「金だけもらえればそれでいいんだよ。」
深夜、トイレに向かう途中、階段の途中で足が止まった。二階から漏れてきたその声は、静寂の中で鮮明に私の耳に届いた。
「いつになったら施設に送れるの? 」
みほの声に、全身の血が凍りついた。
「焦るなよ。あと半年もすれば、向こうから出て行きたいって言い出すさ。」
強しの冷たい声が続く。
「早くしてよ。正直もう限界なの。お金さえ手に入ればそれで良かったんだ。」
リフォーム代、ありがとうな。
その言葉が、夜のしじまに響き渡った。
三十三年間、助産師として何千人もの命の誕生に立ち会ってきた私。まさか自分の息子にここまで裏切られるなんて。三千万円という退職金を出してリフォームした二世帯住宅。同居の約束を信じて全額負担したあの家が、全て嘘だったのだ。
その瞬間、私は決意した。三十三年間培ってきた人脈と信用の力、今こそ見せてやろうと。
夫の雪夫と二人で歩んできた人生を、私は思い返していた。強しを大切に育ててきた日々。教育費は大学まで総額九百五十万円を負担した。医学部進学を希望した時には、追加で予備校費用三百万円も出している。親孝行してくれると信じて。そう思いながら、私たちは息子の未来のために全てを捧げてきたのだ。
強しが結婚したのは、五年前のことだった。
「母さん、二世帯住宅を建てないか。一緒に住めば安心だろ。」
みほも笑顔でこう言った。
「お母様、私たちずっとそばにいますから。」
その言葉がどれほど嬉しかったことか。息子からそう言ってもらえて、本当に幸せだった。
リフォーム計画が始まった。一階は私たち夫婦の居住スペース。二階は強しとみほの空間。総額三千万円という莫大な金額だったが、私たちは迷わず全額負担した。
2023年春、リフォームが完成した。これで家族みんなで幸せに暮らせる。新しい家での笑顔の写真を見ながら、私はそう信じていた。
強しも言った。
「母さん、ありがとう。一生ここで暮らそう。」
みほも優しい声で、
「お母様の優しさ、一生忘れません。」
でも、平和な日々は長くは続かなかった。
リフォーム完成から三ヶ月が過ぎた頃、微妙な変化が始まった。
「お母様、その料理、ちょっと味が濃いですね。」
みほの言葉に、私は戸惑った。今まで美味しいと言ってくれていたのに。
「母さん、もう少し静かにしてくれないか。仕事で疲れてるんだ。」
強しも些細なことに文句を言うようになった。最初は気のせいかと思った。でも、日に日に態度が冷たくなっていく。
作った料理への文句。生活音への過剰な苦情。二階への立ち入りを嫌がる様子。会話を避けるようになる夫婦。
あれ、なんか変だな。そんな違和感を抱きながらも、私は努めて明るく振る舞った。
半年が経つ頃には、さらに状況は悪化していた。
「お母様、最近、物忘れ多くないですか? 認知症じゃないんですか? 」
みほの言葉に、私の心臓が止まりそうになった。
「母さん、その考え方は時代遅れだよ。もう古い人間なんだから。」
強しも冷たく言い放つ。
「助産師なんて、今は需要ないんじゃないですか。」
三十三年間のキャリアを否定された瞬間、胸が締めつけられる思いだった。私がどれだけ誇りを持って仕事をしてきたか、息子は知っているはずなのに。
認知症を疑う発言は繰り返された。「時代遅れ」「古い」という言葉も、まるで呪文のように聞こえてくる。
友人を家に呼ぶことも禁止された。
「お母様の友達が来ると、気を使うので困るんです。」
私の人間関係まで制限されるようになった。
一年が経つ頃、みほはさらにエスカレートした。
「お母様たち、一階の光熱費も半分負担してくださいね。」
みほがまるで当然のように言った。
「母さんたちの年金、少しこっちに回してくれないか。」
強しも平然と要求してくる。
「食費も別にしましょう。」
お母様、もう年なんだから、私たちに任せて楽にしてください、なんて優しい言葉は一切ない。あるのは利用価値だけ。
あの日、階段で聞いた会話が、すべてを物語っていた。
「お金さえ手に入ればそれで良かったんだ。」
養老保険、ありがとうな。
私は自分の部屋に戻り、机の引き出しから古いアルバムを取り出した。強しの赤ん坊の頃の写真。初めて歩いた日の写真。入学式の写真。どの写真でも、私は満面の笑みだった。
そして、私は決意を固めた。
もう二度と、この家で泣かない。泣く代わりに、あいつらが後悔するような仕掛けをしよう。
三十三年間、助産師として培ってきた人脈。医師、看護師、役所の職員、地域のネットワーク。全てを巻き込んでやる。
強しが医学部を卒業した時、私はどれほど喜んだことか。でも、今の強しは違う。お金のために親を捨てようとする、そんな人間になってしまった。
私はスマホを手に取り、一つの電話番号を押した。
「もしもし、佐藤さんですか。以前お願いした件、進めてください。」
私は静かに、しかし確実に行動を開始した。
三千万円のリフォーム代。九百五十万円の教育費。三百万円の予備校費用。全てを帳簿に記録し、法的な準備を整えた。
みほが言った。
「お母様、もしもの時のために、私たち名義にしておいた方がいいんじゃないですか?

」
家の権利書を渡せと言っているのだ。
「保険金もね、お母様が受取人だと、手続きが面倒でしょ。」
笑顔の裏に隠された計算。私は全てを見抜いている。
そして今、私は決行の時を迎えようとしている。
あの日、階段で聞いた言葉が、私の人生を変えた。でも、その言葉が私を強くもした。
「金だけもらえればそれでいいんだよ。」
その言葉が、私を本当の意味での「自由」にする。
今夜、私は全てを清算する。


