酔った男が、私の目の前で妹に恥をかかせた。許せなかった。
今夜は、都内のホテルで開かれた取引先懇親会。私は会長として、来賓という形で参加していた。息子が挨拶を始める中、私は妹の姿を探していた。彼女は私の15歳年下の妹で、今は夫の会社で営業企画部の部長を務めている。昔から、彼女は私の家族だということを公表せずに仕事をしてきた。公平性を重視する彼女にとって、それは大切なことなのだろう。
「兄さん」
久しぶりに妹の声を聞いた。彼女は私を見つけると、ぱっと表情を明るくしたが、すぐに周囲を確認して居住まいを正す。
「山田会長、本日はお招きいただきありがとうございます」
気真面目な性格の妹らしい対応に、私は思わず苦笑した。
「そういうところ、相変わらずだな。もう少し肩の力を抜いていいのに」
だが、よく見ると彼女の顔は少し疲れているように見えた。何かあったのだろうか。そう思った矢先、妹がぽつりとこぼした。
「夫が、実は心臓を患いまして……今、ちょうど入院しているんです」
その言葉に、私の脳裏に父の顔が浮かんだ。父も心臓の病で倒れたのだ。両親を相次いで失ったあの日の無力感を、妹も感じているのかもしれない。
「そうだったのか。それは心配だな」
妹は私を安心させようと、無理に微笑んだ。
「で、でも、お医者様は手術すれば大丈夫だとおっしゃってますから」
私は黙って近くの寿司コーナーへ行き、大トロやうに、いくらを皿に盛り付けた。
「少しは食べなさい。ほら、お前、お寿司が好きだっただろう」
「え? でも、私、こういう場では……」
「遠慮はいらない」
私が微笑むと、妹はおずおずと皿を受け取ってくれた。
「無理はするんじゃないぞ」
「はい。ありがとうございます」
彼女の目に涙が滲んでいるのが見えたが、私は気づかないふりをする。その時だった。
「これは、暮林部長じゃありませんか?」
どこか酔ったような男の声が、私たちの間に割って入ってきた。妹と同年代くらいの男性だ。妹が小声で教えてくれた。彼女の会社の取引先で、営業部長の柳原というらしい。私は挨拶しようと一歩前に出たが、柳原は私を無視して通り過ぎた。酒の匂いが鼻をつく。どうやら相当酔っているようだ。そして、私がこの会社の会長であることには気づいていないらしい。
「随分豪華な皿ですね。大トロにうに、いくらですか?」
柳原は妹の手にした皿を見て、にやりと笑った。
「い、いえ、これは……」
「いやいや、せっかくの懇親会ですからね。それに、あなたの会社の規模だと、こんなご馳走は滅多に食べられないでしょう?」
私はとっさに妹をかばおうとしたが、柳原が言葉を続けた。
「ただね、暮林部長。何事も身の程ってものがあるんですよ。だって、あなたの会社はうちから見れば下請けで、この会に呼ばれているだけでも光栄に思わないと。あなたの会社の規模じゃ、普段こんな場には来られないでしょう。そんな下請けの分際で、銀座の寿司の味なんて分かるんですかね」
嘲るような言葉に、私は思わず口を挟んだ。
「君、いくら何でも失礼だろう」
私の強い口調に、周囲の数人がこちらを見始めた。
「さっきも思ったんですが、何です、あなたは? 暮林部長の関係者か何かかな? どうでもいいですが、部外者は口を挟まないでもらえますか」
柳原はそう言うと、寿司コーナーからかっぱ巻きや卵など、比較的シンプルな寿司を取ってきた。そして、戻ってくるなり、かっぱ巻きを一本つまんだ。
「例えば、こういうのがあなたにはお似合いですよ」
次の瞬間、柳原はかっぱ巻きを妹に向かって投げつけた。妹の額にかっぱ巻きが当たり、床を転がる。周囲から困惑のどよめきが起こった。妹は衝撃で固まったように、目を見開いて震えている。その姿を見て、私の中で何かが切れた。幼い頃、両親を失って泣いていた妹の姿が重なる。あの時、私は妹を守ると誓ったのだ。
「ちゃんとキャッチしないから落ちちゃったじゃないですか」
さらに卵を投げようとする柳原の手を、私は思わず掴んだ。
「いい加減にしなさい。酔っているのか。だとしても、許されることではない。謝罪していただこう」
私が言っても、柳原はヘラヘラしている。
「おいおい、うちはこの会の主催企業の重要取引先だぞ。その担当者の私に、こんな態度を取っていいと思っているのか? 何様のつもりだよ。私はこの下請けに、身の程を教えてやっていただけだ」
柳原は乱暴に腕を振りほどき、私を睨みつける。ここまで酔うとは呆れるが、私は低い声ではっきりと告げた。
「何様のつもりだとは? それはこちらのセリフだ。今すぐに、君の会社の社長を呼んでこい。君のような社員が営業担当しているなんて、信用問題に関わる」
柳原は馬鹿にしたように笑うが、私の言葉に周囲のざわめきが徐々に大きくなっていった。
「あれ、もしかして山田会長じゃないのか?」
「懇親会に会長が? いや、でも確かにあの方が山田会長だ」
「写真で見た顔だ。まさかご本人が……」
どうやら、周囲の人間が私の正体に気づき始めたらしい。柳原の顔色が変わった。困惑と恐怖が入り混じった表情で、私と周囲を交互に見る。そこへ、慌てたような声が響いた。
「柳原部長! 何をしている!」
振り返ると、白髪の男性が青ざめて駆け寄ってくるところだった。柳原の顔から血の気が引いていく。
「し、社長……」
社長と呼ばれた男性は、柳原の頭を無理やり下げさせ、自らも深く頭を下げた。
「望月と申します。この度は弊社の柳原が、大変な失礼を。本当に申し訳ございません」
望月は妹に対しても丁寧に謝罪した。どうやら、私と柳原のやり取りを見ていた誰かが、望月に知らせてくれたらしい。
「お前、大切な取引先の会長の顔も知らないのか!」
望月は柳原の肩を揺らしながら詰め寄る。柳原は顔面蒼白で、されるがままになっていた。
私は深くため息をつき、事の経緯を説明した。
「暮林部長は、入院中の社長の代理としてこの懇親会に参加したのです。夫でもある社長の身を案じて、食欲がない彼女に少しでも食べて欲しいと思い、私が寿司を取ってあげたんです。それを、柳原部長は『身の程知れ』と言った。馬鹿にするだけでなく、食べ物を投げつけるなんて、人としてどうなんでしょう」
そう付け加えると、望月もまた顔面蒼白になった。
「望月社長。貴社とは長い付き合いのはずですが、このような人物がいるとは知りませんでした」
「返す言葉もございません。私の指導が行き届いておらず、こんな人間にしてしまったのは私の責任です」
望月はその場に膝をつき、土下座の姿勢になった。正直、悪いのは柳原であって、望月がここまでするのは過剰だと思った。その時、ずっと黙っていた妹が口を開いた。
「柳原部長。あなたのせいで、ここまで頭を下げている望月社長を見て、何とも思わないのですか?」
妹の指摘に、周りの目が一斉に柳原に向く。柳原は悔しそうに歯を食い縛っていたが、やがてゆっくりと膝をつき、頭を下げた。
「も、申し訳ございませんでした」
おそらく今の柳原の心は、屈辱で満ちていることだろう。望月が言った。
「柳原には、厳正な処分をいたします。ですから、どうか今後とも……」
望月は、取引継続を願っているようだった。私は少し考えて、こう言った。
「柳原部長の処分については、お任せいたします。ですが、勘違いはしないでいただきたい。私が求めているのは処分ではありません。今後、このようなことがないよう、徹底した管理を求めます。それが叶わないなら、貴社を信頼することもできませんから」
「はい。必ず改善いたします」
望月は強く頷いた。私は土下座というより、半ば這いつくばっているような状態の柳原の前に、片膝をついた。小さく丸まった背中が、かすかに震えている。哀れなものだ。私は柳原にそっと耳打ちした。
「念のためお伝えしますね。暮林部長に仕返ししようなどとは考えないことです。彼女は私の妹です。妹に手出ししたら、今度こそ容赦いたしません」
私がそう言うと、柳原は大きく目を見開いた。私は苦笑して、「内緒ですよ」と付け加えた。柳原は私と妹を交互に見て、何度も何度も大きく頷いた。
「山田会長、暮林部長。本当に申し訳ございませんでした!」
柳原の謝罪の声が、会場内に響き渡った。その後、柳原は減給と部署移動になると、望月から電話があった。移動先はクレーム対応部門だとか。なくてはならない部署だが、今まで人を見下して傲慢な態度を取っていた柳原には、かなり屈辱的な仕事に感じられることだろう。
懇親会から一ヶ月後、妹から電話があった。夫の手術は成功し、経過も順調だという。私はほっと安堵のため息をついた。妹の明るい声を聞いていると、あの日、柳原を許して正解だったと思えた。私は、守るべきものを、ちゃんと守り通せたのだ。



