失明した夫の世話に365日、休む間もなく捧げてきた68歳の私。睡眠3時間、パート3つ掛け持ちの生活。そんなある日、キッチンの水タンクが空っぽなのに、夫が「水を取り替えろ」と言った。見えないはずの彼に、なぜ分かったのか。震える手で水を入れ直した後、私は彼の後をつけた。そして、信じられない真実を目の当たりにする。あの瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。私はもう、ここにはいられない。…

失明した夫の世話に365日、休む間もなく捧げてきた68歳の私。睡眠3時間、パート3つ掛け持ちの生活。そんなある日、キッチンの水タンクが空っぽなのに、夫が「水を取り替えろ」と言った。見えないはずの彼に、なぜ分かったのか。震える手で水を入れ直した後、私は彼の後をつけた。そして、信じられない真実を目の当たりにする。あの瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。私はもう、ここにはいられない。...

「水を取り替えておけよ」

夫の声が、いつものように居間から聞こえてきた。玄関で靴を脱ぎながら、私は心の中で「はいはい、今やりますよ」と呟いた。

でも、次の瞬間、キッチンに入った私の目に飛び込んできたのは、空っぽの水タンクだった。一滴も水が入っていない。心臓がドクンと大きく跳ねた。失明しているはずの夫が、水が入っていないことを把握したのだ。

私の手が小刻みに震え始めた。もしかして、まさか。頭の中で恐ろしい考えが渦を巻く。この1年間、私が信じてきたもの。夫のために捧げてきた全ての日々。それが、もしも偽りだったとしたら。息がうまく吸えなくなっていく。

「ねえ、あな…」

振り絞るように声を出そうとした時、私の中で何かが音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。

私は68歳。夫の秀とは42年前に結婚した。平凡ではあったけれど、二人で築いてきた日々は確かに幸せなものだと信じていた。あの日までは。

1年前のことだった。夫が帰宅したのは、いつもより遅い夜のこと。玄関で顔を合わせた瞬間、夫は震える声で告げた。

「目が、何も見えないんだ」

慌てて病院に駆け込むと、医師は深刻な表情で診断結果を伝えた。「外傷性の視神経損傷の可能性があります。回復は難しいかもしれません」

その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが決まった。「大丈夫よ。私があなたを支えるから」夫の手を握りしめながら、心からそう誓った。

それから365日。私の人生はまるで別のものに変わっていった。朝4時に起き、深夜1時に眠る。睡眠時間はわずか3時間。パートを3つ掛け持ちし、休みは1日もない。

コンビニの早朝勤務。介護施設での仕事。スーパーのレジ。働いて、働いて、働き続ける日々。家に帰れば、待っているのは終わりのない家事だった。私は38年間、教師として働いてきた。それなりの蓄えもある。でも夫のためなら、そう思って全てを捧げてきたのだ。

朝4時、まだ暗い空の下、私は家を出る。最初のパート先は駅前のコンビニ。早朝勤務は4時半から8時まで。品出しとレジ打ちを黙々とこなしながら、私はいつも思うのだ。「あと少し、あと少し頑張れば」と。

8時に終わると、急いで次の職場へ向かう。9時から15時までは介護施設での仕事。利用者の方々の食事介助や入浴介助。体力的にはきつい仕事だが、誰かの役に立てることがせめてもの救いだった。

そして夕方17時からはスーパーのレジに立つ。終業は22時。そこから帰宅すると、時計の針は22時半を回っている。でも私の1日はまだ終わらない。

「けこまだ飯か。腹が減ったぞ」

玄関を開けた途端、夫の声が飛んでくる。疲れ切った体に、さらに重い荷物を乗せられていくような感覚だった。

「ごめんなさい。今すぐ作りますね」

急いでキッチンに立ち、夕食の準備を始める。夫の好きな料理を手早く作っていく。自分の昼食が100円のパン1個だけだったのに。

「風呂の温度、ぬるいぞ。もっと熱くしろ」

「洗濯物の畳み方が雑だ。やり直せ」

次々と飛んでくる要求に、私は「はい」としか答えられない。時計が深夜1時を指す頃、やっと布団に入ることができる。でも3時間後には、また起きなければならない。

3つのパート先から得られる収入は、月に18万円ほどだった。それでも何とかやりくりして、夫の好きな食べ物を買い、必要なものを揃えた。自分の服は3年前のまま。髪を切るのも、美容院ではなく自宅で。

ある日、夫が言った。「目が不自由だから、水を飲むときにタンクの位置が分からないんだ。いつも同じ場所に置いておいてくれ」

私は言われた通りにした。キッチンの決まった場所に、水タンクを置く。でも、その日は違った。私はタンクをシンクに置いたまま、買い物に出かけてしまったのだ。戻ってきたのは、あの瞬間。夫は水が入っていないことを見抜いた。失明しているはずなのに。

混乱する私をよそに、夫は居間でテレビの音を流している。何食わぬ顔で。私は震える手でタンクを洗い、水を入れ直した。そして、それから冷静になったふりをして、夕食の準備を始めた。でも頭の中は、あの疑問でいっぱいだった。

「本当に見えていないの?」

翌日、私は夫に「散歩に行ってくる」と言って、家を出た。でも、すぐには遠くへ行かなかった。物陰に隠れて、自宅の様子を窺った。夫は出かける気配がない。何時間も待った。その日は何も起こらなかった。

次の日も、その次の日も。私は用事を作っては、家の周りを監視した。そして、1週間が過ぎたある日の午後。買い物に行くふりをして、家を出た。道の角まで来たところで、引き返した。窓から、夫の姿が見えた。

テレビを見ている。そして、突然立ち上がった。迷いなく、まっすぐにキッチンへ歩いていく。冷蔵庫から飲み物を取り出した。コップに注ぐ。何もかも、晴眼者の動きだった。

私はその場で固まってしまった。体が震えた。涙が止まらなかった。悲しみよりも、怒りよりも、まず真っ先に襲ってきたのは、虚しさだった。この1年間、私が費やしてきた全ての時間と労力。寝る間も惜しんで働いた日々。それらが、全て、無駄だった。

家に戻り、私は平静を装った。そして、夜。夫が寝たのを確認して、私はノートパソコンを開いた。賃貸物件を検索した。ここにはもう、いられない。私はこの家を出ていく。そう決めた。

引っ越しの準備を始めた。休みの日は何もない。パートの合間を縫って、少しずつ。段ボールに荷物を詰めていった。写真、着替え、貯金通帳。新しく借りたマンションは、この家から電車で40分。駅から歩いて5分の、ワンルームだった。

そして、運命の日。私は夫に言った。

「今日は遅くなるから、夕飯は作っておくわ」

夫は何の疑いもなく、「ああ、分かった」と答えた。私は指定された場所に水タンクを置いた。水は満タンに入れて。そして、そう、あの日。私はこの家を出た。

「水を取り替えといたから」

そう言って、玄関のドアを閉めた。鍵をかけた。二度と戻らないために。もう何の未練もない。新しいマンションの鍵を握りしめながら、私は深く息を吸い込んだ。自由の空気が肺いっぱいに広がっていくようだった。

あの日から住み始めた小さな部屋には、勿論水タンクなんてものはない。必要なものだけを揃えた、簡素な部屋。それが、今の私の全てだった。

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