「それで今、何とおっしゃいましたか?」光一さんの声は静かだったが、店の空気が張り詰めた。リサの唇が震え、言葉にならない音が漏れる。「わ、私は…その…」「あなたは1年前、私に会うことすらせずに縁談を断った。それは構いません。ご縁とはそういうものですから。ですが、伺いたい」光一さんは手にした書類の束を指で軽く叩いた。「あなたが返してほしいのは、会ったこともない私ですか?それとも、たった今知ったこのビルの所有権ですか?」
答えられるはずがなかった。答えはこの場の全員がとっくに知っていた。私は50年の結婚記念日の祝いの席で、妹の正体を目の当たりにしていた。ほんの1時間前、リサは家族の前で私の夫を「取り替える」と言い放ったのだ。夫を奪い、部屋を無料で使い、借金を片付ける。あの報告書を見てからまだ1時間も経っていないのに、彼女はそこまで描いていた。ある意味、天才的ですらあった。
ことの始まりは3か月前、光一さんからの突然の縁談だった。祖母の代から続く古びた喫茶店「こもれび」を営む彼は、私と結婚したいと言った。妹のリサに代わって見合いの場に出席したのは私だった。リサは「古びた喫茶店の男なんて貧乏に決まっている」と鼻で笑い、「姉は相手がいないからあんな店でも喜ぶはず」と私に押し付けたのだ。
「お姉ちゃんにちょうどいいでしょ」リサはそう言って、見合いの場に私を送り出した。私は48年間、妹の引き立て役を務めてきた。地味で取り柄のない姉。リサはいつも私の隣で輝いていた。でも光一さんは私を見て、「財産ではなく、あなたの人柄に惹かれました」と言った。その言葉を聞いた瞬間、私はこの人と結婚を決めた。見合いの場で、たった一度会っただけで。
光一さんはカウンターを回り、レジの下の金庫から古い封筒を取り出した。分厚い書類の綴りが祝いのテーブルの上に開かれる。「全部事項証明書、土地、建物。ご覧の通り、このビルと土地は祖父の代からうちのものです。あなたが1年前に『会う価値がない』と切り捨てた古びた喫茶店の店主。それが私です」リサは紙の上の名義欄を食い入るように見つめた。「青柳光一…青柳光一…何枚めくっても同じ名前が続く」「偽物でしょ、こんなの。素人を騙すための…」「いいえ」隅から遠慮がちな声が返った。まだ帰りそびれていた管理会社の小寺さんだった。「あの、管理会社のものとして申し上げますが、このビルは青柳オーナーの所有です。私どもが20年、管理を預かっていますので。それに登記は法務局で誰でも取れるものよ。疑うなら自分で取ってみなさい」そう付け足したのは私だった。「嘘だって…あんた…」「軽自動車に荷物が詰めれば十分です」半年前の私と同じ問答を、リサは蒼白な顔でなぞっていた。ただし、私の時と違って、光一さんの目は笑っていなかった。
その時、隣にいた光一さんがゆっくりと腰を上げた。穏やかな目のまま、リサをまっすぐに見る。「あなたが欲しいのは僕ではなく、このビルと毎月300万円の家賃収入ですよね」リサの顔から血の気が引いていく。「何のことだか…」「先ほどからあなたの目は私ではなく、あの報告書ばかり見ています」そこへ、祝いの席の端で黙っていたト倉さんが立ち上がった。「私の口から言わせていただいてもいいかしら?」ト倉さんの声は穏やかで、それだけに逃げ場がなかった。「1年前、あなたはこの縁談をお断りになった。それは構わないの。ご縁は無理するものではないから。でもね、あなたが私によしたお断りの言葉を、私は一言一句覚えていますよ」ト倉さんはリサを見据えたまま、ゆっくりと言った。「『古びた喫茶店の男なんて貧乏に決まっている』そうおっしゃいましたね。それからこうも。『姉がいないからあんな店でも喜ぶはず。あれはお姉ちゃんにちょうどいい』と」店の中がざわめいた。母が両手で顔を覆う。リサは目を泳がせた。「い、言ってない。そんな言い方はしてない」ト倉さんは着物のたもとから使い込んだ手帳を取り出した。老眼鏡をかけ、ページを送る。「2月16日夜8時過ぎ、リサさんからお電話。以下、そのまま読みますよ。『古びた喫茶店の男なんて貧乏に決まってる。正式に会うだけ時間の無駄。あっちは相手がいないからあんな店でも喜ぶはず。あれはお姉ちゃんにちょうどいい』以上」「そんなの、書いたからって証拠になんて…」「電話を切った後、あまりに悔しくて書き留めたの。仲人を30年やってきて、あんなお断りは初めてでしたからね。それにね、リサさん」ト倉さんは老眼鏡を外し、まっすぐにリサを見た。「あなた、今この場で一体、何の話をする立場かしら?ついさっき、みんなの前で何をおっしゃったか、もうお忘れ?」ト倉さんは続けた。「断られた話をそのまま伝えれば光一さんが傷つく。だから言葉を選んで伝えたこと。それでも光一さんは察していたこと。その上で謝りに来た姉の方の人柄に触れてもう一度だけ人を信じてみると言ったこと。あなたが捨てた縁談をお姉さんが拾ったんじゃありませんよ。あなたが投げ捨てた人の値打ちを、お姉さんだけが見抜いたの。それだけの話です」仲人を30年勤めた人の言葉には、判決のような重みがあった。
そこへ、盆を胸に抱えたえりちゃんが声を消したように口を開いた。「あの、私からもいいですか?」えりちゃんはリサを指差しそうになる手を抑えて、震える声で言った。「さっき台所で、私、その方に言われました。『私は本当はここの奥さんになるはずだった女なの』って。『開いてる部屋を使わせてもらうから、鍵の場所を教えて』って。それから小寺さんにも同じことを言って、家賃の額をしつこく聞いてたって」小寺さんが気まずそうに頷いた。祝いの席の裏で、リサはもう住人気取りで動き回っていたのだ。「ち、違うの。あれはその…冗談で…」「えりちゃんは笑っていませんでしたよ。台所の隅で真っ青になって立っていました」私が言うと、えりちゃんは目を潤ませて頷いた。「26歳の子を脅すように窓際へ追い込んで、鍵の場所を聞き出そうとした。それが妹の言う冗談だった」リサ、あなたって人は。父がうめいた。母は椅子に沈み込むように座って、口元を半襟で抑えていた。50年の祝いの日に、末娘の正体を最前列で見せられている。2人の姿から目をそらしたくなるほど、それは残酷な光景だった。
リサは追い詰められた顔で店内を見回し、最後に私を睨んだ。「何よ、みんなして私を悪者にして。お姉ちゃんが黙って男を取ったのが先でしょ」もう限界だった。私は妹の正面に立った。48年間、一度も言えなかった言葉を、一つずつ口に出す。「私はあなたから光一さんを奪っていない。あなたが店の外観だけを見て、会いもせずに自分から断ったのを忘れたの?『私に代わりに行けばいい』と言ったのはあなたよ。『相手もいないんだし、場所だけは手に入るでしょ』って」「それはだって…あの時は…」「あの時は価値がないと思ったのよね。だから捨てた。価値があると分かったから返せという。あなたにとって人はずっと値札のついた品物なのよ」リサの目が泳ぐ。私は一歩も引かなかった。「教えてあげる。光一さんの値打ちは1年前から何一つ変わってない。変わったのはあなたに見えている値札だけ」「う、うるさいわね。綺麗事ばっかり」「綺麗事で言ってるんじゃないの?私はあの書類を見る前にこの人と結婚を決めたの。あなたは書類を見た後で『返せ』と言い出した。それが全部よ」店の中は静まり返っていた。私は最後の言葉を口にした。「今あなたが惜しんでいるのは光一さんじゃない。このビルと月300万でしょ」ズタズタにされるのが分かっていた。それでも、言わなければならなかった。リサの顔が真っ赤に染まった。「そうよ!それの何が悪いのよ!」開き直りの叫びが店中に響いた。「姉のくせに地味で取り柄もなくて、私の引き立て役だったくせに、私より幸せになるなんて許せない!」ああ、と思った。これが42年間の腹の底にあったものだ。悲しいくらいに、ストンと腑に落ちた。言いたいことはそれで全部。私は驚くほど冷静だった。込み上げるものはあったが、声は震えなかった。48年分の言葉が順番待ちをしていた。「あなた、お母さんの病院に一度でも付き添ったことがある?」「はあ?何よ、急に」「一度もないの。週に一度、20年。全部私。実家の水周りも掃除も、お世話も。あなたが『姉は便利だ』と言っていた時間の一つ一つが、私の人生だった」「そ、それはお姉ちゃんが勝手に…」「そうね、勝手にやってきた。家族だから、姉だからって。でもね、私は息を吸った。今日で『姉だから』という理由で我慢するのはやめる。あなたの知り合いも、送り迎えの当てにされるのも、引き立て役も、今日でおしまい。これから先、私たち夫婦の生活には一切関わらないで」「な、何それ?姉妹でしょ?家族でしょ?」「家族という言葉は、あなたが特をする時だけ出てくるのね」リサが何か言い返そうとした時だった。
それまで黙って聞いていた光一さんが、一歩前へ出て妹に向き直った。「リサさん、まずお伝えしておきます」光一さんの声は低く静かだった。怒り声よりもよほど重かった。「1年前、あなたに断られたことを私は恨んでいません。むしろ感謝しています。おかげでミカさんと出会えましたから」リサの顔に一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。それを見届けてから、光一さんは続けた。「ですが、財産を知った途端に手のひらを返し、妻を追い出して自分が収まろうとする人を、家族として受け入れることはできません」「て、手のひらなんて返してない。私はただ…」「何でしょう?『部屋を無料で使わせろ』『家賃の額を教えろ』『私は本来ここの奥さんのはずだった』。今日一日であなたが従業員と管理会社に行って回った言葉です」「な、何よ。ちょっと部屋の話をしただけじゃない。冗談も通じないの?」「冗談かどうかは、この1年のあなたの言葉が教えてくれます。『貧乏に決まっている』『あれはお姉ちゃんにちょうどいい』『コーヒーとトースト生活助けた商売』。よく覚えています。隣で直に聞いたものもあれば、妻の顔色から察したもの。今日この場で明かされたものもありますが」光一さんは一呼吸置いて、こう続けた。「実はミカさんからの一報を伺ってから、こうなる日が来るかもしれないと考えていました。お金に困った方が身内の資産を知った時、何が起きるか。私は一度経験していますので」そして彼は一枚の紙をテーブルに置いた。祝いの席には似合わない、事務的な文字が並んでいた。日付は3日前。顧問弁護士の名前が欄に記されていた。「先回りはこの人の得意だった。『今後、あなたの当店及びビルへの立ち入りをお断りします。妻と従業員の皆さんへの接触もご遠慮ください。万一、事実と異なる話を言い広めたり、営業を妨害するようなことがあれば、顧問をお願いしている弁護士を通じて正式に対応いたします』」出入り禁止、接触禁止、法的対応。一つ読み上げるごとに、リサの顔から表情が抜け落ちていった。ほんの1時間前まで「しけた商売」と見下していた店から、正式な書面で締め出される。皮肉というにはあまりにも出来すぎた結末だった。「何よそれ?大げさよ。たった一度縁談を断っただけで、そこまでするの?」最後の抵抗のつもりか、目に涙を溜めた。被害者の顔は妹の一番の得意技。だけど、光一さんには通じなかった。「断ったことが問題なのではありません」彼ははっきりと言った。「今のこの瞬間も、ミカさんの幸せを奪おうとしていることが問題なんです」店の中の誰も、リサを庇わなかった。父も母も、ト倉さんも。42年間、必ず誰かが庇ってくれた妹にとって、それは生まれて初めての景色だったと思う。「お父さん、お母さん、何とか言ってよ!私、追い出されるのよ!」すがる先を間違えていた。父は腕を組んだまま目を閉じ、母は畳んだ半襟を握りしめて首を横に振った。「リサ、今日という今日は、母さん、あんたが恥ずかしい」その一言がとどめだった。リサはコートをひったくるように掴んで、扉へ向かった。閉まる寸前、捨て台詞だけは忘れなかった。「覚えてなさいよ!みんなに言いふらしてやるから!」カウベルが乱暴に鳴って、静かになった。誰かのため息が聞こえた。杖のおばあさんが、誰にともなく言った。「マスター、奥さん。うちの孫にもね、ああはなるなって伝えますよ」張り詰めていた空気が、それでようやく緩んだ。両親は光一さんに何度となく頭を下げ、光一さんはその度に「祝いの日に申し訳ありませんでした」と逆に詫びた。誰も悪くない詫び合いほど、切ないものはない。
その言葉通り、リサは数日のうちに親戚や友人へ電話をかけまくったらしい。「姉が私の婚約者を奪った」「本来は私がビルオーナーの妻になるはずだった」「騙されたのは私の方だ」最初の数日は間に受ける人もいた。叔母から私に「あんた、それは本当なのかい?」と探りの電話が来たくらいだ。婚約者を奪うという筋書きは、口のない人たちの餌食だった。だが、嘘は長持ちしなかった。親戚には両親とト倉さんが本当の経緯を説明して回ってくれた。とどめはリサ自身の古いメッセージだった。縁談の当時、リサが友人に送っていた文面を、呆気にとられた友人がみんなに見せたのだ。「姉にはボロ喫茶店の男がお似合い。私はもっと金持ちを選ぶから」写真付きだった。あの日、車の中から撮った「こもれび」の外観と一緒に。「友達に送ってあげるの」と笑っていた一枚が、1年後に本人の首を絞めた。日付も残っていた。縁談を断った、まさにその週のものだった。自分から捨てた相手が資産家だと知って、姉から奪おうとした女。リサの評判は1週間でそこまで落ちた。仲の良かった友人にまで「あなた、昔から人を金で見るところがあったものね」と切られたという。被害者を演じることすら、妹にはもうできなくなった。
4月の初め、リサは実家に泣きついた。「450万の借金を何とかしてほしい」カードの引き落としが立て続けに来て、催促の封筒が郵便受けに並び始めていた。これまでの両親なら、黙って通帳を出しただろう。車の頭金も、バッグのローンも。そうやって何食わぬ顔で消えてきた。だが、今度ばかりは違った。祝いの席で両親は末娘の正体を見てしまっていた。その場には母の進めで、ト倉さんも同席したという。身内だけではまた甘やかされるからと。「リサ、ミカにこれを押し付けたつもりでいたのはお前だ」父はそう言ったそうだ。「捨てたと思った相手に、今度は媚びて姉から奪おうとした。その結果までミカや私たちに背負わせるな。自分で作った借金は自分で返しなさい」母も初めて首を縦に振らなかった。リサは泣き、怒鳴り、最後は昔のように甘えた声を出したそうだ。それでも2人は動かなかった。ただし、突き離すだけでもなかった。父は区役所の債務相談の窓口を調べて紙に書き、母は米と味噌を持たせた。生活は取り上げないけれど、金銭の援助はもうしない。それが両親の出した答えだった。長年リサのために崩れてきた両親の貯蓄は、これからの2人の老後のために使う。そう決めたのだと、後から電話で聞いた。「今まであんたにばかり我慢をさせてきたから」電話口の母の声は、詫びと決意が半分ずつだった。こうして妹は、生まれて初めて誰の助けもなしに自分の後始末と向き合うことになった。
それから聞こえてくる妹の消息は、全部が活報だ。5月には都心のマンションを引き払い、郊外の古いアパートに移ったという。ブランドのバッグも家具も、あの1カラットの指輪も、買い取り店に持ち込んだらしい。区役所の相談窓口で組み直した返済の計画は月々5万円ずつ。何年も先まで続くそうだ。昼はジムのパート。夜と週末は飲食店の厨房で働いていると聞く。華やかだったSNSのアカウントは、いつの間にか消えていた。写真に撮れるものだけでできていた幸せは、写真ごと消えてしまった。親戚付き合いからも、友人の輪からも、リサの名前は聞こえなくなった。古い喫茶店で働くなんて惨め。かつてそう笑った妹が、油の匂いのする厨房で頭を下げて皿を洗っている。誰かが仕組んだ罰ではない。妹が自分で選び続けた道の行き着いた先が、そこだった。
一度だけ、えりちゃんが見たと教えてくれた。閉店間際の夕方、仕事帰りらしいが、店の前で足を止めていたという。窓の中の明かりを眺めて、入り口に手を伸ばしかけて、やめて、帰って行ったと。立ち入り禁止を思い出したのか、それとも窓に見えた景色のせいか。「あれ」と呼んで捨てた場所が、大勢の人の笑い声で溢れている。その意味を、妹は歩道の暗がりでどう飲み込んだのだろう。確かめる術はもうない。それでいいのだと思っている。妹の人生の宿題は、妹が解くしかないのだから。
その頃の「こもれび」は、いつも人手でいっぱいだった。読書会は月2回に増えた。持ち寄りの会は商店街の恒例になった。えりちゃんの発案で始めたシガーリランチは、開店前から並ぶ人が出るほどになった。古い常連さんと若いお客さんが同じ椅子で笑っている。妹が3分で見下したこの店は、こんなにも多くの人に愛される場所になった。母は月に1度、通院の帰りに店へ寄るようになった。窓際の席でぜんざいと紅茶を頼み、杖のおばあさんとすっかり友達になっている。父も時々ついてきて、居心地悪そうにコーヒーを飲んで帰る。「うまいな」の一言だけは毎回置いていく。「あんたの顔を見に来てるのよ。本当はね」母は笑ってそう言った。実家との縁は、妹を除いて前よりずっと風通しが良くなった。
秋の初め、光一さんが一冊の通帳を私の前に置いた。「これ、君に返さないと」通帳の名義は私だった。結婚してすぐ、「手続きがあるから」と銀行の窓口に付き合わされた日があった。あの時に作った積み立て口座の通帳を、彼はずっと預かっていたのだ。開くと、毎月5万円の入金が、あの申し出の月から一度も欠かさず並んでいた。私が意地で払い続けた家賃を、彼は1円も使わず、私名義で積み立てていたのだ。「最初に家賃を払うと言ってくれた時、分かったんです。君は財産ではなく、僕と一緒に生活しようとしてくれているんだと。だから、このお金は使えませんでした」「もう…じゃあ、これどうするんですか?」「2人の旅行代にしませんか?京都の、本の多い宿がいいな」笑い合ってから、光一さんは真顔になっていった。「僕にとっての一番の財産は、このビルではなく君だよ」ずるい人だ。こういうことを、前掛け姿で言うのだから。「私もね、光一さん。妹の代わりとして始まった縁談だったけど、今の私は誰かの代わりじゃない」「知っています。自分で選んだ人と、自分で選んだ人生を歩いてる。それが今一番の自慢なの」「では、これからも家賃はお預かりします。2人の旅行積み立てとして」「よろしくお願いします。大家さん」そんな冗談を言い合える夜が、48年待った私のところへ、ちゃんと来てくれた。
翌朝も「こもれび」はいつも通りに開く。光一さんが鍵を開け、私が表の看板を出す。日に焼けた木の看板は、祖母の代から同じ場所で朝日を浴びてきた。妹が見下した色褪せも、ほろびた日差しも、そのままだ。変わったのは店の外側ではなく、ここに集まる人の数と、私の人生の方だった。磨き込まれた文字の上を指でそっとなぞる。「いらっしゃいませ」「おはよう。今日もいい天気だね」千葉のりは、杖のおばあさんだ。おはようの声とコーヒーの香りで、店の一日が始まる。今日は読書会の日で、午後には母も通院帰りに寄るはずだ。窓際の席に、秋の柔らかな日差しが届いている。この店の看板を、これからも2人で出し続けていきたい。私は静かにそう思った。



