取引先の会社に着いたのは夕方だった。作業を終えたばかりの俺、三浦は、そのまま作業服姿で応接室に通された。時間がなかったとはいえ、少し間違いだったかもしれない。しばらくして現れたのは、見るからに偉そうな男だった。手にしたコーヒーを一口すすると、顔をしかめる。
「はあ。何してんの、あんた? 作業服のやつが応接室に座ってんじゃねえよ。下請けか? 帰れよ。」
名刺を出す間も与えられず、頭からコーヒーをぶっかけられた。タオルで顔を拭きながら、俺はただ一言だけ伝えた。
「覚えておいてください。」
その言葉を残し、静かに応接室を後にした。
俺の名前は三浦。国内でも名の知れた製造会社で、今は社長を務めている。だが、元々はただの現場作業員だった。大学を出たわけでもなければ、大した学歴もない。ただ手を動かすのが好きで、現場の空気が肌に合っていた。入社から二十数年、地道に実績を積み上げ、ついには仙台社長の座に抜擢された。肩書きは変わっても、俺の働き方は変わっていない。今でも工場に顔を出し、他の社員と同じように汗を流している。スーツを着て社長室にこもるよりも、鉄と油の匂いに囲まれていた方が性に合っているんだ。
うちの会社が誇るのは、独自の特許技術を活かした製品群。国内はもちろん、海外からも引き合いがある。そのおかげで取引先は広がり、会社の規模も年々拡大している。最近では専門誌に取り上げられることも増えてきた。実績を積んだ社員が報われる現場を作る。それが俺の信念だ。
そんな中、ある企業との取引には少し頭を悩ませていた。長年付き合いのある、そこそこ大きな会社。以前は誠実な担当者がいて、交渉もスムーズだった。しかし数年前に担当が変わった。名前は滝川。営業と製品調達の責任者を兼ねているらしい。だがこいつが曲者だった。納期の確認は遅れるし、価格交渉も一方的。しかもその態度が実に横柄で、人を見下したような口ぶりばかりが目立つ。最初はこちらの認識不足かと思ったが、部下たちからも不満の声が上がり始めた。本来なら担当交代の際には何らかの挨拶があって然るべきだ。メール一本でもいい。それすらなかったことで、俺の中には少しずつ不審感が募っていった。小さな違和感の積み重ねは、やがて確かな疑念へと変わる。だが取引そのものは大きすぎて、すぐに関係を断つわけにもいかなかった。
そんなある日、旧知の企業から新商品の共同開発の相談が舞い込んできた。詳細な条件提示はなく、とりあえず打ち合わせをしたいとのこと。いつもなら営業部の担当に任せるところだが、今回は俺自身が出向くことにした。相手の担当者がどんな人物なのか、実際にこの目で確かめてみようと思ったんだ。現場仕事が押していたこともあって、その日はスーツに着替える余裕がなかった。作業服のまま車を走らせて、相手企業の本社へと向かった。もちろん失礼がないように気を使うつもりではいたが、まさかあんな形で迎えられるとは、この時は思ってもいなかった。
到着したのは予定より四十五分ほど早い時間だった。道が空いていたのは幸運だったが、受付で名乗った際も、服装について特に軽蔑的な反応はされなかった。「担当者におつなぎしますので、こちらへどうぞ」と、案内されるまま応接室へ通された。コーヒーを出され、しばらく待つ。やがてドアが開き、スーツ姿の男が入ってきた。コーヒーを持った男が、俺を見るなり顔をしかめる。
「はあ。お前、何してんの?」
ドキッとした。いや、怒気を含んだ滝側の声がフロアを振るわせた。俺が立ち上がるよりも早く、男の顔が歪む。
「作業服のまま応接室に座ってんじゃねえよ。下請けか? 帰れよ。」
そう言って、手に持っていたコーヒーを俺の頭からかけたのだ。熱い液体が顔や首を伝う。一瞬、何が起きたのか分からなかった。だが次の瞬間、カッと頭に血が上った。しかし、ぐっと堪えた。ここで騒いでも何も解決しない。タオルで顔を拭きながら、俺は静かに立ち上がった。
「覚えておいてください。」
その言葉だけを残し、応接室を後にした。廊下を歩きながら、ポケットのスマートフォンを取り出す。俺はすぐに秘書へ電話をかけ、短く指示を出した。
「例の会社、全取引を停止しろ。至急、書面で通知を送れ。」
秘書は驚いた様子だったが、俺の声に有無を言わせぬものを感じ取ったのか、何も尋ねずに「承知しました」とだけ答えた。
数日後、俺の元に一本の電話が入った。相手は滝川だった。電話越しでも、焦りと怒りが伝わってくる。
「三浦社長、どういうことですか! 一方的に取引を停止するなんて、納得できません! 説明してください!」
「説明? あんたが応接室でやったこと、忘れたのか? 作業服だと思って、下請けだと決めつけてコーヒーをかけた。それが理由だ。俺は三浦だ。お前がバカにしたのは、取引先の社長だ。」
「そ、それは…! あの場に三浦社長がいると知らなかったんです! 向こうも悪いでしょうが、作業着で来るなんて非常識です!」
「非常識? 俺はその日、現場で仕事をしていたんだ。時間がなくて、着替える余裕がなかった。あんたの会社に失礼がないように、受付で名乗って、案内された。それなのに、あんたは一方的に侮辱した。それはビジネスとして許されることじゃない。」
「しかし…! あんなことで取引停止はあまりにも過剰です! 常識的に考えてください!」
「常識? あんたがコーヒーをかけたのが非常識だと言っているんだ。俺の会社は、この一件でどれだけの信用を失ったか分かるか? 取引先の社長が、自社の応接室で侮辱されたんだぞ。黙って済ませられる問題じゃない。」
「じゃあ、どうすれば…! 詫びを入れれば済む話でしょうか? そう言えばいいんですね? すみませんでした、それで…」
「遅い。もう手遅れだ。取引停止は決定事項だ。今後、うちの会社との取引は一切ないと思え。もし何か文句があるなら、弁護士を通してこい。」
そう言って、俺は電話を切った。
それから数週間後、俺のオフィスに一人の男が訪ねてきた。見覚えのある顔だった。先日、取引停止を通達した会社の社長、藤原だった。藤原は深々と頭を下げた。
「三浦社長、この度は申し訳ございませんでした。うちの担当者の不手際で、ご迷惑をおかけしました。何卒、取引再開をご検討いただけないでしょうか。」
「藤原社長、あんたの会社の問題は、担当者の不手際だけじゃない。ああいう態度が組織全体に蔓延していることが問題なんだ。一人の担当者が横柄になるということは、周りがそれを許しているからだ。うちの会社は、そういう会社とは付き合えない。」
「おっしゃる通りです…。ですが、うちとしても、三浦社長の会社の技術は必要なんです。何とか…」
「必要? あんたの会社が、うちの技術を必要としているのは分かった。だが、うちの会社はあんたの会社の人間がいなくても困らない。今の俺の答えはノーだ。」
藤原は何度も頭を下げたが、俺の意志は変わらなかった。やがて彼は諦めて、オフィスを去っていった。
その日の夕方、俺は工場に足を運んだ。いつものように機械の点検をしていると、若い社員が声をかけてきた。
「社長、あの…さっきの話、聞きました。取引停止の件、本当に大丈夫なんですか? 向こうの会社、けっこう大きいですし…」
「ああ、大丈夫だ。俺の判断に間違いはない。ああいう相手に屈していては、うちの社員が報われないからな。」
「でも…」
「安心しろ。うちには技術がある。あの程度の相手に頼っていては、いつか足をすくわれる。今のうちに切って正解だ。」
俺はそう言って、彼の肩を叩いた。若い社員は、まだ何か言いたげだったが、やがて「はい」と小さく頷いた。
それから数ヶ月が経ったある日、秘書が慌てた様子でオフィスに飛び込んできた。
「社長! ちょっと大変です!」
「どうした?」
「さっき、取引停止した会社の社長、藤原さんから電話があったんですが…」
「ああ、まだ何か言ってきたのか?」
「いいえ…そうじゃなくて。藤原さん、あの後、会社を辞めたらしいんです。そして、今度はうちの会社に就職したいって言ってきてるんです!」
俺は思わず、手に持っていたコーヒーをこぼしそうになった。
「何だって? 藤原が? うちの会社に?」
「はい。『技術力を評価している。何とか雇っていただけないか』って。それで、面談を設定したいと言ってきているんです。」
俺はしばらく沈黙した。まさか、あの藤原がここまでしてくるとは思わなかった。あの態度が招いた結果を、彼なりに理解したのだろう。だが、俺の返答は決まっていた。
「断れ。」
「え? ですが、向こうは元社長ですよ? 何かしら役に立てるかもしれません。それに、取引再開の可能性も…」
「そんなことは関係ない。うちの会社は、人を侮辱する会社の元社長を雇う必要はない。それにあいつは、自分の会社を見捨てたんだ。そんな人間に、うちの社員を任せるわけにはいかないだろう。」
秘書は何か言いかけたが、俺の目を見て、口を閉じた。「分かりました。その旨、伝えておきます。」
俺は深く息を吐いた。コーヒーを一口すすると、少しだけ苦味が強く感じられた。



