「この新商品、うちだけで売らせてもらうよ。契約は破棄だ」…

「この新商品、うちだけで売らせてもらうよ。契約は破棄だ」...

「さて、ここからは、うちで販売を担当させてもらうよ」

その突然の言葉に、私の頭は一瞬真っ白になった。言ったのは、取引先の部長だった。三年間、うちの会社と先方は、一緒に洗剤を開発してきた。その契約を打ち切って、利益を独占するなんて、人としてどうなのか。そう思った瞬間、第三者の声が割って入った。

私は川辺と申します。四十五歳。洗剤や掃除用品を作って売っている会社で、企画開発部の部長を忙しく務めている。部下からは「現場主義」と呼ばれることも多い。数字を見ただけでは、売れるかどうかは判断できないたちなのだ。私は実際に試作品に触れ、使ってみる。そうして初めて、それが顧客の手に渡った時の反応を想像できる。今、私は大きなプロジェクトを任されている。三年前に始まった、長年付き合いのある大手ドラッグストアチェーンとの共同開発プロジェクトだ。うちの会社と先方は、二十年の付き合いになる。その節目に何か特別なことをやりたい。それがきっかけだった。両社の商品開発チームが力を合わせて、新しい食器用洗剤を作った。天然由来の成分でありながら、こびりついた油汚れに効果的に働く。さらに、多くの人が悩む排水溝のぬめりまで防ぐ、独自の処方を持っている。この二つを同時に実現するのは、決して簡単な道のりではなかった。配合比率を変えれば洗浄力が落ち、洗浄力を上げれば肌への優しさが損なわれる。壁にぶつかっては議論が止まり、試行錯誤の連続だった。この独自処方の核となったのは、うちが何年もかけて特許を取った、油汚れを分解する技術だった。この処方は、その特許技術と、先方の販売力や顧客データを組み合わせることで初めて実現できた。だからこそ、商品が完成した後は、両社の法務部も交えて、処方の共同特許も視野に入れて準備を進めていた。現場に関わった者なら誰でも、この商品が片方の手柄だけで作れたものではないと分かっているはずだ。私は開発チームと一緒に残業し、何時間も成分表を睨みつけた。他社との共同開発だからこそ、意見の衝突も一度や二度ではなかった。正直、諦めたくなる時もあった。それでも、ただ一つ、いいものを作ろうという一心で、皆で前に進み続けた。つい先日、ようやく商品が完成し、思い描いていた通りの出来になったことを確認した。今でも、互いの背中を叩き合って喜んだ光景を鮮明に覚えている。しかし、その心の隅で、小さな不安が渦巻いていた。原因は、先方の商品部長である飯島だった。彼は、上から目線で話す男で、すべてを自分の利益だけで判断する。社内でも、自分さえ良ければいいという身勝手な男として知られていた。会議でも、「おい、そんなことされたら、俺の評価に関わるんだよ!」と、自分の都合だけで文句を言う。正直、飯島と話すたびに、嫌な気持ちになっていた。数字しか見ない飯島。現場を大事にする私。相性が悪いのは明らかだった。開発が始まった時も、彼はチームにこう文句を言った。「お前たちは成分にこだわりすぎだ。もっとコストを下げろ」と。「そこまでコストを下げたら、両社が目指す品質に届きません」。開発チームと私がそう反論しても、飯島は聞く耳を持たなかった。「だから共同開発は面倒なんだよ」「自社でやれば、もっと早く済むのに」。彼は、そんな愚痴ばかりこぼしていた。パッケージデザインを、自社の他の製品ラインに合わせろと要求してくることも、問題は尽きなかった。まるで、この共同開発という形を疎ましく思っている本心が、滲み出ているかのようだった。そして、試作が完成した時、飯島は信じられないような発言をした。「いやあ、正直、これ、うちが作ったって言いたいくらいだよな」。冗談めかして言ったが、その瞬間、私も、いや、周りの皆も、固まってしまった。「何を言ってるんだ、こいつは」。そこにいた全員が、そう思ったに違いない。今思えば、あの発言は冗談ではなく、飯島の本心がぽろりと漏れたものだったのかもしれない。あの時、不吉な予感が、すでに胸の奥深くに暗い影を落としていた気がする。雰囲気を悪くしないように、私は大人の対応で「そこまで言ってもらえる品質で、良かったですよ」と流しておいた。ここで波風を立てても、今後の関係に悪影響があるだけだと思ったからだ。「飯島部長の失礼な態度、大変申し訳ございません」。その時、平謝りしていたのは、先方の担当である曽我だった。曽我は先方の営業部に所属し、長年うちの担当をしてくれている。いつも誠実な男だが、最近は飯島の問題発言や行動のせいで、間に入ってばかりいるようだ。まずい。そう思い出して、私は頭を振った。飯島のことを考えるたびに、胃のあたりがむかむかする。「考えても無駄か」。私はため息をついた。私や誰かが何を言おうと、飯島にとっては、手柄を取れるかどうかだけが問題なのだ。飯島のことを心配するのは、自分の心の平穏にも良くない。私は考えを改めて、自分の仕事に戻ることにした。

事件は数日後に起きた。共同開発の会議を終えて、戻ろうとした時、私は飯島に呼び止められた。大事な話があると言う。「何でしょうか」。会議中に言えばいいのにと思いながらも、私は振り返って話を聞いた。飯島は、にやりと笑って、こう言った。「単刀直入に言うと、新商品の販売契約は、うちでやらせてもらうことになった」と。意味が理解できず、頭が真っ白になった。「ちょっと待ってください。新商品というのは、この共同開発した商品のことですよね? 他に何があるんですか?」。飯島は、それが当然のことであるかのように鼻で笑った。「何を訳の分からないことを言ってるんだ」。私は、今にも飛び出しそうな言葉を必死に飲み込んだ。「共同開発したという事実は、なくなりません」。この商品を自社の新商品として売るために契約を打ち切るなんて、身勝手極まりないし、絶対に許されない。そう続けようとした時、第三者の声が割って入った。「どういうことですか?」。聞き覚えのある声に、私と飯島は同時にそちらを見た。曽我が、会議室の入り口に立っていた。「何でお前がここにいるんだ」。飯島が問うと、曽我はまっすぐにこちらへ歩いてきた。「忘れ物を取りに戻ったんです」「それよりも、飯島部長、今の話は何ですか? 私も開発チームも、何も聞いていませんが」。曽我の声のトーンを聞いて、私は安堵した。これは、どうやら飯島が勝手に決めたことらしい。「本当に、契約を打ち切ると言ったんですか? 聞き間違いだと言ってください」。曽我が確認すると、飯島は、もはや我々のことを無視したかのように嘲笑した。「言ったぞ」「だから何だ? この新商品は、我が社のブランドで売る」「お前の会社との契約は破棄だ」「文句あるか?」。彼の明確な言葉は、静まり返った会議室に響いた。もはや、誤解の余地はない。「ふん」「俺は何も無理なことは言ってないぞ」「我が社の利益を考えれば、当然の選択だ」。その開き直った態度に、曽我と私は、唖然として顔を見合わせた。まるで、私の心の中の声を代弁しているかのようだった。「飯島部長、ついに頭がおかしくなりましたね」。曽我が吐き捨てた。私も、心の中で強く同意せずにはいられなかった。そして、私は静かに口を開いた。「飯島部長、今ならまだ、聞かなかったことにできますが」「撤回するなら、今のうちですよ」。実は、胸の内では、胸ぐらを掴んで「正気に戻れ!」と怒鳴りつけたい衝動に駆られていた。しかし、部長である前に、私は、このプロジェクトに三年間携わってきた社員たちと、会社を代表している。ここで感情的になって声を荒げれば、飯島の思うつぼだ。拳を握りしめ、私は必死に自分を抑えていた。不快感、怒り、失望。そんな負の感情が、胸の内で渦巻いているのを感じた。この三年間、我々が注いできた努力を理解し、互いに敬意を持っていれば、こんな行動はできまい。飯島の行動は、プロフェッショナルとしても、人としても根本的に間違っている。一言で、我々の三年間の努力も、喜びも、仲間と過ごした時間も、全てを無駄にされたのだ。だが、ここで感情に任せてしまえば、それこそ飯島の思うつぼだ。かえって状況を悪化させるだけだろう。飯島は、毅然とした態度の私を、ただ嘲笑うだけだった。「我が社は大手だ。君の会社も、この業界では名が知られているかもしれないが、所詮は中小企業だ。その意味が分かるだろう」。脅すような口調に、私は絶句した。「飯島部長、いい加減にしてください!」。曽我が怒鳴りかけたが、私は手で制した。「ありがとう、曽我さん」。飯島をまっすぐに見据えながら、私は言った。「承知しました」「それが、あなたの会社の最終的な回答なのですね」。わざと「飯島部長」ではなく「あなたの会社」と言ったことで、飯島は一瞬、驚きの表情を見せた。しかし、その表情はすぐに元に戻った。「ふん」「強がってるのか?」「では、その返答、承諾したと受け取るぞ」。それは、彼の独りよがりな思い込みだった。私は何も承諾していない。だが、飯島は我々の立場など気にも留めず、勝ち誇ったように会議室を出て行った。その後ろ姿を見ながら、もう我々の取引関係は完全に壊れたのだと確信した。これからどうなるのか。正直、私にも道筋は見えなかった。それでも、目の前の現実と向き合うしかない。私は重いため息をついて、曽我の方を向いた。曽我は何も言わず、深く頭を下げた。「曽我さんには、巻き込んでしまって申し訳ないが、飯島部長がこういう態度なら、こちらも相応の対応をするしかない」「仰る通りです」「部長の非礼、心からお詫び申し上げます」。そう言って、曽我は、先ほどまで会議をしていた席へと歩いていった。そこは、我々が話していた場所からほんの数席離れただけのところだった。何かを忘れていたのだろうか。曽我は、机の下の収納スペースに手を伸ばし、何かを取り出した。彼の横顔は、なぜか安堵したような表情に見えた。「実は、前々から、この会社を辞めようと思っていたんです」「だから、もう何も怖くない」。人として飯島部長を許すことはできないので、私も協力します。そう言って、曽我は何かを取り出し、私に差し出した。私は驚いて目を見張った。彼の手のひらにあったのは、ボイスレコーダーだった。曽我が、いつもメモの代わりに使っているものだ。さらに、レコーダーの小さな画面には「録音中」という文字が表示されていた。それを見て、私は力強く頷いた。

翌日の午後、私は数人の人物と面会した。社長、先方の社長、そして、顔色が真っ青で震えている飯島がいた。なぜこのような状況になったのか。それは、今朝一番に起きた出来事から始まる。先方の社長の話によると、曽我は出社してきた飯島にこう言ったらしい。「飯島部長の昨日の発言のせいで、先方から、来年度の注文、120億円分を全てキャンセルすると言われました。どうするつもりですか?」と。ハンドソープやキッチン用スプレーなどの定番商品に加え、来月発売予定だったキャラクターコラボ洗剤も。既存商品の来年度分の納入が、全て白紙になったのだ。長い付き合いのせいで、我々は先方のチェーン店に多くの商品を納めている。120億円の損失は、決して小さくない。そういうことだった。「私が、飯島部長に契約を破棄すると言われた後、すぐに社長に詳細を報告しました」。私がそう言うと、飯島は、恨めしそうな目で私を睨んだ。実は、昨晩、社長に報告を終えた時点で、この勝負は負けないと確信していた。昨日の私の話を聞いた社長は、怒りで顔を真っ赤にしていた。「これはどういうことだ。商品一つに対する裏切りだけではない」「このような誠意のない男に、我が社の看板商品を任せ続けるわけにはいかない」。彼は、即座に、もう納品する必要はないと決めた。報告した私自身も、その決断の速さに驚いた。その報告がきっかけで、社内は大騒ぎになったらしい。その話はすぐに先方の社長の耳にも届き、激怒した先方の社長が飯島を引きずって謝罪に来た。それが、この場に至った経緯だった。「飯島、お前、何か言うことはないのか」。先方の社長の言葉に、飯島は震え上がった。「い、いえ、何か誤解があるようです。軽い冗談が、真に受けられたようで」。飯島はそう言ったが、声は震え、目は泳いでいた。私は、ため息とともに首を振り、何かを取り出した。「聞いてください」。そう言ってボタンを押すと、昨日の飯島の声が流れ始めた。曽我から昨日受け取ったボイスレコーダーだ。もちろん、社長はこの録音の内容を既に聞いている。だからこそ、迅速に契約打ち切りを決断できたのだろう。飯島の声が、部屋に明確に響き渡った。飯島の顔からは、さらに血の気が引いていった。「なぜ、そんなものが…」。曽我は、たまたま忘れ物を取りに戻っただけ。その言葉に、飯島の顔は虚無になった。録音を聞き終えた先方の社長は、頭を抱えて絶望した。「飯島、自分勝手な愚行で、事の重大さを理解していたのか」。うつむいたまま、先方の社長は言葉を吐き出した。このような男を管理職に置いていた会社の責任も、決して軽くはないだろう。それでも、先頭に立って頭を下げ続けることを強いられたこの男に、私は同情せずにはいられなかった。「きちんと反省し、謝罪してくれることを期待していましたが、残念です」。私の言葉に、先方の社長は黙って深く頭を下げた。そして、その手で飯島の首根っこを掴んだ。「頭を下げろ」。その低い声とともに、飯島の頭は机に付くほど押し下げられた。会議室には、数秒間、重い沈黙が流れた。「わ、私は…」。その沈黙を破るように、飯島はか細い声を絞り出した。「私は、商品部長で終わるような人間じゃない」「もっと上を目指している」「そのためには、成果が必要だった」「川辺部長なら、分かってくれるでしょう?」。どうして、そんなことを言えば私が納得すると思えたのか。私は、疲れたため息とともに首を振った。「何も分かりませんね」「手柄が欲しければ、正直に努力すればよかったんです」「共同開発したという事実は、なくなりません」「こちらの了承なしに、そんな要求が通る訳がないのは、分かっていたはずでしょう」。私の言葉に、飯島はしどろもどろになった。「そ、それは…。それをきっかけに、値引きとか、何か優位に立てるかと思ったんです」。しかし、川辺部長が理解を示した時、全て私のせいにしようとしたでしょう。私が問い詰めると、飯島は黙り込んだ。実に残念なことです。本社とは、二十年の良い関係を築いてきたのに。隣で社長が呟いた。悲しみと怒りを帯びた声が、静かに部屋に響いた。二十年の関係が、一人の男の身勝手さで崩れてしまった。飯島の責任は重い。

その後、共同開発した商品は、予定通り発売された。店頭では高い評価を受け、SNSでも多くの賞賛の声が寄せられている。我々の三年間の努力が、ようやく実を結んだ瞬間だった。だが、それは同時に、取引関係の完全な終焉でもあった。飯島の行動は、共同開発の末の全面決裂という事例として、業界に広まった。ネットニュースでも取り上げられるほどだった。相手の会社は、今も尚、対応に追われ、火消しに忙しいと聞いた。それを教えてくれたのは、他でもない曽我だった。内部告発をした後、彼は会社を辞め、故郷の地元企業に転職し、幼馴染と結婚する予定らしい。飯島はその後、解雇され、120億円分の損失の一部として、数千万円の賠償責任を個人として負うことになった。業界では職を見つけられず、現在は畑違いの分野で働いているらしい。この騒動のせいで、我が社は、取引先を大切にする会社だと評判になった。そう言って、新たに取引を申し込んでくる企業が増えたのは、純粋に嬉しかった。我々は、三年間かけて築いたものを、決して裏切らずに守り抜いた。それで、十分だ。

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