姉ちゃんが、俺の前で初めて声を上げて泣いた。あの結婚式の帰り道、教会の駐車場から少し離れたベンチで、姉ちゃんは「リツ、ちょっと座らないか」と言った。俺は何かを悟って、隣に腰を下ろした。
「あんたに言ってなかったことがあるの。」
姉ちゃんの声は震えていた。俺は何も言わずに、ただその続きを待った。
「私ね、母さんが死んだ後、一度だけ結婚の話があったの。相手は優しい人で、私のこと大事にしてくれるって言ってくれた。でも、その人は転勤で遠くに行く人だった。私がついて行ったら、あんたを置いていくことになる。あんたはまだ大学生だった。だから、私は断ったのよ。」
俺は息を呑んだ。姉ちゃんは俺のために、自分の結婚の機会を手放していたのだ。
「私はあんたを一人にできなかった。そんなことは何度かあったのよ。でも、後悔はしてない。本当に。」
「なんで言ってくれなかったんだよ、そんな大事なこと。」
俺は思わず声を荒げていた。姉ちゃんがはっと顔を上げる。
「言ったらあんたが気にするでしょ。自分のせいだって思うでしょ。そんなの、私は嫌だったの。あんたには何の負い目も感じず、真っすぐ生きてほしかった。それが私の願いだったから。」
「良くないよ、姉ちゃん。」
俺は込み上げてくるものを抑えられなかった。
「良くないんだよ。母さんは姉ちゃんに、自分自身のために幸せになってほしかったんだ。姉ちゃんはその人生をずっと俺のために生きてくれた。自分の進学を諦めて、俺の学費のために働いた。俺を育てるために、結婚も後回しにした。そして、花屋になりたいっていう姉ちゃん自身の夢まで、捨ててしまったんだ。」
「リツ、いいのよ。私は後悔なんてしてないから。」
「後悔してなくても、俺は後悔してるんだ。姉ちゃんにこんなにしてもらったのに、俺は何も返せていない。姉ちゃんはいつも『あんたが元気ならそれでいい』って言うけど、俺はそれじゃ嫌なんだ。」
俺は姉ちゃんの、あの赤切れだらけだった手を両手で握った。今は少し柔らかくなった手。この手が俺を育ててくれた。夜、熱を出した俺の額の汗を拭い、破れた服を縫い、温かい飯を食べさせてくれた。
「姉ちゃん、今度は俺が姉ちゃんの夢を支える番だ。姉ちゃんは花屋になりたかったんだろう。母さんと須藤さんの店で花に囲まれてたあの頃みたいに。だったら、やろうよ。姉ちゃんの花屋を。俺が全部手伝うから。お金のことも場所のことも、何も心配いらない。今度は姉ちゃんが、姉ちゃん自身のために幸せになる番だ。」
姉ちゃんは俺の手の中で、子供のように声を上げて泣き出した。この年になるまで、姉ちゃんは俺の前で決して弱音を吐かなかった。いつもしっかり者の姉ちゃんだった。その姉ちゃんが今、抑えていたものを溢れ出させるように泣いていた。
「いいの? 私、本当に自分の夢を見てもいいの? こんな年になって、今更。」
「いいんだよ、姉ちゃん。遅すぎるなんてことは絶対にない。母さんが言ってたじゃないか。『姉ちゃんがあの花みたいに笑って生きるのをずっと祈ってる』って。俺も同じだ。」
「あんたが元気ならそれでいい。姉ちゃんがいつも俺に言ってくれた言葉を、そっくり返すよ。姉ちゃんが幸せなら、俺はそれでいいんだ。」
姉ちゃんは俺の手を握り返し、涙を拭いながらぽつりぽつりと話し始めた。
「あの日から、私ずっと怖かったの。自分の夢を見ることが。だって、夢を見てそれが叶わなかったら、私はきっと耐えられない。だったら、最初から夢なんて見ない方がいい。そう思ってた。あんたのために生きるっていうのは、私にとって一番安全な生き方だったのかもしれない。だって、あんたは絶対に私を裏切らないから。」
「姉ちゃん……」
「でもね、母さんの手紙を読み返すたびに思うの。母さんは私に幸せになってほしかったんだって。私が私自身の足で立ってほしかったんだって。私、母さんに心配ばかりかけてきたのかもしれない。天国でずっとやきもきさせてきたのかも。」
「そんなことないよ。母さんはきっと姉ちゃんのこと、誇りに思ってる。でも、今度は姉ちゃんが姉ちゃんのために生きる番だ。俺も須藤さんも、母さんも、みんな姉ちゃんの味方だから。何も怖がることはないんだ。」
俺は胸ポケットからあの花のしおりを取り出した。姉ちゃんが俺にお守りに持たせてくれた、あの白い花のしおりだ。
「姉ちゃん、これ、覚えてるだろ? 姉ちゃんが俺にお守りにくれたやつ。俺はこれに何度も救われてきた。辛い時、これを見ると姉ちゃんの声が聞こえる気がしたんだ。『あんたなら大丈夫。もう一度立ち上がりなさい』って。今度は俺が姉ちゃんにこれを返すよ。姉ちゃんもこれを見て思い出してほしい。姉ちゃんはこの花みたいに強いんだ。何度でも立ち上がれる。今からだって遅くない。姉ちゃんの花に囲まれた人生を始められるんだ。」
俺はそのしおりを姉ちゃんの手のひらに握らせた。姉ちゃんはそれをじっと見つめた。母と作ったあの白い花。姉ちゃんの一番幸せだった記憶の象徴を。
姉ちゃんは何度も何度も頷いた。涙でぐしゃぐしゃになった顔で。それは悲しみの涙ではなかった。長い間閉じ込めてきた姉ちゃん自身の夢が、ようやく解き放たれた喜びの涙だった。
窓の外には、いつの間にか夕暮れの優しい光が差し込んでいた。俺は心の中で母に呼びかけた。母さん、姉ちゃんの夢、俺が必ず叶えるよ。だから天国から見ていてくれ。
あの結婚式での出来事の後、琢磨の会社ではある動きが水面下で進んでいた。相手が会長だと分かった途端に手のひらを返した、あの日の琢磨の態度は、多くの取引先や社員たちの記憶に刻まれていた。それを機に、これまで表沙汰にならなかった琢磨の車内での振る舞いが次々と報告されるようになった。部下への高圧的な態度、取引先の担当者を「下請け」と見下すような物言い、現場で汗を流す人間を蔑む姿勢。それらは決して一度や二度のことではなかった。
会社は正式な調査に乗り出し、琢磨は任されていた重要なプロジェクトから外され、地方の小さな部署へと移動になった。肩書きでしか人を見なかった男が、最後にはその肩書きを失うことになったのだ。一郎もあの結婚式の一件で、地元での付き合いに少なからぬ傷を負ったと聞いた。
後になって、大月からこんな話を聞いた。地方へ移動になった琢磨は、それでも自分の非を認めていないらしい。「運が悪かった。姉があんな弟を持っていたのが悪い」と周りにこぼしているのだという。俺はその話を聞いて、少し寂しい気持ちになった。この男は最後まで、大切なことに気づかないのだろう。人をまっすぐに見つめることの温かさに。
だが、それは琢磨自身がこれから長い時間をかけて学んでいくしかないことだ。俺は彼らのことをそれ以上、恨みに思うことはなかった。俺の心は、すっかり別のことでいっぱいだったからだ。姉ちゃんの花屋のことで。
黒田は言ってくれる。俺の会社がここまで大きくなれたのは、俺が部下や取引先を決して見下さなかったからだ、と。現場で働く人の気持ちを一番大切にする。それが霧原ホールディングスの社風だった。だが、それは俺が偉いからではない。全て、姉ちゃんから教わったことだった。人を守れる人になりなさい。人を肩書きで見るんじゃない。姉ちゃんが俺に教えてくれたその生き方が、巡り巡って三千人の従業員を抱える会社の根っこになっていたのだ。琢磨のような生き方をしていたら、俺の会社はとっくの昔に潰れていただろう。
姉ちゃんはあの日から、少しずつ変わっていった。まず須藤さんのところへ足しげく通うようになった。花のことを一から学び直すためだ。須藤さんは嬉しそうだった。
「なおちゃんが私の花を継いでくれるなんてね。私はもういつ死んでも思い残すことはないよ。なんて、まだまだ死なないけどね。なおちゃんが一人前の花屋になるまでは。」
姉ちゃんの花を選ぶ目は真剣だった。花の名前を一つ一つ覚えていく姉ちゃんの横顔は、まるで少女のようだった。長い間心の奥にしまい込まれていた、あの花屋になりたかった女の子が、四十四歳になってようやく目を覚ましたのだ。
俺は姉ちゃんのために、あの商店街の一角に小さな店舗を用意した。かつて須藤さんの花屋があった場所のすぐ近くだ。母が姉ちゃんの手を引いて通ったあの道。姉ちゃんが一番幸せだった記憶のある、あの場所で、姉ちゃんの新しい人生を始めてほしかった。
店の準備には、思いがけずたくさんの人が手を貸してくれた。黒田は休みの日に作業着で店の棚を組み立てに来た。あのどん底の時、姉ちゃんの肉じゃがに救われた昔の仲間たちも、次々と手伝いに来てくれた。誰に頼まれたわけでもない。みな、姉ちゃんへの恩返しがしたかったのだ。須藤さんは長年の花屋の知恵を、姉ちゃんに惜しみなく授けてくれた。仕入れのこと、花の水揚げのこと、お客さんとの接し方。須藤さんはまるで自分の店をもう一度開くかのように、生き生きとしていた。
「私の店はたたんじゃったけど、なおちゃんがこうしてまたこの町に花屋を開いてくれる。私の花がなおちゃんの中で生き続けてくれる。こんなに嬉しいことはないよ。」
須藤さんはそう言って泣いた。姉ちゃんの花屋は、姉ちゃん一人の夢ではなかった。母の夢であり、須藤さんの花屋の続きであり、そして姉ちゃんに救われたたくさんの人たちの感謝が形になったものだった。
店の名前を、姉ちゃんは随分悩んでいた。ある夜、姉ちゃんから電話がかかってきた。
「店の名前、決めたよ。『こもれび』っていう名前にしようと思うの。」
「こもれび……。」
「あのね、私、子供の頃母さんと須藤さんの花屋にいた時間が一番幸せだったの。日の当たる店先で花に囲まれて。木漏れ日がキラキラ差し込んでてね。その光の中にいるとなんだか守られてるみたいで、あったかかった。だから、私の店もそういう場所にしたいの。誰かが疲れた時にふらっと寄って、心が温かくなるような。こもれびみたいな場所に。」
俺はその名前を聞いて、じんと心が震えた。こもれび。それはまさに姉ちゃん自身のことだった。姉ちゃんは俺にとって、ずっとこもれびのような存在だった。どんなに暗い時も、姉ちゃんのそばにいると心が温かくなった。その姉ちゃんが今度は、たくさんの人にとってのこもれびになろうとしている。
「いい名前だよ、姉ちゃん。すごく姉ちゃんらしい。」
「そう? よかった。あんたにそう言ってもらえると、自信がつくよ。」
電話の向こうの姉ちゃんの声は、少女のように弾んでいた。俺はその声を聞いているだけで、泣けてきそうだった。
「姉ちゃん、無理はしなくていいからな。ゆっくりやればいい。俺がついてるから。」
「ありがとう、リツ。でもね、私、無理なんてしてないの。今すごく楽しいの。こんな気持ち、久しぶり。うん。もしかしたら、生まれて初めてかもしれない。自分のために何かを始めるって、こんなにワクワクするものなのね。」
姉ちゃんのその言葉を聞いて、俺は心から思った。ああ、よかった。姉ちゃんに姉ちゃん自身の夢を返してあげられて、本当に良かったと。
それから半年余りが過ぎた。春の、よく晴れた日だった。あの商店街の一角に、小さな花屋が開店した。姉ちゃんの店だ。白い壁に木の看板。「花や こもれび」と優しい字で書かれている。店先には色とりどりの花が溢れるように並んでいた。その中に、あの小さな白い花もちゃんとあった。母と姉ちゃんが二人で摘んだあの花。踏まれても踏まれても、また立ち上がって咲く白詰草だ。その花は店の一番いい場所に、大切に飾られていた。値札はついていなかった。それは売り物ではなく、この店の始まりの花だったからだ。
開店の日、店の前にはたくさんの人が集まってくれた。近所の人たち。かつての商店街の仲間たち。そして須藤さんも一番前で目を細めていた。
「なおちゃん、おめでとう。あんたのお母さんも、きっとどこかで見てるよ。良かったね。本当に良かった。」
須藤さんはそう言って、何度も目頭を抑えていた。姉ちゃんは須藤さんの手を握って、深く一礼した。
姉ちゃんが花に囲まれて笑っている。その笑顔は、あの押し花のしおりの中の白い花のように、まっすぐで優しかった。
やがて一台の車が店の前に止まった。降りてきたのは、黒田をはじめとするあのグループの役員たちだった。あの日、疲労困憊で姉ちゃんに頭を下げた、あの十人だ。彼らはそれぞれ大きな花束を抱えていた。姉ちゃんの店の一番のお客さんになろうと、みんなで示し合わせてきてくれたのだ。
「なお様、ご開店誠におめでとうございます。私たち一同からの、ささやかなお祝いです。」
役員たちは次々と姉ちゃんに花束を手渡した。花屋の開店祝いに花束を持っていくというのも、おかしな話だ。だが、彼らはどうしても自分たちの手で姉ちゃんに花を送りたかったのだという。姉ちゃんという人がいなければ、今の俺も今の会社もなかった。その恩を、彼らは忘れていなかった。
姉ちゃんは抱えきれないほどの花束を抱えて、また涙ぐんでいた。
「こんなにたくさん、ありがとうございます。」
その日、店にはひっきりなしにお客さんがやってきた。姉ちゃんは一人一人の話を丁寧に聞いていた。誕生日の花を探しに来た若い男性。お見舞いの花を選びに来た年配の女性。その度に姉ちゃんは相手の話を聞いて、一番ふさわしい花を心を込めて包んでいた。その様子は、まるであの母が狭い台所で窓辺に一輪の花を飾っていた姿と重なって見えた。姉ちゃんは花を通して、人の心に寄り添っていた。それは姉ちゃんがずっと俺にしてくれていたことと同じだった。
夕方、お客さんが途切れた頃、俺は店の手伝いで余った花を集めていた。すると姉ちゃんが俺のところへ来て、小さな花束を差し出した。
「はい。これ、あんたに。開店のお礼。」
それは、あの白い花をあしらった小さな花束だった。俺はそれを受け取った。
「ありがとう、姉ちゃん。」
「私ね、今本当に幸せなの。こんな幸せな日が来るなんて、思ってもみなかった。全部、あんたのおかげよ。」
「違うよ、姉ちゃん。全部、姉ちゃんが頑張ってきたからだ。俺はただ少し背中を押しただけ。」
「そういうところ、本当に母さんに似てきたね。」
姉ちゃんはそう言って、いたずらっぽく笑った。母に似てきた。それは俺にとって、最高の褒め言葉だった。
俺たちは二人とも、両親の顔をもうはっきりとは思い出せない。父の声も母の顔も、歳月と共に少しずつ遠くなっていく。それでも俺たちの中には、確かに二人が生きていた。姉ちゃんの作る肉じゃがの味の中に、俺が部下を決して見下さない生き方の中に、そしてこの白い花のしおりの中に。俺たちは二人で、しばらく笑い合った。子供の頃、あの狭いアパートで二人身を寄せ合って生きてきた、あの頃みたいに。
それから季節がいくつか巡った。姉ちゃんの花屋は、あの商店街にすっかり根を下ろした。近所の人たちが朝の一輪を買いにふらりと立ち寄る。学校帰りの子供たちが、母の日の花を恥ずかしそうに選びに来る。お年寄りが亡くなった連れ合いの仏壇に備える花を、姉ちゃんと相談していく。姉ちゃんの店は、いつも誰かの人生の大切な一日に、そっと寄り添っていた。まさに「こもれび」のような、温かい場所になっていた。
姉ちゃんは店に立つのが楽しくて仕方がないようだった。あのずっと後回しにされてきた夢が、今、毎日花開いていた。
俺は少し離れたところから、その光景を眺めていた。花に囲まれ、大勢の人に祝福されて、姉ちゃんが笑っている。それは俺がずっと見たかった光景だった。姉ちゃんが誰かのためではなく、姉ちゃん自身のために、幸せそうに笑っている。
俺は心の中で、母に呼びかけた。母さん、母さんの願いが叶ったよ。姉ちゃんは今、花みたいに笑ってる。
あの日、あの結婚式で俺は会長としてマイクを握ったのではなかった。俺はただ、姉に育てられた一人の弟として、あのマイクを握ったのだ。肩書きなんてどうでも良かった。俺はただ、俺を育ててくれた姉にずっと言えずにいた、たった一つの言葉を伝えたかっただけだった。
姉ちゃん、ありがとう。そして姉ちゃん、今度は俺が、あんたを守る番だ。
店の奥から、姉ちゃんが俺を見つけて手を振った。俺も手を振り返した。姉ちゃんの胸元では、あの押し花のしおりの花と同じ、小さな白い花が風にそっと揺れていた。それは、天国の母と父が俺たち兄弟に微笑みかけてくれているように、俺には見えた。
俺たちはもう、貧しい家族ではない。肩書きも学歴も、何もない。だが、俺たちには互いを思う心があった。それだけで、俺たちはこの世界で一番豊かな家族だったのだ。



