「このたるき、もう駄目だ。」
雪野は屋根の上で、指を当てた木の腐りに息を呑んだ。それは、嫁いで一年目の冬のことだった。村の者の前で、よりにもよって一番大切な信の屋根が、もう長く持たないと分かってしまったのだ。
「表は綺麗でも、中はもう水を吸って腐っている。このままでは雪の重みで、いつ人が下敷きになってもおかしくない。」
神兵がそう言った時、雪の降る中、徳ざ門は黙って屋根を見上げていた。
「直す。入用なものはお前が言え。」
義父の言葉に、雪野は何も言えなかった。家には金がなく、材料を買う余裕などない。しかし、このまま何もしなければ、雪の重みで屋根は必ず落ちる。
「足りない分は、私が何とかする。」
徳ざ門はそう言うと、残っていた種籾の一部を売り、作業のための金を用意した。神兵も、同じ村の者として手を貸すと言った。
「これはお前の家のためだけの話ではない。隣の家も、あの秋に同じ者に屋根を頼んだ家もある。みんな、心当たりがあるだろう。」
神兵の言葉に、村の者は皆、うつむいた。去年の秋、安い費用で屋根を直してくれるという若い職人に頼んだ家が、いくつもあったのだ。
「雪野が直すと言うなら、俺も手伝う。」
「私も、せめて縄を結ぶくらいは。」
そう言って、かつて「気が触れた嫁」と陰口を叩いた者たちも、少しずつ手を貸すようになった。雪野は、義父と神兵と共に、まず信の屋根から手を付け始めた。
「ここも、危ないな。」
神兵が指を当てるたびに、雪野は黙って次のたるきを外した。信の部屋の上、隣の部屋の上、どこも同じように腐っていた。傷んでいる場所だけを、土台から順に直していく。
「これは、一冬やそこらでできた痛みではない。何年も前から、水が染み込んでいたのだ。」
神兵の言葉に、村の者は皆、顔を見合わせた。そうであるならば、去年の秋に新しいかやを上から被せてごまかした職人は、最初から腐った木を知っていたことになる。
「ごまかしたのかもしれないな。」
徳ざ門が低く言った。作業の手が止まる。しかし、雪野は手を止めなかった。今は、そんなことを考えている時ではない。雪が降り積もる前に、少しでも直さなければ。
風の強い日には、屋根の上で身をかがめながら縄を結んだ。凍てつく寒さで、指の感覚がなくなることもあったが、誰も弱音を吐かなかった。雪野の手の甲はひび割れ、爪の間には土が入り込んだ。
数日後、信の奥の間に近い場所のたるきを外した時、神兵が思わず声を漏らした。
「これは……」
たるきの真ん中が、真っ黒に腐っていた。表面からは、全く分からない深さだった。
「もし、これが今冬の雪の重みで折れていたら……下にいた者は、無事では済まなかっただろう。」
神兵の言葉に、雪野は何も言わず、次の木を運び始めた。今更、怖がっても仕方ない。前へ進むしかない。
最後のかやを重ねる日、雪野は屋根の上でふと手を止めた。北の山際から、灰色の雪雲が近づいてきていた。
「急ごう。雪が積もる前に、最後の縄を結ばなければ。」
神兵がそう言った。陣兵が縄を強く引いた瞬間、信の内側から鈍い音がした。慌てて立てた支えの下の木が、凍った床の上で滑ったのだ。屋根の一角が、指二本分ほど沈んだ。
「あっ!」
お松が悲鳴を飲み込んだ。特門が真っ先に信じへ駆け込むと、傾いた支えを両肩で必死に支えた。年老いた体に、重みがずしりとかかる。
「父上、そのまま動かないでください!」
雪野が屋根の上から叫んだ。神兵が縄を引いて重みを分け、お松が新しい木を持って走ってくる。
「私が……一年、伸ばした屋根だ。」
特門の膝は震えていた。それでも、彼は支えを離さなかった。
「今度は、私が支える。」
お松が木を差し入れると、特門が頭で力いっぱい打ち込んだ。沈みかけた屋根の線が、再び上がる。
「……ありがとう。」
雪野の声が、風に溶けた。
修繕を終えたその日の夕方から、大雪が降り始めた。新しく変えた木は、重い雪を受け止めていた。しかし、雪野は安心しながらも目を離さなかった。本当の試練は、雪が溶け、春の雨が長く染み込む時に現れるのだ。
同じ秋に、若い職人に屋根を頼んだという家々を、雪野と神兵は一軒ずつ訪ねた。中には「余計な世話だ」と顔を背ける主人もいたが、雪野が自分の家で起きたことを淡々と語り、神兵が「たるきの一本でも確かめさせてほしい」と頭を下げると、しぶしぶながら屋根に上がらせる家が増えていった。
案の定、どの家でも、腐ったたるきが見つかった。
「うちは大丈夫だ。」
そう言って取り合わない家もあった。雪野は無理に強くは言わなかった。せめてものことと、危険な部屋の支えだけでも変えるよう勧め、次の家へと足を向けた。
春が来た。南から黒い雲が近づき、村に春一番の大雨が降り始めた。三日間、止むことなく降り続いた。冬に直した雪野の家の屋根は、その雨をしっかりと受け止めた。 一方、手を入れなかった家では、二日目の夜から天井に染みが現れ始めた。三日目の明け方、ついに外側の屋根の一角が、どすんという音を立てて崩れ落ちた。しかし、そこには誰もいなかった。雪野の助言で、支えを立て、危険な場所を避けていたからだ。
雨が止んだ朝、崩れた家の主人が雪野の家を訪れた。新しいかやを一束抱えて、深く頭を下げた。
「……うちの屋根も、もう一度見てもらえぬだろうか。」
それは、かつて雪野を最も厳しく非難した者の一人だった。
数日後、雪野の夫・一郎が旅先から戻ってきた。屋根が新しくなっていることに気づき、妻の部屋を尋ねると、雪野は冬の間に起きたことをすべて話した。一郎は黙って聞き終えると、しばらく言葉を失っていた。それから、荒れた雪野の手をそっと包んだ。
「お前が、どれほどのことを一人で背負っていたか。……これからは、お前が正しいことをする時は、俺が真っ先に信じる。」
それは、誰かが代わりに戦ってやるという約束ではなく、雪野の判断をまず信じるという約束だった。お松も、あの一件を境に変わった。以前は俯いてばかりだったが、今では屋根に気になることがあれば、真っ先に雪野へ知らせるようになった。
「お前は、良い目を持っている。」
神兵にそう言われた時、お松はその言葉を長く覚えていた。
近隣の家々を全て見て回り、直し終えた後、徳ざ門は雪野を呼び寄せ、納屋の鍵を差し出した。
「この鍵は、お前に預けておく。」
それは、権力の証ではなく、これからの家のことを背負ってほしいという証だった。
春の雨が降るたび、雪野は雨樋の下に立つのが常になった。雨水はまっすぐに伝い、地面へと落ちていく。雪野はその音を聞きながら思った。家は、目で選ぶものではない。手で触れて、そのものを確かめるものなのだ。表は誰にでも見える。だが、中身のことは、触れたものだけが知っている。
時が流れ、村ではこんな言葉が語り継がれるようになったという。 「家は目で選ぶな。手で選べ。」



