病院内で最も忌避される人事は、外科との合同チームへの参加だった。俺、加藤吉尾夫は38歳になる内科医で、出世的野心もなければ特別な熱意もない。ただ淡々と外来と病棟を往復する日々。そんな俺が足を踏み入れた会議室で、最上凛は隣の椅子を引いた。
院内で知らない者はいない。35歳の若手ホープ、最上凛。整った顔立ちと感情を読ませない瞳。手術の成功率は群を抜き、誰もが一目置く存在だ。「内科の加藤先生ですね。よろしくお願いします」と彼女は言った。欲のない、機械的に整った声だった。
会議が始まると、彼女の発言には一切の無駄がなかった。論点を整理し、誰よりも早く判断材料を並べる。完全主義者というより、どこか機械的だ。苦手なタイプだと内心で思った。ところが、一人の患者の議論に移った瞬間、彼女の指がほんの一瞬止まった。資料をめくる手が確かに迷った。完璧な鎧の、針の先ほどの隙間。それに気づいた瞬間から、俺は彼女から目を離せなくなった。
合同チームの最初の症例は、東場安成という男性だった。過去に何度も入退院を繰り返している患者だ。担当を決める段になった時、凛が真っ先に手を挙げた。その熱量は明らかに異質だった。過去のカルテを取り寄せ、画像を何度も見返し、論文まで読み込んでいる。研修医の藤田優馬が耳打ちしたのは、その翌日のことだ。
「加藤先生、西城先生、ちょっと様子がおかしくないですか?あの患者さんのことだけ明らかに入れ込みすぎている気がして」
「気づいたか。俺もそう思ってた」
「噂なんですけど、西城先生って昔この病院で別の患者さんにかかわっていたことがあるみたいで」
病室を訪ねると、東場は痩せた男性だった。ベッドの上でゆっくり起き上がり、穏やかに微笑む。「あの西城という先生は随分熱心ですな。何度も来てくださる」「ええ、評判の先生ですから安心して任せていただいて大丈夫ですよ」俺は曖昧に頷いた。凛の真剣さの理由が、ただの職務ではないことにはもう薄々気づいていた。
廊下で外科部長の加能匠とすれ違った。40歳で病院の息子。将来の院長候補と誰もが噂する男だ。「いや、加藤先生。東場さんのところですか。うちの凛が随分張り切ってましてね。申し訳ない」「うちの、というのはどういう意味ですか?」「ああ、ご存じない。昔婚約してたんですよ。今でもまあ色々続いてはいるんですけどね」。その口ぶりには、所有物を語るような響きがあった。
その日の午後、俺は偶然、東場の病室の前で立ち止まる凛を見た。彼女は一度深く息を吸い、表情を整えてから中へ入っていった。夜、東場の容体が一時的に不安定になり、俺と凛は同じ時間まで病棟に残った。処置を終えて引き上げる頃には、日付が変わろうとしていた。
帰り際、ふと屋上に上がってみたくなった。夜風に当たりたかったのだ。階段を上がりきると、凛がフェンスにもたれて夜景を見ていた。「お疲れ様でした。今日は大変でしたね」「加藤先生こそ。内科の先生にここまで付き合わせてしまってすみません」「いえ、勉強になります。西城先生があの患者さんに随分思い入れがあるように見えたので」
凛は答えなかった。夜景の明かりが彼女の横顔を照らしていた。完璧と呼ばれる女医の顔に、隠しきれない疲れが滲んでいた。「医者にも、忘れられない患者というのがいるんです。多分加藤先生にもいらっしゃるでしょう?」「ええ、いますよ。何年経ってもふと思い出す顔が」「そうですか」「私の場合は、思い出すというより、逃げられないという方が近いんです」。その言葉を聞き返せなかった。ただ隣に立って、同じ夜景を見ていた。
その時、屋上のドアが開いた。加能だった。「こんなところにいたのか、探したよ、凛。明日の打ち合わせの件、今夜のうちに話しておきたくてね。加藤先生、夜遅くまでうちの凛に付き合わせてすみません」。また「うちの」だ。凛は何も言わず、小さく頷いた。彼女は加能の隣に並んで階段へ向かった。俺はその場に残された。踏み込む権利も、引き止める言葉も、自分には何もないのだと分かっていた。このざわめきがただの同僚意識ではないこと。俺はそれを認めるのが怖かった。
東場の容体は数日のうちに悪化し、緊急手術が決まったのは月曜の朝だった。俺は内科担当として、術中の全身管理を任されることになった。手術室でガウンを着て凛の隣に立つと、彼女はマスクの上から一瞬だけ俺を見た。「先生、よろしくお願いします。今日は長くなるかもしれません」「こちらこそ。バイタルは私が責任を持って見ますから、手術に集中してください」
手術が始まると、彼女の動きは見事だった。迷いがなく、淀みがなく、一つ一つの判断が速い。若手の外科医が思わず息を呑むほど、流れるような手さばきだった。しかし、俺は気づいていた。東場の心臓に触れる直前、凛の右手の指がほんのわずかに震えたのだ。他の誰も気づいていない。彼女は深く息を吸い、その震えを抑え込んでメスを進めた。手術は四時間に及んだ。
「加藤先生、輸血を上げてください。出血はもう少しで抑えられます」「了解しました。輸血も追加で準備します。落ち着いていきましょう」。俺は無意識に自分の手を彼女の肘のそばに添えた。手術が終わった時、凛は手袋を外しながら短く言った。「ありがとうございました。助かりました」「見事な手術でした」。短いやり取りだった。俺の胸の中に、はっきりとした思いが芽生えていた。この人を守りたい。
東場の経過は順調だった。一般病棟へ移り、笑顔も戻りつつあった。だが病院の中では別の動きが始まっていた。ある朝、藤田が真っ青な顔で駆け込んできた。「加藤先生、大変です。理事会で西城先生のことが議題に上がっているらしくて。昔の症例を加能先生がわざわざ蒸し返しているって聞きました」「昔の症例?どういうことだ」「詳しくは分からないんですけど、数年前に医療ミスがあって、その責任を西城先生が取らされたって噂が前からあって。それを今、加能先生が懲戒の名目で持ち出しているそうです」
その日の午後、病院のあちこちでひそひそ声が聞こえるようになった。凛がすれ違うと、誰もが目をそらした。彼女は表情一つ変えなかった。淡々と業務を続けていた。俺は休憩室で凛を捕まえた。「西城先生。噂は耳に入っていますね。私にできることがあれば言ってください。一人で抱え込まないで欲しいんです」「ご心配いただいてありがとうございます。でも、加藤先生は関わらないでください。これは私の問題なんです」「あなた一人の問題には見えません。加能先生が動いているなら、なおさらです」「だからこそです。加藤先生まで巻き込みたくありません。お願いですから、距離を置いてください」
その夜、廊下の角を曲がったところで、俺は二人を見た。加能が凛の肩に手を置き、何かを話しかけていた。凛は俯いたまま、抵抗もせず立っていた。加能の口元は笑っているように見えた。胸の奥が鈍く痛んだ。
数日後、思いがけない電話が病院にかかってきた。凛の母、西上美和からだった。一度会って話したいことがあると、落ち着いた声で告げられた。待ち合わせは病院から少し離れた古い喫茶店。六十歳になるという美和は、姿勢のいい人だった。「加藤先生のお話は、凛から少しだけ伺っております。あの子が誰かのことを話すのは、本当に珍しいことなんです」
美和は静かに語った。数年前、ある手術で重大な判断ミスがあったこと。本来の執刀医は加能であり、ミスを犯したのも彼であったこと。だが、当時加能の立場を守るために、凛が全ての責任を被ったこと。そして、その手術の患者こそが、今の東場安成であること。「凛はその後、しばらくして別の病院に移られて、消息も分からないままでした。あの子は自分があの方の人生を奪ってしまったと思い込んで、ずっと自分を責めてきたんです」「だから、今回の手術にあれほど執着していたんですね」「ええ。東場さんがまたうちの病院に来られたと知った時、あの子は、これは最後の機会だと言っておりました。罪滅ぼしのために、必ず助けるのだと」
俺は窓の外を見た。昼下がりの町は、いつも通りに人が歩いていた。凛がどんな思いで加能の隣に立ち続けてきたのか。ようやく見えた気がした。波風を立てずに生きてきた自分が、急に恥ずかしく思えた。彼女を守ると口にしながら、踏み込む覚悟を持っていなかった。
理事会の日は朝から雨だった。俺は白衣の内側に一通の封筒を入れていた。中には数年前の手術記録のコピーがある。凛の母から話を聞いた翌日、東場のかつての担当看護師を訪ね、ようやく手に入れた当時のカルテだった。本来の執刀医は加能であり、手術中の判断ミスも全て加能のものであること。それを示す記録が、はっきりとそこに残っていた。凛は後から記録を書き換えてまで、加能をかばっていたのだ。
大会議室の前で、藤田が走り寄ってきた。「加藤先生、本当にやるんですか?今からでも遅くないです。出せば加藤先生の立場だって危ないんですよ」「ああ、分かってる。それでも出すしかない。彼女に背負わせ続けることの方が、俺にはずっと耐えられないんだ」「分かりました。僕も一緒に立ち合います。一人で行かせるわけにはいきません」
俺は藤田の肩を軽く叩いて、扉を押した。大きな机の奥に理事たちが並んでいた。加能が中央で資料を広げ、淡々と凛の過去を語っているところだった。凛は壁際に立ち、俯いたまま何一つ反論していなかった。全てを背負って終わらせるつもりなのだと、俺にはすぐ分かった。
俺は会議室の中央まで歩き、封筒を机の上に置いた。理事たちの目が一斉にこちらを向く。加能の顔色が初めて変わった。「内科の加藤です。発言の許可をいただきたい。数年前の症例について、ここに残されていない記録があります。全てを明らかにしてから、西城先生のことを判断していただきたいんです」「加藤先生、何の話をしているんですか。あなたが口を挟む案件ではないでしょう」「私は今回の執刀医の一人です。患者の経過を正しく判断するためにも、過去の真実は必要です」
理事の一人が封筒を開き、書類を読み始めた。室内の空気がゆっくりと変わっていくのが分かった。加能は何度か口を挟もうとしたが、その声はもう誰にも届いていなかった。俺は壁際の凛をちらりと見た。彼女は驚いた顔でこちらを見ていた。その目に戸惑いが浮かんでいた。俺は小さく頷いた。もう一人で背負わなくていい、とそれだけを伝えたかった。
その後、東場の証言が決定的になった。回復した彼は車椅子で理事会に出席し、静かにしかしはっきりと過去のことを語った。当時の執刀医が誰であったか。手術後に誰が見舞いに来て頭を下げたのか。その全てを覚えていた。加能はもう何も言わなかった。加能は外科部長の職を解かれ、しばらくして病院を去った。凛の処分は全て撤回された。
全てが落ち着いた夜、俺は屋上で凛と二人になった。「加藤先生。なぜ、あそこまでしてくださったんですか?私は距離を置いて欲しいとお願いしたはずです」「西城先生のお願いを聞けなかったのは申し訳ないと思っています。それでも、もう見ていられなかったんです」「私は罰を受け続けなければならないと、ずっと思ってきました。東場さんの人生を奪ったのは私だと。そう信じることでしか、自分を保てなかったんです」。凛はフェンスを握ったまま、声を震わせた。
俺は静かに言った。「これからは、一人で背負わなくていいんです。背負うものがあるなら、半分こちらに渡してください。それくらいの力は私にもあるつもりです」「加藤先生に、そんなことを言わせてしまっていいんでしょうか?」「私が選んだことです。逃げない人生を選ぶと、もう決めましたから」。凛はゆっくりと振り返った。涙がこぼれ落ちた。
それから一年が過ぎた。季節は巡り、また春になっていた。病院の中庭にある小さな桜の木が、ちょうど満開を迎えた頃。俺たちは小さな結婚式をあげることになった。派手な式は誰も望まなかった。親しい仲間と家族だけがいればよかった。東場は椅子ではなく自分の足で、杖をついて参列してくれた。随分元気になり、頬には血色が戻っていた。
藤田は受付に立ち、何度も目元を拭っていた。「加藤先生。こんなにいい日になるなんて、思っていませんでした。あの理事会の朝、僕、本当はずっと足が震えていたんですよ」「ああ、俺もだ。あの日のことがなかったら、今日のこの日もない。お前が一緒に来てくれて、本当に助かった」「先生、おめでとうございます。本当におめでとうございます」
白いドレスの凛が、母に手を引かれて中庭に現れた。参列者の間から小さなため息が漏れた。東場が目を細め、ゆっくりと頷いている。美和の目には静かに涙が浮かんでいた。凛は俺の前まで来ると、はにかんだように笑った。かつての感情を読ませない冷たさは、どこにもなかった。桜の花びらが風に乗ってゆっくりと舞っていた。
式が終わった後、東場がそっと俺のそばに来た。「加藤先生。凛先生を、どうかよろしくお願いします。先生は私の命の恩人です。そして、ずっと一人で苦しんでこられた方です」「ええ。私の方こそ、彼女に支えられてきました。これからは、二人で歩いていきます」。中庭の隅で、凛が母と何かを話していた。笑い声が風に乗って届いた。あんな笑い方をする人だったのかと、今更ながらに思った。
桜の花びらがもう一枚、凛の肩に落ちた。彼女はそれに気づき、こちらを振り向いて笑った。俺はその笑顔に小さく頷き返した。明日からもまた白衣を着て患者の前に立つ日々が続いていく。ただ隣に並んで歩く人がいる。それだけで、世界の見え方はこんなにも違うのだと知った。



