市場の一角に古びた将棋を広げる餅屋のばあ様は、「今日はこの餅を一つも売ってはなりません」と言った物乞いの少女の言葉を、最初は一笑に付しました。翌日になれば固くなって捨てるしかない、一日の稼ぎを丸ごと捨てるも同然の理不尽な頼みです。それでも、私はその少女の何かを信じました。売れるはずの餅を風呂敷で覆い、市場中から嘲笑を浴びながら一日中座り続けたその先で、私はあの少女の言葉に隠された、川に捨てら…

市場の一角に古びた将棋を広げる餅屋のばあ様は、「今日はこの餅を一つも売ってはなりません」と言った物乞いの少女の言葉を、最初は一笑に付しました。翌日になれば固くなって捨てるしかない、一日の稼ぎを丸ごと捨てるも同然の理不尽な頼みです。それでも、私はその少女の何かを信じました。売れるはずの餅を風呂敷で覆い、市場中から嘲笑を浴びながら一日中座り続けたその先で、私はあの少女の言葉に隠された、川に捨てら...

まだ夜も明けきらぬ暗いうちから、持ち屋の乙はかまどに火を焚きつけていました。乾いた薪がパチパチと音を立て、赤い炎が揺れるたびに、せいろからは白い湯気がふわりと立ち上ります。残暑がまだ去らぬ台所は息苦しいほどでしたが、乙は汗を拭いながらも黙々と手を動かし続けていました。香ばしいあんの匂いが漂う頃、乙はせいろを開けて餅を包み、丁寧に持ち上げました。その手の甲には、長年餅を蒸し続けてきた火傷の跡がいくつも残っていました。

桶一杯に餅が詰まる頃、空が白み始め、乙は重い籠を頭に乗せて市場へ向かいます。乙の店は市場の片隅にある古びた将棋でした。無口で愛想がなくても、その粘りのある餅の味は界隈で一番と言われ、市が立つ日にはいつも人だかりができました。四十年来、乙は同じ場所で将棋を広げ続けてきました。日が傾く頃、乙は売れ残った餅を布に包み、市場の外れにかかる橋の下へ向かいます。そこには親を失い、行き場のない五人の子供らが寄り集まって暮らしていました。乙が近づくと、子供らはどっと駆け寄り、乙は曲がった腰をかがめて、子供らの手に餅を一つずつ握らせてやりました。赤だらけの子供らは餅を口に押し込むのに夢中で、その様子を見届けた乙は、言葉一つかけることなく静かにその場を後にしました。隣近所の者たちは、あの年寄りが毎日物乞いばかりしていると陰口を叩きましたが、乙は何も答えず、その理由を誰にも語りませんでした。

その子供らの群れの中に、十歳ほどの女の子、小崎がいました。傍らには痩せ細った幼い弟がまとわりついています。弟は自分の分の餅を食べ終え、口元についたあんを舌で舐めていました。小崎は自分の分の餅を両手で大事そうに握り、すぐには口へ運ばず、しばらくじっと見つめてから、丁寧に手に力を込めて正確に二つに割りました。まだ物足りなさそうにしている弟の顔を横目で見ながら、小崎は迷わず自分の分を差し出し、その半分だけをゆっくりと噛み、残る半分は古びた布に包んで両手に大切に抱え込みました。夜遅くに弟が腹を空かせて泣き出した時のためです。「後で夜に腹が空いたらこれをあげるからね。だから泣かないで。」小崎は弟に囁き、誰にも見られぬよう背後に隠しました。弟に笑って見せる小崎の腹からは、小さくぐうと音が鳴っていました。

一方、乙は坂道を登りかけて足を止め、来た道を戻ってきました。懐にはさっき取っておいた餅がまだ一つ入っていました。小崎の背後から、荒く節くれだった手が不意に現れます。驚いた小崎が振り向くと、坂の上から子供らの様子をじっと見下ろしていた乙が立っていました。「これは、ばあ様が召し上がるものではございませんか。」小崎が両手を背に隠して後ずさると、乙は構わずその小さな手を引き寄せ、手のひらに自分の拳ほどの餅を握らせました。「受け取っておきなさい。餅一つが人を生かすものだ。」乙はそう一言だけ告げると、返事も聞かずに裾を翻して闇の中へ戻っていきました。小崎は、懐に隠した半分の餅と手にした新しい餅を見比べ、遠ざかるその曲がった背中に深々と頭を下げました。なぜこの年寄りが自分たちにそこまでしてくれるのか、その理由を知るものは村中に誰一人おりませんでした。

数日後、市場で一番大きな持ち屋を営む男が、険しい顔つきで乙の将棋に近づいてきました。男は突然、足で将棋をどんどんと蹴りつけると、「ここはどこだと思って勝手に店を構えておるのだ」と場所代を持ち出して難癖をつけました。餅の味では叶わぬゆえ、無理を通して追い出す算段です。見ていた者たちは気の毒に思いながらも、金持ちで意地の悪い男に睨まれることを恐れ、口を挟むことはできませんでした。乙は怒ることも言い争うこともせず、黙って桶を頭に乗せ、市場の橋へと足を運びました。そこは人通りすら少ない、埃の舞う場所でした。ようやく邪魔者が消えたとばかりに、男は肉の切れ端のような笑みを浮かべていました。

日が中天に登る頃、乙の餅を求める常連の客たちが市場に押し寄せてきました。彼らは市場中を探し回り、ようやく橋の場所で見つけ出しました。埃の舞う場所にも構わず将棋の前に集まりましたが、通りすがりに匂いを嗅ぎつけて立ち寄っていた新しい客足はぱったりと途絶えてしまいました。その日の夕方には売れ残りが半分ほど籠に残り、それを見た男は満足げに笑いました。その晩、橋の下の子供らはいつもより多くを食べることができたのでした。

それから三日ほど経った頃、村一番の物持ちである商家の旦那様の元で、還暦の祝いが催されるとの噂が広まりました。半月後の市の日に開かれるその祝いの、お膳に上げる餅は、男の店が丸ごと請け負うことになりました。大儲けを見込んだ男は、朝早くから市場中を練り歩いて自慢して回りました。「皆の旦那様が召し上がる餅を、うちの店がすっかり請け負うことになったぞ。村一番の餅屋が、どこの馬の骨とも知れぬ婆さんに負けるはずがなかろう。」連れ違う者が「村一番の店は違う」と言うものもあれば、苦笑いするものもいました。内心得意になった男は、乙の将棋の前をわざわざ歩いていきました。乙は言い返すことも悔しがることもせず、黙々と餅を切る仕事に心を注ぐばかりでした。相手にされずいい気味に負かされた男は、鼻を鳴らしながら、「見ておれ。半月後には村中のものが、わしの餅の味に感心することになろう」と言い残して自分の店へ戻っていきました。

その日の夕方、乙はいつものように橋の下へ向かいました。膳はすでに空になっており、一番遅く近づいた小崎は、地面に落ちたかけらを指でつまむのが、その日食べた全てでした。子供らがほお張る間、小崎がそっと乙の前に進み出て手を揃え、丁寧に頭を下げました。「ばあ様、いつも私たちを飢えさせずにいてくださり、誠にありがとうございます。」そして、少しためらいながら、「ばあ様は、なぜ私たちにこれほどよくしてくださるのですか」と尋ねますと、乙の曲がった背が一瞬固まり、籠を撫でていた指先もその場で止まりました。しかし、乙は何も答えず、闇の濃くなった細道を黙々と歩いて去っていきました。

祝いを十日ほどに控えた日、男は餅のねだんを半分に切り下げ、「商売の祝いに登る餅を安く味わえる機会だ」と声を張り上げて客を寄せ集めました。同時に、男の陰湿な企みはそれだけでは終わりませんでした。市場で乱暴を働くならず者を一人こっそり呼びつけ、銭の包みを握らせて乙の将棋の前を脅すようにうろつかせたのです。ならず者は、将棋を蹴り倒さんばかりに一日中乙から離れず、恐ろしい気配に押された常連の客らは将棋に近づくことすらできませんでした。しかし、ねだんを半分にした男の商売は、売れば売るほど損の出るものでした。材料と手間賃を差し引けば手元には一銭も残らず、数日のうちに男は赤字を出していました。「あの婆さん一人を追い出そうとして、自分の身を削ったものだ」と悔しがりながら己の店の柱を蹴り付けました。

六日目になった日、離れていた常連の客が再び隅の将棋を尋ね、乙の餅を受け取ると顔に笑みが浮かびました。「やはりこの味だ。何日も食べられず、どれほど恋しかったことか。値が問題ではない。私たちはこのばあ様の餅が食べたかったのだ。」ならず者はなおも将棋の傍らをうろついていましたが、客らはその目つきを気にせず堂々と列をなしていました。乙は一日とて場所を離れることができず、日が暮れて涼しくなる頃まで地べたに座って客を待つ日が何日も続きました。

祝いを六日後に控えた夜のことです。桶を頭に乗せる途中の乙が、自宅の門の前でそのまま座り込んでしまいました。翌日は大きな市が立つ日でしたが、市場の隅、乙の場所はぽっかりと開いていました。乙が店に将棋を出さなかったのは四十年で初めてのことでした。ひどい熱で寝込んだという噂は橋の下の小崎の耳にも入り、小崎は弟の手をぎゅっと握ってすぐさま走り出しました。近所の者に尋ねてたどり着いた乙の家は、小さく粗末なわらぶき屋根の家でした。台所のかまどは幾日も火を入れていない様子で冷たく冷え切っており、いつも湯気を吹き上げていた大きなせいろにはうっすらと埃が積もっていました。小崎が生け簀を開けると、こもった匂いと共に唸るようなうめき声が漏れてきます。乙は熱い布団を被ったまま、脂汗を流し苦しげに息をしていました。

小崎はためらわず袖をまくり上げ、忙しく動き始めました。まず井戸から冷たい水を組み、手ぬぐいを濡らして乙の熱い額を拭ってやります。額を拭うたびに乙の呼吸がわずかに落ち着くのを見て、小崎は少しだけ安堵の息を漏らしました。弟は小崎に言いつけられた通り庭を回って薪を拾い集め、細い腕で何度も往復して台所へ運びました。小崎は弟の集めた薪でかまどに火を起こし、なかなか着かない火に苦戦しながらもようやく赤い炎をあげると、鍋に水を沸かし、続いて乙の家に残るわずかな米をといで、薄い粥を炊き始めたのです。粥が煮える間、小崎は何度も鍋を覗き込み、焦がしてはならぬと火加減にじっくりと気を配っていました。いつも餅をもらう側であった橋の下の兄弟が、今度は自分たちの手で初めて乙に何かを返す時でした。ほどなく部屋中に粥の香ばしい匂いが漂うと、乙がうっすらと目を開け、自分の枕元を守る二人の子を見て驚いて身を起こそうとしました。「お前たちが、どうしてここに来ておるのだ?」乙の掠れた声はひどく枯れており、指先は細かく震えていました。「ばあ様、じっと寝ていてくださいまし。私が粥を炊きましたから、少しでも召し上がってください。」小崎は安心させるように笑いかけ、粥を盛る器を探そうと部屋の中を見回しました。その時、小崎の視線が部屋の隅に置かれた古い箪笥の上に止まりました。そこには小さな子供用の晴れ着が一枚、丁寧に畳んで置かれており、その傍らには幼子が使うような小さな草履が並べて置かれていました。汚れ一つなく、誰かが大事にしてきた様子が歴然としています。この狭く古びた家に子供が住んでいるはずがないのにと不思議に思いながらも、小崎は橋の下でなぜこれほど良くしてくれるのかと尋ねた時、口を開かなかった乙の姿を思い出しました。その品々に込められた事情を軽々しく訪ねるのは無作法であると察し、小崎はあえて視線をそらして台所へ駆け戻り、清潔な碗に粥をよそいました。さめて冷えた粥を乙の口に運んでやると、乙は言葉もなくそれを受け取り、杓子を握るこの小さな手の甲に目を止めました。その手の上に、熱い涙の粒が一つぽたりと落ちてきました。

数日の看病の甲斐あって、乙の高熱はようやく治まりました。長かった苦しい息遣いが穏やかになり、頬にもわずかに赤みが戻ったのを見て、小崎は初めて心の底から胸を撫で下ろしたのでした。乙が床を上げたその晩、空には一際大きく丸い月が明るく登っていました。乙は寝床にもつかず、狭い縁側に出て月明かりをじっと見上げていました。弟が腹をいっぱいにして寝息を立てる様子を確かめてから、小崎もそっと生け簀を開けて縁側へ出て、乙の傍らに音も立てずに寄り添って座りました。しばらくの間、二人の間には虫の音だけが静かに流れていました。小崎は隣に座ったまま何を尋ねるでもなく、ただ乙の横顔をそっと見上げていました。どれほど経ったでしょうか。固く閉ざされていた乙の唇がついにゆっくりと開かれました。「箪笥の上に置いてある小さな晴れ着を、見たかの。」掠れた声が静かに響きました。小崎は看病の間ずっと気になっていたことを言えず、黙って頷くばかりです。乙は荒れた手で自分の古びた着物の裾をそっと撫で下ろしました。「あれは、随分昔、わしの懐を離れていった、たった一人の娘の着物じゃ。」

数十年前、村中にひどい飢饉が起こり、人々が木の皮を剥いで食べていた時のことです。乙には三つになる娘が一人、小春と申しました。色白でよく笑う子でした。「祭りの日に着せようという、鮮やかな晴れ着を仕立てておいたのが、あの子の最後の仕事であった」と申します。ところが冬が来ると、家に残る穀物は一粒もございませんでした。乙は小春を綿の布に包んで背に負い、当てもなく市場へと足を運びました。腹を空かせた子は泣き崩れる力さえなく、乙の背で細い息をようやくついていました。「この子の口に入れる一口だけでも良いのです。どうか分けてくださいませ。」乙は凍りついた市場の地面に膝をつき、通りすがりの者たちに何度も頭を下げましたが、皆、飢えに苦しんでいた自分たちであり、誰一人食べ物を分けてはくれませんでした。餅の匂いが漂う店の前を三日三晩彷徨い、捨てられたかけらさえ拾おうとしましたが、店の主人は「餅は施しでもなんでもない」と冷たく追い払ったのでした。「あの餅屋の前を彷徨っていたあの数日こそ、わしの生涯で一番胸の痛む時であった」と乙は静かに漏らしました。そんなある晩のことです。背に負われた小春の細い息遣いが、ある瞬間、ふっと止まりました。乙が驚いて背の布を開いた時、小春は母の呼びかけに答えることはございませんでした。「あの寒い冬の日、わしの手に餅が一つでもあれば、その一つだけあれば。」深く刻まれた皺の間から、思いを長く吐き出しました。「それゆえ、市場で腹を空かせた幼い子の前を、わしはとても素通りできぬのじゃ。餅一つが人を生かすという言葉は、深い恨みを抱えた年寄りの繰り言よ。」乙の淡々とした告白が終わると、縁側には重く静かな沈黙が降りてきました。小崎は頭を垂れたまま、両の拳を膝の上で細かく震わせていました。乙が身を削ってまで橋の下の子を養い続けてきた訳を、小崎はそこでようやく知ったのでした。声を殺して泣く小崎の背を、乙は投げやりに慰めるのではなく、荒く節くれだった手を伸ばしてそっと撫でてやりました。その手の上に、明るい月明かりが柔らかく降り注いでいました。その夜以来、小崎にとって乙は、もはや餅を分けてくれるだけの見知らぬ年寄りではございませんでした。そして、その恩に報いる日は思いのほか早く訪れたのです。

還暦の祝いが二日後に迫った頃、市場の真ん中の男の店は早朝から大騒ぎでした。何百人分もの餅を仕掛けるというのに、祝いの当日一日でどうやってそれだけの餅を蒸すのだ。「前もって蒸しておいてこそ間に合うのだ」と男は職人を叱咤していました。もし十分な人足を雇えば、当日の未明でも十分に蒸し上げることができたはずです。しかし、数日来の連日の安売りで銭を使い果たした男は、あり合わせの職人だけで前もって蒸しておく道を選んだのでした。祝いの二日前から餅を蒸し上げ、木箱や桶に山と積み込むと、餅を納めた倉はすぐにいっぱいになりました。風通しの悪い裏庭の縁側までもが、熱い餅で埋め尽くされてしまいました。傍らで見ていた年配の職人が恐る恐る一言挟みました。「旦那様、この暑さでこうして積んでおいては、半日と持たずに酸っぱい匂いが立ち始めましょう。」長年餅作りに携わってきたその職人には、この蒸し暑さがいかに餅にとって毒であるか骨身に染みて分かっていました。すると男は、「つまらぬことを言わず、さっさと手を動かせ」と一蹴し、「二日ほどなら大事あるまい」と取り合いませんでした。

その日の夕方のことです。橋の下から使いに出された小崎は、たまたま男の店の裏手を通りかかり、風通しの悪い縁側にまで熱い餅の塊が山と積まれている光景を目にしました。黙々と湯気を上げる餅がびっしり並ぶ物々しいその様子が、小崎の頭の片隅にずっと引っかかって離れませんでした。ところが、その夜は更けても一向に暑さが覚める気配がありませんでした。風一つ吹かぬうだるような熱気が、市場の路地を隅々まで押し包みました。餅を納めた倉と、縁側に山積みになっていた何百人分もの餅は、その粘りつく熱気に耐えきれず、夜のうちにすっかり痛んでしまいました。夜が明けきらない早朝、男の店は一騒動となりました。「この酸っぱい匂いのするものを、今すぐ目の前から片付けよ!」男は床を踏み鳴らし、下働きの者たちを怒鳴りつけました。下働きの者たちは慌てて痛んだ餅をかき集め、大きな俵に押し込んでいきます。瓶に埋めるには日が暮れるまで掘っても掘り切れず、残る道はただ一つ、川に流すことでした。まだ深い薄闇の残る真夜中、市場の外に真っ黒な人影がいくつも忍び込みました。男の下働きたちが、重い俵を担いで人目のない場所を探して現れたのです。誰かに見つかりはせぬかとあちこち伺いながら足音を忍ばせて進むその様子はいかにも後ろめたいものでした。行き着いた先は、夜になっても子供らが眠っているとは思いも寄らなかった古びた橋の下でした。下働きたちは怯えた目で辺りを見回すと、川へ向かって次々と餅を打ち捨てていきました。酸っぱい匂いが立ちのぼり、濁った水しぶきが上がりましたが、夏の雨が乏しかったせいで川は足首がようやく浸る程度にしか水がなく、それが全てを流し去ってくれるという考えは大きな見込み違いでした。慌てて逃げようとした一人の下働きが、俵を石にぶつけてひっくり返し、その麻袋の切れ端ごと朝瀬に取り残されました。下働きたちは空になった俵を抱え、後を振り返ることもなく急いでその場を去っていったのです。その全てを、蒸し暑い闇の中からじっと見つめる目が一つありました。寝苦しさに目を覚ましていた小崎が、うつ伏せになったまま、下働きたちの行動を初めから終わりまで見届けていたのです。小崎は息一つ立てず、闇の中に伏せていました。下働きたちの足音が完全に遠ざかると、小崎はそっと川べりに出て、朝瀬に引っかかった破れた俵の布切れをその場で拾い上げました。紛れもなく男の店の屋号が記されております。小崎は誰にも見られぬよう、その布切れを橋の下の己の寝床の奥深くにしっかりと隠しておきました。手にした布はまだ腐った匂いをまとっており、握る指先にその冷たさが染み込んでいきます。

旦那様の還暦の大きな祝いは、まさにその日の晩に予定されていました。祝いの膳に登るはずの何百人分もの餅は、今全て川に捨てられてしまったのです。この短い一日で男があれだけの餅を新たに蒸し上げる術はないはずでした。とすれば、この村で無事な餅を売る店は、市場の片隅にうずくまる乙の古びた将棋ただ一軒しかありません。小崎の目が闇の中で光りました。つい先だって月明かりの下で聞いた乙の昔語りが、その胸にふと思い浮かびます。小崎は眠る弟が目を覚まさぬよう古びた上着をそっとかけてやり、夜が明け切るにはまだしばらくかかる時刻でしたが、急ぎの心のままに橋の下を素早く抜け出し、がらんとした市場の坂道目がけて力いっぱい駆け出しました。

朝日が登ると、市場は立ち並ぶ品を売り歩く人々で賑わってきました。乙もいつものように市場の片隅に現れ、古びた将棋を広げ、桶の餅から黙々と白い湯気が立ち上っているところでした。乙が節くれた手で餅を切り、初めの客に渡そうとしていたまさにその時、遠くから橋の下の物乞いの子、小崎が息を切らして駆けてきます。小崎は古びた草履で土埃を上げながら市場を突っ切って一目散に走り、満身の力で将棋の前に駆け込んで、切迫した声で大きく叫びました。「ばあ様、今日はこの餅を一つも売ってはなりません。」その唐突な叫びに、見物していた者たちが一斉に大笑いをいたしました。ちょうど忙しく商いを始めるべき朝に、餅を売るなとは全く呆れた話です。向いの店で商っていた男もその様子を見て、腹を抱えて嘲笑いました。「誠に滑稽な景色よ。物乞いの小僧が餅商いに口出しまでしよるとは。」しかし、小崎は浴びせられる嘲笑にも構わず、乙の元へ近づいてきます。小崎はつま先立ちになり、乙の耳元で小さな声で何かを囁きました。傍らに立つ人々にも聞こえぬほど、ごく小さく掠れた声でした。何を聞いたものか、乙の曲がった背中がわずかに強張りました。乙は手を止めたまま、しばし言葉がございませんでした。数日前、自分の口にした言葉が思い出されたからです。小崎はその日の未明に、腐った餅が川に捨てられるのを目撃したのだと、あの一言でした。「お前がその目で見たことなのか?」「はい。未明に私が橋の下で、この目で見届けました。」乙は風呂敷をかけようとしていた手を止め、桶を見下ろしました。この残暑では、今日売れ残った餅は明日には固くなってしまうものです。一日の稼ぎを丸ごと捨てるも同然でしたが、それでも乙はあの子がいかなる子かよく承知していました。自分の分の餅を半分に割って弟に先に食べさせていた子であり、理由のない施しは一つも受け取らぬと後ずさっていた子であり、寝込んだ自分を何日も看病してくれた子でもありました。乙はゆっくりと頷きました。「お前がそこまで言うのであれば、そのようにいたそう。」乙は手にしていた包丁をまな板の上に静かに置きました。そして、大きな清潔な風呂敷を取り出し、湯気の立ち上る餅の桶をすっぽりと覆ってしまったのです。乙の思いがけないその振る舞いに、市場の人々の目が一斉に片隅の将棋へと集まりました。ちょうど餅を買おうと銭を取り出していた常連の客が、「ばあ様、うまい餅を売らずに、なぜ風呂敷などかけなさるのですか」と惑いながら尋ねました。乙は風呂敷の角を丁寧に整えながら、あの独特の、掠れた声で、「すまぬことでございますが、今日は餅を一つも売るつもりはございません」と答えました。客は残念そうに悔しがりながら、手ぶらで帰らねばなりませんでした。乙はその後訪れる客たちにも同じ答えを繰り返して返しました。あの物乞いの小僧の言葉をそのまま真に受けたのであろうと、市場の者たちは朝のうちこそ笑っていましたが、日が傾くにつれ、「いかにも売れる餅を隠しておくとは、何事であろうか」と怪しむ色を濃くしました。それでも乙は風呂敷をかけた将棋の前に、岩のように腰を据えたまま動かしませんでした。小崎はその背後で、小さな拳を固く握りしめたまま古びた裾を掴んで立っていました。日が中天を過ぎ、市場の嘲笑は夕暮れが近づいてもなお収まらず、二人は人々の刺すような視線に耐えながら時が過ぎるのを見送っていました。

夕方近く、朝方も同じ所に居合わせた常連の客の一人が、嘲笑う者たちを横目で睨みながら将棋の前に近づき、懐から黄色く熟れた桃を一つ取り出して、かけてある風呂敷の上にそっと置いてくれました。「ばあ様、一日中座っていらっしゃって喉も乾きましょう。これでも召し上がってください。」「周りが何を言おうとも、ばあ様にはばあ様なりの考えがあるのでしょう。」客は小さく付け加えました。乙は何も言わず、その桃をそっと撫でていました。その頃、男の店の裏庭では、職人たちがなす術もなく大慌てをしていました。近隣の村まで人を走らせて餅を求めようとしましたが、何百人分をすぐに蒸せる場所などどこにもございませんでした。焦りに唇の乾いた男は、その不安を思いがけない方向へぶつけようと心を決め、つかつかと橋の方まで歩み寄りました。そして、小崎の傍らに立っていた小崎の腕を荒々しく掴んだのです。「この小僧が、一体何を企んだら人の商いに水を刺すのだ。限りで、橋の下の乞食どもを市場から追い払ってやる。」男が目を吊り上げて怒鳴りつけました。小崎は掴まれた腕を振りほどこうともがきながらも、朝方目撃した秘密だけは頑として口を割りませんでした。まさにその時、岩のように動かなかった乙がその場ですっくと立ち上がりました。「その手を放しなされ。」掠れた声が橋の上に低く響きました。四十年をその場所で売り続けながら、乙が声を高くしたのはその日が初めてのことでした。「この子は、わしの大切な子じゃ。」乙は小崎の小さな肩を両腕で抱き寄せ、自分の背後にしっかりと隠しました。かつて見たことのない気迫に押され、男は言葉を失いながらじりじりと後ずさりし、罰が悪そうに己の店へと戻っていきました。

日がすっかり傾いた頃、旦那様のお屋敷では大きな車が男の店に着き、祝いの膳に上げる餅を受け取ろうとしていました。車を引いてきた屋敷の下人たちは初めは何かの間違いかと店の中を何度も見回しましたが、餅を納めた倉はもぬけの殻で、酸っぱい匂いだけがこもって残っていました。任の次第を厳しく問い詰められた若い職人の一人が、体を震わせながら白状いたしました。「旦那様が二日前から前もって蒸させ、木箱に詰めさせましたが、今朝方は下働きの者たちに命じて、何かをこっそり始末させておりました。」それを聞いた旦那様の家来は、青ざめた顔で市場へと急ぎ、「大変でございます!男の店に頼んだ祝いの餅が、すっかり傷んでしまったのです!」と、市場中に響き渡る声で叫びました。にわかに静まり返った市場で、男は膝の力が抜けて地べたにへたり込んでしまいました。しかし、この時、家来はまだ市場の片隅に無事な餅が残っていることまでは知らずにいました。やがて人々の視線が、申し合わせたように市場の片隅の古びた将棋へと向かいました。振り向いた家来が驚いて将棋に駆け寄り、「ばあ様、どうか私を助けると思って、その餅を見せてくださいまし」と頼み込みます。乙はそこでようやく、一日中かけていた大きな風呂敷を取り払いました。風呂敷の下には、朝方蒸し上げた美味しそうな餅が、乾くこともなく行儀よく積まれていました。「待っておりました。お客様がようやく参られました。」乙の淡々とした声が、静まり返った市場にこだましました。家来が餅の量を数えてみますと、還暦の祝いの最初の膳に上げる分にはちょうど間に合う量でした。「いかにして私の窮地をあらかじめ察しになり、これほど見事に餅を残しなさったのですか。」家来は乙の手を握って尋ねましたが、乙は答えず、その背後に隠れていた小崎の口元にだけ、小さな笑みがこぼれました。朝方、小崎が乙の耳元で慌てて囁いた言葉が、そのまま見事に実を結んだ瞬間でした。

家来はその足で砂糖や米を届けさせ、乙を手助けし、そして駆けつけた橋の下の子供らも力合わせ、その晩のうちに残りの餅を蒸し上げました。子供らは水を組み、あん豆をより分け、慣れぬ手つきながらも懸命に働き、狭い台所は久しぶりに大人と子供の声で賑わいました。皆が力を合わせて仕上げた餅は、祝いの膳が下がるまでにきっちりと間に合ったのでした。その夜、旦那様の広い庭では何百人の客を迎えて祝いの膳が並び、口にした客たちが、「甘すぎず、上の口によく合う。この村で間違いなく一番の味であるな。」「蒸した湯気を浴びて、艶があって香ばしいことよ。」と絶賛しました。還暦を迎えた旦那様も味わいながら満足げに頷き、家来に「このほどうまい餅を蒸したのは、どこの店であるか」と静かに尋ねられました。家来はその日の昼間市場で起きた一部始終を包み隠さず語り、男の店の餅がすっかり傷んでしまったことと、片隅の将棋の乙が一日中餅を隠しておいた経緯を伝えると、旦那様は深い感嘆の息を漏らされました。祝いが滞りなく終わった翌朝、旦那様は改めて乙を尋ね、この度の恩に厚く御礼を述べました。「叱るべき折には必ず重ねてお礼を申し上げます。」との言葉を残して、家来はその場を後にしたのでした。餅を積んだ車が遠ざかると、見物していた市場の者たちの間から、長い感嘆の声が一斉に上がりました。ほんの半日前まで「ばあ様はもうしたか」と指を差して笑っていた、その同じ者たちでありました。

一方、旦那様の門前で己の面目を施そうと厚かましくも訪ねた男は、下人たちに冷たく追い返されてしまいました。「よくも旦那様の祝いの前に傷んだ餅を上げようとしておきながら、どの面下げてまた参ったのだ。」男は肩を落として、空っぽの自分の店へ戻らねばなりませんでした。村一番の物持ちの信用を失った以上、市場で大きな口を聞くこともこれで終わりのはずでした。しかし、男は己の過ちを悔い改めるどころか、全ての責任を乙に押し付けようと企み始めたのです。翌日から男は市場に出て人々を捕まえては偽りの噂を撒き散らしました。「あの婆さんが、わしの餅によからぬ術をかけたに違いない。なぜあの猛暑の中、あの片隅の餅だけが無事でいられたのか、考えてもみようとは。」初めは馬鹿笑いしていた市場の者たちも、男が唾を飛ばしながら繰り返し言ううちに、「そういえば奇妙なこともあるものだ」と少しずつ疑い始めました。「よくよく考えれば、あの暑さの中で乙の餅だけが痛まなかったのは不思議なことよ」と囁く者も現れ、乙を庇う声はいつしか消え、疑いの目差しばかりが満ちてきます。この根も葉もない噂は、祝いから二日のうちに旦那様のお屋敷の中にまで伝わったのでした。村一番の物持ちである旦那様は、家中に魔が入り込むことをことのほか忌み嫌っておりました。その日の午後、市場の片隅の将棋の前に、侍従の家来が近づいてきました。「ばあ様、恐れながら申し上げますが、ただいま、旦那様の御前へお出まし願わねばなりませぬ。」家来の重々しい声に、市場の人々の視線が一斉に乙へと集まりました。乙の背後で餅を並べていた小崎も驚いて顔を上げ、不安げな面差しで乙の裾をぎゅっと握りしめました。しかし、乙は驚いた様子も見せず、包丁をまな板の上に静かに置くと、小崎の小さな肩を手のひらでそっと撫でてやりました。「案ずることはない。わしが行って参るゆえ、お前は将棋をしっかりと守っておるのだぞ。」乙は前掛けで手を拭い、黙々と家来の後に従ってまいりました。遠くからその様子を眺めていた男の口元に、肉の切れ端のような笑みがこぼれました。「ようやくあの年寄りが、自分の罪の報いを受けに行くのか。」

祝いから三日後、旦那様の広い庭で、大きな対決が繰り広げられました。乙と男が並び立たされ、庭には張り詰めた緊張が漂い、集まった村の者たちも息を殺して見守っておりました。旦那様は正面の縁側に腰を据え、静かに二人を見比べておられました。男は御前でも一向にひるまず、最後まで嘘を押し通しました。「まともにお作りした餅が一夜にして丸ごと傷んでしまった理由が、他にございましょうか?あの片隅の将棋には、橋の下の乞食どもがしょっちゅう出入りしておりました。故に、汚れが移ったに違いございませぬ。」偽りの言葉が滔々と流れる中、見物人たちの間にも「もしや」という囁きが再び広がりかけておりました。乙はその非難を聞きながらも、岩のように黙って立っておりました。旦那様が険しい顔で二人を見比べていたまさにその時です。門の外から、小さいけれども実に筋の通った声が、庭中に響き渡りました。「あのばあ様には何の落ち度もございません。悪事を企んだのは、あの餅屋の主人でございます。」人々が驚いて振り返った先には、橋の下の子供らを引き連れた小崎が立っておりました。子供らはあの晩、小崎が拾い上げていた男の屋号を記した布切れをそのまま携えてきました。「どこの乞食どもが図々しくも屋敷の庭を踏もうというのだ!」と男が声を荒げましたが、旦那様は手を上げてその口を封じ、「理不尽な差別はせぬ故、お前の知ることを申してみよ」と申しました。小崎は大きく息を一つ吸い込むと、凛とした声で語り始めました。「祝いの二日前、あの店の裏手で餅を山ほど蒸して積み上げているのを見ました。うだるような暑さの中に前もって積んでおいた故、夜のうちに丸ごと傷んでしまったのでございます。祝いの当日の未明には、下働きの者たちに言いつけて、傷んだ餅を橋の下の川へこっそり流しておりました。私どもの暮らすその橋の下から、闇の中でしっかりと見届けたことでございます。」男の分厚い唇が小刻みに震えました。「あの幼い者どもが、餅に偽りを申しておるに過ぎませぬ!」と男がなおも言い逃れようとした、その時、片隅から震える声が上がりました。「祝いの二日前、旦那様に前もって蒸すよう命じられましたが、私が『この暑さで危のうございます』と申し上げても、取り合っていただけませんでした。」あの年配の職人が、男の睨みつける視線に体を震わせながらも、腹を決して進み出て証言したのでした。長年世話になった主に背くことへの恐れよりも、罪のない老婆を見殺しにすることへの恐れの方が、その年老いた職人には大きかったのでしょう。小崎はさらに、あの夜に拾い上げた俵の布切れを庭の真ん中に差し出しました。「橋の下から持ち出してまいりました。これに記された屋号をご覧くださいませ。」傍らに控えていた家来が布切れを改め、「確かに、あの店の屋号がここにございます」と申しますと、男はもはや一言も発することができませんでした。男はへなへなと膝を折り、地に伏して命乞いをいたしました。旦那様が杖を大きく打ち付け、「この者、人を陥れ村を欺いた罪は誠に重い。この者を御代官に引き渡し、相応の裁きを受けさせよう」と申しました。男が全身を震わせて土にすがりついたその時、それまで黙って立っていた乙がゆっくりと歩み出て、男の前に立ち塞がりました。「あの者の店で働く職人たちにも、家に帰れば口を開けて飯を待つ家族がおりましょう。あの者の商いの元手までをことごとく奪い、暮らしの道を絶ってしまえば、罪なき者たちが飢えることになるのでございます。」乙は、荒く低い声で願いました。「あの年配の職人にも、書う子供があると聞いております。あの男が縄目を受けようとも、店だけは潰さずに残してやってくださいまし。」乙はさらにそう付け加えました。誰もが不思議そうに見守りました。あれほどひどい目に遭わされながら、なぜ仇敵の為に許しを請うのか訳が分からなかったのであります。「お前は悔しくないのか。なぜ、あの外道な男を助けようというのだ。」旦那様は驚いた様子で乙を見つめられました。庭に立った人々は皆、息を呑んでその答えを待っておりました。乙は、数十年前、あの冬に背中で失った娘のことを思い出しながら、目を伏せておりました。飢える子を一人でも増やしたくないという、亡き母の思いが乙の胸にいっぱいに満ちてきます。旦那様はしばし言葉もなく、やがて頷いて申しました。「ばあ様の願い、聞き入れよう。御代官には引き渡さぬ。そう心えよ。ただし、我が家の祝いの膳に上げる餅は、今後あのばあ様に全て任せることといたす。あの女の居場所がどうなるかは、村の者たちが決めることであろう。」旦那様の眼差しが再び男へと向けられました。御代官の元へ引き渡されずに済んだ男は、庭の隅で茫然自失したように座り込んだまま、しばらく立ち上がることもできませんでした。

数日後に開かれた市場の光景は、以前とはすっかり様変わりしておりました。男の悪事が村中に知れ渡ると、男は市場での信用をすっかり失い、大きな店は市場の真ん中から追われ、かつて男が無理を通して乙を追い立てた、あの埃っぽい片隅へと移らねばならなくなりました。片隅でうずくまる男は、以前乙がそうしていたように、通り過ぎる客の一人一人を目で追うばかりでありました。片や乙の餅の店は、市場の真ん中の一等地にゆったりと構えることとなったのでした。その場所の前には、乙の餅を求める常連の客たちで、朝から晩まで人の耐え間がございませんでした。かつて男が小賢しく保ち続けていた頃とはまるで別の店であるかのような賑わいでありました。

その日の昼過ぎ、市場外れの橋の下には、思いがけない客が訪れました。旦那様の下人たちが大きな桶を積んだ車を引き、「旦那様が、真実を話してくれた者たちに温かい飯を存分に食わせてやれ」と仰せになったと、子供らを呼び集めて、湯気の立つ飯をたっぷりと振る舞ったのです。肉のおかずが添えられた飯を受け取った子供らは、これまで見たこともないご馳走に、きゃあきゃあと明るい声を上げました。小崎も幼い弟の口に肉を運んでやりながら、久しぶりに腹を満たして喜んだのでした。

日が暮れ、乙は空になった桶を下げて、いつものように橋の下へと足を運びました。小崎と弟が丁寧に頭を下げて迎えると、乙は歩み寄り、荒く節くれだった手で小崎の黒い髪を優しく撫でてやりました。それから風呂敷を開き、空になった桶の底を小崎に見せてやります。「ばあ様、今日はどうして餅が一つも残っておらぬのですか?」小崎が首を傾げますと、乙は腰をかがめて小崎と目を合わせました。深く刻まれた皺の間から、春のような温かい笑みがふわりと広がってまいります。「朝晩めっきり冷え込むようになった故、うちの秋部屋に火でも入れておこうと思うてな。」乙のその短く不器用な一言に、小崎の大きな瞳がたちまち赤く潤んでまいりました。橋の下を彷徨っていた兄弟を、乙が正式に我が子として迎え入れた瞬間でありました。小崎は熱い涙を袖で拭いながら、弟の小さな手にさらに力を込めて握りしめ、「はい、ばあ様。私どもはかまどの火加減には誠に自信がございます」と明るく答えました。弟も嬉しそうに頷き、二人は乙の堂々たる後ろ姿に続いて歩んでいきます。互いを支え合うことになった三人の睦まじい影が、赤い夕日に染まる路地を温かく照らしておりました。

それから月日は幾重にも流れ、乙の餅屋は村一番の味と大きく栄えてまいりました。旦那様の後ろ盾もあり市場の一角を得て、台所には新たに五つ六つのせいろが据えられました。市が立つ度に遠くの村からも乙の餅を求めて足を運ぶ客が現れるほどになりました。それでも乙自身は、儲けが増えたからと言って何か変えることなく、来る日も来る日も同じ手つきで餅を蒸し続けていました。小崎は毎日夜明け前から起き出し、餅を割って桶に押し込み、火を起こす骨の折れる仕事も文句一つ言わずやり遂げ、乙のそばでせいろの仕事を熱心に学んでまいりました。初めのうちはあんの混ぜ方一つにも手こずり、力を入れすぎて餅を潰してしまうこともございましたが、乙は叱ることなく根気よく同じ手本を繰り返して見せてやりました。年月が経つ頃には小崎の手つきもすっかり様になり、乙はその手つきを見守りながら、指先で細かなポイントを示してやることもありました。冷たい風が吹き始めたある日、乙は市場で良い反物をたっぷりと買い求め、夜遅くまで障子の下で針を運んで、小崎のために一着の鮮やかな晴れ着を縫ってやりました。それは箪笥の上に眠る小春の晴れ着とは全く別の、小崎だけのために誂えた新しい着物でありました。生まれて初めて袖を通した小崎がはしゃぐ様子に、乙の皺の間には明るい笑みが広がりました。小崎はその着物を大切に扱い、市の立つ日以外は箪笥の奥にしまい込んでは、時折りそっと取り出して眺めておりました。市の割に余った餅を橋の下へ運ぶ役目も、いつしか小崎のものとなっていたのでございます。かつて乙が自分に授けてくれたその心を、今度は小崎が子供らに施しているところでした。

さらに幾年かの月日が流れ、いつしか乙の頭には白い髪が増えるようになりました。膝が弱り、曲がった腰にも力が入らず、もはや重いせいろを持ち上げることが難しくなってきました。乙はついに生涯を捧げてきた餅作りの仕事を、すっかり小崎に譲り渡す決心をいたしました。小崎はすでに幼子の面倒を完全に見れるほどに成長し、店の仕事を立派に任される娘になっていました。まだ夜も明けきらぬ暗いうち、小崎が乾いた手ぬぐいで煮えたせいろを包み、勢いよく持ち上げます。節くれだった手ながらも素早い手つきで餅を打ち出し、絶え間なく蒸し上げる様子は、乙にそっくりでありました。乙は縁側に座り、その頼もしい姿を誇らしげな眼差しで見守っておりました。朝日が台所に差し込む頃、蒸しての餅を平らかに打ち出していた小崎が、額の汗を拭おうと手を持ち上げました。明るい朝日の下に浮かんだ小崎の荒れた手の甲には、赤い跡がはっきりと残っておりました。かつて乙の手の甲に残っていた、まさにあの跡と同じ形でございます。乙の皺の間から、熱い涙の粒が一つ静かに流れ落ちました。それは悲しみの涙ではなく、込み上げる感謝の涙でありました。乙は立ち上がって近づき、その手を自分の両手でそっと包み込み、何も言わず長い間暖かく撫でておりました。やがて乙は台所を一巡りと見渡し、四十年余りも手垢の付いた道具を眺めながら申しました。「今日からこの台所は、お前のものだ。」小崎が驚いて何か言いかけるのを、乙は手を上げて遮りました。「しがに繰り返したけれど、お前の耳にはたこができたことであろう。今度はお前の番じゃ。」小崎は膝をつき、乙に深々と礼を尽くしました。橋の下で曲がった背中に向かって頭を下げていたあの十歳の子が、今やその年寄りの襷を受け継ぐところでありました。乙はその日以降、将棋に立つことはなくなりましたが、毎朝欠かさず台所に顔を出し、小崎の蒸す餅の出来を静かに見届けておりました。何も言わず頷くその一言のない仕草が、小崎には何よりの励みでありました。市場の者たちも、代替わりした後の餅の味に何一つ変わりがないことに驚き、「さすがは乙が手塩にかけて育てた娘である」と口を揃えて褒め称えたのでした。

それからさらに十年余りの年月が流れました。ある春の未明のことです。乙は床から身を起こすことができなくなりましたが、それでも一度台所へ出てみたいと申しました。小崎は言葉なく背を差し出し、乙を背負ってやりました。生涯、重い桶を頭に乗せて歩んできたその体は、幼子のように軽うございました。かまどの前に下ろされた乙は、せいろから立ち上る白い湯気をじっと眺めておりました。四十年、一日も欠かさず慣れ親しんできた匂いでありました。乙は乾いた手を伸ばし、小崎の手の甲に触れて申しました。「あの箪笥の上に置かれた小春の晴れ着は、わしが行く時にあの子に届けてやりたい故、一緒に納めておけ。そして、売れ残った餅は決しておまえがしまい込むやるが良い。橋の下には、待っている口があるのだからな。」乙はしばらく何も申しませんでした。台所の隙間から春の風がすっと入り込み、せいろの湯気を揺らしてまいります。やがて、小崎は呟きました。「我が子や。」去りゆく娘を呼ぶあの一言を、乙は誰にもかけたことのない言葉でありました。湯気が薄れて参る頃、乙はかまどの赤い日明かりに向き合ったまま、静かに目を閉じました。部屋の外では、朝を告げる鳥の声が一つ二つと聞こえておりました。小崎は、その日は手を離すことができず、しばらくそのままそこに座り続けておりました。四十年休むことなく火を入れ続けてきたそのかまどだけが、変わらず静かに赤い光を灯しておりました。乙の棺には、あの子の晴れ着が一枚、娘に届けるべく収められました。

乙が残していった市場の大きな餅屋は、今や小崎が立派な女将となってしっかりと切り盛りしておりました。小崎の打ち出す餅は、今も変わらず深く香ばしい味わいでありました。村の人々は餅の味だけでなく、小崎の豊かな人柄をも称え、日に店の前へと押し寄せてまいりました。夕闇が迫り、赤い夕日が長く差し込める頃になりますと、小崎は平らに残った餅を丁寧に集め、大きな桶にゆったりと詰めてまいります。かつて乙の背を押し潰していた重い桶を、今は小崎がしっかりと担いで、身寄りのない子供らが集まる、あの古びた橋の下へと歩み出すのでした。足音が届くと、闇の中にうずくまっていた子供らが待ちかねたようにどっと駆け出してまいります。小崎は地面に桶を下ろし、腹を空かせた幼い子らの汚れた手に、温かい餅を一つずつ握らせてやりました。子供らがほお張る様子を眺めていた小崎の目が、橋の柱の影にそっと座り込んだ、小さな物乞いの子に止まりました。その子は自分の分の餅をすぐには口に運ばず、両手で大事そうに握ってしばらく見つめておりました。それから餅を正確に二つに割り、片方だけをゆっくりと噛んで飲み込み、残る半分を古びた布に包んで、誰にも見られぬよう背後にそっと隠したのでした。その背には、赤だらけの幼い弟が姉の裾を強く掴んでまとわりついておりました。小崎の胸の奥が、じんと熱くなりました。数十年前、まさにこの橋の下で自分も全く同じようにしていたからです。そして、あの日自分たちの背後に近づいてきた、荒く節くれだった手のことも、共に思い出されました。小崎は黙って歩み寄り、その子の前に、自分の拳ほどの餅をそっと差し出しました。驚いた子が顔を上げると、小崎は荒れた手でその黒い髪を優しく撫でてやり、かつてあの年寄りが自分に授けてくれた一言を、静かな声で語り継いだのでした。「理由のない施しだと思わず、ありがたく取っておきなさい。この餅一つが、人を生かすものだ。」その言葉は数十年の時を超え、一人の年寄りから一人の子供へ、そしてまた一人の子供へと、絶えることなく受け継がれてまいりました。物乞いの子の曇った瞳に明るい笑みが咲き、小崎の口元にも穏やかな微笑みが浮かびました。小崎の手の甲に残る赤い跡の上に、夕暮れの薄闇が静かに降り注いでおりました。かつて自分が受け取ったものを、今は自分の手で次の世代へと渡している。小崎はそのことを誰に言うでもなく、ただ静かに噛みしめておりました。長い年月を経ても色褪せることのない、その温かな巡り合わせでありました。橋の下ではこれからも、子供らの小さな笑い声が絶えることなく響いてまいりましょう。

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