法的手続きの書類には、淡々とした事務的な言葉が並んでいた。拒否に伴う変換請求、金額2500万円、7日以内に返答なき場合は法的手続きを開始します。
正一が震える手でその書類を見つめていた。これが息子に届くのか。届かなければいけないのよ。約束を破ったらこういう結果になるということを。川村弁護士が立ち上がり、私たちに向かって言った。お二人の覚悟は本物ですね。私も全力でサポートします。ただし、一つだけお伝えしておきたいことがあります。法律は勝ち負けを決めるものですが、心の傷までは癒せません。それでも進みますか。
私は少しの間沈黙した。そして静かに答えた。傷はもう追っています。だからこそ、筋を通したいのです。川村弁護士は深く頷いた。分かりました。それでは正式に受任いたします。
事務所を出る時、私は空を見上げた。青く澄んだ空がどこまでも広がっていた。誠一が隣で言った。すえ、俺は君についていくよ。最後まで。ありがとう。これは二人の戦いだから。
その日の夕方、内容証明郵便は発送された。息子夫婦の元へ静かに、しかし確実に届くことになる。私たちは家に戻り、静かに夕食を取った。いつもと変わらない食卓だったが、空気は明らかに違っていた。誠一が箸を置いて言った。もし涼から電話がかかってきたらどうする?私は少し考えてから答えた。事実だけを伝える。感情的にはならない。ただ、契約書に書いてある通りだと言うだけ。それができるか?息子の声を聞いて心が揺れないか?私は深く息を吸った。揺れるわ。でも、それでも進むの。彼らに教えなければいけないことがあるから。
その夜、私はベッドに横になりながらこれからのことを考えていた。息子夫婦がどう反応するのか。怒るのか、驚くのか、それとも無視するのか。どんな反応であっても、私は揺れないと決めていた。これは復讐ではなく、約束を守らせるための行動。そして、親として最後に教えるべきことでもあった。
内容証明郵便が発送されてから3日が経った。私は普段通りの生活を送っていた。朝は庭の手入れをして、午後は読書する。正一も落ち着いた様子で新聞を読んだり散歩に出かけたりしていた。でも二人とも、心のどこかで息子夫婦からの連絡を待っていた。
そして4日目の午後、ついに電話が鳴った。正一が受話器を取ると、涼の慌てた声が聞こえてきた。私も近くによってやり取りを聞いていた。涼の声が電話口から響く。父さん、これは一体どういうことだ?2500万円の変換請求って、何の冗談だ?誠一は落ち着いた声で答えた。冗談じゃない。契約書に書いてある通りだ。そんなもの覚えてないよ。覚えていないのは、お前が読まなかったからだ。署名もしただろう。電話の向こうでさやの声も聞こえてきた。お父さん、これは脅迫ですよ。こんなの法的に無効です。誠一は声の調子を変えずに答えた。弁護士に確認済みだ。完全に有効だそうだ。涼が必死の声で言った。父さん、待ってくれ。俺たちそんな大金、すぐには用意できないよ。それはお前たちの問題だ。期限は7日間。それまでに回答を書面で送ってくれ。さやの声が再び聞こえてきた。こんなの酷すぎます。同居なんて口約束じゃないですか。誠一は静かに、しかしはっきりと言った。口約束ではない。契約書に明記されている。お前たちが読まなかっただけだ。
私は誠一から受話器を受け取った。母さん、母さんもこんなこと賛成してるのか?私は深く息を吸い、冷静に答えた。涼、あなたたちは約束を破ったの。私たちを裏切ったのよ。裏切ってなんか…では、なぜさやさんのご両親が私たちの部屋にいるの?なぜあなたは黙って目をそらしたの?涼は言葉に詰まった。さやが電話を変わったようで、彼女の声が聞こえてきた。お母さん、これは誤解なんです。私たちは同居を拒否したわけじゃなくて…私は静かに言った。誤解ではないわ。あなたは私の両親のために、とはっきり言った。私たちの部屋はないと。それは一時的な…一時的かどうかは関係ないの。契約違反は契約違反よ。さやの声が震えていた。でも、こんなの理不尽です。親なのに、そんなことするんですか?私は少しの間沈黙した。そして静かに言った。親だからこそ教えなければいけないこともあるの。約束を破れば、その代償があるということを。7日以内に書面で回答してください。それ以上の話し合いは弁護士を通してお願いします。そう言って、私は電話を切った。誠一が心配そうに私を見た。大丈夫か?私は深く息を吸い、頷いた。ええ、これでいいの。
その日の夜、再び電話が鳴った。今度は矢野大輔からだった。白川さん、これはあまりにも非常識ですよ。娘夫婦を困らせて、一体何がしたいんですか?誠一が電話に出た。非常識なのは、約束を破ったそちらです。約束?そんなものは口約束でしょう。法的拘束力なんてありませんよ。契約書に明記されています。弁護士にでも確認してください。ふざけるな。こんなもの、裁判になったって通るわけがない。誠一は冷静に答えた。それなら、裁判で決着をつけましょう。こちらは準備ができています。大輔が言葉に詰まった。失礼します。そう言って誠一は電話を切った。
翌日、涼とさや、そして矢野夫妻が揃って私たちの家を訪ねてきた。インターフォンが鳴り、モニターには4人の姿が映っていた。正一が玄関に出ると、4人は険しい表情で立っていた。さやが声を張り上げた。お父さん、話し合いをさせてください。こんなのあまりにもひどすぎます。正一は冷静に答えた。話し合いは弁護士を通してください。直接お話することはありません。大輔が前に出てきた。何を偉そうに。たかが援助で、こんな横暴なことが許されると思ってるのか。正一は一歩も引かずに言った。援助ではありません。契約です。法的根拠があります。涼が必死の表情で言った。父さん、母さん、お願いだ。話を聞いてくれ。私も玄関に出た。涼が私を見て、さらに懇願するように言った。母さん、こんなことしないでくれよ。俺たち本当に困ってるんだ。私は静かに答えた。困っているのは、あなたたちが約束を破ったからよ。さやが涙を浮かべながら言った。でも、私たち本当に知らなかったんです。契約書にそんなこと書いてあるなんて。読まなかったのはあなたたちの責任です。さおが口を挟んだ。あなた方、娘を追い詰めて楽しいんですか?親のすることじゃないでしょう。私は矢野夫妻を見つめた。私たちを追い出そうとしたのはどちらですか?さおは言葉に詰まった。正一が静かに言った。これ以上の話し合いは無駄です。7日以内に書面で回答してください。こう言って私たちは玄関の扉を閉めた。4人は外で何か話していたが、やがて帰っていった。
私はソファーに座り、深く息を吐いた。正一が隣に座り、私の手を握った。辛かったな。ええ、でもこれでいいの。揺れてはいけないわ。数日後、川村弁護士から連絡があった。相手方が弁護士を立てて、正式に交渉の場を設けたいと申し入れてきたとのことだった。私たちは川村弁護士の事務所でその交渉に臨むことになった。
会議室に入ると、向かい側の席にはすでに5人が座っていた。さや側の弁護士とさや、そして矢野夫妻だ。彼らの表情は前回よりもさらに険しく、疲弊した様子が見て取れた。さやは目の下に隈ができていて、ほとんど眠れていないようだった。涼は俯いたまま私たちの顔を見ようとしない。矢野大輔は腕を組み、明らかに苛立ちを隠せない様子だった。私たちは川村弁護士の隣に座った。会議室の空気は張り詰めていた。
さや側の弁護士は40代半ばくらいの男性で、少し攻撃的な印象を受けた。名刺には「横山法律事務所 弁護士 横山達也」と書かれていた。彼は資料を机に広げながら開口一番こう言った。まず申し上げておきますが、今回の変換請求は極めて不当なものです。契約書の特記事項については十分な説明がなされておらず、説明義務違反に該当する可能性があります。川村弁護士は落ち着いた声で反論した。説明不足とのことですが、契約書には「内容を理解の上で署名する」と明記されています。署名前に内容を確認するのは契約当事者の義務であり、これは不動産取引における基本中の基本です。横山弁護士は資料をめくりながら続けた。しかし、こうした重要な事項については、口頭での説明が必要だったはずです。不動産会社の担当者もこの部分を強調していなかったと聞いています。契約の公平という観点からも、この条項の有効性には疑問があります。不動産会社の説明義務と、契約当事者の確認義務は別問題です。署名捺印がある以上、契約内容に同意したと見なされます。これは民法の基本原則であり、過去の判例でも確立されています。それでも、消費者保護の観点から…消費者保護法は事業者と消費者の間の取引に適用されるものです。今回は家族間の援助契約であり、適用範囲外です。
二人の弁護士が冷静に、しかし鋭く言葉を交わしていく。法律用語が飛びかい、私には難しい部分もあったが、川村弁護士が優位に立っているのは感じ取れた。横山弁護士が少し焦った様子で言った。では、仮に契約が有効だとしても、変換の方法については協議の余地があるはずです。一括返済ではなく、分割での返済、あるいは物件売却後の残金精算という形を認めていただけませんか?それが現実的な解決策だと思います。川村弁護士は首を横に振った。契約書には全額変換と明記されています。分割返済や段階的返済の条項はありません。契約に定められた内容を履行していただくのみです。しかし、現実的に考えて一括返済は不可能です。物件を売却するにしても時間がかかります。少なくとも猶予期間を設けるべきではないでしょうか。それは承知しています。ですが、契約違反をしたのは相手方です。こちらが譲歩する理由はありません。
その時、さやが耐えきれなくなったように声をあげた。でも、私たちは本当に知らなかったんです。こんな大事なこと、誰も教えてくれなかったじゃないですか。私たち、契約書なんて細かく読まなかったんです。私は落ち着いた声で言った。契約書を読まなかったのは、あなたたちの責任です。さやは涙を浮かべながら続けた。お母さん、お願いです。私たち本当に困ってるんです。2500万円なんて、とても用意できません。家を売ってもローンが残るんです。私たち、どうやって生きていけばいいんですか?それは契約を破った結果です。涼が必死の表情で顔をあげた。母さん、俺たちにも生活があるんだ。こんなことされたら、家を失うだけじゃない。仕事だってどうなるかわからない。私は涼の目を見つめた。それでも、約束は守らなければならないの。涼は俯いた。彼の肩が小刻みに震えているのが見えた。
大輔が怒りを込めて言った。あなた方は娘夫婦を追い詰めて、何がしたいんです?こんなの親のすることじゃない。血も涙もないんですか?正一が答えた。血も涙もないのではありません。ただ筋を通しているだけです。さおも加わった。でも、これはあまりにもひどすぎます。娘たちはただ私と一緒に住みたかっただけなんです。それの何が悪いんですか?私は矢野夫妻を見つめた。それなら、私たちを排除する必要はなかったはずです。3LDKの家です。工夫すれば一緒に住むことは可能だったはずですよ。さおは返す言葉がなかった。
横山弁護士が資料を閉じ、別の角度から攻めてきた。では、同居拒否という点についてですが、これは解釈の問題ではないでしょうか。一時的に別居したとしても、将来的に同居する意思があれば契約違反には当たらないのでは?一時的とおっしゃいますが、当日の状況を見る限り、明確な排除の意思がありました。さやさんのご両親がすでに入居しており、白川夫妻の部屋はないと明言されています。それは誤解であり…誤解ではありません。複数の証人もあり、状況証拠も揃っています。さやが泣きながら言った。でも、私たち本当にそんなつもりじゃなかったんです。ただタイミングが悪くて、説明が足りなかっただけで…私は答えた。タイミングの問題ではないわ。あなたは「この家にはお二人の部屋はありません」とはっきり言ったのよ。一方的だと言うなら、なぜそう説明しなかったの?さやは何も言えなかった。涼が震える声で言った。母さん、俺が悪かった。全部、俺の責任だ。だから、さやを責めないでくれ。私は涼を見つめた。涼、責任を取ると言うなら、契約を履行しなさい。涼は顔を覆った。
誠一が言った。私たちは長年、涼を支えてきました。でも、支えることには限界があるんです。大輔が声を荒げた。だからと言って、こんな横暴が許されるとでも…私は大輔を見つめた。許されないのは、約束を軽んじることです。その場に重い沈黙が落ちた。誰も次の言葉を見つけられないまま、時間だけが過ぎていった。
横山弁護士が資料を閉じた。分かりました。こちらとしても法的に争う準備はあります。しかし、裁判になれば時間も費用もかかります。双方にとって不利益です。最後にもう一度お尋ねしますが、和解の道を探ることはできませんか?川村弁護士は私たちを見た。私は首を横に振った。和解の余地はありません。そして川村弁護士が横山弁護士に向かって言った。こちらの意思は明確です。全額変換、それ以外の選択肢はありません。横山弁護士はため息をついた。それでは、裁判所の決着ということになりますね。そういうことになります。さやが泣き崩れた。どうして、どうしてこんなことに?私は答えた。人は大切なものを軽く扱った時、大切なものを失うのです。涼が顔をあげた。母さん、俺は…私は涼の言葉を遮った。もう遅いのよ、涼。涼は何も言えなかった。彼の目には涙が浮かんでいた。
正一が立ち上がり、私も立ち上がった。私たちは会議室を出た。廊下を歩きながら、私は息を吐いた。全身から力が抜けていくような感覚があった。正一が隣で言った。これでいいんだよな。ええ、これで良かったのよ。川村弁護士が声をかけた。お二人とも、よく耐えられましたね。私は答えた。これが私たちにできる最後のことですから。川村弁護士は頷いた。それでは、裁判の準備を進めます。私たちは事務所を後にした。外に出ると、秋の風が頬を撫でていった。空は高く澄んでいた。誠一が私の手を握った。すえ、後悔はないか?私は空を見上げた。ないわ。私たちは正しいことをしたの。そうだな。私たちは家路に着いた。心は重たかったが、後悔はなかった。これが親として最後にできることだった。
それから3ヶ月が経った。冬の訪れとともに、庭の木々は葉を落とし始めていた。私たちは穏やかな日々を過ごしていた。午前中は庭の手入れをして、午後は読書する時間が戻ってきた。長い間忘れていた、自分たちのための時間だった。ある日の午後、川村弁護士から電話があった。白川さん、最終的な報告があります。事務所にお越しいただけますか?私たちは翌日、川村弁護士の事務所を訪ねた。会議室に通されると、川村弁護士は穏やかな表情で迎えてくれた。お二人とも、お疲れ様でした。物件は売却で処理されました。残債も整理済みです。私は短く答えた。分かりました。川村弁護士は資料を見せながら説明を続けた。変換金については、法的に確保できる範囲で回収が完了しました。売却額から住宅ローン残債を差し引いた金額が、こちらに変換されます。正一が尋ねた。それで、いくら戻ってきたんですか?約1800万円です。残念ながら全額ではありませんが、法的に可能な範囲での最大額です。私は静かに頷いた。そうですか。川村弁護士は少し間を置いてから続けた。それと、その後の話もお伝えしておきます。涼さんご夫婦は、別居されたそうです。私は表情を変えず、ただ聞いていた。さやさんは実家に戻られました。矢野夫妻との関係も、途絶えたと聞いています。誠一が少し驚いた様子で言った。別居ですか?はい。涼さんは、地元の小さな工場で働き始めたそうです。私はため息もつかず、ただ静かに受け止めた。そうなるでしょうね。川村弁護士が私を見た。お二人は、後悔されていませんか?私は少し考えてから答えた。後悔はしていません。これが必要なことだったと思っています。誠一が少し心配そうに言った。少し、やりすぎたかな?私は首を横に振った。いいえ、私たちは筋を通しただけです。川村弁護士は深く頷いた。お二人の覚悟は本物でしたね。最後まで揺れることなく、筋を通されました。それが、親としてできる最後のことだったんです。きっと、お二人は正しいことをされたと思います。私たちは川村弁護士に礼を言い、事務所を後にした。外に出ると、冬の気配を感じる風が吹いていた。誠一が私の手を握った。すえ、これで良かったんだよな。ええ、これで良かったのよ。でも…考えると…私は誠一の言葉を遮った。考えても仕方ないわ。涼は自分で選んだの。その結果を受け入れるしかないのよ。誠一は黙って頷いた。私たちは静かに家路に着いた。心は複雑だったが、後悔はなかった。これが私たちが選んだ道だった。そして、この選択を後悔しないと心に決めていた。
それから、私たちは穏やかな日々を取り戻していた。ある日の午後、郵便受けに一通の封筒が届いていた。差出人は涼だった。母さん、父さん、本当に申し訳ありませんでした。今は小さなアパートで暮らしています。少しずつでも、返していきます。私は手紙を静かに封筒に戻した。正一が尋ねた。返事は出さないのか?答えはもう渡したもの。あの契約書がそうだったのよ。私は窓の外を見ながら、ゆっくりと言葉を続けた。支えることと、依存されることは違うの。善意を当たり前だと思う人は、いずれ自分を見失う。これを教えるのも、親の役目だったのよ。誠一は私の手を握った。君は強いな。強くなんかないわ。ただ、やるべきことをやっただけ。風が庭を通り抜け、葉が揺れていた。戦いは終わった。でも、私が守ったのはお金でも家でもない。人としてのけじめだった。
誠一が庭を眺めながら言った。これからは、俺たちの人生を生きよう。私は微笑んだ。ええ、そうしましょう。33年間の支えは終わった。これからは、自分たちのための時間だ。



