俺は野沢深夜、34歳の会社員だ。ピコピコ商事に勤めて10年以上、営業マンとしてのベテランになった。2年前に結婚して平穏な生活を送っているが、一つだけ困ったことがある。それは元村健二という課長のことだ。仕事ができず無能だと周りから言われているのに、いつも偉そうなことばかり言っているため、みんなから嫌われている。そんな彼は俺のことを目の敵にしているのか、よく資料をばらまかれたり、「お前はなってない」と怒鳴られたりしていた。課長に逆らえることはなく、ストレスが溜まる日々が続いていた。
そんなある日のこと。大企業のケロケロ薬品と取引できるように相談のチャンスを勝ち取った。成功したら150億の利益が出る。そんな大事な機会が与えられて、俺はやる気に満ち溢れていた。必要な資料も作り終えて、あとは正談の日を待つだけ。そう思っていたのだが、元村課長が資料を奪い、「俺が決めてきてやるよ。これで小心だわ」と言い出した。急なことに目を見開いて彼を見ると、冗談ではなく本気で言っているとわかる。
「課長、これは僕が取ってきたものです。僕が承談しに行くと相手には伝えていますし、課長の手柄にだなんて無理です。」
「なんだと?相手はお前のような人間と話したいと思ってるのかよ。大企業だってのに頭のおかしいやつがいるんだな。」
「相手方を悪く言うのはやめてください。それに僕が承談させてもらえるようにしたんですから。僕が行くのは当然ではないでしょうか。」
「そんなの誰が決めた?俺が全部やって成功させてやるから。お前は指を加えて黙って見てろ。」
「そういうわけにはいきません。資料を作った自分が言った方が説明もしやすいでしょう。」
「俺は天才だから少し見ただけで理解するんだよ。自分の手柄にしたいからって出しゃばるな。」
「課長が横取りしようとしているんじゃないですか。」
勝手なことを言い出す課長についカッとなって怒鳴り返す。そのせいで周りにいた社員は俺たちのことを見た。俺は自分の声が大きすぎたと思い、少し気まずい気持ちになりながらも課長に抗議を続けた。しかし俺の言葉は聞いてはくれず、「この承談は俺のものだ。これで出世するんだよ」と騒ぐ。そのためまた周りからは注目を集めてしまうが、ここで引くわけにはいかない。だからと言って課長が納得してくれるわけもなく、俺はどうしたらいいかと頭を悩ませる。
とここで一つ思いついたことがあり、「分かりました。課長1人で行くのは相手方は納得しませんが、僕と一緒に行って全てを1人でするというのならご自由にどうぞ」と伝えた。その言葉に課長は「最初からそのつもりだ。お前が出る幕なんてないからな」と言い張った。俺がいることは納得していないようだけれど、全部自分の手柄になると思っているようで機嫌が良さそうだ。心配してくる社員もいたけれど、「大丈夫だ」と一言言ってからスマホを取り出してある人に連絡を取った。
そして正談当日。2人で電車を使い、ケロケロ薬品に向かっていたのだが、乗り換えの電車を待っていた途中の駅のホームで、俺はなんだか腹が痛くなってきてしまう。予定の電車はまだ来ないため、課長に一言言って駅のトイレに行くことに。個室に入ってしばらくした時だった。少し腹の痛みが引いてきたと思ったら、ガシャンと大きな音がして、「お前は一生そこにいろ」と課長の声が聞こえてくる。俺は驚き声をかけるが、もういなくなったのか返事がない。すぐに電話をかけると、「お前は正談には不要だ。そこで大人しくしてろよ」と言い出した。その言葉にさらに驚き、「もしかしてそのまま1人で行くつもりなんですか」と問いかける。
「それに当たり前だろう」とゲラゲラと笑った。「お前がいたら正談の邪魔なんだよ。担当者には俺から体調不良だって言っておくから。そこで大人しくしてな。薬が効いて安心したぜ。」
「もしかしてトイレに行きたくなったのは課長のせいですか?」
「そうだよ。野沢のお茶に下剤を入れておいたんだ。頭いいだろう。」
「そんなことを許されると思ってるんですか?」
「俺の成果になるんだったら何だっていいんだよ。そしてお前は大事な正談に穴を開けたってことで首にしてやるよ。それじゃあな。」
課長はそう言って電話を切った。その後何度も掛け直しても出てくれることはない。俺は腹痛に耐えながらもここから出ることを考えた。するとその時、トイレ内で騒ぎ声が聞こえてきて、大変なことに気がついてしまう。
それから30分後、課長が正談先の会社のビルに着き、1人で部屋で待っていると、担当者の神谷裕二が入ってきて「元村健二さんですね。あなたとは承談する気はありません。お引き取りください」と言い放った。担当者は厳しい目つきで課長のことを睨みつける。その様子に驚き「何ですか」と課長は驚きの声をあげる。どういうことか全く分かっていない課長に、担当者は「先ほど弟から連絡が来たんです」と話し始める。なぜ弟の話を?と思っているようでポカンとした顔をする課長。しかし「弟から手柄を奪おうとした挙句に薬を持って駅のトイレに閉じ込めるなんてどうかしている」と言うと、目を見開いた。
「もしかしてあなたの弟って…」
「あなたの部下で今日ここに来るはずだった野沢深夜ですよ。でも苗字が違う。それは私が向こう寄りしたからですよ。この会社の社長の娘さんの家に。」
「え?」
課長は担当者である兄の言葉に目を見開き固まる。だんだんと顔色を悪くしていくのが見て取れるが、そんなことお構いなしに、兄は「先日あなたが無理やりこの承談についてくることになったことや、その理由についても教えてもらいました」と話を続けた。それに課長は口ごもる。しかしすぐに「自分の方が相談をするのに適していると思ったので、ここに1人で来ました」と言い出す。それに兄はさらに眉間を寄せて睨みつけ、「あなたとは断したいと思える要素が全くありません」と低い声で話した。
課長はいつも嫌みを言って仕事の邪魔をしたり、自分自身は仕事を全くしていないなど自分勝手な行動ばかり。それだけでなく、資料を作り忘れたり、部下がいい出来事をしても失敗していると言ってやり直させたり、さらには会議中に話している内容が理解できないなど、どうして課長まで出世できたのか謎なくらいの無能ぶりを普段から炸裂している。兄に課長がどんな人なのかを伝えたことで嫌悪感を増してしまったのだけれど、ただそれだけではなく、今日俺に対してしたことに腹が立っていると伝えた。自分が出世するために人を落とし入れる行為をとても嫌っている。さらに俺に下剤を飲ませたりトイレに閉じ込めたりしたことも本当に人間かと疑う行為だと話した。
課長は兄の指摘を受けて虫を噛みつぶしたような顔をしながらも「あなたの弟さんが適当なことを言ってるんです」と言い訳する。
「深夜が嘘をついていると?」
「そうです。私が正談に行くことで出世できないと思ったのか悪く言ったんですよ。ここにいないのはただ腹痛で動けなくなっただけですし。」
「や、先ほど私が弟がここに来れない理由を話した時、否定しなかったのにどうして今になってそんなに饒舌になるんですか?」
「神谷さんが意味の分からないこと言うので弁解しているんです。」
「青ざめた顔をずっとしているのは、覚えもない悪名を言われて驚いているんですよ。」
「では普段の行いや30分ほど前に弟にしたことは全くの出たらめだったということですか?」
「もちろんです。」
課長は自信満々に頷いた。それを見て兄は「証拠があると言ったらどうしますか」と冷たい声で伝えて、「外に入ってきてくれ」と声をかける。それをきっかけに俺は部屋の中に入った。実はずっと部屋の前で待機し、中の様子を確認していたのだ。俺の顔を見た課長は驚き、「なんでここに」と声を漏らす。目も口も大きく開けている彼に、「あの時トイレに閉じ込められたのは僕じゃなかったんですよ」と伝える。
俺をトイレの個室に閉じ込めたと聞いた直後のこと。どうやってここから出ようかと考えていると、なぜかドアが開かないと騒ぐ人が。その言葉に自分の個室の鍵を開けてドアを引いてみると、すんなりと開いた。そのため課長は間違って違うドアに鍵をしたんだとすぐに理解して、隣の人を助け出した。そしてすぐに兄に連絡をして俺の状態と課長のしたことを話したというわけ。課長はそのまま電車でこの会社に来たようだけれど、俺は急いでタクシーに乗ったから、2人が話す前に会社に着いていたのだ。
そう伝えると課長は「まさか…そんな俺が間違えるなんて」と悔しそうに唇を噛みしめる。間違っていなかったとしても俺が兄に連絡をしていたため、やったことはすぐにバレるのだが、それに課長がミスを犯すことはよくあるから不思議なことではない。別の棚に資料をしまったり、人の名前を間違えたり、取引先の担当者の名前や打ち合わせの日を間違えた時は本当に焦ったものだ。それはさておき、俺は無事に正談先の会社に来れたこともあり、課長が勝手なことをしたのが分かったというわけ。
しかし課長も「俺がケロケロ薬品に来ただけで課長がやった証拠になるのはおかしい」と言いはる。もちろん俺と兄だって自分たちが言ってるからこれが正しいんだなんてことは言わない。俺と一緒に部屋に入った隣にいる男性を課長に紹介する。
「この人は山本強という俺の隣の個室に入って閉じ込められていた男性で、ケロケロ薬品の専務だ。」
山本さんは課長を睨みつけて「先ほどはどうも」と冷たく言う。それに山本さんの顔を見ながら、さっきよりも青い顔をしてガタガタと震え出した。それを見て誰もが俺を落とし入れようとしたと分かることだろう。
「あなたが私を閉じ込めたことで、もう少しで大きな問題が起きるところでした。」
「でもそれは野沢さんがいなかったら…」
「しなかったと言いたいんですか?私はわざとしたわけではなかったんです。」
「しかしあなたがしたことは変わりませんよね。あなたのせいでどれだけの人が困り、損失が出たかもしれないということを理解してください。」
山本さんはため息を吐きながら言った。それに課長はびくっと肩を揺らし、たまらないのか下を向いた。それを見ながら、さらに「私が会社への帰りだったから良かったものの、もし取引先へ向かっている途中だったらとんでもないことになっていた」と話し続ける。兄もその言葉に続いて、「元村さんが弊社に足を踏み入れることは非常に嫌で仕方ありません。何か問題を起こして帰りそうです」と言った。さすがにそんなことを言われて黙っていられるわけもなく、抗議はしたけれど、「すぐに言われても仕方がないとは思いませんか」と厳しい口調で突っ込まれた。
ボロクソに言われたことで機嫌を損ねた課長は、「私はただ御社と承談をしに来ただけなのに、なんでここまでのことを…」とボソボソと呟いた。その言葉についた兄は、「あなたがこの場を最悪の状況にしたと分かっているんですか」と怒った。課長が大人しく何もしなかったら、正談は滞りなく進んでいて取引も成立していただろう。無理やりついてきて何かよからぬことを口ばったとしても、何も変わらなかったかもしれない。しかし課長の行いで山本さんに迷惑をかけたから、うちの会社のイメージは下がりになった。兄にだけ課長の悪いところを見せるだけだったら、まだなんとかなったかもしれないのに。
俺は課長を睨みながら、「この状況どうするつもりですか?今から相談をする時間を相手方に取らせるなんて申し訳ないって思いますよね。兄にだって他の仕事があるんですから」と伝える。その言葉に課長が「正談を全て俺に任せていればよかったんだろう」と逆切れした。我慢の限界だというように俺を睨みつけてくるこの男の態度に、怒鳴り散らしたり殴りたくなる気持ちをぐっと抑える。ここで手を上げたら俺の方が悪くなるし、正談先で暴れたら余計に大問題だ。深呼吸をして自分を落ち着かせて、「先に人から仕事を奪ったのはそちらだということを忘れないでください」と睨み返す。
それに続くように山本さんは「自分のやったことを棚にあげてというよりは、自分がしたことを分かっていないような発言をするなんて、本当に社会人として今まで生きてきたとは思いませんね」と呆れたようにため息混じりに話す。兄もそれに同意するため、課長はギリギリと歯ぎしりをして悔しそうにした。それを見て山本さんは、「元村さんは先ほどからそうやって自分の行いを否定したり正当化しようとしていますが、謝罪は1度もしませんよね。悪いことをしたと全く思っていないということでしょうか」と睨みつける。課長は今更謝るのが恥ずかしいと思ったのだろうか。「いや、それは…」とはっきりしない言葉を吐きながら、「申し訳ありませんでした」とやっと頭を下げた。遅すぎる謝罪に、兄も山本さんも怒りのボルテージがマックスになったようだ。
「あなたのことは御社にしっかりと連絡させていただきます。取引の件ですが、もし元村さんが弊社と関わるのなら絶対にしないとも伝えますから。」
「そんな待ってください。会社に報告するなんておかしいじゃないですか。」
「あなたの謝罪も誠意も全く見えないから、そうさせてもらうんです。それに2度と弊社と関われないようにしてもらわないと困りますからね。商品などに問題があったら販売元へ問い合わせをするでしょう。それと一緒です。」
「いや、それは違うでしょう。」
「もしお2人が何も言わなかったとしても、僕から社長に報告しますよ。この段が終わったら社長と話をすることになっていましたから、その時に課長の行いが全てバレることになります。」
「野沢は俺の部下だろう。かってくれよ。」
課長は追い込まれて助けを求めてきた。しかし俺が手を差し伸べるわけもない。自分を落とし入れようとした人間を誰がかうというのだ。そんなお人よしはいないだろう。彼を睨みつけて「少しでも反省してから構えだとか頼んでください」と言った。もう周りには課長の敵しかおらず、絶対に形勢逆転なんてできるわけがないと分かったようで、彼は頭を床につけて謝罪した。しかし誰も許すことはなく、すぐに「この会社から出ていけ」と兄たちは言う。その言葉にもうおしまいだと、青を通り越して真っ白な顔になって。そのまま課長は魂が抜けたような顔つきで立ち上がり、とぼとぼと部屋を後にした。逆切れして発狂しながら暴れられるかと思ったけれど、何もなくて良かったと安堵のため息を吐く。兄も同じように息を吐いて、「正談を始めよう」と言ってくれた。兄やケロケロ薬品にとってもうちの会社と取引するのはいい話であるから、まとめたいと思っているらしい。山本さんも課長が関わらないのならいいとおっしゃってくれた。その言葉に感謝しながら正談を始め、取引をすることに決まった。
一方、元村課長がどうなったかと言うと、社長に報告したら「なんてことをしてるんだ」と怒鳴り散らされるはめに。そして今回のことや今まで社内でしてきた行いを踏まえて首になった。過去にやらかしてきたことだけだったら減給だけで済んだだろうけれど、部下に下剤を飲ませた挙句に正談先の専務に迷惑をかけたことが解雇の原因。首の理由には十分で、元村は抗議することもなくそのまま会社を後にした。その後別の会社に入社しようとしているらしいが、年齢のこともあり、正社員として就職できず派遣社員として働いているらしい。そこでも同じように迷惑をかけていなかったらいいが、プライドが高く仕事もできないため職場を点々としていると風の噂で聞いた。
一方、俺は課長がいなくなって平和な日常を過ごしている。他の社員も仕事がしやすいと喜んでいた。



