「ケンさん、あの時はごめんね。」
振り返ると、この前のキャバクラで話したあいちゃんが、手を合わせて謝ってきた。
「あの時」って、まさかあの見合いの席の話か?
「お願いがあるの。私の婚約者のふりをしてほしいの。」
俺は宝田健二、31歳。医療機器メーカーの営業で、毎日クタクタになるまで働いている。
職場と家の往復だけの日々。帰れば適当な夕食を食べて、シャワーを浴びて、そのままベッドに沈む。
気づけば5年、彼女いない。恋愛をする時間すらなかった。
そんなある日、母が突然見合い写真をテーブルに置いた。
「いい話があるのよ。綺麗な人でしょ?会うだけでもいいから。」
俺は写真も見ずに断った。しかし母はすでに相手に了承を取り付けていたらしい。
父まで乗り出してきて、結局、渋々見合いに行くことになった。
当日、駅前の高級和食店で初めて顔を合わせた。
相手は三宅あこさん。俺より一つ年下で、最初は穏やかな雰囲気で話が進んだ。
仕事の話や休日の過ごし方、趣味——そこまでは順調だった。
だが、ある一言で空気が凍りつく。
「動物は好きですか?私、猫を飼ってるんです。本当に癒されるんですよ。」
スマホの待ち受け画面を見せながら、あこさんは嬉しそうに話し続けた。
「猫は独立心が強くて、自分の時間を大切にするでしょ。犬みたいに人間に依存してないところがいいんですよね。」
その言葉に、俺はカチンと来た。
「俺は断然犬派ですね。人間に忠実で、無条件の愛情をくれる。実家の犬は俺が帰ると飛び跳ねて喜んでくれて、本当に可愛いんです。」
幼い頃から犬と一緒に育った俺にとって、それは譲れない一線だった。
するとあこさんの表情がみるみる曇った。
「正直言って、猫って苦手なんですよ。目つきが怖いっていうか。」
思わず本音が口をついて出た瞬間、あこさんは立ち上がり、俺を睨みつけた。
「猫のこと何も知らないくせに、そんなことよく言えますね。ひどい!」
一方的に怒鳴られて、俺の頭に血が上る。
「そっちこそ、犬の何を知ってるんですか?」
店内に緊張が走った。
——その直後、あこさんの隣にいた女性が、小さく「あ…」と声を漏らした。
その顔を見て、俺は息を飲んだ。
「あいちゃん…?」
そう、あこさんの連れとして同席していたのは、この前キャバクラで話したあいちゃんだった。
彼女はオロオロしながら俺とあこさんの間で視線を彷徨わせている。
「まさか、二人が知り合いだったの?」
あこさんの声が、怒りから驚きに変わる。
あいちゃんは何も言えず、うつむいた。
その沈黙の中、あこさんがスマホを取り出して何かを操作した。
「ちょっと待って。この写真、あなたじゃない?」
画面には、飲み会の場で俺があいちゃんと肩を組んでいる写真が写っていた。
あいちゃんの顔が一瞬で青ざめる。
「……ごめん、あこ。実は、私、ケンさんとは知り合いで——」
「知り合いって、そういう関係じゃなくて?この距離感は普通じゃないでしょ。」
あこさんの口調は冷たくなっていった。
俺は混乱しつつも、あいちゃんに「婚約者のふりをしてほしい」と言われた意味を、ようやく理解しかけていた。
あいちゃんは何かから逃げるように、俺を利用しようとしている——
そう考えると、怒りよりも先に、なぜか胸がざわついた。
「……あいちゃん、説明してくれ。俺を巻き込むなら、理由を教えろ。」
俺の問いに、あいちゃんは唇を噛みしめた。
「……家を出たいの。親が決めた結婚を押し付けてくるから。ケンさんしか、頼れる人がいなかったの。」
あこさんが、冷たい目であいちゃんを見下ろした。
「ふーん。じゃあ、私が見合い相手として連れてきたのは失敗だったみたいね。」
彼女は立ち上がり、会計を済ませてドアに向かった。
「二人で勝手にすればいいわ。」
残された俺とあいちゃん。
店内の照明が少し暗く感じられた。
「……で、俺に何をしてほしいんだ?本当に婚約者のふりをする気か?」
あいちゃんはうつむいたまま、小さく頷いた。
「三日だけでいいの。三日経ったら、すべて話すから。」
その目は、単なる頼みごととは違う、必死さに満ちていた。
俺は知らず知らずのうちに、「わかった」と口にしていた。
けれど、その三日が、俺の人生を大きく変えることになるとは——
まだ、この時は知る由もなかった。



