先日、新しく社長に就任した男が、42人の社員全員の前で俺を罵倒した。社長という権力を振りかざし、素敵な笑顔で俺を「中卒の役立たず」と切り捨てたのだ。あの時、俺の心は粉々になったが、それ以上に腹が立ったのは、周りの連中が何人も笑っていたことだ。この人には社長の器がない——そう確信した。だが、その3ヶ月後、この出来事が新社長の首を絞めることになり、1年後には彼を地獄へ落とすことになるとは、この時はまだ知らなかった。
俺の名前は小林、32歳。小学校6年生までは普通の家庭だったが、父が友人に騙されて多額の借金を背負わされ、我が家は一気に貧しくなった。俺は高校進学を諦め、中卒で就職することを決意した。「自分のせいだ」と何度も謝る父に、俺は明るく言ったものだ。
「中卒の何が悪いんだ?真面目に働いてれば、いつか必ず評価されるよ」
社会を知らない子供の言葉だったが、父は少しだけ笑顔を見せてくれた。
学歴が理由でほとんどの会社に門前払いされた俺を拾ってくれたのは、赤川社長だった。社員数40名ほどの小さな会社だが、業績は安定している。
「俺は学歴より、その人を見て評価する。小林は家庭の事情に負けない強い人間だ。俺はそういう奴と一緒に働きたいんだよ」
その言葉に俺は胸が熱くなり、「ありがとうございます。頑張ります」とだけ返すのが精一杯だった。こうして俺は赤川社長の元で働くことになった。
子供がいない赤川社長は、俺を実の息子のように可愛がってくれた。20歳の誕生日には、行きつけの居酒屋に連れて行ってもらい、そこで西浦さんという男を紹介された。
「こいつは西浦、小学校時代からの長い付き合いだ」
「君が小林君か。赤川から話は聞いてるよ」
西浦さんと話している赤川社長は、会社では見せない無邪気な顔をしていた。
「お2人は親友なんですか?」と俺が聞くと、2人は顔を見合わせて爆笑しながら答えた。
「西浦はライバルだな」
「まあ、赤川はいつか倒すべき相手だと思ってるよ」
よくわからないが、とにかく仲は良さそうだった。その後、この居酒屋は俺の行きつけになり、西浦さんともよく顔を合わせる関係になった。
しかし、会社のナンバー2である副社長は、俺のことを毛嫌いしていた。
「あいつに可愛がられてるからって調子に乗るなよ。俺は学歴が低いやつが大嫌いなんだ」
入社直後、人のいない場所でたまたま遭遇し、底意地の悪い顔でそう言われたのを今でも覚えている。他人からここまで敵意を向けられたのは初めてだった。副社長はその後も、会うたびに嫌みを言ってくる。最初は年上の大人から敵視されて恐怖を感じたが、1年も経たないうちに慣れてしまった。
どうしてここまで敵意を向けられるのかを知るため、俺なりに副社長を観察してみた。赤川社長は人と義を重視するが、副社長は経営の合理化とコスト削減に重きを置いている。方向性の違いから、2人はたびたび対立していた。2人は同年で長い付き合いらしいが、評価が高いのは赤川社長の方で、副社長は影で「引き立て役」と言われていた。そういった経緯から、副社長は赤川社長に対し複雑な感情を抱いているようだ。そして、長い付き合いの副社長を差し置いて、俺を身内のように可愛がる赤川社長に対し、副社長は嫉妬と怒りが入り混じった感情を抱いている——そう推測した。歪んだ感情を「学歴」という理由で覆い隠し、俺にぶつけてきているのだ。
そんなある日、いつもの居酒屋で西浦さんと飲んでいた時のこと。俺は副社長から日頃受ける嫌がらせのことを愚痴った。
「副社長には毎日のように『中卒のくせに』と言われてるんですよ。さすがに疲れますね」
西浦さんは酒のグラスを置き、静かな声で言った。
「小林君、あいつとは早めに距離を置いた方がいい。いずれお前を潰そうとするだろう」
その言葉に俺は驚いたが、西浦さんはさらに続けた。
「赤川は人を見る目がある。お前を評価しているのも間違いじゃない。だが、あの副社長は違う。奴は自分が評価されないことを、他人のせいにして生きてきた男だ」
西浦さんの容赦ない言葉に、俺は少し笑ってしまう。社長に散々傷つけられた心が、少しだけすっきりした気がした。
すると西浦さんは、突然真剣な顔で切り出した。
「小林君、提案がある」
「何でしょう?」
「給料は安いが、うちに来てくれないか?」
あまりの突然の言葉に、俺は言葉を失ってしまった。
「え、西浦さんのところですか?」
西浦さんは静かにうなずいた。
「ああ。あの副社長の下で働き続けるのは、お前のためにならない。赤川には俺から話を通しておく」
俺の頭の中は混乱していた。確かに副社長の嫌がらせには辟易していたが、赤川社長には恩がある。このまま黙って会社を辞めるのは、裏切りのような気がした。だが、西浦さんの目は本気だった。
結局、俺は西浦さんの会社に移ることを決めた。赤川社長に挨拶に行くと、意外なことに彼は笑顔で送り出してくれた。
「西浦なら安心だ。あいつは俺と違って、合理的な判断をするからな。小林、お前ならどこででもやっていける。頑張れよ」
その言葉に俺は涙が出そうになった。赤川社長の優しさが身に染みた。こうして俺は、西浦さんの会社で再出発することになった。
それから1年後、かつての会社に衝撃的なニュースが流れてきた。赤川社長の会社が、副社長の横領が原因で倒産したというのだ。副社長は私利私欲のために会社の金を流用し、その額は数億円に上る。赤川社長は責任を取らされる形で社長を解任され、副社長は逮捕された。俺を「中卒のくせに」と見下していた男は、結局、自分自身の欲望で身を滅ぼしたのだ。
そして、もう一つ衝撃的な事実を知った。西浦さんはかつて、赤川社長と一緒に会社を興した共同経営者だった。だが、副社長の策略によって追い出された過去があったのだ。西浦さんが俺を引き抜いたのは、単なる同情や親切心だけではなく、かつての自分を重ねていたからかもしれない。俺は西浦さんにそのことを聞いてみたが、彼はただ微笑んでこう言っただけだった。
「そんな昔のことはどうでもいいさ。俺はただ、お前のような真面目な人間が、無能な奴に潰されるのが許せなかっただけだ」
今、俺は西浦さんの会社で、課長として働いている。中卒という学歴は変わらないが、もう誰かに「中卒のくせに」と言われることはない。あの日、42人の社員の前で罵倒された屈辱は、今でも忘れていない。だが、あの経験があったからこそ、俺は自分自身の価値を見失わずにここまで来られた。赤川社長が言っていた「学歴よりその人を見て評価する」という言葉を、今度は俺が後輩たちに伝えていく番だ。



