「お館様の薬に、この粉を私が混ぜておりました」——老女中の告白で、平穏だった屋敷の空気が一瞬で凍りついた。三年前に夫を亡くし、米倉の管理を任されるようになった千代。しかし、ある日、積まれた俵の底が半分しかないことに気づく。表面に出された「百俵」の表示。抜かれた米の行方。疑いは静かに千代へと向けられ、やがて、死んだはずの夫が目の前に現れる。彼は言った。「千代、お前がやったのだろう?」——私はた…

「お館様の薬に、この粉を私が混ぜておりました」——老女中の告白で、平穏だった屋敷の空気が一瞬で凍りついた。三年前に夫を亡くし、米倉の管理を任されるようになった千代。しかし、ある日、積まれた俵の底が半分しかないことに気づく。表面に出された「百俵」の表示。抜かれた米の行方。疑いは静かに千代へと向けられ、やがて、死んだはずの夫が目の前に現れる。彼は言った。「千代、お前がやったのだろう?」——私はた...

「お館様の薬に、この粉を私が混ぜておりました」

震える声でそう告白したのは、長年この家に仕えてきた老女中だった。おじの声は静かだが鋭かった。
「誰に命じられたのだ」

おじの唇が震えた。その答えを聞くより先に、千代の脳裏には三年前に市場で命を落とした夫の姿が浮かんだ。
あの日も、こんな風に風が吹いていた。

夫の死。そして、殿の病。
二つの出来事を結ぶ糸は、数日前の米倉にあった。

米倉の前には、田原が几帳面に積み上げられていた。収穫の季節が終わったばかりで、わらの匂いがまだ辺りに漂っていた。
「お館様、今年の米俵は去年よりいくらか少うございますが」

千代は米俵の一つを指先で押してみた。それから積まれた田原の列を目で数えた。
「十二列に八段、押せば九十六俵にございます」

正面には「百俵」と記されてあった。
おじの顔がにわかに曇った。千代は田原の底をもう一度確かめ、うなずいた。
「下に敷かれた俵の四つは、半分ほどしか入っておりませぬ」

「作り直しなさい」

遠くからこの様子を見ていた沖は、奥義の影で静かに笑みを浮かべた。

川千は、松え一体で最も名の知れた家だった。米倉と広い旗を持ち、沖は長く内を取り仕切ってきた。
千代は三年前に夫を失っていた。ある嵐の晩、市場で船が転覆したという知らせが届いただけだった。
遺体すら満足に見つからなかった。その日を千代は今も折に触れ思い出しては、胸の奥が締めつけられる思いがした。

川千の家は、二代前の当主が荒地を切り開き田を広げたことから始まると聞き伝えられていた。
以来、この家は豊作の年も不作の年も、明け隔てなく米を蓄え、いざという時には惜しみなく村へ放つことで、松ヶの里の暮らしを長らく支えてきたのである。
おじはその家風を誰よりも重んじる女であった。

夫を早くに失ってからは、女ながらに正面を握り、倉の鍵を腰に下げ、雇い人の一人一人の顔まで覚えていた。
そのおじの目にとまったのが、三年前に嫁いできたばかりで、まもなく夫を失った千代であった。
千代は生まれたばかりの太郎を一人で育てながら、屋敷の片隅にとまって暮らしていた。
初めのうちは離れでひっそりと過ごすつもりでいた。嫁いで日の浅い身の置き所もないだろうと、自らに言い聞かせていたのである。

だがおじは千代をただの居候にはしておかなかった。
「しよ、こちらへ来てご覧なさい」

沖は升を差し出しながら言った。
「これが升というものです。溢れさせず、足らせもせず測る術を覚えなさい」

千代は升に米を盛り、手のひらの橋で上を平らにならした。
おじはそれを測りにかけ、うなずいた。
「よろしい。これからは俵の積まれた高さを見ただけで、中の量が読める者になりなさい」

「目に欺かれぬようになさい」

千代は昼には米倉を見て回り、夜には帳面をめくった。
初めのうちは文字がなかなか頭に入らなかったが、数だけは不思議なほど鮮やかに残った。
どんどん倉の下で働く番も、夜番を引き、指先が隅で黒く汚れることも珍しくなかった。
夜が更けて肩が凝り固まっても、沖の座った長尻りの合わせ方を一つ一つ確かめずには眠れなかった。
時には夜明けまで帳面と向き合い、朝の支度に立つ女中に驚かれることもあった。
おじはそんな千代を見るたびに、満ち足りた顔を隠せずにいた。

そして今、その千代の指先が、米俵の底を確かめたのだ。
確かに、下の俵は半分ほどしか入っていない。
だが、俵の数は「百俵」と記されている。
誰が、何の目的で、米を抜いたのか。

千代はおじの顔を見た。おじも千代を見ていた。
二人の間に、言葉にならない疑念が流れた。

その夜、千代は太郎の手を引いて座敷を出た。
着替えの包み一つが、持てるものの全てであった。
「母上、私たちはどこへ参るのですか?」
太郎の小さな手が、千代の指をぎゅっと握った。
千代は答えず、ただ暗い廊下を歩き続けた。

翌朝、倉の前で、沖が待っていた。
「昨日の俵の件、調べがつきました」

沖の声は静かだったが、その目は鋭く光っていた。
「あの俵の中身を抜いたのは、他でもない、」

沖が口を開きかけた時、背後から足音がした。
振り返ると、そこには、三年前に死んだはずの夫の姿があった。

千代の手から、荷が落ちた。

「あなた、なぜ……」

夫は何も言わず、ただ千代を見つめていた。
その顔には、あの日の優しい笑みはなかった。

「千代、お前がやったのだろう?」

夫の声は低く、冷たかった。
「米を抜いて、村に流したのは、お前ではないのか?」

千代は言葉を失った。
震える指が、誰かに握られているのを感じた。
太郎だった。

「母上、何を言っているのですか?」

千代は太郎を抱き寄せた。
そして、ゆっくりと夫を見上げた。
「あなたは、なぜ生きているのですか?」

夫は答えなかった。
ただ、倉の影から、もう一人の男が現れた。
その男は、千代に向かって、静かに言った。

「お館様の病と、あなたの夫の死。その両方の鍵を握っているのは、あなたです」

千代は、初めて、自分が罠の中にいることに気づいた。

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