ロビーに響いたのは、信じられないほどの暴言だった。
「あんたみたいなバカに、こんな高級ホテルは場違いだわ。頭が悪くて受験からも逃げ出すような奴なんて、育ち損ないじゃない?」
所用で訪れた高級ホテルのロビーで、俺は学生時代の元カノと偶然再会した。当時、彼女とは俺がとある理由で法学部への進学を断念したことで別れることになった。そのことを未だに根に持っているのか、彼女は俺を見下すように笑った。
その直後、一人の男性が現れた。
「君は、誰に口をきいているんだ?」
その声を聞いた瞬間、元カノの顔色はみるみる青ざめていった。
俺の名前は大西エイジ。子供の頃から弁護士に憧れていた。きっかけは当時流行っていたドラマだ。そこに登場する弁護士が、子供心に格好よく見えた。弱きを助け、強きをくじく。幼い頃に感動したその正義感に突き動かされ、俺は中学・高校と進み、大学は法学部を目指していた。勉強は苦ではなかったので成績は安定し、担任からも合格間違いなしと言われていた。
高校3年の夏。受験生にとって大事な時期ではあったが、息抜きにと友人に海へ誘われた。メンバーは友人と俺、そして友人の彼女とその友達だった。友人の彼女が連れてきた川口リエは、清楚で明るい印象の女の子だった。俺たちはダブルデートのような雰囲気で、楽しい時間を過ごした。その時は、まだリエは友人の一人という意識しかなかった。
その後も時々勉強会を兼ねて4人で会うことがあり、その際に俺はリエに弁護士を目指していること、法学部を受験する予定だということを伝えていた。するとリエは大げさなほどに俺を褒め、「私にできることがあったら何でも言ってね」と驚くほど真剣に応援してくれるようになった。俺もいつしかそんなリエに惹かれ、2人は自然な流れで付き合うことになった。
ところが、年が明けて受験を目前に控えた冬、俺に思わぬ事態が起きた。なんと、ある日の下校中、駅で通り魔に刺されてしまったのだ。本当に突然の出来事だった。買い物帰りの主婦やサラリーマンで賑わう駅前の広場に、突如男が飛び込んできて、そのまま持っていた刃物を振り回し始めた。逃げ遅れた学生が刺されそうになっているのを見て、俺はとっさにその学生をかばい、代わりに傷を負った。幸い刃が内臓からずれていたため命に別状はなかったが、傷は深く、俺は長期入院を余儀なくされた。
全治3ヶ月。絶対安静を命じられ、受験なんてできるわけもなかった。家族は「命があるだけで良かった。受験はまた来年チャレンジしたらいい」と言ってくれたが、子供の頃から憧れていた弁護士への道が遠のいたことに、俺は少なからずショックを受けていた。そんな時、母が持ってきてくれた携帯電話に、リエからのメッセージが何件も届いていた。刺されて目を覚ました時にはもうこの状態で、彼女に連絡することもできずにいたのだ。あれだけ真剣に応援してくれていた彼女なら、急に連絡が途絶えた俺のことを心配しているだろう。痛みをこらえてメッセージを開くと、そこには「受験はどうなったの?」「手応えはあった?」など、俺の受験の行方に関する言葉ばかりが並んでいた。彼女はまだ俺がこの状況に陥っていることを知らないのだろう。それでも、そのメッセージを読む限り、彼女が俺の受験の成否だけにしか関心がないように見えてしまった。不信に思いながらも、気が急いでこんな書き方になったのかもしれないと思い直し、俺は一文字一文字、痛みをこらえて「受験は断念した」と返信した。
続けて理由を送ろうとした矢先、リエからさらにメッセージが届いた。開いた画面には、あの明るく優しいリエとは思えないような素っ気ない文章で「もう別れます」とだけ書かれていた。さらに続けて「弁護士の卵だと思って付き合ったのに、法学部からも逃げ出すようなバカには用がない」とひどい言葉が並び、極めつけは「弁護士になれないあんたに価値がない」という言葉だった。
「え…?」
俺の口からは、うめき声のような声が漏れた。これは本当にリエが書いたものなのか。何かの間違いではないのか。痛みに耐えながら返信を打つが、それは宛先不明で返ってきてしまった。何度繰り返しても結果は同じで、10回目にしてようやく着信拒否されていることに気づいた。こうして俺は、彼女にあっさりと振られたのであった。
それからあっという間に10年が経った。家族に支えられながら必死でリハビリを頑張った俺は、幸い後遺症もなく、今は弁護士として働いている。その日、俺はオフィスからほど近い高級ホテルのロビーを訪れていた。約束の時間にはまだ早いなと腕時計で確認し、ソファーに腰かけようとした時だ。
「え、もしかしてエイジ君?」
聞き慣れない、しかしどこかで聞いたことのある声に振り返ると、そこには10年前に一方的に別れを告げてきた元カノ、リエが立っていた。
「何年ぶり?こんなところで会うなんてすごい偶然なんだけど」
彼女は一旦言葉を切り、こちらをじろりと一瞥すると、ふんと見下すように鼻を鳴らした。
「相変わらずしょぼい顔してるから、すぐにあんただって分かったわ。何そのスーツ?格好だけ一人前にしても、あんたみたいなバカはこの高級ホテルには場違いなのよね」
自分の言葉がおかしかったのか、クスクスと肩を揺らして嘲笑うリエ。調子に乗ったのか、彼女の暴言は止まらない。
「あんたさ、あの時今年は受験できないとか何とか言い訳送ってきたけど、あれでしょ?要は落ちるのが分かってて恥ずかしくなったから、受験自体から逃げたんでしょ」
付き合っていた頃には見たこともないような意地の悪い顔で、彼女はニヤニヤと口元を吊り上げた。もしかしたら、彼女は最初からこんな人間だったのかもしれない。そう考えながら、俺は静かに口を開いた。
「なあ、リエ。今更だけど、あの時は本当に事情があって」
しかしその途端、リエはこちらを思いっきり小馬鹿にしたように首を傾げる。
「何よ。あんたまだつまんない言い訳とか考えてるの?ちょっと、もう何年前のことだと思ってんのよ。え、もしかしてあんた、まだ私に未練があるわけ?うわ、キモい」
綺麗に化粧を施した目元を歪めて、彼女は大袈裟にため息をついた。
「ああ、てか私に言わせれば、貴重な私の半年間を返して欲しいくらいなのよね。法学部受験するって聞いたから付き合ったのに、結局あんたは直前に逃げ出す根性無しのバカだし」
そう吐き捨て、彼女はつまらなそうに小さく舌打ちをした。だが次の瞬間、リエはにやりと笑って俺を見やると、唐突に大声で喚き始めた。
「皆さん聞いてください!ここにいる大西エイジは、私を騙した卑怯者で嘘つきで、おまけに自分が頭いいと思ってる男です!」
ロビーにいる人々やホテルマンが、何事かと彼女に視線を送る。しかし周囲の迷惑など考えていない様子で、リエはさらに得意げに続けた。
「あ、そんなバカなエイジ君にいいこと教えてあげるね。私の婚約者、なんと現役の弁護士なの。今日もここで彼のお世話になってる人に挨拶する予定で…あ、来た」
そう言って彼女が呼び寄せたのは、スーツ姿の男性だった。男性がリエのそばにいる俺に気づき、驚いたように目をまたたかせた。だがそれに気づくこともなく、リエはまるで自慢のアクセサリーでも披露するように男性を紹介する。
「こちら、沢田ケイ太さん。なんと学生のうちに司法試験に合格した優秀な弁護士さんなの。あ、ケイ太さん。こちらは大西さん。あなたみたいに勝ち組になれなかった元弁護士志望の底辺よ」
悪意たっぷりにそう言って、面白くてたまらないとばかりに肩を揺らすリエ。だが次の瞬間、横に立っていたケイ太が表情を変えて彼女を見た。
「君、なんてことを言うんだ」
「え、何を急に…」
この沢田ケイ太という男は、普段は怒ったところなど見たこともない優しい男だが、いざ法廷に立った時の迫力には目を見張るものがある。検察官顔負けのその迫力を初めて目の当たりにしたのか、リエは訳も分からず固まってしまった。そんな婚約者に構わず、ケイ太は音量を落としながらも、迫力はそのままに言った。
「こちらのエイジさんが、今日君に紹介する予定だった先輩だよ。君にもいつも言ってるよね。俺が高校1年の時に巻き込まれた通り魔事件で、同級生だと思って動けなくなった俺をかばってくれた人だって」
そうなのだ。このケイ太は俺と同様、あの通り魔事件の被害者だった。そしてあの時、俺がとっさにかばった学生が、彼だったのだ。結局俺が刺された後も犯人は暴れ続け、倒れた俺を助けようとしたケイ太も、俺ほどではないが腕に傷を負った。俺とケイ太は同じ病院に運ばれ、年齢も近いということで同じ病室に入れられた。ケイ太は俺が自分をかばってくれたことを深く感謝し、それからは何かと俺に懐いてくれた。俺も俺で、素直で真っすぐな彼を弟のように思い、可愛がった。先に退院したケイ太に続いて俺も退院し、1年遅れで法学部に合格した。その後、大学在学中に司法試験にも合格し、卒業後は大手の弁護士事務所に入所することとなった。驚いたのは、退院後も連絡を取り続けていたケイ太が、俺の後を追うように法学部へ進み、さらには弁護士になったことだ。彼に言わせれば、「何があっても立ち上がって前を向くエイジさんの姿に憧れた」とのことだった。
「そ、そんな違うの、ケイ太さん!今のはちょっとした言い違いっていうか、そんな馬鹿にしたつもりはなくって…だからその…」
ケイ太の言葉を聞き、リエが真っ青になってどもりながら必死に言い訳を並べ立てる。しかしケイ太はそんな彼女を一瞥すると、今度はごく静かに告げた。
「何が違うの?俺には、君がエイジさんに対してひどい暴言を吐いているようにしか聞こえなかったよ。君には失望した。婚約も考え直すことにする」
「いや、待って!私の話を聞いて、ケイ太さん!」
髪を振り乱し、涙を浮かべてケイ太に取りすがるリエ。一見すると哀れにも見えるが、彼女のその姿は今や演出にしか見えなかった。というか、彼女とケイ太が婚約していたことにも驚きだが、リエのような裏表の激しい女性と可愛がっている後輩がこのまま結婚することに、俺は反対せざるを得ない。
「うん。ケイ太の判断は正しいと思うよ」
ぽつりと口を開いた俺に、リエが顔を引き攣らせて噛みつく。
「あんた、大西さんは黙っててもらえます?」
しかし、そんなリエを押しのけるようにして、ケイ太が首を傾げた。
「というか、エイジさんともしかして彼女と知り合いなんですか?」
その問いにリエはさらに青ざめて首を振るが、俺はその仕草には気づかないふりをして、やがて「うん」と頷いた。
「ああ、まあ、高校3年の時に数ヶ月だけ付き合ってたというか。でもあの事件で俺受験できなかっただろう。そしたら彼女には一方的に振られて、『弁護士になれないあんたに価値はない』って言われてね」
俺の答えに、ケイ太は表情を引き締め、それから険しい目でリエを見た。
「違う!この人が私に振られた腹いせで出鱈目を言ってるのよ!ケイ太さんは弁護士でしょ?ねえ、私の言うこと信じてくれないの?」
ただわめく彼女を見るケイ太の顔には、もう何の感情も浮かんでいなかった。
「むしろ、今の君のどこに信じられる要素があるというの。とにかく少し考える時間が欲しい。落ち着いたら俺から連絡するから、君の方からは連絡を控えてくれ」
それだけ言うと、ケイ太は俺を連れてその場を立ち去った。背後には、未だ何かを叫んでいるリエの大声が響いていた。
それからしばらくして、俺は再びケイ太と会う機会があった。その席で、彼は迷惑をかけたと改めて謝った。
「彼女との婚約は正式に解消しました。元々、合わないと思うところはあったんです。でも彼女は献身的で、俺もそれに甘えてしまって。まあ、それもきっと弁護士と結婚したかったからなんでしょうけどね」
自嘲気味な彼の言葉に、俺は無言で頷いた。弁護士と結婚すること。それが彼女の理想なのであれば、否定することでもないと思う。だが、だからといって、それが他人を傷つけていい理由にはならない。リエは何だかんだと強い女性なので、これに懲りずにまたあの調子で貪欲に行動していくのだろう。
俺は小さく笑って、ケイ太の肩を叩いた。
「お互い、弁護士になる夢は叶えたけど、結婚にはしばらく縁がなさそうだな」
「本当に」
俺の言葉に、ケイ太が肩を竦める。
「じゃあ、何のしがらみもない1人同士、今夜は久々に飲みにでも行こうか」
「はい。もちろんエイジさんの奢りですよね?」
そう言ってケイ太がふざけたように笑った。
「おい、いいじゃないですか。人生の先輩として、小心者の後輩を慰めてくださいよ。あ、俺いい店知ってます」
その後も、しばらく俺たちの賑やかな会話が響いていた。


