還暦祝いの高級寿司店で、息子の嫁が突然、刺身の大皿をひっくり返して叫んだんです。「遺相老の分際で、トールの稼ぎを使って贅沢しないで!」って。最初はただ、ショックで何も言えませんでした。でも、その時、私はある決心をしていました。彼女に言い返すつもりはなかったけど、言わなければいけないことがあると分かっていたんです。

還暦祝いの高級寿司店で、息子の嫁が突然、刺身の大皿をひっくり返して叫んだんです。「遺相老の分際で、トールの稼ぎを使って贅沢しないで!」って。最初はただ、ショックで何も言えませんでした。でも、その時、私はある決心をしていました。彼女に言い返すつもりはなかったけど、言わなければいけないことがあると分かっていたんです。

手術を終えたばかりの自分の手のひらを、いつもの弁当屋の喧騒の中でじっと見つめた。ついさっきまで患者と向き合っていた指先が、今はこうして穏やかな店の空気に馴染んでいる。そのギャップに戸惑いを感じつつも、どこか心地よさが体を包んでいた。

「おかえりなさい、正斗君。今日は大変だったんでしょう?」

ゆ香が声をかけてくる。エプロン姿の彼女を見ると、自然と心が安らぐ。

「ああ、ちょっと難しい手術だったけど、無事に終わってよかったよ。患者さんも安定してるみたいだから、一安心だ」

そう言いながら、ふと彼女の様子がいつもと違うことに気づく。何かを言いたそうに、もじもつとしている。

「…どうしたんだ?」

「今度こそ、ちゃんと婚約指輪を受け取ってくれる?」

彼女の手のひらには、小さなケースが乗っていた。それは、まだ俺たちが大学時代に結婚を誓い合った証として用意していたはずのもの。震災と記憶喪失のゴタゴタの中で、すっかり行方不明になったかと思っていた。

「これ…まさか…」

「ずっと、大切に持っていたの。あなたが忘れても、きっとまた渡せる日が来るって信じてた」

彼女の言葉に胸の奥が熱くなる。そっとケースを受け取り、遠慮がちに開けると、中からは小さな光が煌めくシンプルな指輪が顔を出した。

「もちろん、今度は絶対に離さない。俺の方こそ、もう一度ちゃんと誓わせてくれ。結婚しよう、ゆ香。俺が一生君を守る」

その言葉に、ゆ香の瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。けれど、今度の涙は悲しみのものではなく、心からの喜びを称えた光だった。

俺はそっと彼女の手を取り、指輪をはめる。指輪は、すっかり馴染んだように、そこにあるべき場所へと収まっていった。

「一度は全部を投げ出した俺だけど、君と、おじさんとおばさんが導いてくれた。だからこそ、俺はまた歩き出せる。今度は医者としても、弁当屋としても、家族を支えていくよ」

ゆ香はそっと目元を拭いながら、込み上げる思いを押し隠すように微笑んだ。その笑顔には、今までの苦しみと不安が全て溶け、代わりに確かな幸せが宿っている。

「うん…私もずっとあなたと一緒にいたい。これから先、どんなことがあっても」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。俺はもう一度、はめたばかりの指輪を見つめ、ぎゅっと彼女の手を握りしめた。

厨房の奥から、心配そうに覗き込んでいた店主夫婦も、安心したように微笑んで「おかえり」と声をかけてくれる。その穏やかな空気に包まれると、胸の奥底までがふっと温まっていくのを感じた。

失ったものは確かに大きかったけれど、今はそれを乗り越えて、これからの道を一歩ずつ歩んでいける。大切な人の手を離さずに、守りたい場所を守りながら。新しい人生は、まだ始まったばかりだ。

俺は彼女の涙を指先でそっと拭い取ると、もう一度、違うようにゆ香の瞳を見つめた。そして、未来へと続く温かな光に向かって、二人で静かに歩き出していくのだった。

「もう我慢の限界よ。遺相老の分際でトールの稼ぎを使って贅沢しないで」

顔を赤くし、刺身が乗った大皿をひっくり返す、息子の嫁のカナ。青い顔で見つめる息子のトール。その様子を呆然と見つめる孫のハルト。

いつから、私たちはこんなに仲がこじれてしまったのだろう。以前は、仲良く暮らしていたのに。

私は意を決して、嫁に向き合うことにした。

「そういうことなら、カナさん。ここは割り勘にしましょう。でも、あなたに払えるかしら?」

私の名前は中島ふさ子。60歳。夫が他界してから、一人残された家で静かに日々を送っていた。

ある日、一人息子のトールが、私に同居を提案してきた。

「母さんももう年だし、一人だと心配だから、一緒に住まないか?」

「まだ、私一人でも大丈夫よ。それに、カナさんに悪いわよ」

カナはトールのお嫁さん。以前はキャリアウーマンだったが、ハルトを産んでからは専業主婦で家庭を守っている。

「母さん、頼むよ。実家が遠くて、何かあったら心配だからさ。カナとも話し合っていて、母さんと一緒に住むことを楽しみにしているんだ。ハルトの面倒も見てくれると助かるし。何より、また母さんと一緒に住みたいんだ」

トールからの強い要望で、私はトールの家族と同居することになった。トールは都心の進行住宅地にある人気マンションで暮らしていた。トールの職場にもアクセスが良く、カナの希望であったらしい。

こうして、私の新生活は幕を開けた。

「お母さん、ハルトを見ていただいてありがとうございました。それに、晩御飯まで助かります」

「いいのよ、カナさん。買い物、ゆっくりできたかしら?」

「はい、色々見ることができました。今日もお母さんの美味しい料理が食べられて嬉しいです。私、特にお母さんのぬか漬けが大好きで」

カナは、トールも好きなぬか漬けを好んで食べてくれていた。私の母の、そのまた母から受け継いだぬか床で作ってきたぬか漬けは、私も大好きだった。家族みんな大好きなレシピだが、カナもハルトも好きになってくれて嬉しかった。

正直、息子夫婦と住むのは不安に感じていた。嫁姑問題は、よくテレビで取り上げられるくらい、険悪なものになりやすいと思っていた。実際、私の友人の何人かは、いつも嫁姑問題で頭を抱えていた。

カナとの生活を始めるにあたって、姑である私がいることで、居心地を悪くしてもらいたくない。そう私は考え、できる限り彼女が暮らしやすいよう、ストレスがたまらないよう、ハルトを見てあげたり夕飯の手伝いを心がけた。その甲斐あってか、カナとは日に日に打ち解け始めた感じがした。

「そうそう、ハルトちゃんすごいわね。英語や漢字が読めてて、びっくりしたわ。今の子ってすごいわね」

「ハルトには将来困って欲しくないので、学びに力を入れている幼稚園に通わせてるんです」

「いっぱい勉強できて嬉しいね、ハルト」

「うん。僕、楽しいよ」

カナは本当に教育熱心だった。ハルトの部屋にも、たくさんの教材が並んでいる。今の子供はすごいなと、改めて感じた。だが時々、カナの教育熱心さが目に余ることもあった。

三人でスーパーマーケットで買い物をした日のことだった。

「おばあちゃん、これ食べたい!」

ハルトはポテトチップスの袋を手に持ち、私に渡してきた。ハルトは日頃から、カナの手作りのお菓子ばかり食べていた。

「じゃあ、買おうか」

私がそう言うと、ハルトはパッと笑顔になった。カゴに入れようとした時、カナが私の手を止めた。

「お母さん、市販のものは添加物が入っていて体に良くないんです。ハルトのおやつは、私が用意しているんで」

カナはそう言うと、ポテトチップスを棚に戻した。ハルトは悲しそうに、棚に戻されたポテトチップスを見ていた。ポテトチップスくらい、たまには食べさせてもいいんじゃないかと思ったが、私が意見するのも気が引けたので、何も言わなかった。

また、ある日の幼稚園の帰り道。カナと二人でハルトを迎えに行った時があった。ハルトが帰り道の途中にある公園を、羨ましそうに見ていた。そこには、ハルトと同じぐらいの子供たちが砂場で泥んこになりながら、トンネルを一生懸命作っていた。

「僕も、公園でお山のトンネル作りたいな」

「だめよ。これからスイミングがあるでしょ。間に合わないじゃない」

カナが語気を強めて言うと、「分かった」と、ハルトは残念そうにそう言うと、自宅に向かって歩き始めた。

ハルトは何かと我慢してばかりで、可哀想に思えた。ハルトが習い事に行った後に、カナに勇気を出して意見を言ってみた。

「カナさん、あの、ハルトちゃんのことで、ちょっといいかしら?」

「母さん、どうしましたか?」

「あのね、ハルトちゃんも、もっと自由にさせたらどうかしら? 好きなもの、たまにでいいから食べさせたり、遊びに行かせたり。もっと伸び伸びしてもいいと思うの」

なるべく言葉を選んで話した。ドキドキしながら待っていると、カナは「はぁっ」と、私に聞こえるように大きなため息をついた。

「お母さん、これはハルトのことを思ってやってるんです。今後の将来のためを思ってやっているのに。口出しは申し訳ないのですが、遠慮してもらえませんか? でも、お母さんはハルトの将来が関係ないから、そんな無責任になれるんですよ。今はあれくらいやらないと、落ちこぼれになるんです。そんなことも分からない人が、私たちの教育方針に口を挟まないでください」

急にカナは顔を赤くし、私を睨みつけるように叫んだ。私はそれに怯み、何も言い返すことができなかった。

この日を境に、私とカナの関係は日々悪化していった。カナは分かりやすく、私を拒絶し始めた。私がご飯を作れば「塩辛くて体に悪い」と、ハルトに私のご飯を食べさせなかったり、洗濯物も分けられた。家庭内別居のようだった。すごく阻害感を感じた。トールやハルトはこの異変に気づき、カナに意見をしていたけれども、カナは「お母さんには私たちの生活が合わないみたいだから」と言い放ち、聞く耳を持たなかった。

せっかく仲良くなれたと思ったのに、すごく悲しかった。それから仲が戻ることもなく、ある日、私が漬けたぬか漬けを食べようと冷蔵庫を見たが、見当たらない。あれは、トールも私も小さい頃から漬けていた、大切なぬか漬けだ。見当たらなくて、思い切ってカナに話しかけてみた。

「カナさん、申し訳ないんだけど、私のぬか漬け、見てないかしら?」

「ああ」と、カナは不機嫌そうに答えた。

「あれ、臭いから、昨日捨てたんです。冷蔵庫に入れとくのも邪魔だったので」

冷たく言い放った。大切にしていたぬか漬け。ぬか床を捨てられて、すごく悲しかった。カナも最初は美味しそうに食べていたのに。言いたいことはあったが、私はこれ以上悪化させまいと、ただ静かに耐えた。

カナの機嫌が悪いまま、季節はどんどん移り変わっていく。冬が近づいてきたので、得意の編み物をしようとしたある日。トールとハルトに手編みのセーターを作ろうと、毛糸を手芸屋でどっさりと買ってきた。私が編み物をしていると、ハルトがやってきて「おばあちゃん、何してるの?」と無邪気に話しかけてきた。

「寒くなってきたから、ハルトちゃんとパパにセーターを作ろうかと思って、編み物をしてたんだよ」

「わあ! おばあちゃん、嬉しい! 楽しみ!」

ハルトが喜んでいるのを見ていると、私も嬉しくなる。だが、そこにカナがやってきた。

「え、今時、手編みのセーターって本気ですか? 思いだけで邪魔になるだけじゃないですか? どうせすぐゴミになるから、無駄なことしないでください。こんなに毛糸も買ってきて。これ、トールのお金ですよね? 一生懸命稼いできたお金を、ゴミに使わないでもらいますか?」

カナはそう言うと、ハルトを連れて、ハルトの習い事へ行った。何をしてもカナの機嫌を損ねてしまい、私は同居したことを後悔した。意地でセーターは作り終えたが、トールやハルトに渡せず、タンスの中にしまった。私とカナの仲は、もう修復不可能になっていた。

私の誕生日が近いある日、トールから話があると呼ばれた。

「母さん、還暦祝いに、美味しいものを食べに行こう」

「そんな、悪いわよ」

「大丈夫だよ、トール。もう予約したから、行こう。カナも、うまく言うからさ。それに母さんには本当に感謝してるんだ。こんな時しか言わないから、言わせてくれ」

「気持ちだけでいいわよ。ありがとうね」

「おばあちゃん、ご馳走食べに行こうよ!」

隣で聞いていたハルトがお願いしてきた。ハルトが喜んでくれるなら、嬉しい。カナにはトールが説得をしてくれるとのことだったので、私は還暦祝いに出席することにした。

当日、トールは家族みんなを、地元で有名な高級寿司店に連れて行ってくれた。ハルトは初めての豪華なお寿司、お刺身を喜んで食べ、「美味しい、美味しい」と喜んだ。私も久しぶりの豪華なお寿司、お刺身が嬉しいのはもちろん、久しぶりに家族と同じ食卓を囲めて感動した。しかし、カナだけは不機嫌そうに食べていた。

カナは箸を音を立てて置き、私たちに向かって話した。

「こういう贅沢はやめてよね。特にお母さんは、無駄遣いが多いんだから」

「どういうことだ?」

トールが不思議そうに聞き返す。

「お母さんが、いらないゴミばかり買ってくるから、毎月出費がかさむのよ。ハルトはこれからもっとお金がかかるのに。大体、お母さんが来てから生活費が重なるのに、無駄金使ってるっていう自覚あるのかしら。もっとトールのお金を大事に使って欲しいわ」

「お前、母さんに向かって、そんな言い方はないだろう。カナ、母さんに助けてもらっていることがたくさんあるじゃないか」

「はあ。何か助けてもらってる? 私、ご飯も洗濯も自分でやってるけど、逆に私がお母さんの面倒を見てあげてるのよ。いつ倒れるか分からないから嫌なのに、一緒に住んであげてるんじゃない。毎日ストレス溜まって、やってらんないわ。それなのに、好き勝手ゴミばっかり買ってきて。もう少し自覚して欲しいわね。自分が厄介者だってこと」

「お前、母さんに向かってそれはないぞ。言っていいことと悪いことがあるだろう」

「うるさい! 私だって我慢の限界なのよ! 遺相老の分際でトールの稼ぎを使って贅沢しないで!」

カナは顔を赤くして、刺身の大皿をひっくり返した。

シンと静まり返る店内の空気。赤い顔で肩で息をし、興奮しているカナ。トールは反対に、青い顔をしている。ハルトはポカンと、信じられないと言ったような表情で見つめる。

私も、腹を括らなければいけない。深いため息をつき、私はカナに話しかけた。

「カナさん、ごめんなさい。カナさんがここまで私を嫌っていたなんて、思わなかったわ。ごめんなさいね。今後のことは、また改めて話しましょう。それと、今まで誤解をしていたかもしれないけれど、私は一度もトールのお金をもらったことはないわ。私が今まで買ったものは全て、今までの貯蓄や、夫が残してくれたお金を使ってきたの。もし疑うなら、今日のご飯は、私とカナさんで割り勘にしましょう。カナさん、それでいいわよね。でも、失礼だけど、支払う余裕があるかしら」

私がそう言うと、カナの赤かった顔は一瞬で青くなった。気持ちが悪いかもしれないが、ここではっきりさせなければいけないと思った。

カナはお金に余裕がない。私はトールの稼ぎを大体知っていた。それにしては、カナはいつも「お金がない」とぼやいていた。私は疑問に思い、カナがハルトを通わせている幼稚園、塾、スイミングスクールの料金を調べてみると、相当な金額がかかっていたのである。トールの給料でやりくりしていけそうになかった。

「私が言うのは悪いと思うけど、カナさん、かなりの金額をハルトちゃんの学費や習い事にかけているわよね。おそらく、足りないんじゃないかしら」

「カナ、そうなのか?」

トールが信じられないと、カナを見つめる。私が問い詰めると、カナは俯き、静かなまま肩を震わせていた。数分後、口を開いた。

「足りない分は、私が働いていた時に貯めた貯金を切り崩して、補填していた。子供たちにいい教育を受けさせるためなんだから」

カナは震える声で話す。私は、そんなカナの方にそっと手を置いた。

「カナさん、カナさんがハルトちゃんのことを思ってしているのは分かるわ。でもね、大事なことは、ハルトちゃんが本当にやりたいのか、好きでやっているかが大事なのよ」

私はハルトの方に顔を向ける。呆然としていたが、目が合うと、少ししてから話した。

「僕ね、ママが喜んでくれるから、いっぱい頑張ったんだ。いっぱい、いっぱい頑張ったんだけどね。あのね、僕ね、本当はね、もっと友達と遊びたいんだ。それとね、ママともっと一緒に遊びたい」

話しながら、だんだんとハルトは目から涙がポロポロと落ち、話が終わると「わあっ」と泣き出した。

カナはハルトの言葉を聞いて、ぎゅっとハルトを抱きしめた。そして、カナも大きく肩を震わせ、泣いていた。ハルトが今まで我慢していた気持ちを吐き出してくれて、私は思わずほっとした。もう、これなら大丈夫。

「さあ、せっかくのご馳走なんだから、泣いてばかりでもったいないわ。みんなで仲良く食べましょう。今日は、おばあちゃんの誕生日をいっぱい祝ってね」

「母さん…、俺に支払わせてくれ。おばあちゃんを家族に迎えてくれて、ありがとうね」

「ハルトも、カナも、目が真っ赤になっているわよ」

ハルトは鼻水をすすりながら、元気に叫んだ。

「食べる!」

帰る時に、刺身をひっくり返したり叫んだり、迷惑をかけたことを、カナさんと一緒に謝罪すると、お店の方は「またよければ来てください」と、気を使ってか、怒りの言葉はなかった。ハルトはカナに向かって「食べ物、無駄にしちゃだめでしょ!」と得意げに言った。カナはハルトを見て、「そうね。お母さん、悪かった。ごめんね」と言って、頭を優しく撫でていた。

それから数日後、カナから謝罪をされた。

「失礼なことをした。取り返しのつかないことをした。最初は、幼稚園に通わせるだけでいいと思っていたんです。でも、周りのママ友たちの話を聞いて、まだまだ足りないと思ったんです。ハルトのために、やれることは全部やってあげたいって、無理をしていたのかもしれません」

カナも、一人で抱え込んで戦っていたのだ。

「カナさん、辛かったわね」

「お母さん、勝手なお願いですが、これからも一緒に暮らしていただけませんか? ハルトには、お母さんが必要なんです。それに、私にも。また私が暴走したら、この間みたいに叱ってください」

「カナさん、ありがとう。これからは、家族みんなでハルトちゃんを育てましょう。ハルトちゃんのやりたいことを優先してね」

「はい」

涙ぐみながら、カナは力強く頷いた。

あれから、どれくらい経っただろう? ある日、私はカナと一緒にハルトを迎えに、幼稚園に向かった。カナはハルトを、近所の普通の幼稚園に転園させた。もちろん、ハルトにも了承を得た。今までの、家計を切り詰めての詰め込み教育はやめた。しっかりハルトにやりたいことを聞きながら、のびのび育てることにしたのだ。ハルトは前よりも友達と遊んだり、自宅で私やカナとお話する時間も増え、前よりも笑顔が溢れるようになった。

「お母さん、今日、サトル君と砂場で遊んでいい?」

「サトル君のお母さんがいいって言ったら、いいよ」

サトルの方を見ると、お母さんが「行ってらっしゃい」と言ったようで、サトルは手で大きな丸をジェスチャーで作った。幼稚園の近くの公園に行くと、二人は一目散に走っていった。

「トンネル作るぞ!」

「ハルト、走ると危ないから、気をつけなさい!」

「はーい」

カナは「危なっかしいわ」とふっとため息をつき、一緒にベンチに腰かけた。

「お母さんに言われなきゃ、あの子のこんな笑顔を見れなかったんでしょうね。本当、母親失格だわ」

「私も、トールにとって、いい母親だったかは分からないわ。母親もまた、子供と一緒に学び、成長するものじゃないかしら。だから、カナさんも、まだまだこれからよ。私はもう、ハルトにとってカナさんは、いい母親だと思うわ」

「お母さん、本当にごめんなさい。私、本当に最低でした。お母さん、これからも、私にたくさんのことを教えてください」

「当たり前じゃないの? こちらこそ、カナさん。これからもよろしくお願いします」

カナは少し微笑みながら、私に手を差し出してきた。私はその手を、しっかりと握り返した。

「ぬか漬け?」

「え?」

「ぬか漬けが、どうしたの?」

「お母さんのぬか漬けが、食べたいです。本当言うと、私、あのぬか漬けが好きすぎて、夜中によく食べていたんです」

「あ、でも、私のせいで、ぬか床が…」

そう言うと、カナは悲しそうに眉をひそめた。私はカナの手を、また少し力を入れて握り返した。

「確かに、もう前のぬか床はないわ。でも、また私たちのぬか床を作って、ぬか漬けを作ればいいだけじゃない」

「そうだわ! 今日、帰りにスーパーに寄っていきましょう!」

「はい」

「ハルト! もう少したら、おばあちゃんとスーパーに寄って帰るから、ちゃんと手を洗ってね!」

カナが大きな声で言うと、それよりも大きな「はーい!」という返事が帰ってきた。

私たちの生活は、始まったばかりだ。これからまた、家族として、色々な新しいことを紡いでいこう。

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