、誰なのかを。

「まず結論からお伝えします。私は3年前に、あなたの息子さんと離婚しました。そして1年前に、別の方と再婚しています」

「は? 何を言ってるの? そんなの嘘に決まってるじゃない」

「信じるかどうかは、お任せします。でも、事実は変わりません。私はもう、あなたの息子とは何の関係もないんです」

電話の向こうの声が止まった。沈黙が重い。その後、再び言葉を詰まらせながら反論しようとする声が聞こえてきたが、私の心には動揺も戸惑いもなかった。

「離婚なんて、嘘に決まってるわ。だって、樹はね、あなたが海外に行っただけだって言ってたのよ。戻ってきたら、また一緒に住むって話じゃない」

「その話は、全て嘘です。私は海外出張なんてしていません。離婚してから、実家で生活していました」

「そんなはずない。だって、今日が帰ってくる日だって、樹が言ってたわよ。それなのに、どうして家にいないの? 何をしてるのか、説明しなさい」

「説明することなんて、ありません。全て、樹さんが作り上げた嘘なんです。もう1度言いますが、私たちは3年前に離婚しています」

「嘘だわ。だって、そんな大事なことを隠す理由がないじゃない。私に言わないなんて、おかしいでしょう」

彼女は完全に、樹の作り話を信じきっている。私が海外出張から帰ってきたら、また一緒に住むという話は、彼女の頭の中で確固たる事実になっていたのだ。そして、その帰国の日が今日だと信じているからこそ、私が家にいないことに怒り狂っている。しかし、これらは全て樹がついた嘘である。樹がなぜ、こんな嘘をついたのか。理由は明白だった。離婚という現実を受け入れられず、いつか私が戻ってくるという妄想にすがりついているのだ。そして、母親には格好悪い真実を隠し、都合のいい嘘で取り繕った。

「信じてもらえなくても構いません。その上で、もう一度言わせていただきます。私は樹さんと離婚しました。それも3年前の話です。そして、現在の夫と再婚して、新しい生活を始めています」

「再婚? また、そんな嘘をついて。大体、樹からそんな話を聞いたこともないわよ。それに、再婚なんてあなたにできるわけがない」

「信じたくないなら、それで結構です。ただ、これ以上、私の生活に干渉しないでください。それが、最後のお願いです」

「お願い? 嫁のくせに、自分勝手なことばかり言って。私は認めないからね」

私は、それ以上、元義母の土音に付き合う気にはなれなかった。

「これで終わりにしてください。では」

そう告げて、電話を切った。電話を切った後、深いため息をついた。元義母がこの事実を受け入れる気がないことは分かっていたし、信じてもらおうとするつもりもなかった。それでも、彼女の声に残る怒りと居直りは、耳に焼きつくように響いていた。その後、電話の折り返しはなかったが、このまま終わるはずがないことも、容易に想像できた。元義母は感情的に行動する人だ。私の言葉を聞き流して怒りを募らせ、何かしらの形で再び干渉してくるだろう。彼女は、息子の嘘を疑うよりも、私を悪者にする方を選ぶに違いない。都合の悪い真実よりも、心地よい嘘を信じたがる。そんな元義母の性格を、私は嫌というほど知っていた。だからこそ、私は備えを進める必要があった。樹や元義母の言動に対抗する準備をし、必要なら、今の夫である俊介にも協力を仰ぐつもりだった。法的な知識を持つ俊介なら、きっと適切なアドバイスをくれるはずだ。再びため息をつきながら、私はスマホを置いた。この対応が簡単に終わらないことを覚悟しつつ、冷静に対処する決意を固めていた。

数日後、私は車を走らせ、実家へ向かっていた。両親から電話があり、元義母と樹が突然実家に乗り込んできたというのだ。『お前の娘を出せ』と騒ぎ立てているらしく、門扉や壁を蹴りながら喚いている状況だと聞いた。慌てて向かう途中、スマホの通知が鳴るたびに胸がざわついたが、これ以上の混乱を防ぐためにも、早く現場に行くしかなかった。実家に到着すると、目の前には予想以上の光景が広がっていた。元義母が門扉を蹴り上げながら怒鳴り声を上げ、樹はその後ろで腕を組んで不機嫌そうな表情を浮かべている。

「夏海を出しなさい。浮気女が、何を考えているのか聞いてやる」

元義母の声が近隣に響き渡り、すでに何人かのご近所さんが家の周りに集まっていた。母が玄関先で困惑した表情を浮かべ、父が「いい加減にしろ」と元義母に向かって声を張り上げているのが見えた。その様子に、元義母は怯むどころか、さらに声を荒げて反論している。ついに来てしまった。電話だけでは済まないと予想していたが、まさか実家まで押しかけてくるとは。元義母の行動力は常軌を逸している。樹もまた、母親の暴走を止めるどころか、むしろ後押ししているようだった。この状況を見て、改めて確信した。私が離婚を選んだのは、正解だったのだ。

「黙りなさい。これは私の息子と嫁の問題よ」

深呼吸をして、冷静さを保とうとしながら車を降りた。私の姿を認めると、元義母は目を剥き、「ようやく出てきたわね」と叫ぶ。樹も冷ややかな目でこちらを見つめていた。

「あなたの娘が浮気してるんでしょ。樹がいるのに、何をしてるのよ」

怒りのあまり口調が荒くなり、拳を振り上げている。母はその剣幕に少したじろぎを見せたが、落ち着いた声で答えた。

「夏海が浮気? そんなこと、あるわけないでしょう。それに、もう樹さんとは……」

「何を言ってるの? 樹がそう言ってるのよ。夏海は浮気しているんだって」

その言葉を遮るように、元義母は癇癪を張り上げた。それを聞いて、ついに父が一歩前に出る。

「いい加減にしなさい」

厳しい口調に、元義母が一瞬怯む。父はその隙を逃さなかった。

「夏海は樹さんと3年前に離婚しています。それから1年前に、別の男性と再婚しました。浮気なんて、ありえない話だ」

「離婚? 勝手にそんなことを言っているだけでしょ。樹も、何も聞いてないって言ってるわ」

しかし、元義母はその話を一切受け入れる様子を見せなかった。樹はその場で頷き、元義母の言葉に同意するように黙って立っていた。母はため息をつきながら、元義母に目を向けた。

「あなたたちが離婚を認めたくないのは分かります。でも、私たちは事実を話しているだけです。信じたくないのは、あなたたちの問題です」

元義母は母の冷静な態度にさらに苛立ったようで、「黙りなさい。私は嫁の浮気を追求しに来てるの。話をすり替えないで」と、再び怒鳴り始めた。その様子に、父は呆れた顔を隠せない。

「夏海から聞いていた通りの人だな。ここまで話が通じないとは」

両親の冷静で毅然とした態度に、私は心から感謝した。彼らは私の味方として、元義母と樹の理不尽な要求に立ち向かってくれている。一方で、近所の人たちが集まってしまったことで、事態はさらに複雑になっていた。このまま元義母が暴れ続ければ、ご近所に迷惑をかけてしまう。何とか早めに収束させなければならない。

その時だった。車のエンジン音が近づき、やがて私の夫である俊介が現れた。俊介は落ち着いた表情で車を降り、ゆっくりとこちらに歩み寄る。

「どうも、俊介です」

彼は元義母と樹に丁寧に頭を下げ、穏やかな声で名乗った。その瞬間、元義母の表情が一変した。

「あんたは誰? 夏海の浮気相手ってことかしら? 人様の嫁を奪うなんて、どうかしてるわね」

「いいえ、私は夏海さんの再婚相手です。浮気相手ではありません。人の話も聞かずに勝手に決めつけて、どうかしているのはあなたの方じゃないですか」

俊介の落ち着き払った態度に、元義母も樹も言葉を失った。俊介が自己紹介を終えると、元義母は顔を真っ赤にして一歩踏み出し、俊介を鋭く睨みつけた。

「何をぬけぬけと名乗ってるのよ。樹の大事な嫁を奪っておいて、よくそんなしらじらしいことが言えるわね」

俊介の冷静な反応に、元義母の怒りはさらにエスカレートしていく。俊介は動じることなく、穏やかな表情を保ったまま、その落ち着いた態度がさらに元義母の苛立ちを煽った。

「さっさと夏海を返しなさい。あの子は樹の嫁で、これからも樹と一緒にいるべきなのよ。あんたみたいな男に奪われるなんて、許せるはずがない」

「そうだ。夏海は俺の嫁だ。勝手に連れて行くな」

元義母はその場で腕を振り上げながら、「どうせ、あんたが夏海を誑かしたんだ」と攻め立てた。俊介を浮気相手と決めつけるその姿勢には、疑う余地のない悪意が込められていた。

「嫁は家に戻るべきなのよ。それが当たり前でしょ。嫁としての責任を果たすためにも、早く樹の元に戻りなさい。夏海さんも、何を考えてるの? 家庭を壊して、こんな男と一緒になるなんて」

元義母の言葉は矛先を変え、今度は私に向けられた。一方、樹は元義母の後ろから静かに頷いているだけだったが、その表情にはわずかな焦りが見て取れた。それでも、元義母の剣幕に委ねて、あえて口を挟むことはしないようだった。元義母の罵倒はさらにエスカレートしていく。その場の空気は元義母の怒りに染まり、喚き声が響き渡っていたが、俊介は冷静さを失わず、穏やかに立ったまま、その土音を静かに受け止めていた。

「浮気相手というのは誤解です。僕は正式に夏海さんと結婚し、彼女の夫として暮らしています」

「何度言わせれば気が済むの? そんなの、認めるわけないわ。夏海は樹と一緒にいるべきなの」

「何度でも言いますよ。あなたが理解するまでね。それまでは、離婚についてお話しさせていただきます。夏海さんから聞いていたお話を元にお伝えしますが、どうか感情的にならずに聞いてください」

俊介は元義母の激しい非難を一切気に止めることなく、ゆっくりと口を開いた。その穏やかな声は、元義母の勢いを一瞬だけ柔らげたようだった。

「夏海さんは、かつてあなたと同居していました。その際、あなたは『家事は嫁の勤め』として、全ての家事を夏海さんに押し付けていましたよね。それだけならまだしも、彼女が一生懸命こなしていた家事に、点数をつけるという行為までしていたそうじゃないですか。それが夏海さんにどれほどの負担とストレスを与えてきたか、考えたことはありますか?」

俊介の指摘に、元義母の表情が微妙に変わった。しかし、彼女はすぐに反発の姿勢を見せる。

「さらに、夏海さんがあなたとの関係をよくしようと、贈り物までしていたことをご存知でしょう。それをあなたは、気に入らないという理由だけで捨ててしまった。そんな態度を取り続けながら、『夏海さんは樹の大事な嫁』と煽るのは、あまりに矛盾しているとは思いませんか?」

俊介の声は冷静でありながら、的確だった。彼が指摘したのは、元義母が長年に渡り行ってきた嫁いびりと、それに加担していた樹の態度。贈り物を捨てた行為。家事に点数をつける嫌がらせ。そして決定的な言葉で私を追い詰めた過去。『大事な嫁』だなんて笑わせてくれる。元義母と樹と同居していた時、まるで私はこき使われる使用人扱いだった。元義母は、『嫁の勤め』という言葉を使い、全てを正当化していたのだ。嫁いびりは紛れもない事実。それでも、彼女は完全に自分の非を認めることができずにいる。元義母の表情には、俊介の冷静な追求に対する戸惑いと苛立ちが混じり、反論しようとするたびに声を詰まらせていた。樹はその横で無言を貫き、俊介の話に対して何の意見も述べることができなかった。

「そんなの、作り話よ。そもそも、証拠がないわよね。証拠がないなら、ただの言いがかり。それに、離婚だなんて話も、信じられるわけがない。夏海はまだ樹の嫁よ。浮気の慰謝料も払ってもらうからね」

「何もかも認めない。そういうことですね。分かりました。では、この書類をご覧ください。これを見てからも、同じことが言えますか?」

「な、何よ。書類って……」

俊介がバッグから取り出した書類を差し出すと、元義母の顔からさっと血の気が引いた。私と俊介の予想していた通りの反応だった。俊介が渡した書類は、離婚についての内容証明郵便の写しだ。それは3年前、私が樹と離婚した際、元義母当てに送ったもの。そこには、樹との離婚の詳細、不貞行為に対する慰謝料請求の記録がしっかりと記されている。郵便局による公式な保管記録も添えられており、これ以上ないほど確実な証拠だった。内容を知らされていない元義母は、書類を初めて目にして言葉を失った。そして、怒りを抑えつけるように震える声で、樹に問いかける。

「樹? これは一体どういうことなの? 本当に夏海と離婚してたの?」

「それは……その……」

「答えなさいよ。この書類が本物なら、どうして今まで黙っていたの? こんな大事なこと、なぜ隠してたのよ」

「母さん……俺は……違うんだ。そんなつもりじゃ……」

元義母の土音に対し、樹は何も言い返すことができない。目をそらし、ただ肩を震わせるばかりだ。なぜ元義母が離婚について全く知らなかったのか。それは、樹が事実を隠し、何も伝えていなかったからだった。

「分かっていただけましたか? 夏海さんは、間違いなく離婚しています。しかも、原因は嫁いびりだけじゃない。その書類に記載されている通り、不貞行為があったんですよ。散々苦しめられた挙げ句、樹さんは浮気をしていた。離婚されても、文句は言えないでしょう」

「あなたは、樹さんのこと、何も知らないんですね」

「う、うるさいわね。樹が隠していたのが悪いんでしょ。それに、私は内容証明なんて知らなかった。3年前、私に送ったっていうのは、本当なの?」

「ええ、それも間違いありません。内容証明郵便は、日付や内容が送り主と郵便局に5年間保管されます。これは正式に作成された書類なんですよ。あなたが知らなかったのは、自分の行いのせいです。よく思い出してみてください。これまでの自分のことを」

元義母が内容証明郵便の存在を知らなかった理由は、単純だった。彼女は、送られてきた封筒の中身を確認することなく、捨ててしまっていたのだ。それは以前、私が贈り物をした時と同じである。手紙でもプレゼントでも、私から送られたものは全て不要なものだと決めつけ、開封すらしないままゴミ箱に放り込む。今回の内容証明郵便も、その例外ではなかった。元義母の行動は、彼女自身の偏見や頑固さが招いた結果だ。自分にとって都合の悪いものや気に入らないものを遮断することで、現実を見ないようにしてきた。その積み重ねが、今の混乱を産んでいる。彼女が知らなかったのは、誰のせいでもない。自らの選択と行動が引き起こした、自業自得だった。

元義母は顔を真っ赤にして、樹を問い詰めた。

「樹、一体どういうことなの? なぜ、こんな重要なことを私に隠していたの? 本当に離婚なんてしたの? 夏海が言っていることが本当だなんて、私には信じられない。あんたも、ちゃんと反論しなさいよ」

元義母は樹に質問を浴びせたが、樹は言い訳にもならない言葉をつぶやくだけで、視線を落とすばかりだった。その態度は、全ての答えを示していた。元義母の声は次第に震え始め、怒りと困惑が入り混じった表情を浮かべる。それも、無理はないだろう。普通に考えて、母親に離婚を隠すなんてありえないことだ。私と離婚した時点で、樹が報告していれば、ここまでややこしいことにはなっていない。この状況を作り出したのは、樹が自分のプライドを守りたいがためだった。加えて、元義母の信頼を失いたくない。あるいは、自分の体裁を保ちたいという思いから、離婚という重大な事実を隠してきたのだ。実際、離婚が決まった直後、樹はこんなことを言っていた。

「母さんには俺から話す。離婚のことは、絶対に言うな」

結果、樹は3年間も、母親に隠していたというわけだ。しかし、私にとっては、その理由が何であれ、関係のないこと。事実を伝えるのは、これ以上、茶番に付き合わないためでもあった。元義母がどれだけ混乱し、樹がどれだけ沈黙を守ろうと、離婚が事実であることには変わりない。私は元義母を見据えて、話を始めた。

「彼は、自分のプライドとあなたに対する信頼を失わないために、離婚のことを隠していたんです。義母さんにとって、立派な息子であり続けたかったのでしょう。私も最初は、お母さんに話そうと思っていました。でも、樹に『絶対に言うな』と口止めされてしまったんです。だから、あえて内容証明郵便という形で伝えたんです。直接伝えられなかったのは、そのせいです」

樹が離婚の事実を隠すことは予測していた。自分のプライドと元義母への信頼を守るために、その事実を決して認めないだろうと考えていたからだ。だから私は、正式な内容証明郵便を元義母当てに送るという手段を選んだ。これで、少なくとも元義母が離婚について知る機会を得るはずだった。だが、元義母はその郵便を確認することなく捨ててしまい、事実は長らく埋もれることになった。いずれにせよ、元義母が無知でいられたのは自業自得。しかし、それを知った元義母の怒りは爆発した。真実が樹ではなく、私や俊介の手から明かされたことに、彼女は大きな屈辱を覚えたのだろう。

「ま、待ってくれよ、母さん。黙っていたことは謝るよ。でも、それには理由があったんだ。俺は夏海と再婚するつもりだった。夏海も、俺と再婚すると約束してくれたから」

「再婚ですって? わざわざ離婚した上で? 意味が分からないわ。ちゃんと説明しなさい」

「手紙だよ。手紙で、再婚の約束をしたんだ」

……何を言っているんだろう。私は私と離婚してわずか数ヶ月後から、奇妙な行動を取り始めていた。実家で暮らしていた私当てに、定期的に手紙と自撮りした写真を送り付けてきたのだ。その頻度は、月に数回。多い時には週に1度という頻度さだった。手紙の内容は、ほとんどが「3年後に再婚しよう」という一方的な宣言だった。それに加え、「お前のことを忘れたことはない」「俺たちは必ずやり直せる」といった、1人よがりな言葉が並んでいた。写真には、樹のスーツ姿や自宅でくつろいでいる様子が映っており、「いつでも俺を思い出してくれ」とのメッセージが添えられていた。もちろん、私はそれらに一切返信していない。再婚についての約束を交わしたことなど1度もなく、手紙や写真に込められた彼の願望は、全て樹の妄想に過ぎなかった。実家の郵便受けを開けるたびに、あまりにも自分勝手な彼の行動に嫌悪感を覚えるばかりだった。彼がこれほど執着していた理由は分からないが、少なくともその行動が私に不快感を与え続けていたのは間違いない。再婚の話は、樹が自ら作り上げた空想の世界の中だけで完結していたのだ。

「ちなみに、これまで樹さんから送られてきた手紙と写真ですが、全てお母さん当てに送り返していました」

「は? そんなもの、私のところには届いてないわよ」

「そうですか。まあ、そうなるでしょうね。あなたは、私から送られてきたものを、ろくに確認もせず捨てていましたから。おかげで、処分する手間が省けました。感謝しています」

「ふざけないで。そんなもの、私に送るなんて、非常識にも程があるわ」

「非常識ですか? それは、樹さんに言ってください。現実と妄想の区別もつかず、離婚した相手に3年間も突きまとったんですから。そんな息子のことを知らずに喚いているあなたも、非常識だと思いますけどね」

「母さん、ひどいよ。せっかく送った手紙と写真を捨てるなんて」

「知らないわよ。大体、あなたが私に何も相談しなかったから、こんなことになってるんじゃないの」

「俺のせいだっていうのか?」

「当たり前でしょ。こんな馬鹿げた状況。俺のせいだって? ふざけるな」

元義母と樹の間で、激しい言い合いが始まった。2人は互いに責任を押し付け合い、言葉の応酬はどんどん激しくなるばかり。その様子を見ながら、私は静かにため息をつく。似た者同士の親子じゃないか。自分に都合よく事実をねじまげて、価値観を押し付けてくる。結婚したら、嫁は自分たちの所有物になるとでも思っていたのだろう。家族として向き合うことができていたら、こんなおかしい状況にはなっていない。私は、3年前に縁を切ってよかったと、心から安堵した。

直後、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。その音は、元義母と樹の騒ぎに終止符を打つかのように響く。俊介が、すでに警察に通報していたのだ。

「は? なんで警察なんて呼んだの? 私たちを犯罪者扱いするつもり?」

「勝手なことすんなよ。面倒なことになるじゃないか」

「あはは。何を言ってるんですか? 犯罪者扱いなんてしていません。お2人は、紛れもなく立派な犯罪者ですよ。先ほど、お母さんは門扉や壁を蹴っていましたよね。これは明らかに器物損壊に該当します。樹さんは、3年間に渡り、夏海さんに手紙や写真を送り続けていた。こちらはストーカー行為に該当しますね。くだらない親子喧嘩はやめにして、パトカーに乗る準備をしてください」

「は? そんなこと、していないわ。証拠もないくせに、偉そうなことを」

その言葉に対し、俊介は黙ってスマホを取り出した。画面には、元義母が門扉を蹴る様子がしっかりと記録されていた。そして、私はバッグの中から、樹が送り続けてきた手紙と写真を取り出す。実は、証拠のために、半分だけは手元に保管しておいたのだ。元義母と樹は、自分たちの行為が記録されていたことに、完全に動揺していた。

「こんな証拠、嘘に決まってる」

「そんなつもりじゃなかったのよ」

必死に言い訳を始めたが、俊介は冷静さを失わない。

「完全に追い詰められた元義母と樹は、突如としてその場から逃げ出そうとした。しかし、すぐにぴたりと動きを止めてしまう。いつの間にか周囲にはご近所の人々が集まっており、彼らの行動をじっと見守っていた」

「もう、証拠なんて必要ないだろう。これだけの証人がいるのだから」

逃げ場を失った元義母と樹は、さらに強引な行動に出る。元義母は集まった人々の間を無理やり突き抜けようとし、肘を使って突き飛ばした。樹もそれに続き、ご近所さんの肩を押しのけて道を切り開こうとした。しかし、その行動は周囲の怒りを招くだけでなく、決定的な瞬間を生み出すこととなった。まさにその瞬間、パトカーのサイレンが再び響き渡り、警察官たちが現場に到着した。制服姿の警察官たちが毅然とした態度で近づき、元義母と樹の前に立ちはだかった。彼らは、逃げようとする2人をしっかりと静止し、暴力行為やこれまでの一連のトラブルについて事情を尋ねた。元義母は声を荒げて抗議しようとしたが、彼女の口から出る言葉は明らかに自己弁護に終始しており、警察官たちには通じなかった。樹もまた、何か言い訳をしようとしたが、その場にいた全員が、彼の醜態をあざ笑うかのような表情を浮かべるだけだった。最終的に、元義母と樹は、警察官によって現場から連行される。パトカーに押し込まれた2人が最後に見せた表情。それは、何とも哀れなものだった。その場に残されたご近所さんたちは、安堵のため息をつきながら、互いに視線を交わしていた。去っていくパトカーの赤いランプが遠ざかるにつれ、その場に残った私と両親は、静かな解放感を感じていた。

この騒動の発端となった元義母と樹の振る舞い。それに対する俊介の冷静で的確な対応。それを思い返すと、改めて彼の存在の大きさを実感する。俊介がいなければ、ここまでスムーズに事態を収束させることは難しかっただろう。私たちは俊介に感謝を伝えるため、言葉を交わし始めた。

「俊介さん、本当にありがとう。あなたがいなければ、どうなっていたか分からなかったわ」

「俊介さんのおかげで助かった。本当に感謝してる」

父も同じように頭を下げた。俊介は穏やかな微笑みを浮かべながら、首を振った。

「そんなに改まらないでください。僕がやるべきことをしただけです。家事を丸投げされ、理不尽ないびりにも耐え続けて、離婚した後も、あんな風にしつこく突きまとわれて。夏海さんがどれだけ苦しい思いをしたのかを考えると、何とかして守りたいと思ったんです」

実は、俊介の職業は弁護士だ。法律の専門家として、豊富な知識と経験を持っている。今回の内容証明郵便の写しや、スマホでの証拠の撮影、手紙や写真を半分残しておくことなども、俊介の提案だった。それは、樹や元義母に法的な責任を認識させるためだった。それでも、ここまでしっかり準備してくれるなんて。

「俊介さん、本当にありがとう」

震えながら言葉を絞り出す。俊介は少し照れたように笑いながら答えた。

「夫婦や家族は、寄り添うものだと思うんだ。彼らのように、決して一方的であってはならない。僕は、自分が正しいと思うことをした。その結果、夏海さんを救えた。こんなに嬉しいことはないよ。僕にとっては、夏海さんが幸せでいてくれることが、1番大事だから」

「それに、弁護士の仕事は、困っている人を助けることが本分だからね。こちらこそ、ありがとう。夏海さん。僕を信じて、頼ってくれて」

俊介の言葉に、私も両親も改めて感謝の思いを抱いた。彼の冷静な判断と行動力が、元義母と樹の暴走を食い止めたのは紛れもない事実だ。弁護士としての知識と経験は、私たちにとって大きな支えとなった。そして何より、その優しさが、私の心を温かくしてくれる。私たちは静かに笑顔を交わしながら、新たな生活への一歩を踏み出す気持ちを共有していた。

事件が警察沙汰にまで発展したことで、樹の人生は大きく変わった。彼が勤めていた会社では、警察に連行されたことがまたたく間に知れ渡り、その余波で解雇処分が下された。樹が会社で見せていた傲慢な態度や、不正が発覚していた過去の行動も相まって、会社からの信頼は完全に失墜していた。自らの行いの結果だというのに、樹がそれを受け入れる様子はなく、逆恨みした言葉を漏らしているという噂が耳に入ってきた。一方の元義母も、事件後に体調を大きく崩した。元々持病を抱えていた彼女だが、樹の解雇や世間の非難が重なり、精神的にも肉体的にも耐えられなくなったのだろう。現在では、介護を必要とする生活を送っているらしい。皮肉なことに、私が元義母の世話をしていた時期が、彼女にとって最も安定していた時間だったのかもしれない。しかし、彼女がその事実に気づくことはないだろう。

そもそも、私が樹や元義母と同居していたのは、元義母の体調を気遣ってのことだった。元義母の持病が悪化したタイミングで、「樹のために、一緒に住もう」と提案され、私もその言葉を信じて同居を決めた。しかし、その選択が間違いだったことに気づくのに、時間はかからなかった。同居が始まると、元義母は『家事は嫁の勤め』という固定観念を振りかざし、全ての家事を私に丸投げした。元義母が求めていたのは、介護の支えではなく、都合のいい下僕だったのだ。掃除から料理、洗濯に至るまで、彼女は自分で何ひとつ手を動かすことはせず、私の働きを監視するかのように見下ろしていた。そして、私がどれだけ努力をしても、元義母は「ここが甘い」「これは失敗だ」といった嫌味な評価をつけ、私の心をじわじわと蝕んでいった。それでも、私は元義母との関係を良好に保とうと努力した。彼女の好きなものを調べ、ささやかなプレゼントを渡すこともあったけれども、その全ては、彼女によってゴミ箱に捨てられていたことを、後に知る。元義母は、私の行為を踏みにじることに快感を覚えていたのかもしれない。さらに、樹は元義母の味方だった。私がどれだけ苦しい思いをしているかを伝えようとしても、「母さんはお前のことを思って言っているんだ。それくらい我慢しろ」と言い放ち、私を孤立させた。その中で、私は1人で戦い続けるしかなかったのだ。今振り返れば、元義母の体調を気遣った私の気持ちは、完全に利用されていただけだった。樹と元義母にとって、私という存在は、単に自分たちの生活を楽にするための道具でしかなかったのだ。元義母が、自分の行いの結果として介護が必要な生活を送っているのは皮肉であり、樹がそれにつき添う生活を余儀なくされているのも、自業自得と言えるだろう。

その後、俊介と私は新居に引っ越し、新しい生活を始めた。新居は1点、1点、2人で築き上げる家庭は、これまで私が経験してきたものとは全く違うものだった。部屋の窓から差し込む朝の光や、食卓で交わす何気ない会話が、こんなにも穏やかなものだとは思いもしなかった。俊介は、私がこれまで味わうことのなかった本当の優しさを、日々教えてくれる存在だ。ある日の夕方、俊介が仕事から帰ってくると、私はキッチンで夕食の準備をしていた。

「お疲れ様。いい匂いがするね」

「お帰りなさい。今日は俊介さんの好きなハンバーグよ」

「ありがとう。でも、無理しないでね。体調はどう?」

「大丈夫。最近は、つわりも落ち着いてきたから」

俊介は私の手を優しく握り、微笑みかけた。

「そろそろ、ベビー用品を見に行こうか。この子のために、一緒に選びたいんだ」

「そうね。どんな部屋にしようかしら。明るい色がいいかな」

「きっと、この子は夏海さんみたいに、優しい子に育つよ。僕たちの愛情をたっぷり注いで、のびのびと育ててあげたいね」

俊介は、樹とは全く違う。私の気持ちを第一に考え、一緒に未来を描いてくれる。過去の辛い記憶も、俊介との温かい日々に包まれて、少しずつ薄らいでいく。

「この子が生まれたら、毎日が今よりもっと賑やかになるのね」

「そうだね。きっと、笑い声が絶えない家庭になるよ。夏海さんと出会えて、本当に良かった」

夕日が窓から差し込み、2人の影を長く伸ばしていく。私たちの前には、希望に満ちた未来が広がっている。元義母や樹との醜い争いは、過去のもの。これからは、俊介と共に、新しい家族として歩んでいくのだ。

「俊介さん、ありがとう。あなたと一緒なら、どんな未来も怖くない」

「こちらこそ、ありがとう。夏海さんと、この子と。3人で、幸せな家庭を築いていこう」

窓の外を見つめる空は、明日への希望で満ちていた。

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