「あんた中卒で働き出したなんて、よほどの貧乏生活なんだろう。身内に中卒のバカがいるなんて、わしには信じられんよ。」 見合いの席で、相手の父親が俺の目の前で、唯一の家族である兄を嘲笑った。堪えきれずに何か言おうとした俺を制し、兄が静かに言い放った言葉に、その場の空気が凍りついた。「これ以上、あなたが中卒のバカの顔を見なくても済むようにいたしますから。」…

「あんた中卒で働き出したなんて、よほどの貧乏生活なんだろう。身内に中卒のバカがいるなんて、わしには信じられんよ。」 見合いの席で、相手の父親が俺の目の前で、唯一の家族である兄を嘲笑った。堪えきれずに何か言おうとした俺を制し、兄が静かに言い放った言葉に、その場の空気が凍りついた。「これ以上、あなたが中卒のバカの顔を見なくても済むようにいたしますから。」...

あの日、見合いの席で相手の父親が言った言葉は、今でも耳の奥に焼きついている。
「あんた、中卒で働き出したなんて、よほどの貧乏暮らしなんだろう?身内に中卒のバカがいるなんて、わしには信じられんよ。」
そう言って、その男は俺の唯一の家族である兄を、まるでゴミでも見るかのように嘲笑った。兄は俺の親代わりとして、誰よりも俺を育ててくれた大切な存在なのに。

「ちょっと、お父さん!失礼にも程があるわよ。」
相手の娘さんが必死に止めようとしたが、父親は聞く耳を持たない。
「失礼なものか。わしは真実を言っているだけだ。」

娘の気持ちも考えず、言いたい放題の父親。そんな彼に対して、兄は実に冷静な表情で口を開いた。
「あなたの言い分は分かりました。安心してください。これ以上、あなたが中卒のバカの顔を見なくても済むようにいたしますから。」

その言葉を鼻で笑った父親だったが、直後、兄の正体とその言葉の意味を知り、顔面蒼白となった。
俺の名前は伊藤琢磨。中学生の頃、両親を事故で失った。それまでは何不自由なく暮らしていたが、それからというもの、俺たち兄弟は親戚中をたらい回しにされることとなった。一時期は二人バラバラにされて施設へ預けられそうになったが、その時、遠方に住んでいた父の末の弟である叔父が、俺たちを引き取って養育すると名乗り出てくれたのだ。

叔父は父とは年が離れていたが、兄弟の中でも特別仲が良く、俺たちも小さい頃からよく遊んでもらっていた。独身の身でありながら、急に中学生の子供を二人も引き取ることになった叔父には、きっと不安もあっただろう。それでも俺たちの前ではそんな素振りを見せず、叔父は俺と兄を温かく迎え入れてくれた。
中学3年だった兄は、卒業後すぐに叔父が経営する小さな会社で働き始めた。はっきりとは言われなかったが、それが俺の進学費用を稼ぐためだということくらい分かっていた。だから俺は進路希望の調査表に「叔父の会社に就職」と書いた。だが、それは学校を通じて、すぐに叔父と兄の知るところとなってしまう。

「お前は頭がいいんだから、高校へ行け。」
俺より2歳年上とは思えないほど大人びた兄が、渋い顔で俺を説得しようとする。
「でもなあ、おじさん、俺も会社に入れてよ。一生懸命働くから。」
俺がそう詰め寄られて困り果てた叔父に、兄は毅然と首を振った。そして再び俺を見つめ、真摯な表情で訴える。
「琢磨、俺は元々勉強は好きじゃなかったけど、働くことは好きでやってる。お前は勉強が好きなんだろう?もちろん働きながらだって勉強はできる。だが、チャンスがあるなら、それを無駄にするな。」

兄の言うチャンスとは、叔父と兄が俺のために作ってくれたものだった。その思いがひしひしと伝わってきて、結局俺は高校へ進学した。会社が軌道に乗り始め、経済的にも少し余裕ができた叔父からの援助もあり、その後俺は有名大学に通うことになり、卒業後は大手自動車メーカーへ就職した。
それからあっという間に10年が経った。仕事は大変ながらも楽しくやりがいがある。必死で働くうちに、いわゆる出世コースにも乗れたようで、年収も安定していた。だが、気づけば俺は独身だった。この年になると周りには既婚者も増えてくる。俺たちを引き取って育ててくれた叔父も、3年前に縁あって同世代の女性と結婚した。叔父は何かと俺に彼女の有無を聞いてくるが、これといった出会いもなく、仕事も忙しいのでなんとなくそのままになっていた。

そんなある日、兄が俺に見合い話を持ってきた。
「仕事の繋がりでな。相手はなかなかいい家柄の娘らしい。一度会ってみないか?」
正直なところ、気は進まなかったが、兄の好意を無駄にするわけにもいかない。俺はその見合いに行くことにした。

見合いの場所は、街の中心部にある高級な料亭だった。相手の家は代々続く医者の家系だという。俺が到着すると、そこには見合い相手の女性と、その両親がいた。女性は確かに綺麗で、品のある雰囲気だった。だが、その父親の顔を見た瞬間、俺は嫌な予感がした。いかにも高慢ちきな、偉そうなオーラを放っている。
席に着くなり、まず挨拶を交わす。すると、その父親が俺を見下すように言った。
「ふん、聞いていたよりも若いな。だが、大学出とはいえ、所詮はサラリーマンだろう?」

「はあ、まあ、そうなりますね。」
俺は曖昧に返事をした。この時点で、この父親は娘の結婚相手として俺を見ていないことが分かった。単に、自分たちの家柄を自慢したいだけなのだろう。
その後は、俺の家族のことを根掘り葉掘り聞かれた。両親が早くに亡くなったこと、叔父に育てられたこと、そして兄が中卒で働いていることを話すと、その父親の表情が一変した。まるで、この世のものとは思えない嫌な笑みを浮かべたのだ。そして、冒頭のあの言葉を吐いたわけだ。

「中卒のバカ」という言葉に、俺の頭の中の血が一瞬で沸騰した。兄は、俺のために進学を諦めて働いてくれたんだぞ。お前のその言葉は、俺の人生の全部を否定しているのと同じだ。
だが、殴りかかってしまっては、兄の顔に泥を塗るだけだ。俺は必死に堪えた。すると、兄が口を開いた。
「あなたの言い分は分かりました。安心してください。これ以上、あなたが中卒のバカの顔を見なくても済むようにいたしますから。」

その言葉の意味を、最初は理解できなかった。兄が一体何をしようとしているのか。だが、次の瞬間、兄は名刺入れから一枚の名刺を取り出し、その父親に差し出した。
「私、こういう者です。」
そう言って差し出された名刺には、こう書かれていた。
「日本自動車産業連合会 会長 伊藤和馬」

その瞬間、父親の顔から血の気が引いていった。日本自動車産業連合会の会長。それは、国内の自動車メーカー全てが加盟する業界団体のトップだ。そして、その影響力は、経済界のみならず、政治にも及ぶと言われている。中卒で働き始めた兄が、そこまでの地位に上り詰めていたなんて、俺は知らなかった。兄はいつも、俺に誇れる兄でいようと頑張ってきたのだろう。だが、その実績を自分から語ることは決してなかったのだ。

「こ、これは、どうも…大変失礼をいたしました…」
先ほどまであれだけ偉そうに振る舞っていた父親は、顔を真っ青にして、生業で詫びるしかなかった。だが、兄は冷ややかな微笑を浮かべたまま、立ち上がった。そして、見合い相手の女性に向かって、穏やかな声で言った。
「お嬢さん、あなたは何も悪くありません。ですが、今日のところはこれで失礼させていただきます。後日、改めてお詫びいたしますので。」
そう言うと、兄は俺に視線を送った。その目は、「帰ろう」と言っていた。俺は黙ってうなずき、兄の後を追った。後ろから、父親の慌てふためく声が聞こえたが、俺は振り返らなかった。

道すがら、俺は兄に訊ねた。
「兄さん、あれって…本当なのか?」
「ああ、本当だよ。お前には言ってなかったが、まあ、そんな大したものじゃない。ただの業界団体の役員みたいなものさ。」
兄は相変わらず、何でもないことのように言う。だが、それがどれほどすごいことなのか、俺は十分に分かっていた。それよりも、兄が俺のために、こんなにも努力してくれていたことに、胸が熱くなった。
「兄さん、中卒のバカなんかじゃない。兄さんは、俺の自慢の兄だ。」
俺がそう言うと、兄は少し照れくさそうに笑った。

数日後、見合いの相手の家から、改めてお詫びと共に、ぜひ本格的に交際を進めてほしいという連絡が来た。だが、俺はその申し出を断った。あの日の父親の言葉が、どうしても忘れられなかったからだ。そして、何より、見合い相手の女性も、あの場で一言も弁護してくれなかったことが、引っかかっていたのだ。
あれから数年が経ったが、俺は今も独身だ。兄は相変わらず、俺のことを気にかけてくれて、たまに「いい人がいたら紹介してやる」と言ってくる。だが、俺はその度に「結構です」と断っている。あの日のことが心のどこかに引っかかっているのだろう。だが、それでいいと思う。兄は、俺の人生を守るために、自分の人生を犠牲にしてきた。そんな兄が、俺の結婚相手として認めるような人でなければ、意味がないのだから。

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