父はフランス語しか話さない。いや、話さないというより、話そうとしなかった。母を亡くしてから再婚した父は、新しい仕事に忙しく、俺との会話はろくになかった。家にいる時も、父は難しい顔で書類を見ているか、新しい母と話しているか。俺はいつしか、父を「家族」ではなく「同じ家に住む他人」のように感じていた。
大学を出て、自分で会社を立ち上げた。順風満帆とはいかなかったが、どうにかこうにかやってきた。そんなある日、妹のマヤが食事に誘ってくれた。久しぶりに会うマヤは、大人びて見えた。
「お兄ちゃん、仕事どう?」
「まあ、なんとか。最近、大きな仕事の話をもらってな。取引先の紹介でな」
「へえ、すごいじゃん。でもね、その仕事、実は私から紹介したんじゃないんだよ」
「は? どういうことだ?」
「お父さんからなの。お父さん、お兄ちゃんの会社のこと、ずっと心配してて。お母さんによく様子を聞いてたんだよ。で、今回の取引先も、お父さんの会社の取引相手なんだって」
まさか。家でろくに口もきかないあの親父が? 俺は自分の耳を疑った。マヤの話によると、父は母とマヤと一緒に、よく俺の話をしていたらしい。この何年か、父はフランスで貿易会社を経営している。今回、俺に仕事を紹介したのも、父の会社のコネクションだった。
「親父が…そんなこと…」
俺は恥ずかしさで下を向いた。悩み事をマヤを通して父に知られていたことが、情けなかった。だが、マヤは俺の手を握り、真剣な目で言った。
「家族なんだから、恥ずかしくなんかないよ。お父さんだって、お兄ちゃんが立派な社会人になってくれて、尊敬してるんだから」
「お父さん」
マヤが後ろを振り向く。俺は驚いて立ち上がった。そこには、気まずそうな顔をした父が立っていた。マヤが連れてきたのだ。父は緊張した面持ちで、俺を見つめる。マヤに背中を押され、父は口を開いた。
「…ごめん」
流暢なフランス語ではなく、たどたどしい日本語だった。あれほど日本語を話そうとしなかった父が、必死に日本語で話しかけてくる。
「私は…元…日本語を…勉強するべきだった。昔の私は…仕事ばかりしていました。いや、でも…」
「親父、違う。俺こそごめん。俺もわがままばかりだったんだ」
「違う。響きは謝らないで。響き…私の方がごめんなさい」
父は、覚えたての単語を必死に紡ぐ。何度も「ごめん」を繰り返す。俺は目頭が熱くなった。仕事だからと、小さい頃の俺を構ってやれなかった。父親をなくしたばかりの俺の気持ちに、寄り添えなかった。父はそう言って頭を下げた。あんなに阻害感を感じていた父が、ようやく「父親」になってくれた気がした。
「親父…ありがとう。日本語、覚えてくれて」
「ああ…まだ下手でごめん。響き、私は…今までのことをずっと謝りたかったんだ」
視界が歪み、涙がこぼれ落ちる。俺の背中を、マヤが優しく撫でてくれた。
「お兄ちゃん、家族なんだから、もっと頼ってもいいんだよ」
こうして俺と父は、長年抱えていたわだかまりを解消することができた。同じ言語を話せても、気持ちを伝えなければ、家族とさえすれ違ってしまう。あの時、意地を張らずにもっと父と向き合っていれば、違った関係を築けていたかもしれない。そんなことを思っていると、父が突然、笑いながら言った。
「響き、ママのハンバーグ、でかすぎ」
「やばい、わろた」
「え、ちょっと、マヤ。もっと綺麗な日本語を教えてあげなよ」
「え〜、今風の方が良くない?」
俺はかなり遠回りをしてしまったけど、やっと家族の一員になれた気がした。
―――
誰も来ないな。味はそんなに悪くないと思うんだけど。
私は営業中の小料理屋でぽつりと呟いた。私の名前は豊田裕子。両親が残してくれたこの店を、どうにかして続けていきたい。でも、私一人では何もうまくいかない。両親が経営していたので、小さい頃から遊び場は店の一角だった。思い出がたっぷりのこの店を、私はすごく大事に思っていた。幼い頃から身を習いで料理を覚えていき、中でも父と母に「美味しい」と言ってもらえるおにぎりを作るのが好きだった。
最初は形が崩れるボロボロのおにぎりだったけど、両親は必ず笑顔で食べてくれた。おにぎりを作ってはよく褒められたので、私にとって大切な料理の一つになった。ただの塩おにぎりから始まり、店の残り物で工夫して作れるようになっていった。
「どんなに疲れていても、裕子のおにぎりを食べると元気になれるな」
父はそう言って、忙しい中でも私の頭を撫でてくれた。私はずっと、こんな毎日が続くと思っていた。両親と三人、ずっと笑い合えると。しかし、私が大学を卒業する頃、両親は交通事故で亡くなった。材料を二人で調達に行っての事故だった。
どうしたらいいか分からなかった。ただ、二人がいなくなった今、この店もなくなったら、自分の居場所がどこにもなくなってしまう気がした。四十九日が落ち着くと、常連客の声も後押しになり、料理屋を一人で再開させた。レシピはあったし、今までも手伝いはしていた。何より、大学で経営学を学んでいたので、店を畳むという選択肢はそもそもなかった。しかし、元々職人気質の父が主体となってやっていた店だ。常連客は何人か来てくれたが、お客さんが来なければどうにもならなかった。経営は難しく、赤字が続いた。両親が残してくれたお金も、残り少なくなってきていた。
誰も来ないな。そう独り言を言い続けながらため息をつくと、朝ポストに入っていた割引招待券を眺めた。毎年家族で行っていた温泉旅館から、手紙と一緒に届いたものだ。どうせこのままならお客さんも来ないだろうし、いっそ行ってみようか。気分転換に、私は温泉旅館へ行くことにした。
今年は一人、電車に乗って温泉宿へ向かった。初めて降りる駅は、東京よりひんやりとして、人があまりいなかった。少し寂しくなってしまったが、宿の人が駅まで迎えに来てくれる予定だったので、駅に併設された地元のコンビニに入り、何か気になるものがないか探して旅行気分を盛り上げた。何度も来たことがあるはずの旅館の玄関は、なんだかすごく大きく感じた。不意に後ろに誰かいるような気がして振り返ったが、もちろん誰もいない。そうだよね、私一人で来てるんだった。少し切ない気持ちになり、玄関口で固まってしまった。
「お客様、大丈夫ですか?」
私に気づいた女将が、優しく声をかけてくれた。
「あ、はい。外は寒いですから、どうぞ中へ」
そう言って女将は私の名前を聞くと、受付へと消えていった。旅慣れしていない感じが出ちゃったかな、と少し恥ずかしくなったが、女将の優しさなのか、受付の手続きもそのまま女将がしてくれた。部屋まで案内され、夕飯の時間を告げられると、女将は去っていった。
体があったまったことで、少し元気を取り戻した私は、せっかくの温泉旅行を楽しもうと気分を変えた。部屋に行くと、すぐに晩御飯が運ばれてきた。色とりどりの料理が並ぶ。ここの料理は全国で口コミランキング一位になるほどの人気だった。そして、この時期はいつも来ていたので、メニューは覚えているものばかりだ。三段重ねの御膳には、三段とも違う料理が入っている。父は一番上の段、母は二番目の段、そして私は三番目の段の料理が一押しだった。みんなで半分ずつ、各自が好きなものを交換するのが恒例だった。
父が好きだったものを食べる。少し苦みのある大人の味だ。母が好きだったものを食べる。やっぱり酸っぱい。今年は一人で全部食べないとな。そう思いながら、最後に自分が好きなものを食べた。この味、この味。そう独り言を言った時、自然に涙が出てきてしまった。当たり前だけど、もうこの料理を両親と食べることはない。この宿で笑い合うことはない。分かっていたはずなのに、涙が止まらなかった。
その時、部屋の扉がノックされた。私は急いで涙を拭くと、ごまかすようにテレビをつけて「どうぞ」と言った。
「お刺身とお飲み物です」
料理を持ってきてくれたのは、女将さんだった。私の顔を見ると、さっきと同じように優しく微笑んでくれた。
「お料理、どうですか?」
そう言って、飲み物をグラスに注いでくれた。ああ、きっと気づかれたな。そう思うと、止まったはずの涙がまた溢れてきた。女将さんは少し驚いた顔をしたが、優しく声をかけてくれた。
「私でよければ、話してくれませんか。まずは飲み物でも飲んで」
「あ、ありがとうございます。私、いつもは両親と来ていたんです」
「そうでしたか。毎年来てくださって、仲の良いご家族だなって思っていましたよ。去年は来られなかったので、どうしたのかと思っていたんです」
「両親は…あの事故で亡くなってしまって」
子供のようにしくしくと泣く私の背中を、女将は優しく撫でてくれた。
「そうだったんですね」
「お料理屋をやってて。亡くしたくないって、両親が守ってきた店を絶対続けるんだって思っていたのに、私じゃ力不足で。でも、やめたくなくて。お料理を食べたら、二人が好きだったものを分けることもできないんだって気づいて」
そう言って、時間にしたら20分もなかったはずだが、ずっと抱えていたものを口に出すと、少し落ち着いてきた。女将は最後まで背中を撫でてくれていて、話が終わると肩にポンと手を置いてくれた。
「ご両親が亡くなってから、ずっと一人で頑張ってきたんですね。すごいことですよ」
落ち着いてくると恥ずかしくなり、どうしようと思ったところで、なんと私のお腹が鳴った。女将と私は、思わず笑い合った。
「お料理、まだまだ来ますからね。ここにいる間だけでも、少しゆっくりして、何もしない時間を楽しんでください。ここはそういう場所ですから」
そう言って、料理を取りに行ってくれた。その後も、料理を持ってくるたびに、女将は他愛もない話をしてくれた。料理を堪能し、お腹いっぱいになった私は、女将に料理が美味しかったことと、さっきのお礼を言った。
「あの、ありがとうございました。両親のこと、誰にも話せなかったので、心がすっきりしました」
「あら、良かったです。少しでもリフレッシュしていってくださいね」
女将はそう言うと、笑顔で去っていった。私は泣きはらした目を温めるため、もう一度温泉に浸かることにした。温泉に入りながら、人と話したからか、いつもよりちゃんと先のことを考えることができた。店を続けたいが、無理なら就職するのが現実的だよな。せめて料理の仕事がいいかな。そんなことを思いながらのんびり浸かっていると、チラチラと雪が降り始めた。綺麗だな。
結局雪はその後も降り続き、積もっていった。山奥の温泉だし、そんなものかと思いながらも、電車で来てよかったと安心していると、従業員たちが困ったような声で話しているのが聞こえた。
「嘘、すごい積もり始めちゃったじゃない」
「帰れるかしら」
「どれどれ。本当だ。今年は早かったわね」
地元の人も驚くほどの大雪らしい。少し心配しながらも、せっかくの温泉だからもったいないと思い、布団に潜りながら駅で買った地元限定のおやつを食べた。思ったより疲れていたのか、気づいたら朝になっていた。顔を洗うついでに朝風呂でもしようと思い立った私は、温泉へ向かった。すると、温泉帰りに厨房のそばを通ると、何やら騒がしい。
「え、来れないってどういうことですか? 今ある分だけじゃ全然足りない。どうしよう」
非常事態のようだ。女将さんがちょうど出てきたので、挨拶がてら事情を聞いた。
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
「おはようございます。少しはゆっくりできましたか?」
「ええ、本当にありがとうございました。ところで、どうかしたんですか?」
昨日のことがあったからだろうか。よっぽど困っていたのもあって、女将は事情を話してくれた。食材を運ぶトラックが、大雪による通行止めで来られなくなってしまったという。だいぶ先で止まっているので、雪が溶けて渋滞が解消しないと来ないらしい。本当ならとっくに届いていて、準備に入らなければならない時間だ。
「どうしよう。これじゃあ営業できない。この雪で朝ご飯なしにお客様に迷惑をかけてしまうわ」
女将が悩んでいると、私はいいアイデアが浮かんだ。
「あの、厨房を見せていただいてもいいですか?」
「え?」
「ちょっと提案があって、材料を確認したくて」
私がそう言うと、小料理屋の話もしてあったからだろう。女将は縋るような顔で、私を厨房に案内してくれた。厨房には米がたくさんあった。これなら大丈夫かも。
「おにぎりバイキングはどうでしょう?」
「おにぎりバイキング?」
「ええ。もちろん普通のおにぎりだけじゃなく、いろいろな具を合わせて飽きないようにするんです。私、おにぎりが得意で」
「お米さえあれば、あとは少しの具でいろいろな種類を作れるので」
女将は私を料理長のところに連れて行き、提案を話してくれた。料理長も困っていたようだったが、イメージができないと言われた。私はそれならと、何個か試しに作ってみることにした。何種類か作ると、みんな「面白い」「美味しい」と言ってくれた。
その時、料理長がぽつりと言った。
「昔はな、おにぎりと味噌汁でご馳走だったな」
すると、年配の従業員たちが思い出を語り始めた。
「そうよね。疲れた体と心にしみるのよね」
「ほっとするわよね」
「がっつり米が食べたいわよね」
手応えを感じたのか、女将は料理長に興奮しながら言った。
「これで行きましょう。料理長、いいですか?」
「ああ、そうだな。これでいい」
その後、みんなでおにぎりのアイデアを出し合った。お客さんには30分ほど遅れてしまうことと、バイキングに変更になったことを女将さんが説明した。朝と昼はお客さんの入れ替わりがあるため、少し種類を変えたが、おにぎりバイキングで乗り切った。地元の食材も混ぜ込みながら、朝昼違うもので各10種類以上のおにぎりを作った。
天かすが入ったもの、チーズが入ったもの、漬物が入ったもの、定番の梅やおかか。おかかは混ぜ込み、中には卵を入れた。子供用として、小さな口サイズのおにぎりも作った。
「パパ、おにぎりに卵入ってる!」
「ママはチーズにトマト。安定の美味しさだわ」
おにぎりバイキングは子供たちにも大人たちにも大好評だった。おにぎりだけじゃなく、料理長のアイデアにより、トマトスープやコンソメスープをおにぎりにかけて、お茶漬けも楽しめるようにした。お昼には料理長が粉があるからとうどんを打ち、うどんにも好きなトッピングができるようにした。連泊の方も楽しめるようにと、工夫を凝らした。
バタバタと過ごしていると、昼頃には太陽で雪が溶けていた。夕飯の準備時間にはなんとか食材が届き、通常通りの料理を用意できたようだった。普段と違うことをしたからだろう。女将はずっと忙しそうにしていたが、昼が終わると私のところに来て言った。
「後でお礼に伺います。少しゆっくりしてください。本当にありがとう」
そう言うと、バタバタと受付へ戻っていった。私はもう一度温泉に浸かりながら、今日一日を振り返っていた。久しぶりだな、おにぎりを作ったの。それに、料理長や従業員さんのアイデアもとても面白かった。私は言葉にできない充実感を感じていた。
部屋に戻ると、女将が料理を持ってきてくれた。
「今日は本当にありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。とっても楽しかったです」
「おにぎりだけでお客様を満足させられるなんて、本当にすごいアイデアですよ。お客様からもレシピを聞かれたりして、大好評でした。これからは、うちのメニューにおにぎりのレシピを取り入れてもいいかしら?」
「もちろんです。嬉しいです」
その後、もう一度温泉を堪能しつつ、もう一度これからについて考えた。よし、決めた。そう大きな声で決意表明をしながら立ち上がったが、そこは誰もいない部屋ではないわけで、周りにいたちょっと年上のお姉様方から「若いっていいわね」「気合い十分ね」と言われてしまった。旅館を出る時には、女将さんから料理長、従業員さんたち全員に感謝された。
「是非また来てくださいね。みんなで待ってますから」
「はい、ありがとうございます。絶対また来ますね」
私は不安な気持ちで通った玄関口を、笑顔で後にした。
―――
そして、温泉から戻ると、私は小料理屋を畳んだ。この店のまま守りたいと思っていたが、ここは両親の店だ。両親は「自分たちが美味しいと思うもので、お客さんが笑顔になることが嬉しい」と言っていたことを思い出したのだ。大事なのは形じゃない。その思いを継ぐことが大事なんだと気づいた。
3月が終わり、春が訪れようとしていた。
「ああ、アスパラとベーコンのおにぎりね」
「全く、おにぎりダイエットっていいって言うから始めたのに、ここのじゃ1個じゃ終わらないからダイエットにならないわよ」
「来るたびに美味しそうな新作あるし」
そう、私はおにぎり専門店として店を改築し、おにぎり屋をオープンさせた。自分が得意なもので、美味しいと思うものを作った。すると、客足が遠のいていたのが嘘のように、大盛況となった。時間も日中メインに変えたが、元々の常連客は近所で働いている方が多かったので、おにぎり屋になっても買いに来てくれた。
「やっと裕子ちゃんらしい笑顔になって、おじさんたち嬉しいよ」
そんな風に、店には笑顔が絶えなくなった。今後は旅館で教えてもらったお茶漬けスープも参考に、お客さんが困るくらい色々なメニューを提供していけたらと思っている。一度諦めかけたが、自分ができることを一歩ずつやる。それを大切に、今後も頑張っていきたい。両親に褒めてもらえた私のおにぎり。その思い出のおにぎりが、今度はたくさんの人たちを笑顔にしている。両親の店は畳んでしまったけれど、きっと父も母も喜んでくれているはずだ。父と母の思いは、このおにぎりに、私の心に、今も生き続けている。



