「おじいちゃん、おばあちゃん、ごめんなさい。本当はリュックも水筒もランドセルも、なくしてなかったんだよ。嘘をついてごめんなさい」
そう言って泣きながら謝る7歳のゆとの頭を、私は撫でることしかできなかった。あの時の何かに耐えるような表情は、こういうことだったのか。
「ママに言われたんだ。学校に行ったふりして、家で舞の面倒を見るって。畑に行きたかったし、お皿を作りたかったけど、服を汚すなって言われて」
ゆとは静かに話し始めた。あずさが結婚する前は、ゆとにとても優しかった。しかし結婚するや態度が180度変わった。新婚当初はゆとがいる時だけちゃんとした食事を作っていたが、今では自分が食べたいものだけを買ってきて、ゆとにはその残りを与えるだけ。当然、子供に必要な栄養を考えるはずもなく、炭水化物ばかりの食事が続いた。
ゆとが唯一楽しみにしていた給食も、妹の舞が生まれてからは奪われた。舞が泣き止まないと、あずさは怒ってベランダに締め出してしまう。まだ0歳の舞が吹きさらしのベランダに長時間放置される危険さは、7歳のゆとにも分かった。ゆとは舞が連れて行かれないように自分の身に抱えると、あずさは「私が悪いっていうの?」とさらにヒステリーを起こし、ゆとも一緒にベランダへ放り出した。
ゆとは家にいない時に何かあったらと気が気ではなくなり、一度学校に行ったふりをして公園で時間を潰し、家の様子を見に行った。すると派手な格好をしたあずさが家から出てきて、鍵をかけてどこかへ行ってしまった。部屋の中から舞の泣き声が聞こえる。その日からゆとは学校に行くふりをして、こっそり家に戻るようになった。
ゆとが学校に行かずに舞の面倒を見ていることを知ったあずさは、「いいベビーシッターができたわ」とますます外出するようになったそうだ。
そこまで話すと、ゆとはすやすやと寝息を立て始めた。ゆとの頭を撫で、私たちは先生に向き直る。
「ゆと君のことは私に任せてくれていい。あと妻を呼んでくるから、舞ちゃんも今晩預かろう」
私と夫は先生と奥さんに深く頭を下げ、診療所を後にした。向かう先は決まっている。大雪の中車を走らせ、1時間後に私たちは幸のアパートに到着した。
声を出してしまうと録音されるかもしれないと、覗き穴からも見えないように気をつけ、無言で思いっきりドアを叩き続けた。すると5分ほどしてから、のろのろと扉が開いた。
「誰だよ。2日酔いで頭痛いんだけど」
夫がわずかに開いた隙間に足を入れ、ドアを力づくで開けた。その勢いであずさは室内から放り出されるように夫にぶつかり、地面につっぷした。艶のない金髪に濃いメイク、ほぼ下着のような服装。いつもの地味な印象と似ても似つかない姿であずさは私たちを見上げ、驚愕の表情を浮かべた。
「あの黒髪は変装だったのね。まんまと騙されたわ」
あずさは動転しているのか、いつもの子育てと育児疲れで疲れきった口調で喋った。口調と格好がアンバランスで、それが芝居だとすぐに分かった。
「どうしたんだよ」
雪もいたようで、部屋の奥からめんどくさそうに頭を掻きながら出てきた。
「あれ? 母さんと父さん、なんか用?」
「なんか用じゃないわよ。ゆとがこの寒さの中、靴も履かずに舞ちゃんを背負ってうちに来たのよ。何やってるのよ、あなたたちは」
冷静に追い詰めたかったが、口に出すと感情が溢れ出し、私は泣きながら叫んでいた。雪が私の剣幕に驚き、しどろもどろであずさを見た。
「あずさ、2人はお前の実家に行ってるんじゃなかったのか?」
「知らないわよ。帰ったらいなくなってたの」
あずさの口調は語尾が伸びただらしないものに変わり、指で長い髪をもて遊びながら雪を睨んだ。どうやらもう演技が通じないと判断したのか、開き直ったようだ。
「雪也、あなた、ゆとが食事もしていないことを知っているのに、1人だけで外で済ませてるって本当?」
私はゆとの言葉を信じているが、一応疑問を呈した。雪はキョロキョロと目を泳がせ、最後にあずさを見た。
「それはあの子が色気づいて勝手にダイエットしてるだけ」
あずさの無理がある言い訳に、雪が頷く。
「ダイエットですって? ふざけないで」
「本当だし。てか私が食事を与えていなかった証拠でもあるんですか?」
あずさは立ち上がって腕を組み、私たちを威嚇するように顎を上げた。その悪びれない態度に、私は悔しさで震えた。すると次の瞬間、意外なところから助け舟が出た。
「その女、嘘ついてるわよ」
はっとして声がした方を向くと、隣の部屋の住人と思われる女性が立っていた。
「げっ」
何かまずいことでもあるのか、あずさが目を泳がせ焦りを見せる。女性は以前から聞こえてくる子供の泣き声を不審に思っていたという。日中は延々泣き続け、親が世話をする様子がない。夜は夜でベランダから泣き声が聞こえてくる。子供嫌いだという女性があずさに苦情を言うと、初めの頃は謝って頭を下げてきたが、赤ん坊をほったらかして外出しているのを見たと告げると態度が豹変し、「変な噂を流すと訴える」と逆に脅してきたという。
「何が訴えるだ。これを聞きな」
女性が手にしていたスマホの画面をタップし、掲げる。するとスピーカーから、たましい赤ちゃんの泣き声が流れた。続いてガラガラとベランダが開く音がし、「ママ、やめて」というゆとの必死な声。「うるせえんだよ。お前も一緒に出て泣き合わせとけよ」とヒステリックに叫ぶあずさ。ベランダが閉まる音まで、一部始終全て録音されていた。
地獄絵図のような光景が頭に浮かび、私は悔しさと悲しさで言葉を失い、口を両手で覆った。
「今日は全く赤ん坊の泣き声が聞こえないから、それはそれで不安だから、明日の朝一で児童相談所か警察に通報しようと思ってたんだよ」
「やめろ」
その言葉を聞いたあずさは青ざめながら女性のスマホを奪おうとする。もみ合いになろうかというその時、反対方向からも声がした。
「こっちにも証拠があるぞ」
いつの間にか左隣の部屋の前に男性が立っていた。私と同じ年くらいのその男性は、手に茶封筒を握りしめている。
「俺も、赤ん坊を置いて日中いなくなるこの女を不審に思っていたんだ。これを見てくれ」
男性が探偵事務所と思われる封筒から数枚の写真を出す。私と夫はそれを覗き込み、息をのんだ。派手な格好をしたあずさが中年男性と手を組んで、ラブホテルに入っていくところだった。写真には時間が記されており、ホテルに入った時間は午前10時。出てきたのは午後4時だった。その間、舞ちゃんを放置していることになる。また他にも、車中で密着している写真や、スーツケースを引っ張りながら2人で新幹線に乗り込む瞬間まで捉えられていた。調査報告書には密会していた日が詳細に記されている。
これには雪が飛びついてきた。
「な、なんだよこれ。おい、あずさ、どういうことだ? この男は誰だ?」
雪があずさに詰め寄る。
「なんだよ。全然関係ないじじが出しゃばってんじゃねえよ。プライバシーの侵害だ」
あずさは雪など目に入っていない様子で、雪の体を押しのけ男性の方へ走った。しかし、ただでさえ目がしばしりパニック状態で、加えて底の薄いサンダルを履いたあずさは足元がおぼつかず、足をひねり転んでしまった。地面に這いつりながら顔だけを上げ、「プライバシーの侵害だ」と何度も喚き散らす姿は、まるで抜け殻の蛇のようだ。
あずさの主張などに耳を傾けるつもりはないが、私も男性がどうしてそこまでしてくれたのだろうと疑問に思った。
「どうして他人の家庭のためにそこまで?」
私が尋ねると、男性はぐっと唇を噛み、悔しそうな顔で教えてくれた。男性には、ゆとと同じ年くらいの子供を病気で亡くした過去があるという。雪や家族がこのアパートに引っ越してきた頃は、顔を見るたびにゆとは元気よく男性に挨拶してくれたという。男性もゆとに亡くなった子供を重ね、毎日元気な顔を見るのを楽しみにしていた。しかし、だんだんとゆとの表情が暗く、体も痩せ細っていく。見ていられなかった男性がおにぎりを差し出すと、ゆとはその場でむしゃむしゃと食べ出した。
「また明日も食べにおいで」
男性がゆとに言うと、ゆとは嬉しそうに笑った。しかし翌日から、ゆとは「ママに怒られるから」と男性を避けるようになったという。
「この女は、わざと顔色の悪い化粧をしてあんたたち夫婦の同情を誘い、金を巻き上げてたんだ」
男性がビシッとあずさを指差すと、あずさは反論の材料を探すように目を泳がせ、口をパクパクと動かす。
「金を巻き上げただって? 俺はそんなの聞いてないぞ」
「あなた、仕事でミスして処分になったんでしょ? 夫婦の口座に毎月、父さんが仕送りをしてるじゃない? 給料が下がったって言って」
雪がポカンと口を開ける。
「まさか俺が、減給して給料が下がったと嘘をついて、共有口座とやらに金を振り込ませてたってことかよ」
雪は怒りに震え、強く拳を握りしめた。
「それと、この女は不倫しているんだ。不倫していたのは、あんたと結婚する前からだよ」
男性が調査報告書を雪に差し出す。雪はわなわなと震え、報告書を地面に叩きつけた。
「騙しやがって」
雪があずさの髪を掴み、あずさも負けじと雪の脛を蹴飛ばした。
「お前みたいな甲斐性なしと結婚してやったんだろうが。不倫くらい許せよ」
いつの間にかアパートの全ての部屋から住民が出てきて、2人の取っ組み合いを見学している。スマートフォンを掲げて撮影までしている人もいるが、私は止める気も起きない。子供のことなんて誰も頭にない。2人に私が頭を抱えていると、沈黙を保っていた夫が一歩前に出た。
「お前たち、いい加減にしろ」
夫の怒鳴り声に驚いた2人は、動きを止めた。あまりの剣幕に、矢のような雑音も静まり、一瞬夜の静寂が戻った。それからあずさはよろよろと立ち上がり、おぼつかない足取りで室内に逃げ込んだ。雪は自分の指を加え、ブツブツと独り言をつぶやき出す。
「こんなことが会社にバレたら、俺は……」
翌日、私と夫は隣人が集めてくれた証拠を持って警察へ向かった。実の息子であっても、いや実の息子であるからこそ、罪を認めて欲しい。2人で話し合って決めたのだ。隣人の方たちの証拠が決め手となり、雪とあずさは児童虐待及び保護者遺棄の罪で、懲役5年の実刑判決を受けた。あずさの不倫相手は高校時代の恩師だったそうで、警察の事情聴取には「卒業後一度も会っていない。名前も覚えていないし人違いだ」と一点張りだったそうだ。また不倫相手に見捨てられたことを告知書で知ったあずさは、発狂しながら刑務所へ移されたという。
私たち夫婦は、ゆとと舞ちゃんを引き取った。アパートの大家さんに迷惑をかけたことをお詫びし、部屋から荷物を運び出していた時、隣の部屋の男性が現れた。自分のせいでゆとから両親を奪ったのではと落ち込んだ様子の男性に、ゆとが駆け寄り抱きつく。
「おじちゃん、あの時おにぎりありがとう。お礼が言えなくてごめんね」
にっこり笑うゆとに、男性の目尻に皺が寄った。
「元気になったんだな。良かったよ」
頭を撫でられたゆとが嬉しそうにする。子供嫌いだと言っていた、泣き声を録音してくれていた女性も、ゆとが笑顔で「おばちゃん、バイバイ」と手を振ると、まんざらでもないような笑みを浮かべた。
5年後、雪とあずさが刑期を終え出所した。あずさはその後どこへ行ったのか分からないが、雪は私たちの家にやってきた。生活費もままならず、資金援助してほしいと玄関の石畳に土下座する雪。私も夫も、事前に話し合った通り援助を断った。
「子供を見捨てるのか」
雪は態度を一変させ、立ち上がり逆切れをした。しかし夫は冷静に雪の肩を掴み、まっすぐ目を合わせる。
「お前は、助けを求めるゆとの前に手を差し伸べたのか」
雪は茫然とした表情を浮かべ、その場に崩れ落ちた。私と夫は、背中を丸めて去っていく息子の姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くした。
「おばあちゃん、おじいちゃん」
不穏な雰囲気を一変させるように、可愛い声が聞こえてくる。振り向くと、裏庭の方からゆとと舞ちゃんが駆けてきた。
「ねえ、野菜も採ろう」
舞ちゃんが鼻の頭に土をつけて、大きな大根を掲げた。ゆとと舞ちゃんは、今は私たちの養子だ。2人とも自然の中でスクスク育ち、素直で優しい子になってくれた。私たちは可愛い子供たちの手を引き、今日も畑に向かう。



