「あなた、このピアノの価値が分かる?引いたこともない人間には理解できないでしょうけど。最高級の一品なのよ」
奥様の八千代が、ピアノ調律師の前でニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。長年ピアノを習ってきた私には、演奏経験がないという認識が勘違いだと分かっていた。でも、家政婦の仕事にピアノの腕前は関係ない。指摘はやめておいた。
目黒家の家政婦として働き始めて三ヶ月。八千代の嫌がらせは続いていた。掃除のたびに「誇りが残っている」とやり直させ、作った料理を「庶民的すぎる」と流しに捨てる。紹介会社の面談で、同じ家で働いていた女性に言われた言葉が忘れられない。
「あそこは腕より我慢強さが試される家よ。あなたの前に入ってた人も、奥様の意地悪がきつくてやめたって聞いたわ」
それでも私は辞めなかった。気に入らないならいつでも交代してくれていいのに、そう思いながらも、仕事を続けた。
その日は、御剣夫妻の結婚記念日だった。調律師がピアノの調律に来て、私はその立ち会いを任された。夕方、出かける支度をした八千代と構造が家を出た後、私は家に一人残された。
気がつくと、ピアノの部屋の扉を押し開けていた。蓋を開け、鍵盤に指を置くと、豊かな低音が響いた。保育士時代に何千回も歌った曲。子供たちの歌声が記憶の中で重なり、自然と笑みがこぼれた。無意識に口ずさむと、まさかの反応があった。
「おお、これは驚いたな」
姿を現した構造が、小さな黒い手帳を開いて見せた。そこには、私が弾いていた子供向けの曲名が書かれていた。
「孫が大好きでよく歌っていた曲なんだ。君は以前、保育士か何かをしていたのかな?」
「はい。つい最近まで保育士をしておりました」
門の前には、車が待っていた。そして、そこにいたのは――。
「ゆき子先生!」
車から飛び出してきたのは、保育士時代の最後に気にかけたまま別れた、高坂かの子さんだった。彼女は私に抱きつき、声を震わせた。
「先生がおっしゃった通り、元也は耳が悪かったんです。気をつけたら普通に話せるようになりました。先生のおかげだわ」
「良かったですね。あなたの力ですよ」
車の中では、八千代が立ち尽くしていた。見下していた家政婦と自分の娘が親しげに抱き合う状況を、飲み込めない様子だった。
かの子が声を潜めて言った。
「母は補聴器にも大反対で、孫を障碍者扱いするなって怒られました。隙を見て補聴器を捨てようとするから、最近は元也にも合わせていません」
実の母親が、のぞみを苦しめている。その事実が、私の中で何かを燃え上がらせた。
八千代の意地悪な言葉に、私は確かな足取りで一歩前に出た。
「奥様、お孫さんのこと、ちゃんと小児科の先生に聞いてお勉強なさってください」
「はあ? 何を偉そうに!」
「聞こえは言語の発達と密接に関係してます。高齢者だって聞こえが悪くなると認知症のリスクが上がるんですよ」
「あなたに何が分かるのよ!」
意外なことに、構造が興味を示した。
「最近、呼んでも気づかないから気になっていたんだ。妻の耳も遠くなってきているんじゃないか?」
二人がかりで説得された八千代は、鼻息荒く黙り込んだ。その夜、私はかの子と連絡先を交換した。
数日後、電話が鳴った。かの子からだった。
「昨夜、急に母から電話があったんです。ゆき子先生のことを聞かれて。『ピアノが弾けない保育士っているの?』って」
「それは、何かの前触れかもしれないわね」
数日後、八千代が妙に機嫌よくお茶会を開くと言い出した。場所は、あのグランドピアノのある部屋。私は察した。きっと、私のピアノの腕前を貶めるつもりなのだろう。
お茶会当日。私は、実家で毎晩練習してきた。お茶や食べ物を運び終えたところで、八千代が声を上げた。
「小方さん、せっかくだから1曲弾いていってちょうだい。元保育士なんだから、簡単なものなら弾けるんでしょ」
私はためらいがちにピアノの前へ進み、素朴な童謡を弾いた。すると、八千代が意地悪く笑った。
「子供用の歌だもの。誰でも弾けるわよ。しかもアレンジが子供っぽいわね。ちょっと小方さん、他には弾けないの? クラシックの曲をやってちょうだい」
私は静かに息を整え、胸を張った。
「では、大人向けの楽曲を」
鍵盤に指を落とすと、鋭く、流れるような旋律が一気に駆け抜けた。超絶技巧の名曲。誰も言葉を発しない。演奏が終わると、拍手が広がった。
「素晴らしいわ。まるで演奏会みたい」
「この方がいらしたなんて驚きね」
ピアノ講師だという女性が立ち上がった。
「音の粒が揃っていて美しかったわ。長年しっかり鍛えられた方の音ですね」
「子供の頃から習っておりました。学生時代はコンクールにも出ておりました」
八千代の顔色は、見る見る変わり果てた。お茶会が終わると、八千代が私の腕を掴んだ。
「家政婦が失態をしたせいで恥をかいたわ! この女を首にしてちょうだい!」
私は、懐からペン型のボイスレコーダーを取り出した。かの子から贈られたものだ。部屋に入った瞬間から録音していた。
「ピアノの演奏と、その前後に交わされた会話は全て入っております」
録音を聞いた構造の眉間に、しわが刻まれた。
「お前は、またこれ以上私に恥をかかせるのか!」
「あなた、どっちの味方? こんな貧乏人なんかに!」
八千代は錯乱した。結局、私の解雇は免れた。
それから五日後。構造が不在の日、八千代が言い放った。
「あなた、今日限りで来なくて結構よ。生意気で私に従わないし、勝手に録音なんてプライバシーの侵害もいいところだわ。そもそも私は、家柄のない人間を家に入れたくないの。同じ空気を吸うのも嫌!」
「私はね、この家の奥様になるために本当に努力したのよ。庶民のまま地べたを這いずる人間が、のうのうと同じ家の中にいるのが大嫌い!」
私は、穏やかな声で返した。
「申し訳ございませんが、そのようなご心配は無用でございます。私が働いておりますのは、生活のためではございませんの。時間を持て余してしまいますし、何か社会に関わっていたいと思いまして」
「あなた、何をそんなに余裕ぶっているの? 明日から無一文になるのよ!」
「実家については、兄が長男として家業を継いでおりますので、私はただ親の世話をする。それこそ家政婦のような役割さえできればいいんです」
何気なく実家の話を口にした瞬間、八千代の表情が変わった。
「神坂家。ご存知でしたか? 私の実家は、祖先がそこそこの地位にあった武士でして。今なお地元の名士として知られております」
八千代の顔色が、白を通り越して青ざめていく。
「私、末っ子長女だから甘やかされて育ちまして。家柄の話は面倒ですわ」
「お嬢様扱いされない暮らしの自由さを一度味わった私にとって、働くことは大きな喜びなんです。私、自立した女性であることが何よりの誇りですもの」
八千代の喉が、かくかくと動いた。何かを言おうとして、飲み込んでしまった。妙な汗をかき、壁に手をついてようやく立っている状態だった。
私は静かに距離を詰め、揺らぐ体を支えた。
「奥様、この辺りはお掃除の途中でございますから。大変失礼ですが、ここは引いていただけませんか?」
八千代は、無言でこくりと頷いた。なんだか一気に五歳は老けたように見えた。
見下していた家政婦の正体を知った後、八千代は完全に意気消沈した。娘ののぞみは「ゆき子先生」と呼び、私を慕い続けた。元也も、私を見るたび「ゆき子先生だ!」と飛び上がって喜んで抱きつく。自分との扱いの差を目の当たりにした八千代は、またヒステリーを起こした。
「揃って私をないがしろにして、私だけ見捨てる気ね! うるさいばあさんは、いなくなればいいと思っているんでしょう!」
「いい加減にしなさい!」
今回のトラブルを受けて、構造は実態に呆れ返った。激しい癇癪の末、カーテンを引きちぎるほど大暴れした八千代は、さすがに様子がおかしいと病院に連れて行かれた。軽度の認知症を疑われても、八千代は認めたがらなかった。ドクターショッピングを繰り返した挙げ句、怪しげな易者に騙されて数百万円をつぎ込んだ。
「もういい。静かなところで養生してこい」
人口の少ない島に別荘があるとかで、八千代はそこへ送られた。都会に帰れることもなく、半分幽閉されているかのような暮らし。島の住民を田舎者と馬鹿にする八千代には、交流相手もできなかった。
一方の私は、幸せそのものだ。八千代の友人の一人が主婦サロンを主催する文化人で、そのご縁で子育て・家事アドバイザーとして起業した。多くの若い母親の悩みに寄り添い、手助けする毎日だ。構造やのぞみとは今も親しく、成長する元也の話もよく聞く。
「お姉さんとお母さんの間くらいの感じ。ゆき子先生は世界一」
多くの若い母親から「第二の母」と慕われる。私は大きな喜びを得て、新たな人生を手に入れた。窓の外に目をやると、柔らかな日差しが町を包んでいた。遠くから子供たちの笑い声が風と共に届く。耳を済まして微笑む私の傍らには、調律と修理を済ませた古いピアノが輝いていた。



