「妹に家を譲るから」――夫がそう言った時、私は笑うことすらできなかった。 気づけば私は、家のローンも、すべての家事も、夫の見栄も抱え込む「良い妻」を演じていた。夫の実の妹には、風邪でも「子供に移さないでよ」と言われ、専業主婦のサボりだと決めつけられて。 あの人たちは知らない。この家のローンを払っているのも、一体誰なのか。 「女が口を挟むな」と笑った夫に、私はもう何も言わない。…

「妹に家を譲るから」――夫がそう言った時、私は笑うことすらできなかった。 気づけば私は、家のローンも、すべての家事も、夫の見栄も抱え込む「良い妻」を演じていた。夫の実の妹には、風邪でも「子供に移さないでよ」と言われ、専業主婦のサボりだと決めつけられて。 あの人たちは知らない。この家のローンを払っているのも、一体誰なのか。 「女が口を挟むな」と笑った夫に、私はもう何も言わない。...

「妹に家を譲るって話になったから」
夫の口から飛び出した言葉に、私は一瞬何を言われたのか理解できなかった。

私の名前は井又静香、45歳。銀行員だ。夫の敬語も同じ銀行に勤めている。娘は一人、独立して家を出た。今はマイホームで夫と二人暮らし。ここだけを見れば、順風満帆な人生に見えるかもしれない。実際、私自身も大きな失敗なくここまで来たと思っていた。

私はどちらかと言えば、夫の後ろを歩くタイプの古典的な妻だった。敬語とは相性のいい夫婦だったと思う。ただ一つだけ、絶対に譲れない条件があった。それは「働き続けること」だった。

敬語は昭和の亭主関白タイプで、当時は夫婦の役割をはっきり分けるのが普通だった。でも私がそこだけはどうしても譲らなかった。マイホームのローンに子育てと、収入は多いに越したことはない。敬語もしぶしぶ折れてくれた。私はこの仕事が好きだったし、経済的に自立していたいと常々思っていた。その生き方を認めてくれた敬語には感謝していた。

家を買う時、ローンは私が、生活費は敬語が毎月負担すると決めた。ボーナス時は二人で払う。住宅ローンは月15万円。楽な金額ではないが、それが仕事のモチベーションにもなっていた。家族を支えているという実感が嬉しかった。

それを「一家の主」の一言で決められてしまった。あまりのショックで、その日は何も言い返す気力が湧かなかった。私の積み重ねてきた努力は、何の意味もなかったのだろうか。

悔しくて涙が止まらなかった。娘の里子に電話しようか迷ったがやめた。優しいあの子は、仕事を休んで飛んでくるだろう。看護師として働き始めたばかりの彼女に心配をかけたくなかった。精神的にも自立すべき。私は無理やり眠りについた。

夫が家を譲ると決めた相手が、妹の奈々香だということも気を重くしていた。

「ねえお姉さん、このハンバーグ、味薄すぎない?ソース持ってきて」

「ごめんなさい。ちょっと風邪気味で味が分からなくて」

「風邪?うちの子に移さないでよ。ていうかお姉さん、何年主婦やってんの?お兄ちゃんに養ってもらってんなら、家事くらい真面目にやらなきゃ見捨てられるよ」

奈々香はそう言いながら、子供を連れて夜10時まで居座る。後片付けも全部私一人だった。食材費を払うでも、手伝うでもなく、子供たちとテレビを見てゲラゲラ笑っている。月に二度も三度もある。

一度、敬語に言ったことがある。

「奈々香さんのことだけど、いくら家族でもマナーがなってないと思う」

「お客さんに皿洗いさせるっていうのか?それこそマナーがなってない。そういうのは女房がやるって決まってるんだ。お前は本当に何も知らない女だな」

逆に叱られて、黙るしかなかった。今思えばおかしい。時代錯誤もいいところだ。でも長い間、それが当たり前だと思い込んでいた。

敬語は外からの見え方を気にするタイプだった。奈々香一家にも見栄を張りたい敬語は、私のことを「仕事を辞めた専業主婦」と偽っていた。それで奈々香は私を世間知らずのお嬢様育ちだと思い込み、小馬鹿にするようになった。

「ライブハウスって社会の縮図なのよ。情熱と夢が交差するところね。まあ、静香さんみたいなお嬢様に言っても分からないか」

奈々香の夫はミュージシャンで、ライブハウスとの交渉やグッズ販売を手伝っている。夜は家を開けることが多く、幼い子供三人を平気で私に預けてくる。

「ママがおばさんみたいにはなるなよって言ってた」

「おばさんって逮捕でもされたの?」

奈々香の娘に聞かれた時は、言葉にできない暗い気持ちになった。家族の子供とはいえ、他人の命を夜中預かるのはストレスだった。子供たちは家中の引き出しを漁り、キッチンの食品に手をつけ、庭の花を勝手に摘む。やりたい放題だった。

家を妹に譲ると言われて、我慢の限界が来た。

「どうして奈々香さんたちに家を譲るの?説明して」

「あいつら俺たちと違って、なかなか仕事が続かないだろう。そんな状態じゃ家を持つのは無理だ。子供が三人もいるのにアパート暮らしは可哀想だろ」

「もし家を譲ったら、私たちはどこに住むの?」

「俺たちはもう二人暮らしなんだ。こんな広い家は必要ない。中古の小さな家を買うか、マンションを借りればいい」

曖昧な口ぶりに、不審感が膨らんだ。どうやら完全に見切り発車だ。先のことなど考えていない。きっと妹に見栄を張りたくて、冗談半分で言い出したことが本気にされて、後戻りできなくなったんだろう。

「明日、奈々香たちが内見に来るからな。決まったことに文句言ってる暇があったら、掃除でもしてくれ」

その一言で、私の何かが切れた。今まで敬語に何を言われても我慢してきたのに。ここで文句を言うのは簡単だが、こうなったら徹底的に戦ってやろう。私は家中を隅々まで磨き上げて、決戦のステージを整えた。

翌日の昼過ぎ、奈々香一家がやってきた。子供たちは庭で遊ばせ、奈々香と旦那は我が物顔で家の中を見て回る。

「この小部屋は楽器の収納にしたいんだけど、子供らの部屋が足りないんだよな」

「俺は家を建てる時、子供部屋を増やした方がいいって静香に言ったんだが、聞かないでそのままになったんだ」

「うわぁ、姉さんやってくれるわ。思いっきり失敗じゃん」

「一人っ子かい。寂しかっただろうな」

嫌味を言われても、私は笑ってやり過ごした。爆発するタイミングはまだじゃない。

「ところで、お兄ちゃん。その話なんだけど」

奈々香が話を切り出した。下品なお金のハンドサインを作って。

「本当にありがたいわ。お兄ちゃんが払ってくれてるから、私らの稼ぎでも住めるんだし。具体的にいくらくらい払えばいい?」

腕を組んで仁王立ちしていた敬語の目が、にわかに曇った。彼は住宅ローンの額を把握していないのだ。

「静香、ローンあといくら残ってるんだ?」

「月15万円の返済で、あと10年残ってるわ」

言った瞬間、ジェットコースターが頂点から真っ逆様に落ちるような爽快感があった。口をあんぐり開けて黙り込む奈々香と旦那。最初に口を開いたのは敬語だった。

「おい、なんでまだそんなに残ってるんだ?そんなわけないだろ」

そんなわけがあるのだ。自分の家のローンを妻に任せきりで、素振りも見せなかった自分が恥ずかしくないのか。

「残ってるのよ」

とどめを刺そうとした私を、敬語が腕で制した。

「これからもローンはうちで払っていくから問題ない。元々俺たちが買った家なんだ。俺たちが払い切るのが筋ってもんだ」

今度は私が黙り込む番だった。この人は一体何を言っているんだ?

「ええ?いいの?お兄ちゃん」

「お兄さん、本当にいいんですか?」

「ああ。お前たち家族には幸せになってもらいたい。この思い出の家をお前たちに継いでほしいと本気で思ってるんだ」

「本当にありがとう!一生感謝するよ」

ここまで来て、さすがに黙っていられなかった。

「ちょっと待って。勝手に話を進めないで。私はまだ何も言ってない。そもそも家を譲ること自体、認めたわけでもないのに、お金まで決めるなんておかしい」

敬語は私に言い返す前に、奈々香と旦那の肩を叩き、「何も心配いらない」というように頷いて帰らせてしまった。おそらく、お金の話になると、私にまだ話していない都合の悪い事実を知られるのが怖いんだろう。

「いい加減にしろ。どうしてお前は家族のためを思って動けないんだ。いつも自分のことばかりで恥ずかしくないのか」

「今の恥だよ、お前は。家族のため、家族のためって、あなたが一番自分しか考えてないじゃない。本当にこれでいいと思ってるの?これからのことだって考えてないくせに」

「お前がそんな自己中だとは思わなかったよ。正直、本当に参ってる」

「もう離婚しかないかもしれないな」

怒りで、悲しみで、震えが止まらなかった。その直後のことはあまり覚えていない。ただ、その夜、震える手でボタンを押し間違えながら娘に電話をかけたことだけは覚えている。

「里子、ママ…話があって」

名前を呼んだだけで、何かあったことがバレてしまった。私は涙をこらえきれず、しゃくり上げながら全てを話した。

「いくらなんでもひどすぎる。ママが言うこと聞く必要ないよ。そんなの無理だよ」

「でもどうしよう。私はもうあの人に立ち向かえない」

「ママ。この際だから言うけど、私はずっとパパと離婚すればいいのにって思ってたよ」

驚きのあまり、涙が引っ込んだ。

「どうして…」

「だってママ、ずっといじめられてたじゃん。働いてるのに、『俺が養ってる』みたいに偉そうで」

私は今まで夫にいじめられているなんて、ちっとも思っていなかった。実の娘にそんな思いをさせてしまっていたなんて。

「ねえママ、私と一緒に暮らそうよ。今のところは無理だけど、二人ならもう少し広い部屋を借りられるし」

その言葉を聞いて、私の決意は固まった。娘に頼る情けない親だと思われるかもしれない。でも、娘にそう思われてまで今の生活を続けることの方が、娘にとっても私にとっても最悪だと気づいた。

翌日、私は敬語の目も気にせず、タンスの中身を片っ端から出してダンボールにまとめ始めた。さすがの敬語も、怒りより驚きが勝ったようだ。

「おい、何をしてるんだ」

「何って、荷物をまとめてるの。出ていかなきゃいけないから」

「出ていく?どういうことだ?」

「離婚するなら私はここにいられないでしょう。それに、家を奈々香さんに譲るんだから、遅かれ早かれ出ていくんじゃない」

敬語の目から、昨日まで燃えていた炎が見る影もなく消えた。

「おい、ひょっとして昨日の離婚の話を本気にしてるのか?あれは言葉の綾だ」

「言葉の綾?そんなことを言う人となおさら一緒にいられません」

その後も敬語はあらゆる手段で私を引き止めようとした。怒鳴ってみたり、泣き落としてみたり。あまりにも情けない中年の姿を見て、私は一体彼のどこが好きだったのか思い出せなくなってきた。ついに私は敬語の制止を振り切り、家を出た。敬語は追っては来ず、その後何度も電話がかかってきたが全て無視。一週間ほどで着信もぱったりと止んだ。

有給を取って、敬語が出勤中に少しずつ私物を運び出した。思い出の家から思い出の品を一つ一つ取り出していくのは気の重い作業だったが、落ち込んでもいられなかった。まだ何も終わったわけじゃない。本当の戦いはこれからだ。

家を出て数ヶ月。私は里子の家とホテルを行ったり来たりしながら、生活を立て直していた。里子はずっといていいと言ってくれるが、仕事が忙しい彼女のプライベートを邪魔したくなかった。

ある夜、久々にスマホに着信があった。奈々香からだ。

「もしもし。ちょっとお姉さん、今どこにいるの?」

「里子の家だけど、どうしたの?」

「どうしたもこうしたもないの!お兄ちゃんにも連絡つかないし、とにかく大変なことになってるのよ」

「何があったの?」

「退去命令とかいうのが届いてるんだけど!この家って本当に姉さんたちの持ちなんだよね?なんで私たちが出て行かなきゃいけなくなってるの?」

「そうね。確かに私たちの持ちだったわ。この間売りに出したから、今はもう違うけど」

「はあ?何言ってるの?あんたにそんな権限ないでしょ。元々お兄ちゃんが払ってる家なんだから」

「権限ならあるわ。あの家、元々私名義だから」

電話口で奈々香が息を飲むのが分かった。

「敬語はローン審査が通らなかったの。仕方なく私の名義にしたのよ。もちろん支払いも私がしてた。あの家のローンが滞ってたのも、敬語からの支払いがなかったから」

言葉を失う奈々香に、私はたたみかけた。

「奈々香さんは知らないでしょうけど、あなたのお兄さんは万年平社員。私は随分前に出世して、この家の稼ぎを支えてたのよ」

新卒時代は輝いていた敬語だったが、その輝きは出世には繋がらなかった。自信過剰で媚びない態度が上司の目に悪く映ったようだ。私はそれを反面教師に、地道に周りを立てて働いてきた。結果、様々な部署から声がかかり、今では本部勤務に昇格していた。それを周りに見栄を張っていたのだ。

ようやく状況が飲み込めてきたのだろう。奈々香は青ざめた顔で、すがるように訴えてきた。

「元住んでたアパート引き払っちゃったし…この家出て行ったら、私たち住むとこなくなっちゃう。ローン払っていくから、引き続き住ませてくれない?」

「売ってしまったからには、もう私の家じゃないからどうしようもないわ。それに月15万円のローンを10年払うのは現実的じゃないでしょう」

「じゃあ私たちどうしたらいいの?助けてよ。家族でしょ?」

この後に及んで家族呼ばわり。本当におめでたい頭だ。

「無理ね。私、あなたの家族じゃないから」

「なんでそんなひどいこと言うの?」

「だって他人じゃない。あなたのお兄さんと私はもう離婚してるんだもの。この間、郵送で離婚届を送ったのよ」

奈々香は苦し紛れの理論を持ち出してきた。

「お姉さんも私と同じ女なら分かるでしょ?子供がいて、家庭があって、それがピンチにさらされたら、どんなに大変か。お願い、自分のことだと思って助けてよ」

「私、あなたのお兄さんから『一家の主が決めたことに女が口を挟むな』って言われたの。本当にその通りだと思うわ。申し訳ないけど、女の私にできることは何もない。無力な女でごめんなさいね」

そう言って電話を切ってやった。その後も何度か電話があったが、無視していると一週間ほどで止んだ。お兄さんとそっくりだ。

私は女らしく、つましく、静かに黙って見守ってあげることにした。

「もしもし、ママ」

「もしもし。元気そうね。ていうか、あの大きな本棚、本当にママが一人で組み立てたの?」

「そうよ。組み立て業者を頼むと納期がかかるって言うから、自分で組み立てることにしたの」

「まあ、逞しい」

タワーマンションの高層階からの眺めはよく、天気によって表情を変える窓の外を眺めるのが楽しみになった。最初からマンションを買う方が私の性分に合っていたのかもしれない。このことに気づけたのも、離婚の成果の一つだ。

あの後、離婚届に印を押してくれた敬語は、上司から移動命令も出て、子会社への出向が決まったという。今まで家のことを何一つしてこなかった中年が、いきなり一人になって生活が回らなくなり、仕事にも身が入らなくなったのだろう。おかげで私と敬語が仕事関係で顔を合わせる確率はほぼゼロになった。

今、私は家を売ったお金と、昔からコツコツ貯めてきた貯金でマンションを買い、一人で暮らしている。心配した里子が一緒に暮らそうと言ってくれたが、もう少し一人で頑張りたかったので断った。本当に寂しくなったらお願いするかもしれない。でも自分で決めたことは、少しでもぶれずに向き合っていきたい。

休日はなるべく色々なジャンルの本を読んで、学びの時間に当てている。もっと上を目指して、未だに上層部に根を張る女性蔑視の昭和体質を何とかしたい。私と同じ思いをする人を減らすためにも、自立した女としての手本でありたいと強く思うようになった。

奈々香さんも同じ女として、どうか自分の力で家族を守ってほしい。私と違って、彼女には頼れるお兄さんや旦那様がいるし、強い人だからきっとどうにかやって生きていけるだろう。

明日は里子とショッピングの約束をしている。今日はもう寝よう。

私は、やっと私の人生を歩き出した。

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