朝の五時、まだ薄暗い地下駐車場に掃除用モップの音が響く。私はいつも通り、この本社ビルの清掃員として一日を始めていた。「今日も早いね、立花さん。」警備員の小玉さんが、いつものように缶コーヒーを差し出してくれる。六十代半ばの小玉さんは、このビルに三十年近く勤めているという。私は曖昧に微笑んで、コーヒーの温かさを両手で包み込んだ。父の入院費を稼ぐため、この仕事は絶対に失えない。そんな思いだけが胸の支えだった。
その日も私は指示通り、最上階の会長室の清掃に向かった。部屋には高雪会長がいて、書類に目を通している。邪魔にならないよう、私は窓枠の埃を丁寧に拭いていく。掃除機のノズルを机の下に伸ばした瞬間、微かな電子音が聞こえた。一定の間隔で鳴るそれは、ブラインドのモーター音とは明らかに違う。私は掃除機の電源を切り、そっと膝をついた。机の裏、配線の隙間に黒い小さな装置が張り付いている。心臓が大きく跳ねた。
「会長、机の下に何か仕掛けられています。」
私は周囲に聞こえないような声で伝えた。高雪会長の眉がぴくりと動く。無意識に私は指先で机を軽く叩いていた。トントントン、ツー。その瞬間、会長の顔から血の気が引いた。「今の合図、どこで覚えた?」震える声で問いかけられる。「父に小さい頃教わりました。」「お父さんの名前は?」「立花周一です。」その名を聞いた瞬間、高雪会長は崩れるように椅子へ座り込んだ。何が起きているのか、私にはさっぱり分からない。
同じ頃、本社二十八階の副会長室で、郷一郎副会長がモニターの前に座っていた。会長室の盗聴サーバーから届く音声をヘッドフォンで確認している。今朝の録音に、聞き慣れない物音が混ざっていた。トントンツー。続いて高雪会長の震える声が入っている。「今の合図どこで覚えた?」郷一郎の指先が止まった。そのリズムに覚えがある。三十三年前、工場の非常階段で幾度となく耳にした合図だった。あの夜、急行工場のボイラーが爆発を起こす。高雪は逃げ遅れ、瓦礫の下敷きになりかけていた。命を救ったのは、当時の若い保全技師。だが郷一郎は事故の責任を別の誰かに追わせた。それが会社にとって最も都合が良かったからだ。今更過去を掘り返されてはたまらない。「新しく入った清掃員について、身辺を調べておけ。」郷一郎は秘書の花にそう命じた。
数日後の早朝、清掃員休憩室に保安チームが踏み込んできた。全員が見守る中、私のロッカーが開けられる。車両技の下から黒い装置が姿を表した。続いて、錠剤の入った袋も引きずり出される。「貧乏人の分際で会社を裏切ったな、この盗聴犯が。」桑原主任が真っ赤な顔で詰め寄る。私は言葉を失い、その場に立ち尽くした。「その装置は初めて見ます。」かれた声で懸命に訴えた。だが誰も耳を貸そうとしない。保安チーム長がタブレットの記録を突きつける。早朝の出入り記録が私の不利を裏付けていた。「解雇だ。見払いの給料も警察の操作が終わるまで払えない。」桑原が即座に言い渡した。入間カードと社員証をその場で回収され、両腕を掴まれてエレベーターへと連れて行かれる。エレベーターホールの先、役員たちの間に高雪会長の姿があった。目があった瞬間、その顔が苦しげに歪んだ。だが、会長はその場で何も言えずにいる。正面玄関を出ると、冷たい風が頬を打った。父の手術費を稼ぐ最後の当てが消えた。それでも涙はこぼれなかった。
私が連れて行かれた後、高雪会長は保安チーム長を呼び止めた。「警察への引き渡しは一旦保留にしろ。」突然の指示に、保安チーム長は戸惑いを隠せない。高雪会長は没収された装置の写真を見返した。会長室の装置とロッカーの装置、その状態があまりに違う。一方は誇りをかぶり、もう一方は真新しい。これではまるで誰かが後から仕込んだようなものだ。高雪会長は外部の鑑定期間に緊急の分析を依頼した。同時に、密かに私の連絡先を秘書室に確認させた。その夜、高雪会長は自ら車を運転し、立花家のアパートを訪ねてきた。「なぜここに?」私は驚きを隠せない。「疑いは必ず晴らす。少しだけ時間をくれないか。」そう言って深く頭を下げられた。その目に嘘はないように見えた。
ちょうどその時、私のスマートフォンが着信を告げる。画面には病院の文字が表示されている。「立花さん、お父様の容態が急変しました。手術をこれ以上伸ばせない状態です。」私の顔から血の毛が引いた。「送ります。乗ってください。」高雪会長は迷わず自分の車を差し出した。待合室の長椅子で、二人並んで座っていた。手術室の赤いランプはまだ消えない。沈黙に耐えかねたように高雪会長が口を開いた。「立花周一さんは三十三年前に私の命を救ってくれた人だ。」私は思いがけない言葉に息を飲んだ。あの夜、急行場のボイラーが爆発し、高雪会長は瓦礫の下敷きになりかけた。その時駆けつけて助け出してくれたのが父だったという。「トントンツー。あれは危険を知らせる、周一さん考案の合図だ。」高雪会長は静かに続けた。「事故の後、彼の行方が分からなくなった。ずっと探していた。」私の目に涙がじわりと滲んだ。父が過去を語らなかった理由が、ようやく分かった気がした。
ちょうどその時、高雪会長のスマートフォンが震える。外部鑑定期間からの緊急連絡だった。ロッカーの装置は発見前日に電源が入ったばかりのもの。一方、会長室の装置は私の入社より三ヶ月も前から作動していた。「これであなたの無実は証明された。」そう言った直後、手術室のランプが静かに消えた。医師が扉から姿を表す。「手術は無事に終わりました。」私はその場に崩れ落ちそうになった。高雪会長がその体をそっと支える。回復室のベッドで父がゆっくりと目を開けた。「メイ。」かれた声で父が娘の名を呼ぶ。私は父の手を握り、小さく頷いた。
数日後、私は本社の会議室に呼ばれた。高雪会長が清掃委託会社と社員たちの前で口を開いた。「立花メイさんへの疑いは完全に晴れました。証拠を捏造し彼女を落とし入れようとしたものがいます。必ず責任の所在を明らかにします。」私は大勢の視線の中で背筋を伸ばして立っていた。もう俯く必要はない。高雪会長は続けた。「彼女の父、立花周一さんは三十三年前にこの会社の社員の命を救った恩人です。」どよめきが会議室に広がった。桑原の顔がみるみる青ざめていく。高雪会長は私の介護と未払い賃金の支払いをその場で正式に発表した。加えて、清掃委託会社との契約見直しも指示する。廊下に出ると、あの先輩清掃員が駆け寄ってきた。「ごめんね。あの時何も言ってあげられなくて。」先輩は目に涙を浮かべて頭を下げた。私は静かに首を振っていた。
会議の終わり、高雪会長は私を別に呼んだ。「これから施設保全のチームで働いてみないか?あなたの手には確かな技術がある。」私は思いもよらない申し出に言葉を失った。清掃員としてではなく技術者として、そんな未来を考えたことすらなかった。「父のような仕事が私にもできるでしょうか?」私の声はかかに震えていた。「できる。あなたはもう証明している。」高雪会長はまっすぐに目を見て頷いた。私の目からこぼれ落ちる涙を止めることはできなかった。
数日後、臨時の取締役会が招集された。議題は一連の不正行為の全容解明だった。郷一郎副会長は余裕の表情を崩さずに現れる。「社員へ罪を着せた証拠と、装置の出所が判明しました。」大型モニターにフォレンジック分析の結果が映し出される。続いて秘書の花が会議室に足を踏み入れた。郷一郎の顔から初めて余裕が消えた。花は震える手でスマートフォンを掲げる。「あの清掃員を落とし入れろ。証拠を仕込ませろ。」録音された郷一郎自身の声が、会議室に響き渡った。「録音は副会長ご本人のものと確認済みです。」専門家が淡々と告げる。郷一郎は椅子から立ち上がり、声を荒げた。「これは罠だ。」だが誰も彼の言葉を信じなかった。続いて三十三年前の事故記録と桑原の自白書も提出される。事故記録は郷一郎が当時隠蔽していたものだった。会議室のドアが開き、警察官が入ってきた。「証拠偽造、共謀、不正アクセスの容疑で同行願います。」郷一郎は最後まで自分は会社を守っただけだと言い張った。だが高雪会長は静かに首を振った。「もう後ろに隠れる場所はありません。」手錠をかけられた郷一郎が会場から連れ出されていく。副会長の地位は即日剥奪され、刑事告発の手続きが進められる。桑原もまた、清掃委託契約の打ち切りと共に職を失った。
数ヶ月が過ぎた。父は無事に退院し、少しずつ体力を取り戻していった。ある晴れた日、高雪会長が立花家のアパートを訪れた。玄関先で高雪会長と父は互いに向き合う。三十三年ぶりにかわす言葉らしい言葉はなかった。代わりに高雪会長が指先で空中を軽く叩いた。トントントン、ツー。父の口元に静かな笑みが浮かんだ。「まだ覚えていてくれたんですね。」「忘れるはずがない。命の恩人の合図だ。」高雪会長は深く頭を下げた。「あなたが救ってくれた命で、私はここまで来られました。」父は静かに首を振った。「礼はいい。ただ娘をよろしく頼みます。」その言葉に高雪会長は深く頷いた。
天グループは急行工場の事故を教訓に、安全基準を全面的に見直した。父の功績は社内に正式な記録として残されることになる。そして私は、施設保全チームで三ヶ月目を迎えていた。先輩技術者について、ハイセ図の読み方を一つずつ学んでいる。「筋がいいな、立花さん。」先輩が関心したように呟いた。ロビーで小玉さんとすれ違う。「立派になったな、立花さん。」小玉さんは嬉しそうに目を細めた。私は笑って小さく頭を下げる。その日も私は誰かに何かを教わりながら、静かに手を動かしていた。ふと電気パネルに触れる前、軽くパネルを叩く。トントンツー。それはもう、意味の分からない癖ではない。父から娘へ、そして娘からまた誰かへ継がれていく、命を守るための合図だった。
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