「了解。じゃあ帰るか」
義父がそう言った瞬間、義母も太も席を立ち、出口へ向かい始めた。私も太に促されて一緒に歩き出した。
「ちょっと待ってってば!」
美雪が声を荒らげて追いかけてくる。彼女は完全に慌てふためいていた。
「本気で帰るつもり?このお店、私が予約したのよ!完暦はどうするの?」
美雪が義両親の前に立ちはだかるが、2人は無表情で彼女を見つめただけだった。
「完暦を台無しにしたのは誰か分かっているのか?」
義父の冷たい声に、美雪は言葉を失った。
「呆れた。ひとまず私は帰るわね」
義母もそう言い放ち、美雪を置き去りにする。
「なんで赤の他人を庇うの?私は2人の娘でしょ!このまま帰るなんてありえない!」
美雪の叫びが響く中、背後から男性の声が聞こえた。
「……一体、何が起きているんだ?」
私は浜田信子、32歳。着物の修復専門店で働いている。父が始めたこの店を、今も父と2人で切り盛りしている。幼い頃から仕事に打ち込む父の背中を見て育ち、自然と職人の道を選んだ。高校卒業後、修行を積み、現在は染織技能師の資格も取得している。
2年前、仕事を通じて1つ下の太と出会った。
「すみません。この着物の染み抜きをお願いしたいんですが」
ある日、古い着物を手に店を訪れた太。それは戦前に作られた貴重なアンティーク着物で、美しい仕立てに思わず見惚れてしまった。
「これは戦前に作られたものですか?かなり貴重ですね」
「そうなんです。アンティーク着物のECサイトを経営しているんですが、染みを残したまま売るわけにはいかなくて」
私は持てる技術を全て使って修復を試みた。返却の際、太は満面の笑みを見せた。
「すごい、染みが全部なくなっている。ありがとうございます」
それ以来、太は何度も店を訪れるようになり、距離はあっという間に縮まった。
「信子さんとお父様の技術は本物ですね。何より、着物をとても大切にしていることが伝わってきます」
そして出会いから2年後、太からプロポーズされた。
「信子と一生一緒にいたい。だから、俺と結婚してくれませんか?」
嬉しかった。しかし、結婚と聞いて不安もよぎった。実は交際後に知ったのだが、太の両親は広大な土地を持つ地主で、父親は地方で手広く事業を営む有名な資産家だった。一方の私は母を早くに亡くし、父と2人で慎ましく暮らしてきた。
「本当に私でいいの?ご両親も何と言うか……」
「そんなことは言わないでくれ。俺は信子と結婚したいんだ」
その言葉に安心し、私たちは結婚した。そして今、この場に立っている。義両親の還暦祝いの席で、美雪が私を「金目当ての貧乏人」と罵ったあの日までは。
「あの女、金目当てで太と結婚したんでしょ?」
美雪の言葉に、義両親は何も言わなかった。しかし、私は震える手を握りしめるしかなかった。
「違う。私は太のことが好きだから……お金のためじゃない」
そう伝えたかったが、声が出なかった。美雪は義両親の実の娘であり、私はただの嫁。立場の違いを痛感した瞬間だった。
そして今、義父が「帰る」と言った。美雪が予約した高級料亭の個室で、私たちは立ち尽くしている。
「私が予約したのよ!お義父さんたち、どうして帰るの!」
美雪の声が部屋に響く。だが義両親は振り返りもせず、そのまま去っていった。私も太に促され、外へ出る。駐車場で太がポツリと言った。
「信子、ごめん。俺のせいで……」
「太のせいじゃないよ。でも……美雪さんがあんなことを言うなんて」
「あいつは昔からそうなんだ。俺が家を継がずに会社を興したのも気に入らなかったらしい」
太は苦笑いを浮かべたが、その目はどこか悲しげだった。
自宅に戻り、私はリビングのソファに座っていた。太も隣に座り、何かを考え込んでいるようだった。
「美雪は何か企んでいるのかもしれない」
「企むって……何を?」
「さあな。だが、あいつがただ単に暴言を吐いただけとは思えない」
太の直感は当たっていた。翌日、義父から電話がかかってきたのだ。
「信子さん、申し訳ないが……一度話がしたい。美雪が君について色々と言っていてな」
その電話の後、私は何かが崩れ始めるのを感じた。そして、それから数日後、私は思いもよらない書類を受け取ることになる。それは、離婚届だった。
私は震える手でその書類を眺めた。差出人は義父だった。そこには一言、こう書かれていた。
「お前のせいで、この家は壊れた」
何のことかさっぱり分からない。太に電話をしようとしたが、彼の電話は繋がらない。何度も何度も掛けたが、一度も応答がない。
「太……どうして」
その夜、私は実家に戻り、父に全てを話した。父は黙って聞いていたが、最後にこう言った。
「信子、お前は何か心当たりがあるのか?」
「ありません。ただ……美雪さんに嫌われていることは確かです」
父は深いため息をついた。
「その美雪という娘、何か裏がありそうだな」
そして翌朝、私の携帯に見知らぬ番号から着信があった。出ると、美雪の声だった。
「あんた、今度は何を企んでるの?」
「企むって……何の話ですか?」
「とぼけないで。あんたが義父母に何か吹き込んだんでしょ!今すぐ謝りなさいよ!」
「私は何もしていません!」
電話は一方的に切られた。私は混乱しながらも、決意を固めた。
「もう逃げない。ちゃんと向き合って、真実を確かめる」
そう決めた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。
「浜田信子さんですね。私は美雪さんの代理人の弁護士です」
その言葉に、私は全身の血が凍る思いがした。



