この旅館には、代々受け継がれてきた大切な品々がたくさんある。私は三代目として、この場所を守っていくつもりでいた。母が引退を決めた時、迷わず跡を継ぐことを選んだ。生まれ育ったこの家を、思い出の詰まったこの旅館を、失いたくなかったからだ。
従業員たちも、常連のお客様も、私を温かく迎えてくれた。最初は慣れない仕事に戸惑うことも多かったけれど、少しずつ板についてきた。女将として一人立ちする日も近い。そう思っていた矢先のことだった。
あの日、小寺と名乗る男が仲間を連れて旅館を訪れた。予約が入っているというので、私はいつものように出迎えた。だが、それはただの嫌がらせの始まりに過ぎなかった。
食事処へ案内し、料理を運んだその時だった。小寺が不意に立ち上がると、室内にいた虫を掴み、刺身の上に落とした。
「おい、見ろ。今度は虫が入ってるぜ。本当に汚ねえ旅館だな」
私は思わず声を上げた。
「お客様、今ご自身で虫をお入れになりましたよね」
すると小寺は威圧的な声を上げた。
「ああ、旅館が不潔なのを俺のせいにしようっていうのか」
明らかな嫌がらせだった。最初の髪の毛も、きっと小寺自身のものに違いない。しかし、他にもお客様がいる手前、ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。私は頭を下げて謝り、新しい料理を用意した。
「お待たせしました。こちら新しいお刺身でございます」
小寺はしばらく刺身を見つめると、不気味な笑みを浮かべた。
「どうやらここの女将は素直なやつみたいだな。これだけコケにされても気づかないなんて、バカな女ですね」
部下たちと一緒に笑い出す小寺。どうやら最初から私をからかうつもりで呼び出したようだった。呆然とする私をよそに、小寺は料理をひっくり返した。煮物やご飯が畳の上にぶちまけられる。
「こんな不衛生な旅館で飯なんか食えるか。せっかく楽しみにしてきたっていうのに、最悪だぜ」
小寺は床にこぼれた料理をわざと踏みつけた。
「おい、女将。こんな腐った飯を出して料金を取るつもりか。返金しろ」
腐った料理など、一切出していない。それに、彼らは宿泊料もまだ払っていないのだ。
「お断りします。だってあなた、わざと髪の毛や虫を入れましたよね」
怯えながらも、私は精一杯声を張り上げた。ここで屈してはいけない。ヤクザの言うことを聞けば、目をつけられて何度も狙ってくると思ったからだ。
すると小寺はニタニタと笑いながら言った。
「おい、女将、俺たちが何か企んでいると思っているのか? 」
「そ、それは……」
「女将が払いたくないっていうのなら、別にいいぜ。払いたくなるようにしてやるだけだからな」
小寺は部下たちに目配せをした。それを合図に、男たちは一斉に食事処で暴れ始めた。卓は全てひっくり返され、料理は畳の上に散乱する。置かれていた食器は投げつけられ、障子は全て破られた。
「お客様、おやめください。お客様! 」
慌てて止めようとする私を、小寺は殴りつけた。あまりに強い衝撃で、私はその場に尻餅をついた。小寺は私を突き飛ばした勢いのまま、隣の部屋へ向かう。痛みをこらえて追いかけた私が見たものは、襖を破り、障子を蹴るなどして破壊の限りを尽くす小寺の姿だった。
「お客様、いい加減にしてください」
必死に小寺の腕を掴むが、簡単に振り払われてしまう。
「なんだ女将、俺たちと遊びたいのか? だったら可愛がってやるぜ」
小寺はいやらしい顔を向けると、部下たちと共に私を囲んで袋叩きにした。
「痛い、痛いです。やめてください。やめて!

」
私はその場で丸くなり、必死に痛みに耐えた。だが、男五人に囲まれて殴られれば、耐え切れるはずもない。傷だらけになっていく。
「おい、よく見ればこの部屋、結構いい品が置いてあるな。さすが老舗旅館だ。よし、女将が返金しないっていうのなら、この部屋にある品をもらっていくとするか」
私が動けなくなったのを見て、小寺はゆっくりと部屋を見回した。そこに置かれた骨董品や掛け軸は、先代である祖父母から伝わったものばかりだ。
「ま、待ってください。お金なら返します。だから、旅館にある品には手を出さないでください」
必死に止めようとするが、小寺は軽く手を振り払った。
「嫌だね。むしろ、それだけ価値があるのか楽しみになってきた」
笑いながら壺や掛け軸を乱暴に鞄へ詰め始める小寺。悔しさで唇を噛みしめる私の耳に、従業員の声が聞こえた。
「ちょっと、大丈夫ですか? 女将、女将! 」
聞こえたのは、長らく働いてくれている森原さんの声だった。私がなかなか戻ってこないから、不審に思ったのだろう。食事処の惨状に気づき、部屋まで様子を見に来たに違いない。だが、こんな危険な場所に森原さんを入れてはいけない。
「だめよ、森原さん! 私なら大丈夫だから、来ないで!
」
とっさに声を上げるが、私が叫ぶより早く、森原さんは室内へと入ってきた。そして、部屋を荒らす男たちを見て、にこやかに言った。
「あら、やだ。随分と部屋が散らかっているわね。みんなで喧嘩でもしていたの? 面白そうね。私も混ぜてくれない? やりましょうよ、喧嘩」
森原さんは小寺たちの前に立つと、ニコニコと笑った。小寺は一瞬たじろいだような顔をしたが、森原さんの姿を見てすぐに笑い出した。
「なんだ、誰が来たのかと思ったらババアじゃねえか。ババアは引っ込んでいろ。お前みたいに弱そうなババアなんて、相手にならねえよ」
森原さんは私より少し年上のベテラン従業員だ。体格はどちらかと言えばぽっちゃり系で、どこにでもいる普通のおばさんに見える。
「だめよ、森原さん、危ないわ。すぐに逃げて! 」
「あはは、心配しなくてもいいですよ、女将。まあ、お任せくださいな」
森原さんが笑いながら小寺たちの前に立つと、すぐさま部下の男が前に出た。危ない、そう思った瞬間、森原さんの前に立ちはだかった男は床に倒れていた。どうやら森原さんが投げ飛ばしたようだ。
「な、なんだ、この野郎!
」
小寺は驚き、他の部下をけしかける。だが、森原さんは部下たちを軽々といなしながら、次々と投げ飛ばしていった。気づいた時には、小寺を残して他の全員が床に転がり、のたうち回っていた。
「あらあら、もうおしまいなの? 若いんだからもっと鍛えなさい。おばさんが仕込んであげようかしら」
まさか森原さんがこんなに強かったなんて。驚く私を前に、小寺は森原さんと向き合った。
「おいババア、その強さ。さては片手じゃねえな。俺は白龍組の時期若頭、小寺ってもんだ」
「時期若頭じゃなくて、まだ若頭候補じゃないですか。兄貴はうるせえ」
「それで、ババアはどこの組のもんだ」
小寺の威圧的な態度を前にしても、森原さんは相変わらず飄々としていた。
「嫌だわ。私、ヤクザなんかじゃないわよ。うーん、憲法が大好きな体育会系のお姉さんってところかしら」
そう言って大笑いする森原さんの前に、小寺はあ然と息を吐く。どうやら森原さんに大きな組織の後ろ盾がないと分かって、安心したようだ。
「なんだ、ヤクザじゃねえのか。ただのババアのくせにヤクザを舐めがって。お前、今日から俺の部下たち全員に狙われていると思えよ」
「あはは、嫌だね。みんなこの程度の強さだろう。だったら全員、返り討ちにしてあげるわよ」
その時、パトカーのサイレンが聞こえてきた。どうやら森原さんが来る前に、警察を呼んでくれていたらしい。
「そうか、サツを呼びやがったのか」
「そりゃ、ヤクザが暴れているとなったら呼ぶに決まっているでしょ。さあ、素直にお縄につきなさい」
「覚えてやがれ。俺をコケにした代償、絶対に払わせてやるからな」
小寺は部下を叩き起こすと、窓から逃げていった。その様子を見送ると、森原さんは私へ手を差し伸べた。
「大丈夫だったかい、女将」
「あ、はい。ありがとうございます、森原さん。あの、一人で相手なんかしちゃだめだよ。今度からすぐ私を呼びなさい。お仕置きしてやるからね」
そう言ってくれる森原さんに、私は改めて感謝の気持ちでいっぱいになった。だが、私は女将だ。従業員を守る立場にある。いくら森原さんが強くても、彼女に頼ってばかりもいられないだろう。
「分かりました。ありがとう、森原さん。でも、ここはひとまず警察にお任せしますね」
私はやってきた警察に事情を説明した。警察はしばらく頻繁にパトロールすることを約束してくれた。おかげで、しばらくは何も起こらず平穏な日々が続いた。
だが、三日後、小寺は以前と同じ面子を連れて再び旅館へとやってきたのだ。
「よう、邪魔するぜ。ちゃんと五人分予約してあるから、いいよな」
現れたのは小寺たち五人組だった。予約表には別の名前が書いてあるが、部下の名前を借りて予約していたのだろう。ゴルフクラブを片手に現れた小寺は、さも楽しそうに私を見た。
「ま、またあなたたちですか? 警察を呼びますよ」
「警察なら来ないぜ。俺の部下たちに命令して、他のところでちょっと騒ぎを起こしてもらっているからな。今頃、あの連中はその対応で大わらわだろう」
小寺は笑うと、ズカズカと上がり込んだ。そして、目についた花瓶やテーブル、ソファーなどをゴルフクラブで壊し始めた。
「いや、やめてください。それは祖母との思い出の品なんです」
「そんなこと、するかよ」
慌てて止めに入る私に、小寺はゴルフクラブを振りかぶった。気づいた時、私は殴り飛ばされ、床に膝をついていた。五人の男たちは全員がゴルフクラブを振り回し、破壊の限りを尽くす。
「お客さんを避難させて。避難させたら、あなたたちも逃げてちょうだい。私は他のお客さんが来ないように入り口を塞いでくるわ」
私は従業員に声をかけ、ふらふらと入り口へと向かう。もう私にできることは、これ以上被害を出さないことだけだ。従業員たちはすぐにお客さんの避難を始め、皆無事に外へ出たようだ。私は入り口で、壺や花瓶が割れる音だけを聞いていた。祖母のお気に入りだった花瓶、亡き父が買ってきた掛け軸。私の思い出が全て壊されていく。
「女将、大丈夫かい? 」
呆然と立ち尽くす私に、森原さんが声をかけてきた。隣には森原さんの母親も立っている。森原さんの母親はこの旅館の常連で、何度も泊まってくれていたから、私もよく知っていた。
「森原さん、ここは危ないわ。あなたもすぐに避難して」
「あはは、心配してくれてありがとね、女将。でも大丈夫だから」
森原さんは母親と共に、互いに頷いて笑った。
「でも、本当に危険なんです。男たちは武器を持っていて……」
「あのね、女将。この旅館を大事に思っているのは、女将だけじゃないんだよ」
森原さんはそう言うと、母親と連れ立ってロビーの方へと向かう。私も慌てて二人を追った。
「なんだ、ぶち殺されたい客が来たのか」
入り口から人の気配がするのに気づいたのだろう。小寺は振り返ると同時に森原さんに気づいた。
「おいたのか、ババア。会いたかったぜ。この前は散々と俺たちをコケにしてくれたからな。お前の家族ごと、全員地獄に落としてやるよ」
「うちの家族ごとね。面白いこと言うわね。どう思う?
母さん」
森原さんの言葉を受けるようにして、母親が前に出る。森原さんの母親を見て、小寺らは驚き、目を丸くした。
「うわっ、あなたはまさか、赤ヘビ組の組長さん!? 」
小寺らの顔色は見る間に青ざめていく。
「あら、あんたみたいなチンピラにも顔が知られているのかい? ご機嫌よう。私が赤ヘビ組の組長、森原恵だよ」
小寺も部下も、完全に動きを止めた。そんな中、恵さんは一歩前に出た。
「この旅館はね、私の大事な客人が女将をしていた宿なんだ。その大事な客人が守ってきた旅館に、一体何をしているんだい? 」
「え?
えっと、ですね……」
小寺は目を泳がせ、言葉を濁す。そして、部下共も含めてその場に土下座を始めた。
「す、すいません。まさかこの旅館が赤ヘビ組の組長さんの、その御人の旅館だなんて、思ってもいなかったんです」
小寺らをはじめとした五人の男は、何度も何度も土下座をする。すると、恵さんはボロボロになったロビーを眺めた。
「私の知っている旅館は、こんなに汚れちゃいないよ。ちゃんと綺麗に元通りにしなさい。話はそれからだ」
「あ、はい。お前たち、やるぞ」
小寺らは部下に声をかけると、壊れたテーブルや割れた花瓶などの片付けを始めた。その様子を、私は驚きながら眺めていた。
「森原さんのお母さん、ヤクザだったのね」
「ええ。私は母から昔からこの旅館の話を聞かされていてね。それで、この旅館に憧れて従業員になったってわけ」
「それにしても、幸恵さんにとって私の母が御人だったというのは初耳です。一体何があったのでしょう? 」
「片付け終わりました」
考え込んでいるうちに、小寺は片付けを終えたようだ。だが、それはとても片付けたとは言えない有り様だった。ロビーに置かれたソファーやテーブルは壊れたままだし、粉々に砕けた花瓶は一箇所に集められただけだ。
「これのどこが片付けだい? お前の国では、お片付けも教えてもらえないのかい」
「で、ですが、色々壊れてしまいまして、これ以上は戻せませんので……」
「あんたが壊したんだろう。これ以上戻せないなら、弁償するしかないね」
「あ、金ですか? 」
恵さんは小寺を睨みつけた。
「そうだね。あんた、確か小寺だったね。若頭候補なら六千万。残りの四人に一千万ずつ弁償させて、一億あたりが妥当じゃないかい」
「い、一億ですか!?
」
小寺らと部下は驚きの声を上げた。
「いや、部下はまだ下っ端ですから、一人一千万なんてとても無理です」
「だったら、上司であるあんたがまとめて一億払ってくれればいいじゃないか。老舗旅館の修繕なんだ。妥当な金額だと思うよ」
「い、一億なんて金ねえ。俺の一存では出せません。必ず払いますから」
「ローンでも組むつもりかい? 一括で一億。それができないなら、うちの船に乗ってもらおうじゃないか。これでどうだい? 」
恵さんの周りを、彼女の部下が取り囲む。船と聞いて、小寺たちの顔色がどんどん青ざめていった。
「ま、待ってください! 赤ヘビ組の船といえば、危険なことで有名じゃないですか。五体満足で無事に帰ってきた人間なんて、ほとんどいないと聞いてますよ」
「そりゃ、借金が多い連中だけだよ。あんたの部下くらいだったら、逆に少し儲けて帰ってくるんじゃないかい」
その言葉を聞いて、小寺の部下たちは観念したのだろう。もう覚悟を決めたように、おとなしく恵さんの部下に従った。残されたのは小寺だけだったが、小寺は必死に食い下がる。
「ま、待て。俺は白龍組の時期若頭だぞ。そんな俺に何かあったら、白龍組が何をするか……」
「あんたは若頭候補の一人だろう。白龍組に若頭候補が何人かいるって聞いているよ。むしろ候補連中からすると、あんたに消えてもらった方が嬉しいだろうね」
小寺は言葉に詰まった。実際、その通りなのだろう。
「いや、だが、やっとここまで登り詰めたんだぞ。あと少しで若頭だってところなんだ。こんなところで船俺が消されるなんて、冗談じゃない」
小寺は髪をかきむしり、しばらくブツブツと独り言を続けた。そして、不意に思い立ったように顔を上げた。
「そうだ。あんたは赤ヘビ組長の御人。その娘さんなんだろ。あんたから詫び入れてくれよ。御人の言葉だったら、きっと聞いてくれるだろう」
突然、私に話を振ってきた小寺。私は小寺に近づくと、冷たい視線で見下ろした。
「あなたはさっきから、赤ヘビ組の組長さんのことを気にしてばかりですね。この旅館を壊したことも、私に怪我をさせたことも、一切謝っていないくせに」
「あ、謝る、謝るよ。ごめんなさい。本当に申し訳ない。部下の前で調子に乗ってました」
「まあ、これでいいだろう」
「この旅館は、私の祖父母が立ち上げたものです。私は三代目。亡き祖母は、私をとても可愛がってくれました」
私は小寺の壊した花瓶のかけらを手に取った。
「これは、祖母のお気に入りの花瓶です。実は一度、私が割ってしまったんです。それでも祖母は、それも思い出だと言って、花瓶を継いで使ってくれました」
「なんだ、もう壊れていたんだな。それだったら新しいのを買えばいい。大丈夫だ、一億は必ず払うから」
「あなたは、私がやめてと言った時もやめなかった。そして、私の家族の思い出も壊した。絶対に、絶対に許しません」
私が声を上げると、小寺はうなだれた。それを待っていたかのように、黒服の男たちが小寺の脇を抱えると、引きずって連れて行った。
それから数日後、小寺に壊された旅館が修繕され、元通り営業できるようになった頃、私は森原親子を招待した。特別なお客様だけを通す部屋で、最高のおもてなし料理を準備した。
「おお、そこまでしなくてもいいんだよ。私に特別商売までしてもらったのに」
森原さんは最初、旅館に招待されるのを断ろうとしていた。それでは私の気が済まないからと、頼み込んで来てもらったのだ。料理を楽しむ森原親子を見ながら、私は恵さんに聞いた。
「あの、母が御人って、本当なんですか?
」
「ああ、あれはまだ私が駆け出しだった頃の話だよ」
恵さんが言うには、女だてらにヤクザの世界に飛び込んだ彼女は、当初は食うにも困るような生活をしていたそうだ。家を飛び出し、行く当てもなかった彼女は、頼るべきものもなく、この旅館の前で雨宿りをしていた。そんな彼女に傘を差し出し、部屋に入れてくれたのが、私の母だったという。
「あなたのお母様は、私の素性も聞かず、美味しいものを食べさせてくれた。温かいお風呂に入れてくれて、温かい布団で寝かせてくれた。実の親より優しくしてもらったんだ。しかも、あなたのお母様は、行く当てがない私に、何度だって部屋を貸してくれたのさ」
「母はよく言っていました。外で寒い思いをするのは辛いことだって。だから、自分の目の前で震えている幸恵さんを見るのが、辛かったんだと思います」
「ああ、そうだろうね。それで私もちょっとは偉くなって、恩返しをしたいと思ったんだ。そしたら、あんたのお母さんはね、『これから旅館の客として来てくれるだけで嬉しい』と、そう言ってくれたんだよ。『客がいることこそが、旅館を続けられる理由だから』ってね」
「お母さんらしいです」
「そんな前の女将さんからね、引退の前に頼まれたのさ。『これから娘が一人立ちする。娘を支えて欲しい』ってね。御人の頼みだ。断れるわけないだろう。それに、私だってこの旅館をなくしたくないからね」
恵さんのその言葉で、私は改めて気づかされた。旅館で大切なのは、お客様をもてなす気持ちだ。きっと私は、女将だから何でも一人でやらないといけない、そう思いすぎていた。だから、森原さんの優しさにも気づかず、一人で空回りしてしまったのだ。その結果、小寺らの悪意を真正面から受け止めて、大きな騒ぎを起こしてしまった。
だけど、お客様をもてなすというのは、そういうことではない。全てを受け入れるだけではなく、非常識な態度にはきちんと注意をする必要があるのだ。他人を思いやれない人を、お客様としてもてなす必要はない。そんなことをすれば、従業員や他のお客様に迷惑がかかってしまう。お客様を思いやるということは、お客様の全てを許すという意味ではないのだ。そして、女将の仕事は全てを自分でやることではない。従業員を信頼することなのだ。
私は母と森原さん親子に、改めて女将としての心構えを教わったような気がする。そして、もっと立派な女将になって、この旅館を守っていこうと、心に誓うのだった。


